マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

天理三昧田お食事屋さん味きちの味きち定食

2015年04月30日 08時14分30秒 | 食事が主な周辺をお散歩
榛原山辺三のイネコキ取材を終えて山を下って都祁を経由して奈良市の横田町へ向かう。

子供のねはんこでお世話になった家を訪ねる。

この日は会所でお日待ちがあるという先を急がねばならない。

目指すは天理市。

国道を走って兵庫に着くが不在であった。

丁度そのころは昼めしどき。

Uターンして入った食事処はワンコインの500円。

ALL500円のメニューである。

そんな立て看板に惹かれて入った。

入口には「味きち定食」、「お造り定食」、「チキンステーキ定食」、「とんかつ定食」、「スタミナ炒め定食」が書いてあった。

いずれも500円のメニューである。

以前はどんな店だったか覚えてないが、安さに釣られて入店した。

ドアを開ければ「食券をお買い求めください」の表示がある。

券売機を探してみるが、ない。どこにもないのだ。

うろうろしていたら男性店員さんがレジにやってきた。

店員さんは若くない。

レジで支払った500円。

その際に注文した「味きち定食」。

レシートは発行されず、カウンター席に案内された。

店内には二組のお客さんが食事をしていた。

席は多いが、客数は少ない午後1時だ。

注文したメニューを厨房におられた婦人に伝える。

それから6分後にはできあがった。

カウンター席に運ぶのは婦人であった。

プレートに乗せたカップは熱いから気をつけてくださいと云う。



ナスビ・ブロッコリーなどの野菜が入ったチーズ焼きである。

プレートには2枚のメンチカツや二切れの玉子の出汁巻きもある。

細切りしたニンジン・キャベツはドレッシングがかかっている。

定食はそれだけでなく、細切りのダイコンの煮物や茶わん蒸しもある。

さらにはキャベツのサラダや味噌汁椀もある。

さあてどこから食べてみるかという具合である。

アツアツのカップは触らずに箸で摘まんだチーズ焼き。

おそらく温野菜であろう。

ほっこりした野菜に味が染み込んでいる。

とろけるチーズとともに口に入れる。

美味いのである。

小鉢の細切りダイコンとともにご飯を食べる。

これもまた美味しいふっくらご飯。

炊きたてのご飯が美味いのだ。

メンチカツも食べてみよう。

サクサクした衣に揚げたてのミンチカツ。

ぎっしり詰まったメンチ肉に舌が唸る。

出汁巻きも美味しい。

美味い、美味い、の連発である。

さらに美味しく感じたのは茶碗蒸しだ。

この味で500円とは驚き価格。

香物も味噌汁も美味しくいただいた「味きち定食」はときおり出汁ものが替る日替わり定食のようだ。

日によっては、「チキンカツ定食」、「豚しょうが焼き定食」、「焼きそば定食」、「おろしハンバーグ定食」になるらしい。

一品、一品は手作りの家庭料理のようだが、味は保証するレストランの味でもある。

美味しくいただいていた時間帯。

「ごちそうさまでした」と声を掛けて出ていかれたお客さん。

ですが、厨房からの声は届かない。

レジをしていた店員さんの声もなかった。

愛想なし、返事なし、愛嬌なしのお店であるが、実に美味しい家庭料理の味わい。

食べ終わるころには店外に出していた立て看板を仕舞われた。

どうやら14時過ぎぐらいには閉店するようだ。

食事を摂らせてもらった味きち。

その後は行くことはなかった。

半年後の平成27年3月には中華料理店のチャオチャオになっていた。

(H26. 9.27 SB932SH撮影)

山辺三のイネコキ

2015年04月29日 08時23分30秒 | 民俗あれこれ(四季耕作編)
榛原山辺三で唯一イネコキをしている農家。

同居する三男と作業する81歳の親父さんはすこぶる元気。



2週間天日干しした稲を自走式自動脱穀・ハーベスターの三菱農機MH40で米を脱穀する。

ハザ架けした稲束を台に載せれば自動的に脱穀して袋詰め。

藁束はポロリと落ちる。



朝から始めた作業は繰り返し。

作付品種はヒトメボレ。

2反も作った。



親父さんは満中陰で途中欠場。



その後も一人で作業する三男さん。

収穫するのが楽しいんですと笑顔で応える。



残った半分は明日の作業。



三男さんは親父が元気でいる間はこうして続けているだろうと話していた。



(H26. 9.27 EOS40D撮影)

墓地で出会った元藩医家

2015年04月28日 08時52分30秒 | 大和郡山市へ
地元自治会から頼まれて講演をする。

大和郡山市の伝統行事を紹介する講演は今回で4回目。

テーマは「城下町・元藩医家の年中行事」。

これまで取材させていただいた「神農さん」、「三宝飾り」、「正月の膳」、「サンニンサン」、「先祖さん迎え」の5題をスライドショーで上映しながら語る。

南朝武将の楠木正成の末裔として知られる元藩医家は、足利時代の永正年間から医業していたそうだ。

歴史語りはできないが、同家で今でも行われている「お供え」の在り方は類似例などを交えて紹介する。



この日、仇討の返り討ちにあった生田伝八郎の墓がある千日町・常称寺の催しでお会いしたご主人とおばあちゃん。



孝女楠木栄子の墓石前で「大いに宣伝しといてや」と云われたが、さてさてどうなることやら。

(H26. 9.24 SB932SH撮影)

榛原山辺三濡れ地蔵会式

2015年04月27日 13時43分30秒 | 宇陀市(旧榛原町)へ
奈良の情報雑誌「naranto(奈良人)2013春夏号」の石仏の特集ページに掲載されていた榛原山辺三の濡れ地蔵。

室生ダム湖岸の巨岩に彫られた地蔵石仏である。

彫りは深いと云う地蔵石仏は建長六年(1254)の作。

昭和49年(1974)の建設当時、お地蔵さんを刻んだ山ごと移転を願った榛原山辺三地区住民の声も空しく、ダム湖が満水ともなればすべてが水没した。

せめて湖水が引く時期にはおひざ元まで近づけるようにと懇願して作った石段や参道の設置は認められた。

12月ともなれば湖水の水位が上がって頭の上まですっぽりと水中に隠れた地蔵さんは拝見することができない。

水中から姿を現し始めるのは水位が下がる5月中旬頃。

11月末頃までの半年間は地上に現れる。

まるで月の満ち欠けのように繰り返す地蔵さんは年に一度は自治会が主催する地蔵会式を営んでいると書いてあった。

当時、自治会長を勤めた新禎夫さんは「先輩たちが大事に守ってきたお地蔵さんは、今も毎年の秋の彼岸に地蔵会式を営み、供養を続けている」と書いてあった。

ハザ架けを終えた山間部に住む男性に教えてもらった現自治会長家を訪ねる。

ご主人は村の慰霊祭で不在であったが、農作業をされていた婦人に取材の主旨を伝えた。

そういうことであれば戻ってくる主人は承諾するに違いないと云う。

会式の場には西方寺の住職が来られて会式の法要が始まる。

一週間前には場に生えた雑草などを刈り取った。

祭壇を設ける場所も奇麗に掃除をしたと云う。



濡れ地蔵石仏は「青越え伊勢街道」とも呼ばれた初瀬街道より下ったふれあい広場より数百メートル先にある。

石畳の参道をまっすぐ降りる。

最端には天保六年(1835)に建てられた常夜燈がある。

石段を下った川岸の向こう側にあったのが濡れ地蔵である。



天満川を渡る木造の橋が架けてあった。

婦人が話していたお参りに欠かせない橋は近年に設置したと云っていた。

地蔵山と呼ばれる崖下に光背を深く彫った地蔵菩薩の石仏は、雨が降れば山から流れ出る湧水で岸壁が濡れ、水が滝のように落ちてくることから「濡れ地蔵」と呼ばれている。

左手に宝珠、右手に錫杖を持つ半身彫りの地蔵石仏立像に「建長六年(1254)甲寅八月十五日建」の刻印がある。

室生ダムが満水のときは水中に姿を隠している濡れ地蔵。

梅雨や台風に備えてダムは出水され水位を下げる。

室生ダムは淀川水系名張川の支流。

宇陀川の洪水調節、河川環境の保全や大和平野への水道水供給を目的に建設された。

濡れ地蔵を別の地に移すことも検討されたが、動かせば崩れる可能性があった。

やむを得ない決断によって、その地に残された濡れ地蔵は、秋が終わるころには再び満水となって隠れるのである。



18日間も雨が降っていなかった9月23日は彼岸の中日。

昼過ぎに集まった自治会役員たちは参道や濡れ地蔵に花立てを設えて、乾いた濡れ地蔵石仏に水を垂らした。

山辺三は全戸で数百戸。

都会などから転居された天満台の新興住宅で膨れ上がったが、旧村では85戸だ。

山辺三は西村・中村・篠畑(さいはた)からなる村落である。

濡れ地蔵がある地蔵山はかつて雨乞いをしていた山。

生前、自治会長家のおばあさんが日照りにダケノボリをしていたと話していたそうだ。

およそ60年前のことだけに、松明を持って太鼓を打ちながら参ったという雨乞いを記憶するのは80歳ぐらいの人でないと覚えていないと話す。



地蔵会式は濡れ地蔵がある対岸側で行われる。

祭壇を組んで花を飾る。

風で消えないようにガラス筒に納めたローソクに火を灯す。

村人はブルーシートに座って会式に参列する。



お参りされる人たちは天満川に架けた橋を渡って地蔵さんに手を合わせる。

そうして始まった会式。



西方寺は大阪平野大念仏寺・末寺の融通念仏宗派。

25日に発表された奈良新聞によれば安置する木造薬師如来立像が重要文化財に指定される運びとなったことを伝えていた。

平野大念仏寺はこの年、三年ぶりにあたる大和山間地を巡る如来さんがやってきた。

三年おきにされる山廻りである。

この日の午前中に慰霊祭の法要も勤めた住職の話によれば9月5日だったそうだ。



この日の濡れ地蔵会式は気温が30度近くまで上昇した。

暑い日差しが法要の場を照らす。

ピーカン照りに遮られて対岸にある濡れ地蔵は山の影で判り難い。



およそ25分間、伏し鉦を叩いて融通念仏勤行を勤められた会式の法要が終われば数珠繰りに移る。

この日は例年になく大勢が参られた。

自治会役員ら30人は数珠繰りをされる。

法要が始まる直前のことだ。



法要に数珠繰りがあると知って拝見した風呂敷包に納めた数珠箱。

内部に径12cmぐらいの古い鉦があった。

西村在住のⅠさんは数珠・鉦とも西村が所有していると云う。

数日前の21日には念仏講中の寄り合いがあった。

そのときに繰っていた数珠である。

大きな房がくれば頭を下げる。

数取りの数珠玉がなくなるまで繰っていると話す。

21日は彼岸入りの翌日。

その日から彼岸の中日までの期間中、講中が集まりやすい日の夜が営みだと云う。

西村以外にも中村、篠畑でもしているらしい。



拝見した西村が所有する伏し鉦には「念佛講中 山辺村 □□□ 西村和泉守作」の刻印記銘があった。

「西村和泉守作」の鉦はこれまで私が拝見した大和郡山市伊豆七条町・勝福寺や奈良市中ノ川町・観音寺で見つかっているが年代は不明である。

「西村和泉守」は江戸神田鍛冶町において実在した鑄物師だったことが知られている。

初代「西村和泉守」は延宝年間(1673~)をはじめとし、十一代目は大正時代まで続いた老舗の鑄物師。

大数珠とともに納めていた箱の蓋の色は黒ずんでいた。

そうとう古いものに違いないが、裏には「改 昭和四十二年三月三十日」とあり、12人の講中の名が記されていた。

生存している人は一名。

記憶に頼るしかないが、おそらく後年に墨書したものであろう。



およそ10分間の数珠繰りが終われば、束ねた数珠玉で背中をなで下ろす。

身体堅固の作法で無病息災を願った。



供えた御供を下げて参拝者に配って解散された会式の花立ては濡れ地蔵を見守るかのように佇んでいた。

ちなみに山辺三の秋の彼岸は濡れ地蔵会式であるが、春の彼岸は中村の山に鎮座する五輪塔の山部赤人墓で法要をされる。

また、7月中旬のコンピラサンの他、秋には神社のマツリもある。

山辺三には二つの神社が鎮座する。

一つは西村の葛神社で、もう一つは篠畑(さいはた)の篠畑神社だ。

この年は10月12がヨミヤで翌日の13日はマツリ。

いずれも同じ日に斎行される神職は山辺三在住の藤田宮司。

額井の十八神社造営リハーサルの際にずいぶんと教えていただいたことを思い出す。

(H26. 9.23 EOS40D撮影)

A-coop榛原店助六寿司

2015年04月26日 06時52分21秒 | あれこれテイクアウト
山間部に聞いた山辺三自治会長の家。

下った信号近くだと話していた。

旦那さんは地域の戦没者慰霊祭に参列されて不在だったが、濡れ地蔵さんの会式を教えて下さったのはご婦人だ。

始まるまではまだまだ時間がある。

場を確認して昼食にいただく弁当を求めて走った。

初瀬街道ともなる国道165号線は近鉄電車が並行している街道。

大字は額井になる処にA-coopがある。

スーパーにはいろんな弁当が売っているはずだと思って入店した。

あれこれ悩んだが、選んだのは278円の助六寿司。

巻き寿司と稲荷寿司の詰め合わせだ。

同店には榛原町で採れた自家栽培の野菜が山積み。

奈良県名産の宇陀金牛蒡もあった。

太くて柔らかいという宇陀金牛蒡は大規模スーパーでは売っていない。

ここら辺りにしかない地産の野菜。

試しに買っておいた。

宇陀金牛蒡は家で食べるもの。

この日の昼食は助六寿司である。

日差しがキツイこの日の車中食。

樹木の日陰があるふれあい広場とした。

ここは室生ダムの最北西の地。

ダムが満水になっても浸からない。

パックの蓋を開けた助六寿司。

ほんわり香るお寿司の匂い。

食欲をそそる匂いである。

巻き寿司、稲荷寿司とも酢飯が利いている。

具材もさることながら稲荷揚げがとても美味しい。

手作り感があるお寿司の味に大満足した。

(H26. 9.23 SB932SH撮影)

榛原山辺三のハザ架け景観

2015年04月25日 08時42分35秒 | 民俗あれこれ(干す編)
山辺三の濡れ地蔵がある地を訪ねて山麓線を走っていた。

額井を抜ければ山辺三の地を示す標識が見える。

急な坂道を登れば数軒の民家があった。

声を掛けた男性は昭和8年生のKさん。

畑仕事をされていた。

この日は濡れ地蔵さんで法要をされると云う。

自治会役員であれば参列するが、今はお勤めすることもなく畑仕事に従事しているという。



この地には多くのカメラマンが来るという。

山間風景の写真を撮る人が気にいって度々来るそうだ。

話してくださった男性、二週間前は稲刈りだったという。



ハザ架けして干している。

今週末にはイネコキ(脱穀)をするという。



民家下にある畑にはずらりと並ぶハザ架け。

景観が美しく撮らせてもらった。

男性は炭焼きもしているとも話す。



民家周りの景観は素敵な佇まい。

ずっとここにいたくなるような景観にしばらくの時間を過ごしていた。

(H26. 9.23 EOS40D撮影)

西里東垣内の地蔵尊

2015年04月24日 09時37分23秒 | 斑鳩町へ
写真展を見終えて西里へ向かう。

前月の8月23日に行われた法隆寺西里・東垣内の地蔵盆。

その日は雨を避けて建物下の駐車場で行われた。

数体の石仏を並べた法隆寺西南の角地を確かめたくて出かけた。

それぞれの石仏に飾ったお花は新しい。

信仰深いお方が立てたのであろう。

そこを通りがかった村の人。

農作業をした返り路。



自転車を押して通っていった婦人に頭をさげる。

午後も作業にもでかけるのだろうか。



足を伸ばして集落に向かう。

地蔵盆でお世話になった家を訪ねる。

そこは西岡常一氏の生家だった。

(H26. 9.21 EOS40D撮影)

第14回写団やまと光彩会写真展in法隆寺iセンター

2015年04月23日 08時12分14秒 | しゃしん
“写団やまと” 光彩会写真展を始めて拝見したのは平成21年9月24日だった。

写友人に紹介されて出かけた法隆寺iセンターが展示会場。

その当時は社友人も所属していた光彩会。

展示していた作品に感動したことを覚えているが、とらえた映像は忘れた。

彼女の作品は素直な作風だったが、一部はギラギラしているように見えた。

デジタル画像を色彩塗り絵したような作品に厭気がさした。

そのときがきっかけで、紹介された男性は奈良を観光案内しているカメラマン。

同じく素直な画風に憧れた。

私も含めて今では3人そろって奈良大和で行われている民俗行事を追っかけるようになった。

3年後、会の顧問を勤めていた男性とはカメラのキタムラ奈良南店でお会いすることもあった。

そのころはすでにカメラ女史は会を辞めていた。

どうも作風が合わないということのようだったが、案内状が届くようになっていた。

知り合いはいなくとも昨年も拝見した光彩会写真展。

そのころ感じた会員の作品群。

どこかで見たような画像もあるが、刺激を受ける作品もある。

プリントは奈良県図書情報館で印刷した大版。細部も奇麗に処理されていた。

会員の話によれば3枚プリントするには1時間もかかると云っていた。

今年も案内状が届いた第14回写団やまと光彩会写真展の会場は今までどおりの斑鳩町の法隆寺iセンターの2階。

宮大工棟梁を勤めた西岡常一氏の功績伝える展示場でもある。

飛鳥時代から受け継がれてきた寺院建築の技術を世に伝えた技術は「最後の宮大工」と称された人物だが、平成7年に亡くなられた。

ずいぶん昔のこと。

テレビで放映された西岡常一氏を伝える特集があった。

著書である『木に学べ』を伝える番組だったと思う。

番組だったか、著書だったのか覚えていないが「木を育てる年数は造営する期間と一致システム」であった・・・ような気がする。

2階の展示場は小学生だった二人の息子を連れて見学したことがある。

大工が動く映像を見て喜んでいたことを思い出す。

さて、写真展の作品である。

案内状にも映し出されていた「課外授業」。

タイトルが実にうまい。

なるほどと感心する。

作品目録に印をつけた作品は「追憶」もある。

映像から何を思い起こすか。

これもまた素晴らしいタイトルだった。

写真展を見終えて会場を出る。

(H26. 9.21 SB932SH撮影)

郡山城天守台発掘調査現地説明会

2015年04月22日 07時22分50秒 | 大和郡山市へ
前日・午前中はどっと押し寄せた現地説明会。



午後ともなればすっかり冷え切った行列。

この日は朝からずっと途絶えることなく夕方まで・・。

豊臣時代に威容を誇った郡山城・天守閣の遺構が発掘された天守台を拝見する行列だ。



郡山城の名であるが、福島県の郡山でなく、奈良県大和郡山市の郡山城である。

市の施設に勤務していたときのことだ。

郡山でイベントをしているようだから場所を教えてと願う電話があった。

市役所はもとより観光ボランテイアガイドに尋ねても知らないというイベント。

ネットで調べてみれば福島県の郡山だった。

電話主の地元であったのだ。

そのイベントを伝えたら恥ずかしそうな声が返ってきたことを思い出す。

それはともかく前日19日の奈良のニュースは発掘調査の模様をとりあげ賑わっていた。



大和郡山市教育委員会・生涯学習課の発表によれば、天守(※当時の呼称は閣がなく天守)と想定される23石の礎石の他、大阪城の瓦と同型の瓦や金箔が残っていた軒丸瓦も出土した。



また、秀吉が京都に建てた聚楽第に類例がある軒平瓦の他、鯱瓦や鬼瓦の一部も出土したというのだ。

郡山城は初代城主である筒井順慶が天正八年(1580)に入城した。

『多聞院日記』によれば天守が完成したのは天正十一年。

順慶死後の城主は豊臣秀長が入城。

本丸・二の丸石垣普請され天守が完成となる直前に地震で崩壊したと『大和郡山旧記』にあるそうだ。

その後も城主がかわって豊臣秀保、増田長盛に移った。



長盛入城翌年の文禄五年(1595)九月に京都伏見付近で大地震が起こり、天守はじめ、櫓なども倒壊したと『近衛前久書状』にあるようだ。

その後、天守を再建しゆえたという記録もなく、設計図も見つかっていない。

それゆえ「幻の天守」と云われる郡山城であった。

一方、江戸時代初期の大工技術書である『愚子見記』には関ヶ原の戦いの後、郡山城は廃城となり、天守は京都二条城に移したとある。

その天守は京都淀城に移されたという古文書もあるそうだ。

現存する二条城絵図には五層の天守が描かれていることから、郡山城の天守も五層であった可能性が高いと考えられていたのだ。



天守から望む大和うるわしの景観。

今では高くそそりたつ樹木で遮られているが眺望は遥か遠く東に若草山。



西に矢田丘陵。

南西は葛城山系で南東は三輪山から奥吉野に高く聳える連山も見え、奈良盆地平坦全体が一望できるのである。

逆にいえば周辺山々からも天守が見えたということだ。

平成24年3月25日に地元住民の案内で城下町より西に位置する矢田町を巡った。

その地は県立民俗博物館がある大和民俗公園より数十メートル歩いた処だ。

そこにコグリと呼ぶ地がある。

それは「コグチ」であったかもと話す村人。

コグチは虎口。

木戸があったという地には川があった。

上流の池から流れる川だった。

その川は今でも流れているが道の下。

山を崩して新道を造った。

この地は大阪枚岡に抜ける道で、暗峠(くらがりとうげ)に続いていた。

向こう側が見えない山を縫うようにあった細い道だった。

山は切り取られて開放された。

その道筋はぐるりとえぐる。

見通しがよくなったが道の様子はよく判る。

切り崩された山の上から敵が来るのを監視していた戦略上の要地。

郡山城下町に敵が寄せてくるのを視ていたのであろうと話す。

残った山は「タカヤマ」。

井戸もある山に登ってみれば広がる西の丘陵地・三之矢塚が見渡せる。

「タカヤマ」は「城」であったろうと話していた。

つまり侵入する敵を監視していたタカヤマなのだ。

そのような状況になれば狼煙をあげたであろう。

郡山城天守にはすぐに伝わる緊急通報手段である。

天守が建っていた豊臣政権の郡山藩はどの地まであったのだろうか。

五奉行でなく、見張り役を勤めたと思われる旧村はどこであったのだろうか。

発掘された天守に思いをはせて中世時代の大和を巡る。

そんな旅をしてみたいものだ。

天守台に登ってそんなことを思ってみたが、高く伸びた樹木で遮られている。

市職員の話によれば春日・若草山を展望する方角にある多い繁った樹木は地主である柳澤家当主と協議するらしい。

伐採する木はすべてではなく、あくまで眺望を遮る高さまでのようだ。



この日の天守台見学は十数人までの限定人数。

どう思われたのか知らないが、平成28年度には展望台を設けるようだ。

そうであればお城に敷設されている電信柱はどうするのであろうか。

(H26. 9.20 EOS40D撮影)

阿知賀瀬ノ上垣内光明寺カキの観音さん

2015年04月21日 07時40分06秒 | 下市町へ
盆入りの7日に弘法井戸を洗って井戸替えをしていた阿知賀の瀬ノ上垣内

戸数は45戸であるが、井戸替えに般若心経を唱えるのは周辺の16戸。

そのうちの何軒かは観音講の講中。

毎月17日は十七夜講のお勤めもあれば、大祭りと称する年2回の村行事もある。

一つは7月24日の地蔵さん。

安永造立地蔵石仏を光明寺本堂内に納めて法要をされる。

9月18日はカキの観音さんと呼ぶ行事である。

実った柿を本尊に供えることからそのような名がついたようだ。

講中が話していた行事に興味をもったのは云うまでもない。

カキの観音さんの場は平成16年に建て替えた光明寺会館。

下市町瀬ノ上会館とも呼ばれる場である。

日が暮れた時間ともなれば当番の人たちが会館に詰め寄る。

講中の承諾を得て会館にあがらせてもらった。

そこは金箔が眩い本尊を安置していた。

会館を建て替えたときに塗り替えた本尊である。

講中のKさんが話すかつてのカキ(柿)の観音さんの様相。

ご本尊さんを安置している場に幕を張っていた。

柱と柱の間にぐぐっと曲げた太い真竹を設えた。

力いっぱい、二人がかりでアーチ型のように曲げた。

等間隔に穴を開けて心棒を通してローソクを取り付ける。

その数は11本。

仏事は奇数だという本数である。

三段の祭壇に各家が持ち寄る御供を置いていた。

戦後は64、5軒もあった瀬ノ上垣内。

子供がたくさんいた時代である。

お勤めが終わったら、青年団がコジュウタに入れた御供を子供に配っていた。

そのころの子供の人数は65人。

まるでガキがざわめくような感じで、手を差し出して立ちあがる子供にモチを配ったと話す。

現在ではそのような様相ではないが、本尊である聖観音菩薩坐像(伝室町時代作)や左脇侍の阿弥陀如来立像の前には椀に盛った御膳を供える。

水引で括ったシイタケ、コーヤドーフ、オクラ、ニンジンは立て御膳。

洗い米やトウロクマメの椀に麩を入れた汁椀もある。

御供は搗きたてのモチ盛りもある。

傍らにはコジュウタに詰め込んだモチもある。

今年のモチは1斗も搗いたとW婦人が話す。

正面祭壇に置かれた御供の形態は特殊である。

銀色の板に輪ゴムで止めた煎餅のようなお菓子もある。

その横に立てていたハナモチ。

ケトや菊など美しい花盛りの中に串でさしたモチもある。

これをハナモチと呼んでいる。

これらを挿しているのは麦藁を束ねた「ホデ」。

「明治丗年丑八月 願主光明寺 住職」の文字墨書があった木の桶に立てていた。

この形は先月の8月24日に拝見した吉野町丹治の地蔵盆の御供台と同じだった。

瀬ノ上垣内より3kmぐらい離れる両地域で同じ形態の御供桶があったのだ。

桶の民俗文化は地域分布も調べなくてはならなくなったのである。

この日のカキの観音さんには「柿」が見当たらない。

この件についてもKさんが話してくださった。

かつてはほとんどの家が柿を供えていた。

自宅で実った柿であろう。

今ではまず見ることがなくなった柿はトチワラガキと呼ぶ柿だった。

この柿はとても甘かった。

赤くなろうとしていた柿は供えるのだが、先に子供が食べてしまったぐらいに美味しかったと話す。

時間ともなれば大勢の村人がやってくる。

赤ちゃんや子供連れの母親が多い。



男性二人が本尊前に座って導師を勤める。

木魚を叩いて法要をする間もやってくる人もいる。

総勢40人余りの人数に膨れ上がった。

はしゃぐ子供の声で法要の念仏は聞こえなくなる。

光明寺は浄土宗。唱える勤行も浄土宗である。

およそ5分間のお念仏を経て般若心経になった。

大慌てで大数珠を広間に広げる講中。

これより始まるのは子供たちが参加する数珠繰りだ。

数珠繰りには数取りは見られない。



五巻の般若心経を唱える間はずっと繰っていく。

木魚を打つリズムはどちらかと云えば早い。

数珠もそうしているように見える。

数珠の房がくれば頭をさげる講中。

五巻の般若心経は8分間。ずっと繰っていた。

その後も法要を続ける導師。

木魚を打つ長丁場のお念仏は30分。



すぐさま打ち鉦に替えて「ないまいだぶ なんまいだぶ」を唱えて法要を終えた。

Kさんの話によれば観音さん、阿弥陀さん、地蔵さんの三仏を唱えたようだ。

法要を終えれば御供下げ。



コジュウタに盛ったモチやお菓子を参拝者に配っていく。

何人もの講中は慌ただしく動き回る。

参拝者は帰られてお堂を奇麗にかたづける講中。

椅子を運んで広間を掃除機で清掃する。

ハナモチやお花も取り外して御供桶も仕舞う。



その間に拝見した伏し鉦には「天下一出羽大掾宗味」の刻印があった。

県内各地でこれまで拝見した鉦に「天下一」の称号がある。

刻印より年代が明白な鉦に大和郡山市額田部町・地福寺の「天下一宗味」の六斎鉦は慶安二年(1649)。

奈良市八島町の「天下一二郎五郎」六斎鉦は寛永十八年(1641)がある。

「天下一」の称号は織田信長が手工芸者の生産高揚を促進する目的に公的政策として与えたものである。

その後、「天下一」の乱用を防ぐために、天和二年(1682年)に「天下一」称号の使用禁止令が出されたのである。

そうした歴史から想定するに、瀬ノ上垣内の光明寺にあった伏し鉦は天和二年(1682年)以前の作と考えられる。

額田部町・地福寺の六斎鉦は「宗味作」。白土町にある六斎鉦の一つに貞享五年(1688)・室町住出羽大掾宗味作の刻印がある。

同一人物の製作と考えて、光明寺の鉦は慶安二年(1649)後~貞享五年(1688)辺りの作であろうか。

(H26. 9.18 EOS40D撮影)