祖母一人で先祖さんを送ると話していた息子さん。
在所は明日香村の上(かむら)。
6月12日に訪れた際に話された先祖さん迎えと送りの取材をさせていただきたくお願いをしていた。
迎えも送りも家の在り方、習俗である。
先祖迎えの法要には集落各戸を巡って法要される副住職の姿があった。
その場には息子さんもおられて迎えの法要を拝見していた。
先祖さんを迎える時間帯は朝早い。
その時間には間に合わず副住職が参られる時間帯に寄せてもらった。
この日はたった一人で送られる。
その姿を撮らせていただきたく再び訪問したF家。
息子さんは仕事の関係で出はらって祖母一人。
送りの念仏をする前に供える調理をしていた。
炊事場で炊く料理は送り膳のおかい(お粥)さん。
ついさっきにお茶を替えたばかりでんねんという。
お茶碗10杯は仏壇にあるが、大きな湯飲みの2杯は祭壇にある。
おかいさんは米から炊く粥であるがいろんな具材と一緒に炊く。
これからするので家の小屋に行くといって玄関を出る。
戻ってきたら自家栽培のサトイモを手にしていた。
サトイモは包丁で皮を剥いて細かく刻む。
いただきもののソーメンも入れて炊くお粥である。
できた粥は椀に盛って海苔をパラパラと振りかける。
黄色く見えるのは刻んだサトイモであるが、赤いのは何か聞きそびれた。
この日は朝にアサハン(朝飯)。
昼過ぎの午後1時半にヒルハン(昼飯)、午後3時がユウハン(夕飯)をしているという。
アサハンは糯米で炊いたオコワを供えた。
ヒルハンの御膳はカンピョウ、シイタケ、ゴボウ、ヒロウスの煮びたし。
御供下げしたから先祖さんの祭壇にはない。
こうして鍋に入れて炊いていたと云って見せてくれるヒルハンは美味しそうな色合いだ。
先祖さんに食べてもらったヒツハンは今晩のおかずになる。
つまりは家人が食べる料理を先祖さんに食べてもらっているというのが正しいのかも知れない。
三つの椀によそったお粥さんは祭壇に並べる。
奥にある大きなスイカ。
アライグマの被害にあわなかったスイカが並んだ。
カボチャ、ナスビ、サツマイモ、トマト、トウモロコシに黄マッカ、ブドウ、ナシ、ミカンなどの果物は大きなハスの葉に盛っている。
量が多いから複数枚のハスの葉がいる。
そこにもあった乾物のソーメンは大字奥山に住んでいる知り合いの奥さんからもらった。
自家製のソ-メン束にシールがあること思えば売り物だ。
傍には干したカンピョウもある。
これもまた手造りである。
お供えを調えた祖母は一人導師でお念仏をする。
線香とローソクに火を灯して先祖さんに手を合わせる。
始めるにあたって水鉢に浸していたミソハギとキキョウの花を手にした。
オンサンパラ、オンサンパラを唱えながら花を手元に持つ水器の水に浸けては仏壇、祭壇に振り飛ばす。
花に浸った水を手向けする「さんぱら」は水供養の作法。
お迎え法要のときは副住職がしていたが、この日は祖母一人。
「さんぱら」も一人でしていた。
左手に数珠、おりんを打って手を合わす。
お念仏は浄土宗の勤行式にそって唱えられる。
始めに香偈を唱える。
右手で木魚を打ちながら唱えるお念仏は三寶禮、四奉請、懺悔偈、十念・開経偈、四誓偈、本誓偈、聞名得益偈、十念・一枚起請文、摂益文、念佛一会、総回向文、総願偈、三唱禮、送佛偈、十念。
その間はずっと左手で数珠を繰って数えていた。
なむあみだぶつ、なむあみだぶつ・・・・なーむあみだーぶつ、なーむあーみだーぶーつ・・に手を合わせて拝む。
なまんだぶ、なまんだぶと念じて終えた送り念仏はおよそ12分間だった。
そうして仏壇のローソクの火から移した線香をもって玄関を出る。
行先は隣家分家のF家。
火の点けた線香を持つ婦人が待っていた。
二人揃ってこれより向かう先は冬野川の最上流。
線香の煙を絶やさないように持っていく。
家からは急な坂道を下っていく。
どしゃぶりにも拘わらず村さなぶり行事をしていた気都和既神社の前を歩いて下っていく。
ここら辺りは数体の地蔵尊がある。
いつ見ても真新しいお花を立てている。
信仰の深さを知るのである。
そこよりすぐ近くにコンクリート製の橋がある。
その端っこに立てた線香。
祖母は1本だったが、分家のFさんは2本だった。
その場でつくもって手を合わせて拝む二人。
こうして先祖さんは天に戻っていった。
かつて先祖さんを迎えたお供えは送りのときに丸ごと捨てて流していたという。
昔はダントバサンと呼んでいた七日盆があった。
山の上のほうにあったダントバと呼ぶ墓地は石塔婆墓地である。
当地は4軒の上出垣内。
下の垣内も入れて上(かむら)は8軒。
8月21日は施餓鬼があるし、23日は子安地蔵尊に参る地蔵さんの行事もある。
また、下出には庚申さんもある。
年に2回だったか、それとも60日おきの庚申講の集まりだったか・・。
送りを終えた直後に下流から息子さんが運転する軽トラが登ってきた。
仕事を終えて戻ってきたが丁度送ったばかりである。
再び座敷にあがらせてもらってサナブリモチをよばれる。
昼に供えていたサナブリモチはコムギモチ。
白ご飯の代わりに供えたという。
かつて小麦を栽培していた。
刈り取った小麦は2升臼で杵搗きしていた。
搗いた小麦は石臼で挽いて細かくして餅にした。
今では買ってきた小麦で作る。
小麦は器械で挽く。
潰した小麦は夕べに浸した。
一夜かけてゆっくり浸した小麦でモチを作った。
それがサナブリモチ。
キナコを塗して食べる。
糯米で作ったモチは粘りがあるし柔らかい。
サナブリモチはがっしり堅めの食感。
そこそこの歯ごたえがある。
先月の7月23日に訪れたあすか夢販売所に「さなぶり餅」があった。
どちらかといえばあすか夢販売所の方が堅かったかのように思える。
あまりにも堅ければ祖母は食べられないのでは、と思ったぐらいに香ばしい祖母手造りのサナブチモチはとても美味かった。
息子さんの語りの言葉が妙に方言ぽい。
「これ見ぃ、あれ見ぃ」から始まって「ぶにん」。
えっ、「ぶにん」って聞き初めである。
「ぶにん」やから持って帰ってもうらう、というがまだ謎は解けない。
人数が少ないときに「ぶにん」やから食べられへんとか使うらしい。
結局のところ使い方がわからない「ぶにん」である。
うちで「へたがって」といえばつくもることだ。
これはなんとなくわかる。
たぶんに「へたってつくもる」ということであろう。
これとは別に「つくねる」という言葉がある。
「つくねる」はそこへ集めてかためること。
つまりは集めることである。
「身いる」は私も使っている言葉だ。
「おっちゃん、そんな大きなものを持ってたら身いるやろ」という使い方だ。
息子さんが話す方言は留まることを知らない。
本日はここまでだ。
(H28. 8.15 EOS40D撮影)
在所は明日香村の上(かむら)。
6月12日に訪れた際に話された先祖さん迎えと送りの取材をさせていただきたくお願いをしていた。
迎えも送りも家の在り方、習俗である。
先祖迎えの法要には集落各戸を巡って法要される副住職の姿があった。
その場には息子さんもおられて迎えの法要を拝見していた。
先祖さんを迎える時間帯は朝早い。
その時間には間に合わず副住職が参られる時間帯に寄せてもらった。
この日はたった一人で送られる。
その姿を撮らせていただきたく再び訪問したF家。
息子さんは仕事の関係で出はらって祖母一人。
送りの念仏をする前に供える調理をしていた。
炊事場で炊く料理は送り膳のおかい(お粥)さん。
ついさっきにお茶を替えたばかりでんねんという。
お茶碗10杯は仏壇にあるが、大きな湯飲みの2杯は祭壇にある。
おかいさんは米から炊く粥であるがいろんな具材と一緒に炊く。
これからするので家の小屋に行くといって玄関を出る。
戻ってきたら自家栽培のサトイモを手にしていた。
サトイモは包丁で皮を剥いて細かく刻む。
いただきもののソーメンも入れて炊くお粥である。
できた粥は椀に盛って海苔をパラパラと振りかける。
黄色く見えるのは刻んだサトイモであるが、赤いのは何か聞きそびれた。
この日は朝にアサハン(朝飯)。
昼過ぎの午後1時半にヒルハン(昼飯)、午後3時がユウハン(夕飯)をしているという。
アサハンは糯米で炊いたオコワを供えた。
ヒルハンの御膳はカンピョウ、シイタケ、ゴボウ、ヒロウスの煮びたし。
御供下げしたから先祖さんの祭壇にはない。
こうして鍋に入れて炊いていたと云って見せてくれるヒルハンは美味しそうな色合いだ。
先祖さんに食べてもらったヒツハンは今晩のおかずになる。
つまりは家人が食べる料理を先祖さんに食べてもらっているというのが正しいのかも知れない。
三つの椀によそったお粥さんは祭壇に並べる。
奥にある大きなスイカ。
アライグマの被害にあわなかったスイカが並んだ。
カボチャ、ナスビ、サツマイモ、トマト、トウモロコシに黄マッカ、ブドウ、ナシ、ミカンなどの果物は大きなハスの葉に盛っている。
量が多いから複数枚のハスの葉がいる。
そこにもあった乾物のソーメンは大字奥山に住んでいる知り合いの奥さんからもらった。
自家製のソ-メン束にシールがあること思えば売り物だ。
傍には干したカンピョウもある。
これもまた手造りである。
お供えを調えた祖母は一人導師でお念仏をする。
線香とローソクに火を灯して先祖さんに手を合わせる。
始めるにあたって水鉢に浸していたミソハギとキキョウの花を手にした。
オンサンパラ、オンサンパラを唱えながら花を手元に持つ水器の水に浸けては仏壇、祭壇に振り飛ばす。
花に浸った水を手向けする「さんぱら」は水供養の作法。
お迎え法要のときは副住職がしていたが、この日は祖母一人。
「さんぱら」も一人でしていた。
左手に数珠、おりんを打って手を合わす。
お念仏は浄土宗の勤行式にそって唱えられる。
始めに香偈を唱える。
右手で木魚を打ちながら唱えるお念仏は三寶禮、四奉請、懺悔偈、十念・開経偈、四誓偈、本誓偈、聞名得益偈、十念・一枚起請文、摂益文、念佛一会、総回向文、総願偈、三唱禮、送佛偈、十念。
その間はずっと左手で数珠を繰って数えていた。
なむあみだぶつ、なむあみだぶつ・・・・なーむあみだーぶつ、なーむあーみだーぶーつ・・に手を合わせて拝む。
なまんだぶ、なまんだぶと念じて終えた送り念仏はおよそ12分間だった。
そうして仏壇のローソクの火から移した線香をもって玄関を出る。
行先は隣家分家のF家。
火の点けた線香を持つ婦人が待っていた。
二人揃ってこれより向かう先は冬野川の最上流。
線香の煙を絶やさないように持っていく。
家からは急な坂道を下っていく。
どしゃぶりにも拘わらず村さなぶり行事をしていた気都和既神社の前を歩いて下っていく。
ここら辺りは数体の地蔵尊がある。
いつ見ても真新しいお花を立てている。
信仰の深さを知るのである。
そこよりすぐ近くにコンクリート製の橋がある。
その端っこに立てた線香。
祖母は1本だったが、分家のFさんは2本だった。
その場でつくもって手を合わせて拝む二人。
こうして先祖さんは天に戻っていった。
かつて先祖さんを迎えたお供えは送りのときに丸ごと捨てて流していたという。
昔はダントバサンと呼んでいた七日盆があった。
山の上のほうにあったダントバと呼ぶ墓地は石塔婆墓地である。
当地は4軒の上出垣内。
下の垣内も入れて上(かむら)は8軒。
8月21日は施餓鬼があるし、23日は子安地蔵尊に参る地蔵さんの行事もある。
また、下出には庚申さんもある。
年に2回だったか、それとも60日おきの庚申講の集まりだったか・・。
送りを終えた直後に下流から息子さんが運転する軽トラが登ってきた。
仕事を終えて戻ってきたが丁度送ったばかりである。
再び座敷にあがらせてもらってサナブリモチをよばれる。
昼に供えていたサナブリモチはコムギモチ。
白ご飯の代わりに供えたという。
かつて小麦を栽培していた。
刈り取った小麦は2升臼で杵搗きしていた。
搗いた小麦は石臼で挽いて細かくして餅にした。
今では買ってきた小麦で作る。
小麦は器械で挽く。
潰した小麦は夕べに浸した。
一夜かけてゆっくり浸した小麦でモチを作った。
それがサナブリモチ。
キナコを塗して食べる。
糯米で作ったモチは粘りがあるし柔らかい。
サナブリモチはがっしり堅めの食感。
そこそこの歯ごたえがある。
先月の7月23日に訪れたあすか夢販売所に「さなぶり餅」があった。
どちらかといえばあすか夢販売所の方が堅かったかのように思える。
あまりにも堅ければ祖母は食べられないのでは、と思ったぐらいに香ばしい祖母手造りのサナブチモチはとても美味かった。
息子さんの語りの言葉が妙に方言ぽい。
「これ見ぃ、あれ見ぃ」から始まって「ぶにん」。
えっ、「ぶにん」って聞き初めである。
「ぶにん」やから持って帰ってもうらう、というがまだ謎は解けない。
人数が少ないときに「ぶにん」やから食べられへんとか使うらしい。
結局のところ使い方がわからない「ぶにん」である。
うちで「へたがって」といえばつくもることだ。
これはなんとなくわかる。
たぶんに「へたってつくもる」ということであろう。
これとは別に「つくねる」という言葉がある。
「つくねる」はそこへ集めてかためること。
つまりは集めることである。
「身いる」は私も使っている言葉だ。
「おっちゃん、そんな大きなものを持ってたら身いるやろ」という使い方だ。
息子さんが話す方言は留まることを知らない。
本日はここまでだ。
(H28. 8.15 EOS40D撮影)