マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
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精華町菱田・春日神社のハリマトと呼ぶ弓始式

2024年09月18日 07時57分22秒 | もっと遠くへ(京都編)
2年がかり、ようやく目にする京都府相楽郡精華町・菱田に鎮座する春日神社にて行われるハリマトと呼ぶ弓始式。

たまたまヒットしたネット情報にあった気になる民俗行事。

キーワードは「弓始式」。

京都府精華町が掲載していた菱田に鎮座する春日神社の年中行事。

毎年の正月10日にしている
、とあった。

実施時間は午前9時のようだが、会場だけでも足を運んでおけば、なんとかなるだろう、と出かけた令和2年の1月10日。

境内の様相から、終わっていた
、と判断した。

ただ、終わってはいるが、その行事の祭具では、と推定した残欠があった。

はっきり認識できたのは、正月を迎えた門松に見慣れぬカタチの藁づと。

簾型と思えるしめ縄に、おみくじらしきモノ。

さらには割った竹に、竹籤のような細く加工したモノ。

帰宅してから再度、見直した精華町が掲載した春日神社の「弓始式」。

式典は、午前9時より、とあった。

あらためて出直すことにした菱田のハリマトと呼ぶ弓始式。

再訪した菱田の春日神社。

いきなり訪れても、代表者へのご挨拶が後になっては、と思って年末大晦日に立ち寄った。

大晦日であれば、神社役員に出逢えるかも・・・。

期待どおりに出逢えるのか、また、正月迎えに砂撒き調査も兼ねて足を運んだ午後2時


ここ菱田には砂モチとか砂撒き習俗はないようだ。

代わりではないが、門松の真上に設えていたしめ縄に気になる。

中央にシダ、ユズリハ、橙?などが見られる。

しめ縄の房では、と思えた七・五・三の垂れがあった。

並びは七・三・五であるが、基本的な七・五・三の本数を垂らしていた。

しめ縄は、まだまだ青々している、美しい姿だ。

なるほど・・・

令和2年の1月10日にはじめて菱田入りしたその日に見た残欠にあった。

残欠は、このしめ縄の部分であった。

謎は解けたが、ハリマトと呼ぶ弓始式は、直接携わる関係者からお話を伺いたい、と思って尋ねた二人の宮守さん。

午後3時からはじめる、という年越えの大祓え神事の前にしておく御供上げを終えた二人に伺ったが、明快な回答には繋がらなかった。

聞き取りが塩梅できていないから、あらためて、年明けの正月三日にも訪れた菱田の春日神社

鳥居前の高札に掲示していた社寺総代会のメッセージは、大晦日までは実施の運びとしていたが、コロナ禍対策に新型「コロナウイルス感染拡大防止のため、1月10日(月)のとんどは中止します! 社寺総代会」で、あった。

伺えば、住民に罹患者がでた、という。

罹患者が一人でも発症となれば、リスクがある。

とんど焼き行事に多数の人が集まるのは、まん延防止に繋がらない、と元日に役員たちが協議され、とんど焼きは中止の判断をされた。

やむを得ない決断であるが、10日に予定しているハリマトと呼ぶ弓始式の判断は・・・宮守さんから明快な回答もなく・・

とんど焼きに続く、コロナ禍対策の決断は、社寺総代の回答を求めるしかない。

宮守さんの話によれば「10日辺りに行われる予定の弓始式の実施有無は、そのころにまた判断するが、その日より前に行われる7日の七草粥はしている」・・・と、ありがたく承った七草粥行事の取材に光明が見えた。

そして再び、7日に訪れた菱田の七草粥行事

その日に、宮守さんが伝えてくれた「ハリマトについては、常に座の代表。つまり、上位者である社寺総代の許可を得ない、と・・・」

「宮守さんたちが勝手な判断で、取材許可を伝えることはない。社寺総代に伺いをたて、許可、承諾を受けるには・・」と、話していたときに来られた代表の社寺総代のYさん。

“ハリマト”を充てる漢字は“張的”。

かつては“貼的”の呼び名時代もあったそうだ。

現在は、本座に真座の両座が年交替に“ハリマト”の道具を作る。

神事のはじめに弓を射るのは二人の宮守さん。

“ハリマト”に、とんど行事を終えて、次の宮守さんに引き継ぐことになる、と話してくれた。

その後に来られた本座の一老・Aさんが、詳しく話してくれた「とうびょう」の件。

充てる漢字は「祷俵」と書いて「とうびょう」と呼ぶそうだ。

稲藁でつくる「とうびょう」。

太さは5cmほど。

5段に括って、一番上を五つ割くカタチにするらしい。

“ハリマト”の儀式は、黒的に矢を射る所作。

奈良ではその多くをケイチンとかの呼び名がある、つまり年の初めに、村の安寧を願い、悪霊を退治、村外に追い出す弓を射る儀式である。

的の”オニ”。

漢字で書く”鬼”の的であったり、二重、三重、五重など、各地の決まり通りに描く円形は黒的。

年初にあたり、いずれも矢を打ち、農事に禍をもたらす悪霊を退散させ、村の安寧、無病息災や五穀豊穣を願う年頭行事である。

弓打ち所作に、特別なことはないように思えたが、気になるのが「とうびょう」である。

「とうびょう」そのものの存在は、実際に拝見するまで、たぶんにわからない祭具であろう。

そもそも「とうびょう」の読みが、これまで調査してきた奈良県内の行事では当てはまるモノがない。

充てる漢字でもわかればいいのだが・・

いずれにしても、その「とうびょう」に括り付けるのは、洗米を包んだオヒネリ。

豊作を願う印しが「とうびょう」。

Aさんは、その「とうびょう」を春に立てる、という。

そう、春といえば苗代つくり。

今も手動式機械でモミオトシをしている、というAさん。

苗代に立てる「とうびょう」の在り方は、水戸口(※一般的には水口)まつり。

奈良県内に見るいわゆる御田祭に祈祷する松苗のような役目か。

話を聞いて、是非とも取材させて欲しい、と願ったら承諾してくださった。

“ハリマト”と呼ぶ弓始式に、苗代に立てる「とうびょう」の取材も承諾してくださったご両人に感謝するばかり、だ。

ここに至る経緯。

長々、書き留めたご縁のつながりに、ようやく拝見する菱田・春日神社の”ハリマト”と呼ぶ弓始式。

この年、令和4年は、コロナ禍に決断したとんど焼きの中止にしたが、”ハリマト”は実施だ。

午前9時、社寺総代から、本座・真座の氏子たちが参集され、9時半より、予め今年当番の本座がつくった矢に黒的を据えていく。

射る弓は、かつては毎年において、その都度、つくってきた弓であるが、現在は市販の弓をあてることにした。

例年に使い廻しの弓を用いて、「ハリマト(※発音に“はりまとう”もあるようだ)」を行う。



神饌所に宮守さんが、予め準備していた「ハリマト」。

確かに二重に黒く描いた円形の的。

手前に並べているのは、これよりはじめられる「ハリマト」に供える神饌・御供。

お神酒に洗い米。

スルメ一枚に塩など。

左側に寄せた一升の蒸しご飯。

一杷の藁をのせた蒸しご飯。



手こねで山のようなカタチに高盛りした。

このカタチは、奈良県の山添村桐山のマツリに拝見した「御白御供/おしらごく」と呼ぶモッソにほぼ同じに見えた。

ただ、藁の本数は多く12本。

その姿は、まるで白うさぎ


桐山から近い隣村の山添村の室津も同じく蒸し飯のモッソ

地域が、まったく違えども、ほぼ同型の蒸し飯は、いずれも神さんに奉る神饌・御供の在り方である。



この日の神事ごとに供えていた末社の御供を下げた。



神社境内に据えて「ハリマト」を支える薦俵。

実は、据える位置は常に一定ではなく、その年の恵方に向ける。



そう、一般的にわかる節分の恵方巻き。

縁起がいい、とされるアキの方角や、という人もおられる。

恵方はネットでもわかるし、気象予報士が、テレビで伝える天気予報に教えてくださることもある。

今年は、2022年。

方角は北北西。

実は、恵方の方角は、「東北東」「西南西」「南南東」「北北西」の4方角だけのようだ。

詳しくは、ネットで
・・・

その方角通りに据えた「ハリマト」。

大きく、大きな薦俵は2枚。

幅にゆとりを設けた「ハリマト」は、2枚が重なる中央に架けていた。

竿を支える道具は脚立。

精華町が公開している「春日神社の弓始式」の映像を見ればわかるが、当時は3本の竹で組んだウマ(※稲作に収穫した稲干しする道具)に竿を据えていた

その映像をよくよく見れば、竿は葉付きの竹。

長いままの状態で用いた竿であった。



一方、本座の一老・Aさんが、神饌所でつくりだした里芋のカタチづくり。

里芋は海老芋のように見える。

それはともかく、長めの串に挿していく。

大きく、太めの海老芋を支点に据え、上部に空間を取った間に芋挿し。

このままでは、倒れてしまうので、心棒の海老芋を左右から串挿し。

両サイドに、それぞれ1個ずつ。

見事に立った芋串御供。

奈良県内では、見たことのない芋串構造。

そうとうなバランスが要るらしく、簡単にはつくれないようだ。



このカタチから思い起こした、外洋でもこなせる安定した走行ができる両側アウトリガーに帆かけもあるカヌー。

芋串に丸太の生サバ。

蒸し飯も並べた神饌・御供。

お神酒は一升瓶。



「ハリマト」から、対面の位置に据える。

その横には、弓と矢も立てかけた。

午前9時40分ころ。

「春日神社の弓始式」がはじまる。

浄衣を着衣の宮守さんの姿は、烏烏帽子かぶり。

はじめに宮守さんが行なう神事ごと。



手を合わせ、拝し、それから祝詞を奏上される。

そして祓えの儀。



神饌・御供に、「ハリマト」を祓う。

そして弓と矢をもった真座のIさん。



それぞれ5本の矢を射る。

練習もなく、たぶんにいきなりの神事の神矢。

的になんとか打つことはできても、一重の太い黒的にはかすめるくらいか。

射速もそれほど早くない。

いざ、私が打ったとしても、的から外れるだけだろう。



宮守さんの任期は一年。

重要な役に就くのは、その年しかない。

続いて、矢を射る本座のNさん。



真剣な顔つきで、矢を射る。

ひゅっと飛んだ矢が、的の中心に多く当たれば、その年は豊作である、と言い伝えられている。



弓始式に込められた農作の願い。

矢を射るのも、その年の五穀の豊凶に占う予祝(※よしゅく)行事の「ハリマト」願い。



町が広がり、稲作地は少なくなった、としても豊作の予祝に、いい結果が出れば嬉しいものだ。

ちなみに、菱田に暮らす農家さんは40戸にもなるそうだ。

宮守たちが矢を打った次は、社寺総代ら神社役員に交代する。



矢を射るカタが決まったように打つ社寺総代たち。



射者の様相を見に来られた氏子に交じって歴史、文化を案内、解説しているボランティアガイドらも見守る弓始式。

菱田の五穀の豊凶を占う行事は年明けの正月10日。

今年も、コロナ禍であるが、弓始式は実行に移された。

春日神社の年中行事を支える方たちに「太夫」と呼ばれている人もいる。

ちなみに、菱田にもトーヤ制度があるらしく、充てる漢字は「当夜」。

充てる漢字は、奈良県内に事例のない「当夜」。

地域によって、充てる漢字文化はさまざま、ということだが、後述する、かつて吉川章一氏が執筆した「豊凶を神矢で占う弓始式」によれば、「当屋」であった。

この年は、コロナ禍中だけに、大勢ではなく遠慮しながら拝見している立ち姿の見物人たちは数えるほどだ。



真剣に弓を引く本座の一老・Aさん。

弓の構え方が違うな、と思ったAさんの立ち姿。



相当な体験者であろう。

何度も拍手が起こる「ハリマト」。

ど真ん中はなくとも、的に当たったからこそ拍手が送られる。

神社役員の次は、地域の人たちにもバトンタッチ。

弓を引く女性。

そのカタチが素晴らしい。



周りに見ていた人たちも称賛するカタチが綺麗、と。

たぶんに和弓若しくは洋弓の体験者であろう。

矢の飛び先は、的を撃ち抜いたことだろう。

一通り、終わったらしく、間が開いたのか・・・肩をポンと叩かれた。

振り向けば、そこにおられたAさん。

「カメラもっておくから、弓矢を引いていいから」、と云ってくれた。

まさかの、地域参加を要請されて、弓を引く。

その私の姿をとらえたAさん。

私のイチガンカメラを手にしてシャッターを押していた。

撮った姿をファインダーで見た。



精一杯の演技。

矢は飛んだが、的までは届かなかった。

もう、一矢といわれて、もう一本・・・

私自ら選んだ一枚。

表情が決った一枚は、Aさんがとらえた射者の一枚。

令和4年2月23日からはじまった奈良県立民俗博物館・古民家写真展

ほぼ11年続けてきた県立民俗博物館の事業。

最後になった第10回目の「私がとらえた大和の民俗」の図録に掲載
させてもらった。

知人の写真家さんが、行事取材先で撮影してくれるケースはあっても、行事の取材先の方に撮ってもらうのは、初めての体験。

記念の姿が図録に遺されたこともあって、写真展が終わってからの後日。

訪れた菱田の、A家の苗代水戸口まつり取材の際に、記念の一冊をもらっていただいた。

ところで、見学に来られていたボランテイア活動のお一人が取材中に見せてくださった行事の解説シート。

一枚に、これは、なんと・・・

撮影日は、記載していないが、菱田の弓始式の様相がわかる写真に驚き。



撮影者は「松村茂」氏、とあった写真一枚。

所有していたボランティアの方の話によれば、30年前の弓始式写真である。

この写真は、山城資料館所蔵の図録に見つかったコピー情報であるが、貴重な情報を含んでいる。

写真を見せてくださったNPO法人精華町ふるさと案内人の会、S理事長に感謝である。

宮守さんたちが弓を引く姿の後方にあった春日神社のしめ縄。

特徴あるしめ縄は、簾型。

前年の大晦日参拝に訪れたときに拝見したしめ縄とは、まったく異なる様式。

藁を垂らした七・五・三のしめ縄から、考えられる簾型しめ縄。

かつてがそうであれば、しめ縄は簡略化したのでは、と推定していた。

決め手はなく、推論には達しなかったが、私の思考はほぼ当たっていた。

また、弓は手造りではなく、一般の市販品。

本日、使用した弓と同じかどうか不明だが、ずいぶん前に切り替えていたことがわかった。

ただ、矢はわかり難い。

見学者たちに、また氏子にも伝わるよう、解説をはじめたAさん。



30年前まで、つくって配布していたかつての「とうびょう」を、会場に持ち込み、話された。

ずっと、自宅で保管、保存してきた「とうびょう」は、最後の見本に、と持参したが、今年限りになる。

なんでも、この春の苗代つくりの際に、撮影記録用に使用する、と伝えられた。

毎年の5月3日の午前中。ご自宅前でモミオトシをする。

苗箱に落とした籾。

苗代に移した育苗の苗箱。

すべての苗箱を終えた、その際に置く「とうびょう」。

立てるのではなく、水平に置いて、イロバナ立て。

そうして豊作を願う、と話してくれた。

かつては40戸の農家さんに配られていた「とうびょう」。

昨年の秋に収穫した稲藁からつくっていた。

その役目は、二人の宮守さん。

コンバインにかけず、手刈りの稲藁。

稲藁の風合い、色合いを保つため、おそらく陰干しをしていたであろう。

藁屑や埃を払って、飛ばす。

無駄毛のような、シビも取り、綺麗にした藁を数本束ねる。

藁束は5本。さらにまとめて直径が5cmくらいになるようカタチづくり、間隔をとって藁で括る。

その箇所は、要所、要所の5カ所。

ばらけないように括る箇所も決めていた「とうびょう」つくり。

このカタチは、前年の大晦日に拝見したしめ縄と、まったく同じでは、と思った次第

先端部分は、五ツ割。

その付近に差し込んでいた椿の葉。

常緑の葉であり、なかなか落ちない葉。

豊作を願う印しであったろう。

農家さんであれば、稲藁を軟柔らかくするのに、横槌を用いて藁打ちはできるが、例えば事務職などサラリーマンなら、そんな体験がない。

宮守さんが二人とも農家さんでない場合は、さて、となる。

大昔しは事務職よりもたぶんに農家さんが多かった時代は、対応できていたが・・

時代とともに暮らしや生活文化も変化が起きた。

これまでは、佳しであっても、今の時代にも可能なように、それこそ日本全国の暮らし方同様に、変容するとともに行事のあり方を替えざるを得なかった、のではと思料する。

大方、30年ほど前までは、そのような「とうびょう」を、毎年にわたり、毎回つくっていた農家戸数の40束。

行事に祭具なども大変革してきた菱田の「ハリマト」と呼ぶ弓始式。

これよりはじめる作業は、旧「とうびょう」から変革した稲藁から竹製に・・・

何人もの人たちが、五穀豊穣を願った弓矢打ちを終え、見学者たちが会場から離れてからはじめた解体作業。

悪霊を追い払った「ハリマト」も、役目を終えたら解体される。

丹念につくられた「ハリマト」を裏返して見た。

一定の幅に割った竹。

外枠に4本。

内部の横に6本。

縦にも6本を入れて組んだ。

表に貼った紙は相当数の枚数。

頑丈なつくりで作り込んだ「ハリマト」に矢が突き抜けた痕跡が何か所もあった。



解体は、結わえて括っていた紐切り。

ばりばり剥がして解体した竹組み。



その竹は、新「とうびょう」の芯棒に使用する。

骨組の竹を再利用してつくる竹箆製の「とうびょう」。

節目を入れて、等間隔に切断。



縦の切断は、カマを入れ、先端だけを割く。

一方、神饌所に上がった宮守さん。



剥がした的を、挟みで切りはじめた宮守の真座のIさん。

ビリビリ破るのではなく、白と黒色部分が半々程度になるよう、より分け。



的の黒い部分に神饌・御供した洗い米を包んだオヒネリ。



五穀豊穣の印は、先を割った竹箆に挟んで仕上げる。



現在は少なくなったが、その昔は40本。

黒い的にオヒネリした洗い米は、五穀豊穣の願いに通じる。

藁で作っていた旧「とうびょう」よりも、簡便なカタチになっても、願いは通じる、ということだ。

今年の竹箆製の「とうびょう」の本数は26本。



本来なら、春の苗代の水口に立て、イロバナを添えて健全な育苗を願う新「とうびょう」であるが、苗代をしなくとも、野菜畑に立てたいという希望者も多い、という。

下げた神饌・御供した生さば、海老芋串は、これより直会によばれるのだが、今年もコロナ禍では、集まりは密を避け、会食も中断した。

「ハリマト」と呼ぶ弓始式を終えて、本来なら下げた御供の鯖は七輪で起こした炭火で焼いて食べる焼きサバに調理。

また芋串も同様に炭火焼き調理。

蒸米とともに箸を使わず手づかみで口にする直会であるが、2年続きの中止を決断された。

ちなみに、NPO法人精華町ふるさと案内人の会、S理事長が、見せてくださった「春日神社の弓始式」。

その記事に記載していた参考;『精華町の史跡と民俗』の「豊凶を神矢で占う弓始式」;吉川章一氏、とあった。

執筆に数年後。ネット調べに『精華町の史跡と民俗』の「豊凶を神矢で占う弓始式」がみつかった。

精華町HPに『精華町の史跡と民俗』デジタル版公開した、とある。

「昭和58年より、平成10年度までの13年間。精華町史編纂事業において、『精華町史』史料篇および本文篇にさきがけて発行した参考資料版の一冊です。町民の方たちから原稿を募集し、昭和63年3月に初版本を刊行。平成8年4月に増刷した第三版をもとに、デジタル版を構成しました」。

その記録は、町民が暮らしの記憶を辿った「精華町の史跡や年中行事、大正・昭和の暮らしや民俗について、祖先からの伝承や自らの体験を交えて、町民みずから書き残した貴重な記録」、とあった。

後世に伝える素晴らしい事業、だと思う。

但し書きに「執筆者による文章そのものが、貴重な歴史的な証言・記録となっているが、明らかな誤字などを修正するだけに留めています。行事の内容などについては、現在では休止・変更され、現状とは異なる場合もあります。閲覧にあたってはこの点にご留意」と、あるが、当時、吉川章一氏が執筆された報告は実に詳しい

当時の在り方が目に浮かぶように蘇る。

掲載している写真に和服姿の男性もおられる。

これこそ民俗誌。

貴重な映像も含めて、後世に伝えるべき事項が多い。

「とうびょう」を充てていた漢字は「祷俵」。

実は、執筆者の吉川章一氏は、充てる漢字に疑問をもっていた。

が、後ろに続く「古来五穀の容器として、藁製の俵が一般的だった。五穀の豊穣を祷る思いを、その俵に込め”とうびょう”と名付け、稲藁を用いて五穀を表現する形をつくったもの」、といわれる。

確かに藁を編んでつくった米俵がそのことに匹敵するのだが・・・一部、竹製の飯籠や飯櫃などもある

農耕地であれば、間違いなく稲藁はあるが、稲作が困難な山間、山岳地など山仕事が主な土地での材は、カヤとかシュロである。

保管・保存食料は、米だけでなく五穀に根菜、芋・・

地理的、物理的な生活環境の違いによって暮らしの在り方は異なるが、全国圧倒的に稲作が多いのも確か、である。

吉川章一氏が、疑問をもっていたのはこのようなことでは、と思ったが、もっと違った視点で思考されていたのかもしれない。

ちなみに、京都を主に年中行事を撮影、ブログに公開している沙都氏の報告に、翌年の令和5年に行われた菱田の弓始式を掲載している。

式典を終え、竹箆の新「とうびょう」をこしらえた。

今年も連続した直会も中止した菱田のハリマトと呼ぶ弓始式。

一段落の時間帯にほっと一息された。



本日の斎行になにかとお世話になり、この場を借りて厚く御礼申し上げる。



こうして、氏子たちも参拝される菱田の春日神社。



三日前の七日に行われた七草粥行事取材のおりに伺った春日神社の社殿も美しく輝いていた。

平成30年2月発行の『精華町文化財宝典』に掲載された菱田の春日神社。



ふるさとデジタルアーカイブ「せいか舎」に、詳しく公開しており、斗栱(ときょう)のあいだにある蟇股(かえるまた)は、この時代の基準的な作例として紹介しているが、鬼瓦の意匠に着目した。

奈良県内外に見たこともある社殿の鬼瓦意匠に三つ並びの宝珠(※おそらく如意宝珠を表現する三弁宝珠)が見られる。



カタチから、ごーさんこと牛玉宝印を思い起こす三弁宝珠である。

撮っていた立ち位置。

社殿横に建てられた奈良・大和の春日大社の御間形(おあいがた)石灯籠と同型の灯籠がある。



しかも、である。

南北朝・吉野時代の古式ゆかしいことから、旧重要美術品に指定されている


このことから、菱田は鎌倉時代から室町時代に栄えた、と伺えるそうだ。

(R4. 1.10 EOS7D/SB805SH 撮影)

木津川市加茂町銭司・春日神社の遷宮仮宮期の勧請縄かけ

2024年09月10日 07時39分24秒 | もっと遠くへ(京都編)
昨年の暮れ、写真家のKさんから誘われた民俗行事の取材。

その地は、京都府木津川市加茂町の銭司(ぜず)。

宮小谷に鎮座する春日神社の年中行事の一部。

過去にも、何度か訪れては拝見していた境内一面に撒く砂撒き。日にちが経過していても、痕跡はすぐに消えないから、どのようなカタチにしているのか、理解できる格子状仕様の砂撒き。

作業の在り方の全容がようやくわかってきた宮小谷の春日神社

作業に入っていた長老が伝えてくれた、我が家でもしている、と・・・

ありがたく取材させてもらった大晦日の日に行うお家、民家の砂撒きも拝見していた加茂町銭司。

正月行事に勧請縄かけもされている。

勧請縄も、かけている状態なら、2度も拝見していたが、どのような方法でかけるのか、未だわかっていなかった。

奈良・大和にはない形式の勧請縄がようやく拝見できる。

朝早くの時間帯に集まってくる、と聞いていた。

同行のKさんは、霜が降りてこないうちに到着した、と話していた。

ここ銭司の春日神社に停められるのは、数台の軽トラ。

しかも四駆の軽トラが要りそうな渓渡り。

渓にあたる地は狭い。

オフロード車で渡りたい気もする一段と高い地にある広地に着く。

停めたすぐ傍に地蔵尊を祭っている。

ここ銭司にきたら、必ず手を合わせる地蔵尊


錫杖をもつ地蔵石仏は中央に一体。

両サイドに、双体の石仏もあれば、その脇にも一体石仏を並べている。

しめ飾りに、高野槙もあれば樒もある。

正月三日の参拝に賽銭も数多い。

車を停めて山道的参道を行く。

一段、あがったそこに今日の勧請縄かけに集まった人たち。

令和四年勧請縄奉仕者名に、東頭(※かつて東座)が4人。

西頭(※かつて西座)の7人の名があった。

名はともかく、平成30年1月6日に訪れたときと同じ人数だった。

社務所内に明かりが灯る。

今年の春日神社は、造営事業中。

社殿工事にために神さんは、一旦遷され、現在は社務所に設置した仮宮にいらっしゃる。



正月参拝も、例年と違い、社殿向きに門松を立てるのであるが、遷宮仮宮期は神さん坐います社務所側に門松。

参拝の方角は逆転している総代ら代表者に許可を得て、遷宮仮宮期に供える神饌御供を撮らせてもらった。



尤も、仮宮全体は遠慮し、御供を並べている状態を撮らせてもらった。

燈明は、早くに灯していたからか、あと僅かになっていた。

さぁ、これより始まる作業は、勧請縄つくり。

まずはモチ藁のシビ取り。

一般的には、台を据えて、稲藁を置き、横槌で藁を打つ。

ゴミ、埃も払うシビ取り作業。



ここ銭司では、参道両脇に立つ杉の木に藁束ごと手にもって。樹木の木肌にビシ、バシ、水平横打ち。

横槌無用のシビ取りに、騒然とする。



人数が多ければ、多いほどシビ取り時間は短縮する。

平行作業に四方に編むようなカタチにするため、ロープを用意する。

長さを測ったロープを2本。



3セット並べて長さを保つ。

ロープ括りを施して四方に広がるようにする。

シビ取りが終われば、縄つくり。

水平に保ったままの藁束に、藁束を突っ込んで捩じる。

掴んだ藁ごと捩じり。

先端に藁束を重ねて、藁をつぎ足し、つぎ足し右、3本撚りに捩じって左結い。

その際、心棒になるロープを巻き込むように、依っては捩じって締め付ける。

この作業を繰り返して、長く太い勧請縄をつくっていく。

ベテランの技であろう。



太い勧請縄が出来上がるころに運ばれた「モッソ」。

モッソと云えば、蒸したご飯を容器などに詰めて仕上げる御供が、一般的に見るカタチであるが、銭司では、ご飯はなく、大きな塊のオヒネリがある。



枝付きの青竹。

白い奉書で巻いた細めの竹は御幣。

大きなオヒネリの中身は洗い米。

見た目でいえば、フグリのように見えなくもないオヒネリ。

勧請縄の頂点に御幣を挿す。



豊作祈願に洗い米。



ロープを足したそれらは四辺形になるよう網目のように組む。

一方、サカキはヒラヒラの御幣、二幣を結び目に挿して固定していた。

これらが揃ったところで、参道に自生する樹木にかける。

長い梯子を据えて、高い位置に。



両端を左右にそそり立つ樹木の幹に廻して括り、固定する。



網目の下部分は、車の通行の邪魔にならない程度に切断し、完成したら太鼓を打って無事にかけたことを告げた。

こうして勧請縄をかけ終えたら、1年任期の村神主が勧請場に就く。



村人たちは整列し、まずはお祓い。

勧請縄を修祓し、祝詞を奏上。



村の安全、安寧を願い、祝詞を奏上して終えた。

午前8時に集まり、縄つくり。

と、同時に縄かけ。

神事を終えた人たちはここで終えた。



1時間余りの短時間で終えた銭司の勧請縄かけ。



かつての勧請縄をかけは、ここではなかった。

この参道を少し下った、地蔵尊がある駐車寺に戻るまでに下り道があった。

下った山道に寺と出会う。

その寺院は、真言宗智山派無住の福田寺。

その間にあった馬場道架け道にかけていたようだ。

そこが、元々の参道道。

もちろん歩きの参道道。

場が荒れて通れなくなった。

歩きも危険、と判断し、神社すぐ下の参詣道に移した、という。

その危険性を報せていた通行止め・立て札を見たのは、昨年の令和3年の1月3日に立ち寄った日だ。

ネットに見つかったブログ「愛しきものたち」に掲載していた銭司・春日神社の勧請縄

撮影は、平成20年2月16日。

その場の参道は樹木の根っこが向き出て、ゴツゴツしている処である。

ロープの長さは、それほど長くない。

通行に邪魔にならんような位置にかけている。

しかも、地蔵尊がある広地(※現駐車場)にも、四方形の砂を撒いていた。

また、度々紹介してきたブログ「歴史探訪京都から ~旧木津川の地名を歩く会~」の記事にも、現在とは違った参道にかけてあった勧請縄。

こちらも参道にあたるくらいの長さ。

また、四方形の砂撒きは、参道にも撒いてあった。

このブログによれば、かつて砂は木津川砂州から採取していた、とあった。

撮影日は不明だが、2012年1月3日とあるから平成24年の記録であろう

さて、かけた勧請縄から離れようとしたときに目に入った道具。

やや曲線にも見える自然木で作られた木製の梯子。



これも暮らしの民俗だけに、映像に遺しておきたい木製梯子。

高さが低かったようで、本日は使わなかったようだ。

その近くにあった山野草の葉。



自然観察会の参加していた奈良・大和郡山の矢田山山麓に見つけた葉っぱと同じ。

冬の時季は、葉だけの植物であるが、春から初夏にかけて花を咲かすその花は、ギンラン、それともキンランでもなくコクランではないだろうか・・

(R4. 1. 3 EOS7D/SB805SH 撮影)

木津川市加茂町銭司・春日神社の遷宮仮宮期の砂撒き

2024年09月05日 07時46分29秒 | もっと遠くへ(京都編)
写真家のKさんから電話をもらった。

この年、この月の初めの電話は、晦日の30日に行われる京都府木津川市加茂町銭司の春日神社。

晦日に神社境内に撒く砂撒き。

年が明けてからは、勧請縄をかける行事がある。

奈良の春日大社との関係が深い春日神社調べは各地におよぶ。

当地の春日神社も多分に漏れず、奈良春日の若宮社の遷宮を受け、後旧社殿を移された。

時代は幕末辺りのようだ


本社、末社などが並ぶ端に建つ「春日大明神」灯籠から、推定しても移した時代は、江戸の慶長十九年以降に建てられたのであろう。

詳しくは、平成19年3月に、京都府教育委員会から発刊された第24集『京都の文化財』に掲載している銭司・春日神社の項を参照いただきたい

この調べものに、尋ねた宮司は、木津川市木津大谷の地に鎮座する岡田国神社の中岡宮司。

岡田国神社もまた、元宮は春日社である


宮司の話によれば、銭司の春日神社は、現在造営事業の関係で社殿は遷宮中であるが・・の但し書き。

この年は、遷宮仮宮期の砂撒き、勧請縄かけになる、という。

実は、岡田国神社の中岡宮司とは、何度か取材でお世話になったことがある。

一つは、令和元年の7月に行われた木津川市木津・南大路天王神社木津の祇園さん行事。

もう一つは、翌年の令和2年7月1日に行われた木津川市市坂幣羅坂神社の夏祭に出逢っている。

また、銭司・春日神社の砂撒きと勧請縄は、度々の調査に拝見していたが、実際に撒く作業や縄かけ神事は拝見していないので、あらためて一連の状況が、拝見できるのでは、と思って同行することにした。

ちなみに銭司・春日神社の砂撒きを初めて拝見したのは、平成30年の1月6日。

それまでに2度訪問したが砂撒きの日程がわからず、スルー訪問になっていただけに、平成30日の正月明けに観た砂撒き、勧請縄の状態に感動したものだ。

数年後に訪れた正月三日なら、どなたかと巡り会える。

そう思ってやってきた令和3年の正月三日


出会いは、あったがそれ以上の詳しさ調査できずにいた。

それだけに、Kさんからの連絡は嬉しい。

再、再、再訪は令和3年の12月30日。

午前中に門松立てと砂撒きが行われるそうだ。

今期の神社は造営事業。

棟札に弘化年があり、19神を祀る銭司の社殿。

遷宮に、神々は仮宮に移っている。

歴史を記す棟木は多数。



神事に用いられたカワラケも多数。

宮総代のI氏の許可を得て撮影したが、神像公開は、遠慮した。

最も大切な木製の神像に同じく木製の阿吽像は4体。

時代がいつなのか、明白ではないようだが、見る限り相当な年代を踏んでいる旧き雰囲気を醸し出す神像であった。

午前9時。

さて、砂撒き作業に門松飾りがはじまった。



まずは、本社下境内に横一直線になるように、長いロープを張る。

端から端までをロープがたるまないように張る。

造営事業の今年は、神遷しに社務所に仮宮を設えている。

そちら側から、ロープを張り、その線に基づいて境内に筋を引く。

引く道具は、おそらく端材。

ロープの線に沿って、外れないように筋を引く。

門松は、今年に限って社務所の真ん前に据える。

松、竹、梅に赤い実をつけた南天などは、だいたいの形を整えていた。

どうやら、先に設えていたようで、最後に葉ボタンを添えるようだ。



筋引きをしたら、その位置に砂を撒く。

最初に撒いた砂は、既に乾いた砂の色。

湿り気が乾いて白っぽくなっていた。

砂撒きは、道具の箕に入れて、当該箇所の筋にそって砂を落とす。



道具の箕を揺らしながら作業をすれば、おのずと砂が落ちる。

このシーンでは、左右真ん中に縦位置に引く筋引き。

横位置も縦位置もメジャーで計測し、きっちりした網の目のような方形に砂を撒く。



砂撒きは、横線から撒いていき、縦線へ。



砂撒きの人数が多くなったら、作業は一段と早くなる。

そろそろ、四方がまとまったところで、手を止めていた門松も葉ボタン締め。



砂を補充し、門松を調整したら完成だ。

かつては、神社から参道にも集落にもキリコと呼ぶ格子状の砂撒きをしていた銭司の民俗文化。

木津川の砂採取を禁ぜられた現在は市販品の真砂を購入し、切り替えた。

かつて西座・東座両座があったが、6?年前くらいに継ぐ者おらず、座は解散
し、装束などは昭和21年生まれのI氏が保管しているそうだ。

ちなみに、I氏は、今もなお自宅の庭に撒いている、と話してくれた。

その場でお願いし、ご自宅でされている砂撒き習俗の取材許可をいただいた




ようやく終わりに近づいたら、ウラジロの葉とともに束にした「才木(※サイギ)」を阿吽の狛犬台に立てる。

仮宮が、社務所に移った場合でも、「才木(※サイギ)」を供える位置は替わりないようだ。



この位置からでは見えないが、社殿下にそれぞれ「才木(※サイギ)」を供えた。

これで、一通りの作業を終えた。



ふと、振り返った才木の山。

才木は、椎の木の割り木。



シバシ(※芝仕)の日に伐りそろえた才木を収めていた建屋に、度々見かける昔の消防ポンプを天井から吊るしていた。

今にも動かせそうな消防ポンプは、龍吐水(※りゅうどすい)。

奈良県内のいくつかの地に保存している龍吐水。

形状はまったく同じだ。



これまで、なんども訪れていたのに、こんなに大きな龍吐水の構造物に気がつかないとは・・・

奈良の龍吐水事例比較に、ここにリンクしておこう。

一つは、明治十一年(1878)~明治二十年あたりにつくられたと推定した龍吐水。
奈良県山添村・切幡(きりはた)の龍吐水

二つ目の事例は、桜井市・小夫(※おぅぶ)の龍吐水

三つ目の事例は、嘉永二年(1848)製の宇陀市・榛原の柳の龍吐水

四つ目の事例は、奈良市東部・上誓多林(かみせたりん)は、安政五年(1858)製の龍吐水。

それぞれの龍吐水は、暮らしの民俗遺産。

大切な遺産は、奈良県内にそれほど多くない。

切に、願う大切に保存継承。

龍吐水に限らず、今や、博物館でさえ、保存が難しい時代。

奈良の文化財は発掘ばっかりに予算投入。

こんなの何の役にもたたん。

県が、そんなものを保存する意味がない、といったとか・・。

県の御上の一人の上位者の声でばっさり捨てられてしまう。



ちなみに、相楽郡・銭司村の龍吐水は、明治廿一年九月。

江戸時代ではないが、消防ポンプに放水口もある美品の逸品である。

撮影を終えて、帰り際に見た社務所。

地下室なのか、それとも・・・



石垣で組んだ土台に建つ社務所に囲炉裏があるようだ。

年に一度、伐採に伐りだし。

これらはみな、子どもたちの作業であった。

奈良でも芝仕(しばし)に雑木などを集めてくるのは、子どもたちの役目。

それにしてもだ。社務所下の石積構造がすごい。

崩れないように組んだ石積み。

頑丈に積んだ石組みに圧倒されるが、外面を支える柱が、どことなく弱弱しく感じる。

(R3.12.30 EOS7D/SB805SH 撮影)

木津川市山城町上狛の小とんど

2024年08月07日 07時29分20秒 | もっと遠くへ(京都編)
ほんのしばらくの時間に見ていた加茂町の西のとんど模様。

さぁ、時間がない。

163号線を西へ向かって走る。

三叉路信号にぶちあたったそこは、木津川市山城町の上狛。

右に折れて北上。国道24号線を走り、コンビニのセブンイレブンがある信号を右行き。

上狛城陽線に入った。

この通りは、よく使わせていただく渋滞のない道路。

上狛城陽線に入ってすぐ。

小字でいえば西浦代辺りか。

通りすがりに、目に入った小とんど。

路向こう側の畑地際でしていた木津川市山城町上狛の小とんど。

ここは、たしかハザカケがあった地区。

前年の令和3年11月3日に通りがかったとき
だった。

稲籾のないハザカケ干の景観を撮っていた同じ地区に、今まさに行おうとしていた午前8時40分ころの上狛の小とんどに出会えた。

名刺を手渡し、自己紹介・取材趣旨を伝えて撮らしてもらった。

聞き取りする時間もないが、お神酒も用意しているとんど焼き。

直会のお神酒でなく、小正月を愛でる参拝認識であれば、このようにお神酒をいただく作法も考えられよう。



滞在時間は、5分もない。

急ぎ、走った目的地の相楽郡精華町菱田は、もうすぐだ。

10分あまりで到着するだろう。

(R4. 1.10 SB805SH/EOS7D 撮影)

木津川市加茂町西のとんど焼き

2024年08月06日 07時28分49秒 | もっと遠くへ(京都編)
1時間あまり、加茂町銭司のとんど焼きを取材していた。

次の目的地は、同じ京都府相楽郡。

木津川に沿って西へ、そして北上した精華町菱田の地。

この日に行われる行事は、春日神社のハリマトと呼ぶ弓始式。

午前9時からはじまる、と聞いていた。

銭司のとんど焼き行事は、まだまだ続く村の行事。

次の取材があるから、お先に失礼した。

霜が降りた朝に木津川沿いに広がる田園地は真っ白。

冷気が下りた寒い朝に、走っていた。

そこで見つけた今にもはじまりそうな雰囲気のとんど焼き。

ゆっくり見ている時間はないが、村の様相だけでも目に入れておきたい。

新道から外れて、昔からの旧道に移動した。

火の手があがったとんど場にたくさんの人たちがおられる。

ここは、加茂町であるが垣内はどこ?

恭仁京の近く。

西寄りの地区であれば加茂町の西。

新道あたる国道163号線の土手近く、畑地寄りの丘にとんど焼きをしていたのだろう。

ここは、大とんどでもなさそう。

カメラマンのほとんどが狙う大とんど。

迫力を求める写真撮り。

私が撮るとんどは小とんどであっても、そこに暮らしがあるから、つい心が惹かれるとんどの習俗。

今日、この時間では余裕もない。

今の時間帯は午前8時半。

たぶんに、とんどの火は終わりに向かっているように思える。



先を急がねばならないから、状況だけでも、と思って集落から眺めていた。

(R4. 1.10 SB805SH/EOS7D 撮影)

木津川市加茂町銭司のオニ焼きとんど

2024年08月05日 07時47分53秒 | もっと遠くへ(京都編)
10日のこの日は祝日の成人の日。

その日に集まってきた木津川市加茂町銭司(ぜず)の人たち。

朝の早い時間帯にとんど焼き行事が行われる。

集合地は、銭司の公民館。

かつては、宮座それぞれの西座・東座ごとに、とんど場で行っていたが、今は公民館の駐車場に移った。

本日も同行取材される写真家K氏とともに撮影に入る。

集合時間帯は、午前7時。

ここまで来る時間帯は、まだ早い。

周辺の畑地は、うっすら白ぽくなっていた霜降り状態。

冷気が下りてきた午前7時前。

しばらくしてから、銭司の人たちがやってきた。

二人組の女性は、ご近所さんと連れ立ってやってきた。

到着と、同時に動いた女性。



もってきた輪っか締めのしめ縄を、ここに置いた。

躊躇うことなく、ロープを印のそこに置いた輪じめのしめ縄。

実は、先に置いていた1本の輪じめのしめ縄があるから、気づいたのであろう。

二日前に立てたとんどの櫓から、少し離れた位置に、なぜ置くのか。

とんど焼きがはじまってからわかった、なるほど・・・



二人の女性が立つ後ろに立てていた子どもたちの名前入りの青竹。

のちほど登場するが、ソレ以外にも数本立てている。

これも後ほど、トンド焼きがはじまってから知る銭司の在り方。

午前7時半。

直前に動いた一人の若者。



トンドの火点け役は、今年の厄祓い、或いは年男かもしれない。

火点けのタネ火から広がるとんど焼き。



お家に正月さんを迎えたしめ縄は、もちろん何らかの用途に使われたと思われるダンボ-ルも焼く。

そのとんどに、一本の竹。

よくよく見れば名前が見える。



その名は、女性が立っていたすぐそば。

8人の子どもたちの名前入り青竹。

うち、一本に同姓同名は見逃せなかった。

これは、どうことなのか。

これもまた、後に分かった名前いりの竹。

青竹でなく色褪せた枯れ色の竹。

竹は、時間が経つにつれ枯れ色に変色する。

銭司の人たちに伺った名前入りの青竹。

後ほど行われる名前入りの青竹は、とんどにくべて焼きを入れる。

ある程度の状態になれば、貯水池脇にある大きな石にめがけて叩き割る。

その竹は、ナタ道具で縦に割く。

先っぽを三ツ割に、家からもってきた餅を挟んでとんどの縁において焼く。

香ばしくなった餅を食べたら、歯が強くなる。

いわゆる歯固め習俗であろう、と思うが、ここ銭司ではとんどで焼いた餅を食べたら虫歯にならない、といわれているようだ。

とんどに焼いた名前入り青竹は、ナタを入れて一枚に・・

その竹は、家に持ち帰り、玄関や勝手口に一年間も置く。

つまりは家の守り神。

一年間もお家の無事を守った竹は、護符と同様。

とんどで燃やすのであった。

だから、この一枚はシャッターを押してなければ、その一連が見えなかったのである。

ふと、疑問を感じたときこそ、シャッターを押す。

それが記録になるのである。

奈良県内に実施されている大とんどには、このような行為は見られない。

だからこそ、この一枚は暮らしの民俗の一例になる。

ちょっと、先行しすぎた。

銭司の大とんどは、これ以上には広がらないが、消防団の消防車は、いつでも出発できるよう、待機していた。

一人の男性が、とんどに近づく。



手にもっているのは、おそらく名前入りの枯れ竹であろう。

とんど焼きに、集まってきた銭司の人たち。



とんど場は、丁度の中心位置であることがわかる。

まだまだ燃やすものがいっぱいある。

神社の門松もたくさんある。



とんどの周りに才木も並べていく。

とんどの火点けからおよそ30分後の午前8時ころ。

とんどに燃やしていた青竹を引き上げる。

青竹表面に焦げ目。

煤のような焦げ目になった一本を引いた。

そして、おもむろにはじまった丸太の青竹をがっちり。



両手で持って大鉞(おおまさかり)を振り下ろすように・・・

その動作は、まるで薪割りのカタチ。

そこに置いてあった大石めがけて振り落とした瞬間にボン!



青竹が割れ、破裂した音。

とんどに青竹を燃やしていた場合。

突然に起こる青竹の破裂の音。

ボン、ボン爆ぜる破裂音。

圧縮されていた青竹の空気が膨張し、一気に噴き出した破裂の衝撃。

遠くまで聞こえる破裂の音に都会暮らしの人なら腰を抜かすかも・・

こちら銭司の人が振り下ろした青竹。

煙は、竹の節を通り越して噴き出す。

この青竹の破裂が、オニ退治ではないだろうか。

破裂したその丸太の青竹は四等分割り。



ナタを入れて、すぱっと縦に割る。

その様子をみていた火付け役の男児も、同様に青竹割りをはじめた。



実は、かつて子どもがしていた青竹割り。

子どもたちの名前入り青竹割りは、その子どもたちの役目だった。

あるときか、どうか知らないが、子どもでは危険と、判断し大人が割る役目に移ったのであるが、今年は若き年男が割っていた。こういうのは稀であろう。

たまたま今年は、遭遇した青竹割りに子どもも大人も役に就いたのだろう。

年男に代わって父親が、四等分割り。



切れるナタを入れたら、するっと割れる。

うち一本の割り竹の先っぽは三つ割りを入れた。



そう、挟んだ餅が落ちないようにした三ツ割り。

この方法、奈良でも見たことがあるような気がする、つまりハサンバリのカタチである。

とんどの火から離しておく餅焼きの台は才木。



直接の火で焼くことなく、火の熱量によって餅を焼く。

そんなこうしていた午前8時過ぎ。

一人の男性が動いた。



何やら稲藁束から分離している。

きっちりした本数でなく、ザッパに分けた稲藁。

ここでわかった、稲藁の役目。

大とんどでなく、小さいとんどをこれからしようとしていた行動。



ばさっと置いた稲藁を置いたそこは、ロープに輪じめのしめ縄。

そこにふわっと置いた稲藁に火を移す。

葉付きの枝をもった男性は、大とんどに翳して火移し。



大とんどの火をもらった葉っぱに。

その火を稲藁に移したとたんにめらめら燃え上がる。



ある女性は、紙に包んだ何らかのモノをくべた。

徐々に広がる大とんどと区分けした小とんど。



このあり方は、まさか不浄のしめ縄焼きではないだろうか。

銭司とまったく同じように、大とんどの近くに小とんど。

私が住まいする奈良・大和郡山市の豊浦町で行われているニの正月のとんど、と同じでは、と思えた。

豊浦町での小とんどで燃やすのは、トイレにもかけた正月のしめ縄。

そのトイレにかけたしめ縄は不浄なもの。

だから、主たる大とんどでなく、場を外して燃やす小とんどがその役目を負う。

まさか、銭司も同じか。

そのことについて尋ねた小とんんどの民俗。



思った通りの回答は「トイレなど不浄の場にかけたしめ縄は、別途に離れた小とんど場で燃やす。これまでの家屋は、屋外にトイレがあった慣習である。だが、昨今は、新築建替えするなど、屋内にトイレを設備するようなった。だから、そのような慣習はしなくなった」と、話してくれた。

なるほどである。大和郡山の豊浦町は旧家村落。

銭司もまた、同じ旧家の村落。

村々を訪れ、暮らしの民俗を取材してきたが、用を足しの場を借りることが、ままある。

そのお家のトイレを借用した際、ここがトイレだと案内してくれた屋外施設のトイレ。

そこにかけていた輪じめのしめ縄は、今日に拝見した小とんどで燃やす。

お家をリ・フォームした際に、トイレは屋内に移した場合は、しめ縄はしない。

そうか、そうだったんだ。

オニを破いていた女児もまた小とんどに投げ入れて燃やした輪じめのしめ縄。



その横で同時に放った女の子は、もう一人の3姉妹。

小学3年生に妹は幼稚園。



仲のいい3姉妹にも教えられた銭司の小正月行事。



かつて子供が書いた書初めを、とんどの火にあてて飛ばしていた天筆の慣習もあったそうだ。

(R4. 1.10 SB805SH/EOS7D 撮影)

加茂町銭司のオニ倒し

2024年08月04日 07時43分38秒 | もっと遠くへ(京都編)
この日の午前中、ほぼ一時間余りで立てた京都府木津川市・加茂町銭司のオニの竿立て

午後4時ころまで、空に向かってオニが睨んでいる。

その間に、どなたが来られるのか、そういう話は特になかった。

午後4時までの空白時間帯に、地域の民俗文化を見て回る。

一つは、同町の加茂町井平尾。

銭司からはそれほど遠くない井平尾の勧請縄を拝見していた。

その次に見ておきたい目的地は、同木津川市・吐師大宮神社である。

前年になるが、令和5年12月30日に遭遇した砂撒き

勧請縄を拝見するつもりが、なんと砂撒きもしていたとは・・・

その状況から、是非とも見ていただきたくご案内したが、都合があり、私一人の大宮神社参り

そうこうしているうちにお昼は、どうしようか、と迷っていた。

そのときにかかった携帯電話。

なんと、かーさんから緊急連絡に直ちに帰路に就けであった。



対応済ませて、再び訪れた加茂町銭司。

写真家K氏とともに撮影に入る。

早めに到着していたからこそ拝見できた加茂町銭司のオニ倒し。



二人がかりで倒そうとしていた。



一気に倒す、放り倒すのでなく、抱えてある方向に倒そうとしていた。



そりゃぁ、無理だと、一人が急いで・・・・・・間に合った。

倒す方向に誘導する抱える力。

緩んだ、そのときに、静かに、静かに、まるで音を立てないスローモーション映像のように見えたオニ倒し。



パサっと倒した駐車場敷地内に無事、着地した。

倒したオニ。



すぐさま近づく二人は父、娘の親子さん、と思ったが違った。

竿を浮かして、オニを取り外す。



敷地の端っこに移したオニを見てい女児。

一日限り、大空に浮かんでいたオニに、何やら話しかけているようにも見える。

動いた女児。



オニから離れるのか・・・そう、思ったが違った。

木枠から外しはじめた女児。

ビリビリ破るオニ。



これは、私がするんよ、といったかどうかわからないが、どことなく誇らしげな女児に熱い視線を感じた。

4日に描いたオニをビリビリ破る。

まさか、これこそオニ退治?

裏の青オニをビリビリに破いて木枠が残る。



合わせて表面の赤オニもビリビリ破り。

破りこぼしがないよう、すべてを木枠から外す。



その行為を見ていて思い出す。

かつての我が家であるが、年末の晦日に必ずしていたおふくろ。

たしか、大ばぁさんとともにしていた障子紙の貼り換え。

子どものころにしていた障子紙の貼り換えに、破って、破って・・・

障子のサンだけにしていた手伝い。

きれいに破って、きれいに剥がすのが気持ち良くてね・・・

まだ一桁台の子どもだったときのシーンを思い出した。



一方、とんどの櫓を組んでいた。

この組台は、風を通す櫓。

火の通りがいいから、上空へ、上空へと、火が煽る構造である。

その櫓に詰める材がいっぱいある。

今朝、早くに運んできた春日神社の門松やしめ縄などである。

青竹に松、梅の木の門松は、正月の神さんが帰ったら、役目を終える。

役目を終えた、しめ縄などの材は、とんどに燃やし、最終的には天に戻られる、ということだ。

オニの竿立て支柱に用いた才木(※割り木)も運んでいた。



サエキとも呼んでいた才木の仕組みは、シバシ用途である。

かつては、子どもたちが山行き。

木を伐り神社に持ち帰り、暖をとるシバシである。

ここ、春日神社に才木がある、と知った日は平成28年の12月30日。

シバシと呼ばれる薪の伐り出し。

一年に使う木材を溜めておく「シバシ(芝仕)

奈良・橿原に住んでいる元総代のMさんや大淀町・大岩区長のKさんらの体験話によれば、「芝をシに行く」だった。

つまりは、山の木材の伐りだしに小枝などのシバを集めてくる村仕事。

だから、シバシである。



ところで、櫓の内部に詰めたのはオニの足、破いたオニの面。

オニを立てた竿もまた、とんどに組み込む。

とんど櫓は、さらに材で固めていく。



と、同時に見た女児は、さらに木枠を綺麗にしていた。

オニの木枠は、翌年のオニになる。



大事にせなあかん、と考えて散り一つないようにしていた女児に拍手。

午後4時前に始まったオニ倒し、そしてとんどの櫓組みもそろそろ原型ができあがる。

このころの時間は、午後4時15分。

作業に慣れているからこそ、手順が早い。



そして、女児に声をかけた父親。

丁寧に、そして綺麗になっていく翌年用のオニの木枠。

清々しさを目撃していた私も、どこか親の目だったことに気づいた。

午後4時20分。



冬時間に、陽が沈む時間も早い。

夕陽のあたる時間帯にようやく終えた10日に行われるとんど櫓は、崩れないように周りをロープで締めておく。



小正月行事のオニ立て、オニ倒しは、かつて正月の13日に立て、14日に倒し、とんどの櫓組み。

15日が小正月のとんど焼きだった。

三日間の小正月行事を、二日間に短縮。

そして、祝日の成人の日は、小正月の1月15日だったが、政府意向のハッピーマンデー法によって、成人の日の祝日は、正月の2番目の月曜日に移行された。

つまりは三連休の確保。

観光業や運輸業などの活性化。

その目的に、祝日と週休2日制をつなげ、3連休以上の期間を増やし、国民の祝日の一部を従来の日付から特定の月曜日に移動させて連休の日数を増やしたワケだが、小正月の意味が飛んだように思える。

今年は、8日が土曜日で、10日が成人の日の祝日だから、その日程にそって、みなが集まりやすい日に決められたのである。

ちなみに、公民館に立てていた青竹である。



午前中に拝見していたオニの竿立ての時間帯に持ち込まれたもよう。

その時間帯は、無印だったが、再び訪れた午後4時の時間帯に見たその青竹に何やら文字が見える。

近づいてわかった、ソレは子どもたちの名前であった。

同性が4組か。



それぞれが兄弟姉妹のように思える8人の名前。

オニを破っていた女児の名もあるようだ。

別途、用意した青竹は、ミフシハン(三節半)に切断したカタチ。

このミフシハン(三節半)の青竹は、10日に行われるとんど焼きに出番があるそうだ。

(R4. 1. 8 SB805SH/EOS7D 撮影)

加茂町銭司のオニの竿立て

2024年07月30日 07時58分07秒 | もっと遠くへ(京都編)
数年前に聞いていた“オニ”の存在。

滋賀県の民俗を主に取材してきた写真家のKさんが、話していた“オニ”の存在である。

聞き取りされた銭司の人たちがいうには、竿に“オニ”がある。

その“オニ”を立てる。

そして翌日に“オニ”は竿ごと倒す。

実は、直近になってわかったことは、当日に立て、当日に倒すようだ。

銭司の子どもたちが描いた“オニ”。

描いて、立てて、倒すという“オニ”とは、一体なんであるのか。

興味を惹かれる銭司の民俗行事にようやく出会える。

“オニ”を描く日は、正月明けの休みの日。

描く子どもたちは小学生。

3学期がはじまる前の日曜日に、公民館に集まる。

この年の令和4年は1月4日の火曜日になった。

年末年始の冬休み期間中であれば、子どもたちも集まりやすい。

そういうことで決まった日である。

午前10時に参集する子たちは小学6年生以下、幼稚園児や保育園児も参加できる。

なんでも、令和4年は8人であるが、うち6年生は2人。

だから、翌年に参加できる子たちは6人で描くことになる。

“オニ”の絵描きに“オニ”の足つくり。

どうやら足は、タコのような足であるが、タンザクを繋げたような仕掛けらしい。

これらが揃ってから、“オニ”を木に貼り付けるらしい。

これらの話を聞いていても、見ていないだけに実感はわかない。

4日は、私の都合があり取材はいけないが、8日の土曜日が本番らしく、その日はなにがあっても訪れたい。

そしてやってきた午前9時。

この日も同行の写真家K氏。

年末に行われた京都府加茂町銭司(ぜず)宮小谷に鎮座する春日神社の砂撒き。

この年は、遷宮仮宮期の砂撒きの位置は、例年と変わりなくであるが、門松を立てる位置は、春日神社向かい側にある建物の前に設営された。

正月三日は、勧請縄かけ。

そして、本日は宮座行事にあたるオニの竿立て。

4日に子供たちが描いた赤オニ、裏面が青オニのようだ。

かつては、春日神社の東・西両座の年長男児家、でつくっていた。

それぞれの西座、東座の年長家に集まり、描いていたが、現在は銭司の公民館。

昭和60年ころには、既に両座ともが、公民館集まりだったそうだ。

また、“オニ”立ては、両座の2本であった。

平成29年まではそうしていたが、少子化などから考慮され、1本立ちに移した。

なお、ブログ「歴史探訪京都から~旧木津川の地名を歩く会~」によって詳細な「銭司の鬼立て」記事を公開していた。

その記事によれば、小正月行事のようだ。

さらには、子どもたちの減少により、一度は中断。

ところが、その年に村で火事が起こった。

そのことがあり、長老の判断で復活し、続けてきた“オニ”立て行事。

はじめて拝見した赤オニ。

怖いオニでなく、柔らかい笑顔の様相の赤オニの角は1本。



史料によれば、赤オニの角は2本。

青オニの角は1本、とあったが、この年は逆だった。

オニを描いた模造紙。

そのオニは、何年も使いまわしてきた木造枠。

表に赤オニ、裏面に青オニを描く際は、かつて使用していた木枠のオニを見本(※たぶんに平成29年のオニであろう)に描くのだが、その年、その年の年長者が描くので、その子の気持ちが表れているのだろう。

その見本のオニは、消防団倉庫にあった。



許可を得て撮った旧い様態のオニは、次の年も、その次の年も見本にしていくだろう。

つまり、後でわかるが、一年、一年に新しく描いたオニは、破り捨ててトンドで燃やすのだ。



木枠は例年使用。

オニの絵は、毎年が替わるわけである。

朝9時に集まった人たち。

4日に用意していたオニとか葉付きの竹も確認したら、そろそろ上げようか、と動き出した。

予め、公民館の駐車場に掘っていた竿竹を支える穴。

深く掘った穴に竹を突っ込む。

4人がかりで立てていくオニの竿立て。



竹の葉がある先に、両座の赤・青オニを取りつけた。

木枠のオニだけに、重量は相当な重さだ。

外れないようしっかり括っているオニ。

ロープは3本。

しっかり引っ張って立ち上げる。

3方に長いロープ。



固定する箇所は決まっているのだろう。

その間に、穴にはめた竹をしっかり固定させる。

太めの椎の才木(※一般的には割り木)を打ち込み。



何本も打ち付けて支柱が傾かない、いや倒れないようにガッシリ詰める。

ロープも解けないようにしっかり結ぶ。

時間にしておよそ20分の作業に、無事立ち上げたオニの竿立て。



現在は1本になったが、西座・東座それぞれが上げた2本時代の写真を拝見した。

カタチは今とまったく同じ。



ヒラヒラ、風に泳ぐ足の長さ、本数も同じ。

今日のように、木津川から吹く風があれば、なんとも気持ちいい景観。

見てわかるオニのカタチはまさに神社様式の千木(ちぎ)

銭司の神が大空に届くかのように立てた。

葉付きの竹はおそらくヒモロギであろう。



神が降り立つ場所。

つまりは神座。

とんどもその謂れがある


銭司の西座・東座それぞれの神。

だからこそ、銭司の宮座行事である。

このような形式を拝見するのは初めてだ。

神聖なオニの竿立てであるが、なぜにオニなのか。

さっぱりわからぬ銭司のオニの竿立て行事。

一旦は、ここで解散する。

この日の午後4時前に、再び集まってくる。

6時間ほど立っていたオニは、倒されるのである。

一日、数時間限りのお披露目を終えたオニは役目も終えるようだ。

撮影・取材していた私たちも解散。

午後までの時間を有効に使いたく、すぐ近くに立ち寄りたい同町の加茂町井平尾にこれより向かう。

ちなみに、消防団倉庫に木津川市消防団の消防車を停めていた。



出番はないと、思われるが市内でトンド焼き行事をする地区がある。

そこへの出動に待機しているようだ。

もちろん、ここ銭司のトンド焼きは10日である。

ここオニの竿立てをした駐車場で実施されるトンド焼き。

朝は早く、午前7時と聞いている。

(R4. 1. 8 SB805SH/EOS7D 撮影)

年中行事の一切を中断された木津川市吐師大宮神社

2024年06月30日 07時57分27秒 | もっと遠くへ(京都編)
この日も訪れた京都府木津川市吐師(はぜ)宮ノ前に鎮座する大宮神社

伺いたい行事は、その年の豊年を祈願する御田祭。

令和2年は、1月12日の日曜に行われたようだ。

その行事を知る手掛かりは、ネットにアップされたブログ記事である。

ブログ名は「京都のitベンチャーで働く女の写真日記」。

平成29年の1月11日にアップされた記事だから、当日取材に記録した記事そのものを、その日にアップされたそのレポート内容は、詳しい。

細かい手順なども記載されている内容の濃い取材。

神前に供えた玄米。

神に捧げる祭具をきちんと「三方(さんぽう)」と書かれていた。

存知しない方は、間違いなく「三宝(さんぽう)」の漢字を充てる。

であるから、ブログ執筆者は、その道を学んだ方であろう。

一度、お会いしたいくらいだ。

京都の年中行事の多くを取材され、写真もきっちり抑えており、相当なベテランであろう。

御田祭のポイントをかいつまんで整理しておく。

御田祭の行事には、神職はともなわない。

吐師の宮座十人衆によって斎行される行事である。

神遷しにお仮屋も存在する。

神社の門松飾りの松は、鋏で伐採する。

神饌は、三方にのせる籾付きの玄米。

御田祭の所作は、2人の宮守さんが行う。

その所作は、農具の鍬を用いる。

つまりは、田を耕す鍬起こし。

座中がおられる前でされる所作は3回。

田を耕すその所作を、吐師では「3回、田をかじる」という。

座中の前で行う籾落とし。手でつまんだ籾をぱらぱら落とす。

その籾は、大切なものだけに紅白の和紙を2枚重ねて、そこに籾を受ける。

それは、次に行う作業に関係する。

正月の門松は、この日に倒して、松の葉を採る。

門松の材は、左右に黒松の雄松(おんまつ)と赤松の雌松(めんまつ)。

柔らかい葉であればめんまつ。

硬い葉であればおんまつ。

長さも違う雄松と雌松である。

松は、枝部分を束ねて紅白の和紙で包む。

この松は、稲の苗に見立てた模擬苗。

ところによれば苗松と称する地域もあるが、だいたいが松苗。

三方にのせて神前に奉り、拝殿にて祓えの儀。

太鼓や、鉦打ち。

高齢巫女のソノイチが神楽を舞う。

ソノイチによる苗松植えの所作。

これら苗松は、氏子たち関係者がたまわり、苗代田をもつ農事者は、田の水口に立てる。

農事でない人は、たいがいは神棚に立てて祭る。

御田祭の一連は、氏子が苗松を作り、村神主の宮守さんによる苗代掻きが行われ、巫女のソノイチによる田植えの所作をし、祈祷された苗松をもって、苗代の育苗がすくすく育つよう祈願する正月初めの儀式である。

この日、9日に再び訪れた吐師(はぜ)の大宮神社

昨年末の晦日の日。

30日に訪れた吐師(はぜ)の大宮神社に見た正月迎えにかけた簾型しめ縄。

しかも、予期もせぬ丸形にかたどった砂撒きも


これには驚いたものだ。

本日は9日であるが、簾型しめ縄も、砂撒きもカタチを維持していた。

尤も、鳥居の真ん前辺りは、人や車が通る道だけに、うっすら状態になってはいるが・・・



おやぁ、ここで、気づいた社殿前。

正月期間に飾った門松がない。

早いところでは、3日まで。

少し遅れてでも、7日までの門松。

いつ、解体されたのだろうか。

まずは、参拝した。

その右手にあった阿吽の狛犬。



右手の狛犬に奉った葉付きみかんは、6日前に訪れた正月三日の大宮神社。

そのままの位置に変わらずにいたが、さすがに賽銭は姿を消していた


辺り一帯を見渡し、見つけた門松の解体状態。



御田祭に用いられる苗松の葉も、そのまま残っていた。

で、あれば、今日の日曜日にされると推定し、大宮神社に参ったが・・だれ一人も見ない。

見たのは、つい先ほどに参拝された女性だけだ。

神社付近にお住まいの方なら、と思って、らしきお家を訪ねてみる。



1軒は、神社域に建つ社務所らしき建物に・・・

呼び鈴、お声かけに、出てこられた高齢者夫妻に。

なんでもお二人は、社務所住まい。

で、あれば大宮神社の関係者。

神社の年中行事は詳しいだろう。

そう判断し、尋ねた結果は・・・

私たちは留守番の身。

年中行事についてはまったく知らない、という。

門松があったことすら、知らない、という。

この建物に住んではいるが、関心がないのか、知ろうとはしないのか、よくわからないお二人。

昨年の晦日に拝見した門松、簾型しめ縄に砂撒きは、一体どちらの人たちが、制作し、据えられたのだろうか。

ここに佇んだまま居るワケにはいかない。

神社周辺にお住まいしている方なら・・と探索する。

割り合いに近いご近所さんのお家の呼び鈴をおした。

屋外に出てこられた北座に属する方にお話を伺った。

氏が伝えてくれた北座・南座による神社行事は、2年前に一切合切を中断したそうだ。

まさかの回答に絶句した。

氏が伝える座が行ってきた年中行事の衰退ぶり。

どこの神社もコロナ禍中に入ってからは、ほとんどが行事を中止。

神事だけでもお勤めする地区もあるが、コロナがきっかけに、人が集まることは一切避ける人離れから、神社奉仕からも手を放す。

高齢化、少子化から、さらに拍車をかけたコロナ禍の時代に、明るい展望の火は灯しもできずに、解散した地区もある。

氏は、そのような判断にふれず、教えてくださった砂撒き。

当時の砂撒きの材は、裏山の山から採取した赤土だった。

市販されている砂を購入してきたが、財政難になった。

座中・氏子たちの意識は、昔と違って奉仕の心が消えた。

丸くカタチづくる砂撒きは、かつて集落の家々もしていた。

撒く場は、カド(ニワ)とか、門扉の外ぐらいな場まで。

そこに砂を撒き、丸く円を描いていたが、山土の砂が取れなくなった。

時代、文化の発展に、地道だった村の道はアスファルト舗装に移った。

ところが、アスファルト舗装に撒いた砂によって滑りが発生するようになった。

歩きの場合であっても、自転車で走っていく場合はなおさら危険状態に。

だから、しなくなった。

この点については、私が聞き取り調査した大和郡山市内における事例と同じだ。

地道の時代では、自転車でも滑らなかったが、アスファルトなどのような間平らな、つるつる道であれば、ずるっといってしまう。

だから、現在も大和郡山市に5地区が継承してきたが、町内に砂を撒くことなく、神社の境内にとどめている。

丸型の砂撒きは、心を丸くするものだと思っていたが一様に消えた。

実は、簾型のしめ縄は子供のころには見なかった、という。

住み着いた神社留守番の男性。

その人が、東北出身の文化を持ち込んだのだろう。

鳥居辺りは神域の馬場だったから、地元民は軽自動車なら通れる幅なので利用している。

なお、うちの息子も参加していた虫送りは10年~15年ほど前に消えた。

木津川市観光協会の歳時記・伝統行事に載っていた御田祭は、このようなことで地区から消えた、と話してくれた。

腑に落ちないのが、昨年末にはあった簾型しめ縄や砂撒きである。今日も痕跡があるのはなぜに・・

それらに対する回答はなく、だれかがしているのだろう、と・・・

氏がいう簾型のしめ縄は、住み着いた人は東北出身。

神社留守番の人が東北の文化を伝えた、というが・・・

奈良県内には、数多くみられる暖簾のように前だれ的系統の簾型しめ縄。

すべての地区ではないが、圧倒的に多く、集中する地域と、離れた地域に点在する地区もあるが、東北に共通すべき点が見つからない。

「しめかざり」研究者森須磨子氏の著書に簾のような「前垂れ系」と紹介された事例に、京都府や福井県、愛媛県がある。

が、その事例数がどれほどであるのか、調査されたご本人に尋ねるしかないが、多くはない、と判断する。

いずれにしても、古来の在り方を伝統行事として継承してきた吐師の御田祭は、中断された。

中断の期間が長ければ長くなるほど復活は難しくなる。

前述したように、平成29年に訪れ、吐師の御田祭を取材、記録された「京都のitベンチャーで働く女の写真日記」ブログが貴重な存在となった。

ところで、氏が語ってくれた、かつて行っていた地区行事の虫送り。



その場が、どのような地形にあったのか、神社から離れ、京都と奈良を結ぶJR奈良線の高架下をくぐった東の畑地が、虫送りのコースだった。

なるほどと思える広大な地は、未だ健在なり、ということだろう。



そのとき、北の京都から出発した列車が通過する。

通りすぎる列車は爽快。



もうすぐ奈良に入る列車を見送ってあげよう。

(R4. 1. 9 SB805SH 撮影)

木津川市吐師大宮神社・毎日参拝される女性の感謝

2024年06月27日 07時58分10秒 | もっと遠くへ(京都編)
様子伺いにでかけた木津川市吐師(はぜ)宮ノ前大宮神社。

尋ねたい神社関係者は不在。

前年の晦日に見ていた狛犬などの賽銭は少し増えている。



傍に小さな蜜柑を撮っていたころに、一人の中年女性が参拝されていた。

お声をかけたその女性は、大嵐でもない限り、毎日は山田川から15分かけて参拝している、という。

願掛けもあるが、むしろ日々の暮らしができることに感謝申し上げている、という。

ところで、ここの丸い形の砂はご存じでしたか、と尋ねたら、そういえば気づいてなかったそうだ。

年神さんを迎える吐師の砂の形。

他の地区では線であったり、四角い形もあるのです、と伝えたら、そうなの・・えーことを教えてくださったと喜んではった。

(R4. 1. 8 SB805SH 撮影)