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マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
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山添広瀬・西方寺の花まつりにまさかの奇遇繋がりに、ご縁はさらに・・

2025年01月14日 07時55分36秒 | 山添村へ
3日に訪れた毛原に住むFさんが伝えてくれた山添村広瀬の西方寺の花まつり。

初めて立ち寄った広瀬の地。

13年前の平成22年。

ずいぶん前になるなぁ、と独り事。

下見がてらにたどり着いた広瀬。

その日は4月8日だった。

広瀬の花まつりは4月8日とわかったが、当時の状況でいえば中断中


出会った方の話によれば「十数年前、花まつりの舞台は、西方寺から保育園に移っていた。それもいつしか統廃合し、保育園は廃園になった。つまり舞台がなければ、花まつりは実行できない。広瀬に早くも少子化の波が・・・。子どもがいない広瀬にスクールバスは通ることない。
広瀬の山の上。スクールバスが走る県道80号線まで、自家用車に子どもを乗せて、バスに乗車。ここ広瀬で暮らすには、車がいる。生活に必要な足が車。年寄りでも車に乗らないと生活は難しい・・」と、話してくれた西迎寺観音講・講中のIさん。

かつて同一日の8日は、子ども涅槃もしていた、と・・・

その花まつりの現在は、西方寺の花まつりを主題に村の一大イベント行事に移っていた。



西方寺・本尊に国指定の重要文化財がある。

鎌倉時代の仏師・快慶作の仏像
木造阿弥陀如来立像(※座高98.5cm)が指定文化財とあり、現在は頑丈に建築された収蔵庫に収めている



ネット「いこ~よ」、nomuten氏が参拝記事を執筆した「ホトカミ」および浦野英孝氏が運営する「奈良観光」が紹介している西方寺・本尊の木造阿弥陀如来立像は「元々は伊賀の地にある天台真盛宗“九品寺”の末寺。記録によれば、貞観三年(861))に、清和天皇の病気平癒のために再建された西方寺。当時は27人の尼僧が安住した、と西方寺過去帖に記されているようだ。現在は収蔵庫のみが、広瀬小学校の校地に建っており、鎌倉時代の仏師、快慶の作、本尊の木造阿弥陀如来立像を安置、所蔵している国の重要文化財・・(※一部の文を補正した)。現在の設置場は、元は廃広瀬小学校、移転後に広瀬幼稚園(保育園とも)にしたが、それも廃園に。その跡地に建てた西方寺・収蔵庫」と・・・

なお、nomuten氏があげた参拝記事に「大和の国から伊勢街道へ出る路の傍らに小さなお堂を作った。その後、清和天皇病気平癒祈願の護摩法要を行ったところ見事に治癒し、861年に七堂伽藍を創建。後の1495年に真盛上人に帰依し、天台真盛宗となり、尼僧が・・云々」とある。

拝観(※有料)するには、水・土日祝日に午前10~午後3時まで営業している最寄りの「ブックカフェひろせ(廃幼稚園校舎を再利用)」にお尋ね願いたい

この記事を書いていて気付いた寺院。

えっ、まさか・・・・・驚きを隠せない。

私は分家であるが、本家筋のご先祖は伊賀に生まれ、代々を継いできた。本家とともに墓参りしていた寺院は、なんと伊賀上野の守田(現伊賀市)に在地する。

「寺伝によれば、奈良天平年間、聖武天皇の詔命により、行基菩薩がこの地に49院を建立したのが当寺の由歴で、その後、大同二年(807)に、巖如(げんにょ)上人が、その本坊跡地に弘法大師の霊場のひとつを建立して中央山蓮台寺と名付けた、とされる。さらに、時代変遷のうちに荒廃を極めた明応年間(1491年ころ)に、天台宗の高僧の慈接(じしょう)大師真盛(しんせい)上人が、伊賀の地を訪れた折りに、当地に念仏道場を再建し、寺号を改め天台宗袖合山九品寺と称した。その後の明治11年に天台宗真盛派として分派、さらに昭和21年に天台真盛宗とし、今日に至る(※ブログ「伊賀へいらっしゃい」より引用、若干補正した)」

遡ること、平成27年11月12日。

私の祖母、おおばあさんの兄の娘。

慕っていた叔母のふーちゃんが逝去し、その日の四十九日満中陰法要に参列していた九品寺。

本家並びに、先祖代々が眠る墓石がある三重県伊賀市守田にある天台真盛宗袖合山九品寺


その日、親族らとともに調べた古い墓石年代の刻印。

判読できた暦年は、すべてが江戸時代。

わりあい明確だった年号は文化元年(1804)、天保二年辛卯(1831)、寛政六年(1794)、宝暦五年亥(1755)である。他にも文化、文政(1818~)に天明年間(1789~)もある。宝暦五年の墓石が先祖代々の最古のようだった。

まさかの展開である。

山添広瀬・西方寺は九品寺の末寺。今まさに西方寺の花まつりに参拝していた。

寺縁が結ばれていたわけだ。

可能性はないかもしれないが、先祖代々のどなたかが関連しているかもしれない。

そんなありがたい広瀬・西方寺の花まつり村イベントの主催は、前述した最寄りの「ブックカフェひろせ」

村の人たちが運営している施設。

村在住の方もFBで伝える村のイベントは、協力・販売に地元野菜トラック市場に生ビール・ソフトドリンク、おやき・たこ焼きに山添村観光協会も。

日曜日のつもりだったが、土曜日開催に気づいても、午前10時から行われる法要は間に合わない。



だが、花まつりだけに、甘茶かけもしていると思われたから、午後3時までのイベントに久しぶりに訪れた広瀬。

ちなみにお花まつりに欠かせない甘茶かけ。



お釈迦さまがお誕生された4月8日に祝う仏教行事。

生まれたばかりのお釈迦さまが、7歩歩き、右手で天を、左手で地面を指さしながらおっしゃった、とされる天上天下唯我独尊の姿に甘茶かけ。



そのお姿をご寄贈してくださった前西方寺住職の名も記している。

寄贈日は、まさにこの年の令和4年。4月吉日であった。



さて、児童公園に集まった人、人、人でうまる。



これよりはじまるショータイム。



大正琴の演奏、川本三栄子演歌ショー、エイサー踊りにリー村山&武魂忍者ショーに盛り上がる。



階段下に停めてあった軽トラに村の女性たち3人が売り子をしていた。



山菜わらびにタラの芽がいずれも1セットが100円だけに買い求めた。



ところで、陸海苔(※オカノリ)のことを聞いてみたが、さぁ聞いたことがないから知らない、という。

ご婦人たちがいうには。私らはオカヒジキにオカワカメは、知っているがオカノリなんてものは聴いたことがないなぁ

今年は、特に筍が不作らしい。

ここはフクマルとか山の神も拝見した広瀬ですよね、と伝えたら、フクマルは知らんけど・・・に、えっ。

そうそう、広瀬の呼び名はフクマイリだった

そう話してくれた男性はあとでわかったが、昭和24年生まれのKTさん。

そのKTさんがいうには、大和郡山市に知り合いが居る、と・・・

大和郡山市内にあるリフォーム会社のスターマイン。

会長のやじさんは、よく存じている、という。

事業所は、我が家から歩いて10分ほどの距離。

ご縁は、たしか我が家の小さな、小さなリフォームをお願いした。

ソレは、玄関ドアだけのリフォーム。

かーさんの思いに、やや高めの云十万円のドアに取り換えた。

まさか、ここ広瀬に出会うとは・・・・奇遇な。

(R4. 4. 9 EOS7D/SB805SH 撮影)

山添村・広瀬に咲く笑顔満開の桜フエア

2024年12月16日 07時44分11秒 | 山添村へ
中峰山から中之庄。

そして吉田。

片平の手前に急坂を下る道がある。

道に沿って下りた地が山添村の広瀬。

正面に清流、名張川が見える。

架かる広瀬橋を渡った向こう岸が山添村の鵜山。

さらに道なりに進めば三重県の鵜山がある。

広瀬橋付近に満開の桜がぎっしり。

車を停車させて魅入っている人たちがいる。

地元の人か、それとも桜巡りの人たちなのか。

今日のお天気は、雲一つないピーカン状態。

コントラスト激しく、携帯カメラは自動的に絞り込み。



それはともかく桜の木は、本日イベントに集う広瀬の村まつり。

にぎやかさが嬉しい村の人たちの集まり。

主催はブックカフェひろせ、という。



午前10時から午後3時までのプログラムは、エイサー踊りに大正琴(TIM)演奏、リー村山&武魂忍者ショー、プロ歌手の川本三栄子演歌ショーがある。

地元野菜トラック市場が販売する新鮮野菜もあるし、観光協会の人たちが売るタケノコ弁当やおやき・たこやき(※タイ焼きを誤記したようだ)、飲み物も・・。

奥にもあるよ、と声をかけてくれた知人の写真家Sさんが伝えてくれた広瀬の郷土料理。

案内になかった特別調理の広瀬名物、開きのさいら寿司に民俗の教えを乞う。

一日中愉しめる村まつりに長居はできない。

満開になった広瀬の桜をゆっくり見る余裕はない。

予定していた次の行先は午後に・・・

(R4. 4. 9 SB805SH 撮影)

山添村・中峰山の墓寺に咲く枝垂れ桜

2024年12月15日 07時50分42秒 | 山添村へ
毛原に住むFさんが、教えてくれた山添村・広瀬西方寺の花まつり。

さまざまなアトラクションもある村まつりであるが、何年も立ち寄ることができなかった広瀬に会いたくなり訪問した。

法要の時間にはもう間に合わない1時間遅れの車だし。

平成25年の1月7日以来だから、実に10年ぶりの広瀬。

名阪国道の五月橋インターを下りたすぐ近くが山添村・中峰山。

カーブを登りきったそこに鎮座する神波多神社(※かみはたじんじゃ、地元ではかんはたじんじゃ)がある。

目的地はここではない。

素通りした直後である。

思わず急ブレーキをかけた。

ドアを開けて車から下りたそこに大木の枝垂れ桜を見た。

下りてよく見た枝垂れ桜は、大木でなく数本からなる枝垂れ桜。

まるで滝のように流れる姿の枝垂れ桜に圧倒される。

右手に見える墓石。

帰宅してからぐぐった当地に、寺の名が見られない。

おそらく墓寺ではないだろうか。



小高い丘のような高台にある枝垂れ桜は見事。

その向こう側に見えるピンク色の花は・・・何?

桜でなく、桃の木ではないだろうか。

近くまで近寄りたいが、撮る時間しか確保できない。

この地に見事な枝垂れ桜があったことだけが事実記録。

少し移動し、高台から流れる枝垂れ状態も撮っていた。

(R4. 4. 9 SB805SH 撮影)

大塩・上垣内の七日盆の井戸替え

2024年07月06日 08時02分41秒 | 山添村へ
山添村の大塩。

山に5カ所の水源地があるそうだ。

うち、何か所かの地区が、今も8月7日は井戸替えする、と話していた。

7日は、盆入り。

先祖さんを迎える7日にしておきたい地区が所有する水源地の清掃である。

本来は7日であるが、みなの都合もあり、参集できる日は第一土曜か、若しくは7日直近の日曜日に移した。

その日に井戸替え作業をする、と聞いていた平成22年は8月7日に実施された。

続いて翌年の平成23年も8月7日。

2年後の平成25年は8月3日。

今年の令和3年は8月1日の日曜日。

ようやく出会えた大塩・上垣内の七日盆の井戸替え。

旧観音寺や八柱神社は、午前中に朔日座。

老人会は外してもらって墓地の清掃。

各々の垣内単位で行う7日盆の清掃がある。

午後に井戸替えの清掃作業。

すべてを終えれば、一旦は自宅に戻って、夕方に再び参集。

大塩の会所に集まるが、垣内は分かれて3室に。

そう聞いていた7日盆の井戸替えの日。

今から一週間前、大塩に立ち寄った7月24日。

目的は、10年前に聞いていた大塩の7日盆の習俗取材


「七日盆に墓掃除がある。盆入りするにあたって、7日は墓掃除。綺麗にして先祖さんを迎える」と、話していた。

その時期が、来る前に訪れ、下見を兼ねて、村の人に詳しい情報を教えてもらいたくやってきた。

ただ、この年は、まだまだ収まらないコロナ渦中。

作業といえども、集まることが可能なのか。

それとも、コロナ症状の予防感染対策に集まりは難しい、と判断されるのか・・

井戸替え行事に合わせて聞き取りしたいお盆習俗。

盆入り行灯もあれば、サシサバ調査もある。

ただ、ここら辺りの地域では、サシサバでなくトビウオを食べる家もあるらしく、調査したい地域。

行先は大塩の上垣内。つもる話もあり、伺いたいお家はY家。

午後2時から、ここ上垣内の人たちが集まり、井戸替えの清掃をする、と話してくれた。

集合地は、上垣内・山の神にあるミバカに井戸替え。

井戸というのは、当上垣内の人たちが利用している給水槽。

山の神の地は、はっきり覚えている。

ドウゲの二人とともに行動していた大塩の風の祈祷札立て。

ずいぶん前になるが、平成23年の7月10日。

大塩の境界、7カ所に立てる祈祷札


翌年もついて回っていただけに記憶に残る札立ての地。

先に訪れた旧観音寺。

この日に咲き誇る百日紅を拝見してから上垣内に向かう。

八柱神社の鳥居下のアスファルト道路の坂道を行く。

すぐに見つかるバス停留所。



上垣内入口になる角地に立てていた風の祈祷札。

右端が新しい祈祷札。

平成24年も、またドウゲさんとともに行動した7カ所の村の領域

そこからは急カーブに急坂。

道なりにいけば上垣内集落に着く。

広地に車を停めて、そこから歩く道もまた急坂成り。

堪える勾配に、なんども休みをとる。

家並みを抜けたそこは、村の人たちが丹精込めてつくっている野菜畑。

山の神は、すぐ近く。



途中に合流した村人とともに向かった集合地。

先行していた人たちは、重量のある道具を運んでいた。

そう、ここは4輪駆動車なら往来できる村の道。

里道である。



本日、集まった人たちは9人。

かつては12戸の上垣内だった。

それが徐々に減り、10戸から現在の9戸。

現実は8戸だ、という。

ポンプがなかった昔は、人力によるバケツの汲み上げ。

貯水も溜まった泥の重さに、排出は力の要る作業。

電動式ポンプの普及によって、ずいぶん助かった、と話す。

バケツは変わりないが、七日盆の井戸替えに釣瓶を使っていた、という地域事例がある。

昔、懐かしい釣瓶井戸。

ある年代以前、お家に井戸がある体験者は、必ずや釣瓶で汲んでいた、というだろう。

私のふるさと。母親の生家は大阪南部地域の滝谷不動。

茅葺屋根の母屋にあった釣瓶井戸。

お風呂は五右衛門ぶろ。

焚口は、3連式の竈。

従弟たちとともに遊んだ旧き母屋の思い出がある。

平成19年の8月7日。

ずいぶん前の取材であるが、取材地は大和郡山市・天井町。

地区外れにあった弘法大師が眠る井戸がある。

その井戸浚えに、梯子を立てて釣瓶汲み。

尤も、このときの取材は、ほっかむりにモンペ着用の高齢者がその作業をしていた


その後の、平成24年も取材した天井町の井戸浚え。

その日に聞いた、昔は釣瓶で井戸水の汲みだし。

その日も、2、3杯は手作業の汲みだし。

以降は、電動ポンプがやってくれるから助かる、と話していた
ことを思い出した。



さて、早速、はじめた上垣内の井戸浚え。

そう、井戸替え作業は、貯水槽に溜まった泥や葉っぱなどを除去し、綺麗な水溜めにする清掃作業。

それを“浚える”と、いう。

だから井戸替えは、井戸浚えとも称する暮らしの民俗。

井戸と呼ぶ貯水槽。

蓋は重たい鉄製。

一年に一度の井戸浚えに蓋をあける。

蓋は、いわばマンホール蓋。

貯水槽に梯子を下して、階段に足をかけて上り下り。

深さは、まっすぐ立った身長くらいか。

その前にしておく貯水槽の水深。



メジャー計測でなく、そこらに生えているススンボ竹を利用する。

葉っぱを刈ったススンボ竹を貯水槽に沈める。



浅瀬なら長靴で入れるが、貯水量が多い場合は、先に電動ポンプを入れて排水する。

ポンプは電動式だから、ガソリンエンジン発電機ももってきた。

貯水槽の底に溜まった水泥。

山から流れる水を引き込み、この貯水槽に埋め込みパイプで繋いでいる。

山から流れてくるのは、山水だけでなく山の土や落葉がいっぱい。

水路が詰まらんようにしているが、網の目をくぐってここまで流れてくる。



だから、ポンプの汲みだしは、はじめは水。

そのうち泥水になる。

ある程度の泥水は、ポンプ汲みだし。

底になるにつれポンプでは難しくなる。



そのために、予め貯水槽に下したデッキブラシで綺麗にする。

また、泥や葉っぱは、プラ製の箕。

いわば塵取り用途として使っていた。

上垣内の貯水槽は貯水型2槽式井戸。



敷設年代が異なる2槽。

旧きは、マンホール蓋の直径が50cm仕様の貯水槽は、昭和38年に構築した。

もう1槽は、平成元年に敷設。



蓋の直径は大きく60cm径だから見分けがつく。

2槽とも、穴壕を掘り、壁一面、周囲全体に敷き詰め。

コグリ石を入れ、固めてつくった、という。

ここより80mにもなるつないだ水道パイプで、各家に送っている。

距離があるだけに、途中にどろ抜きの堰を設けている。

最上流は鍋倉渓谷の向こう地。

ここより5mも登った地にあるそうだ。

実は、今日の清掃は2班分け。

作業開始と同時に、もう一組の班は、上流に敷設している貯水槽に走っていたそうだ。

細く、狭い円筒形の水溜め。

ブルドーザで工事した穴あけ。

コグリ石で固めてつくった上流槽。

水源地は、集落住民の命。

寄せた谷水は、延命水のように思えたが、取材は私一人。

上流の貯水槽を拝見したかったが、そのうち戻ってくるだろう、と・・・

山から流れる谷の水。

いわば湧き水を集める道具が井戸。

ここから何本ものパイプで下流に流す水は、高低差がある。

だから、勾配に自然と流れてくる。



そして、今、清掃している2槽式井戸に供給される。

これを“井戸川”と呼ぶ。

上の井戸は4カ所。

筒内に入るには危険をともなうので、現在は目視点検など。

パイプ汚れや管詰まりしていないか、その有無を点検する。



上流担当は、この前にお会いした隣家のKさん.

若手を引き連れ、敷設場所や点検方法などを、指導しつつ作業する。

特に、集落の水財産は、今後も継承できるよう、詳しく説明している、と話してくれたのは、ここ大塩の伝統行事の在り方の、ほとんどを教えてくださったYさん。

実は、行政が引いた上水道も普段から使用している人もおれば、Yさんのように風呂水は行政水道・飲食。



特に美味しく飲むお茶に淹れる水は、この山の恵みの井戸水。

Yさん同様、使い分けしているお家もある、という。

また、井戸水は硬水だが、行政水道は軟水。

ただ、その硬水は風呂水に弱い、と説明してくれた。

井戸浚えの最中に聞こえてきたツクツクボーシにカナ・カナ・カナ・・・

ヒグラシの鳴き声に癒しを受けている地に、ジィージィ鳴くアブラゼミも・・

井戸(貯水槽)すぐ横の大樹はクヌギ(※椚)。

大阪から、よく来る若い親子がクワガタ捕り。

そのクワガタを、みなさんは“ゲンジ”と呼ぶ。

椚は、“ゲンジ”のクヌギと称している。

不思議な取り合わせは、訛りでもないような・・



2槽目の貯水槽の清掃がほぼ終わるころ。

上流で清掃した班が戻ってきた。



重たい鉄製の蓋を閉じて支度を調える。

合流して確かめた、周りに塵は落としてないか。

使用した道具のすべては、4輪駆動車に載せたか。



運搬車は、ここより出発して山麓線に上がり、そこからぐるっと迂回して大塩に戻ってくる。

大多数の人たちも解散。

家からもってきた道具も忘れず、持ち帰られた。



取材を終えてから、2週間後の8月15日。

雨もまったく降らなくなった夕方5時の我が家。

北の森から聞こえてきたツクツクボーシは鳴きはじめ。

山添村・大塩で聞いてから2週間後に、平たんの大和郡山市の東城につながったツクツクボーシ。

ところで、クワガタを、上垣内のみなさんは“ゲンジ”と呼んでいた。

そのことは記憶に残っていた。

令和3年8月6日


大峯山洞川温泉観光協会(※奈良県天川村)さんがFBにあげた「さて、こちらの洞川弁はどういう意味でしょうか?正解は…クワガタムシの雄が“ゲンジ”。雌を“ヘイケ”と呼びます!夏の子供の憧れ、クワガタムシは洞川の山でも見かけられます。虫かごを持って林に向かう子供達もちらほら。夏休みの醍醐味ですね😌💕たまーーーーに、街の中でも見かけるのでもしかしたら出会えるかも知れません🍉」・・>、に、初コメントした。

「つい最近のことですが、取材していた山添村大塩で、何人もの村の人は、ここにゲンジがおるんよ。村外から来た親子連れ。虫取りにくるんよ・・に、まず、えっ・・・」

「ここは樹木生い茂る山間地。ホタルが生息するような小川すら近くにない山間地。
いや、そうじゃなくて、あそこに大きなクヌギがあるじゃろ。そこにな、クワガタを捕りに来よんや。わしら、昔からそのクワガタを“ゲンジ”と呼ぶんや・・・」と。

「“ヘイケ”を含め、雄雌の話題にまで出なかったので、それ以上は存知しないが・・・天川村から遠く離れた山添村でも、同じ呼称に興味惹かれました」と、コメントした。

“ゲンジ”をキーに、ネットから拾ってみたら、あるある・・。

奈良、三重、京都、大阪、兵庫、愛媛、香川、島根、愛知・・・比較的、西日本に多くの事例がみつかる。

ネットを繰って見つかった1件は、ヤフー知恵袋の回答

ある方が質問に応えた回答。

関西の多くは、”ゲンジ”を”クワガタムシの総称”として使います、とある。

”ゲンジ”の中に、”ノコギリクワガタ”や”ミヤマクワガタ”がいる、という感じで・・・。

関西の多くは、とあるが、地域がどこであるのか、明らかにされていない。

また、ある方は、対象とする関西は、三重、奈良、島根県。香川、兵庫県の一部・・に。

出典は日本国語辞典とあったが、別の方が回答した県は、大阪も京都も”ゲンジ”だ、と
・・

そして見つかった回答。

名称と県別に整理された一覧情報

作成者は月刊「クワガタ狂の大馬鹿者達」、今月の編集長「Jimmy」、編集部員「びん」さん

素晴らしき情報に感謝、感謝。

それにしても、呼び名の豊富さ。

呼称が確認された県。

多岐にわたる民俗語彙。

言葉は伝達・コミニュケーションの広がりからだと推測するが、ルーツまでは届かない。

発生源、語彙のつながりはどのようなルートを辿っていったのだろうか。

民俗文化を流通させるのは、人の動き。

長く親しまれてきた名称だけに、そうとうな旧さであろう。

婚姻、縁故、旅人、転居・移住、はたまた大名の転封・国替えもありうる・・

(R3. 8. 1 SB805SH 撮影)(R3. 8. 9 追記)

毛原八阪神社・御石洗い

2024年01月11日 07時41分54秒 | 山添村へ
この日にする、と聞いていた山添村の毛原。

本来は15日であったが、今は第三日曜日に移した御石洗い(ごいしあらい)の十五夜籠り。

毛原の史料によれば、かつては「名付け」もしていた中秋の宮籠もりは、9月の15日が祭礼日だった。

現在の「名付け」行事は、名替えをする対象の子もなく、村の一年神主のホンカン(本音)が、神さんに名を告げるだけに替えたそうだ。

この年は、コロナ渦中につき、十五夜籠りの呼称もある中秋の宮籠もりは、三密を避けた中止の判断を取った。

だが、こればかりは、中止にできないと判断した氏神社の八阪神社の御石洗いは、実施すると聞いている。

4月3日の桃の節句行事の際に聞いていた八阪神社の年中行事

江戸時代は、牛頭天社と呼ばれていた八阪神社の御石洗いである。

コロナ禍でなければ、午後いちばんにされる御石洗いに続いて、午後6時に再び参集する十五夜籠り。

中止でなければ、例年通りのお籠りをしていたことだろう。

さて、御石洗いである。

山添村の村落に、御石洗いをしている村がある。

平成24年の10月14日に取材した山添岩屋・八柱神社の御石洗い(ごいしあらい)である。

住民、氏子たちがそろって作業していた御石洗い。

その日の作業は、本社殿ならびにその周りの水洗いから拭き掃除。

一年に一度は綺麗にする作業に大勢の氏子たちが集まっていた。

かつては、神社下、道から下ったそこに流れる笠間川の綺麗な石を運び、神社周りに詰めた。

一年の汚れが付いた御石は、再び笠間川に戻して、川の水流で汚れを取り、綺麗になった石を、また揚げる。

川と神社を往復し、石を運ぶ道具は、担ぐオーコに石を運ぶモッコ。

二人がかりで運んだ。

平成24年現在は、笠間川との往復運搬をやめて、神社内にある井戸水。

ポンプを使用し、勢いをつけたホースの出力をもって御石洗い。

一か所に集中して御石を洗う。

綺麗になった石は再びモッコに入れて元の場に戻す。

実は、毛原も同じように、笠間川の御石を揚げ、急な坂道を上ったり、下りたりの運搬をしていたそうだ。

桃の節句のとき、ホンカンや、ジカン(次音)にミナライらが話してくれた毛原の御石洗い。

社殿周りに敷いているゴイシ(御石)。

かつては笠間川まで運んで綺麗に洗っていたが、現在はモッコで運ぶこともなく、消防用ホースの力を借り、強力な水圧でゴイシを洗う。

つまり、敷いた御石をそのままの状態に消防ホースの力で洗うのだ。

参集された人たちは、それぞれの役に就く。



午後1時半、集まった人たち、16人は役ごとに、地区分担する。

本社の洗い分担は、神殿や拝殿廻りに屋根も含まれる。

別途に社務所・参籠所の掃除もあるし、鎮座地が分散している琴平神社、稲荷神社のゴイシも洗う。

場所が離れているので、車で移動する。

社務所に参籠所は、建屋が長いだけにすべてを綺麗にするには、時間がかかる。

これらの洗い、清掃担当する地区は、決まっている、という。

本社の洗い、清掃は西地区と南地区の班が行う。

北の地区の班は、谷を越えた北に鎮座する稲荷神社。

東の地区の班は、ずっと、ずっと山道を上った先に鎮座する琴平神社が担当する。

取材は私一人。3カ所すべての作業取材は、到底できない。

主要な、御石洗いは、本社の神殿や拝殿。

こちらにとどまって撮影することにした。



まず、はじめに動かれた若手の消防団員。

神社下の舗装道に据えている貯水槽に、出力口・金具にホースの先端金具を結合する。

そして、ホースを長く伸ばしていく。

消防水は、おそらく山から流れてくる谷川からひいた水。

水溜めにいつでも供給できるよう、常に定期点検等をしているだろう。

神殿は、山にあり。

長いホースを引きずり上げる。

ホ-スは、頑丈にできており、重たい。

平坦なら転がすだけでホースは伸びるが、急こう配の地では、重たさは何倍にもなる。

引き上げ作業は、いきなりの力仕事である。

一方、大多数の人たちは、神殿下の割拝殿に集まった。



なにやら道具をもって作業をはじめた。

手にしているのは、ちりとりと刷毛。

一定の道具でなく、めいめいがもってきたお家で使っていると思われる掃除用具。

腰を下ろしてはじめた刷毛で掃きとり。

御石に付着した一年間の埃や塵を綺麗に払う。

一方、神殿前で構えている消防団員。

割拝殿に籠って、御石掃きの状況を見ていた。

作業の様子を見る、と同時に、もう一人との合流を待っていた。



およそ10分後の割拝殿の御石。

御石をひとつずつ綺麗にしては、次の御石。

担当する領域の御石のすべてを綺麗にしていた。

見ていただければわかるように、割拝殿の床も綺麗にしていたのだ。

埃や塵はちりとりに。

まとめて捨てる決められた場所(※ブルーシート)。

割拝殿のすべてを終えたら、拝殿周りに敷いている御石も綺麗にする。

そして、貯水槽のバルブを動かし開栓。



神殿際に据えたポンプで引き上げ、消防ホースが噴き出す水流。

その勢いで神殿周りの御石を洗っちゃえ。



決して、水遊びでもない、神聖な場での御石洗い。

相方らは、綺麗になった御石を綺麗な場にスコップで移す。

手でいちいち移動するのではなく、ごそっと移す。



まだまだあるぞ、と先輩たちは声をかけたような気がする。

この場を済ませたら、残り半分は向こう側。

まあまだある、ということだ。

一方、割拝殿の屋根の清掃は、ブロワーで吹き飛ばし。

雨でなくてよかったが、気を抜いていつ滑るかわからにから、余程の注意がいる。

瓦に土がないから、苔は生えにくい。



怖いのは濡れ苔に靴を・・・・その、途端にずるっと滑る。

聴くのを忘れたが、あれは命綱のような気がする。

1時間弱の清掃活動。しばらくは休憩をとって身体を休めて、再び活動。まだまだある清掃作業。



割拝殿の中央部。

正中にあたる中央部の御石すべてを綺麗にした、次は割拝殿建屋周りに敷き詰めた御石も刷毛で掃きとる。

ただ、中央部と違って、吹く風の勢いによって落下の葉が多くある。



これらも綺麗に掃きとって作業を終えた。

終わった時間は、午後3時半前。

それぞれ分担し、清掃作業をしていた班も戻ってきた。



作業のすべてが終われば、道具などを方付け、班ごとに解散する。

この日の、十五夜籠りは中止になったが、午後6時からは例祭と同様、氏子たち各位による一般参拝をもって神事を終えるらしい。

(R3. 9.19 SB805SH 撮影)

大塩・お庭に咲き誇るY家の風蘭に見惚れる

2023年10月02日 07時31分54秒 | 山添村へ
かつてほとんどの農家さんは、農作の妨げに虫を追いやるブトクスベを自作し、利用していた。

今では、まず見ることがない農用具のブトクスベ。

念願叶って、ようやく拝見したYさん手造りのブトクスベ

村の行事取材に度々訪れていた山添村・大塩に住むYさん。

手入れが行き届いているお庭の植栽を、ゆっくり落ち着いて拝見することはなかった。

今、ちょうど咲いている、と紹介してくれた風蘭の白い花。

一本や二本とかのレベルでなく、広がるような花の姿に見惚れていた。

撮らせてもらっていいですか、のお願いに承諾してくださったY家の風蘭。







とにかく、岩付け、樹木付けの風蘭。

その多くが、見事な姿、形。

すべてを撮るわけにはいかないので、ごくごく一部分をカメラに収めた。

(R3. 8. 1 EOS7D撮影)

大塩・七日盆習俗に尋ねた刺しさば食の記憶

2023年09月18日 07時52分15秒 | 山添村へ
お盆の行事に墓参りがある。

10年ほど前に聞いていた山添村大塩の行事。

習俗に「七日盆の墓掃除がある。盆入りに前の7日は、墓掃除、綺麗にして先祖さんを迎える」。

下見に訪れた、この日に出会った村の人。

これまで何度も取材してきた大塩の年中行事に度々お会いしたことがあるKさん。

七日盆の墓掃除の件を尋ねたら、8月初めの日曜日だという。

午前中に墓掃除。

午後に七日盆の井戸替え
作業がある。

七日盆から尋ねた、お家の盆行事の刺しさば。

かつては同村、北野の大矢商店で買っていた刺しさば

両親が揃っていたころにしていたお家の行事。

買った刺しさばは2尾。鰓(※エラ)に差し込んだ刺しさばを供えたあとに食べていた。

両親が健在だったころだからずいぶん前のこと。

いつしかサバからトビウオに切り替えた。

購入先は、割合に近い県境を越えた三重県の上野にあった魚屋さんで買っていたそうだ。

これまで聞いた事例に、刺しさばでなくトビウオ地域があった。

同村の桐山、岩屋、遅瀬に大西。

山添村でなく桜井市の箸中もトビウオだった。

他にもあるのでは、と思っていたところに、ここ大塩もそうだった。

刺しさばを売っていた大矢商店の店主も、「昔はトビウオだった」と・・

地域全体が、そうだと言い切れない食文化。

それぞれのお家によって異なる。

Kさんの事例がまさしく、そうである。

そうだ、お盆の前に調べておきたい三重県特有のトビウオ調査に、さあ、出かけてみよう。

平成23年8月13日に訪れた山添村菅生の庭に設える餓鬼棚

籠を伏せるような形式は、珍しく貴重な民俗。

そのときに話してくださったお盆に供え、家族が口にする刺しさば民俗があった。

菅生もまたトビウオ文化。

刺しさばもあったといいうから二通りの習俗。

重なった時代があったのだろう。

桜井から来ていた行商が売っていた魚は加工した塩干魚。

塩干のヒダラも売っていた。

伊勢で仕入れた、というトビウオは名張経由の行商。

2尾のサシサバ、トビウオ、ヒダラ。

いずれにしても両親が揃っている家ではそれらを食べていたという。

食する民俗にお盆の習俗が合わさった民俗。

その魚を運ぶ流通、販売。加工に漁港まで遡る文化があったからこそである。

来月に調べたい刺しさば売り場。

三重県名張に足を運んで調査する予定を入れた。

先に訪問、三重県名張の刺しさば調査に出かけるにあたり、店舗の裏で自家製の刺しさばをつくり、お店で売っている都祁白石の辻村商店の店主にご挨拶をしておこう。

ところで、ここ大塩に訪れた行事調査は、他にもある。

この日の午後4時過ぎに訪れた大塩。

たまたま大塩・観音寺の月詣りに来られていた女性に伺った。

墓掃除などをしていた分家のみねだ、という婦人の話によれば、24日は、極楽寺石塔墓地の「盆入り行灯」。

さて、聞きはじめの「盆入り行灯」とはなんだろうか。

山添村に極楽寺がある大字は切幡。

虫送りの出発に極楽寺に灯しているローソクのオヒカリを松明に火移しする寺である。

また、正月はじめに行われるオコナイ、と呼ぶ初祈祷行事を営まれる極楽寺。

そういえば、お盆の行事は、詳しく聞いていなかったなぁ。

また、31日の「水無月」に仏壇素麺供えも聞いたことがない。

盆の三が日に供えるのは、いつも決まっているが、他家とは違うかも。

そこで尋ねたサシサバも知らないという婦人。

家族の一人が亡くなったら墓石を建てるが、某家なんかは30墓もあるもんだから、それぞれにお花や供物を用意せなあかんし、並べるだけでもたいへん。

虫送り祈祷に北谷住職も来られていたが脳梗塞を患った関係で、息子五人は仏僧に。

代わりに先日の大般若経を務めたのは、針観音寺の息子さん。

そういえば切幡は松明で虫送りするが、大塩は北谷さんに書いてもらった虫送りの祈祷札である。

それは川に流す札や、と思い出した農休みの虫送り

村の周りの四方に竹札を立てるのは大般若経転読法要後の風の祈祷札立て

立てる場所は4カ所。

実にわかりにくい藪の中にも立てていたことを思いだした。

それから伺った、行事取材に何かとお世話になったYさん。

車を停めて登る坂道は急こう配。



ちょっと登っては休憩。

何度も休憩した集落の入口から、行事なくとも幾度か訪れるようになったお家に向かったが、生憎の不在だった。



そのことを隣家のKさんに伝えたら、さっきに家を出たばかり、電話したらどう、といわれてコールしたら三重県・名張に用事があり、お出かけ中。

久しぶりです、と声をかけたが・・・電波事情が悪いのか、切れた。

そこでKさんに伺ったのが、前述した盆入りの墓掃除に井戸替え作業。

Kさんは、村の行事でお会いしていた方。

話によれば、村にミバカが4カ所もある。

この年は8月1日が日曜日。

午前中に八柱神社の朔日坐があるが。

外してもらい、午前は墓地の掃除に。

午後2時から井戸替え作業をする。

すぐ近くに山の神があるミバカに井戸(※給水槽)替え。

来ていいよ、と云ってくれた。

ちなみにかつては大矢商店で買っていた刺し鯖を供え、食べていたが、いつしか三重県の上野に出かけてトビウオ買い。

刺しさばから、トビウオに切り替えたが、今は何もしていないそうだ。

大塩を離れ、帰路にかけたYさんへの電話。

食事も済ませて、やっと電波の届く位置に移動してきたそうだ。

この年は、大塩の村マツリ。

トーヤ勤めに難儀した、という。

Kさんから許可いただいた井戸替え作業。

上(かみ)の組が、今もやっている、と話してくれた。

そして、尋ねたブトクスベ。

ずいぶん前になるが、Yさんが話してくれたぶとくすべ。

平成17年に亡くなられた母親が畑でしていたぶとくすべは、畑の小屋にたしかあった、と聞いていた。

畑作業に難儀する虫に悩ませる時期。

梅雨明けから秋口まで、腰にぶら下げて使っていたぶとくすべは、母親がつくって遺してくれた農の道具。

今でもあるんやろか・・。

その件については、井戸替えのときに聞いて
みよう。

(R3. 7.24 SB805SH撮影)

毛原・八阪神社の神武さんの籠りは桃の節句

2023年04月24日 08時13分29秒 | 山添村へ
4月3日は、神武さんの籠りをしていると聞いていた山添村・毛原の八阪神社行事。

4月3日は、桃の節句でもある毛原の行事。

神社に供える御供に草餅。

それに桃の花を添えるから桃の節句とも。

その御供は、以前取材した6月5日に行われる端午の節句

御供はチマキである。

取材した前年までは、カヤの葉に包んでいいたチマキ。

手間のかかるチマキつくり。

行事の負担を避けて、同村・勝原にある上島製菓にお願いし、つくってもらったチマキに替えた。

今日の、御供も端午の節句同様に桃の節句の御供も上島製菓にお願いした、と聞いている。

桃の節句の御供の原材料は蓬。

村の人たちは「ヨゴミ」と呼んでいる草の蓬。

山や野の原になどに出かけて籠いっぱいに摘む。

その量は、籠が2杯にもなる、というから相当な量だ。

摘み取った蓬を蒸す。

蒸した蓬は、3升の餅米とともに炊いてつくる。

桃の節句の御供は木枠に摘めて押す。

時間をかけて乾燥させ、固くなる前に蓬餅を包丁切り。

ひし形に成型して出来上がる。

これらの作業に負担をさけるために菓子屋さんに注文してつくってもらうように切り替えた。

桃の節句に供える蓬のひし餅。

今も、家庭でつくられ、神棚などに供えているお家もあるようだが・・・

早めに自宅を出発した。

毛原の神武さんの籠りは午前11時と聞いていたので、その時間に合わせて出発した。

車の流れがスムーズだった早くに着いた。

停めた駐車場は、毛原・構造改善センター前。

この年もコロナ禍。

世にある年中行事のほとんどが中止。

実施されたとしても氏子役員だけに絞った神事のみの行事が多い全国的な事態である。

そうしたコロナ禍状況に毛原は、神武さんの籠りは、中止を決断された。

右に表示していた「ひな祭り」も中止、とある。

たあ、構造改善センターの窓は開いていた。

ひな祭りの段飾りがあるが、人はいない。

中止とあるが、中止でもないよな、逆にあるような・・・さっぱりわからぬコロナ禍の「ひな祭り」。

その状態だけでも撮っておこうと、思ったところに、やってきた村の人が運転する軽トラ。

伺えば、なんと、いつもお世話になっているFさん。

同乗者は、山添村・春日のMさんの息子さん。

Mさんもまた大字春日の年中行事取材にお世話してもらった方だ。

息子さんは、山添村の教育委員会所属。

Fさんもまた元教育委員会・委員長を務めた人だ。

今日の”籠り”は中止であるが、午後4時から始める行事ごとは実施する、と教えてくださった。

そうか、そういうことだったのだ。

村の人が集中しないよう午後6時からの籠りは中止。

膳は取りやめ持ち帰り対応に決めたそうだ。

これから教育委員会の会合があるから、と軽トラを走らせた。

ふと振り返った毛原の構造改善センター。

あれま、である。

玄関も、窓もみな締めて、どなたもおられない。

後に、聞いた話によれば、かつて木造の集会所だった。

ずいぶん昔であるが、お雛さんの段飾りを設えていた。

ひな祭りに欠かせない女児が集まっていた。

ひなあられなどを年長の子からもらって喜ぶ年少の子たち。

ここ毛原も少子化に集まることなく、構造改善センターの前に用意した御供。

それをもらいにくる。

詳しく聞こうとした家族さんも家に戻ったようだ。

少子の今は細々と続けている、という毛原のひな祭り。

あらためて再訪したいが、次はないような口ぶりだった。

行事は、午後4時からはじまるとわかって、一旦は毛原を離れて隣村の下笠間に向かう。

笠間川にかかりそうな桜樹が見えた下笠間の取材先も、また午後とわかって近場の針テラス辺りでお昼を摂って、再びやってきた毛原。

早めに着いて、代表のN区長に取材許可もらい。

神事ごとに祝詞を奏上される村神主。

この年は、ホンカン(本音)を務めるSさんにも取材許可をいただいた。

特に、ホンカン(本音)を務めるSさんは、つい先ほどまで出先だった。

出先とは、本日行事の八阪神社の神武さんの籠り・桃の節句。

これより八阪神社での神事がはじめる。

ただ、その前にホンカン(本音)とジカン(次音)は、境外末社の2社に御供上げに参拝しなくてはならない。

その仕組みは、平成28年6月5日に行われた端午の節句行事であった。

先に参拝する2社は、山の中に鎮座する琴平神社に、ここ八阪神社から、谷筋ひとつ越えた毛原廃寺内に鎮座する稲荷神社だ。



その2社を廻って、今やっと到着したホンカン(本音)とジカン(次音)。

早速、本社と遥拝所の神武さんそれぞれに供える。

午後3時半ころに、向かった2社参拝。

本社神事より先に行われる2社参拝。

ミナライのジカン(次音)が御供あげ、禊詞を唱えていた。

そして、御供を下げた2社参拝。

こうして本社に戻ってきたのだ。

ホンカン(本音)とミナライのジカン(次音)は、御供上げ。



それとほぼ同時に、参拝される毛原の氏子たち。

本社は、階段下から参拝。



場を移して神武さんも参拝する。

その間に撮らせてもらった遥拝所の神武さんの御供上げ。

お神酒に水と塩。

洗い米が大皿のカワラケに盛る。

丸ごと林檎に、同じく丸ごと大きいままのキャベツ。

そして今日の神饌御供に大切な桃の節句の蓬餅。

二段重ね蓬餅は、前述したようにかつてはひし形に成型していた蓬餅だった。

桃の節句だけに、枝付きの桃の花。



開いた桃の花が美しい。

この桃の節句の御供を見たくてやってきた毛原の伝統行事。

神事がはじまる直前に整えた生鯛。

生鯛だけに、最後にのせるという。

そして午後4時より始まった神武さんの神事。

この年が担当の村神主。

ホンカン(本音)を担うSさん一人が社殿に登り、祓詞ならびに祝詞を奏上される。



その間の氏子たちは、社殿下の境内後方に横並びの一般参拝。

立ち姿で参列していた。

平成28年10月22日に行われた毛原の宵宮取材。

そのときと同じ、境内に並んだ立ち姿の参拝のあり方である。

神事を終えたら御供下げ。

氏子らもそろって御供下げ。

段取りが調えば直会(なおらい)。

いつもと同じ、社務所で接待するお神酒注ぎ。

黄色いコウコを肴にお神酒を口にする。



しばらくは、その場で寛ぐ談笑に繋がる輪。

短時間に終えた神武さんの行事。

一旦は解散し、再び参集する午後6時よりはじまる座の儀式。

社務所内に用意された席に就く神武さんの籠り。

今年も生憎、コロナ禍によって三密を避けて中止の決断。

再開の見込みは誰も答えの出ないコロナ禍対策。

今日は、そのような状況であるが、9月に行われる「御石洗い(ごいしあらい)」の年中行事。

実施の予定など、ホンカンにミナライのジカンらが話してくれた。

社殿周りに敷いている御石を綺麗に洗う作業がある。

神社に敷いた御石は、水で洗う。

かつては、笠間川まで運んだ御石を清流の川水に戻しって綺麗に洗ってした。

御石を運ぶ道具はモッコ。

石だけに相当な重さになる。

二人がかりで支えたモッコ運びは重労働。

川から神社。神社から川へ往復運び。

が、負担削減に、現在はモッコで運ぶことなく消防用ホースの力を借りる強力な水圧で御石を洗う。

本社の他、洗う場を整備したという琴平神社に、稲荷神社の御石も洗う「御石洗い」。

午後4時からは、例祭と同じように、氏子たちの一般参拝で神事を終える、と放してくれた。

そのときもまた、取材に寄せてもらうことにした。

(R3. 4. 3  EOS7D/SB805SH撮影)

勝原の送り松明

2021年03月12日 09時55分25秒 | 山添村へ
前日訪問に続いて、今日も伺った山添村勝原のS家。

訪問目的は、S家のお盆の民俗

前日の13日は先祖さん迎え。

本日の14日は、先祖さん送り。

一般的には、13日の夕刻に迎え、送り日の15日も夕刻(※先祖さんはできるかぎり長く居てもらいたいから夜間という地域もあるが・・)であるが、ここ勝原の地は一日早い14日に送る習わしのようだ。

特に伺ったのは、14日にサシサバを供え、晩に食べると聞いていたからだ。

勝原は、迎えと同様に3本の藁松明を焚いて送る。

明るいうちに送る、という時間帯は午後6時を過ぎてから。

決まった時刻ではなく、それぞれの家事情で行われる。

西日が当たるころの松明が美しい。

カド庭に立てた3本の藁松明。



松明が倒れないようにブロック台に挿していた。

松明の竹は、青竹でなく、シノダケ(※充てる漢字は篠竹)を利用する。

お墓の花立もシノダケを使うが、花立に藁は無用だ。

今では稲藁になったが、二毛作時代の藁といえば、麦藁だった。そのころではないが、茅葺家だったころは、萱だけでなく、麦藁をも利用していたと、74歳の父親が話してくれた。

送りの前に拝見しておきたい14日のお供え。

先に拝見したいサシサバ。

大きなドロイモ(※一般的には里芋と呼ぶが、若い人以外はドロイモと呼ぶことが多い)の葉にのせた一尾のサシサバ。

旧都祁村内の一角にある奈良市都祁白石町。

西名阪高速道の針ICを下りてすぐ近くにあるショッピングセンター“たけよし”で買ったというサシサバ。



お供え用に1枚。

家族が食べる分にもう1枚を買っておく。

食べるサシサバは、今晩若しくは明朝に食べるそうだ。

売値は480円。

今日は“たけよし”で買ったが、普段の年なら勝原にやってくる行商売りから入手する。

その行商は、なんと大和郡山から来ている行商。

一週間に一度は、トラックに載せて売りにくるらしい。

時間帯はやや変動することもあるが、正午の時間帯の1時間ほど。

終われば隣村などに移動するようだ。

以前、天理市の藤井町でも見かけたことがあるトラック売りの行商。

山間地にときおり見かける行商であるが、ここ勝原では魚屋さんと呼んでいるようだ。

また、大和郡山市内の街中でも見かけたことがある車移動の行商。

山間地だけに限っているわけでもないようだ。

また、スーパーマーケットと契約している移動販売の「とくし丸」も、行商の一つの形態。

県内広く売りに廻っている豆腐専門店も、また行商の一種。

山添村切幡の住民から聞いた苗籠とか、箕、竹編み細工に鍋、鎌など売りのかなもん、荒もんの行商もある。

行商が売りに来る商品は、食料品や生活用品が主になる。

日々の暮らしに必ず要る大切なもの。

江戸時代から今も形態を替えて商売してきた行商もまた民俗。

出会ったとき、できる限り記録させていただければ、と思っているが、滅多に合うこともない。

週に一度は来る、と聞いていても空振りする場合もあるし、出会ったとしても、その都度に行商の店主ならびに買い物客の承諾をいただかないと・・。

※ちなみに関西では、かなもん屋をかなもの屋。

充てる漢字は金物屋。

鍋・包丁・釜・鎖など、金属製の器具を売っているお店があらもん屋。

一般的呼称があらもの屋。充てる漢字は荒物屋。

ざる・ほうき・ちりとりなどの家庭用品を売っているお店をこまもん屋。

別名にこまもの屋。充てる漢字は小間物屋。

荒物より小さいつくりの細々した家庭用品や日用品を売っているお店がせともん屋。

綺麗な呼び名がせともの屋。

充てる漢字は、もちろん瀬戸物屋であるが、せともん屋の主力は、お茶碗やお皿などの食器に花器などの瀬戸焼。

つまり、陶磁器などで作られた製品を売っているお店になる。

話題を戻そう。



ドロイモの葉にのせたお供え用のサシサバ。

左側に並べているのは先祖さんに食べてもらう柿の葉のせのソーメン。

茄子のおひたしを盛って、オガラのお箸を添える。



別途にこしらえた柿の葉のせのソーメン。

前日と同じく、屋外裏カドに供えるガキンドウに供える。



お供えは直接、地面に置くのではなく発泡スチロール製のトロ箱(※トロール船で漁獲した魚を詰める箱をトロ箱と呼んだのが語源)に入れて供える。優しいガキンド(※餓鬼)こと、無縁さんにも優しく心遣いされる。

そろそろ時間に近づいてきた。

お外に出たら隣近所の人たちが、送り火を焚いていた。

ついさっきに送ったばかりだというお向かいさん。



当家もまたシノダケ。

通称、ススンボ竹の名もあるシノダケは腰の強い竹だ。

終わったばかりの状態に送り火にまだ煙が出ている。

その状況を撮らせてもらってから、火消しに用意していたジョウロで水をかける。

その様子から、うちは今からする、という下のお家。

藁松明を立てる台はなく、山の崖地に直接立てる。



力を入れて、ぐぐっと押しこんだシノダケ。

3本、横一列に並んだ竹に半折りの藁束をシノダケに挿す。

これもまたぐぐっと押し込んで藁束を固定した。

土中が固いところは、身体全体を使って押し込む。

おもむろに火を点けた藁松明。

3本揃ったところで火の勢いが強くなった。



もうもうと煙る松明。

ある地域では、先祖さんは煙にのってやってくるし、送りは煙になって空に・・と、話していた。



また、松明でなく、線香を用いて迎える地域でも、煙にのってやってきて、また、お帰りになる、と・・。

その様子を見ていたS家も送りにお家から出てきた2人。

父親と次男さんもまた、藁の先っぽに火を点ける。

3本とも藁に火が点いた。

天を仰ぐような松明の状態が美しい。

燃える藁から煙も吹きだす。



空へ、空へと向かって、高く昇っていく先祖さん送りの松明火。

その状況を、熱い眼差しで見送る父と息子。

そこに用事を済ませた母親も一緒になって見送られた。



見送った直後、下のお家からご高齢の男性もまた先祖さん送りの準備をはじめた。

みなさん方は一斉にするわけでなく、時間差をつけて先祖さんを送っていた。

以前、取材した桜井市の北白木

在所に住むTさんが云った。

ここらは、藁松明に火を点けるが、お迎えも送りも鉦を打つ。

迎えであれば松明火の状態をみて、お家にあがって仏壇の線香を点ける。

逆に送る場合も鉦を打つが、松明火はカド庭に着いてからになる。

打つ鉦の音は、キーン、キーン・・・。

それと同時に迎えのときは「かえらっしゃい かえらっしゃい」。

送りのときは「いなっしゃれ いなっしゃれ」と云いながら送る。

そのときの鉦の音が聞こえてきたら隣近所もされる。

近くに鳴っていた鉦が、徐々に遠ざかっていく。

隣近所から、離れた隣近所へ。

鉦の音によってご近所に伝える迎え火に送り火。

鉦打ちは見られないが、ここ勝原も同じようにされているかのように思えた。



支度をはじめた高齢者は昭和8年生まれのKさん。

前回にお会いしたときは、真っ白な雪に埋もれていた日だった。

平成29年は2月11日、子どもの涅槃取材に向かう道すがらにお会いしたKさん。

丁度、そのときのKさんは、滑らないように雪掻き作業をしているときだった。

雪国でもない奈良県内で初めてみた雪掻き作業

その姿が逞しく、見惚れていたが、はっと気がつき、シャッターを押していた。

雪掻き道具はKさんの手造り。

それもまたえー感じだったことも思い出す。

雪国景観に出会ったその日から1年半後のこの日は真夏日のお盆

寒さから真逆の真夏日に、今日もまた、松明焚き姿も撮らせてもらった。

Kさんもまた着火型のライターで火点け。

直接、藁に点けるのではなく、丸めた新聞紙に一旦は火点け。



そして、藁に火点け。

乾いた藁松明は一気に燃えあがる。

一本の火点けから、もう一本。

3本目の藁松明も確実に火を点けた。



二毛作時代は麦藁だった。

油がある麦藁、燃える勢いも違ったそうだ。

明日は15日。

先祖さんは、西国浄土に帰るから・・・箱根八里は遠いから、とKさんはそう言いつつ、松明を燃やした。

つまり、13日は迎え。

14日に送って、15日は西国浄土にいる、ということだ。



その15日は、村行事の施餓鬼がある。

営みの場は勝原の薬師寺。

隣村の山添村毛原・長久寺住職にきてもらう。

真言宗東寺派の豊原山長久寺住職は京都住まい。

毛原、三カ谷に、ここ勝原檀家の営みがある場合に来られる。

先祖さんを送ったS家。

送る時間までに並べていたお供えも見せていただいた。



先祖さんには、白餅も供える。

ソーメン同様に柿の葉のせ。

山間地だけでなく、平たん部の民家でも見られる皿代わりの柿の葉を用いて供える。



それにしても何故に柿の葉にのせるのだろうか。

小正月に供える小豆粥は枇杷の葉。

チマキや団子は笹の葉。

すべて抗菌作用がある葉であるが、用途がそれぞれであるのは、何だろうか。

考えられるのはすべて常緑であるが、季節感は異なる。

その時季に間に合う自然の産物。

文明的な容器がまだなかった時代から、そうしてきたように思えるが・・。

次のお供えは昨日からの続きであろう。

大きな西瓜にマッカ瓜、カボチャ、胡瓜、茄子、ゴーヤなど同じだった。

あらためてお聞きしたS家のお供え。

13日の朝はない。

お昼はシンコで夜はおはぎ。

14日の朝は塩漬けのダイコ葉におかい(御粥)さん。

昼は野菜の煮ものにソーメン。

晩が餅。

そして先祖さんが帰らはるときには、中に餡を詰めたアンモチをもって帰らす。

今ではアンパンになったが、以前はアンモチだった。

いつ、持って帰ってもらうのか。



家族が寝る前におまして(※供えて)もって帰ってもらう、と話してくれた。

2日間に亘ってS家のお盆を取材させていただいた。

この場を借りて厚く御礼申し上げ、お外に出た時間帯は午後7時過ぎ。

赤く染まった夕景。



下弦の月は西の空にあるが、松明火に送られた先祖さんは、今ごろどこに行っているのだろうか。

(H30. 8.14 EOS7D撮影)

勝原・S家の先祖迎えの法要日

2021年02月08日 08時35分22秒 | 山添村へ
知人のSさんの了解を得てご自宅に伺う。

毎年の8月13日は、ご先祖さんを迎える盆の日。

S家の在所地は、山添村の勝原。

村の伝統行事に子供の涅槃がある。

平成21年は2月21日

該当する対象年齢の子供がいなければ、その年は行われない。

8年ぶりに伺った平成29年は2月11日だった。

ご縁を得て、村行事を取材させていただいた。

取材の一環にあがらせてもらったご自宅に、吊るしていた初めて見る形式に不思議を感じた。

後日、あらためて取材させていただいたまじない願文が「鳥枢沙摩明王 オンクロ ダナウウン ジャク ランラン」。

まず拝見することのない、貴重なお家のあり方だった。

そのときに話してくださった、S家のお盆。

先祖さんに供える朝、昼、晩の食事。

付随するサシサバも供える、と連絡をいただき伺った。

勝原は、13日が先祖迎えで、14日に早くも戻られる。

奈良県内では、一般的に13日が迎えで、15日が戻りであるが、勝原は、14日に早くも戻られる。

その理由は、後世に伝わらず、比較してはじめてわかった期間日程の件は、さておき、お迎えした先祖さんが戻って食べる朝、昼、晩の食事を教えていただく。



Sさんの母親が、話してくださる。

今年の迎え日、前日の12日。

法要に来ていただくお寺さんは朝。

お参りされて他家にも参られる。

本来は13日であったが、都合があった関係でお供えも前日になった。

仏壇の前に並べた先祖代々の位牌。

左横に配置したお供えの数々。

カボチャに黄マッカ、トマト、茄子、ニンジン、キュウリ、かぶら、万願寺トウガラシにゴーヤなどの野菜と乾麺タイプのソーメンは、サトイモの葉に載せている。

県内事例の数々を見てきた皿代わりの葉は、地域に或いはお家によって異なる。

ここS家は、サトイモの葉であるが、一般的にはハスの葉。

集落付近に蓮があれば、その葉をもらって、供えていると話す取材先もあれば、近くに蓮がないものだから、代わりにサトイモの葉をしているという取材先もある。

平坦であっても、山間地であってもサトイモの葉を敷くお家は多いように思える。

大きな西瓜は丸ごとのまま。いずれもS家の自家栽培の野菜、果物。



朱塗りの角盆に載せて奉っている。

その手前の角盆は母親手造りのおはぎ。

一枚の柿の葉におはぎが1個。

先祖さんに食べてもらうための箸はオガラ。

折って短くしたオガラは一膳ずつ。

六つあるから先祖さんも6人と思いきや、位牌が6柱です、と云われた。



なんでも、S家の先祖代々は江戸時代から続く家系。

たくさんある位牌を、一度、きちんと拝見してみたいと思っていましたから、と云われて御開帳。

母親と、ともに拝見した過去帳位牌の数々。

数えてみれば16柱。

尤も1柱は「惣法界菩提」だから、さらに古い、歴代の先祖さんを纏められた歴代碑であろう。



知人の母親とともに並べた歴代年順。

右から順に延宝五年(1677)、宝永元年(1704)、宝永二年(1705)、宝永四年(1707)、天明元年(1781)、天明四年(1784)、天保九年(1838)、天保十二年(1840)、文政八年(1825)、文政八年(1825)、萬延元年(1860)、嘉永六年(1853)、嘉永七年(1854)、明治十二年(1879)。黒ずんだ位牌の一部は判読不能だったが、少なくとも350年以上も前の位牌。

それ以前は不明なだけに惜しまれるが、建ててから300年にもなる、というお家は大和にどれくらいあるのだろうか。

取材地で聞くリフォーム。

すっかり様変わりした新しいお家に残したのは位牌だけのような話もある。

さて、モチ米で作ったおにぎりに餡子を塗したおはぎである。

昨今の隣近所は、おはぎから転じたアンパンと家もあるようだ。

また、おはぎでなく白い餅の家もある。

家それぞれのあり方である。

実は、本来晩に供えるおはぎであるが、取材のために用意してくださったのと、お昼にシンコをおましたから合わせて用意してくださったようだ。



おはぎは、同じように柿の葉にのせて、屋外裏カドのガキンドウに供えるが、食べ物だけにパックに入れてお供え。

オガラの箸も添えてやる供える時間帯は夜になる。

なお、おはぎは、13日、14日の両日とも供えるが、カギサンのおはぎは13日だけ。

14日は、ソーメンにお漬物にする。



仏壇から出した位牌の前にはおっぱんと呼ぶ御飯を三杯並べる。

その前もまた三杯のお茶であるが、お水は一杯。

これもまた、同じように両日ともおます。

お茶は、三度の食事ごとに、新しいお茶に入れ替え、古いほうのお茶は縁の下に捨てる。

14日の朝は、五つの野菜を入れたオカイさん(お粥)。

昼はソーメンにする。

朝に出かける墓参り。

14日の夕刻。

3本の竹に取り付けた藁松明に火を点けて、先祖さんを送る。

翌日の15日。盆棚に供したものは川に流していたが、それは昔のこと。

今は、セキトウバカ(石塔墓)に収めている、と話す。

(H30. 8.13 EOS7D撮影)