マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

室生・小原つちんど墓の二十三夜講供養石塔

2024年02月27日 07時06分24秒 | 宇陀市(旧室生村)へ
7日も訪れた宇陀市室生小原の八幡神社。

この日の行事は、亥の子座。

かつてはこの日に、亥の子餅を各家でつくって食べていたそうだ。

それはともかく、この日も参集されていた73歳のOさん。

前期に務めた大頭屋の役は終わったが、神社会計も担っている関係上、神社行事に参列される。

4日前、Oさんが教えてくださった小原の滝や長持石は、時間もなく探せなかったことを伝えた。

代わりではないが、滝ノ尾に二十三夜講供養石塔が見つかったと報告した。

すると・・・実はここ小原にも二十三夜月待塔がある、という。

場所は、山の神の場。

すぐ近くのつちんど墓にある。

”辻堂”が訛った”つちんど”。その場にかつて「辻堂」に「十三重の塔」が建っていたと伝わる。

小原の山の神を拝見した平成24年1月7日

山の神の丘場は、行者山。

大文字鏡山とも呼ばれる、そこに行者堂が建っていることから、行者山と呼んでいるのだろう。

さて、つちんど墓は、行者山の手前。

墓石群があるからすぐに見つかる。

山の神行事を撮りに行った際、帰り道に見た阿弥陀三尊石仏に笠塔婆の左隣にある、と教えてくださった。

八幡神社から北に数キロメートルの距離。

村の北方にあるつちんど墓。

阿弥陀三尊石仏に笠塔婆辺りと聞いていたが・・・。



右、左に視線を動かしたそのとき。

目に入ったつちんど墓の二十三夜講供養石塔。

墓地区画とは一線を引いているような場に建っていた。

左にも一体の石塔はあるが、二つの円形がある。



右は日。

左は円形の内部に三日月を描いており、現代の二十三夜の月を表している二十三夜講供養石塔。

刻印のうち、鮮明な文字は奉・・・以下は判読不能の二十三夜講供養石塔。

Oさんの話によれば、滝ノ尾の二十三夜講供養石塔よりも20年遅い時代に建てたようだと・・。

所在地がわかったところで、足を伸ばしたい山の神の地に向かう。

10年ぶりに拝見したい山の神の地。

記憶を辿って歩く行者山に登る細い道。

途中から急な山道になる。

そこら辺りから足が・・・。

足のというよりも、心臓が・・・。

異常にあがった心拍数に、敢えなく断念した登りの山道。



足元に気をつけながらふり向いたそこに、柿の色に包まれた集落が見える。

実りの柿が似合う風情ある集落にひととき見惚れていた。

ただ、その場は外部の者が侵入しないように囲いをしていた。

背高く設営していた場に、コッコッココ、と寄ってくる鶏。



雄に雌もいる、そこは鶏囲い。

逃げ出さないようにしている自然農法でしょうか。

鶏卵を産み落とす自然の地に放牧の鶏は、自由気ままに暮らしているようだ。

鶏と遊んでいるわけにはいかない。

そろそろ帰り時の午後3時半過ぎ。

向こうに見える家屋に軽トラックが停まった。



農作業を終えて戻ってこられたのだろうか。

近づいてわかった軽トラの運転手は、Oさんだった。

降車されたOさんは、つちんど墓前に停めていた私の車を覗いていた。

そう、私はOさんが教えてくださった小原の二十三夜月待塔を見つけていた。

顔を合わすなり、資料があるから・・・・ちょっと待ちや。



その前に手渡されたものは、本日行われた亥の子座行事の御供下げ。

持って帰り、といわれた御供下げは、お菓子に蜜柑。

どんこ椎茸も・・。

室内に上がったOさん。

たしかここらへんにあったはずや、と探し回る。



見つかった資料は平成14年11月10日の『ふれあい歩こう会』。

主宰は笠間公民館。下笠間でなく、上笠間の公民館であろう。

村の歴史を学ぶ歩こう会。

このときのふれあい会が向かう行先は、ここ小原に上笠間枝村の滝ノ尾、下笠間、深野などに存在する石造物を中心にガイド講師の大和郡山市文化財審議委員の清水俊明氏が解説されたそうだ。

その資料にあった記事。



“民間信仰の記念碑、勢至菩薩の二十三夜講石碑”。

奈良市川之上突抜町に棲む辻本正則さんが発見したとある。

掲載は、昭和56年3月22日付けの朝日新聞。

41年前の記事だった。

辻本氏は、上笠間枝村の滝ノ原にあった二十三夜月待塔も発見していた功労者だった。



「石碑は、ともに県内で一、二を古さ。“旧暦の三月二十三日が縁日”と、される勢至菩薩”信仰に二十三夜講が存在していた証し。小原の月待塔は、江戸時代初期にあたる正保五年(1648)。滝ノ尾は、天和三年(1618)。辻本さんは、発見後に石造美術研究家の太田古札さんとともに、これまで50基の月待碑が確認されている伊賀、大和領域を総当たり調べ、いずれも宝永三年(1706)以後に造られた月待碑。つまり、小原、滝ノ尾とも、それ以前に造られた。二十三夜講は、毎年の旧三月二十三日のおぼろ月夜に美声の仏・勢至菩薩をまつる民間信仰。月待ち信仰に、中秋の名月に拝むだけの男が、旧八月十五日に寄りあう月待ちと、如意輪観音をまつる“十九夜さん”と呼ぶ女だけが旧八月十九日に寄りあう十九夜講に対して、男女とも寄りあう二十三夜講がある。伊賀地方では、室町時代からかなり流行った信仰であるが、大和では十九夜講が多く、特に美声を要求される“音頭とり”などの信仰が厚かった二十三夜講は流行しなかった。おそらく大和で発生し、伊賀で大流行した、とみるのが妥当のようだ。・・・(※元記事要約し整えた)」と書いてあった。

これほどの歴史・文化が、小原に上笠間にあったとは驚きである。

江戸時代初期から中期にかけて、当時暮らしていた講中の営みがどのような形であったのか。伝える古文書はたぶんにない、と思われるが、所在地など教えてくださったOさんの話によれば、つい数年前まで・・・。

おじいさんが生きていたころは、ご近所の男性4、5人が集まり、参っていたそうだ。

たぶんに講中の寄りあいと思われるが、お酒を飲むのが目的に飲み食いしていたようだ、という。

(R3.11. 7 SB805SH 撮影)

室生小原・八幡神社の亥の子座

2024年02月26日 07時49分32秒 | 宇陀市(旧室生村)へ
4日前に斎行された宇陀市室生の小原八幡神社。

当屋の座渡しを滞りなく終え、受け当屋に引き継ぎされた。

当屋渡しを終え、ほっとされた昭和17年生まれのOさんがいった「今週末の亥の子座行事。かつては青豆曳いてくるみを作っていた」と。

そのことは、83歳も今なお現棟梁のTさん、もそうだった、と相槌。

現在は、猪が荒らすから豆は栽培しなくなった。

主役の亥の子のくるみ餅は、つくることもできずに、今は白餅に替えた。

かつては、当月に「亥」が2回ある場合は初めの亥に、3回の場合は中の2番目が亥の子座行事の日だった。

さて、亥の子座に松本隆宮司が兼務する多田は、土曜日の昨日。

6日が宵宮に、本日7日が秋大祭だった。

その多田の祭りを終え、小原の行事は神事のみ。

氏子たちの参集。亥の子座神事のはじまりに太鼓打ち。



祓えの儀、祝詞奏上などの神事を終えて再び太鼓打ちで終えた。

年齢が70歳くらいの人たちの話によれば、子供のころであるが、そのころは青豆を石臼で挽いて、すり潰した”ずんだ“(※ずんだ餅)のような”くるみ“(※餅に挽いた大豆に砂糖をまぶした餡、餅を包むようにくるんだことからくるみの名がついた)を餅に塗して食べていたそうだ。

ここで話してくれた”ずんだ“餅とは、宮城県の郷土料理。

昨今はテレビ番組で紹介されることが多く、東北の郷土料理のカタチ。

”ずんだ“文化が広く知れ渡る時代に、”ずんだ“餅も一般的に浸透した
のであろう。

ただ、”ずんだ“のようなカタチの亥の子のくるみ餅は、神社行事に供えた記憶がない、という。

そう、近隣、例えば下笠間でも同じように、神社に献供するのではなく、お家でつくり、亥の日に食べていたものだ。

ところがだ。小原の亥の子座神事に唱えた祝詞に「いのこの餅をあまねく・・氏子にささげ・・心おだやかに・・いや栄に・・まつられ・・かしこみ申す」と聞こえていた。

なるほど、と思える亥の子座神事の祝詞。

松本宮司の話によれば、かつて亥の日の行事は多産系の猪、亥の子は子だくさん、五穀豊穣に祈念する行事であったろう、と・・・

行事を終えた数週間後。

11月22日に発刊された産経新聞に月一連載していた㈱虎屋の執筆による記事があった。

『季節の和菓子に、11月は亥の子餅』

「旧暦十月(※亥の月)の亥の日には、無病息災、子孫繁栄を願って、亥の子餅を食べる行事があり、亥の子の祝、玄猪(※げんちょ)、厳重(※げんじゅう)などと呼ばれた。 『源氏物語』に亥の子餅の名が見られるように、歴史は古く、平安時代には行われていた行事。 江戸時代には、宮中や幕府のほか、民間にも広まった行事。 特に幕府では盛んであり、初亥の日に大かがり火が夜中までたかれ、将軍から亥の子餅を賜るため、諸大名が江戸城に登城した。 農村は、収穫儀礼に結びつき、亥の子餅をつくって収穫を祝った。 子どもたちが地面を藁や石でたたく“亥の子突き”行事もある。 猪は、火伏の神、京都愛宕神社の使いとも知られ、この日から火鉢や炬燵を出す習わしもあったようだ」 (※若干補正・補完した)

(R3.11. 7 SB805SH/EOS7D 撮影)

上笠間滝ノ尾の民俗探訪に二十三夜月待供養塔

2024年02月24日 08時00分10秒 | 宇陀市(旧室生村)へ
この日は、宇陀市室生小原の秋祭り

コロナ禍中に神輿巡行は中止。

役員たちだけで行われた神事ごと。

一年に一度の当屋渡しもされるが、例年と違って最小限に絞り込まれた作法。

普段と違って酒盃の儀を取りやめ、シャンシャン手打ち締めをもって引き継がれた。

神事に際して参拝された男性が話してくれた隣村の民俗。

男性は、大当屋として、この一年を務めた73歳のOさん。

先ほど、引継ぎを終えてほっとされたOさんが伝えてくれた隣村。

私の耳に聞こえたそれは「たきのおう」。

室生の地域に「たきのお」は聞き始め。

その地に行けば、高さが100mもある不動滝が見られるという。

手前の地には長持石もあるから是非見に行ってください、という。

時間帯は午後4時を過ぎていた。

さて、「たきのおう」の地はどこ・・。

橋から向こうに流れる川(※笠間川)がある。

そこを覗いてみれば、あるから、と云われていたが・・午後4時半の森は暗い。

橋のすぐそばに花を植えたからわかるはずだと、いっていたが、不動滝の所在地は、道路横に指標があるだけで、進入口が見つからない。

川を渡った向こう岸。

そこから歩く、といわれてもこの時間では無理だと判断し、行先を「たきのおう」と呼んでいた「滝ノ尾」にハンドルをきった。



四叉路に架かる橋を渡らず、右手から流れる支流の際を登ったそこにある滝ノ尾集落を目指す。

気になった滝ノ尾の三つの有形民俗文化財。

Oさんが話していた「長者の長持石」に「笠塔婆」と「二十三夜月待塔」に目が点になった。

まさかの、「二十三夜月待塔」が、上笠間滝ノ尾に存在していたとは・・・。

集落に入ったところに住民がおられたので尋ねた所在地。

「二十三夜月待塔」の場は、どこですか。



振りむいたそこにある。

石仏がずらっと並んでいる、そこだ、という。

許可を得て車を停めたそこは滝ノ尾の共同墓地であろう。



迎える六地蔵に右並びに建っていた「二十三夜月待塔」。

時間帯は午後4時40分。

ますます暗くなる時間帯に判読できる刻印文字は「奉」くらいであるが、その上にある円形内部に描かれた三日月が特徴の「二十三夜月待塔」。

かつて有形文化財にも詳しい知人と話していたことがある。

奈良には、十九夜講に関する講並びに本尊とする如意輪観音像はあるが、二十三夜講に二十三夜月待塔は見たことがないな、と話していた。

奈良にはなくとも、三重県名張市・矢川の春日神社境内に見たことがある。



令和3年の3月14日に立ち寄った春日神社に、正平八年(1353)建之の史蹟、南北朝時代の石燈籠がある。

その奥に建っていた石碑にあった刻印は「宝永三戌天(1706) 二世?」。

「奉 供養月待三(※夜)」とある。

おそらく三夜講若しくは二十三夜講であろう。

また、京都・南山城村の高尾に「二十三夜講」・「月待供養塔板碑」があるとネットが伝えていた。

「二十三夜月待塔」に解説板書がある。



「江戸時代初期からこの瀧之尾では、勢至菩薩をまつる二十三夜月待信仰が盛んに行われていた。全国的には、江戸時代中期以降に、声がよくなるといわれて、月待信仰が爆発的に大流行となるが、それよりも百年も前に、この村で月待信仰が熱心に行われていたことを物語っている。この二基の月待塔は、全国でも一、二の古さとされる立派な御遺品なのである。銘文は、元和三(1617)年奉廿三夜月待供養講中□月吉日)と刻名されている。」と、あった。

歴史、文化を伝える解説文、板書は滝ノ尾住民の手によって建てられた、と思うが、相当詳しい専門家による判読、分析が行われたのであろう。

「長者の長持石」の場所はどこになるのか。

探す時間はもうないから、諦めて春日神社境内に建っていた「笠塔婆」を拝見する。

一般的に笠塔婆といえば、大きな笠石があるはずなんだが・・。

どこを、どう探しても見つからない。

わかったのはその横に建ててあった解説文である。



「この笠塔婆は、奈良県内では最も古いとされている鎌倉前期に造られた貴重な石塔である。塔身は、安山岩製で、高さ八十八センチ・奥行き二十二・五センチで、昔は塔身の上に笠があったが、余りの古さと石室のもろさで現在は失われている。鎌倉時代の立派な笠塔婆は、ひょっとして瀧之尾長者の一族に、関係があるかも?」



また、「石柱梵字の下、四面に次の刻印がある」

「梵 為妙□□□是大□□□ 以衆生後生安楽成物道 梵 諸法従本来常自寂滅相  以衆生後生安楽成物道 梵 □□□□□□□□□□ □□□□□□□□□□ 梵 □□□□□□□□衆生 浄入□□□迎□成仏□」

よくぞ判読されたものだと感服する次第だ。

「二十三夜月待塔」、「笠塔婆」の所在地を教えてくださった住民。

令和5年1月8日に再会した79歳のN氏によれば、この塔婆の並びに△石があり、それが西暦1500年代に上流に住んでいた滝の長者の遺物らしく、お盆のころに参るとも。



つい、さっきに収穫したばかりだ、という落花生干しをしていた。

広げた新聞を敷いた、その上に干していた落花生。

これも撮らせてください、と許可をもらって撮った滝ノ尾の生活民俗。

夕暮れ近い時間帯に、抜いた落花生の枝や葉を燃やす煙が・・



お家の向こうの煙は刈り込んだ雑草を燃やす煙。

再訪したくなる滝ノ尾住民にもっと聞きたくなる民俗がありそうだ。

(R3. 3.14 SB805SH 撮影)
(R3.11. 3 SB805SH 撮影)

室生小原・八幡神社秋の大祭にコロナ禍対策をとった当屋の座渡し

2024年02月23日 08時08分03秒 | 宇陀市(旧室生村)へ
室生小原八幡神社上笠間在住の松本宮司が兼務する地域は染田、無山・多田・小原・毛原・深野・上笠間・下笠間に青葉。

今朝は、はじめに上笠間。

終わりに小原の7地域に出仕していた。

11月3日のこの日の私は忙し、駆けずり回る一日だった。

朝に自宅を出発し、午前11時半まで滞在していた京都府精華町北稲八間・武内神社のコロナ禍の秋の大祭の取材。

奈良入り前に見た京都・山城町上狛のハザカケ

そして走った奈良県内入り。

奈良市の川上町から須川を経て誓多林町に茗荷町。

峠越えを繰り返す山行きロード。

上杣ノ川町から旧都祁馬場を経て白石町。

東の街道にハンドルをきり、宇陀市の旧室生、多田、染田を経て小原入り。

到着した時間帯は午後2時半。

午後3時から秋の大祭が行われるが、コロナ禍に決断し大祭は、各集落とも行事のすべてが神事のみに・・

小原の大祭は神輿巡行しないため、宮司他総代、当屋たちがともに榊・ヒモロギを手にして集落を巡っていたそうだ。

西日が差し込み、参拝者の影が長くなった午後3時。

はじめに太鼓が打たれる。



社殿下の境内に拡がる参拝者が首を垂れる。

宮司は祓社に移動して祓の詞。



そして氏子たち全員に祓われる。

本殿に移り、祝詞を奏上された神事はおよそ20分。

神事を終え、これよりはじめられる儀式は当屋の座。



この日まで一年間の当屋の任に就いた人たちは、次の一年を受け継ぐあたらしき任に就く受け当屋たち。

本来の儀式を簡略化した当屋の座渡しの儀に移る。

昨年同様、当屋の座渡しの儀は手締め。

「祝ぉうてシャンシャン 打ーちましょ シャン」に手拍子が1回。

「もひとつ シャン シャン」の手拍子が2回。



「祝ぉうて シャン シャン シャン」に手拍子は3回。

一本締めでなく、三々七拍子でもない“大阪手締め”の作法である。

コロナ禍の当屋渡しに、酒盃の儀はできない。

2カ月前の9月に決めた当屋の座渡しの儀であった。

平成19年の11月3日に拝見していた座渡しの儀は、酒を飲み廻す儀式をされていたが、コロナ禍では認めがたい。

詳しくは、当時取材していたブログ記事を参照
していただきたい。

こうして秋の大祭は、短時間で終え、氏子たちは解散された。

この日の参集に、当時お世話になった大工棟梁と出会えた。

83歳になられたTさんは、今も現役の棟梁。

小原の八幡神社の宮大工。

60年前は社務所。

40年前は拝殿を。

20年前が、初の仕事の塗りを担ってきた。

ベンガラ塗りは難しい。

塗る部分のすべての汚れを落として綺麗にしないと、せっかくの色調合も台無しになるだけに、相当な気を遣って完成した。



是非とも、正面から見る塗りを見て欲しい、と云われて祭礼中に撮っておいた。

大当屋を務めた最後の日、当屋渡しを終えてほっとされた昭和17年生まれのOさんが、話してくれた。

今週末の亥の子座に、かつては青豆を曳いてくるみを作っていたそうだ。

そのくるみは、棟梁のTさんも、同じ証言。

ともに体験していた亥の子座のくるみ。

現在は、猪が荒らすから、大豆の栽培はしなくなった。

そんなことで、この亥の子のくるみ餅は、今では白餅。

当時の亥の子座。

月に「亥」が2回ある場合は、初めの「亥」の日に。

3回の場合は、中の2番目が亥の子座行事の日だった、と話してくれた。

また、今年の極楽寺の拾夜は、14日に予定されていた。

その日の午後2時からは、八幡神社のゾーク(※造営事業)のリハーサルがある。

そして、21日の午前9時に行う、と聞いていた令和3年度事業のゾーク(※造営式典)」は。私の都合で拝見できなかった。

20年に一度、行われる八幡神社のゾーク(※造営事業)。

次回は、20年後。取材するには、年齢的に間にあわないだろうな。

(R3.11. 3 SB805SH/EOS7D 撮影)

毛原・毛原廃寺跡地に咲く彼岸花

2023年12月08日 07時42分54秒 | 宇陀市(旧室生村)へ
村行事の取材に立ち寄っていた山添村の毛原。

八阪神社の年中行事の一つに御石(ごいし)洗いがある。

御石(ごいし)洗いを昼間に済ませたその日の夕刻にはじめられる十五夜籠りがある。

コロナ禍の今年は中止にされたが、秋の彩りを見たくて、谷の川を越えた北側の地に足を伸ばした。

そこは、金堂跡に中門、南門、食堂跡を示す礎石群が見られる毛原廃寺跡がある。

地域住民のNさんが、盛んに咲く廃寺跡地の彼岸花状況を報せてくれる。

また、風景写真家のYさんも、また毛原を訪れる度に、真っ赤な彼岸花を伝えていた。

廃寺跡地からすぐ近くを、県立橿原考古学研究所が発掘調査された

今夏、7月に発表されたその地は、同時期の仏堂も建っていたとわかった。



廃寺跡も気になるが、今日の行事に関連する御石(ごいし)洗いもある。

毛原に三社あり。

一つは村の中心になる八坂神社であるが、他に、琴平神社と稲荷神社がある。

いずれも、平成28年6月5日に行われた端午の節句取材に神社の存在を知った。

八阪神社の御石(ごいし)洗いがほぼ終わるころ。

稲荷神社も、御石(ごいし)洗いをされると聞いて場を移動した。

稲荷神社は、毛原廃寺跡地の際に建つ神社。

村の人はどなたもおられない。

敷き詰めた御石の洗いはどことなく済んでいるように伺えた。



念のため、ご近所のご婦人に尋ねたが、わからない、という。

記録する被写体を替えて、撮らせてもらった毛原廃寺跡地に咲く彼岸花は、真っ赤に染まっていた。

それは、それで見事な彼岸花。

礎石に寄り添うように咲いていた。

(R3. 9.19 SB805SH 撮影)

室生の染田・染田の穴薬師算

2023年09月11日 07時40分48秒 | 宇陀市(旧室生村)へ
室生の小原で村の年中行事を教えてくださった。

なにかと多い小原の年中行事にふつふつ興味がわいてくる。

場を離れて、どこに車を走らせるか。

とにかく県道に出て奈良市の旧都祁村辺りで民俗に出合ってみたい。

なにも行事が民俗でなく、暮らし、生活の全般が民俗。

その一部にハレなどの地域行事がある。

探し出す、見つけ出すには、耐えずアンテナを伸ばしておけば・・・

小原から西へ、西へと向かった。

走行するフロントガラス越しに見た、これ何?

賽銭箱に線香立てがあるそこは室生の染田。



地元に住まい、野鍛治仕事をしているFさんが、話していた染田の「染田の穴薬師算(ざん)」。

毎年の9月7日に無病息災のための会式が行われている、とあった。

それから、その時期になれば足を運んでみたが、どなたにもお逢いしたことがない。

この通りを走る度に見るのは、石造物と「染田の穴薬師算(ざん)」の由緒板書き。

毎度、変わりのない情景に、いつも通りすぎていく。

ところがだ、この日は違った。

目に入った特別なモノ。

線香立ての隣に並べていたソレは、いつの時代なのか、さっぱりわからない、旧い道具。

見た目からして木工工具の”キリ”。

穴あけするキリの部分は鉄錆状態。

そう、これは、納めたキリ道具。

Fさんが話していた願かけの用具。

染田の穴薬師算は、「室町時代初期のころ。薬師如来の十二神将、七仏薬師に因んで、祀られたもので、染田天神とともに、文化的価値が高く、特に耳、口、婦人病にご利益があると、云われています」と、あった。



野鍛治師のFさんの話によれば、「願かけに、穴あけ道具のキリを12本、納める人が、見られる」

常にではなく、願かけだけに、患った人が、なんとか”思い”を解決してくださる、と願い、12本のキリを納める人がおられた、ということだ。

毎年の九月七日は、無病息災を願う人たちによる会式がある。

近所の善男善女たちが営む穴あけの願かけ。

耳が聞こえないなど、キリを供えて願かけしたら、治った、という人もおられる穴薬師信仰。

キリを納めて願かけする地蔵さんがある。

その地は、明日香村の平田。

下平田の「耳なおし地蔵」である

不特定日に、願かけをする人が何人も・・。

たまたま出合えた平成28年6月19日

参拝に来られた婦人の話によれば、耳の病気が治ってほしいと願かけされた人が、平癒した場合、願満のお礼にキリを納める民間信仰であった。

ちなみに、Fさんがいうには、9月7日は、地区役員による「代参」詣で。

願かけされた方が納めた12本のキリに違いない。

キリの錆に柄の経年劣化から判断するに、相当な年数が経っているもよう。

それも、記録と判断し、映像に収めた。

状況がわかったことで、再出発。



数メートル走ったそこにあった護符は、今年に行われた染田の田の虫送りの痕跡。

ここは、染田と隣村の多田との境界地。

田の虫送りは、どことも境界地に立てるのが習わしである。

ところで、ネットに見つかった全国津々浦々、各地にある「穴薬師」。

古墳名称に多い穴薬師もあれば、それぞれ地域に意味のある穴薬師信仰事例もある。

見つかったごく一部を下記に書き留めておく。

宮城県仙台市太白区門前町にある穴薬師は「薬師瑠璃光如来」。

埼玉県熊谷市江南地区の穴薬師

群馬県高崎市・小暮の穴薬師

また、コトバンクに挙がっている穴薬師に、奈良県宇陀市・室生の向淵(むこうじ)の地蔵三尊石仏があり、「耳病の人は錐(キリ)を奉納し、乳のほしい人は、手拭いを納める」民間信仰がある、とあった。

(R3. 7.22 SB805SH撮影)

室生上笠間・節句の鯉のぼりが泳ぐ田植え前

2023年05月13日 07時23分39秒 | 宇陀市(旧室生村)へ
宇陀市室生・下笠間のFさんから聞いた上笠間の鯉のぼりを見に行く。

上笠間は、道中の流れから下笠間よりも先に着く。

そのコースに見る新宮神社。

風が吹いていなかったから、立てた鯉のぼり姿は、釣り糸にたれ下がったような・・・

渓流釣りされている人ならわかっていただけるドンコ、ではなくうぐいもどき。

アマゴ゙のようなプリプリ、尻尾を振る活きのいい魚でなく、まるで吊られてもかまへんよ、といいたいような渓流魚。

それがアブラハヤ。

初めて竿を出した人でも釣れてしまうアブラハヤの姿を思い起こす無風の鯉のぼり。

遠めでもわかった上笠間新宮神社に支柱を立て飾っていた鯉のぼりを確認していた。

下笠間の帰り道に立ち寄った上笠間。

四ツ辻を左折れして集落内に入った一歩。

水を張った田んぼが広がる上笠間。



遠くに見えた鯉のぼりは、向かう風に泳いでいた。

午前10時半は無風であったが、30分過ぎた11時は風が吹いていた。

その手前に何人かの人たちが動いている。

トラクターで引く代掻き作業。

代掻き面積が広い上笠間の田んぼは区画されているようだから圃場整備かも・・・

少し前に進めた車。

左折れして道なりに行けば新宮神社に着く。

割合い、多くの車を停められる神社の駐車場に停めて見ていた田植前の作業。



こちらのトラクターは、泥掻きなのかなぁ。

代掻きなら後方にトンボを取り付けて運転するが、この状態では判別できなかった水張り作業。

いずれにしても田植えは、もうすぐだ。

ただ、圃場景観に添えて撮った葉の色が綺麗な樹木。

近くに寄れないと判断できないが、桜の木であれば、また訪れたい田んぼが広がる下笠間の景観。

今日、見たかったのは木製の支柱に括った鯉のぼり。

下笠間は金属製の支柱であったが、上笠間は木製。

風情はやはり木製が似合う。



アンダーから仰いで撮った上笠間の鯉のぼり。

もう1基の鯉のぼりは、神社寄りにあり、樹木の陰に入ってしまい社叢(※しゃそう)に溶け込んでいたのでシャッターは押せなかった。

(R3. 4.25 SB805SH撮影)

取材のお礼に巡る癒しの景観②室生下笠間

2023年05月11日 07時50分16秒 | 宇陀市(旧室生村)へ
次の訪問地は、大宇陀市室生の下笠間。

天理の中山田から西名阪国道に出る。

福住ICから東へと向かう。

針ICを越えた次の小倉ICを出る。

そこから南下する道路は、室生の口に着く奥宇陀広域農道の「やまなみロード」。

京都・木津川から奈良を経由し、三重・名張-伊賀を結ぶ広域農道「奈良ニュル~やまなみロード(奈良)~伊賀コリドールロード(三重)」行程の一部を利用する農道を走る。

途中の箇所に下る道.。

笠間川に架かる笠間川大橋手前、直前を左折れに下ったそこは180度カーブの地。

右に行けば、室生の染田・小原行き。

左は下/上笠間から続く山添村の毛原行き。

度々利用する信号のない無料道路であるが、下り道につい速度を飛ばしてしまいそうになるが、法廷速度は事故を起こさないよう、厳守してもらいたい。

そこを下りかけた180度カーブ。

はっとした桜樹。

光輝く桜樹に、つい拝見したく一時的停車。



往来する車両は少ないが、邪魔してはならないから、下った先の広地に停めて登ったそこで、ちゃちゃっと撮った美しい桜樹。

そういえば、桜が咲くころに、ここに来ることがなかったかもしれない。

写真に収めた数枚の桜樹にさよなら、をして向かった下笠間。



遠くからでも見えた鯉のぼり。

鯉のぼりを立てていた場所は、下笠間の公民館敷地内。

そこに立てているからと、教えてくれたのはFさん。

この地域に、村が鯉のぼりを立てているのは、下笠間に上笠間だけだ。

以前は、隣村の山添村・毛原も立てていたが、今はもう・・・と・・

この場からとらえた鯉のぼりは、野菜を栽培していた畑。

暮らしの民俗に、風に乗る節句の鯉のぼりをそろえた。

そして笠間川に架かる橋から見た川の流れ。

川底が見えるくらいの綺麗な流れ。

それもあるが、右手に見た植物は、春の恵み。

そう、Fさんの家族さんがつくっていた節句の蓬餅

つくっている間に、河原から採取してくれたコゴミ

その日の笠間川は、枯れ草で見えなかったコゴミが、今日は綺麗に見える。



川も空気も透き通るような日。

左手に見える岸辺にもコゴミが見える。



下笠間・笠間川の風情に心地よさを感じながら、向かったF家。

訪問の目的は、取材のお礼。

プリントしてきた写真は、平成30年11月23日に取材した亥の子のクルミ餅つくりに節句の蓬餅つくり。

野菜畑で作業していたFさんの姿などをご夫妻に差し上げた。

戻りのときも拝見した下笠間の鯉のぼり。



気持ちよさそうに、澄みきった青空を泳いでいた。

(R3. 4.25 SB805SH撮影)

下笠間・F家の旧暦桃の節句の蓬餅つくり

2023年05月01日 07時21分05秒 | 宇陀市(旧室生村)へ
Fさんのお孫さんが中学3年生のときに纏めた論文、『奈良県東部の伝統行事と暮らし(※下笠間)』がある。写真家Kさんも撮影協力した執筆した章立ての民俗史。

両親の父母、そして祖父母とも暮らしてきたF家の年中行事。

村の年中行事に合わせて綴った暮らしの民俗史。

今では廃れた行事も記録した、素晴らしきF家の文化史を拝見した。

その論文を知ったのは、平成30年5月17日に取材した「ウエゾメ」

現在は、されていない「ウエゾメ」を、取材のために再現してくださったFさん。

感謝に耐えない。

と、いうのも、その日の接待食に味の再現にわざわざつくってくださった蓬の「ひし餅」

毎年の4月3日。

旧暦の桃の節句のひし餅をつくり、お雛さんを飾る雛段の供物においていた。

今はひな壇でなく、お雛さん飾り一対に移った、と話してくれた。

桃の節句に飾る蓬のひし餅を、是非とも拝見したく取材許可をお願いし、今日の訪問になった。

隣村の山添村。

毛原に立ち寄り、聞いてきた午後に行われる桃の節句行事に供える神饌御供蓬餅

3社に詣でて供える菱餅は、花をつけた枝付きの桃の花も添える、と話していた。

神社行事の桃の節句であるが、ここ宇陀市室生下笠間では神社行事に供えることはない。

先に確認していた下笠間の今月行事に桃の節句行事は見られない。

山添村・切幡の年中行事には桃の節句がある

村の人たちがそれぞれの家ごとがつくるひし餅。

桃の花を添えて神明神社に詣でてひし餅を奉る。

神社側がつくるのではなく、村の人たちがつくって供えるのだ。

村の行事のあり方は、それぞれ。

元々は切幡のような形式であったかもしれない。

また、奈良市旧都祁村南之庄では、社守家がつくったヒシモチを国津神社に供える。

神事を終えて下げたヒシモチ御供は、社務所に参集した村の人たちがよばれる

かつては各家がつくって供えていたヒシモチをみなでよばれていたと話していた。

つまりは、氏子たちと氏神社の関係性にあるワケだ。

さて、下笠間・F家の旧暦桃の節句の蓬餅つくりである。



正午前に立ち寄り、同家に咲いていた見事な枝垂れ桜を撮っていた。

そのとき、人の姿が動いた。

何をされているのか、近くまで寄って聞いた。

つい先ほどに戻ってきた娘さんは、満開の枝垂れ桜の花びらを一輪ごと、丁寧に摘んでいたそうだ。

摘んだ花弁は、一年後につくる蓬の餅にのせる。

採集した枝垂れ桜の花びらは塩漬けにする。



和菓子とか桜湯に使う桜漬けは、1年の期間をかけてつくっておく。

一年間、漬けて口にする桜の花の塩漬け。

昆布茶に浮かせて食べる桜の塩漬けは、口にしたことがある。

桜の塩漬け味がもっと合う昆布茶。

心が落ち着く、印象深い味だったことを思い出したが、今回は、お茶でなく蓬餅である。

蓬餅のあんこも自家製なら、桜の塩漬けも手造り。

先祖代々から継承してきたワケでもなく、前述したFさんのお孫さんが、まだ幼かったころに発案した桜の塩漬け。

10年前からはじめた桜の塩漬け。

今もこうして、お家の年中行事、民俗史を執筆した娘さんの母親がつくってきた。

まだまだ作業があるし、これからお昼にするので午後の遅い時間帯になります、と・・・

そう、いわれて私もお昼。

下笠間を、一旦は離れて名阪国道に出て都祁の針に向かう。

針テラスからさらに南下したコンビニエンスストアの食事を摂っていた。

戻ってきた時間帯は午後2時。

ちょっと早く着きすぎた。

待ち時間に楽しませてもらった山野草採り。



畑におられたFさんと話す春の山野草。

コゴミはいちばんですね、と伝えたら、それならここにある、と河原に・・・

自生のコゴミがいっぱい。

枯草に紛れて見えないが、川に下りて採ってくれたコゴミは抱えられないほどのたくさん。

時計をみた時間。

そろそろ行ってきたらいい、と伝えられてお家に向かう。

お声をかけたら、もうすぐ終わるから、といわれて、慌てて急ぐ炊事場に・・・

すごい、これほどつくっておられたとは、想定以上の作業場。

女性3人が、そろってつくる蓬の餅。



ヒシモチの形ではなく、丸餅。

できあがった丸形蓬餅は、コウジブタに並べていた。

山裾に自生する蓬を採取してくる。

一旦は、煮たてて、上澄みの灰を取る

2~3分ほど煮たてたら、蓬の葉が色づく。

それを引き上げ、包丁で細かく刻む。

水気を取って冷蔵庫に寝かす。

蒸し器に若干のうるち米を混ぜたモチゴメは8分目。

茹でて冷やした蓬も入れて餅を搗く。

手間を考え、現在は電化製品の餅つき機を用いて蓬餅をつくる。



最終仕様に手で丸めて形つくり。

こねこね丸めてつくる手造りの蓬餅。



コウジブアに敷き詰めた白い粉は、トリコ(※取り粉)。

農協の機械で挽いてきたウルチ米の米粉(※こめこ)は、餅つきに必須の粉である。

向こう側並べているのが、塩抜きした塩漬けの桜の花をちょいのせした蓬餅

色艶に照りがある蓬餅はラップ包み。



綺麗やから、こないしたらどう、と云ってくれた娘さんのアイデア。

それからもう10年にもなる、というF家の旧暦桃の節句の蓬餅つくり。

実は、あんこ(※餡子)も自家製ですと話してくれた。

蓬餅は、すべてがこねこねつくる丸形だけでなく、ひし形に成型するひし餅もつくっていた。

その成型に用いる箱は使用済の紙箱を利用した詰め容器。

なるほど、である。

翌日、或いは翌々日くらいにならんと固くならない。

期間を長くすれば、蓬餅は硬くなるから、包丁は入りにくくなる。

包丁を入れやすい状態を確かめて、切るひし餅つくり。

詰めた紙箱の縁に沿って、平行四辺形に切り分けするそうだ。

ひし餅の形にしてから供えるF家の桃の節句。

お雛さんに、桃花を添えて飾る。

かつてはひな壇飾りにしていたが、飾り立て、飾り終えの負担軽減に一対のお雛さんに替えたそうだ。

桃の節句の蓬餅は、お雛さんだけでなく、神棚に仏さんにも供える、と聞いたが、その日がいつになるのか、この場では決められない。

もしその日がわかれば・・・と、お願いしようと思ったが、何度もお伺いするのは申しわけなく、お礼を伝えて帰ろう、としたら、ちょっと待って、とお土産をくださった。



塩漬け桜のせの餡包みの蓬餅が3個。

平行四辺形に包丁を入れて切る箱入り蓬餅が1本。



その形は、棒餅。

私が住んでいた大阪に暮らしていた子どものころ。

実家の餅つきにも、包丁を入れて切り餅にする棒餅もあったが、母親も、大ばあさんも、その棒餅をネコモチと呼んでいたことを思い出した。

今日、つくりたての蓬餅は、すぐには食べられないから、数日置いてそれからですからね、と・・・

そのお礼に、県立民俗博物館で開催していた『私がとらえた大和の民俗~つくる~』の写真展図録を献本させてもらった。

なぜに献本かと、いえば、このときのテーマは「つくる」。

取材地が、ここ下笠間。

取材先は、カケダイをお店でつくっていた宮崎商店の店主

またカケダイを吊るし、供えていたI家

地区の人に、カケダイ文化を伝えるテーマ「掛鯛(かけだい)」。

とらえた写真家は川島朱実さん。

取材のときは、私も同行していた貴重な「カケダイ」映像を献本した。

なお、今日の旧暦桃の節句の蓬餅つくりの時間帯のFさんは、その間ずっと畑仕事をされていた。

桃の節句は、女性の節句だけに、畑仕事に集中していたようだ。

(R3. 4. 3  SB805SH/EOS7D撮影)

室生下笠間・時間調整に立ち寄った笠間川に咲く癒の桜

2023年04月30日 07時19分59秒 | 宇陀市(旧室生村)へ
午前中に訪問した宇陀市室生・下笠間・F家。

桃の節句に飾る蓬のひし餅つくりは、午後になる、という。

お昼も摂った食後の時間帯のある程度に来てもらったら、えーと云われた。

なるほどの段取り時間は、食後の何時になるか、はっきり言えないようだ。

午後の時間。それまで待っている時間がたっぷりある。

只今の時間は、午前11時。

F家の前は稲作の地。

広がる拡がる田園。



暮らしを支える美しい土地に野菜つくりをしている村人もいる。

よーく、見れば、その向こうに桜の花が咲いている。

これまで見てきた笠間川に桜並木が植わっていた。

携帯カメラではレンズが通り。

イチガンに替えて撮ったそこは桜樹の森。



笠間川にかかる橋から見た桜樹は、それほど多くはなさそうだが、雰囲気がいい。

車に乗って移動した北の方角。

笠間川に下りる道を探して近づいたその場から見る景観が美しい。

堰から流れる水流。



手持ちの携帯カメラで撮った桜樹の地。

ますます、えー雰囲気。

この日の天候はどんより。

晴れの日の方が、良さそうにも思えるが、逆にピーカンでは描写しずらい穏やかな風景。



反対側、つまり架かる橋から撮った方角と同じ、南からとらえた桜樹もいい。

近づきざまに、いきなりの突風。

雲行きあ怪しい雰囲気に強い風が吹いた。



その途端に多くの花びらが散って飛んでいく吹雪状態。

桜樹の花と同色の桜吹雪。

目の前にどっと押し寄せてきた。

一瞬なのか、数分なのか、時計を見ていないからわからないが、神吹雪はふっと消えた。

落ち着きを取り戻した風。



丁度、見ごろどきになった枝垂れる枝桜。

背景に、流れる堰景を入れて撮っていた。

笠間川沿いに咲いていた空間は、癒の桜だった。

ぐるっと、廻って戻ってきた時間が、丁度の正午。

午後に再訪問するF家の農小屋。



寄り添うように咲いていた枝垂れ桜も、なお美しい。

ここにずっと佇んでいたいが、食事の時間。

食事処は、名阪国道に出て走った都祁の針テラス。

食事処もあるし、総菜弁当も売っているコンビニエンスストア行きにハンドルを調えた。

(R3. 4. 3 SB805SH撮影)