ハコヤの木でモチを搗いていた桜井市の竜谷(りゅうたに)。
いわゆる千本杵のモチ搗きである。
「エイトッ エイトッ エイトッ エイトッ・・」の掛け声に合わせて杵で搗く。
ハコヤと呼ぶ木はどこかで聞いたことがあるが・・何の木だろうか。
思い出した。
天理市長滝住民によればハコヤは樫の木やと云っていた。
俗名はなかなか思い出せなかったが竜谷でも「樫」の木を「ハコヤ」と呼んでいた。
「ハコヤ」の木は少なくなった。
そのようなことから千本杵は捨てずに、マツリが終わっても大切にしているらしい。
三臼搗くマツリのモチの途中で「サンブツキ」もする。
一臼搗いた直後に搗く「サンブツキ」は「テイワイモチ」の在り方であろう。
「手祝餅」は宮座頭屋のふるまいだ。
「サンブツキ」は「ハンモチ」とも呼ぶもので、見ての通りご飯粒が残っている。
「サンブツキ」は三分ぐらいの搗きで終えるからモチゴメが残っている状態である。
半分がモチ状態であるから「ハンモチ」の名もある。
「どちらでもえーねん」と云う「サンブツキ」のモチは砂糖・醤油に生姜を混ぜてモチにつける。
一般的な食べ方は砂糖醤油味だが、生姜を混ぜた砂糖醤油は私の舌が味わう初めての食感だ。
今まで食べたモチのなかで最も美味いと感じた。
ハッピーマンデーの制度化に伴って11月3日に移したが、かつての竜谷のマツリは10月28日だった。
前日のヨミヤにはトウヤ(頭屋)が作る三角錐型のメシを供えると下見の際に聞いていた。
そのメシの名は「オニギリ」と呼ぶ。
形状から推測するに、県内各地で見られる「キョウノメシ」と同じような形である。
3個の「オニギリ」は四合のご飯を分配して作る。
かつては1個について一升米のご飯で作っていた。
マツリを終えたら頭屋はたばって持ち帰る。
家で食べる量としては余りにも多く食べきれないという意見が出て四合に縮小された。
「オニギリ」は3個。
炊いたご飯(かつては蒸しご飯)をさらし布に入れて「オニギリ」の型を作る。
例年、上手に作られるおじさんがおられるのでいつも頼んでいると話していた。
そのオニギリ作りは千本杵のモチ搗きをしている最中に同時並行で作られる。
この年はさらし布でなく、包んでいたのはラップだった。
円錐形のオニギリは固めの半紙に包まれて水引で括る。
半紙で包めばオニギリは見えなくなる。
そう思って二つは形が判るように撮っておいた。
かつては頭屋の座敷がマツリの場であったが今では公民館。
紅白の幣を垂らした鶴文様の日の丸御幣もある場は祭壇だ。
オニギリはネムノキのまな板に乗せて供える。
プラスチック製のコジュウタに詰めたモチは千本杵で搗いたゴクモチ。
これを「オゴク」と呼ぶ。
充てる漢字は「お御供」であろうか。
神饌御供を並べた奥に古い樽桶が判るだろうか。
日の丸御幣の左横に立てられている。
これは崇めている御分霊とされる祝い樽だ。
紅白の幣には言い伝えがある。
マツリを終えたら村人は幣を授かる。
白色であれば男の子が生まれる。
赤色であれば女の子だ。
孫に男の子が欲しいと願う親は白色を選んだというありがたい幣であると話していた。
竜谷集落の戸数は20戸あまり。
少子化の波は竜谷にもあるが、マツリのときには外孫もやってきて賑やかだ。
おじいさんとともに杵で餅搗きをする子供たち。
それをとらえる両親。
この日の村は笑顔が絶えない。
竜谷のマツリは始めに頭屋祭が行われる。
御幣を立てて「オニギリ」、「オゴク」などを並べる。
神饌はタイにスルメ、ゴボウやハクサイ、ダイコン、カブラ、サトイモ、エビイモなどの野菜に果物のリンゴもある。
10年ほど前までのマツリの場は頭屋の家だった。
今では公民館に移った。
かつての頭屋家を現す「頭屋座中」と書かれた提灯を吊るす。
公民館が建つ場には子安地蔵堂がある。
昔は子供が生まれた祝いに腹帯を奉納していたらしい。
そのお堂に掲げていた二枚の絵馬。
右が閻魔さんの地獄絵で左は地蔵来迎絵を描いていた。
明治37年、明治32年に奉納されたようである。
神職は三輪神社から出仕される二人の神官だ。
幣で祓って祝詞奏上、玉串奉奠をする。
神事を終えた一行は龍谷三輪神社へ向かってお渡りをする。
道中に「ホォーイ ・・ ホォーイ ・・」の詞を発しながらお渡りするがと云っていたが真っ暗な闇の中。
真っ暗の中ではピント合せができなかった。
実際は低く唸り声のような「オォォォーイ・・ オォォォーイ ・・」。
神官が「オォォォーイ・・ オォォォーイ ・・」を発声されたら後方から「オォォォーイ・・ オォォォーイ ・・」と唱和する。
警蹕のように感じた暗闇道中のお渡りである。
かつては座中の若衆が神饌を収めた飯桶を頭の上にあげてお渡りをしていたそうだ。
昭和32年発刊に発刊された『桜井町史民俗編』によれば明治25年までのお渡りでは座中の女性が担っていたのであった。
後に若衆に移ったとある。
龍谷三輪神社に到着した一行は直ちに幣や神饌を供える。
本殿は見られない龍谷三輪神社。
ご神体は背後の神体山である。
神事が始まるころには村の人たちが神社に集まってきた。
かつてはローソクを灯した提灯の明かりだけだったマツリの夜。
ここでは最近流行りのLEDを使用することもない。
階段を踏み外さないように、足元を照らす白熱灯の投光照明によって村人の安全を配慮した。
拝殿に登るのは頭屋や氏子男性。
婦人たちは上がることもできずに外で見守る。
祝詞奏上、玉串奉奠の次に行われたのは「フリアゲ」神事だ。
これまで頭屋を勤めたことがない人の名を書いたクジを丸めて三方に載せる。
神さんが見下ろす場で神官は幣を付けた真榊を静かに下ろす。
麻苧の先に引っかかったアタリクジを引き上げる。
クジを広げて記入された名前を現認する。
大幣のフリアゲ神事は「トーヤ決め」の儀式である。
これを竜谷では「頭人定め」を神占の正式名称としている。
かつては3月27日の祈年祭のときにしていたようだ。
「フリアゲ」神事を終えた竜谷のマツリは子供の相撲で締められる。
対象者は幼児から中学生までだ。
かつては村氏子の男の子だけだった。
少子化によって男の子は少なくなった。
相撲ができなくなった時代に女の子も加えるようにした。
それも少なくなったから外氏子(外孫)も入れて存続している。
最初にご祝儀を賜った人たちの名を披露する。
それから子供たちが拝殿に登る。
狭い拝殿にどっと登った子供たち。
まずは神官によってお祓いを受ける。
そして始まった幼児の団体戦。
氏子・父親が子供を抱えておしくらまんじゅう(押し競饅頭)のように囲んでよっせよっせ。
周りからは「おー、おー」と掛け声がはいる。
泣きだす幼児もいる。
勝負を求めない相撲を終えた子供たちは神官から手渡される祝儀を受け取って降りる。
次の対象年齢は小学生。
次は中学生へと続く相撲は神前相撲であるが、後から考えてみれば女の子の相撲はなかったように思った。
竜谷の子供相撲を拝見して思い出した天理市の仁興町。
上仁興、下仁興のそれぞれで行われていた相撲の在り方とほとんど同じような作法だと思えた。
神前相撲を終えたら直会に移る。
酒杯をいただく氏子はカワラケを手にする。
酒桶から注ぐカワラケ。
酒を一献する際には、田楽味噌をつけたダイコンとショウガスライス切りを手で受けて口にする。
田楽味噌は自家製。
ミリンに酒、砂糖を加えて作ったそうだ。
(H26.11. 3 EOS40D撮影)
いわゆる千本杵のモチ搗きである。
「エイトッ エイトッ エイトッ エイトッ・・」の掛け声に合わせて杵で搗く。
ハコヤと呼ぶ木はどこかで聞いたことがあるが・・何の木だろうか。
思い出した。
天理市長滝住民によればハコヤは樫の木やと云っていた。
俗名はなかなか思い出せなかったが竜谷でも「樫」の木を「ハコヤ」と呼んでいた。
「ハコヤ」の木は少なくなった。
そのようなことから千本杵は捨てずに、マツリが終わっても大切にしているらしい。
三臼搗くマツリのモチの途中で「サンブツキ」もする。
一臼搗いた直後に搗く「サンブツキ」は「テイワイモチ」の在り方であろう。
「手祝餅」は宮座頭屋のふるまいだ。
「サンブツキ」は「ハンモチ」とも呼ぶもので、見ての通りご飯粒が残っている。
「サンブツキ」は三分ぐらいの搗きで終えるからモチゴメが残っている状態である。
半分がモチ状態であるから「ハンモチ」の名もある。
「どちらでもえーねん」と云う「サンブツキ」のモチは砂糖・醤油に生姜を混ぜてモチにつける。
一般的な食べ方は砂糖醤油味だが、生姜を混ぜた砂糖醤油は私の舌が味わう初めての食感だ。
今まで食べたモチのなかで最も美味いと感じた。
ハッピーマンデーの制度化に伴って11月3日に移したが、かつての竜谷のマツリは10月28日だった。
前日のヨミヤにはトウヤ(頭屋)が作る三角錐型のメシを供えると下見の際に聞いていた。
そのメシの名は「オニギリ」と呼ぶ。
形状から推測するに、県内各地で見られる「キョウノメシ」と同じような形である。
3個の「オニギリ」は四合のご飯を分配して作る。
かつては1個について一升米のご飯で作っていた。
マツリを終えたら頭屋はたばって持ち帰る。
家で食べる量としては余りにも多く食べきれないという意見が出て四合に縮小された。
「オニギリ」は3個。
炊いたご飯(かつては蒸しご飯)をさらし布に入れて「オニギリ」の型を作る。
例年、上手に作られるおじさんがおられるのでいつも頼んでいると話していた。
そのオニギリ作りは千本杵のモチ搗きをしている最中に同時並行で作られる。
この年はさらし布でなく、包んでいたのはラップだった。
円錐形のオニギリは固めの半紙に包まれて水引で括る。
半紙で包めばオニギリは見えなくなる。
そう思って二つは形が判るように撮っておいた。
かつては頭屋の座敷がマツリの場であったが今では公民館。
紅白の幣を垂らした鶴文様の日の丸御幣もある場は祭壇だ。
オニギリはネムノキのまな板に乗せて供える。
プラスチック製のコジュウタに詰めたモチは千本杵で搗いたゴクモチ。
これを「オゴク」と呼ぶ。
充てる漢字は「お御供」であろうか。
神饌御供を並べた奥に古い樽桶が判るだろうか。
日の丸御幣の左横に立てられている。
これは崇めている御分霊とされる祝い樽だ。
紅白の幣には言い伝えがある。
マツリを終えたら村人は幣を授かる。
白色であれば男の子が生まれる。
赤色であれば女の子だ。
孫に男の子が欲しいと願う親は白色を選んだというありがたい幣であると話していた。
竜谷集落の戸数は20戸あまり。
少子化の波は竜谷にもあるが、マツリのときには外孫もやってきて賑やかだ。
おじいさんとともに杵で餅搗きをする子供たち。
それをとらえる両親。
この日の村は笑顔が絶えない。
竜谷のマツリは始めに頭屋祭が行われる。
御幣を立てて「オニギリ」、「オゴク」などを並べる。
神饌はタイにスルメ、ゴボウやハクサイ、ダイコン、カブラ、サトイモ、エビイモなどの野菜に果物のリンゴもある。
10年ほど前までのマツリの場は頭屋の家だった。
今では公民館に移った。
かつての頭屋家を現す「頭屋座中」と書かれた提灯を吊るす。
公民館が建つ場には子安地蔵堂がある。
昔は子供が生まれた祝いに腹帯を奉納していたらしい。
そのお堂に掲げていた二枚の絵馬。
右が閻魔さんの地獄絵で左は地蔵来迎絵を描いていた。
明治37年、明治32年に奉納されたようである。
神職は三輪神社から出仕される二人の神官だ。
幣で祓って祝詞奏上、玉串奉奠をする。
神事を終えた一行は龍谷三輪神社へ向かってお渡りをする。
道中に「ホォーイ ・・ ホォーイ ・・」の詞を発しながらお渡りするがと云っていたが真っ暗な闇の中。
真っ暗の中ではピント合せができなかった。
実際は低く唸り声のような「オォォォーイ・・ オォォォーイ ・・」。
神官が「オォォォーイ・・ オォォォーイ ・・」を発声されたら後方から「オォォォーイ・・ オォォォーイ ・・」と唱和する。
警蹕のように感じた暗闇道中のお渡りである。
かつては座中の若衆が神饌を収めた飯桶を頭の上にあげてお渡りをしていたそうだ。
昭和32年発刊に発刊された『桜井町史民俗編』によれば明治25年までのお渡りでは座中の女性が担っていたのであった。
後に若衆に移ったとある。
龍谷三輪神社に到着した一行は直ちに幣や神饌を供える。
本殿は見られない龍谷三輪神社。
ご神体は背後の神体山である。
神事が始まるころには村の人たちが神社に集まってきた。
かつてはローソクを灯した提灯の明かりだけだったマツリの夜。
ここでは最近流行りのLEDを使用することもない。
階段を踏み外さないように、足元を照らす白熱灯の投光照明によって村人の安全を配慮した。
拝殿に登るのは頭屋や氏子男性。
婦人たちは上がることもできずに外で見守る。
祝詞奏上、玉串奉奠の次に行われたのは「フリアゲ」神事だ。
これまで頭屋を勤めたことがない人の名を書いたクジを丸めて三方に載せる。
神さんが見下ろす場で神官は幣を付けた真榊を静かに下ろす。
麻苧の先に引っかかったアタリクジを引き上げる。
クジを広げて記入された名前を現認する。
大幣のフリアゲ神事は「トーヤ決め」の儀式である。
これを竜谷では「頭人定め」を神占の正式名称としている。
かつては3月27日の祈年祭のときにしていたようだ。
「フリアゲ」神事を終えた竜谷のマツリは子供の相撲で締められる。
対象者は幼児から中学生までだ。
かつては村氏子の男の子だけだった。
少子化によって男の子は少なくなった。
相撲ができなくなった時代に女の子も加えるようにした。
それも少なくなったから外氏子(外孫)も入れて存続している。
最初にご祝儀を賜った人たちの名を披露する。
それから子供たちが拝殿に登る。
狭い拝殿にどっと登った子供たち。
まずは神官によってお祓いを受ける。
そして始まった幼児の団体戦。
氏子・父親が子供を抱えておしくらまんじゅう(押し競饅頭)のように囲んでよっせよっせ。
周りからは「おー、おー」と掛け声がはいる。
泣きだす幼児もいる。
勝負を求めない相撲を終えた子供たちは神官から手渡される祝儀を受け取って降りる。
次の対象年齢は小学生。
次は中学生へと続く相撲は神前相撲であるが、後から考えてみれば女の子の相撲はなかったように思った。
竜谷の子供相撲を拝見して思い出した天理市の仁興町。
上仁興、下仁興のそれぞれで行われていた相撲の在り方とほとんど同じような作法だと思えた。
神前相撲を終えたら直会に移る。
酒杯をいただく氏子はカワラケを手にする。
酒桶から注ぐカワラケ。
酒を一献する際には、田楽味噌をつけたダイコンとショウガスライス切りを手で受けて口にする。
田楽味噌は自家製。
ミリンに酒、砂糖を加えて作ったそうだ。
(H26.11. 3 EOS40D撮影)