かつては旧正月十日に行われていた田原本町蔵堂の御田祭。
祭典が行われるのは村屋坐弥冨都比売(むらやにいますみはつひめ)神社である。
境内小社に村屋神社、服部神社、市杵嶋姫神社、物部神社がある。
「元禄九年(1696)子歳 奉寄進森屋御宝前」の刻印がある燈籠は村屋神社にある。
鎮座地はかつて鐘楼があったとされる。
境内燈籠には「森屋大明神」の銘もあるが、拝殿前に建之された狛犬に「天保十一年(1840)子九月吉日 明神講」の刻印があった。
田原本町における明神講は保津、満田、味間、宮古、今里、八尾、千代の阿部田、平田、為川北方、東井上(いね)が挙げられるがどの大字が寄進したのか判らない。
蔵堂の村屋坐弥冨都比売神社の郷中は蔵堂、大木(おおぎ)、為川南方、為川北方、遠田(とおだ;天理市)、金澤、平田、東井上、西井上、伊与戸、笠形、大安寺、阿部田、南阪手、阪手の15ケ大字であるから保津、満田、味間、宮古、今里、八尾の明神講ではないだろうか。
昭和59年3月に発刊された『田原本町の年中行事』によれば「阿部田の明神講は郷社になる村屋坐弥冨都比売神社から分霊遷しましをされて当家で祀る宮迎えがある。
10月1日に神迎えをされ10日に還る宮送りがある。
平田・為川北・東井上に跨る明神講もある。
3年に一度、平田の明神講が回りになる場合は10月1日に村屋坐弥冨都比売神社へ向かう奉幣渡御がある。
お渡りに担ぐ「粳米を付けた大御幣、稲株を付けたヤナギの木である」と記されている。
もしかとすればだが千代の阿部田若しくは平田ではなかろうかと思ったが、目を凝らして見れば「北為川村、平田村、東井上村」であった。
村屋坐弥冨都比売神社に関係する講は森講、明神講以外に綱切講、朔日講、スコンド講(数献講)があると昭和4年に纏められた『大和国神宮神社宮座調査』(奈良県図書情報館保管)記されている。
村屋坐弥冨都比売神社には正月に掲げる簾型の大注連縄がある。
拝殿前に掲げる大注連縄をゾウガイと呼んでいた(注 『田原本町の年中行事』)。
その件は今でも半日かけて作り、掛けていると守屋宮司が話す。
それはともかく、御田祭が行われる旧正月十日の朝であった。
北隣村の伊与戸に綱掛け講があった。
平成10年ころまでは同神社参道に大きなワラ綱を結って掛けていた。
大綱の3か所に垂らしていた2段の松(または杉)とツタ。
綱掛け講の当屋が行っていた村屋坐弥冨都比売神社の正月行事であった。
綱掛け講からは12個(旧暦閏年は13個)の小餅を神前に供える。
お礼に半紙に包んだ12粒の米をチガヤ(茅草)に括りつける。
本数は12本だ。
年の月数をあらわす本数は一年間の豊作を願う数であったが、現在は継承する講も廃れて中断している。
その日の神社は午前中に祈年祭、午後に御田祭が行われているが、今では建国記念日の2月11日となった。
前述の『田原本町の年中行事』には旧正月十日とあるから発刊された昭和59年のころではまだ祭日に移っていなかったのであろう。
蔵堂の御田祭は昔も今も森講の人たちによって営まれている。
森講は伊与戸、大木、笠形(伊与戸から分かれた枝村)、遠田(蔵堂から分かれた枝村;天理市)の4ケ大字(かつては大安寺大字含めた5大字)に跨っている講中である。
かつては11軒であったが現在は9軒になった森講である。
かつては講中の当屋家に集まり講の鍵元(伊与戸のかぎもと)が保管されている講箱を全員が立会のもとに古くから継承されてきた宝物を確認する。
年長順に着座して宴席に移る。
その後において講員氏名を書き記す「座階」、当屋営みを終えたことを明記する「明斎頭」が行われる。
古くから書き継いできた文書に加え、伝わってきた宝印の朱印を半紙に押すと『田原本町の年中行事』に記されている。
この宝印は御田祭を終えた直後に撒かれる御供撒きの餅を包む紙である。
御田祭は連綿と継承してきた森講の人たちが拝殿に登ってから始められる。
拝殿には御田祭の所作で使われる牛面、備中グワ、スキ、カラスキ、マングワが置かれている。
拝殿回廊には神楽を舞う女児巫女が履く神つけ草履も用意した。
僅かな数量になったという草履は葬儀屋で作って貰ったものだと話す守屋宮司。
長年に亘って使ってきた草履はくたびれもせずに未だ現役である。
森講が大切にしてきた講箱は守屋宮司、禰宜によって本殿に献じられ祝詞を奏上される。
「邑屋社御寶物箱」と墨書された講箱に納めているのは牛王、剱、神名帳、和歌集、刀、剣のようだ。
祝詞はおそらく神名帳も詠みあげられたのであろう。
森講の記録によれば当日に牛王宝印、牛王杖を配ったとあるそうだ。
また、文和四年(1355)の神名帳の神名詠みあげがあることからもオコナイと呼ばれる正月初めに行われる修正会の営みであったと思われる。
明治維新までは寺僧侶も加わっていた行事は「ぼだい、ぼだい」とも云っていたようだ。
「ぼだい」の呼び名で思い起こすのが正月三日に行われている田原本町多観音堂の「
ボダイボダイ」である。
カンピョウで束ねた「ゴオゥ」と呼ばれるエダマメを擂って炊いたものと牛蒡の御供。
梅の花を象ったハナモチも供えて僧侶が観音経を唱える最中に講中が青竹で床を叩く。
いわゆるランジョーの作法である。
同じような作法があったのかどうか判らないが森講の正月行事はそのような作法もなく神職による祭祀である。
神事を終えれば斎場は拝殿前の前庭に移る。
拝殿では森講の人たちが牛王宝印を押したお札で供えた餅を包んでいる。
四方に青竹を立てて〆縄を張った前庭は神田に見立てた神聖な斎場である。
恵方(今年は南南東)の方角に砂を盛った水口の場がある。
斎場正面に置かれた松苗、籾種、クルミ御供は田植えの所作に使われる。
御田祭の初めは恵方に盛った砂盛りに大きな松苗を立てる豊作願いである。
塩と酒を撒いて祓い清める。
クルミを盛った皿を供えた水口の儀式であるが、この年は失念されてウメの木を添えることはなかった。
供えたクルミは参拝者に配られる。
ありがたい御供を受け取る顔は笑顔になる。
そうして始まった田んぼの耕作。
始めにスキで田んぼ周りの畦を切る。
次は備中グワで荒田を起こす。
演者は替って守屋禰宜。
田んぼは堅い土。
力を込めて振り上げる備中グワ。
勢いがついて歯が取れた。
笑いが溢れる所作になった。
次に登場したのが田長(たおさ)と牛。
田長と呼ばれる馬子は森講の講中で牛役は草鞋を履いた二人の子供である。
牛の後方にカラスキ(唐犂)を曳いて田を起こす。
かつては牛役も講中であったが、集まってくる子供らが悪さをせず、さらに仲間意識をもたせるように、昭和17、18年頃に演者を替えたと宮司が話す。
「暴れんかえ」と掛け声が周囲からかかってもおとなしく済ませた田起こしは時計回りに一周する。
次は宮司が行う稲籾蒔き。
種蒔き唄を謡いながら神田に籾種を撒く。
両手を広げるように優しく撒く。
かつては三方に納めた籾でなく箕で撒いていたという。
「今年まいた籾殻 今年の取れ高どうじゃいな 一石、一斗、一升、一合、一勺(せき)、あるといいな」、「今年まいた籾殻 今年の取れ高どうじゃいな 二石、二斗、二升、二合、二勺(せき)、あるといいな」、「今年まいた籾殻 今年の取れ高どうじゃいな 三石、三斗、三升、三合、三勺(せき)、あるといいな」である。
四石は縁起が悪いからと謡わずに「今年まいた籾殻 今年の取れ高どうじゃいな 五石、五斗、五升、五合、五勺(せき)、あるといいな」で続けた田植え唄は「これぐらいにしときましょ」で締められた。
祭事後に伺った宮司の種蒔き唄。
即興でもなく、5、6年前に教わった滋賀県の民謡だったそうだ。
『田原本町の年中行事』に掲載されていた唄がある。
その唄の原文は万葉がなで同神社に残されているそうだ。
それをカタカナ表記で書き写しされた守屋宮司の内容を拝見し、確認した上で歌詞を書き記す。
1番・始め唄「うれしさは おたにもみにも おさだにも あふるるまでに あふれましみず」、2番・牛使い唄「あまつひめ よさしのみたに ささげもち をたすきかえし いざやをろさむ」、3番・早苗唄「あまつめの かみのまにまに たまだすき かけてぞさなえ とりてうえまし」、4番・田植え唄「ををまへに をさだすきそめ すきかへし うえしさなえを まもれやちほに」の詞章である。
判る範囲内で漢字を充ててみれば、1番・始め唄「嬉しさは 御田に籾にも 長田にも 溢るるまでに 溢れ増し水」、2番・牛使い唄「天つひめ 良さしの御田に 捧げもち 御田鋤き返し いざや下ろさむ」、3番・早苗唄「天つめの 神のまにまに 玉襷 掛けてぞ早苗 取りて植えまし」、4番・田植え唄「御前に 長田鋤き初め 鋤き返し 植し早苗を 守れ八千代に」であろうか。
そして再び登場する馬子と牛は田を耕す道具をマンガ(馬鍬)に替えた。
「もぅー」と鳴きながら登場する牛。
暴れることなくカラスキと同じように時計回りで一周して耕した。
衣装を解いて姿を見せた子供はなんと、禰宜さんの二人の子息だった。
大役をこなした二人はほっとした顔つきになった。
こうした田植えの所作の次は村の女児が勤める巫女神楽。
この年は田原本町の東小学校の4人。
昨年は一人が中学生だった。
千早の巫女装束になった女児が舞う神楽は三三九度の舞い。
太鼓の打つ調子に合わせて舞う鈴神楽。
しゃん、しゃん、しゃんの音色が心地よい。
右に三回、左に三回、そして右に三回ぐるりと旋回して終えた豊作の祝いの神楽である。
かつては神楽の舞いに弓と的があったそうだ。
湯立ての神事も随分前から中断していると話す宮司。
いずれは復活したいものだと話される。
村屋坐弥冨都比売神社の神楽は御田祭で舞われた三三九度の舞いの他に、平神楽、扇の舞、榊の舞、二本剣の舞、一本剣の舞、矛の舞、薙刀の舞など代々受け継がれてきた特殊な神楽がある。
平成14年に訪れた際に拝見させていただいたことがある。
最後は宮司と禰宜による松苗のお田植え所作。
松苗を手にして束の部分を挿すようにして植える所作である。
そうして所作を終えた二人は後方、左右など参拝者に向けて松苗を放り投げる。
かつてはこの御田祭においておたふく(おたやんの呼称がある)やひょっとこの面も使われていたそうだ。
雨乞いの踊りもあったとされるが実際はどのような形式であったのか判らない。
御田祭を終えれば森講による餅撒きがある。
ありがたいごーさんのお札で包んだ餅を手にする参拝者。
餅だけ持って帰ってお札を残す人もいる。
そのお札はエビスさんを表したご朱印であった。
大漁姿のエビスさんは豊作を願う印影であろう。
昭和14年6月15日発行の雑誌『磯城 第2巻 第3號』にも蔵堂守屋の村屋坐彌冨都比賣神社の御田植祭が記載されている。
明治40年頃までは旧正月十日であった。
その後において2月19日になったものの昭和13年には再び旧正月十日になった。
当時の講中も伊與戸、大木、大安寺、笠形、遠田の5ケ大字(それ以前は阪手北を含む6ケ大字)であった森講組織。
それぞれの大字の大庄屋の集まりだったと守屋宮司が話す。
明治維新までは裃着用の講員が幣竹を持参して同神社に参集。
真言宗僧侶とともに拝殿の床を「先祖代々菩提のために」と唱和しながら床を叩いたとある。
それから御田祭に移ったと伝えられる行事は「ボダイボダイ」と呼んでいた。
その
様相はまさに田原本町の多観音堂と同じである。
講員の最長老を一老、次に二老、三老と呼んで、一老こと講長が行事を総指揮していたとある。
お供えは5升の餅に5本の松苗。
松苗の本数は5ケ大字の数である。
神事の際には一老が玉串を奉奠し撤饌のあとで講伝来の寶物を奉献した。
寶物は牛の玉(寶印であろう)、長さ一尺三寸の剣が一刀、延喜式神名帳が一冊、三十六歌選の和歌集一巻を参拝者に拝観して御田祭の所作をしたとある。
御田祭の始めは鍬を手にして耕す所作の鍬初めの儀があったと記されている。
当時は白米を紙に包んだ御供を松苗に括りつけていた。
松苗をもって田植えの所作をしていたのは浄衣姿の二人の早乙女であった。
松苗を砂の中に挿入するように植えていく。
植えた松苗を選んで引き抜いた5本を参拝者に目がけて投げつける。
5本の数は森講の5ケ大字の数であったろう。
最後に牛玉寶印を刷った書を参拝者に授与する。
講員たちは松苗を持ち帰って籾を撒く際に苗代の水口へ立てる。
そのときには「黄金の稲穂重く垂れかし」と念じたとある。『磯城』、『田原本町の年中行事』ともに記載されてあった民俗行事の在り方は現在行われていない状況が判るのである。
記載されていた内容から村屋坐弥冨都比売神社の御田祭は森講の御田祭であったのだ。
雑誌『磯城』には前述した伊与戸の綱掛け講による綱掛け神事がこと細かく書かれている。
神事は御田祭と同じように明治40年頃までは旧正月十日であった。
その後において新暦の二月十九日になったが昭和13年には再び戻された。
講員たちは頭家の家に集まって蛇形の大綱を作っていた。
綱の長さはおよそ六十尺。
頭部廻りは約一尺で胴廻りは約七寸。
胴の三か所において「足」と称する長さ五尺の細い縄を三筋垂らした。
その垂れ縄には松(または杉)と蔦を横二段に通して切垂を結びつけた。
出来あがった綱は蛇がトグロを撒くような形に丸く重ねた。
中央に青竹を挿して講員たちが担いだ。
「ワッショ ワッショ」の掛け声をかけて神社に繰り込み拝殿に置いた。
神前に供える小餅は中央が凹んでいることから靨(えくぼ)餅と呼んでいた。
神事で清めたのちに大綱は参道のご神木に掛けるのである。
悪疫、災難除けに掛けていた大綱であった。
(H25. 2.11 EOS40D撮影)