2年前の平成28年8月1日。
えっ、ここのお店に刺しサバがある。
緊急取材をさせてもらったお店は辻村商店。
東山中の旧都祁村の一村にある大字白石であるが、奈良市の統合合併された関係で現在表記は奈良市都祁白石町になる。
白石町に山高帽を被った座中が国津神社まで渡御する行事がある。
羽織袴姿の12人の座中がスコと呼ばれる飾り物を先頭に練り歩く。
お渡りを撮った年は平成18年11月3日。
ふる祭と呼ぶ白石の村行事である。
珍しい光景のお渡りを聞いたのは、それより前のことである。
お渡りを拝見した年の一年前の11月3日は仕事があった。
仕方なくお話だけでも伺いたく立ち寄った国津神社。
平成17年11月1日であった。
ふる祭りに登場するスコ作りを拝見したのはその翌日の11月2日だったが、花を飾るのは祭りの当日。
残念なことであるが、その年に行われたふる祭りの様相は知人の写真家野本輝房氏が先にとらえていた。
先を越された白石のスコにふる祭りがあると教えてくださった人がいる。
その人との出会いは前月になる平成17年10月26日である。
出会いの場は隣村になる友田町に鎮座する都祁山口神社の大祭である。
その大祭に近隣郷の村々の人たちがやってくる。
旧都祁村から友田、来迎寺、小山戸、相河(そうご)、白石、藺生(いう)、甲岡、南之庄、吐山、針、小倉、針ケ別所、馬場、萩、下深川、上深川、高塚。
室生村からは無山、多田、染田、小原、上笠間、下笠間、深野。
山添村からは毛原の26カ大字が支える大祭であった。
祭りに出仕する人たちは昼間にそれぞれの持ち場の処で飲食をともにする。
ぶらりとそこを歩いていたときに声をかけてくれたのが白石町のNさんだった。
翌月の11月3日にふる祭りと呼ぶ行事が白石にあると教えてくださった。
その情報はたまたま電話を架けてきた写真家野本輝房さんに話したら、先に行かれたということだ。
私がふる祭りを拝見したのは翌年の平成18年になる。
当屋から出発した一行は国津神社鳥居を潜って参進する。
その光景をとらえた一枚は、後年に発刊した『奈良大和路の年中行事』に掲載させてもらった。
見開き頁に先頭の太鼓打ち。
後続に3基のスコが行く。
渾身の一枚は今でも忘れられない映像になった著書は教えてくださった白石のNさんにありがたく献じた。
前置きはともかく、実は昨年の8月のある日にお店を訪れてみたものの刺しサバ干しはなかった。
たぶんに駐車場に干していると思われたがなかった。
その日は月ケ瀬・月瀬の取材があったから尋ねる時間もなかった。
旬期を逃したように思えただけに、今年はもっと早い時季に訪ねておきたいと思って白石に来た。
お店に入って声をかけたら女将さんが出てこられた。
2年前に訪れた際に拝見したことがある者であると伝えたら覚えておられた。
辻村家に嫁いだのは50年も前。
そのころは旦那さんの父親がしていたという刺しサバ作り。
始まりはわからないが70年、80年も前からしている製造販売であろう。
2年前に教えてくださったように樽いっぱいに塩漬けする開きのサバ魚。
何層にも重ねてその都度の塩撒き。
その都度において大量の塩をもって塩漬けする。
その状態は2年前に拝見した。
できれば塩を振って漬けている作業を見たい。
もう一つの工程は塩漬けした刺しサバを干すことである。
干す場は駐車場。
それは合っていたが、竿干しでなく水平干し。
例えばテレビ等で紹介される海辺でシラス干しをしている光景をみたことがあるだろう。
カマスでもアジであっても同じ方法である。
辻村商店ではビール瓶ケースを台代わりに使う。
何個も置いてその間に干し網を載せる。
どれぐらいの面積になるのか実際に見ないとわからないが、相当な刺しサバの枚数になるから、相当な広さになるであろう。
水平に置いた網に載せた刺しサバは塩漬け水がたらたら落ちる。
商店の駐車場であるからそれができるようだ。
こうした天日干しは日の出からするのではなく、お日さんが燦々と照りだす午前10時くらいになるらしい。
夕方ともなれば日が暮れる。
それまでに一旦は回収しておく。
翌日もその続きの天日干し。
何日間もかけてあの真っ黒け、いやまっ茶色になる刺しサバができあがる。
6月は梅雨時。
連続的な天気のえー日にならないから作業は7月になってからするという。
天日干しは7月中旬辺り。
塩漬けは7月に入ってからになるというから、取材させていただくには、毎日に電話を架けるのも迷惑になる。
そう伝えると連絡してあげますょ、という。
ありがたいお言葉に感謝して、3月末に山と渓谷社から発刊された池田陽子氏著の『サバが大好き!』を献本することにした。
この本には「刺し鯖は辛い」というタイトルでコラムを執筆した。
実体験、実食感を伝えるコラムである。
編集者から求められて執筆したコラムには真っ黒けの刺し鯖を写真で紹介している。
その写真も私がとらえた映像である。
もう一枚はサトイモの葉に載せたお供えの形の刺し鯖。
いずれも山添村ととあるお店で取材させてもらった映像。
山添といえばO商店でしょと云われたから驚き。
商売敵ではなくよく存じているというから、これもまた縁が繋がった刺しサバである。
女将さんが云うには、ここ白石では8月13日に両親が揃っているお家は供えてから食べるが、揃っていないお家は食べられなかったとか・・。
若干の習俗違いはあるようだが、現在の購入者は習俗とは関係なく、昔に味わっていた刺しサバは今でも口が求めるらしい。
欲しい人は予めに注文して作ってもらう。
ほとんどがそのようだが、お店の前に「刺しサバあります」と表示したときには次から次へと待っていたかのように来店するそうだ。
その様相を直に拝見したのが2年前に訪れた8月1日だったのである。
ただ食べたいだけで買ってくださるお客さんは実に多いようで、ある年は完売したそうだ。
それでもなお求める人が後を絶たない。
仕方なく奈良県中央卸売市場まで出かけて仕入れたそうだ。
その刺しサバを食べた女将さん。
味はまったく違うと云っていた。
卸売市場が売る刺しサバの味は辻村商店とまったく違っていたことがわかったから、注文量よりも多めに作るそうだが・・・。
女将さんは年末も忙しいという。
昨年のことである。お正月のお節料理にエイの煮付けや棒鱈がある。
味覚的に女将さんの好みは棒鱈よりもエイの煮付けである。
そりゃ私も一緒の口である。
この年の1月1日。
山添村・松尾に住むH家の正月のいただきを取材した。
その際にお節の膳をよばれることになった。
そのお節料理の一つにエイの煮付けがあった。
美味しくいただいたエイの味わい。
その味をもう一度。
そう思ってたまたまスーパーに売っていたエイを買った。
我が家の料理人はかーさん。
美味しく煮付けてくれたエイがサイコーのご馳走になった。
辻村商店のエイの煮付けは切り身にして店前に並べて売る。
晦日ともなれば狙っていたかのようにお客さんが買い求める。
うちにエイは厚みがあって美味しいという。
ある日、ある人が買ってくれてその美味しさを伝えていた。
そのことを知ったのは近隣住民の娘さん。
なんと海外のオーストラリアに住む娘さんからの便りで知ったそうだ。
そのエイのことをSNSで伝えて人は男性。
なんでも曽爾村に住む太神楽を演じる人。
自称は芸人で着物姿のその人の名はたぶんにKさんであろう。
間違いなくその人が発信したSNS記事が嬉しくて、と笑顔で話してくれる女将さんだった。
エイの煮込みも棒鱈も、で思い出す商店がある。
宇陀市室生の下笠間のM商店である。
お正月に供えるカケダイ作りの取材であった。
店主が話してくれた棒鱈作りである。
こうして三つの村の商店を並べてみれば、昔からの馴染みさんでもっている店。
お家の年中行事のお供えもあれば食する文化にずっと貢献してきたお店のすべてに“民俗”が支えにあるわけだ。
季節ごとに味わえるのも商店主のおかげである。
ちなみに私が口にしたエイの煮付けは、この年の1月22日に思いをはせて実感する味わいに酔っていた。
特に煮こごりである。
つい舐めたくなる煮こごりに浸っていた。
(H30. 6.17 SB932SH撮影)
えっ、ここのお店に刺しサバがある。
緊急取材をさせてもらったお店は辻村商店。
東山中の旧都祁村の一村にある大字白石であるが、奈良市の統合合併された関係で現在表記は奈良市都祁白石町になる。
白石町に山高帽を被った座中が国津神社まで渡御する行事がある。
羽織袴姿の12人の座中がスコと呼ばれる飾り物を先頭に練り歩く。
お渡りを撮った年は平成18年11月3日。
ふる祭と呼ぶ白石の村行事である。
珍しい光景のお渡りを聞いたのは、それより前のことである。
お渡りを拝見した年の一年前の11月3日は仕事があった。
仕方なくお話だけでも伺いたく立ち寄った国津神社。
平成17年11月1日であった。
ふる祭りに登場するスコ作りを拝見したのはその翌日の11月2日だったが、花を飾るのは祭りの当日。
残念なことであるが、その年に行われたふる祭りの様相は知人の写真家野本輝房氏が先にとらえていた。
先を越された白石のスコにふる祭りがあると教えてくださった人がいる。
その人との出会いは前月になる平成17年10月26日である。
出会いの場は隣村になる友田町に鎮座する都祁山口神社の大祭である。
その大祭に近隣郷の村々の人たちがやってくる。
旧都祁村から友田、来迎寺、小山戸、相河(そうご)、白石、藺生(いう)、甲岡、南之庄、吐山、針、小倉、針ケ別所、馬場、萩、下深川、上深川、高塚。
室生村からは無山、多田、染田、小原、上笠間、下笠間、深野。
山添村からは毛原の26カ大字が支える大祭であった。
祭りに出仕する人たちは昼間にそれぞれの持ち場の処で飲食をともにする。
ぶらりとそこを歩いていたときに声をかけてくれたのが白石町のNさんだった。
翌月の11月3日にふる祭りと呼ぶ行事が白石にあると教えてくださった。
その情報はたまたま電話を架けてきた写真家野本輝房さんに話したら、先に行かれたということだ。
私がふる祭りを拝見したのは翌年の平成18年になる。
当屋から出発した一行は国津神社鳥居を潜って参進する。
その光景をとらえた一枚は、後年に発刊した『奈良大和路の年中行事』に掲載させてもらった。
見開き頁に先頭の太鼓打ち。
後続に3基のスコが行く。
渾身の一枚は今でも忘れられない映像になった著書は教えてくださった白石のNさんにありがたく献じた。
前置きはともかく、実は昨年の8月のある日にお店を訪れてみたものの刺しサバ干しはなかった。
たぶんに駐車場に干していると思われたがなかった。
その日は月ケ瀬・月瀬の取材があったから尋ねる時間もなかった。
旬期を逃したように思えただけに、今年はもっと早い時季に訪ねておきたいと思って白石に来た。
お店に入って声をかけたら女将さんが出てこられた。
2年前に訪れた際に拝見したことがある者であると伝えたら覚えておられた。
辻村家に嫁いだのは50年も前。
そのころは旦那さんの父親がしていたという刺しサバ作り。
始まりはわからないが70年、80年も前からしている製造販売であろう。
2年前に教えてくださったように樽いっぱいに塩漬けする開きのサバ魚。
何層にも重ねてその都度の塩撒き。
その都度において大量の塩をもって塩漬けする。
その状態は2年前に拝見した。
できれば塩を振って漬けている作業を見たい。
もう一つの工程は塩漬けした刺しサバを干すことである。
干す場は駐車場。
それは合っていたが、竿干しでなく水平干し。
例えばテレビ等で紹介される海辺でシラス干しをしている光景をみたことがあるだろう。
カマスでもアジであっても同じ方法である。
辻村商店ではビール瓶ケースを台代わりに使う。
何個も置いてその間に干し網を載せる。
どれぐらいの面積になるのか実際に見ないとわからないが、相当な刺しサバの枚数になるから、相当な広さになるであろう。
水平に置いた網に載せた刺しサバは塩漬け水がたらたら落ちる。
商店の駐車場であるからそれができるようだ。
こうした天日干しは日の出からするのではなく、お日さんが燦々と照りだす午前10時くらいになるらしい。
夕方ともなれば日が暮れる。
それまでに一旦は回収しておく。
翌日もその続きの天日干し。
何日間もかけてあの真っ黒け、いやまっ茶色になる刺しサバができあがる。
6月は梅雨時。
連続的な天気のえー日にならないから作業は7月になってからするという。
天日干しは7月中旬辺り。
塩漬けは7月に入ってからになるというから、取材させていただくには、毎日に電話を架けるのも迷惑になる。
そう伝えると連絡してあげますょ、という。
ありがたいお言葉に感謝して、3月末に山と渓谷社から発刊された池田陽子氏著の『サバが大好き!』を献本することにした。
この本には「刺し鯖は辛い」というタイトルでコラムを執筆した。
実体験、実食感を伝えるコラムである。
編集者から求められて執筆したコラムには真っ黒けの刺し鯖を写真で紹介している。
その写真も私がとらえた映像である。
もう一枚はサトイモの葉に載せたお供えの形の刺し鯖。
いずれも山添村ととあるお店で取材させてもらった映像。
山添といえばO商店でしょと云われたから驚き。
商売敵ではなくよく存じているというから、これもまた縁が繋がった刺しサバである。
女将さんが云うには、ここ白石では8月13日に両親が揃っているお家は供えてから食べるが、揃っていないお家は食べられなかったとか・・。
若干の習俗違いはあるようだが、現在の購入者は習俗とは関係なく、昔に味わっていた刺しサバは今でも口が求めるらしい。
欲しい人は予めに注文して作ってもらう。
ほとんどがそのようだが、お店の前に「刺しサバあります」と表示したときには次から次へと待っていたかのように来店するそうだ。
その様相を直に拝見したのが2年前に訪れた8月1日だったのである。
ただ食べたいだけで買ってくださるお客さんは実に多いようで、ある年は完売したそうだ。
それでもなお求める人が後を絶たない。
仕方なく奈良県中央卸売市場まで出かけて仕入れたそうだ。
その刺しサバを食べた女将さん。
味はまったく違うと云っていた。
卸売市場が売る刺しサバの味は辻村商店とまったく違っていたことがわかったから、注文量よりも多めに作るそうだが・・・。
女将さんは年末も忙しいという。
昨年のことである。お正月のお節料理にエイの煮付けや棒鱈がある。
味覚的に女将さんの好みは棒鱈よりもエイの煮付けである。
そりゃ私も一緒の口である。
この年の1月1日。
山添村・松尾に住むH家の正月のいただきを取材した。
その際にお節の膳をよばれることになった。
そのお節料理の一つにエイの煮付けがあった。
美味しくいただいたエイの味わい。
その味をもう一度。
そう思ってたまたまスーパーに売っていたエイを買った。
我が家の料理人はかーさん。
美味しく煮付けてくれたエイがサイコーのご馳走になった。
辻村商店のエイの煮付けは切り身にして店前に並べて売る。
晦日ともなれば狙っていたかのようにお客さんが買い求める。
うちにエイは厚みがあって美味しいという。
ある日、ある人が買ってくれてその美味しさを伝えていた。
そのことを知ったのは近隣住民の娘さん。
なんと海外のオーストラリアに住む娘さんからの便りで知ったそうだ。
そのエイのことをSNSで伝えて人は男性。
なんでも曽爾村に住む太神楽を演じる人。
自称は芸人で着物姿のその人の名はたぶんにKさんであろう。
間違いなくその人が発信したSNS記事が嬉しくて、と笑顔で話してくれる女将さんだった。
エイの煮込みも棒鱈も、で思い出す商店がある。
宇陀市室生の下笠間のM商店である。
お正月に供えるカケダイ作りの取材であった。
店主が話してくれた棒鱈作りである。
こうして三つの村の商店を並べてみれば、昔からの馴染みさんでもっている店。
お家の年中行事のお供えもあれば食する文化にずっと貢献してきたお店のすべてに“民俗”が支えにあるわけだ。
季節ごとに味わえるのも商店主のおかげである。
ちなみに私が口にしたエイの煮付けは、この年の1月22日に思いをはせて実感する味わいに酔っていた。
特に煮こごりである。
つい舐めたくなる煮こごりに浸っていた。
(H30. 6.17 SB932SH撮影)