マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

続、森の行事

2010年10月31日 07時31分01秒 | 高取町へ
高取町の森に住むEさん70歳。農作業を営む傍ら鶏を育てている。

白い鶏はめでたいと言ってお伊勢さんに奉納されたこともある。

当主は5月5日にタネを撒いて苗を作る。

田んぼに水を引いて苗代作り。

それが終わった8日は久米れんど。ヨモギのモチのアンツケモチを作る。

家の阿弥陀さんに供えて向かいの永明寺にも供える。

各戸が持ち寄るらしいが数は判らないという。

久米れんどは畑仕事の休日の日。

ねんどのモチはノドが通らんという。

休息の日を迎えたあとは農作業が始まる本番。

田んぼを歩いた足型は窪んでいる。

そこにオタマジャクシが残ってしまう。

それはカラスの格好のエサになるのだと話す。

正月を越して春になったら山菜採り。

田植えが終わればシメジ採り。

秋はギンナンを拾ってくる。山へはシシ狩りにも行く。

自然のサイクルに合わせた営みをしてきたEさん。

その恵みをよばれてきた暮らし。自然と上手につきあうことが大切だと話す。

そのEさんが語った。森辺りは飛鳥の墓村やったという。

その周囲には薩摩、土佐、兵庫、吉備などの地名がある。

これらは飛鳥の宮を造る際にやってきた各地の人たちが住んだ処だ。

こういう県外地名は大和郡山市にも見られる。

城下町を形成するにあたった新庄町、丹後庄町、美濃庄町もそれと同じことなのであろうか。

(H22.10. 1 記)

高原の話し言葉

2010年10月30日 08時23分41秒 | 民俗あれこれ
高原の話し言葉が面白いんじゃと話す一人のK神主。

「キョウトコイ」は怖いの意だという。

京都は遠いが根元で「キョウトイヨー」と言えば手がだせんことになるそうだ。

「ドウコウナイ」は「ドッチュコトナイ」で「ドウッテコトナイ」が訛っていったとされる。

話せば次から次へと沸いてくる。

Yさんらも一緒になって話し出した。

同年代を呼ぶときは「イドー」という。

「イドラリー」となれば「なしとんよ」と声を掛ける言葉がある。

グルグルしている人だかりがあれば「イドラー ナニシトンヨ」となる。

それは一人の時でも使うそうだ。

「イドー」は「貴殿」が訛ったんじゃないかと仰る。

「貴殿」はキデン、キデ、イデ、イダ、イドと変化していったと考えれば面白い。

「ハヨシモテヤ」は別れの言葉。

「ハヨオシマイ」とか「ハヨシマイ」で別れる。

先輩には「ハヨシモテヤ」と優しくいう。

こんなの他では聞いたことはないやろと言われたのが「ガイ」。

「そんなに“ガイ”にせんでも」という。こりゃ判らん。

「ガイ」は「キツイ」ときに使うそうだ。

もっともっとユニークな高原語が出てきそうだが今夜はここまで。

(H22. 9.30 EOS40D撮影)

高原十二社氏神神社宵宮餅搗き

2010年10月29日 07時27分42秒 | 川上村へ
一日中小雨が降る日だった。

川上村高原は標高千m以上の山々に囲まれている。

急峻な山道は濃いガスで前方が見えない。

まるで山の神に覆われているように感じた。

それを越えるとさっと消える。

ある一定の標高だけに発生する現象だという。

十二社氏神神社では明日の秋祭りに際して役員たち総出でモチを搗く。

一石二斗のモチ搗きは長時間要する。

雨の夜でもテントを張れば支障はない。

餅米は4基のガス釜で蒸す。

かつてはクドさんと呼ばれる竈で蒸したそうだ。

大きなゴトクに釜を乗せ薪木でくべた。火に勢いがあったという。

蒸した餅米は木臼に入れる。

ほっかほかで湯気がでる。

杵でぺったんぺったん搗いていく。

できあがったモチは棒モチに伸ばす。

これをネコと呼んでいる。

婦人たちに混じったモチ切りの男性は巧みな包丁さばきで切っていく。

これをキリモチと呼ぶ。

それらはザルに入れて草履を履いた神社役員が本殿前に持ってあがる。



何度かキリモチを作られたあとモチ搗きは神主に替わった。

白装束を身につけた神主はモチ搗きの前に祝詞を奏上された。

本殿や小宮さんに供える神聖なモチ搗きは神主の役目。

合いの手の声が聞こえないと搗く息が合わないという。

ぺったんぺったんのモチ搗きの音。

そのうち伊勢音頭が飛び出した。

バチを手にした大目付が太鼓を打つ。

くりだす唄は伊勢音頭。声を揃えて大合唱になった。

「けさのでかけた ヨー(ヨイヨイ) おうぎをひろた おうぎもめでたい ヨー(ソウリャ) ありゃすえひろいよ (ヨーリャーヨートコセー ヨイヤノ アレワイヨーイ コレワイヨーイ ソリャヨーイントセー」の囃子が搗くリズムに心地よい。

掛け合いをして唱うのが伊勢音頭なんだと村人はいう。

その伊勢音頭は伊勢参りの道中歌だった。

向こうの白屋山(しらややま)を越えて井光(いかり)や武木(ぶぎ)の尾根つたいに越えて、伊勢街道を歩いて行った先は三重県だったと話す。

道中で唱っている人に出会ったら掛け合いをしたそうだ。

伊勢音頭は根太のような石を打つ際にも唱われた。

それは石搗き唄とも呼ばれたそうだ。

新築のときに歌う唄だ。

嫁はんに来てもろうたとき、逆に娘を嫁入りさせるとき。

結納のときもそうだ。

祝うときに必ず歌うのが伊勢音頭だと話す。

「伊勢と大和の境の松はホダは大和で根は伊勢」と歌ったそうだ。



そうこうしているうちにモチが搗きあがった。

これを大きなモチと小さなモチに丸めていく。

二人の神主は手際よく作っていく。

大きなモチは鏡餅。本社に供える。

カサモチと呼ばれる小さなモチは小宮さんに供える。

すべてが出来上がったのは夜遅く。

後片付けをして明日の祭りの準備に移った。



今夜の婦人も交えてのモチ搗きだった。

かつては男性だけで行われていたモチ搗き。

当時は十二人衆制度によるものであったゆえすべての段取りは男性だけだった。

十二人衆の上に神主。

その上は大目付。

それはデンガミさん(デンガンとも呼ぶ)と呼ばれる頂上人。

漢字で「先神」と書かれる。

平成6年を最後に解体したその制度。

その名残はモチ切り人に残されているようだ。

(H22. 9.30 EOS40D撮影)

大和郡山を一望できる景観地を求めて

2010年10月28日 09時08分56秒 | 大和郡山市へ
大和郡山市内を遠望できる景観地を求めてロケハンを重ねてきた。

高いところから眺めるには矢田丘陵。

その尾根まではちょっときつい。

少しさがって松尾山。まつのーさんと呼ばれている。

その懐には松尾寺がある。

高台にあがってみても樹木に遮られて市内が見えない。

一応は見えるのだがレンズ内には僅かな隙間。

とてもじゃないが写真にならない。

山田町麓まで下った。

そこにはかろうじて見える市内の世界が目に入る。

市内中心部は市街地。

ビル街になっているが、なんとかレンズに納めた。

郡山の昔の風情はそこにはない。

それではと矢田寺を目指した。

寺内ではとうてい見えない世界。

駐車場から眺めてもこれもまた写真にならない。

山から眺めることを諦めた。

(H22. 9.11 EOS40D撮影)

そうなれば、西から東の方角を見たらどうだろうかう。

今年の春にオープンしたイオンジャスコの駐車場屋上から眺めてみた。



矢田丘陵を遠望したがこれまたどうにもならん。

レンズは駐車場ばかりが映し出される。

しからば筒井ではどうだろうか。



高い施設と言えば中央卸売市場。

駐車屋上からも遠望してみたがこれまたどうにも・・・。

ビル街に遮られて遠望すらできない。

高いマンション群が市街を埋め尽くしている。

(H22. 9.14 EOS40D撮影)



後日にアピタの駐車屋上も試してみたが駐車場ばかりが目立った景観だった。

(H22. 9.20 EOS40D撮影)

今日は朝から雷に雨。昼も雨だった。

だが、夕方にはようやく雲がすくなくなり・・・。

郡山と言えば金魚養魚池の田園風景がある。

新木町、小南町、豊浦町は稲田と金魚池が相まって素敵な景観がみられる。

もっとも美しい田園風景が広がっている地域だ。私が思うには・・・。

狭い通り道に点在している金魚池が気になっていた。



夕日が矢田丘陵を落ちていく。

夕日が池を照らす・・・。

それを狙っていた。

その残照は緩かった。

夕焼けまでとはいかなかったが情景は好みに入る。

レンズは遠くに矢田丘陵。

手前は金魚池。

すっかり暗くなった。



少し目を傾けるとそこには簾があった。

金魚を出荷する大切な道具だ。

被写体は暗い。

そこでストロボを当てることにした。

(H22. 9.23 EOS40D撮影)

前日だった昔宵宮

2010年10月27日 07時48分39秒 | 大和郡山市へ
八条町の子守神社辺りは環豪集落。

数年前に市のほうで濠は綺麗に整備された。

八条町を通過する古代の街道が下ツ道。

春や秋の季節には多くのハイカーが下ツ道を訪ねて神社に訪れる。

北からは西大寺から、南は橿原市から歩いて来るという。

その際に食事をとらせてほしいと頼まれるそうだ。

そのときには華厳寺の庫裡を開けて会場を提供する。

もてなしはなにもしないがハイカーたちは一人100円程度の謝礼を置いていくらしい。

嫁取橋などの伝説がある八条町。

その歴史を味わってほしいというもてなしなのだろう。

その神社では昔宵宮が行われている。

毎年9月22日だそうだ。

夕方に菅田神社が神事を行う。

30分ほど休息の時間。

夕食をよばれるらしい。

そのあとは村人たちが楽しみにしているお神楽が行われる。

孫を連れていくというYさん。今年は注射をうったので遠慮された。

楽しみにしていた孫はとても残念がっていたという。

巫女さんは二人。

同町では子供が少なくなってきたのでお神楽で祓ってもらう人が少なくなっているという。

秋祭りの御輿曳きも短くなって鳥居と神社を行き交うだけになった。

同神社の横にあるのは華厳寺。

春と秋の彼岸には彼岸講の人たちがお堂に登って法要を営まれる。

今年は雨が降ったせいか少なかったそうだ。

夏は施餓鬼、冬にはお十夜があるという。

(H22. 9.23 SB932SH撮影)

都祁相河観音寺の寺会式

2010年10月26日 07時27分50秒 | 奈良市(旧都祁村)へ
祭壇にずらりと並べられた野菜で作ったオソナエ。

ところは都祁相河の観音寺。

日が落ちる頃に当番の人たちが供えていく。

キュウリやナス、ピーマン、ジャガイモ、ウリ、タマネギ、トウガラシ、ゴーヤはいずれも自家栽培された野菜だ。

夏野菜が終わるころなので集めるのに苦労したという当番。

以前は朝から本堂に集まって作っていた5人の当番。

一挙に作るのが難しくなって現在は各家で作っている。

何体を作るかは特段決まっていない。

前日から思い思いに思考して作った野菜の御供は精進供(しょうじんく)と呼ばれている。

奥さんや子どもたちが手伝って作るというから当番家の共同作業だ。

相河は18軒の村。

家の並びの順になる5人の当番は3、4年に一度やってくる。

夜八時には小山戸から住職を迎えて法要が営まれる。



風呂敷を手にした男性たちは本堂にあがって持参した寿司を祭壇に置く。

以前は各家で作っていた巻き寿司。

面倒になってきたことから寿司屋で買ったものをお重に詰め替えている。

フルーツなども入れたお重もある。



灯明に火を点けて始まった寺会式。

住職の読経が静かな堂内を包み込む。

ご本尊が観音さんであることから観音会式とも呼ばれている寺会式を終えた後は総代や会計の報告の場となる。

寺会式は地区の会合でもある。

食事はといえば頼んでいたパック詰め料理。

お下がりの酒とともに飲食を共にする男性陣。

出席は家長と決まっている。

総代など役員を勤めた後は引退して長男に継ぐ。

30歳代になった接待当番は始めての接待に忙しく振る舞われた。

12日に行われたのは薬師こもり。

村外れの薬師さんに婦人たちだけが集まって寿司などのご馳走をよばれる。

その際には持ってきた寿司を少しずつ薬師さんに供えて残りを食べるのだが、寺会式では供えた寿司は手をつけずに持って帰る。

多生異なる作法だが、両日は女性と男性は別々に行われる行事だ。

どちらが先にされ始められたのか判らない。

野菜御供もさることながら相河の行事は妙味がある。

(H22. 9.18 EOS40D撮影)

中城の路傍の行者石仏

2010年10月25日 07時50分31秒 | 大和郡山市へ
いつもクルマで通過する番条町付近の下ッ道の街道。

大和郡山の景観を捉えてみようと走っていたときのことだ。

西を見れば矢田丘陵を背景に市内が見える。

菩提山川を跨ぐ番条橋付近にクルマを停めた。

すると東側に何やら石仏が目に入った。

道路は番条町と中城町の境界線。

西は番条で東は中城だ。

その東側。菩提山川の堤防に路傍の石仏がある。

拝見すればなんと行者の石造ではないか。

後背があるのも行者像であろう。

その前には玉石もあった。

井戸野町の行者講の話によると近隣旧村になる白土、大江、若槻、稗田、美濃庄、番匠田中、下と上三橋などがあるといっていた。

中城もそのひとつになるのであろうか。

聞き取りをしなければならない路傍の行者石仏だ。

(H22. 9.17 EOS40D撮影)

オゴボゴカラアゲ定食

2010年10月24日 08時37分48秒 | 食事が主な周辺をお散歩
吉野から宇陀へ経由して曽爾、御杖から伊勢参りをした街道の一つに伊勢本街道がある。

現在は車が行き交う街道だ。

本郷の取材を終えた時間は丁度昼前。

早朝から入った取材は長時間になったことに気がつくのはお腹の減り具合だった。

同行されていたK氏と向かった先は野依。

いつもここで仲間内とお茶をしているのだという。

知ってはいるものの入ったことがなかったオゴボゴ。宇陀川沿いにある。

普段は単独行動。

昼飯は極力少なめにしている。

その殆どはコンビニでラーメンをすするかおにぎりだけの簡単食。

その背景には資金難がある。

ワンコインの場合でも奮発したほうに入る。

生活レベルは極貧に近い。

お店に入ってメニューを見た。

ワンコインどころか私にとっては目が飛び出すくらいの価格帯しかない。

つらいのぅ。

仕方なくコーヒー付きのカラアゲ定食にした。

ジューシーで美味しいが、私にしてみれば金額相当の味だと思う。

ここでコーヒー一杯、お茶一杯。

それで2時間も話していた。

(H22. 9.15 SB932SH撮影)

道返寺垣内の行事

2010年10月23日 07時53分41秒 | 楽しみにしておこうっと
1月14日の明くる日がどんどだという。

その朝早くどんどで燃やした灰を田んぼに持っていく。

その際に「ホイ、ホイ、ホイ」と言って灰を撒くそうだ。

灰は三つかみ。正確に言えば「ホイ」と言って畑の隅に一回撒く。

次も「ホイ」と言って撒く。

これを三連続一挙にするから「ホイ、ホイ、ホイ」とお囃子のように聞こえる。

ただ、実際には「撒く」という行為は「盛る」の様そうらしい。

どんどの火は家へ持って帰って竈にくべた。

それで夕ご飯を炊いた。

ぜんざいのようなおかゆだそうでモチを入れるという。

アズキ粥というから小豆も入っているお粥。

そのアズキ粥は柿の木が二股になった処に置く。

そこにナタで傷を付ける切り口。

そうして興味深い言葉を発する。

「なるか、ならんか」と言えば「なります、なります」と答える。

「ならぬ」という答えはないそうだ。

アズキ粥を切り口に置くのは消毒なのだと話される行為はとても不思議なものであるが昔のことだと言った。

また、ある家ではアズキ粥を食べる箸が一風変わっているそうだ。

枯れたカヤを刈ってきてそれを箸にするのだという。

これは現在でも家の作法として継承されていると語る婦人。

15日の朝にお粥に小さなモチを入れてカヤの箸でよばれるようだ。

なお家の庭に植えていた柿の木の品種はフユガキだそうだ。

9月から10月にかけて行っていたのがイモ名月、クリ名月、マメ名月。イモ名月は中秋の名月の日。

ズイキイモの皮を剥いだものを12個供える。

三方に載せてススキやハギを添える。

これは各家でしているという。

その夜はイモたばりをしていた。

子供がよその家に行って盗ってくる風習だ。

子供もおらんので盗られることがないという。

マメ名月に供えるのは枝付きの茹でたエダマメだ。

旧暦の名月にはそれらの風習が残されているようだ。

昔はあったと話されたのがヒナアラシ。

3月3日だったと思い出されたヒナアラシの風習。

ヨモギで作ったヒシモチ。

炒ったキリコモチを添えていた。

それを盗りにくるさかいに置いていたという。

女の子の楽しみやったヒナアラシにはセリのおひたしもあったそうだ。

山の神もある垣内の行事。

それは11月7日やったという人と1月7日だという人とに別れた。

1月の人は山の仕事の休みで山に入ったらあかん日だと言った。

川上村だと思うと前置きして話した。

そこは注連縄を張ってカマやナタを飾っているという。

東吉野村のことであろうか。

それならば拝見したことがある。

川上村にも現存しているなら調査しなければならない。

もう一人の男性は11月派。

山の神は家の近くにある石だそうだ。

洗い米や塩、野菜などを供える。

そこに細い竹を筒にしたカケゴを供えるという。

カケゴの竹筒は二つ。

その間は細く切って折り曲げている。

形状から推察するには柳生で行われている形と同じのようである。

カケゴはもうひとつある。

藁束を編んで後ろの一方をぐるりと反転させる。

その中にはジャコを入れておく。

陽があがる頃といえば時間は早い。

その供えものを作ったらカヤの木に引っかけるそうだ。

藁束は吉野町小名で祭られたホデと同じであろう。

木に掛ける行為は各地の山の神で行われるおなじみの様そうと思われる。

青面金剛童子像が描かれている掛け図がある。

それを掲げて三ヶ月に一回拝んでいたのは昔のこと。

以前は9軒で営んでいたそうだ。

1軒は下に降りたので今は8軒。

庚申の日だった。

閏年のときは般若心経を唱えて数珠繰りをしているという。

念仏講では阿弥陀さんの来迎図もある。

これは女性だけで営まれている。

当番の家の営みなので立ち入ることはできない。

薬師寺からさらに登ったところに行者さんや大日さんがある。

標高700mの西山岳にあたるそうだ。

龍王神社は池を濁したら雨が降ると伝えられている。

14、5年前のことだと思い出された雨乞い。

田んぼの水がすけないときに太鼓や鉦を叩いて登って雨乞いをしたそうだ。

その山が経ヶ塚山だという。標高880mの高い山だ。

大和ご回在は毎年10月14日(10時)だそうだ。

また、実家の関戸(せきど)では地蔵盆のときに石仏の地蔵さんを抱えて遊んだという。

シカのアジゴハンを作って。

(H22. 9.15 EOS40D撮影)

本郷薬師さんの数珠繰り

2010年10月22日 07時35分29秒 | 宇陀市(旧大宇陀町)へ
宇陀市の本郷といえば、特に名高い又兵衛桜を誇る景勝地だ。

その桜の地から奥の山を登りつめた山麓に山寺とおぼしき薬師寺が建つ。

稲刈りが始まっている段々畑を抜けて登る山道は急勾配だ。

集落を過ぎれば杉木立に囲まれた地帯に入り込む。

道はさらに急勾配になった。

この山道は集落の墓地へ行くための地区の道路であることから、道路維持の観点から通過するには使用料が伴う。

その墓地の真上は開けた土地。

狭い境内には似つかないほどの大きな堂宇。それが薬師寺であった。

標高は630mにもなるという薬師山だ。

周囲にある山で一番高い山は経ヶ塚山で標高880m。まだ低いほうだという。

早朝から集まってきた地区の人たち。

道返寺(どうへんじ)垣内の7人だ。

本堂に着くとまずは鉦打ちだ。呼び出しの鉦は2回打つ。

祭壇にお米や塩、季節の野菜を供えた。

お花は種から栽培したケト(ケイトウ)やシオンなど。

秋の彩りを添えて飾られた本尊の石仏薬師如来が微笑む。

脇侍は日光、月光。ともに石仏である。さらに十二神将が並んで立つ。



一方、もう一人の長老は墓石に付近にあったシキビの枝葉を墓前に飾った。

なんでも後藤又兵衛の墓であると伝えられている墓だ。

墓石には延享2年(1745年)8月と刻まれていた。

その名は薬師寺の中興であろう。開基水貝五代俊(友)氏とある。

とすればだ。関ヶ原で戦い、慶長19年(1614年)大坂冬の陣で敗れた後藤又兵衛の時代ではなくその後になる。

それも130年も経過した後になる。

伝説の墓は他にあるのだろうか。

本堂の前には燈籠がある。

そこには宝暦5年(1755年)が刻まれている。墓石建立の10年後だ。

薬師さんの数珠繰りの営みは導師を勤める長老のお念仏で行われる。

線香をくゆらして灯明に火が点けられた。

導師の周りに座った村の人たち。



「始めましょう」の合図に導師はお念仏(しんどんがん)を唱えだした。

地区の安穏や五穀豊穣を祈るお念仏だ。

融通念仏、なむまみだぶー、なむあみだぶつと身体堅固、無病息災を願う。

次は般若心経だ。

木魚を叩いて唱える念仏は堂内の空間を響かせる。



そして始まった数珠繰り。

導師の座る席は中央。その周りを円座になって座る。

鉦が叩かれお念仏が唱えられた。

数珠を繰る回りは左回転。なんまいだーと数珠を繰る。

大珠が目の前に現れると頭を下げる。

数珠繰りは12回転される。

数取りはマッチ棒だ。

一年が健康でおられるよう併せて五穀豊穣を願った。

それが終われば数珠を束ねて身体の患部をなでてもらう。

「私はここを頼むで」といって肩や腰、足などを数珠でさすってもらった。

直会といえば供えたカップラーメンをよばれる。

先日の12日に行われた十二薬師さんも同じだったそうだ。

(H22. 9.15 EOS40D撮影)