マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
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藺生のさぶらけ

2010年06月30日 07時40分09秒 | 奈良市(旧都祁村)へ
1月5日は藺生青龍寺で初祈祷のダンジョウ。

座敷に叩き板を敷いてフジの木で叩いた。

木は2尺の長さ。昔は廊下など板の間を叩いたそうだ。

そのときにもらってきたホーサン(ゴーサンが訛った)のお札を挿したウルシの木は苗代の水口に挿して水戸祀りをしていた。

ウルシ棒やホーサンは一年神主の社守さんが作る。

ウルシ棒の先端10cmほどは皮を剥ぐ。

ホーサンは半紙に宝印あてて刷ったものだ。

苗箱はタネを撒いて一週間後にハウスに入れ育てた。

その後の田植え初めには植えた苗の横にカヤを挿す。

畦にはイグサで結んだ白米と大豆を包んだフキダワラ2本を供える。

これをサブラケ(サブラキが訛った)といっている。

数年前まで行っていたTさん。

苗はJAで購入し、育苗機で育てるようになってからしなくなった。

再現された田植え初め儀式の「植え初め(うえぞめ)」。

どの田んぼでも構わないが最初に苗を植えるときに行う。

サブラケをする日は大安吉日と決めている。

ホーサンを畦に挿して植え初めが始まった。

以前は手で植えていた。



まずは一列に6苗を等間隔に植える。

その横にカヤを挿す。

一段下がって同様に6苗挿してカヤを挿す。

6苗が2段で合計12本。

一年の月数となるが閏年も同じく12本。

現在は田植え機による田植えだ。



四条植えの機械なので4苗植えて機械植え。

田植え機が復路で戻ってきたら2本挿す。

機械植えされた苗の列がすでにできあがっているがそこにカヤを挿す。

そして持ってきた2房のフキダワラを置いた。

フキダワラの中はほうらくで炒ったアオマメとお米。

数は適量で、イグサ(藺草)で縛っている。

稲苗がすくすくと育つように祈るサブラケは氏神さんにも供えられる。



葛神社の拝殿に今年も豊作になるようにと供えておく。

賽銭箱の上に乗せる人、傍らに置く人などまちまち。

今では2軒ほどしか行われていないという。

アキタコマチやコシヒカリの田植え初め。

五穀豊穣を祈る営みはこれで終わりとならない。

すべての田植えを終えると家の祀りごとがある。

お盆に乗せたひと掴みの苗束は2束。

ご飯を持った器と2房のフキダワラを置く。

置く場所は炊事場に祀ってあるエビスサン(戎大黒)の前だ。



今年も豊作になりますよう、無事に田植えを終えることができたと奉告する。

ご飯の上にパラパラと振りかけるコメコガシもあるようだ。

ほうらくで煎ったコメは黒い。

コガシは「焦がし」であろう。

黒くなった粉を振りかけたご飯は「コガシのご飯」とも呼んでいる。

※応援していたのは13軒の来迎寺町のYさん75歳。

多田来迎寺の寺総代を勤めている。

Tさんの奥さんの姉の夫。

生まれは天理の藤井。

その来迎寺では稲の穂に紙を巻いているそうだ。

(H22. 5.10 EOS40D撮影)

染田の穴薬師算

2010年06月29日 07時33分52秒 | 楽しみにしておこうっと
染田の国道沿いを見下ろすように並んだ石像物。

穴薬師算(ざん)と呼ばれている。

Fさんの話ではキリを12本納めて願掛けをしている人がみられるという。

キリは穴を開ける道具。

蓄膿症など鼻づまりの症状から解放されたいときはそうするらしい。

案内には毎年9月7日に無病息災の会式が善男善女によって営まれていると書いてあった。

これも確かめてみたいものだ。

(H22. 5. 8 SB932SH撮影)

染田の再現植え初め

2010年06月28日 08時38分30秒 | 民俗あれこれ(四季耕作編)
県内山間部の田植えは平野部より一ヶ月早い。

室生区染田でもそうしている。

染田ではイナギさんと呼んでいる大切な稲。

最初にはじめる農作業はモミマキ。

煎ったモミ米に同じく煎った大豆にキリコ(キリコモチのこと)やトウモロコシを一升桝に入れてミトサン(水戸さんであろう)に祀ってモミを蒔いていた。

昭和30年代の後半、40年には入っていただろう、ミトサンはマメになりますようにと家の田を豊作祈願していた。

そのころのミトサンはモミマキを終えると子どもたちがやってきて祀った供えものをもらいに来た。

あっちこっちの田へ行ってはもらってきた。

懐かしいことだがその風習は耕運機が入ってからなくなった。

現在はJAで苗を買っている。

それを敷いて苗代を作る。

ミトサン祀りは三月の社日(しゃにち)の日と決めている。

野鍛冶を営むFさんは今でも苗代を作って祀っている。



作り終えるとウルシ棒に括り付けたゴーサンを供えてミトサンを祀っている。

ゴーサンは十輪寺で営まれる初祈祷のオコナイでいただいたもの。

お米がうまいことできますようにと祈る。

苗がすくすくと育ってきたらいよいよ田植えが始まる。

田植えを始める前は豊作を祈るウエハジメ(植え初め)の儀式が行われる。

ウエハジメはウエゾメ(植え初め)とも呼んでいる。

オコナイのヤナギ(ネコヤナギ)は畦に挿す。

初祈祷の一週間後に営まれるオコナイでいただいたものでヤナギの木の束をイノコロと呼んでいる。

田んぼの端にサシガネ(差し金)を置いて正確に長さを測る。



サシガネはFさんが考案した田植えの道具。

他の家では一本の竹を用いる。

これだと直角にならないので正確さが欠けるという。

サシガネの長さは約1m40cmほど。

田んぼの両サイドにロープを張って距離を調える。

ロープを巻き付けている道具はタウエワク。



形状は凧揚げの糸巻きの同じだが大型版である。

一筋、二筋と植える幅を決める。

苗は藁紐で一括りにして田んぼの水で根をジャバジャバ洗う。



綺麗になったら田んぼに投げ入れる。

一束、二束と投げ入れる。

そして始まった初めの田植え。

まず、端から苗を植えていく。

一差し、二挿し。



等間隔に6苗植えたら、その場所に6本のカヤの葉を挿す。

その間は丁度一升枡が入る間隔だ。

その間は苗を植えていくほどよい足場の間隔である。

少し下がって同様に6挿しの苗を植えていく。

カヤも同じように挿す。

2段で合計12本の苗とカヤが挿された。

一年の月数を現しているという。

その数は閏年も同じで12本だ。

カヤは根張りがいいし、茎が固いので雨が降っても苗が安定して成長するという願いが込められているそうだ。

12本の苗が植えられたら畦にフキダワラを供える。



丸ごとのアオマメとアライゴメを数粒ずつ入れてある。

一升桝にはカキモチでなくアラレが。

かつて1月、2月の寒の水(かんのみず)のときに作っていたカキモチ。

ドロイモ(サトイモ)を摺ってミキサーにかけたアオマメを入れてモチ搗きの最中に入れた。

こうすると膨らみが良くて、柔らかくなるという。

エビを入れたりして作ったカキモチは、四方形に細かく切ってキリコモチと呼んでいた。

フキダワラはその名のごとく蕗で作った俵の形をしたもの。

蕗は葉が末広型なので目出度いのだという。

今回の植え初めは当時の再現。



GWの翌週に行われていたウエハジメの習慣。

数年前にはすっかり地域から消えてしまったそうだ。

現在は植え初めをすることなくナラシ棒で平坦にした田んぼを田植え機で効率よく進めている。

ナラシ棒は木製。

金属製だったら沈んでしまうが木製なら浮くので扱いやすいそうだ。

Fさんの田んぼは4反。

植える苗は本数が多い。

3~5本がだいたい普通のところを12本の苗を植える。

これを太植えという。

手植えの時代は三日もかかった。

機械植えでは6時間ほど。

アキタコマチが植えられていく。

植えたあとはイネドロオイムシの被害を受けないよう防除薬を施している。

(H22. 5. 8 EOS40D撮影)

桃香野善法寺仏生会の花まつり

2010年06月27日 08時59分16秒 | 奈良市(旧月ヶ瀬村)へ
忍辱山(にんにくせん)円成寺から住職を迎えて仏生会が営まれる月ヶ瀬桃香野の善法寺。

檀家総代や当人は花御堂にお花を飾り付けていく。

御堂の内側にはお釈迦さまの立ち姿。

甘茶の産湯は湯気が流れる。

桃香野の仏生会は一ヶ月遅れの花まつり。

今日は日曜日。

親と共にやってきた子どもたちは手に花束を持っている。

それを花御堂の傍らに供えて座布団に座る。

子どもたちと同席したのは大人衆(おとなしゅう)だ。

平日の場合は学校があるから、子どもたちは帰宅後の時間に行われている花まつり。

灯明に火が点されて始まった法要。

「ナムダイシ ヘンジョー コンゴー」のお念仏はお堂から抜けて月ヶ瀬ダムまで聞こえてきそうだ。

その間、花御堂の前に座ってお釈迦さまに向かって手を合わせ、産湯の甘茶をかけていく。



甘茶は湯飲み椀に入れて飲み干す。

まったりとした甘いお味は創業1184年の菊岡漢方薬店(奈良市内)で購入されたもの。

アマチャの葉で作っとんのと違うやろかと話す檀家衆。

飲み干したあとは焼香に移る。



子どもたちのあとは大人衆。

親に檀家総代ら役員が続いた。

「花御堂はの真ん中はお釈迦さま。今からキリストさまが生まれたときよりもさらに400年前。インドの北のほうの小さな国に生まれた王子さま。名前はシッタルダイシと呼ばれた。生まれたとき甘い雨が降ってきた。たいへん嬉しいということだ。だから甘茶をかけて仏生会式に手を合わせる。お釈迦さまが教えたお経を唱える。花は嬉しいという表現。花を飾って祝う。本来は4月。桃香野では一ヶ月遅れの会式です。お友達通し、かなわんことはしないようにという教え。仲良うしなさいということです。」を語られた説法で会式を終えた。

(H22. 5. 8 EOS40D撮影)

北野のキンズイ食

2010年06月26日 06時38分33秒 | 民俗あれこれ(四季耕作編)
ヨモギは3月に摘んでアク(灰汁)抜きをして干しておく。

それをなおしておいて、お団子を搗いたらヨモギを入れて作る。

それは一旦蒸しておく。

ヨモギのモチはきな粉をまぶしてお茶摘みのキンズイのときに食べた。

手伝いに来てた摘み子さんに早よう持っていかなというてた。

カン(寒)のミズ(水)でモチゴメを浸けたモチを搗いていた。

カビが生えないそうだ。

冷蔵庫がない時代はそう工夫していた。

モチはエビとか入れてオカキにしている。

2月末に作ったカキモチは乾燥させていつでも食べられるようにしている。

サクサクした食感がとても美味しい。

朝7時に電話をかけてきたIさんの奥さんの電話では、参考までにと前置きされて話したのがフキにピーナッツを入れていたのは三重県だという。

北野では6月10日ころにオツゲの花にホガシワの葉で作るホガシワのメシ。

キノコのご飯も作るというが山は荒れている。

フキダワラはイグサで括る。

フシ、フシで作っていたが時期が過ぎてしませんのやという。

※現在は見られなくなった二毛作。

ウラ毛はナタネやムギを栽培していた。

12、13日ころに上の池から水を引いていた。

それまでに田植えを終わらせていた。

(H22. 5. 8 電話でも)

北野の植え初め

2010年06月25日 08時23分45秒 | 山添村へ
2月25日に北野天神社で祭礼された祈年祭。

年預(ねんにょ)さんが作られた「ミトマツリ」のオソナエは田んぼの守り神にしている。

田植え始めを「植えはじめ(初め)」といって畔にフキの葉を並べてそこに洗い米を数粒置く。

これをオセンマイと呼んでいる。

フキの葉はお皿のようだ。

最初に植えた苗の横にカヤを挿す。

苗は横一列で、それぞれカヤを挿して12本。

一年の月の数だというが閏年も同じく12本挿す。

田植えを終えたら「植えぞめ(初め)」といって祈年祭のときに配られたサカキの「ミトマツリ」のお札を畔に挿す。

昔はキナコを振ったオニギリを入れたフキダワラを置いていた。

稲苗がすくすくと育つように田んぼを守ってくださいと祈る。

ほとんどの農家が人に頼んで田植えをしている北野の里。

JAから苗を買うようになったI家では今でも植えぞめ(初め)をしている。

今年は天候不順だった。

2月は初夏の陽気かと思える日々があった。

そのままだったら稲も育ちが良く、農作業が忙しくなるだろうと思っていたIさん。

3月に入ると冷え込む日々が続いて4月もそうだった。

例年なら5月3日に田植え初めの「植え初め(うえぞめ)」をしている。

4月25日には霜が降りた。

屋根には霜柱が立った。

これでは苗が育たんようになるといって、北野では植え初めの実施日を見送っていた。

昔は4月15、16日ごろが朝からシシマイだった。

午後はモミオトシをした。

そのときがナワシロマツリと言ってミトマツリのサカキを挿していた。

JAから苗を買うようになったので植え初めのときに挿している。

6月10日過ぎはウエオワリ(植え終わり)をする。

そのころの食べ物がホガシワ。

丸ごとのソラマメと一緒に炊いたご飯をホオ(朴)の葉っぱに包む。

それを供えて田んぼで食べた。

農作業の休憩時間は「お茶せなあかん」のでホガシワ弁当を持っていって食べていた。

休憩時間は朝と昼の間のキンズイの時間。

塩味が利いた豆ご飯は田植えが終わったところで食べていた。

そのころはオツゲ(ウツギが訛った)の白い花が咲く頃。田んぼにその花も挿していた。

ウエオワリはウエシマイ(植え終い)とも呼んでいる。

その後になるが12日、13日は寒い日が続いた。

田植えの苗に影響があったのだろうか。

5月12日は北野の九十八夜。

自然のヤマツツジが満開になったら神野山に登っていた。

お弁当を持って頂上まで歩いたという。

汗が吹き出すぐらいだったという。

重箱に寿司を詰めたお弁当はツツジの根本で広げた。

家の庭ではキリシマツツジやサツキが咲いている。

5月25、26日のころはお茶摘みが始まる。

新芽を摘み取った一ヶ月後は番茶摘みになるようだ。

(H22. 5. 8 EOS40D撮影)

小夫の田植えハナカズラ

2010年06月24日 08時40分10秒 | 桜井市へ
小夫は上の郷、天神社の2月御田祭行事でたばったハナカズラ。

豊穣を祈願するおんだ祭で供えられたハナカズラをもらって帰る。

それは田植え始めをするときに田んぼに挿す。

本来は苗代を作ったときに水口に挿していたのだが、苗をJAから購入するようになって育苗をしなくなったから田植え始めに供えるようになった。

そのころは水口の両脇に2本の松苗を挿していた。

ヤッコメ(若しくはキリコやアラレ)を田に撒いた。

「ヤッコメくれな どんがめはめるぞ」といって子どもが囃したてた。

ヤッコメやキリコ(水口に供える米で作ったお菓子)は子どもがもらうもの。

松苗挿せばやってきてもらっていった。

村中の苗代を狙っていたそうだ。

今の子はまったく気にすらかけたことがないとYさんの奥さんが話す。

どんがめとは石のことで、ヤッコメ(焼きコメ)がもらわれんかったら石を投げるぞという囃子だ。

田んぼはパイロット事業で開拓整備された。

田園が広がる田んぼの端から6列に苗を植える。

2段目も同じように6列だ。

それが田植え初めの儀式で、そのときにハナカズラを畦に挿す。



五穀豊穣のハナカズラは数カ所の田んぼで見られた。

Yさんが育てる稲の品種はヒトメボレ。

奈良の特産稲だ。

3反半の田んぼには苗箱を78ケース用意した。



手植えした苗は田植え初めの儀式だけで、そのあとは肥料を積んだ田植え機がせわしく動く。

村の田植えがすべて終わると天神社で奉告祭が営まれる。

無事に田植えが終了しましたと氏神さんに報告するのである。

(H22. 5. 8 EOS40D撮影)

一年後の出血

2010年06月23日 07時32分45秒 | むびょうそくさい
トイレを流したとき赤い色に染まっていた。

出血の色だ。

鮮血ではなく濁っているように見えた。

再発したのだろうか。

そういえばここんとこ、きばっていた日が続いていた。

外痔が亀裂を起こしたのではないだろうか。

明くる日も、その翌日も出血は見られない。

一か月経過しても症状はでなかった。

ひとつ安心しておこうか。

(H22. 5. 7 発生)

野依のお札

2010年06月22日 08時50分47秒 | 宇陀市(旧大宇陀町)へ
野依の苗代に挿したお札がみられる。

これは正月の日に社務所に参集したトーヤが刷ったもの。

梵字のような文字だが何を書かれているのか判らないそうだ。

トーヤは白山神社の年越しの夜から年越し参りや初詣に来る参拝者を迎える。

一晩泊まり込んでの勤めだ。

参拝者が来なくなった午後はお札刷りの作業時間。

ゆっくりした時間だという。

これをもらいに来る村人に授ける。

オンダ祭が始まる前は田んぼに入ってはならんという言い伝えがあるというから、今朝に挿したのだろう。

数日前の5月2日はレンゾの日で田植え前の農休みの日。

親戚中が集まったそうだ。

(H22. 5. 5 EOS40D撮影)

野依白山神社節句のオンダ

2010年06月21日 08時45分15秒 | 宇陀市(旧大宇陀町)へ
野依の地区は85、6軒。

宇陀川を境に西と東の垣内に分かれている。

宮(みや)、学校(がっこう)、川井阪(かわいざか)、かもいけさん、向出(むかいで)、水車(すいしゃ)など7垣内の組長や氏子総代に男と女の神さんを祀るトーヤらが白山神社の社務所に集まってきた。

二人のトーヤは社務所の屋根にショウブとヨモギを乗せていく。

御田植祭行事の始まりだ。

本殿や弁天さんなど末社の屋根にも置かれる。



そこには神饌や節句を象徴するチマキが供えられる。

チマキの本数は本殿が10本。

末社は5本と決まっている。

かって野依の御田植祭は旧暦の5月5日だった。

この日は神さまの田植え日だった。

新暦では6月の節句の頃。

各地では野依と同様にショウブやヨモギを供える菖蒲祭や端午の節句行事が行われている。

野依では一旦田植えを休まなくてはならない、不便だといって、大正時代の初めに田植え前の予祝(よしゅく)行事として新暦の5月5日になったことから「節句のオンダ」とも呼ばれている。

苗に見立てた新芽のウツギやショウブ、ヨモギもトーヤが採取してきた。

今年のヨモギは背丈が短い。

天候不順で育っていないようだ。

御田植祭は神事であるが神職は存在しない。

集まってきた人たちがそれぞれの神役を担って行われるのだ。

神役はオジイとも呼ばれる田主の大頭(だいとう)、オバア役の小頭(しょうとう)、荒鍬(あらくわ)、萬鍬(まんぐわ)、小鍬(ごくわ)、苗籠持ち、植女(しょとめ)、けんずい配り、囃子方(唄い手、大太鼓、小太鼓)ですべて男性だ。

それぞれの役割が振り当てられ、三人の植女はご婦人の手によって化粧が施される。

座敷の机に座ってお酒が配膳される。

神事は始めに神酒をいただく。



この所作は「シモケシ」と呼んでいる。

祭りごとを始めるにあたり身を清めるということであって、実にシンプルな神事儀式である。

そのあとは練習が始まった。



始めて扮する植女や大頭、小頭は先輩から指導を受けて舞の作法を覚えていく。

神役一同の呼吸が揃ったら、社務所を降りて素足で境内に登場する。

社務所の前、境内端、中央と太鼓の音頭に合わせて、オンダの所作となる「白山権現とやよの舞」が行われる。

それぞれに畑を耕す所作をする荒鍬、萬鍬、小鍬の所作。腰の引き具合が妙な形をつくる。

赤襷姿の植女は手に持った菅笠をくるりと返しながら舞う。

一連の所作を終えるたびに移動して再び舞を演じられる。

同じ舞を5カ所で行ったあとは階段を登って本殿前で舞う。



能面の大頭は烏帽子を被り直衣(のうし)姿。

腰に杵とゴザをぶら下げている。

手には蛇の目傘で開いたり閉じたりする。

後方の役者はゴザを後ろから引っ張るように持っている。

苗籠持ちは稲苗に見立てたウツギの小枝を一荷ずつ数カ所に植えていく。

それを終えたら本殿から降りて再び境内で演じられる。

数回の舞のあと小頭が社務所から登場する。

大頭と同様に能面を被った小頭。

衣装姿も同じだ。

背負っているのは大きなけんずいの桶。

傍にはけんずい配りが付く。

大頭から神役へ、持った椀に見えない飯を杓文字でついでいく。

そうすると「ワッ」と声をあげる。



お腹が一杯になったという返答の意思表示だ。

一般観客へも同じようにけんずいされて小頭は戻っていく。

神役たちは囃したて、子どもたちは演者の背中を押したり、股間をまさぐったりするユーモラスなオンダ祭だ。



和やかな雰囲気で営まれたオンダ祭は、このあとも数回の所作を繰り返して幕を閉じる。

境内には植えられたウツギが残った。

ちなみにチマキはトーヤが作った。

アシの葉の上に細いカヤの葉を乗せる。

中身の団子はコメ粉を練ったもの。

これを包んで藺草で括る。

シュロの葉茎を利用する人もおられるようだ。

チマキを食べるには料理をしなくてはならない。

鍋に水を入れて凡そ10分ほど茹でる。

柔らかくなったら箸でつつく。

茹で加減は弾力具合で判る。

取り出したチマキは砂糖醤油やきな粉をまぶして食べる。

茹でられたカヤの香りがついたチマキはとても美味しい。

6月の節句の日には自家製のチマキを作られる家もあるという。

(H22. 5. 5 EOS40D撮影)