マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

柳町仲仙寺再訪

2015年10月31日 08時59分30秒 | 大和郡山市へ
大織冠に鎮座する鎌足神社がある。

推定、神宮寺とされる仲仙寺が建つ。

仲仙寺は天台宗延暦寺末。

平成23年6月に住職の任を授かった安寿さんがおられる。

この日は安寿さんが始められた地蔵供養があると知ったのは平成25年1月2日のことだ。

正月三が日は安置されている本尊の石造地蔵菩薩立像を特別開扉されていた。

寛文年間(1661~1679)に郡山城主の本多政勝が生駒の蓮台寺にあった本尊を遷したと伝わる。

高さはおよそ170cm。

丸彫りの地蔵石仏の手には金属製の錫杖がある。

大織冠の地は地蔵山と呼ばれている小高い丘。

そこに建つお堂は地蔵堂とも呼ばれている。

大和郡山市内の城下町に柳町がある。

商店街がある処だがこの地も柳町。

城下町からは遠く離れている。

文禄検地帳に記された新開地であった地蔵山は柳町の枝村であった。

安寿さんの話しによれば行政地は南郡山町と云うが、住宅マップで確認しても柳町である。

南郡山町の飛び地でもあるのだろうか。

ネットで所在地の698番地を調べてみた。

それを示したのは柳町であった。

南郡山町ではなく柳町なのである。

この日に訪れたのは安寿さんが始められたと云う地蔵供養を拝見したかったのだ。

初めてお会いした安寿さん。

今朝の6時に法要を済ませたと云う。

安寿さんの普段は修行を勤めている本山の天台宗延暦寺におられる。

毎月の地蔵供養の日には大和郡山に戻ってこられる。

当地にこられて数年になるが、大和郡山はまだまだ知らないことが多いとい話す。

法要を済ませた地蔵堂に上がってご本尊の写真を撮っても構わないと伝えられ、ありがたく撮らせてもらった。

仲仙寺には現役の梵鐘がある。

大晦日の除夜の鐘も搗いている。

昨年、とはいっても4週間前の大晦日は強風だった。

トンドを焚いていたが火が消える勢いでとても寒かったそうだ。

梵鐘に刻印がみられる。



「和添下郡柳町村大織冠」、「・・・仲仙寺現住法・・」などが判別できた。

梵鐘の刻印が記すように「柳町」で間違いなかったのだ。

反対側の打つ方には「享保十九(1734)年甲寅年慈光院住職・・・」が見られる。

かつての仲仙寺は地蔵堂でもなく北側に建っていたそうだ。

その地蔵堂とも呼ばれる現在の仲仙寺本堂は昭和37年8月に修築された。

芳志された人たちの名が記されている。

堂内に保管されていた函がある。

それには「大織冠念仏講備品(1969.8月吉日)」と書いてあった。

昭和44年には念仏講の存在があったようだ。

備品の中には大念珠がある。

それを使って数珠繰りを本堂下の境内で数珠繰りをしていると云う。

地域の人たちが集まって金魚すくいもしている。



「大織冠念仏講」の名は境内に建つ交通安全地蔵尊にもあった。

花立ての構造物に刻まれていた。

安寿さんの話しによれば、元々は外掘にあったそうだ。

埋もれていた地蔵石仏を掘り起こして旧道に遷した。

その後において仲仙寺へと遷ったという。

交通安全地蔵尊はその時点なのか、その後であるのか判らないが、昭和38年8月の地蔵盆を記念して祠を建てたようだ。

寄進発起人に当時の念仏講の名が記されている。

仲仙寺本堂修築の翌年のことである。



よろしければと拝見した伏し鉦は大小二つ。

鉦を打ったこともないと云う。

小型の伏し鉦は直径13cmであろうか。



裏を返せば「室町住出羽大掾宗味作」の刻印があった。

その下にあった大型の伏し鉦は直径23cmぐらい。

刻印は見られない。

どちらも撞木で鉦を打たせてもらった。

小型の伏し鉦はやや甲高い音色だが、大型鉦の音色はとても響きが良く心地いい。

付属してある紐を持って吊り下げて打てばなおさら心地いい。

安らぎを覚えるような音色である。

初めて音色を聞いたことに喜ばれた安寿さん。

今年の数珠繰りはこの鉦で打ってみようと云われた。

(H27. 1.24 EOS40D撮影)

DVDトレイの故障

2015年10月30日 16時02分54秒 | つうしん
突然のことだ。

東芝製のダブルチューナー地デジ付きビデオデッキのDVDのトレイが閉まらなくなった。

前日まではなにごともなく使えていたDVDデッキの型番はRD-Z300。

購入したのは平成23年の7月5日だった。

購入金額は36800円。

店頭販売品だったので安かった。

購入したとき、店員さんに勧められてK'sデンキの長期無料保証に入った。

保証期間は5年間と3年間があるが、販売価格によって決められる。

5万円なら5年間だが、RD-Z300は3万円台。

3年間になるのだ。

保証料金は購買価格の5%の1840円を支払った。

トレイが故障したのは加入してから3年半。

期限は切れていた。時限爆弾が装置していたかと思った。

思っていてもなおるわけがない。

買ったところに持っていくしかない。

切れた保証書を手にしてRD-Z300をお店に運んだ。

修理担当の店員さんは不在だった。

トレイ故障の具合を説明すれば預かると云う。

正式な修理見積もりは後日になるが、参考までに提示された修理費用は1万2千円。

それぐらいはかかるであろうと思っていた。

しかしだ。

トレイの不具合は閉めても数秒経てば開くという具合だ。

何度トライしてもそうなる。

ちなみに今まで使っていた記録済みのDVDを装着しても同じである。

DVDそのものには異常がない。

開閉がおかしいのだ。閉じても「開け」の命令が下されるのである。

おそらく接点部分がおかしいのであろう。

預かってもらってから数日間。

25日に故障具合と修理見積もり金額の連絡があった。

なんと17820円である。

DVDRAM装置をまるまる交換とくる修理代。

これって修理というよりもパーツの交換代である。

メカニカルな部分の修理をできる技術者はいない。

職人と呼ばれる人もいない時代。

いまどきの修理はこんなもんだと思う。

ちなみに同一事象の再発故障であれば向こう3カ月まで無償修理するというが、故障するのはそれを過ぎてからであろう。

その後の29日に修理が終わって戻ってきたと連絡があった。

支払いは確保していたJCBクレジートカード。オリコカードのポイントを溜めている。

一年間でそうとうな金額を支払っておればポイントも溜まる。

年に一度はポイント還元に注文するJCBクレジートカードは現金扱い。

まさかのときのために使っているありがたいポイントサービス。

支払いは15000円。

残額はクレジットで支払った。

戻ってきたRD-Z300のケーブルを接続するが、どれがどれだか判らなくなった。

一度セットすれば忘れてしまう接続ケーブル。

なんとか差し込んでテレビが写った。

記録していた録画映像も正常に写る。

修理の際に伝えられていたRAM映像は消えていなかった。

(H27. 1.20 SB932SH撮影)

中畑町日浦垣内のとんど

2015年10月29日 08時51分11秒 | 奈良市(旧五ケ谷村)へ
日浦垣内に向かった知人から電話があった。

とんどの火点けが終わってモチを焼いているという。

中垣内からはそれほど遠くない。

歩いても10分程度だ。

先を割った竹に挟んでモチを焼いていた。

以前は先にモチを挿して焼いたこともある。

焦げてポロリと落ちることもある。



いろいろ工夫して今では「ハサンバリ」にしてモチを挟む。

直接、火にあてるのではなく、下火になった処で焼く。

表を焼いて裏面も焼く。

「あんたもすれば」と云われてハサンバリを受け取ってモチを焼く。

ふっくら焼けたモチは甘い。

何もつけていないが甘いモチ。

うちで採れたモチゴメは山から流れる水が奇麗から美味しいんやと云う。

9時ころになってようやく朝日が差し込みだした日浦垣内。



そういう地である垣内名に納得する。

しばらくしてとんどを終えた村人たちは初集会の会合に参集される。

とんどは山を下った近隣村の北椿尾町にもあるが、こちらは2月11日の祝日だ。

一方、高樋町や興隆寺町では1月の成人の日だという。

地区によってまちまちなのだ。

日浦垣内のとんど取材を終えて向垣内辺りに戻る。

そこに居られた老婦人が小正月の話しをしてくださる。

とんどの日にはアズキ粥を炊いて家に供えていたらしい。

出里の柳生忍辱山ではクリの木にモチを付けて焼いていたとも。

ちなみに寒の入りの小寒の日は自宅に祀っているオイナリサンにアブラゲ御供をしているともいう。

そんな話しもあるが、勧請縄掛けのときに村神主にお願いしていたゴーサンが神社社務所に置いてあるという。

ありがたい伝言である。

村の鎮守社の春日神社に立ち寄った。

社務所の外に頼んでいたゴーサン一式がある。

余ったらしく5セットもあった。



版木で刷ったと思われる「春日神社 八阪神社」のごーさん札。

牛玉の朱印を押しているが、左右にある文字は判読不能だ。

ウルシの木の先をT字型に割って挟む。

稲穂付きの松苗とともに苗代水口に立てると老婦人が云っていた。

(H27. 1.18 EOS40D撮影)

中畑町のとんど

2015年10月28日 07時30分21秒 | 奈良市(旧五ケ谷村)へ
1月8日に勧請縄掛けをされた奈良市中畑町。

3カ所でとんどをすると聞いて訪れた。

中畑町は上出、向(茶屋)、中垣内(中組)、日浦垣内、雀垣内の5垣内。

とんど場は上出、中垣内、日浦垣内である。

向垣内と雀垣内の住民は中垣内と合流してとんどをされる。



家で飾った正月の注連縄を持ってくる住民。

とんど場に運んできた。

場には伐採した笹葉付きの竹を運んでとんど組みをする。

1軒あたり2本の竹を持ってくると云う。

現在のとんど場は田主を承諾を得て田んぼでさせてもらっている。

その昔はここより下の地道の真ん中だったそうだ。

今では3週目の日曜日になったが、かつては2月15日だった。

いつしか1月15日の小正月に移った。

「薮入りのときやった。その日はとんどでモチ焼きをしていた」と話すから16日であったかも知れない。

15日は成人の日の祝日であったが、ハッピーマンデーが施行されるようになって集まりやすい日曜日にされた。



とんど組みを終えたら火点け。

おもむろに始まった。

一気に燃え盛るでもないとんど。

長い竿竹のように突っ込んでとんどに風を入れる。

なかなか燃えることないとんどに灯油をぶち込んだ。



一挙に上がったとんどの火だ。

かつては子供が書き初めの書を燃やしていた。

学校に出かける直前にしていたが、子供がいなけりゃそういう風習は見ることもない。

下火になれば食べたら無病息災になるというモチ焼きもしていたそうだが、2年前に中断したらしい。

中垣内のとんど場より北に位置する上出から煙があがった。

とんどの場を求めて車を移動したが停車する場がない。

名阪国道を跨がる処まで行ってしまった。

ガソリンメータはランプが点灯する。

どうもこうにも・・戻るしかない中畑は旧五ケ谷村の最上流部だ。



諦めて戻った中垣内のとんど場では、垣内の人たちが鎮火するまで見届けていた。

残り柿がわずかにあった。とんどは残り火。

暖をとっている様子を遠くから眺めていた。

(H27. 1.18 EOS40D撮影)

奈良県における民俗芸能の保存と伝承in西大寺サンワシティビル5F

2015年10月27日 08時38分27秒 | 民俗を聴く
奈良民俗文化研究所代表の鹿谷勲氏からメールが届いた。

なんでも近鉄西大寺駅近くのビルに出向いてほしいというのだ。

それも著書の『奈良大和路の年中行事』を何冊か持ってきてほしいという願いである。

何のことかさっぱり要領を得ない伝言に電話をかけた。

どうやら鹿谷氏はある会に頼まれて講演をするようになったようだ。

鹿谷氏が発刊した著書『奈良民俗紀行 西大和編』がある。

どうやら会の人からも頼まれたようで、会場販売をするようだ。

販売価格の設定は両者とも一致しておくことで決まった著書販売。

十数冊をバッグに詰め込んで会場に向かう。

場は西大寺サンワシティビル5階だ。

着いた時間帯は少し早くて設営中だった。

その場におられたご仁。

どこかでみたような・・。

思いだした。平成24年3月22日に霊山寺の食事処でお会いしたNPO法人奈良ソムリエの会・保存継承グループ理事の鈴木英一氏だった。

鈴木氏が云われたのか、それとも鹿谷氏が云われたのか、二人の著書を聴講生に是非ともというわけで販売することになったようだ。

事前に案内された参加者募集にあるテーマタイトルは「滅び行く奈良の民俗芸能」だ。

鹿谷氏が講演するテーマはこれだったのだ。

ちなみに当日配布する資料はまだ届いていない。

直に鹿谷氏が持ってこられるとのことだ。

受付・聴講席が整備されたころに到着された。

この講演は無料ではない。

資料代として500円。

ただたんに著書も持ってきただけで帰るわけにもいかない。

むしろ鹿谷氏がどのような話題提供をされるか聞きたくなって聴講することにした。

著書はいつどこで販売するのか。

受付である。

聴講生が目につくように手造りのPOPパネルを持ってこられた鹿谷氏。

両著書を受付テーブルに並べたら早速手にした受付嬢。

頁を広げて食い入るように見られる。

興味が湧いて買いたいといった人は6人。

少ないか、多いかは別にして、買ってくださる人がいることに感謝する。

さて、講演だ。

資料のタイトルは「奈良県における民俗芸能の保存と伝承(1)」とある。

(1)とついているから2回目もある。

始めに「正月ットンどこまで くろくやまのすそまで おっかえりおっかえり おっかえりの道で かんころうにであって ちょっと手水へかくれて びっちんくそですべって かったんくそで鼻ついて あーくさツン ツギ屋のおばんに ツギもろて ツーンとかんだら ようなった」を唄う鹿谷氏。

正月の唄は大和高田市に住む男性が母親から聞いた唄だそうだ。

正月ドンが遠くから家にやってくる様相を子供が歌うわらべ唄だ。

二上方面、香芝町史によれば詞章が若干ことなるものの基本的なキーワードが同じ唄がある。

正月ドンはなぜにうんこまみれになるのか。

便所を綺麗にしたら綺麗な子供が生まれると信じられた。

正月ドンは出産、誕生を意味しているのでは、と投げかける。

この話しを聞いていて昔のことを思いだした。

小学生のころに囃していた唄がある。

「みっちゃん みちみち ばばたれて・・・」だ。これは何を意味するのか。

正月の神さんを正月サン、歳徳サンと呼ぶことが多い。

いわゆる年神サンだ。

神迎えの行事にフクマル迎えがある。

神さんを迎える砂の道がある。

これもまた正月サンを迎える行為である。

逆にトンドは迎えた年神サンを天に戻ってもらう神送りの行為だ。

正月にまつわる食事がある。

一つは一部の地域であるが、奈良県内しか見られないきなこ雑煮である。

山添村、奈良市山間東部、桜井市の座でよばれたことがあるきなこ雑煮は独特な食べ方はマメの文化だと云われる。

話されたことをメモ筆記していたが文字は判読できないが紹介しておこう。

松の内のツチヒキである。

目出度いときに亡くなる人がある場合は、ヨコヅチで叩いた縄をかけてずるずる引っ張る。

春鹿酒造ではカケヤを引っ張ることをツチヒキというらしい。

元興寺町の風習にも似通ったようなものがあり、伊勢音頭を歌いながら引っ張っていたらしい。

ツチヒキは死者の連続を恐れるまじないの一種。

何らかの民俗神と思われるが、地域の神社には登場せず、風習に現れる。

次の項目は大和万歳だ。

正月などに目出度い言葉で唱える「祝福芸」。

元は「千秋万歳」になるようだ。

14世紀、すでに知られた存在だった大和万歳は宮中にも参内した。

江戸時代、京都・大阪を巡って京都御所・所司代、大阪城代へと広がる。

大和万歳は安堵町・窪田と広陵町・箸尾の二系統があった。

宮中参内は大正末期まで続いて昭和30年に奈良県文化財に指定された。が、伝承は続かず昭和52年に指定解除される。

その後、装束、道具など一式が寄贈され奈良県民俗博物館に保存された。

その後の平成24年に有形民俗文化財として新たに指定された。

鹿谷氏が云うには、太夫と歳三の二人一組。

春日おん祭に奉納される細男(せいのう)が着用する白装束だった。

また、丸に橘の紋があったと話す。

三つめの項目は民俗芸能とその特質だ。

プロ集団ではなく、土地に暮らす人々が自ら育てて伝承してきた演劇、舞踊、音楽など、それらの要素を備えた儀礼や行事等は郷土芸能、郷土芸術の呼称であったが、昭和30年代初めに日本全体を考えて民俗的な特色をもつ芸能として「民俗芸能」と呼ばれるようになった。

ちなみに民俗芸能はフォークロア。民族芸能はエスノロア。

諸外国の民族音楽や舞踊がある。

日本の民俗芸能も世界レベルのグローバル感でみれば日本の民族芸能になる。

太鼓踊りは村の決定で行われる。

費用も村の持ち出し。プロ集団ではなく村人が演じる踊りは民俗芸能だ。

各地に出向いて商売として行われている太神楽はプロ集団。

吉野町の国栖奏は外にでることはなく、村の氏神さんに奉納する芸能だ。

国栖以外の人がしてはならない地域の伝統芸能である。

次の項目は民俗芸能の種類。

1.神楽に巫女神楽、出雲流神楽、伊勢流神楽、獅子神楽(かつて神楽廻しと呼んでいた)。
2.田楽に予祝の田遊び、御田植神事。
3.風流に念仏踊、盆踊、太鼓踊り、鞨鼓獅子舞、小唄踊り、綾踊り、つくり物風流、仮装風流、練り風流。
4.祝福芸に来訪神、千秋万歳、語り物。
5.外来派に伎楽、獅子舞、舞楽、延年、二十五菩薩来迎会、鬼舞・仏舞、散楽、能・狂言、人形芝居、歌舞伎が挙げられる。

次は太鼓踊りだ。

太鼓踊りは風流。華やかな飾りを付けて嫌なものを追い払う。

イベント等で披露されている創作太鼓は民俗の中に含まれない。

太鼓踊りの名がついているように太鼓はつきもの。

現在、残存している古いものがある。

徳治三年(1308)がある吉野吉水神社、正和五年(1316)・文安元年(1444)・貞和三年(1347)があるは唐招堤寺、慶長十九年(1614)がある奈良市十輪寺。

太鼓は寺の法会に用いられた。

太鼓は呼び出しにも使われる。

ホラ貝も同じでもっと緊急な場合は半鐘になる。これらはいずれも連絡手段である。

太鼓踊りの呼称はさまざま。

神をいさめ・願掛けのイサミ踊り(勇踊・諌踊)、南無阿弥陀仏のナモデ踊り(南無手踊・南無天踊)、雨乞い踊り、願いが叶った願満踊り、ナラシ(セ)踊りなどだ。

確か京都南山城村の田山では花踊りだったような・・・。

歴史的な調査は古文書や奉納絵馬が挙げられる。

在所が判る一例、文明三年(1471)八月の「経覚私要抄」に「・・八島(奈良市八島)ヲトリ在之、雨乞・・」とある。

永禄十年(1567)七月の「多門院日記」に「・・布留宮(石上神宮)祈雨オトリノ用意道具・・」がある。

文禄三年(1594)八月は「布留之社祈雨曜・・・」だ。

鹿谷氏の資料に出展が書かれていなかったが、年代と所在地が判る記事がある。

桜井市大神神社の太鼓踊りは寛文十二年(1672)・貞享四年(1687)・寛保三年(1743)。

「大安寺文書」にある春日大社付近は寛政元年(1787)・同二年(1788)・同五年(1791)・同六年(1792)・同九年(1795)があるそうだ。

付近というのは春日大社ではなく近くの所在地を巡ったという行程だ。

寛政元年の行程は、たちから→うねめ宮→南大門→十三かね→大鳥井→まつの下→御たび→ひゃうし神江戻り橋の下とあるそうだ。

絵馬が残る地域は享保八年(1723)・宝暦二年(1752)・文政四年(1821)の高取町下子島・小島神社、宝暦六年(1756)の安堵町東安堵・飽波神社、天保十三年(1842)の川西町結崎・糸井神社、嘉永六年(1853)の明日香村稲淵・飛鳥坐宇須多岐比売命神社がある。

現在、中断になった現行太鼓踊りもあるが直近までは以下の在所で行われていた太鼓踊りを列挙する。

奈良市大柳生(2007年から三垣内合同→2012年を最後に中断)、奈良市旧都祁吐山、奈良市月ヶ瀬石打、宇陀市室生大野がある。不定期在所は下市町丹生、吉野町国栖、川上村烏川がある。

次は盆踊りであったが、時間不足で詳細解説は見送りの時間切れ。

十津川、旧大塔村阪本、川上村の盆踊りもあるが、サシサバや橿原市東坊城のほうらんや、奈良市八島・安堵町東安堵などの六斎念仏、奈良市田原の祭文音頭も聞きたかったが・・。

続きは2回目に廻されるかも知れない。

盛況に講演が終わって一息つく講師と主催者。

甘いものを食べたいと云って場所を移動する。



近鉄ビル2階にある甘処は「はんなりかふぇ・京の飴工房」こと「憩和井」だ。

私はキナコアイスを注文した。



これが美味しいのである。

男性3人とも頼んだ甘味に満足する。

このような機会を作ってくださった両氏にお礼は言うまでもないが、嬉しさもあって進行役を務めた鈴木英一氏に一冊を献本した。

なにかのお役に立てていただけば幸いだ。

(H27. 1.17 SB932SH撮影)

豊井町田んぼの御供

2015年10月26日 07時30分03秒 | 天理市へ
小正月の早朝に何本かのカヤススキとカガミモチ、アズキ粥の御供を苗代田に供える家がある。

この日は前夜から降りだした雨も止まず、である。

そのような場合はどうされるのか。

その状態を拝見したく訪れた天理市の豊井町。

雨に打たれたカガミモチを包んでいたと思われる半紙がぼろぼろになっていた。

付近にはダイダイがある。

カラスがモチを食べたと思われる残状態。

カヤススキは見られなかった。

この日に到着した時間は6時50分。

田主が来られるかもと思って、ずっと待っていた1時間。

諦めた。

(H27. 1.15 EOS40D撮影)

椎木西の日待講

2015年10月25日 08時45分34秒 | 大和郡山市へ
初集会を兼ねて日待ちをされている旧村行事の県内事例は多い。

いくつか拝見させていただいた日待ちに掲げる掛軸はアマテラスオオミカミ。

ご神号の「書」もあれば、雨宝童子像もある。

場合によっては三社託宣のお軸もある。

この日の初集会の寄り合いに掛軸を掲げると聞いていた大和郡山市の椎木(しぎ)町。

暗くなる午後6時より始められる。

場は椎木町・西の新公民館。

平成4年に建てられた。

寄合の場に掲げていた掛軸は八神だ。

上段中央に天之御中主大神。

右側に高皇産霊大神。

左に神皇産霊大神の三神。

中段は右より國之御柱命、天之御柱命、天照大御神、須佐之男命、大國主神の五神。最下段は天神地祇八百萬神であった。

左側に「龍田神社宅司□□渡邊重春謹書」とあることから龍田神社の宮司であったろう。

が、謹書年代を示す文字は見当たらなかった。

八神の掛軸を納めていた軸箱は黒光りだ。

年代的には相当古いように思える。

もしかとすれば江戸時代であるかもしれない軸箱。

僅かであるが墨書文字で「御宮教會御佗宣箱」と書かれていた。

集まったのは日待講と呼ばれる村の人たちだ。

「おめでとうございます」と新年の迎えた挨拶をされて席につく。

講中は廻り当番が差し出すお茶をいただいて全員が揃うのを待つ。



神職は登場することなく講の代表が前に座って祓いの儀をされる。

祝詞は「身禊大祓」。

講中全員が声を合わせて八回(八神)奏上された。

これよりは講中の直会。

席に配膳されたパック詰め料理をいただく。

汁椀は潰した豆腐を入れたトーフ汁。

昔は砂糖を入れた甘い味だったそうだ。

パック詰め料理の前は各家が家で作った料理を「ゼン」に盛った。

「ゼン」は「膳」のことである。

今でも変わらないのは漬物だ。

(H27. 1.12 EOS40D撮影)

北妙法寺のツナクミ・蛇巻き

2015年10月24日 08時11分15秒 | 橿原市へ
昭和59年から2年間もかけて調査記録した奈良県教育委員会発刊の『大和の野神行事』報告書がある。

その史料では橿原市北妙法寺町のノガミ行事を「ノガミサン」と書いてあった。

農の神とされるヨノミの木に巻き付けるジャ綱である。

かつては旧暦2月7日であった。

いつしか新暦の正月7日に移った。

今では集まりやすい第二日曜日になったノガミサン行事を村では「ツナクミ」と呼んでいる。



およそ20mの長さの蛇の胴体ができあがれば、耳や口もある蛇頭を取り付ける。

運搬用の金属製梯子の上でぐるぐる巻きにして調えた。

ジャができあがれば公民館で一時間ほどの休憩をとる。



「奉納」文字は幣に括りつける。



まずは見本に隣についたお爺さんがカマやスキ、クワを書いていく。



子供たちは見よう見まねで牛の姿を描く。

双子の女児はツナクミを見ていた二人だ。

小学校低学年の子供の腕では牛に見えるような・・とも言えない牛の姿。

愛嬌がある姿は奉納の絵馬である。



こうでないという特別な決まりもなく子供たちは自由奔放に書をふるう。

枚数も決まりはないが竹の幣に挟める程度にしているようである。

北妙法寺町では今月末に初庚申が行われている。

平成26年1月に取材させてもらったときだ。

気になっていたモノがある。

「和州小泉庚申堂」の文字があった青面金剛像の掛軸の奥にあった木の棒である。



それには「奉修大青面金剛尊七難即滅七福即生交通安全祈攸」の文字があった。

上五段は梵字。

県内事例から推測するに「キャ、カ、ラ、バ、ア」。

「すべては万物から成り立っている」とされる「地、水、火、風、空」であろう。

材は硬いサンショの木に違いない。

現在の庚申講中ではなく、昔の講中がしていたようだとTさんは云った棒は初庚申の際に奉っていたのであろうか。

横に大和小泉庚申堂の祈祷札がある。

かつては小泉の庚申堂に参って受けてきたお札であるが、現在は「ならまち」の庚申堂に参っているようだ。



蛇、幣、絵馬ができあがれば集落南にあるヨノミの大木に運んでいく。

蛇を巻き付ける場は八釣川の畔に立つ巨木のヨノミ。

一年前に掛けた蛇は残したままで外すことはない。

昨年の取材の際に聞いていた道中の在り方。

蛇を巻きつけたままの人を近鉄電車付近にあった壕に放り込んだと話していた。

この日も話題になったかつての在り方。

嫁さんが来た家とか婿養子が来た家に出向いて土足で家まで上がり込んで家人に蛇を巻きつけたそうだ。

隣村の地黄町の近くまで蛇を持ち込んでいたともいう。

昔の蛇運びは夜6時ころだった。

運ぶ際には村人と顔を合わせないように出かけた。

今では公民館前でツナクミをしているが、昔は「トヤ(当家)」の家の前でツナクミ作業をしていた。

トヤ家では接待があった。

子供のころだと思いだす村人の記憶はお神酒にツキダシがあったようだ。

お神酒は蛇の口に注いだ。

蛇がまるで飲むような感じだったそうだ。

着いたらヨノミの木に梯子を掛けて昇って蛇頭をロープで縛るトヤ(当屋)さん。

充てる漢字に変化が見られる。



幣・絵馬はアキの方角に取り付ける。

この年は西南西である。

お神酒を蛇頭に垂らして樹上の作業を終える。



それから胴体をぐるぐる巻きにする。

その姿はまるでジャ(蛇)が天に昇っていくように思えた。



蛇を巻いた場は村の入り口。

疫病が村に入ってこないように、祈願の意味が込められているのだろう。

(H27. 1.11 EOS40D撮影)

名残の砂の道

2015年10月23日 08時29分49秒 | 大和郡山市へ
大晦日に敷いた大和郡山市白土町の砂の道は正月を過ぎても残っている。

境内は一直線。

簾型の注連縄を懸けた鳥居を潜ってなお続く砂の道である。

二手に分かれた砂の道。

一方はずっと先の集落まで続いている。



こうした「砂の道」の痕跡状態を探ることも民俗調査のひとつ。

前年は2カ月間も残っていたことを付記しておく。

(H27. 1. 9 SB932SH撮影)