マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

今年も明石の魚の棚

2017年07月31日 07時30分03秒 | もっと遠くへ
有馬で別れた3人は前回同様に兵庫県明石にある魚の棚を目指す。

ホテルのチェックアウトリミットは午前11時。

ほぼギリまで滞在して出発する。

カーナビゲーションに魚の棚をセットして車を走らせる。

前回に訪れたのは平成27年の3月

その年の夏に思いがけない大病を患った。

一年ぶりにと思った今年の3月は療養の身で車を運転することはできなかった。

その後の身体状況はほぼ的な回復。

完全な復帰ではないが長距離運転も可能になった。

長距離といっても東京-大阪間のような長距離はとてもじゃないがよう行かん。

大阪市内から有馬まで。

有馬から明石まで程度の距離ならなんでもない。

1年半ぶりに窓越しに観ながら走る。

セットしてから1時間ほど。

駐車の場をどこにするか決めあぐねながら探す。

というのも食事、買い物をどうするかである。

90歳になるおふくろの身体のことを考えて歩行距離を伸ばすわけにはいかない。

なんやかやと走ってあっちこちへぐるぐる走行。

見つかったのは南北通りの明淡通り。



駐車場は東西を走る表街道の国道2号線と交差する信号を曲がったところにあったタイムパーキングのインデイパーキング。

20分で100円だから1時間300円。

大阪や奈良市街地と比較したら申しわけないが、とにかく安いのである。

魚の棚商店街は東西に長い。

たぶんに東が表玄関で、西は裏口かな。

前回は表から入ったが、今回は裏から、である。



大きな姿で踊る蛸が目印だ。

その蛸は明石蛸。



トレトレピチピチの明石蛸を競りで落としたかどうかは聞いていないが、店前に丸ごと干してあった。

これだけで食べてみたくなる明石蛸。

店前に吊ってぐぐっと迫ってくる。



お店は玉子焼・お好み焼きの看板があるよし川。

「5のつく日は明石焼が500円」とある。

本日は5のつく25日。

安さに釣られて暖簾を潜ってみたいが、本日の目的地はここでない。

むろん向かいにあるお店でもない。

1年半前に入店して食べた玉子焼きの不味さに客は入っとんのかいな・・で、ある。

その並びにあったお店の名を控えるのを失念した。

思わず店員のおばさんに声をかけた干し蛸の道具。

蛸の頭にすっぽり入れたU字型の曲がり竹。

両端は戻らないように蛸紐で縛っている。

足の方はといえば、これもまた竹製。

やや太めの二本の平串で八本の足を広げて店前で干す。

この店も仕入れたトレトレの明石蛸。

自家製造の生干し蛸の竹串は大きさによってさまざまな長さを用意している。

「この竹ねぇ。店の傍に立てて置いていたらごっそり盗まれた」と困ったような顔で伝えていた。

後日談である。

翌年の平成29年7月19日に放映していた関西テレビの人気番組である「よーいドン!」。

隣の人間国宝を探しに織田信成さんが歩いていた魚の棚。

懐かしいといえば、そうであるが、干し蛸をしていたお店は社長が亡くなり、同年の6月半ばに店を閉めたと伝えていた。

この手造り感がある干し蛸の情景を、もう一度拝見したくとも見られなくなった。

放映されてはじめて知る店名は「魚梅商店」。

元々は魚屋さんで、魚の棚の商店街で一番古い魚屋だった。

その干し蛸の店で話を聞いていたらおふくろ、かーさんとも、姿が見えない。

そこそこ歩いていた。

追っかけたところにあった屋台売り。

以前、ここで買った煮蛸があまりにも美味しかった。

実をいえば、ここに来たかったのはこれをもう一度味わいたい・・・と、いうことだ。

売り子さんは若返っていた。

以前にお会いした売り子さんはもっと年寄りだった。

私の口が釣られて買った煮蛸が美味しかった。

立ち止って売り子さんに伝えた。



「これが美味かったから、また買いにきましてん・・・」と云ったとたんに用意していた煮蛸を食べさしてくれた。

小さく切ったのだから、もちろんの試供品。

これも食べてや、と云われて爪楊枝。

ではなくて、それに刺してある子持ちのイカ。

これもまた美味いのである。

またまたこれも食べてや、と云われて差し出されたアカニシ貝。

それもこれも甘くて美味しい。

しかも柔らかいのである。おふくろは入れ歯でないが、美味しい、美味しいと連発する。

帰りにでも、と思っていたが、思わず買ったと云った。

蛸を丸ごと一匹煮た煮蛸にあれもこれもパックに盛って2300円。

小型のイイダコもサービスしとくわと云って盛ってくれた。



売り子のお姉さんが云った。

駐車場はどこですか、である。

なんでも魚の棚商店街では駐車料金の一部をサービスしているというのだ。

お店の看板に「P」の文字があれば、そこは駐車サービス券を提供するという。

えっ、である。

前回来たときはこんなサービスはなかったと思うけど・・といえば、今年から始めたという。

あんたら停めた駐車場はどこっ、問いに答えた場所は前述したインデイパーキング。

そこでは利用できないが、サービス券は来年の平成29年12月末日まで利用できる。

また来てやと云って2枚をくれた。

こちら方面に野暮用ができれば是非とも利用したいものだ。



ちなみに買った屋台売りは味よし本店。

後にわかるが、西に味よし西店があり、東は味よし東店。

そうだったんだ。

商店街はいろんなお店が繁盛していた。

賑わい活気のある魚の棚。

目指すは名物の明石焼きとついついそう呼んでしまう玉子焼き。

噂によれば明石のお店の人も地元の人も明石焼きとは云わないそうだ。

広島の人が広島焼きとは呼ばない。

現地以外の人たちが勝手に云いだした呼び名が全国に広がるのである。

それはともかく美味しい玉子焼きを提供するお店である。

魚の棚商店街外れにも何店舗がある。

南に行けば明石港。

そこに停泊している漁船が映える。

そこまで行かなくとも錦江橋手前の本家きむらや(10個で620円)だ。

駐車場を捜してぐるりと回っていたときに見かけたお店。

外で食べていたお客さんを捉える写真家がいた。

家族なのかどうか知らないが、お店を前に食べる姿はかつてテレビが放映していた映像で認識していた。

そんな感じであるお店は訪れたタレントが美味しいと伝えていた。

あそこはどうだいと云えばかーさんが云った。

ついこの前に魚の棚に来ていた。

そのときの元会社の友人たちが云うには、それほど美味しくはなかったと・・。

美味かったのは商店街の一角にある明石名物玉子焼甘党たこ磯。



ここはいつも行列がある有名店。

狙いを外すことはせずに並んだ。

その時間は午後12時40分。



暇やから商店街の天井を飾っていた大漁旗を撮っていた。

売り場になにが並んでいるのか。

新鮮なのか、美味しそうなのか、それはいくらなのか、なんてことを知るには下を見る。

下ばかり見ておれば天井に吊るしてある豊漁の旗の存在に気がつかないのである。

そこばかり見ていても待ち時間は潰れない。

向かいの並びに魚の味噌漬け店がある。

どれもこれも美味そうだが懐と合わない。

それも見飽きて戻ってきたたこ磯。



出来あがった玉子焼を乗せる台を積んでいる。

誰がいつの時代に開発したのか玉子焼きの歴史に書いてなさそうな斜め台。

片足がないから斜めになる。

お客さんが食べやすいようにしているのか・・。

私が思うにはかさ高くならないような仕組み。

使ってきた歴史を物語るその台の端っこは丸みを帯びていた。

ところでこの斜め台には名前があった。

それがわかったのは平成29年8月17日に放送していた三重テレビ制作の「ええじゃないか。―おかげ旅行社ええ旅ツアー―」番組である。

お伊勢さんに関係する情報番組。

ときには地元三重県を離れて近畿周辺の他府県も訪ねてお伝えしている情報番組である。

今回の目的地は兵庫県の明石市。

「時のまちをええ旅さがし!」テーマに繰り広げる。

お伴をするのはサンテレビ所属のアナウンサー。

案内リードを任されて、日本の標準時間が示される明石の「時」の街を紹介する。

と、くればたぶんにやってくるだろうと思っていた「魚の棚」。

グルメといえば明石焼き。

70店舗もあるなかでアナウンサーがお気に入りの名店を紹介していた。

そのお店は「明石丁」。

600円の明石焼き。

オリジナル商品のあんかけ明石焼き(800円)を販売しているお店だ。

早速作って焼けた15個セットの明石焼きプレートを台に面を合わせる。

その台は手で掴めるように取っ手がある。

そこを持って面と面を合わせてひっくり返す。

そうすれば美味しそうに焼きあがった明石焼きが登場するのだ。

台は明石焼き専用の台。

それを「アゲイタ」と呼んでいた。

台ではなくて板であったんだ。

充てる漢字は「揚げ板」であろう。

何故に斜めであるのか。

「明石丁」の大将がいうには取っ手は一カ所、一枚でいいからだ。

2枚もあればどちらを選ぶか迷うことになる。

2枚の足は必要ではない。

単に「アゲイタ」を掴む利便性によって足は一枚なのだ。

だったら、足は真ん中の中央部にあってもいいんじゃないのと思う人もいるだろう。

ところが真ん中の足であれば不安定になる。

まるで一本歯のような高下駄になってしまう。

そのままであれば斜めになってどちらかに倒れる。

で、あればある程度の傾きを利用して安定させる。

そういうことになったのだろうと推測する。

話題は「たこ磯」に戻そう。

行列の人が見えるようにお店を作ったのか知らないが、親子と思われる店員さんが手際よく作っていく。

器に白い粉を入れてそこに生卵を割って落とす。

若い人がしてはったけど両手に一個ずつの生卵。

テーブルにトントンと当てて、器の上で卵を割る。

何個も割る。

そんな様子を見ていた。

シャカシャカと音を立てて玉子と粉を混ぜる。

混ぜ方はおそらくダマを出さないようにしているんだろ思う。

水で溶いたのかそうでないのか、さっぱりわからんかった。

漏斗口がある器は綺麗になった玉子焼き器に流し込む。

器を揺すって均等にする。

そしてぶつ切りの蛸を投入する。

熱が加わって周りを固めていく。

そんな情景を見ていたら席に案内された。

穴子入りの玉子焼は900円。

おふくろは目にしたくもない穴子に首を振る。

注文したのは2つ。

おふくろとかーさんで一盛りだ。

税込700円で玉子焼が15個。

熱い出汁を椀に注いでおく。

ここのお店は三つ葉がある。

これがなけりゃ意味がない。

そう思うぐらいに明石名物の玉子焼きに必須のアイテム。

アツアツの一個を椀に入れる。

箸でなんとか摘まんで一口。

アッチッチである。

口のお中に風を送ってふーふう。

喉越しも良い。

出汁と絡んで口の中でぱぁっと広がる。

二個、三個、四個・・・・。

止まらない玉子焼き。

美味すぎるのである。

特上か別にしてとにかく美味しい。

始めにチュルチュルっと吸い込む。

口の中に広がるちゅるちゅる玉子。

二度目はふっわふわの皮ごと口に放り込む。

食感が違うから面白いし、旨さも若干違うように思える玉子焼き。

同店には甘タレソースもある。

物は試しと思ってつけてみる。

美味さはそれなりに美味しいが気持ちは下がった。

青のりを振りかけたら気持ち一個ぐらい変わるかもしれないが、あかん。

やっぱり出汁で食べるのが最高だ。

こんなんでお腹がいっぱいになるんか心配は要らんかった。

たっぷりお腹に堪える玉子焼き。

他店舗の味も確かめたいが、もう無理・・・。

ちなみに同店のお水が美味しい。

店員さんの話しによればろ過していると云う。

たこ磯の玉子焼きはお持ち帰りもできる。

でもなぁ。

やはり出来たてを食べたいと思った。

お腹は満腹で店を出る。

帰りは戻り道。

途中に出合った天ぷらはとてつもなくデカイ。

店員さん曰く、これは伝助穴子の呼び名がある穴子である。

とにかくデカイ伝助穴子。

目が飛び出るぐらいにびっくりした。

話しによれば当地ではでっかい穴子。

特に300g以上の穴子を伝助穴子と呼ぶそうだ。

その伝助穴子が美味い季節は冬場。

後で知ったことだが、思わず買ったと声が出た。

前回に他店舗で買った穴子天ぷらも大きかったが、これは比べ物にもならない。



ほくほくの穴子はこれやと云って選んでくれた伝助穴子は左端の一本。

タコ天も欲しかったが、今回はお腹が欲しがらなかった。

この天ぷらを売っていたお店はまぐろや。



同店舗では丸ごと一匹の煮蛸もあった。

店員さんに勧められたが味よしで購買済み。

すまんこってす。

少しあるいたところで店内に入っていくおふくろの姿を見る。

玉子焼きを食べていて三つ葉が高いやどうのこうの話しをしていた。

最寄りのスーパーではあまり見かけない。

百貨店にあるがとてつもなく高い三つ葉がなんと80円で売っていた。

店内にあるホウレンソウも青ネギも安い。

かと云って商品がおかしいわけではない。

とにかく安い。

昨今は高根の花になったハクサイもキャベツもそこそこ安い。

町のスーパーで売っているよりも数百円も安い。

カキやミカンなどの果物も安い。



思わずなんやかやと買ってしまったお店は八百屋のてっぺんだ。

もう買うものはない。

そう思っていたが、帰り道にあったお店に売っていた赤い半纏に目が行った。

真綿を詰めた半纏が温そう。

そこは呉服屋きとや。

棚ではなく店前に置いてあった久留米絣のもんぺに目が行く。

懐かしさのあまりに店主と話をするが、嚙み合わない。

私が伝えたいのはどのような人が着ているか、である。

しかも育ってきた時代文化によって異なる野良着であるが、おふくろを見た店主の一言は戦争経験者、である。

和装の店で民俗話しをするわけにはいかず、立ち去った。

おふくろを住之江に送って我が家に戻った時間は午後8時。

今夜の食事は魚の棚で買ったものばかり。



左から伝助穴子の天ぷら(600円)、煮蛸・子持ちイカ・アカニシ貝盛りの三品(2300円)。

肴がうまいもんだからたまらない。

発泡酒はいつになく2本目に突入した。

(H28.11.25 SB932SH撮影)

有馬ダイヤモンドソサエティの朝食

2017年07月30日 09時25分51秒 | もっと遠くへ
朝の目覚めは悪くはない。

適度な室内温度で布団から足を出したり、布団を被っていたり寝ながら調製していたらしい。

朝食は8時からと歩調を合わせて昨夜は眠りについた。

我が家であれば身体が起きるのは1時間半以上もかかる。

新聞を読みながら目を覚ます。

顔を洗って歯を磨く。

それからトイレに入って・・・。

目覚めは豆乳も飲んでいる。

そんな生活パターンから外れると身体がうまい具合に反応しない。

つまりはもよおさないのである。

ちょびっとはあったものの無理はできない。

諦めて館内の朝食場に出かける。

乗ったエレベータに貼ってあった朝食は1階レストランの朝食ビュッフェ。

何年か前からバイキング形式になった朝食は大人一名で1620円。

豪華な朝食代である。

こればかりは棄権するわけにはいかない。

エレベータを下りてレストラン受付。

並びが出るくらいにお客さんで集中していた。

そこを出てきた男性に目がいった。

どこかで見たことがある男性は男前。

体格もあるし姿勢も良い。

そうだ、テレビでも見たことのあるプロ野球の解説者。

尤も昔は阪急ブレーブスの大投手。

思わず〇〇さんですか、と云えば笑顔で返してくださった。

名前を明かすわけにはいかないが、二十歳代の私はその男性によく似ていると云われてきた。

かーさんもそう云っていたが、気がつかなかったようだ。

だれかと話している私を見て、取材先の人だと思ったらしい。

先にテーブルについて食事を済ませていた弟夫婦もその男性を認識していた。

紳士的な顔立ちの男性が気になっていたようだ。

まさか、至近距離に遭遇するとは思ってみなかった。

握手させてもらっておけばよかったと思っても、もう遅い。

そんなドキドキ感が消えないうちにバイキング。

出来たてほかほか料理を区分け皿に盛っていく。

和食もあれば洋食も。

どちらかと云えば和食が占有している。

朝食の場におられたお客さんは高齢者ばかり。

我が家も一人いるが、だいたいがそれに近い人も。

オーナー会員制の有馬ダイヤモンドソサエティはいとこのねーちゃんが登録会員。

メンバーズリストにあるらしい。

購入したのはねーちゃんの子供が少女だったころ。

あれから何十年経っただろうか。

若かったオーナー年齢はそのまま平均年齢があがった。

そう思うぐらいの客層である。

前回に来たときは赤ちゃん連れの家族もいたがこの日の朝は見かけない。

二十歳代もいない。

一番の若い人でも50歳代であろうか。

そういうことだから高齢者向きの料理になった。

そう思うのである。

並んだ料理を選ぶのが楽しい。

楽しくてついつい小皿ゾーンに盛ってしまう。

食べ過ぎたらあかんと思いながら、あれもこれもと思って盛ってしまう。

作り置きでもないバイキングは次から次へと出来たて料理が運ばれる。

それではなく目の前で料理されるのもある。

オムレツであるが、諦めてソーセージとベーコンにした。

それだけでは寂しいと思ってオニオンフライも盛った。

飲み物はジュース。

前もよばれたが、これが美味しいのである。

口の中をさっぱりと潤してくれるジュースはゴクゴク。

たくさん飲んだ酒も洗い流してくれるジュースはおかわりも。

飽きないジュースは結局のところは3杯である。

まだ、食べるんかいと云われそうだが、これだけは逃したら後悔する。



そう思って別腹に入れるトロロ汁に味噌汁、肉団子汁。



ラストはオレンジにライチで締めた。

(H28.11.25 SB932SH撮影)

有馬ダイヤモンドソサエティの夜宴

2017年07月29日 09時01分29秒 | もっと遠くへ
自宅を出発した時間は午前11時半。

いつも通りの第二阪奈道路と阪神高速道路を利用して大阪市内の住之江に向かう。

時間帯はお昼だったのか渋滞はまったく見られずスイスイ走る。

買ってきた家で使う必需の消耗品を置いてさあ出かけよう。

カーナビゲーションをセットした行先は兵庫県の有馬町。

宿泊先のアドレスは覚えてないが、まぁ着くであろうと思ってセットしたが・・。

走った阪神高速道路を下りようとするナビゲーション。

それに逆らって先を行けばなんども下ろそうとする。

ここやろ、と思って降りたら、やはり違う。

仕方ないから地道をそのまま走って池田から中国自動車道に入った。

ここでも途中で下ろそうとするナビゲーション。

やはり逆らって目指すは西宮北。

そこへ行けば思い出す。

だが、なんとなく違う。

下りてからナビゲーションは芦有道路を指図する。

そんなところにうかうか入ったらエライ目に合う。

無理やりハンドルを切ればどこか懐かしい住宅街。

病院はおふくろも記憶する。

そうだ、ここがスーパーmandaiの西宮山口店。

今夜の食事を買い込む。

パック詰めのにぎり寿司は新鮮ネタで握った9カン。

これを2パック買った。

ご飯けがあるのはこれだけだ。

今夜はおふくろにかーさん。

そして先月に神戸へ引っ越した弟夫婦。

合計で5人。

そんなに食べられないと聞いていたから少な目にする。

尤もそれだけではお腹を満たさないので煮穴子の押し寿司。

お造りは中トロのまぐろに赤みのマグロも。

これはおふくろの好み。

穴子はあかんが、大のお気に入りがマグロである。

造りはアジもあれば水タコもある。

惣菜系は甘辛黒酢の肉団子。

野菜も入っている。

油もんは骨付き鶏肉。

塩胡椒を利かせたパンチ味。

唐揚げが欲しいといったおふくろの声に釣られて買ったしまった。

中華は餡かけ出汁を垂らしたシューマイ。

それだけではと思ってキュウリ、ナスビに菜っ葉の漬物である。

飲み物はクリアアサヒのプライムリッチ。

初物であるが、なんとなく美味しいだろうと思って買った。

それだけでは足らないと云いだすかも思って冷凍酒も・・。

これらでまとめてお釣りもあった7千円。

写真は撮らなかったがショウガ天や加賀揚げも買い物かごに入れた。

1年と半年ぶりの利用になった有馬ダイヤモンドソサエティ。

ふた家族は洋間、和室に分かれる。

そろそろ到着するであろう。

メールにそう書いてあった。

五人が揃えば賑やか。

話題は近況から子供たちのことにネット環境までも・・・。

もしかとしてと思って持ってきた我が家のノートパソコン。

ホテルにネット回線があるかもしれないと思っていた。

だいぶ前のことだが、ライン回線があったように思える。

実態があったのか、それとも夢の中のまぼろしであったか、どうかはまったく記憶がない。



フロントでいただいたカギを回して入室した部屋に一枚のシートがあった。

それに書いてあった利用方法。

「WI-FIがお部屋で利用できます」とあった。

SSIDにパスワードもある。

指定された環境下で動くのだろうか。

多少の心配もあったが、なんとかネットを設定して繋げた。

インターネットは問題なく動く。

そうであればタブレット端末も持ってくればよかったと思っても、もう遅い。

そうこうしているうちに弟夫婦が電車を乗り継いでやってきた。

我が家の車は軽自動車のバンタイプ。

しかも商用ナンバーである。

それは特に関係はないが定員は4人。

一人がはみ出る。

5人が乗れない軽自動車はこういうときが不便だ。

とはいってもそんなときは一年に一度があるか、ないかである。

無用なものには金をかけない。

我が家であれば軽自動車で十分なのである。

そんなこととは関係なく有馬の駅に着けばホテルに連絡すれば専用車が出動してくれる。

それに乗ってやってきた二人が揃って賑やかになったのだ。

温泉に浸かって夕食は座敷部屋でいただく。

当館の夜の食事は我が家にとっては価値観不一致の高額金。

乗ったエレベーターに貼ってあった案内は新館25周年を共に祝う会席『星』の献立があった。

献立内容を見ることはないが、価格は見てしまう。

なんと、なんとのスーパー万代で買った5人前の買い物値段よりもやや高い一人前の料金。

我が家は会席料理の1/5で済ませる。

かつてはここのホテルの会席料理を食べていたが、何回かきているうちに今の方法で済ますようになった。





泊まる室内でゆっくり寛ぐ家族の団らん。

食べて、飲んで、喋って、笑っていた今夜の宴のときを過ごす。

話題が尽きない会話が弾む夕べに旨い発泡酒。

まろやかな味にごきげんで冷酒もぐいぐい。



足らなくなったと云って館内で売っていた自動販売機の発泡酒もクリアアサヒのプライムリッチだった。

話題は昔のことに戻っていく。

かーさんが嫁入りしたときの住之江の市営住宅はバラック小屋だった。

そのときの写真がパソコンの中にある。

これで思い出してみよう。

私と弟のたち姿もあればおふくろが次男とともに大和川にいる姿もある。

ばあさんが抱いている赤ん坊は重治さんの子供。

なぜか訪れたお宮参りは富田林の川西の神社だったとは・・。

何枚もあるから話題が尽きない。

テレビなんてまったく見ることもなく午前零時の鐘が鳴る。

今夜はこれぐらい。

お休みなさいで締めた。

(H28.11.24 SB932SH撮影)

ラ・ムー桜井店の広島風お好み焼き

2017年07月28日 09時05分35秒 | あれこれテイクアウト
高取町の取材を終えた午後は週に一度の心臓リハビリ運動。

いつもであれば午後1時半より始めるが、この日は取材で伸びる可能性があると思われて午後3時のプログラムに換えてもらった。

案の定となったお昼どきは午後の1時過ぎ。

高取町から天理市に向けて走っても1時間はかかる。

途中にいいところがあるのか・・・あった。

丁度の処にあったラ・ムー桜井店。

最近になって度々お買い物をしているお店だ。

ここは他店舗とちょっと違う。

売り物にお客さんが必要とする量り売りバイキングがある。

10月2日に訪れたお店である。



いろんな惣菜があるなかで買ったのは豚バラ肉と炒めたキンピラゴボウ。

1g1円の量り売りに感動して買ったお店である。

それはともかく本日の昼ご飯である。

弁当類や丼も食べ飽きた。

飽きるほど食べてはいないが他にもえーものがあるやろ、ということだ。

お店に到着するまでの希望の品は海鮮巻き寿司だった。

それがなかった。

仕方ないから他の食品を探す。

これはなんだと、思って買い物かごに入れた。

出来あがったばかりのパック詰め料理はまん丸い。

そ、お好み焼きである。

それも広島風の冠がついている。

これまでお気に入りの広島風お好み焼きは・・に常時売っている。

とにかくこれが美味いのだ。

物は試しと思って籠にいれた。

支払った金額は税込みの298円。

あり得ない値段。

しかもだ。

パックの蓋を開けてしばらくごくんと生唾。



どこから箸を入れていいやら数秒間も眺めていた。

圧倒されるこの迫力。

ど、がつくくらいの迫力ある円盤の直径は18cm。

見た目のとおりキャベツが盛り盛りに上から被せたような卵の薄焼きのようなひらべったいものからはみ出るように波があるのは焼きそば。

千切り紅ショウガにあっさり系のマヨネーズがある。

このお好み焼きはとにかく多いたっぷり塗ったソースが決め手。

口に入る分だけを箸で掬って放り込む。

捨てるんではなく大きく開けた口に放り込むのだ。

シャキシャキ感のキャベツが旨い。

ソースが絡まった焼きそばも美味い。

紅ショウガにマヨネーズを少しずつばらまいて散らす。

ほどよいところでかかる引き締めのショウガがいいねっである。

しかし、まーなんですわ。

とにかくなかなか減ってくれないお好みは焼きそばばっかりの食感だ。

いったいお好みってどこっ。

あったにはあった。

結局、見つかったのは底面だった。

上蓋に貼ってあったシールを見る。

材料は千切りキャッベツに焼きそば、お好み焼きソース、玉子、お好み焼きシート、もやし、豚肉、マヨネーズ、天かす、葱、鰹節、紅生姜、青のりだった。

つまり底面は薄く引き伸ばしたお好み焼きのシート。

シートというぐらいたぶんに大量生産しているんでは・・と思った。

広島風のどこが広島風なのか。

そりゃもうキャベツしかないでしょ、と云いたい。

それが決して不味くはない。

豚肉はたぶんにバラ肉。

三切れほど入っていた。

葱の味覚は感じなかったが、ところどころで感じたのはモヤシだ。

キャベツとはまた違うシャキシャキ感が良い。

食べ終わって胃袋状態を見た。

満腹ぷくぷくである。

この旨さ、ボリューム感があって税込の298円。

あり得ない昼ご飯に感動した。

(H28.10. 2 SB932SH撮影)
(H28.11.22 SB932SH撮影)

ラ・ムー京終店のエビフライ弁当

2017年07月27日 09時09分56秒 | あれこれテイクアウト
野鍛冶屋さんの取材は長時間におよんだ。

質問事項は多数ある。

久しぶりの工程取材はところどころを覚えているが記憶にないものも多い。

そんなあれやこれやで昼食時間はすっかり遅くなった。

予め買っておいたエビフライ弁当は184円。

税抜き価格で売っていたお店はラ・ムー京終店だ。

買った時間は朝の9時。

食べるのは午後2時半。

すっかり冷めてしまったと思われたご飯におかず。

思っていたよりもカチカチにもなっていない。

この日の外気温はどれくらいであろうか。

奈良市内の最低気温は8.0度だった。

記録上であるが最高気温は18.2度。

先日の寒さはどこへ行ったやら、である。

寒くもなく暑くもない穏やかな日だった。

車中でいただくエビフライ弁当は食べごろ・・・かも知れない。

箸で摘まんでほうばるご飯。

添えつけの香物は黄色いコウコ。

甘さが口にあうコウコをぱくつきながらご飯をいただく。

これが美味しいのである。

エビフライはタルタルソースがあればもっと良いだろうに、と思うが、何故か美味しく感じる。

コロッケにソースは不要。

ソース味に塗れたコロッケは本来の味を損ねてしまう。

揚げたてであればもっと美味しいが贅沢はいってられない弁当もの。

鶏の唐揚げも味がある。

これらは下味に工夫しているのだと思う。

ポテトフライは以前より味が良うなった。

ところでフライもんの下に詰めていた焼きそばがある。

一口目で感じたのはカレーの風味。

若干のなにかが入っているのだろうか。

ペロペロとたいらげた弁当はお値段以上に味わえた。

(H28.11.11 SB932SH撮影)

標高高ければ外気温は低い

2017年07月26日 10時05分06秒 | あれこれテイクアウト
今日は手がかじかむぐらいに寒い。

菊の花飾りはまだ終わらない。

一旦は帰宅命令を出したタイショウの指示は1時間後に集まれだ。

その間はようやくお昼にありつける。

道の駅に行けば熱い汁はあるだろうと思って国道を戻る。

そこは朝から満車だった道の駅。

野菜をがっぽり買っていく人たちで大にぎわいだった。

それから数時間も経てば少しはマシになるだろうと判断してやってきた。

まさにその通りの道の駅は能勢(くりの郷)/能勢町観光物産センターである。

レストランもあるが家計と合わない。

近隣の農家さんが栽培した野菜は処せましにさまざまなものがある。

ダイコンなんぞは運ばれてくるなり我も我もと群がる買い物客。

町のどこからくるのであろうか。

売り場は瞬く間に占領された。

結局買ったのは四個入り富有柿を2袋。

合計で208円とは驚く安さであるがややこぶりである。

帰宅してから食べたが、むちゃ美味しかった。

ここでは手に入らなかった汁もの。

そういえば道中に総合スーパーがあったはずだ。

そこは服も売っているような看板があった。

寒い日を耐える時間は後半戦に身体はもたない。

風でもひけばやっかいなことになる。

そう思って飛び込んだ総合スーパーは街の冷蔵庫の謳い文句がある能勢ショッピングスクエアNOSEBOX。

一般的なスーパー売り場に本屋さん、パン屋さん、衣料品も売っている。

とにかく何かが要る。

店内に入って品探し。

これだと思った温かジャケットは税抜き1500円。

寒さが厳しいので・・と云ったら店員さんは「ここ能勢町の標高は高くて大阪市内に比べたら寒いから、こういうのって必要になるんです」と云ったのがよくわかる。

ちなみにここでは標高が海抜440mになるが、取材地の天王地区は540m。

さらに厳しいのであった。

次回に訪れようと思っている取材日は1月7日。

根雪はないらしいが冷え込みはたっぷりのようだけに防寒服をきっちりしておきたい。

そんなことを考えながら、クレジットカード支払いを済ませて買った衣服。

サイズはぴったりのほわっとするジャケットはすぐさま着た。

値段も手ごろな温い服に大満足。

さて、昼食である。

時間はとっくに過ぎた午後2時半。

数カ月ぶりにご対面する曲げワッパの手造り弁当。

イカの天ぷら、ホウレンソウの和え物、鶏肉とタマネギやキノコのトマト和えに大きな粒の丹波の黒豆。

ご飯はジャコを振りかけている。

塩気があるのかとても美味。

外気は冷たいが車中食は温かい。

ほんわかする空間でいただく弁当の味が徐々にわかってきた。

(H28.11. 6 SB932SH撮影)

上土佐陶芸家の民俗文化遺産

2017年07月25日 09時05分12秒 | 高取町へ
神農社の神農薬祖神祭を取材し終えて駐車場に戻っているときだった。

案内、同行取材していたNさんが通りがかりの男性に声をかけた。

どちらともなく声をかけたようだったに思う二人は地元民。

昔から知っているようで、地元の話しには首を突っ込むわけにはいかない。

今日は神農社の神農薬祖神祭の行事を拝見していたと伝えるNさんは神農さんの掛図も見てきたという。

その掛図で思い出された男性は我が家にそういえば・・。

今はしていないがおばあさんたちが廻り当番の家に集まって念仏講を営んでいたという。

数か月に一度は集まって部屋で数珠繰りをしていた。

以前は月一に一回は集まって数珠繰りをしていたが、数か月に一度。

やがて回数はどんどん減って最後の方では年に一回だけの講中の集まりになって終わったそうだ。

最後はともかく講中は西国寺の住職とともに営んでいたというから念仏・導師が住職で講中は数取りが50玉の算盤玉で数える数珠繰りしているように思えた。

その算盤玉は畳の縁に釘のようなモノで挿して一直線にする。

縁から縁へと繋ぐ一直線の算盤玉。

一回繰るごとに玉を一つ移動する。

そうすることで50回の数珠繰りを数えていた。

また、お葬式に阿弥陀さんにかける白衣もあるという男性は陶芸家日本工芸会正会員のYさん。

四月には会員を招いて雛祭りのお茶会を催しているという。

高取町といえば「町家の雛めぐり」。

家で祭ることのないお雛さんを集約して土佐街道沿いの元商家で展示している。

期間は3月1日から当月末まで。

そのイベントが終わった4月初めの日。

陶芸家は旧暦の4月3日に照準に合わせた数日間に亘って会員特別の雛祭りをしているという。

陶芸家がある家は土佐街道。

商家など懐かしい町並みを形成する街道の一角にある。かつては街道通りにいっぱい見られた手形は見ることもないという。

手形は八十八歳の米寿祝いのテハン(手版)である。

今もその風習をしている民家は取材先で度々目にする。

目にはするが屋内の場合もあるから一般人が目につくことはない。

京都祇園の魔除けの「長刀鉾」粽はあるが、テハンはない。

奈良町もそうだが、祇園の魔除けはあるがテハンはない。

旧家町家によく見られる「長刀鉾」粽にシャッターを押すことは滅多にない。

ちなみに上がらせてもらった陶芸家の玄関には稲穂を垂らして飾っていた。



時期は新嘗祭であるから餅米を束ねて紅白紙に包む。

それを金銀の水引で括って吊っていた。

伊勢講も念仏講も解散されて行事は途絶えた。

家のどこかにあるはずだから見てごらんと云われてNさんとともに上がらせてもらう。

陶芸家は蔵からだしてきた講箱を見せてくださる。



箱の蓋表にある墨書文字は「明和三稔(1766) 念佛講 十月□調」とある。

講中が保持していた文書も同じ年号の「明和三年(1766) 念佛講 十月起」である。

明和三年(1766)から記帳されてきた文書の最後の方の年号は平成13年11月20日。



それが講中最後の営み日付けだと思うが、当家の名を記すとともに農協預金したと書いてあった。

平成10年は陶芸家が当家だった。

念佛講が始まってから終わるまでの期間は236年。

陶芸家が預かり保管する貴重な史料を拝見できて感謝申し上げる。

この場を借りて厚く御礼申し上げます。

陶芸家は他にも貴重な道具を見せてくださる。



長刀に槍や袖搦(そでがらみ)もある。

まだあると見せてくださる貴重な品々に圧倒される。

(H28.11.22 EOS40D撮影)

下土佐恵比寿神社境内社神農社の神農薬祖神祭

2017年07月24日 09時27分26秒 | 高取町へ
高取町下土佐・恵比寿神社境内社に神農社がある。

毎年の11月22日ころ、高取町や明日香村で薬を製造販売している製薬工業組合の人たちが参拝する行事がある。

行事は中国で薬草を舐めて薬草を発見していた神農さんを祭る薬祖神祭である。

農業の神さんともされる神農さんは薬になるもの、薬にならないものを口で舐め、歯で噛んで試された。

神農さんは古代中国に伝わる伝説上の薬祖神。

頭に二本の角がある。

薬の葉で作った衣服を纏い、薬草を舐めている立ち姿が特徴的。

中国古来という年代は4千年前どころか5千年前とかの説もあるが、明確な史実はなく伝説上の神さんである。

日本ではいつから始まったのか、わからないが、少なくとも古来ではなく、江戸時代からのような気がする。

京都二条通りの神農さん行事は江戸時代後期の「薬師講」の行事としてはじまった。

元治元年(1864)七月の蛤(はまぐり)御門の変によって二条の薬業街が焼失したときも「神農尊の御神事滞りなく相済まし申候」と書かれた記録があることから、それ以前からも行事があったということだが。

東京日本橋にも同様の薬祖神を祭る行事はあるが、明治41年になってからだ。

有名なのは大阪市内の道修町。

薬の町として名高い道修町にある少彦名神社で行われている神農祭がある。

安永九年(1780)、道修町の薬種中買株仲間が、当時全盛だった漢方の守護神である神農さんと日本の薬祖神のスクナヒコ神を合わせ祭ったのが創始であると作家の戸部民夫氏著の『日本の神様と日本人のしきたり』に伝えている。

同著に書かれている少彦名命(スクナヒコノミコト)。

要約すれば「ミコトは海の彼方の常世の国ガガイモの殻の船に乗ってやってきた。薬師(くすし」が崇敬した守護神の意味合いがあるミコトは古くから医薬の神さん。酒造や温泉の神さんとして信仰もある。病気平癒と薬師信仰との共通性から神仏習合の際には薬師如来とされてきた」と、いうことである。

それがいつしか中国古来の薬祖神とされる神農さんと結びついたのである。

神農さんが薬祖神として広く信仰されるようになったきっかけは、江戸幕府御薬園(薬草園)に祀られたことによる。

それがいつのころか民間の薬草問屋などの広がることによって少彦名命と一緒に祀るようになったと、戸部民夫氏はいう。

ちなみに大阪道修町の発祥は戦国時代。

豊臣秀吉が大坂城の城下町を造ったころとされる。

平成29年7月8日に発行された産経新聞の特集「薬種商・田邊屋五兵衛伝―道修町への道⑥―」によれば道修町の最も古い記録は明暦四年(1658)の「似せ薬(偽薬)取り締まり」に関する文書に、当時33軒の薬種商の署名捺印があるらしく、田邊屋初代の五兵衛の創業は延宝六年(1678)で、そのころは既に道修町の原型ができていた、とある。

ただ、現在のような薬の町になるのは、享保七年(1722)、徳川八代将軍の吉宗の時代に、「薬中買株仲間」が公認された以降になるという。

そもそも薬草園の始まりは、天武天皇の時代に薬師寺に附属して作られたとも。

大宝元年(701)に制定された大宝律令に「薬部」と呼ばれた人たちが薬用植物の世話係りに任命されていることが書かれてあるそうだ。

その後の発展状況はわからないが、薬草園が最も発達したのが江戸時代。

薬草を受け入れた場所がある。

長崎の出島である。

ヨーロッパやアジア、アメリカ産などの世界各地の薬草木の流入は出島があってこそ成り立っていたのである。

出島のオランダ商館に派遣された医師や科学者によってもたらされた西洋の医薬学・植物学の流入が日本の本草学と薬園の発達に多大の影響をもたらしたことによってさらなる発展があった。

もちろんシーボルトの名も登場するこうした経緯は長崎大学薬学部の「長崎薬学史の研究」が詳しいので参照させていただく。

江戸幕府が開設した薬草園は寛永十五年(1638)の江戸麻布・大塚から始まって享保十四年(1729)の奈良大和までの8カ所。

また各藩による設置薬草園は元禄年間(1688~)の尾張から始まって弘化三年(1846)の島原までの11カ所だ。

その他にも私設の薬草園もある。

享和二年(1802)、肥州長崎図に描かれる西山御薬園。

その後の文化十一年(1827)に現在の西山町に移転される。

維新後に一旦は長崎県の所有になるものの入札売却されて幕を閉じたが、御薬守の瀬戸口邸庭内に「鎮守神農の像」が残された。

その後の大正時代、松森神社に遷されるも昭和49年以降は長崎県薬剤師会によって毎年の11月に薬祖神祭を行っている。

このような事例からも神農さんを祀って薬祖神祭が始まったのはそれほど古くはないのである。

前置きが長くなってしまったが、江戸時代の経緯を知ることによって地域の行事の在り方が見えてくるのでご容赦願いたい。

毎年の11月22日、23日は大阪市内の道修町・少彦名神社行事の神農祭。

そこで売られている張子の虎の「神虎」がある。

文政五年(1822)、流行ったコレラ病がキッカケになるそうだ。

コレラは当時「三日亡(みっかころり)」と云われたくらいに死にいたらしめる流行り病である。

それによって薬の町はどうしたのか。

「鬼を裂く」といわれる疾病除けに虎の頭骨など十数種類の和漢薬を配合した「虎頭殺鬼雄黄圓(ことうさっきゅうおうえん)」という丸薬を作った。

それと同時に「張子の虎」を笹に括り付けて施与したそうだ。

虎はともかく大阪の製薬会社は玄関に自社製品を大笹に吊るして飾るようになった。

その時代はずっと後年になる昭和25年のことである。

大阪に出かけて買ってきた「神虎」も供える下土佐神農社の神農薬祖神祭。

町内に貼られていた案内では無病息災笹虎まつりの「神農祭」である。

よくよく読めばその左にある行事名は「神農薬祖神祭」。

高取薬業連合会が主催する行事である。

昨年の行事日は11月20日の平日の金曜日であった。

毎年替わる行事日はどのようになっているのか聞いたことがある。

行事日本来は11月22日であったが、祭日の23日に移行した。

ところが、町は高取城まつりを23日に行うことに決めた。

決めたことによって神農薬祖神祭の行事日が同一日になった。

これを避けるには他の日に移さざるを得なくなった。

神農薬祖神祭は基本的に23日直前の平日とした。

ところがだ。

23日が祝日の月曜日になれば、日曜、土曜を外した前週の金曜日になる。

23日が祝日の火曜日であれば前日の22日に行う。

実にややこしい日程決めであるが、今年は23日が水曜日。

と、いうわけで神農薬祖神祭の日程は自動的に決まって22日。

そういうことであるから祝祭日、土・日曜日はすることがない。

何故にそういう決め方にしたのか。

理由はこの日に参拝される方々の仕事都合である。

先週の16日は御所市宮前町神農社の薬祖神祭だった。

その行事にも本日の下土佐行事にも参列される人たちがいる。

来賓招待に、主に医薬品の製造に関する事務分掌する奈良県庁職員(医療政策部業務課)らも参列される。

薬事に関する啓発として参列される分掌は公務。

で、あれば平日となる。

そういうことであるから御所市の神農社行事もたぶんに平日の行事日であろう。

前年も取材した下土佐の神農薬祖神祭であるが、今年も、という理由がある。

実は御所市の薬祖神祭と同様に直会の場に神農さんの掛図が掲げられることを知ったからである。

そのことを教えてくださったのは高取町丹生谷に住まいするNさんだ。

今年の行事日や神農図を掲げる場所などを連絡していただいたのは11月初めであった。

同日はNさんの知り合いである高取町の製薬会社においても午前11時半ころから神農さんの掛図を掲げて従業員がお祭りをするそうだが、下土佐神農社の神農薬祖神祭の時間帯と同時間帯。

民俗記録に欠かせない神農図の在り方で見逃せない。

来年は同社を訪れてみたいと思っている。

御所市の神農社の薬祖神祭もそうだが、それぞれの代表者に取材の承諾をとってもらっているのでありがたい。

ご本人も知っておきたいということであるが、知り得ることのない薬業関係者に直接アポイトメントをとってくださる今回の件は本当に感謝している。

到着したころは神饌御供の調整中だった。

本日、参拝される高取町・明日香村製薬工業組合の役員さんたちは玉垣に立てる笹竹立て作業もあるし、神社の幕張りも、である。

笹には昨年に見た通りに数々の薬の空箱を吊るしていた。

高取町の薬箱を笹に括って飾っているのは大阪道修町の在り方を模したのであろう。



この日は晴天。

青空に映えていた。

玉垣には「薬」の文字をあしらった紋に白抜き染めの「神農祭 高取薬業連合会」旗もあるが、昨年にあった張子の虎が見られない。



どこにあるのか辺りを見れば、割拝殿に掲げていた「昭和五年四月吉日 高取薬業會」寄進の幕の処に移っていた。

その幕の奥に見えるのが恵比寿神社。

神農社はその左手にある。

本社殿は10年間に亘って積み立てた資金拠出によって賄った改修工事。

資金の一部は現在消滅して活動していない戎講が残した積立金もあるし高取町内外の温かい支援もあって、恵比寿神社ともども神農社は平成24年10月に改築された。

玉垣なども替えてすっかり新しくなった神社に大勢の関係者がやってくる。

神事の場は恵比寿神社本社殿左に建つ神農社である。

昨年の行事に張っていた幕はみられない。

昨年も今年も斎主を務める宮司(高取町薩摩在住の武村宮司)は気がつかれた。

神農薬祖神祭の行事は恵比寿神社ではなく神農社に向かって行われる。

幕は恵比寿神社に飾るものあるから掛けるものではない。

そう伝えられて一旦は掛けていた幕を下ろした。

「薬」の文字がある薬業連合会の提灯は両脇に吊るす。

神饌御供は神事の前に揃えて並べておく。



鏡餅に鯛、スルメ、野菜、果物に御供餅もある。

右に置いたのは前述した道修町・少彦名神社に出かけて購入した張子の虎の「神虎」。

笹に括っていることからササドラ(笹虎)の名がある「神虎」もある。

そして、薬祖神祭の神事だけに壁際左側に高取町で生産されている数々のお薬も奉納される。



修祓、祓の儀、祝詞奏上、玉串奉奠など厳かに神事が行われる。

高取町薬業連合会が纏めた史料の平成13年11月22日(木)斎行の神農薬祖神祭の「思い出綴り」によれば、昭和43年の「薬祖大神の祭典」がはじまりのようだ。

その年は高取町商工会薬祭奉賛会が大阪道修町の例祭に倣って祭事を主催していたそうだ。

直来の会場は上土佐公民館であった。

翌年の昭和44年に現在の高取町薬業連合会が組織され、今に至っている。

そのときの記事に「2001年(平成13年)11月22日・・・健幸の町・・・たかとり。奈良県高市郡高取町下土佐えびす神社 くすりの町 高取町に継承される薬祖神祭が、今も変わらず開かれる」とある。

神農社ではなく斎行の場は下土佐えびす神社だったようだ。

さらに続く記事に薬祖神祭のかつての原型を詳しく書かれていたので全文を引用させていただく。

「今なお、継承されている“くすりの町・・高取町の薬祖神祭”の原型は、大正14年(1925)、薬業工業組合を結成して同時に三輪明神大神神社の一つである大物主命、辺都磐座(へついはくら)即ち、少彦名命の分身をお下げいただき、執り行われた“薬祖大神の祭典”とされる。伝え聞くところによると、祖神は、大正14年からさかのぼること明治40年(1907)、代表者数名が、若かりし頃、紋付き羽織袴で御分身を乞い奉りに行ったとも伝えられている。」

続けて「明治40年当時の高取町は、特に明治末期から大正にかけて薬業の全盛期でもあり、経済的には勿論のこと、自治政治面にもその覇を握っていた・・と伝えられ、毎年薬祖の神さま信仰崇拝の念を忘れず大祭を厳修され、今日までも代々継承されている。」

「その長きにわたり“薬祖神”が祀られている“えびす神社”・・・、祭神を恵比寿神社、御名 都味歯八事代主命(ツミハヤエコトシヌシノミコト) 初戎 正月十日とし、伊勢から下ってきたことから“クダリエビス”と称され愛されている。しかし、伝えられる資料に限りがある・・・。それは、土佐の大火で創建時の文書が焼失し、あくまでも推測であるが、現在のえびす神社は1705年(宝永二年)新築のものとされ、恵比須のご神体を請来され、神社の創建に努力されたものと思われる」と書いてあった。

前年取材に聞いた分霊を勧請し遷された神さんは三輪大神神社の磐座神社であった。

その話しは確かに合っている。

その神さんは前述した少彦名命、つまり辺都磐座(へついわくら)であった。

その磐座神社は薬の神さんの狭井神社に向かう参道「くすり道」途中にある。

神社略記によれば、480年、第22代清寧天皇の御代に辺都磐座に鎮座したと伝わる。

なお、磐座神社は社殿なく、イワクラ(岩座)をご神座としている。

神事を終えた一行は場を替えて直来会場に移る。

場は高取町役場横に建つ商工会館である。

そこへ行くには土佐街道を近鉄電車壺阪山駅に向かって西へ、であるが、その途中に、これはというモノがあった。

土佐街道の一角にある建物である。



風情がある建物角の屋根瓦に紋がある。

Nさんの話しによれば紋「一山」は高取藩主の家紋になるそうだ。

藩主といえば最後の殿さんこと植村家。

長屋門が有名であるが、所在地はここではないと思う。

ちなみに植村家の家紋は「一文字三剣」。

では、だれなのか。

「一山」が推定するには藩主の「桑山一玄」を想定する。

「桑山一玄」の中央にある二文字をとった「山一」をひっくり返した「一山」が家紋だと思うのだが、よくよく見れば横「一」に三本立てた剣の先だった。

「山」に見えたのは思い込みの誤読。

ここは藩主植村家の家臣屋敷家。

今は自転車屋さんの屋根にその遺構がある。

さて、商工会館である。



その会館角にそびえるような高さに立てた石柱がある。

これは高取町観光協会が建てた「天誅組鳥ケ峰古戦場」の場を示す支柱である。

すぐ下には「鳥ケ峰古戦場」の謂れが書いてあった。



説明文に「文久三年(1863)8月17日 天誅組は、倒幕の狼煙を上げるために五條代官所を襲撃し、26日には日本一の山城高取城を攻撃すべく攻めてきて、高取藩はここ鳥ケ峰に、城代家老中谷栄次郎を総指揮に防御追撃体勢をととのえ、大砲4門が火蓋を切り天誅組は五條に敗走しました」とあった。

その説明文の上はカラー色の交戦絵図。

当時の高取城に対して対峙する高取勢の位置関係を描いている。

それを見届けて会館2階に上がる。

予め掛けられていた神農図は団体の高取町薬業連合会の了解を得て撮らせていただく。



薬草の葉を舐めるようにして試薬する姿。

角もお顔もどちらかといえば丸い。

絵師の名は「寶寿」であろうか。

ただ、謹寫の文字があることから「寶寿」絵師の描いた掛図より模写したものと推定する。

掛図を納める箱の他「高取薬業會乃旗」箱もある。

会の旗や幕、神農図は当番の第一製薬㈱が保管しているという。

こうした御所市や高取町の製薬会社等が参集されて神農さんを崇敬する薬祖神祭を拝見できたのも高取町に住むNさんのおかげである。

あらためて厚く御礼申し上げる。

そのNさんがさらに情報をもってきてくださった。

一つは大阪道修町にある田辺三菱製薬史料館に展示されている2点の展示物である。

一つは「延享戊辰仲春朔」の文字がある神農図。

延享戊辰は西暦1748年。

江戸時代中後期にあたる。

もう一つは神農座像。

左手で薬草を舐めているように見える。

神農図はもう一つある。

高取町にある近畿医薬品製造㈱である。

同社ではこの日に右向きの神農図を掲げて神饌御供も供えている。

鯛に鏡餅に果物を並べた処には同社製造の薬も供えている。

これら映像はNさんが撮って送ってくださった。

写真を見る限りではあるが、田辺三菱製薬史料館、近畿医薬品製造所有ともデザインが異なる。

図柄、描き方はまったく異なる。

絵師が違うからそうである。

これらを紹介してくださったN家は元配置薬家

父親はきぬや薬舗専属の配置薬業であった。

同家に残っている神農図は波しぶきにあたる岸壁に座る神農図である。

三者三葉の図柄である。

神農さんを崇敬するようになったはじまりは江戸時代の薬草園の創建である。

前述したように神農像を造って祀った。

やがて、この在り方が医師や薬屋などに守り神として信仰が広まっていくのである。

神農さんは当初、石像や彫像であったが、いつしか頼まれ絵師の仕事となり、頒布、購入しやすい掛図に移っていったのではないだろうか。

絵師の創作力によって描かれた神農さんの姿は千差万別、多種多様。実に多彩な掛図を見るのである。

なお、大和の売薬については奈良県の薬業史・通史が詳しいが、神農さんを崇める神社行事や掛図については一切の記事がない。

薬草や製薬・販売歴史についてはずいぶんと調べておられるものの行事については感心がないのであろう。

(H28.11.22 SB932SH撮影)
(H28.11.22 EOS40D撮影)

関西大学森隆男文学部教授ガイドツアーによる古民家解説in奈良県立大和民俗公園

2017年07月23日 09時37分45秒 | 民俗を聴く
午後は県立民俗博物館の催しがある。

今回で6回目を迎えた「私がとらえた大和の民俗」写真展。テーマは「住」である。

11人の写真家がとらえた「住」を3枚組で紹介している。

うち7人の写真家が揃って座談会が行われる。

これまではカメラマントークと称して博物館の講堂で喋っていた。

今回のテーマは「住」だけに、民俗公園に移築された古民家に場を移すのもテーマ性からいってもぴったしカンカン。

移築した民家であるが当時住まいしていた雰囲気を味わいながら座談会をしようということになった。

さて、である。

午前中はこれらの古民家について解説されるツアーが組まれた。

古民家は建築物。

構造論が中心に解説されるのであるなら、また一般参加者の迷惑になっては、と思って参加は見送っていた。

ところがともに出展している森川さんがツアーに参加するからと誘われて仲間に加えてもらった。

駐車場に車を停めたら今度は志岐さんも登場する。

同じ考えで私も、というわけだ。

ツアーの出発地になる移築民家は高取町上土佐にあった旧臼井家の建物。

昭和49年に指定された国の重要文化財である。

そこにもまたもや出展者。

野口さんも、である。

暇かどうかは聞かなかったが関心をもった四人が集まった。

参加者は写真家だけでなく一般参加の男性もおられる。

学芸員に案内されて会場に来られた解説者は関西大学文学部教授の森隆男氏。

民俗が出発点である先生は建物構造にあるのは人が住まいする点を強調される。



臼井家には五つ並んだ竃がある。

そこを指さして云われたのは「奈良のニワカマド」である。

なんとなく聞いたことがある「ニワカマド」。

手元にデジタル映像で複写させていただいた中田太造氏著の『大和の村落共同体と伝承文化』がある。

書かれていた記事に目が大きく開いたことは多々あった。

複写した時期は平成19年。

勤務していた大和郡山市の施設。

市民交流館時代のときにお世話になった係長がいた。

係長はこんな本を持っているが、勉強になるならと見せてくださる。

頁をめくるなり「宮座一覧」に飛びついた。

それが記載されていた大和の宮座の他にも御杖村の年中行事や曽爾村の一年、平野の一年、大神神社と芸能、大和八王子とモリサンなどなど。

「奈良のニワカマド」のキーワードで思い出したのが「奈良の庭竃と大歳の客」の章である。

書によれば「元禄五年(1692)、正月刊行の井原西鶴の『世間胸算用』五巻五冊は、西鶴最晩年(51歳)の作品群。

その巻一第一章に中・下層町人がせっぱつまって演ずる世態・人情の悲喜劇が描かれており・・・。

この中の巻四の二に「奈良の庭竃」という歳末風景が書かれている」とある。

詳しくは割愛するが、森先生が云うには、一年が新しくなるときに竃を塗り替えたということだ。

西鶴の書は江戸時代のはじめ。

大晦日から正月にかける「和歌山の火継ぎ」儀礼があると云う。

奈良では新しく点けた火を・・・次の年次に移る、つまりは時間の境界跨ぎである。

土間で暮らしていた奈良の町屋。

寝室の敷居は一段高い処にある。

それを「帳台構え」と呼ぶ。

岐阜では藁を積んでいた寝室だった。

藁敷きは温かいということである。

「帳台構え」の寝室に寝ていたのは当主夫妻に子供たち。

代替わりに隠居した祖父母は「帳台構え」から外れて奥の客間に移る。

土間には張り出しの腰かけがある。

ちょこんと座るような感じの張り出し腰かけの板の間。

実は家人が食事をする場であった。

上部を見上げてみよう。

私は茅葺家を拝見したらついつい見上げてしまう屋根裏構造。

先日に訪れた京都府の南山城にある神社の舞殿の屋根は銅板葺きになってはいるものの、内部の屋根裏は茅葺だった。

木材で組み立てた屋根は茅であったのだ。

何度か訪れた桜井市小夫の秀円寺は茅葺。

屋根裏構造に使われていたのはススンボの竹だった。

屋根裏の材が何であるのか、ついつい知りたくなるのである。

旧臼井家の屋根裏は竹の簀の子に土を混ぜて組んでいた。



火事を避けて、なおかつ防寒にもなる屋根裏構造である。

ところで玄関を入ったところの右上に開き戸がある一室がある。

いわば中二階にある構造の部屋は使用人が寝泊まりする場である。

玄関を出て外に出て外観を見る。

茅葺民家の臼井家を移築したのは昭和51年。

すでに40年も経過している。

屋根の茅葺は移築したままなのか、それとも間にカヤサシをしていたのか存じていないが、やや朽ちかけている部分がある。

屋根のてっぺんにのせてある木材である。

棟押さえの別名に「ウマ」とか「カラス」の名で呼ばれることもある。

この棟押さえの本数は奇数が基本。

神社建築も同じように偶数はあり得ないそうだ。

ちなみに旧臼井家の本数は17本。

一般的な庄屋家であっても7本。

あまりにも多い本数に森先生は驚かれる。

ちなみに旧臼井家は二万五千石の旧高取藩城下町。

主に油・酒・醤油の販売をしていた名家であった。

場を移動する。

次は大和高田市永和町にあった旧鹿沼家。

昭和55年に指定された奈良県指定文化財。

昭和54年に移築された。

次は昭和52年に同じく指定された県指定文化財の橿原市中町の旧吉川家。

奈良県平たん盆地部にある農家建築。

農家と云っても庄屋宅である。

ここで教わったのが雨だれを避ける雨どいである。

参加していた一般男性が質問された雨どい(雨樋)は昔からあったのでしょうか、である。

雨樋が一般的に広まったのは江戸時代。

大火に悩んだ奉行は類焼を防ぐために瓦葺の町屋を奨励した。

つまりは都市化である。

町屋は普及したものの雨水の落下による柱根元や土台が傷む。

傷めば腐る。

腐れば民家は崩れる。

こうした事象を防止するための構造が雨樋である。

今では金属製からプラスチック製になったが、江戸時代は木製か竹製。

古代の水路もそうだが同じく木製か竹製。

場によって材は違うが、江戸時代の雨樋は木製か竹製である。

参加者が気づかれた雨どいはすべてにあるわけではなかった。

ここが不思議。

一般的な家屋であれば雨だれを避ける雨樋は雨が流れ落ちるすべてのところにあるはずだ。

旧吉川家は何度も見ているが、今の今まで、なんで気がつかなかったのだろうか。

家屋にある玄関口辺りにしか構築されていないのである。

つまり昔は雨どいなんてものはなかったのである。

森先生が云うには玄関はここを越えるかどうか、別世界に出たり入ったりする結界にあるという。

雨どいを構築していない奥にある部屋がある。

そこには縁側がない。

縁側は江戸時代後期に造られた。

特別な場合になる縁側から直接出入りする場合がある。

家人が亡くなったときはその人が使っていた茶碗は縁(この場合は縁側でなく縁である)から捨てて割る。

藁火を焚いて葬儀の旅立ちをするのも縁である。

つまりはこの家から縁を切るということだ。

その縁のところに直線状の石畳がある。

足元をとらえた写真がある。



その端の部分は「雨だれ落ち」。

つまり雨どいもなく、茅葺屋根から流れ落ちる雨が石畳の縁沿いに当たる。

砂地であれば打たれた雨で穴ぼこになる、石畳であればそうならないのである。

昔はこうした構造であったということだ。

なるほど、である。

話は戻すが、縁切りには抜歯した歯もあった。

下顎の歯が抜けた場合は屋根に放り投げる。

上顎の歯であれば地面に捨てる。

捨てて縁を切るのである。

生まれ育った住之江の大阪市営木造住宅時代ではトイレの屋根・地面であったような気がする。

先生は続けて云った。

徳島県の事例ではこの雨だれ落ちにヒイラギの木を植えたいたそうだ。

鬼の目突きに立春のヒイラギイワシがある。

それと同じようなことなのであろう。



学芸員の許可をもらって屋内に上がらせてもらって解説をされる。

日本は座る文化。

日本間にあるのは畳部屋だ。

その昔は畳部屋なんぞなかった。

あったのは板の間に敷く畳で編んだ円座である。

それに座っていたのは室町時代からだ。

韓国や中国は椅子に座る立つ文化。

座るのは日本独自の文化である。

ちなみに正座はいつから始まったのか、である。

実は昔の女性は膝を立てて座っていた。

これを片膝とよぶ座り方。

それが正座であった。

遊女は今も昔も片膝で座るそうだ。

そういえば、映画やテレビで放映される戦国時代の様相。

戦いの戦術を意見交換する会議に武将が座っていたのは胡坐である。

稀には片膝姿の場面も記憶にある。

そんなことも教えてくださる森先生の話題提供はぐいぐいと引き込まれる。

ところで先生が座った位置に意味がある。

当主は家の状況を常に把握しておくということだ。

この位置荷に座っておれば玄関辺りが見える。

侵入者の動きがここで判る。

逆に私が座った位置は背中。

扉もあるから余計にわからない。

そこに当主が座ることはない。

室町時代より始まった家の神棚。

仏壇は江戸時代である。

神棚を背にしておけば玄関正面が見える構造である。

その座る位置を「ヨコ座」と呼ぶそうだ。

この部屋の奥は寝室。

もっと暗かったはずだ。

寝室は外に向けて閉じた世界を形成している。

寝室は真っ暗なのが本来の在り方。

ここに帳台構えがあれば、時代的にも古いのである。

また寝室は「なんど」とも呼ばれる部屋。

「なんど」に神さんがいる。

その神さんは女性であるという。

「ぬりごめ(塗籠)」という表現がある。

平安時代の読み物に竹取物語がある。

「ぬりごめ」は土壁。

竹取物語の最後に出てくる籠る場所が「ぬりごめ」。

パソコンでキーボードを打てば「塗籠」が出る。

土を塗った壁がある部屋で籠るということだ。

多彩な民俗話に益々のめり込んでいく。

竃柱は神の依り代。

敷居は屋内と屋外の境界を示す結界。

旧鹿沼家の玄関でそう話される。

玄関に建つ柱をみられた先生は、これを乞食柱と昔の人が云っていたそうだと云う。

乞食は施しでなく、家の中に居た災いを持ち去ってもらう役にあると韓国の研究者が論をたてたそうだ。

その乞食柱はホイト柱とも呼ばれるらしい。

「ホイト」とは何ぞえ、である。

調べてみれば岡山県地域言語の一つ。

『岡山民俗事典』によれば、「ホイトー、ホイト、フェートゥ、ヘートーは寿ぎ人から転じて乞食のこと」とあるそうだ。

同事典に乞食柱がホイトー柱とあり、岡山県の備中南部や倉敷市児島地区、真庭市蒜山地区を中心に認められるとあった。

桜井市下にあった旧萩原家を経て奥に向かう。



森先生が是非とも見て欲しいと云われた十津川村旭・迫の旧木村家である。

この建物も昭和50年に指定された県の文化財である。

同家は十津川村特有の建物。

ウチオロシの構造も独特である。

十津川村は谷を挟んだ急峻な地形に建つ。

向こうの岸に見える隣家に行くには一旦は谷に下りてまた登る。

片道歩いて40分もかかると森先生が云う。



敷地は僅かで奥行きがないから横に並んだ棟続きの家屋である。

幕末維新の際に活躍した十津川郷士の名とともに知られる大字旭の旧木村家も郷士であった。

たぶんにここ玄関に郷士を示す「士族」の札があったのでは、と云われる。

ちなみに玄関は室町時代から登場する。

それまでの時代は縁が出入りする処だったそうだ。



この家の土間にカラウスがある。

土間であれば地面が見えるが、ここは後年に板の間に換えたようだ。

丸い穴から大きな石の頭が突き出している。

その石は刈った稲の藁打ちの台である。

山間の民家は土間が狭いのが当たり前。

土間が広いほど稲作をしていたことになるのである。

十津川の一部にしか見られないハザカケ構造を建物の外に建てていた。



20云年間に亘って自然観察していた古民家周辺。

建物を写し込んで撮っていたが。

それが今頃になって気がついた。

今年の9月初めに初めて拝見した多段の棚がある。

棚は支柱で支えられた木造の建造物。

大字の内原滝川にあった多段の棚は稲を架ける構造物である。

十津川村の滝川や内原は「ハダ」と呼ぶ。

同じ滝川でも下地垣内は「ハデ」である。

吊り橋で有名な谷瀬は「ハデ場」。

旧西吉野村の永谷では「ハゼ」という人もおれば「ハゼ」もある。

地域によっても人によっても呼び名が異なる多段架けの稲架けが大和民俗公園にあったことをあらためて知ったのである。

森先生はここに建っていた構造物を「ハデ」場と呼んでいた。

十津川村の民家に竃がない。

囲炉裏に頼って生活してきた十津川村。

通常は板の間で生活する。

旧木村家の奥には畳部屋がある。

畳を敷き詰めるようになったのは近年である。

村は明治の神仏分離令によって、一部に残ってはいるもののすべてのお寺がなくなった神道の村。

であるが、奥の部屋にある神棚に仏壇がある。

仏壇の名だけが残った証しだそうだ。

戒名もなく、位牌は「ゆはい」と呼ぶ。

仏壇は「ぶちだん」と訛るそうだ。

興味深い話しにどっぷり浸かって2時間。

短く感じたのはとても面白かったからだ。話題の提供もあるが、先生の話し方が心地よくて・・・。

穏やかに丁寧に語ってくれた森先生に感謝する。

この日に話してくださった古民家解説は午後に開催された座談会にも活かされた。



解説を聞けなかった写真展拝観者のみなさん

是非とも館内で販売されている200円の図録を買って、見て、読んでくださればありがたい。

(H28.11.20 SB932SH撮影)

農とつながる伝統祭事フォーラムinかしはら万葉ホール

2017年07月22日 09時47分58秒 | 民俗を聴く
機会を設定してくださった高取町住民N。

参加申し込み手配をされた催しは奈良県庁農村振興課の主催事業である「農村文化フォーラム」。

会場は橿原市立かしはら万葉ホールの4階研修室。

受け受けを済ませて席につく。

当フォーラムで基調講演をされるのは和歌山大学紀州経済史文化研究所の吉村旭輝氏。

3年間に亘って奈良県文化財課の緊急伝統芸能調査したときにお世話になった氏である。

何カ所かで同じ現場に出くわしたことがある。

県発行の『奈良県の民俗芸能-奈良県民俗芸能緊急調査報告書-』の「第五章 奈良県の神楽―巫女神楽と湯立神楽―」を執筆している。

個別に調査・報告されたのが「興ケ原・天満神社の翁舞」だ。

そのときの宵宮取材が一緒であった。

また、他に個別調査・報告したものに「十津川村 平谷の盆踊りと餅つき踊り」や「橿原市 十市のだんじり」がある。

司会・進行役は県内事例調査に度々出合ったことがある吉野町教育委員会・吉野歴史資料館館長の池田淳氏。

前述した『奈良県の民俗芸能-奈良県民俗芸能緊急調査報告書-』に個別調査・報告した「吉野町 国栖の太鼓踊り」がある。

お二人が専門の民俗に関しては造詣が深く、教わることは多々あった。

壇上に上がればチャンスを失ってしまうが、その前にと狙っていたときを待つ。

職員らの動きでわかった楽屋入り。

締めたドアをノックして入室。

お二人と合うのは久しぶり。

お元気な姿もそうだが、本日の講話が楽しみですと告げたら笑っていた。

さて、ここからは会場で吉村旭輝氏が講話される基調講演だ。

テーマタイトルは「伝統祭事を育んできた農村文化の魅力を未来へ伝える」だ。

氏が作成された資料は分厚い。

21頁からなる資料のタイトルは「農村に息づく行事と祭礼」。

日本の年中行事は農事暦に深く関係している。

自然サイクル、リズムが支配する農事暦にそって年中行事が行われてきた。

農業、漁業、林業における年中行事は太陰暦に配列されている。

お盆や彼岸・・先祖を祭る。

海外に移住した人々は神社をそこへ遷しても仕方がない。

移住した家人が亡くなれば祭りごとをもって継承する。

そういうことで移住先には寺を建てた。

なるほど、である。

農耕儀礼と密接に絡み合っているのが年中行事。

日本の場合は宮中行事から始まる。

それは中国古来の行事の伝来に基づいている。

話される話題は配られた資料に沿って進められた。

御所市のとんどは土台に松の木を据えている。

市内50カ所でそれぞれの地域ごとにとんど焼きがある。

植生環境の変化によって松の木が減少している。

それが一因でもある材の窮乏。

そのことがあって行事が衰退する。

やむなくというわけだ。

松の木は正月迎えの門松立てにも影響している。

その事実は私がでかけるあらゆる地域で聞かれる。

門松は雄と雌が揃ってのこと。

植生していた地域からそれが消えていく。

仕方がないから雄・雌の区別ができなくなった。

またまた、仕方なく植木屋さんに発注することになった。

いつかは氏神さんに飾る正月迎えの在り方も変容していく地域が増えていくことであろう。

春祭りの称する大祭は奈良県や滋賀県に多く見られる。

滋賀県の愛荘町に三つの垣内がある。

オーコで担いできたお供えは唐櫃ごと神社拝殿横に並べる。

映像を写しながら解説される唐櫃の脚の長さがある。

三つの唐櫃の脚の長さはそれぞれ。

よく見ないとわかり難いが脚が長いものから短いものも。

差はそれほどではないが、その長さは水利権を示す。

水上は脚高であるが、水下は脚が低いのである。

中世の郷の祭りは水利の力強さを意味する。

尤も中世以前は荘園時代。

そのころであるのか言説はなかったが、水利権力はそのころから・・・か。

夏にかけて行われてきた雨乞いは水の行事。

夏祭りはそのうちの一つ。

稲に虫がつかんように松明へと・・。

虫送りは和歌山にはない行事。

奈良県や滋賀県に多く見られる。

秋の祭礼はお月見から始まる。

二百十日、二百二十日は三大厄日。

農村はそのころに休む。

休んで祭礼をする。

断片的に紹介される絵解き行事。

次々と映し出される年中行事に詳しい説明をすれば絶対的な時間がないから端折られる。

行事をよく知る人であればついていけるが・・身近でない人はたぶん流されているのでは、と思った。

能は猿楽と云われて調査された「興ケ原・天満神社の翁舞」を解説する。

12月14日の伊勢の祭礼から全国に散らばった伊勢の大神楽。

さまざまな地に伝播する。

三つの型があるだんじり。

一つは船型、二つ目に住吉型。

三つ目が堺型である。

船型だんじり「は大阪市内にある。

後方に幕がある。

それ以前は彫り物人形の山であった。

そのすべては夏祭りにある。

大阪の天神祭りである。

京都で云えば祇園祭り。

疫病祓いに御幣をだんじりに取り付ける。

尤も祇園さんのだいじりはだんじりと呼ぶことはない。

山鉾である。

その鉾に御幣がある。

各地域に神輿があるだろう。

それに御幣を立てていることに気づく人も実は少ない。

御輿は神輿であるなら神の依り代が御幣なのだ。

大阪岸和田のやりまわしは秋祭り。

大阪泉州は五社の祭礼。

放生会として供養するだんじりとが組み合わさった。

堺型は4本の支え。

住吉型は3本の支柱であるという。

そこでだ。

何故に大阪住吉、堺のだんじりが奈良県にあるのか、である。

明治時代、奈良県の豪商の絡みと堺の大喧嘩が関係するという。

堺の人が売却しただんじりは豪商が購入して奈良にやってきた。

さらに区分けしただんじりは南河内型と石川型がある。

中世の南河内は和歌山の根来文化圏。

泉州の貝塚や泉佐野文化と交流した。

和歌山の粉河に傘鉾がある。

それはだんじり以前の形であることなどお話くださるが、文章化し難い。

さて、奈良にだんじりがやってくるまでの形は何か。

本来の神輿である。

明治29年、大阪堺の中之町大道で地車(だんじり)のすれ違いで大喧嘩になった。

それがあってだんじりの曳行が禁止された。

住吉大社周辺地域も曳行禁止が増え続けて曳行しなくなっただんじりは各市域に売却された。

明治末期から大正年間において泉州の和泉や泉大津、河内長野に売却された。

そういうことがあってだんじり文化が廃れていくのである。

尤もすべての地域ではないが、元々だんじり文化がなかった奈良に伝播していく過程があったことを知る。

尤も橿原市の十市のだんじりは江戸時代末期から明治時代にかけて製作された船形だんじり。

吉村氏が報告された「橿原市 十市のだんじり」によれば、だんじり舞台の内部に「住吉さん」が祭られているそうだ。

小屋根の唐破風の形態から文久二年(1862)に泉州岸和田市の大工町で新調されただんじりに見られる特徴があるという。

農とつながる伝統祭事フォーラム第二場は「伝統祭事を育んできた農村文化の魅力を未来へ伝える」をテーマにしたパネルディスカッション。

先に紹介したお二人の他、奈良佐保短期大学講師の寺田孝重氏に御所市鴨都波神社鴨の会若衆会会長の三井秀樹氏がディスカッションする。

地域の歴史はかけがいのないもの。

歴史を形作るのが伝統的な行事。

日常の「食」は特別な日の「食」にかけがいのない「食」であるという池田氏。

農村は大きな転換期を迎えている。

人、それぞれが暮らす。

暮らしの中で、どう子孫を残していくか、これまでどうしてきたのか、今を生きる私たちはどう未来に伝え、何をすべきかをディスカッションしていきたいと冒頭に話した。

過去のものを掘り返して歴史、輝きを知ることが未来へと繋げられる。

その際、何を指針にすべきか・・・。

「復興の年、2年は学生たちが復興、マスコミも報道してきたが・・・。学生は水もの。6年も経てばマスコミは取材に来ない。マツリを継承は、いかにどれだけのエネルギーがいるのか、である。和歌祭の、32曲からなる御船歌を復興してきた。生まれ育った泉州の和泉大津池田町でだんじりにのめり込んでいた。来年にやる、やらないの、の打合せばかりだった。五穀豊穣に新興住宅は盛り上がらない」と話すのは吉村氏だ。

「ケの世界に茶があるかもと云われて引っ張り出された。茶粥は消えているのか・・。天平茶の復元を平城遷都1300年祭にかりだされた。奈良から消費が始まった茶・・」と自己紹介される寺田氏。

「上社の鴨神社は御所市の高鴨神社。中社も同じく御所市の葛木御歳神社。下社も御所市の鴨都波神社。その神社に属する鴨の会若衆会。鴨都波神社の春の祭りの御田植祭はトーヤの家から出発する。ススキ提灯は江戸期から明治時代にかけて始まった。だんじりはそれ以前からあったと古文書に書いてある。ススキ提灯は秋の収穫後に刈り取った稲藁を積む“穂積み”に似ていることからその名がついた。昔は静かに参拝する提灯だった。いつのころか、たしか、ある自治会が提灯をグルグル回し始めた。それから我も我もと繰り出すようになった。宮司はその行為を停めなかった。若衆会はやりたいようにやらせてもらっている。行事の一環にある“ロクロキリ”がある。お祭りの火をロクロで回して火を起こす。厳かな作法に涙がでる。平成5年に発足した若衆会。何よりも楽しく祭りをしている」と話す三井氏。

四者四様の祭りに思いを伝える語り口である。

「那智の田楽は僧侶がしていた。動きを見て担い手が村の人に替わった意味合いがわかった。伝統はどうカスタマイズされていくのか。吉野山で行われているおんだ祭も僧侶がしていたが、廃仏毀釈の折に村人が演じることになった。すくすく育つ木やからススキ。形は稲と同じ。来年も同じように、ススキのように育ってほしい」とフォローする池田氏。

「茶粥を食べている人は4人。過去も食べていた人も手を挙げて欲しい」と云えば増えた。

「食べる茶から飲む茶になった。ひきちゃ(挽茶)やぶくぶく茶と呼ばれる茶は橿原市ある。中曽司町(なかぞしちょう)に共同墓地の池堤がある。茶を挽いて・・泡が立つからぶくぶく茶。その泡で食べるのがぶくぶく茶。豊かな稔があるから生活の中で使われる」と話す寺田氏。

「若人は村から出る。提灯も消える。若衆が立ち上がる。提灯回してパーフォ―マンス。ここ4、5年は高齢者の祭り離れが生じている。若いもんについていかれん。祭りはもうえーわ、という。宮司がひとこと言った。昔は伊勢音頭があった。棟上げのときに伊勢音頭を唄っていた。それを鼻唄で唄っていた。高齢者に歌を・・ということで平成28年4月、正式に高齢者組織を立ち上げた。皆が唄いやすい伊勢音頭バージョンができあがった。集合する公園に並んで唄った。そこに合いの手を打つ人もいた。皆が楽しめる祭りになった」と話す三井氏。

「御所市の南郷地区を調査したら伊勢音頭があったものの、生歌ではなくテープが唄っていた。30代、40代は働き盛り。その人たちが村から出ていって仕事がある都会に・・・。原因は研究者が紹介していること・・。カメラマンが行くと村は注目する。人気があるからである。逆に人気がないところは見にくる人が少ないから寂れる」といったのは吉村氏。

「茶とかが一番広がったのは明治時代。奈良県全域に亘って茶生産をしていた。茶はどこにもあったが、生産が減少したのは大正時代。地ビールに対抗して地紅茶も・・」と語る寺田氏。

それぞれが思いを会場に伝えるパネルディスカッション。

今あるものは、形を替えて継承すべきか。

形だけなのか。精神面はどうなのか。

村から離れる理由は何なのか。

気持ちが離れるのは何故か。

信仰はなぜに消えていくのか。

祭りは集合でないといけないのか。

ハデさがないと祭りではないのか。

そんなことを思いつつディスカッションの幕が下りていく。

テーマはたしか「伝統祭事を育んできた農村文化の魅力を未来へ伝える」ではなかったのか。

これでは“祭り”と“茶”だけで終わってしまう。

農村栽培の中心をなすのは稲作に畑作。

農作を営む人たちが継承してきた伝統祭事の事例紹介が違うように思えた。

振り返って開場の壁に貼ってあった6枚の行事ポスターをあらためて拝見する。

そこには“農村”の目線がないことに気づく。

写真的にも動きがあるハデ姿。

晴れ姿でなくハデな状態を表現するポスター。

すべてがすべてではないが、もっと“農”寄りに集約して欲しかったと思うのは私だけであろうか。

(H28.11.16 SB932SH撮影)