マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

上の先祖送り念仏

2017年03月31日 09時43分27秒 | 明日香村へ
祖母一人で先祖さんを送ると話していた息子さん。

在所は明日香村の上(かむら)。

6月12日に訪れた際に話された先祖さん迎えと送りの取材をさせていただきたくお願いをしていた。

迎えも送りも家の在り方、習俗である。

先祖迎えの法要には集落各戸を巡って法要される副住職の姿があった。

その場には息子さんもおられて迎えの法要を拝見していた。

先祖さんを迎える時間帯は朝早い。

その時間には間に合わず副住職が参られる時間帯に寄せてもらった。

この日はたった一人で送られる。

その姿を撮らせていただきたく再び訪問したF家。

息子さんは仕事の関係で出はらって祖母一人。

送りの念仏をする前に供える調理をしていた。

炊事場で炊く料理は送り膳のおかい(お粥)さん。

ついさっきにお茶を替えたばかりでんねんという。

お茶碗10杯は仏壇にあるが、大きな湯飲みの2杯は祭壇にある。

おかいさんは米から炊く粥であるがいろんな具材と一緒に炊く。

これからするので家の小屋に行くといって玄関を出る。

戻ってきたら自家栽培のサトイモを手にしていた。

サトイモは包丁で皮を剥いて細かく刻む。

いただきもののソーメンも入れて炊くお粥である。



できた粥は椀に盛って海苔をパラパラと振りかける。

黄色く見えるのは刻んだサトイモであるが、赤いのは何か聞きそびれた。

この日は朝にアサハン(朝飯)。

昼過ぎの午後1時半にヒルハン(昼飯)、午後3時がユウハン(夕飯)をしているという。

アサハンは糯米で炊いたオコワを供えた。

ヒルハンの御膳はカンピョウ、シイタケ、ゴボウ、ヒロウスの煮びたし。

御供下げしたから先祖さんの祭壇にはない。

こうして鍋に入れて炊いていたと云って見せてくれるヒルハンは美味しそうな色合いだ。

先祖さんに食べてもらったヒツハンは今晩のおかずになる。

つまりは家人が食べる料理を先祖さんに食べてもらっているというのが正しいのかも知れない。



三つの椀によそったお粥さんは祭壇に並べる。

奥にある大きなスイカ。

アライグマの被害にあわなかったスイカが並んだ。



カボチャ、ナスビ、サツマイモ、トマト、トウモロコシに黄マッカ、ブドウ、ナシ、ミカンなどの果物は大きなハスの葉に盛っている。

量が多いから複数枚のハスの葉がいる。

そこにもあった乾物のソーメンは大字奥山に住んでいる知り合いの奥さんからもらった。

自家製のソ-メン束にシールがあること思えば売り物だ。

傍には干したカンピョウもある。

これもまた手造りである。



お供えを調えた祖母は一人導師でお念仏をする。

線香とローソクに火を灯して先祖さんに手を合わせる。

始めるにあたって水鉢に浸していたミソハギとキキョウの花を手にした。



オンサンパラ、オンサンパラを唱えながら花を手元に持つ水器の水に浸けては仏壇、祭壇に振り飛ばす。

花に浸った水を手向けする「さんぱら」は水供養の作法。

お迎え法要のときは副住職がしていたが、この日は祖母一人。

「さんぱら」も一人でしていた。

左手に数珠、おりんを打って手を合わす。

お念仏は浄土宗の勤行式にそって唱えられる。

始めに香偈を唱える。



右手で木魚を打ちながら唱えるお念仏は三寶禮、四奉請、懺悔偈、十念・開経偈、四誓偈、本誓偈、聞名得益偈、十念・一枚起請文、摂益文、念佛一会、総回向文、総願偈、三唱禮、送佛偈、十念。

その間はずっと左手で数珠を繰って数えていた。

なむあみだぶつ、なむあみだぶつ・・・・なーむあみだーぶつ、なーむあーみだーぶーつ・・に手を合わせて拝む。

なまんだぶ、なまんだぶと念じて終えた送り念仏はおよそ12分間だった。

そうして仏壇のローソクの火から移した線香をもって玄関を出る。

行先は隣家分家のF家。

火の点けた線香を持つ婦人が待っていた。

二人揃ってこれより向かう先は冬野川の最上流。

線香の煙を絶やさないように持っていく。

家からは急な坂道を下っていく。



どしゃぶりにも拘わらず村さなぶり行事をしていた気都和既神社の前を歩いて下っていく。

ここら辺りは数体の地蔵尊がある。

いつ見ても真新しいお花を立てている。

信仰の深さを知るのである。

そこよりすぐ近くにコンクリート製の橋がある。



その端っこに立てた線香。

祖母は1本だったが、分家のFさんは2本だった。

その場でつくもって手を合わせて拝む二人。



こうして先祖さんは天に戻っていった。

かつて先祖さんを迎えたお供えは送りのときに丸ごと捨てて流していたという。

昔はダントバサンと呼んでいた七日盆があった。

山の上のほうにあったダントバと呼ぶ墓地は石塔婆墓地である。

当地は4軒の上出垣内。

下の垣内も入れて上(かむら)は8軒。

8月21日は施餓鬼があるし、23日は子安地蔵尊に参る地蔵さんの行事もある。

また、下出には庚申さんもある。

年に2回だったか、それとも60日おきの庚申講の集まりだったか・・。

送りを終えた直後に下流から息子さんが運転する軽トラが登ってきた。

仕事を終えて戻ってきたが丁度送ったばかりである。

再び座敷にあがらせてもらってサナブリモチをよばれる。



昼に供えていたサナブリモチはコムギモチ。

白ご飯の代わりに供えたという。

かつて小麦を栽培していた。

刈り取った小麦は2升臼で杵搗きしていた。

搗いた小麦は石臼で挽いて細かくして餅にした。

今では買ってきた小麦で作る。

小麦は器械で挽く。

潰した小麦は夕べに浸した。

一夜かけてゆっくり浸した小麦でモチを作った。

それがサナブリモチ。

キナコを塗して食べる。

糯米で作ったモチは粘りがあるし柔らかい。

サナブリモチはがっしり堅めの食感。

そこそこの歯ごたえがある。

先月の7月23日に訪れたあすか夢販売所に「さなぶり餅」があった。

どちらかといえばあすか夢販売所の方が堅かったかのように思える。

あまりにも堅ければ祖母は食べられないのでは、と思ったぐらいに香ばしい祖母手造りのサナブチモチはとても美味かった。



息子さんの語りの言葉が妙に方言ぽい。

「これ見ぃ、あれ見ぃ」から始まって「ぶにん」。

えっ、「ぶにん」って聞き初めである。

「ぶにん」やから持って帰ってもうらう、というがまだ謎は解けない。

人数が少ないときに「ぶにん」やから食べられへんとか使うらしい。

結局のところ使い方がわからない「ぶにん」である。

うちで「へたがって」といえばつくもることだ。

これはなんとなくわかる。

たぶんに「へたってつくもる」ということであろう。

これとは別に「つくねる」という言葉がある。

「つくねる」はそこへ集めてかためること。

つまりは集めることである。

「身いる」は私も使っている言葉だ。

「おっちゃん、そんな大きなものを持ってたら身いるやろ」という使い方だ。

息子さんが話す方言は留まることを知らない。

本日はここまでだ。

(H28. 8.15 EOS40D撮影)

萱森・N家の先祖さん迎え

2017年03月30日 09時26分15秒 | 桜井市へ
朝、仏壇に六斎念仏が祈祷した塔婆を立てる。

2本の藁の松明を門口で焚く。

その場で家の鉦を打ち叩く。

そのとき、家族全員が揃って「先祖さん かえなはれ」と云って先祖さんを迎える。

迎えの日は早く戻ってもらうから午後5時にはすると話していた桜井市萱森に住むN夫妻。

今月の7日にはラントバさんの塔参りを取材させていただいた。

ラントバさんのお参りはお盆はじめと彼岸のときだ。

春に秋に参る墓地はツチバカ(土墓)。

正月前に松竹梅を立てる。

12月31日は仏壇にお供えもする。

ナンテンの実もお餅もするが、参ったら持って帰ると話す。

この日は先祖さん迎えの日。

一週間が経つのが早い。

萱森の山林道を登っていく。

奈良市北部の方角は黒い雲に覆われだした。

もうすぐ雨が降ってくるだろうと思った午後5時直前。

夏も終わりかけになったのかカナカナカナカナ・・と侘しく鳴くヒグラシセミが時期の到来を告げていた。



ガキサンに供える準備をしていた門屋を潜ってお声をかけるN家。

先祖さんを迎える仏間に仏壇がある。

その前に組んだ祭壇の敷物は昔から使っているゴザである。

お盆が終われば来年のために干して乾燥しておく。

昭和41年に嫁入りした奥さんが云うには、それ以前からあったと云うから年代物のゴザである。

午後5時も10分過ぎたころに当主が動き出した。

予め立てていた先祖さんを迎える藁は2束。

それぞれに細い竹に挿す。

地面に押し込んで立てた先祖さん迎えの藁束に火を点ける。

下に点けた火は上に燃えていく。

メラメラと燃え上がる松明の火。

火が落ち着くようになれば家の鉦を打ち続ける。

その音を聞いて家族が集まってきた。



孫さんも一緒になって並ぶ姉妹家族は「先祖さん かえなはれ」。

「先祖さん かえなはれ」を繰り返す家族たちの声が届いたのか煙に乗ってやってきた。

「先祖さん かえなはれ」は「先祖さん 帰りなはれ」である。

燃え尽きたころを見届けて自宅に戻る。

そのときも鉦は打ち続ける。

キーン、キーンの音が山間に響き渡る。

それが合図になったのか隣近所でも鉦を打つ音が聞こえてきた。

戻る際に振りだした雨。

そのころの空は真っ黒けになっていた。

これは雷雲である。

今にもどっと降りそうな雨が肩にあたる。



急いで母屋に上がらせてもらったとたんに激しい雨になった。

仏壇の前に並べたお供えは今にも落ちそうなぐらいの盛りだくさん。



ゴザの上に敷いたハスの葉は何枚もある。

それはお皿代わりでもない。

敷物のように思えたハスの葉である。

なぜかハスの葉は裏側を表に敷いている。

それで色合いが違うことがわかる柿の葉。

一枚ごとにミソハギの軸茎で作ったお箸。

そこに少量の白ご飯や漬物キュウリ。

もう一枚の葉はおかずが違う。

ヒユやダイコン葉にナスビの味噌和えである。

また、もう一枚にはご飯ではなく茹でたソーメンもある。

それぞれに添えたミソハギの箸の数は何人前になるのだろうか。

柿の葉に乗せたミソハギの箸は先祖さんが食べるためにある。

花はどうするのか。

咲いたミソハギの花は墓参りに使うと云う。

そういえばラントバさんの塔参りにあったと思う。

中央に置いた黒っぽいスイカがどでーんと座っている。

トマトに丸々肥えたナスビもあれば黄マッカもある。

果物は赤いリンゴ。

桜井の和菓子屋さん、吉方庵で買って来たいろんな和菓子も供えて燭台に立てたローソクに火を灯す。

和菓子はハクセンコウも要るのだが、この年はハクセンコウ代わりのモナカにしたという。

ここ萱森では他所で見られた線香で先祖さんを迎えるのではなく、燃やした松明の火によって発生する煙に乗って家に帰ってくるが、仏壇の線香は普段と同様に火を点けてくゆらす。

写真ではわかり難いが当主が鉦を打つ位置の前にある。

大きなスイカの前に平たい椀鉢がある。

これはオチツキダンゴと呼ばれる団子である。

前日の13日にも供えたオチツキダンゴは先祖さんを迎えるこの日の昼にも供えていたという。

スイカの右横は乾物のソーメン。

早めに供えていたので水分を含んでだらりと垂れ下がってきた。

鉦を打って唱える念仏は西国三十三番ご詠歌だ。



当主の後ろに並んで座った家族も一緒になって唱えるご詠歌。

7日のラントバさんの塔参りは般若心経。

そのときも家族一緒になって唱えていた。

孫さんも一緒になって唱えていた。

先祖さん迎えのこの日も一緒になって唱える。

信仰も所作も親から子供へ。

育って家族をもった子供は孫とともに・・である。

ご詠歌が始まって3番目辺りだった。

家の周りは真っ暗になっていた。

そこに光った閃光。

光った瞬間にドドーン。

心臓が震えるぐらいの光と音が饗宴する雷などものともせずにご詠歌を唱え続けるご家族。

後に聞いたこのときの落ちた雷に「おっとろしかった」と振り返っていた。

隣近所の被害は停電で済んだようだが、同家では何事もなかったかのように唱えていた。

ご詠歌が始まってから10分経過。

お椀をもった奥さんが祭壇に供えた。



大鉢に盛ったのはサトイモのコイモとゴボウの汁椀である。

おつゆみないなもので、“しゅる”、と呼んだのは奥さんだ。

“しゅる”は“汁”が訛ったのであろう。

この汁椀はご詠歌を唱えている最中に供える。

湯気がまわって温いうちに供えると云った奥さんはここでようやく席につく。



なにかと忙しく動き回る奥さんは先祖迎えの松明火焚きにはおられなかった。

炊事場で先祖さんに食べてもらうお供え料理を作っていったから仕方がない。

ご詠歌は三十三番まで一挙に唱えるのではなく、24番で一息つける。



その間に拝見したカド庭に供えたガキンドサン(餓鬼さん)。

先祖さんと同じように裏向けたハスの葉の上に柿の葉に供えた白ご飯や漬物キュウリ、ヒユやダイコン葉にナスビの味噌和え、ソーメンがある。

もちろんであるがミソハギ軸で作った箸もある。

ガキンドサンにも食べてもらうというお供えである。

ナスビも黄マッカもトマトもある。

お茶もある。



カド庭には石仏のミョウケンさんもある。

ミョウケンさんは妙見さん。

大阪能勢の妙見さんであるのか聞きそびれた。

先ほど降った雷雨にあたった滴が垂れていた。

10分ほど休憩したら続きのご詠歌を再開する。

後半は25番からはじめて番外の善光寺。

これを3回唱えた。

休憩を挟んだご詠歌長丁場。



1時間にも亘った最後に「なむだいし~そくしんじょうぶつ」を3回唱えて「なむあみだぶつ なむあみだぶつ」を。

10回ぐらい、鉦を打って先祖さん迎えの念仏を終えた。

迎えの14日のアサハン(朝飯)はミソハギの箸を添えた味噌付けキュウリにシラカユ(白粥)。

ヒルハン(昼飯)は同じくミソハギの箸にヒユとダイコン葉にナスビを味噌和えしたおかずに白ご飯。

晩は竹の箸に替わってソーメンにする。

ミソハギから竹の箸に替えるのはソーメンが滑るからである。

なるほどと思った。

供える数は多い。

かつては15人前も供えていた。

少しはすくなくして10人前。

それが8人前に。

いっぱいいらんから減らしたという。

晩ご飯を食べていきと云われたがここは遠慮して退席する。

見送りに出てくれた夫妻が指を挿した場にもお供えがある。



ガキンドサンは裏にもあった。

(H28. 8.14 EOS40D撮影)

どさくさ餅は八月十四日に販売

2017年03月29日 09時41分54秒 | 民俗あれこれ(売る編)
写真の文字を見て「八十四日」と読む人は・・・・八十四夜と思うのだろうか・・。

今年の土用入りは7月19日。

その日だけに限定販売される土用餅を売っていた和菓子屋さんは桜井市箸中にある北橋清月堂。

旧街道に建つ。

毎年の8月14日に「どさくさ餅」を販売される。

見かけ、味は土用餅とまったく同じだと店主は話していた。

当日に買ってみたいが、売り切れ必死のようだ。

それでもなんとかあるだろうと思って萱森に行く途中に立ち寄った。

店主が話していた通りに「どさくさ餅」の文字を書いてガラス戸に貼っていた。



おそるおそる入店したら最後のお一人さん。

その分だけあった。

実にラッキーだった購入時間は午後4時半。

買占めではないが、棚から消えて売り切れた。

(H28. 8. 1 EOS40D撮影)
(H28. 8.14 EOS40D撮影)

矢部・N家のオムカエ

2017年03月28日 08時22分06秒 | 田原本町へ
前月の7月7日に訪れた際にお家のお盆の在り方を教えてくださったN家婦人。

かつてはお茶作りをしていた。

その時代のお盆は新茶を飲んでいたという。

お盆に必ず要るのはカンピョウである。

そのカンピョウはご主人が栽培、皮を剥いて塀中で干している。

その景観を撮らせてもらったのは前々月の6月26日

青空に映える美しい白に見惚れていた。

お盆にはハスの葉も必須。

なければドロイモの葉を代わりに使う。

アサガラが要るのは新仏のときだけ。

白いアサガラの材で作った梯子をかけていた。

14日は先祖さんのお迎え。

近くを流れる堤防まで出かけて火を点けた線香を持ち帰る。

ゼンマイの干したんとかオアゲとかを供える。

お茶は5杯並べる。

夜はズイキのおひたし。

これらの御供はハスの葉を広げて載せる。

その晩は西国三十三番のご詠歌を唱える。

翌日の15日は先祖さんの送り。

昼はカンピョウとコーヤドーフの炊いたん。

オタチのソーメンを食べる。

午後3時はスイカを割ってから、送りに出かける。

送りのときには先祖さんに食べてもらうようにパックの弁当を持っていく。

その弁当は川に投げる。

昔はそのままだったが、現在は一旦家に戻ってから再び川にでかけて弁当を引き上げて回収する。

寝る前に味噌汁にコイモの炊いたんをカドマクの中で食べることなど、家や村の平均的な在り方を聞かせてもらった。

矢部に伝統行事がある。

毎年の5月5日に行われている綱掛け行事だ。

毎年交替する当番の組にあたれば農具、牛絵(角に牛玉宝印)を作る。

一品、一枚ずつを手造りする。

それは行事のときに村の全戸に配られる。

いただいたミニチュア農具のクワやスキ、牛絵は家の守り神。

玄関に飾っている。

同家は玄関口の柱に何枚かのお札を貼っていた。



一枚は「立春大吉」。

毘沙門天招福で名高い信貴山の大本山千手院だ。

その下に目を下ろせば逆さに貼った「十二月十二日」のお札もあった。

以前に貼ったお札は剥がれかけ。

何枚も貼っていたようだ。

この「十二月十二日」のお札についてテレビで放映された。

矢部のお札ではないが、葛城市にお住まいの男性は今でもしているという話題に大阪に住む人の事例紹介である。

放送はNHK奈良放送局で月曜から金曜までの毎週にある「ならナビ」というニュース併用の情報番組だ。

それはともかく矢部のお盆の話しに戻そう。

先祖さんを祭っている仏間に上がらせてもらう。

仏壇の前に設えた場にはお供えをいっぱい並べている。



スイカは二種類。

一種は黒いからでんすけスイカではないだろうか。

いやそこまで黒くないから別種だ。

それはともかくスイカのタネの8割以上が奈良県産である。

そのこととお盆の供え物と特に関係性はないと思うが、スイカの他にキュウリやナスビが5本ずつ。

サツマイモ、トウモロコシ、ピーマン、パプリカ、トマトにブドウ、メロンなどの果物も。

キュウリやナスビはお盆に欠かせないお供え物だが当家は足を付けることはない。

これらのお供えはハスの葉。

入手不可の場合はドロイモの葉で代用する。

お供えが多いだけに枚数も一枚、二枚・・。

野菜、果物を並べた手前にお茶を注いだぐい飲み椀が五つある。

お茶は汲んで一時間後には新しいお茶に入れ替える。

一時間おきに入れ替えるから忙しい。

このような言葉は調査させてもらった人たちが一様に云う台詞である。

ナスビとキュウリが5本。

お茶も5杯とくれば、仏飯にさしたお箸も5膳である。



5人の先祖さんなのかどうかわからないが、昔からそうしているようだ。

その下にあるのは御膳である。



膳は五つの椀である。

中央に昆布豆の椀。

四隅にご飯の椀、コイモの煮物椀、チクワとカニカマボコ、ナスビの椀にナスビの汁椀である。

先祖さんがきやはったときには御膳にアンコロモチも供えていたという。

昼の御膳はアゲサンにゼンマイのたいたん。

晩はズイキのおひたし。

寝る前にコイモを入れた味噌汁を供える。

翌日の15日は先祖さんの送り。

昼にカンピョウやコーヤドーフの煮物にオタチソーメンがある。

午後3時ともなればパックに詰めた弁当を持たせて送る。

送る場所は飛鳥川の堤防だ。

その場に籠を置いてハスの葉を敷いた。

スイカや持っていったオタチソメーンも置く。

線香に火を点けて送る。

その際、送りのお供えを乗せた籠はひっくり返す。

かつてはこうして送った弁当やお供えは川に投げていたが今は禁止されているので持ち帰って始末する。

迎えの13日は朝の7時に出向いた堤防で線香に火を点けている。

その線香の火が消えないように家に戻る。

その日は融通念仏宗派安楽寺の住職が巡拝されて各戸ごとに先祖供養に参ってくれる。

その時間帯の都合もあって朝の7時になるそうだ。

安楽寺辺りをぐるりと巡拝されるから早い。

南の地区は昼頃になるらしい。

お迎えした晩は西国三十三番のご詠歌を唱える。

1番の青岸渡寺から始まるご詠歌は長丁場。

24番の中山寺で休憩するか、それとも後ろの25番で休憩するかは花山法皇が決めはったからそれに従うようだ。

亡くなったときも唱えるご詠歌は四十九日にも唱える。

ところで同家ではガキサン(餓鬼)にもお供えをする。

ガキサンにもお茶を入れ替える。

入れ替えた古い茶は家の周りに捨てる。

先祖さんのお茶もあるから毎日4リッターのお茶になるようだ。

1時間おきに入れ替えている量はその話しでよくわかる。

今では周りがコンクリートになったから捨てるお茶が跳ねて跡形がつく。

土だった時代にしていたお茶捨て。

今はすることがない。

ちなみにガキサンの施しといって御膳の残りも捨てるようだ。

(H28. 8.14 EOS40D撮影)

鹿背山・先祖迎えの砂盛り花飾り

2017年03月27日 08時18分52秒 | もっと遠くへ(京都編)
共に松尾のサシサバ行事を取材していた写真家のKさんが云った。

今朝、松尾に行くまでに立ち寄った地域集落の各戸口に砂盛りがあったという。

砂盛りにはそれぞれの家が祭ったと思える花も添えていたらしい。

Kさんが伺ったのはその地域と関係する知人の情報だった。

その場におられた婦人から話しを聞いた状況は聞き取った話によれば、その村のお盆の在り方だった。

初盆は8月12日。

お昼にお墓に出かけてお参りする。

先祖さんの迎え日は8月13日。

あまりに遅くに迎えたら可哀そうだから午後4時にはしているという。

オムカエダンゴがある。

お茶を先祖さんに飲んでもらう。

8月14日の朝5時。

お寺さんが地区を廻って参ってくれる。

そのときにはボタモチを供える。

8月15日は朝から長野の善光寺参りをされるので弁当をお膳のうちと考えてオモチを持たせて参らせる。

参らせるのは先祖さんのことである。

13日にお家に来られた先祖さんは13日の晩、14日の二晩泊まって翌朝に長野の善光寺に参るというわけだ。

先祖さんは昼過ぎの午後2時には戻らっしゃる。

冷たいソーメンに家で作った山菜料理を食べらはる。

その晩はササゲ豆をはたく準備をしておく。

晩も山菜料理。

家で作った料理を供える。

翌朝の8月16日の朝はササゲ豆を入れたオカイサンを炊いて食べる。

先祖さんを送るので門口に砂を盛る。

花を飾って迎えたときと同じように線香を焚いて送るというわけだ。

奈良県内事例とほぼ同様の先祖さんの迎えと送りであるが、花を添えた砂盛りは初めて知る在り方である。

興味をもった私を現地まで案内してくださった。

到着した地域は京都府木津川市の鹿背山(かせやま)である。

JR木津駅より東に向いて、直線距離で1.5kmの地にある旧村。

集落入口に勧請縄が架かっていた。

集落に疫病が入ってこないように願って架ける勧請縄架けはいつされているのだろうか。

架ける支柱は両端に立てている金属ポール。

なんとなく導線があるように見える。

房の残欠と思われる処にはなんらかの樹木の枝木を挟んでいる。

中央は竹串の幣のようだ。

辺りに川はあるのか。

暗渠になったのか、詳しく見ている間もないが、なければ道切りの勧請縄である。

集落入口から歩いていく。

視線を落とす処は一軒、一軒を巡る戸口の様相。

大きな母屋を構える門屋口にあった。

あったにはあったが砂盛りだけだ。花が見当たらない。

写真を撮ってはみたが実にシンプルな砂盛りに一本のローソクを立てていた。

花は見られない。

そこより数歩も歩けば隣家になる。

家であっても戸口にはない。

先祖さんを迎えた印しがない家もある。

戸口というよりも辻にあった砂盛り。



乾いた山土か、畑土のような砂盛りにお花がある。

そこにはコウヤマキも挿してあった。

中央にはオガラ片を並べた階段がある。

天から先祖さんが降りてくる階段ではないだろうか。



そこより何歩も歩いていない辻にもあった砂盛り。

黄色に紫色や青色のお花で囲った中央に先祖さんを迎えた線香痕がある。

祭った家はどこなのかわからない。

これより坂道に何軒かあるうちの一軒であろうか。

次の場はどこにある。

気にもかけなきゃ見逃してしまう処にもあった。



そこは暗渠の道。

足の下は空洞の水路のところにもあった。

暗渠の道はやや砂まみれ。

溶け込んでいるから見落とす可能性がある砂盛りに花で飾った輪。

中央に燃え尽きた線香痕がある。

すこし歩けばまた一つ。



日に焼けたコウヤマキやお花は萎れているがれっきとした砂盛りである。

ここはどこである。

町内を案内してくれる大きな鹿背山マップがある。



現在地の赤印。

入ってきた入口に架けてあった勧請縄の地は「カンジョウ縄」と書いてあった。

集落内外を流れる川の名前もわかるし地域に散在する地蔵尊の名前もわかる。

地図をみているだけでワクワクする鹿背山の道案内にありがとうだ。

そこより少し歩いた処に石碑がある。

刻印に左鹿背山城址とある。



その向こう側の石灯籠には八王子・恵美須神社の名がある。

鹿背山マップをもう一度みればもっと奥に鎮座する神社が書いてあった。



石碑の下にもあった砂盛りは平たい植木鉢。

植木鉢というよりも水鉢のようだ。



鉢いっぱいに砂を盛って花を輪のように飾る。

上部から見ればよくわかる先祖さんを迎えた線香痕である。

どこまで歩いただろうか。

距離にしてはそれほどでもないが夏の盛りの照りに汗が止まらない。

ここも坂道にあがる辻の処にあった。

アスファルト舗装でなければ盛り砂の色がわかりやすかったかも知れない。



坂を表現するにはローアングル。

これが心臓に悪い。

ある程度まで我慢して屈むが短時間に抑えないと呼吸も困難に陥る。

実はフアインダーは見ることのできないカメラ位置。

適当に置いてシャッターをきる。

出現した画像をビューで確認して撮る。

上手く撮れていなければ何度も何度もトライする。

これは電柱の裾にあった砂盛り。



どこでもそうだったがどこの家の人が先祖さんを迎えたのかわからない位置にある。

花はいろんな花。

コウヤマキもあればない家も。

オガラの梯子もあればない家も。

それぞれの家の在り方であろう。

少し歩けば辻に出る。

辻から見えた地蔵尊。

6体あるから六体地蔵である。

これもまた鹿背山マップに書いていた。

ところがここには砂盛りは見られない。

先祖さんを迎えるのは各家である。

花は立ててはいるものの、地蔵尊には砂を盛ることはない。



その辻から足を伸ばしてみた。

奥のほうにも家が建つ。



入口、門屋辺りの何カ所かで砂盛りがあった。

ここの砂盛りは梯子が二つもある。

二つの意味はわからないが、他家と同じように先祖さんを迎えた線香痕がある。

もう一軒も同じようだが梯子は一つだ。



向こう側に車があるから駐車場。

話しを聞かせていただきたく呼び鈴を押した。

玄関から出てこられたのは東京から帰郷された息子さん。

詳しいことならと母親を呼んでくださった。

先祖さんのお迎えは火を点けた線香。

前日の13日の夕方に火を点ける。

午後6時ぐらいにしていると話すMさんの出里は南山城村。

村では鹿背山のような花飾りの砂盛りはない。

形式といえば松明の火で迎えるという。

藁束に火を点けて先祖さんを迎える形式は奈良県内の山添村(松尾・的野・北野)、旧都祁村(馬場)、桜井市(萱森・白木)で拝見した。

話しの様子から同じ形式のようだと思った。

聞取りしていたときにクワを担いで戻ってきた男性はもっと詳しいと云って紹介された。

線香を立ててお迎えはするが墓までは行かない。

アラタナ(新仏)がある場合は8月12日に西念寺墓地で墓参り。

砂盛りは家を出たところの辻に行く。

家によっては距離に違いがある。

梯子段の数は決まっていない。

14日は早い家では朝5時からボタモチ御供した各戸を浄土宗西念寺の住職が巡って先祖供養をしてもらう。

お盆に迎えた先祖さんは8月16日の朝、朝ごはんを供えてから同じ迎えた場所で送る。

迎えたときに飾った花はそのままで差し替えることはないという。

鹿背山の在り方を聞いて奥へ行く。



急な坂道を登ったところ旧家の佇まいをみせるお家があった。

門屋を出た処にあった砂盛りも梯子がある。

母屋らしき旧家を拝見して坂道を下る。

一本筋違いに道がある。



水路もある処の砂盛りは二つ並び。

付近で拝見した花とはまた違う。



正面上部から見下ろして撮らせてもらった先祖さん迎えの場は美しさを感じる。

もっと歩けば稲作地もある。



そこにもあった先祖さん迎えの姿になぜか感動してしまった。

もう少し、もう少しと思って歩く。

どこまで続いているやらわからない先祖さん迎えの数は・・・。

鹿背山集落は100戸のようだから全戸を拝見するには体力仕事。

無理をできない身体が悲鳴を上げる。



門屋の前にあった砂盛りはコウヤマキがある。

ここまできたら撮るのも抑えよう。



ところが田園が広がる地に出ればコンクリート橋の端っこにもある。

あっちの家の辻にもある。



最後に拝見した砂盛りはホオズキがあった。

ここで時間切れ。



というよりも体力が保てないので終わりにしたが、疑問が一つ。

盛り砂は土もあればそこらから集めたような乾いた土もある。

美しいのは綺麗な砂である。

その砂はどこから持ってきたのだろうか。

大晦日、年神さんを迎える砂の道がある。

奈良県の大和郡山しない各地で見られた砂の道の採取先は集落近くを流れる綺麗な砂であった。

鹿背山の綺麗な砂も同じ在り方ではないだろうか。



再訪して砂の民俗を調べてみたいと思った。

(H28. 8.14 EOS40D撮影)

松尾・サシサバのイタダキサン

2017年03月26日 07時11分21秒 | 山添村へ
この年の6月14日のことだ。

毎週、通院している外来棟でばったり出会った。

平成23年のマツリに当家を務めた山添村松尾のH夫妻である。

ご主人は3年後の廻りになった平成26年のマツリでは8人からなる田楽所作をする要人も務めていた。

H家にはマツリだけでなく、家でされているお盆の風習も撮らせてもらったことがある。

平成24年の8月14日であった。

お会いした瞬間にその映像が蘇った。

今もされているならもう一度取材させていただけないかという願いである。

写真家Kの願いでもあるお盆の風習はサシサバのイタダキである。

お願いを叶えてもらうには息子さん夫妻のご協力が要る。

サシサバの作法をするのは生き御霊を称える息子である。

子どもの頃もしていたサシサバの作法であるが、ご結婚されたら夫妻揃っての作法になる。

息子に伝えておくと云っていた夫妻にあらためて電話もしたのは8月に入ってからだ。

念のためといえば失礼になるが、確認の電話に伝えているからその日においで、である。

ありがたい返事に感謝してこの日の朝に伺った。

家に向かう道は家の出入り口。

そこにあったのは燃え尽きた藁である。

ススンボの竹に挿した藁は先祖さんの迎え火である。

前日の13日。

門口の処に立てた藁松明に火を点けたのは午後6時だった。

鉦を打つことはない。

ここら辺りは鉦を打つ風習は見られない。

玄関前にあるのはムエンサン(無縁仏)を祭ったタナ(棚)である。



タナ台に載せたドロイモの大きな葉が一枚。

敷いたその上に柿の葉がある。

それに載せているのは味噌汁に入れていた具材のナスビ。

もう一枚はオガラの箸を置いているオハギだ。

箸があるもう一枚はシンコの名で呼ばれるメリケンダンゴ。

あとはナスビにキュウリ。

精霊馬・牛のようであるが脚はない。

お茶は一杯。

ローソクや線香に火を点けていた。

その線香をさしているのは野菜のナスビである。

挿した穴は線香換えした数である。

13日に先祖さんを迎えたときに祭るムエンサン。

一杯盛ったお茶は度々交換する。

常に新しいお茶に入れ替える。

14日の昼にはイモやカボチャを供えるムエンサンのお供え。

ケンズイのときにはソーメンとモチを供えるそうだ。

座敷に上がらせてもらって先祖さんの位牌を並べた状態も撮らせてもらう。



位牌に記された年代は文化六年(1809)、文政年(1818~)、天保四年(1833)。

当家の歴史を刻む先祖さんの位牌だ。

そこにも様々なお供えをする。

ここでもたえずお茶を入れ替える。

中央にドロイモの葉に乗せたナスビとキュウリ。

黄色のマッカやトマトにモモ、ブドウ、ハクセンコウなどの御供。

両側にお盆がある。



そこにはムエンサンと同様に味噌汁の汁なしナスビを盛ったカキの葉。

もう一枚も同じくオガラの箸を置いたオハギである。

両側数えて8人前である。

朝のお供えはこれだけであるが、お昼はもっと多く、七品のおかずに白ご飯。

おかずはナスビ、カボチャ、ニンジン、ジャガイモ、タマネギ、サイトマメ(インゲンマメ)、ダイコンを煮たものだ。

お昼過ぎたらケンズイ。

午後3時ころに供えるのは汁なしのソーメン。

夜は帰らはるときで、丸いコモチのシロモチを持って帰りはる。

そういっていたのは奥さんである。

そんな話をしていたころにやってきた息子さん夫婦。



これからサシサバの作法をするのだが、このサシサバはどこで入手したのか、である。

販売しているのは北野や津越の行事で度々お世話になっている大矢商店。

来年もできるかなと云いながらも仕入れているサシサバ。

平成23年の8月13日にお店で売っている状態を拝見した。

松尾の奥さんは値があがったという。

「千円だったが、昔は500円やった」という。

よくよく枚数を考えればサシサバは2尾で1セット。

1尾が500円でサシサバ状態は2尾。

それで千円。

値は合っていたのである。

山添村で売っている開きのサシサバは1尾が500円。

今月1日に拝見した「辻村商店」の売値は一枚が750円。

「たけよし」なら580円だったと話す。

御膳にスイカも供えて先祖さんに向かって座る若夫婦。

お盆に敷いたドロイモの葉に盛ったのが開き状態のサシサバである。

塩をたっぷり入れて漬けこむ。

それを天日干ししてカラカラに乾かす。

表は鯖の皮がよくわかる紋様。

裏はといえば濃いめの茶褐色。

2尾のサシサバの一方をもう1尾の頭に刺しこむ。

裏側であれば刺した姿がよくわかるサシサバは表からだとわかり難い。

頭から頭を刺しこむから「刺し鯖」というわけだ。



両親から「いただいとけよー」と声がかかれば膳を上方に捧げまつるような作法をする。

台詞はなにもない。

ただ、先祖さんに向かってその恰好をするだけである。

サシサバは2尾をワンセット。

これは両親を表現している。

つまりは生き御霊なのである。

両親が生存しておれば2尾をこのような格好で作法をするが片親になればこの作法はない。

両親が揃ってなければできない作法は県内各地でみられたお盆の風習であるが戦後に撃滅した。

何年か前に聞き取り調査をした大和郡山市の事例は多かった。

長安寺町に住む婦人は88歳。

両親が揃っておれば2尾。

片親になれば1尾だった。

伊豆七条町に住む78歳の婦人は片親であれば作法はしない。

白土町に住む80歳の婦人は作法を覚えてないが、ドロイモの葉に包んだミセ膳のサシサバの数は息子の数を並べたという。

先に述べた二人も同じようなミセ膳があった。

ミセ膳が終わればサシサバは食べることができる。

水に浸けて塩抜きをする。

薄味のしょう油に浸して身をほぐした。

カラカラに乾いているからほぐしにくかったが、漬けたらほぐしやすくなると云っていた。

味はといえばだれもかれもが辛いと云った。

そういう話を聞いて大矢商店で買って食べたことがある。

云った通りに辛かった。

ほんまに辛かったサシサバの美味しさがわからなかったが、旨いという人のほうが多かった。



85歳の額田部南町に住む婦人や86歳の小泉町婦人、81歳の白土町婦人、81歳の額田部北町婦人、77歳の横田町婦人、81歳の八条町婦人、84歳の椎木町婦人・・・はサシサバをサッサバと呼んでいた。

出里が天理市南六条、桜井市穴師だった婦人もサシサバ経験があった。

年齢は80歳前後の方ばかりだ。

同じ出里であっても年齢が六つ下の婦人は食べたこともなかったという。

また、御所市野口のお蛇穴や斑鳩町の稲葉では話も聞いたことがなかったという婦人もいる。

こういった聞き取り調査は数年前までに送迎をしていたときの患者さんの体験談である。

あれから5年も経った今も元気でおられるだろうか。

サシサバ風習についてはその後も続けているが、なかなかお会いしないが、奈良市の窪之庄や中畑で今もしていると聞いた。

これもまた高齢者の談話であるが、実際にどういう作法でしているのか拝見していないのでわからない。

尤も松尾で取材させていただいたご家族は14日の朝に食べるという。

焼いて食べる場合は身をほぐして食べる。

酢に漬けて食べる場合もある。

美味しいから大量に買って冷蔵庫で保存している。

食べたくなったら出して食べているそうだ。

81歳の奥さんが云うには、片親、或いは親無しの家の場合は、先祖さんが「帰らはったあとに食べる」と話していた。

サシサバに関わる話題を提供してくれた婦人は息子とともに外にでた。



明日は先祖さんが帰らはる日。

送る松明の準備にとりかかる。

松明は昔から3本。

藁束を挿す竹は青竹のシンダケ(新竹)。

一昨日に6本纏めて作っておいた。

藁束の芯は杉葉だったが、今は新聞紙にしているという。

迎えも送りも門口で藁束に火を点ける。

手ぶらで家に戻って屋内で線香を点けているという。

お盆の風習話しはまだまだある。

ガキサン(餓鬼)のタナ(棚)にあるダンゴは小麦粉かメリケン粉をはたいて作る。

粉は水で練る。

練って丸める。

それを沸騰した湯に入れる。

ダンゴ汁のような感じに茹でて浮き上がったらできあがる。

これをオチツキダンゴと呼んでいる。

今はお店で買っているが、オハギもかつては家で作っていた。

柿の葉はべちゃっとしている黄色っぽい葉。葉は遣いさしをつこうたらアカンという。

13日の夕方にガキサンのタナを作る。

朝、昼、晩にローソクや線香に火を点ける。

昔はチョマ(苧麻)の皮を剥いて乾かしていた。

アカヌキと云って川の水に漬けた。

オガラで梯子を作った。

梯子の段は四段と決まっていた。

普段でも四段目で足を滑らして落ちたらアカンといわれてきた。

祭るヤカタの屋根は桧葉で覆った。

これらは翌朝の15日に仕舞う。

嫁さんをもらったら酢に漬けたトビウオを実家に持って帰ってもらう。

このトビウオも大矢商店で売っていたなどだ。

(H28. 8.14 EOS40D撮影)

締めくくりに夕焼け

2017年03月25日 08時43分26秒 | 天理市へ
この日の取材は朝に伺った明日香村・大字上(かむら)の先祖供養を皮切りに、同村・下平田のカンピョウ干し、平坦部に下って、安堵町・岡崎のカンピョウ干し、同町・窪田阿土墓のナナトコ参り、再び岡崎の北地蔵尊、同じく岡崎の先祖迎えにアラタナさん。

そして最後に同町・窪田のアートな案山子を拝見してきた。

夏場の取材に一日中駆け巡っていた。

陽も暮れる頃になれば、身体はぐったり。

トイレ休憩したお店を出たらそこにあった見事な夕焼け。

締めくくりに相応しい情景はケータイ画像で残した。

(H28. 8.13 SB932SH撮影)

窪田のアートな案山子

2017年03月24日 08時57分57秒 | 安堵町へ
この日は朝から夕方まで県内各地・各家で行われているお盆の在り方を拝見してきた。

明日香村の一角にカンピョウ干しをしていることもわかった。

商品として作っている形態ではあるが、安堵町においてもあることがわかってきた。

足で稼ぐ民俗もあるが、風物詩にもなる夏の景観にも巡り会えた。

もうないだろうと思って帰路につきかけたそのときだ。

目の前に出現した人形・・・というか案山子だ。

今にも動きそうな案山子に思わずブレーキを踏んだ。

踏んだのは私でなく運転手のKさんである。

二人とも目が輝きだした。

そうだ、思いだした。

数年前というか、つい最近の、といえば昨年。

ここら辺りを走っていたときに案山子が立っていたことを思いだした。

息子が出かける仕事先は目と鼻の先。

そこに至る道中はお米畑。

青々と稔った稲穂が輝いていた。

送迎していたときはカメラを持っていない。

写すこともなくすっかり記憶が消えていた。

そのときに見かけたときよりもさらに人間らしく見える案山子に育っていた。

その姿を隠れて撮ろうとしているカメラマン姿の男性がいる。



後ろから見れば、ほんまにそう思うぐらいデキの良い案山子。

なぜかツルが一声鳴いた。

案山子のカメラマンが狙っている被写体はツルだけでなく人物もいる。



浴衣姿で踊るカップル、それとも親子・・・・。

(H28. 8.13 EOS40D撮影)

岡崎・アラタナがある家の先祖迎え

2017年03月23日 08時09分27秒 | 安堵町へ
岡崎には地蔵尊が二つある。

場所は北に一カ所。

もう一カ所はそこより数百メートル南に下った処にある南の地蔵尊だ。

そこでは7月23日に地蔵盆が行われている。

取材は未だできていないが、いずれは出かけたいと思っている。

その南の地蔵尊が建つ集落筋からお二人の女性が向かってきた。

行先はどうやら川堤のようだ。

手には3本の線香がある。

一本は煙が出ている。

2本は火を点けていない。

先ほど北の地蔵尊で当番さんが話してくださった岡崎の先祖迎えの在り方が目の前を通る。

歩きながらであったがお声をかけさせてもらった。

取材・撮影の主旨を伝えたら承諾してくださった。

ありがたいことであるが、かつて大和郡山市内でたまたま遭遇した婦人に声をかけたら断られた。

先祖さんの迎え・送りの最中は決して口を開けて受け答えをしてはならないと云われたことがある。

そういうものだと思っていたが、二人の婦人は断らずに受けてくださった。



先祖さんを迎える場に着いたら持ってきた火の点いた線香を川堤に立てる。

柔らかい地面でないと線香を立てるのは難しいが、なんとか探りあてて立てた線香は煙が流れていく。

これが清めの線香である。

持ってきた空の線香に火を点けたご婦人たち。



二人そろってその場で手を合わせて拝む。

先祖さんを迎えた二人は自宅に戻っていく。



清めの線香は川堤に挿したままにしておいて戻っていく。

川堤は何人かの人たちがいる。

同じように清めの線香を立てて拝んでいる。



家族揃ってきている人たちもいる。

見かけた人たちは何組もいる。

北の地蔵尊の当番の婦人が云っていた時間帯は午後5時。

今まさに集中しているのである。

取材・撮影を許可してくださった婦人が云う。

我が家ではアラタナを祭っているというのだ。

なんなら見てくださっていいですよと云ってくれた。

アラタナは8月7日に祭壇を組んで祭っている。

アラタナは新仏。

しかも、である。

新仏は旦那さんだというのだ。

辛い状況であるにも関わらず、たまたま出合った私に撮ってくださいと頼まれるTさんは82歳。

一緒に先祖さんを迎えたMさんと別れてお家に向かう。

Tさんの話しによれば、8月14日は融通念仏妙法寺住職が各家にやってきて先祖供養をしてもらう。



今年は5軒もあったというアラタナがある家は8月17日にタナアゲ(棚上げ)をする。

昔は五つの小さな葉に供えていた御供。

今は大きなハスの一枚葉に盛って供える。



この日に供えた御供はサツマイモ、ナスビ、ウリ、トマト、ササゲマメ、カキ、ミカンにハクセンコウである。

その向こうにある線香立て。

先ほど川堤から大切に持ち帰った先祖さんを迎えた線香がある。

仏壇に火を点けたローソクを灯している。

小さな湯飲み茶わんは三つ。

朝、昼に白ご飯。

お皿は五杯もしていたそうだ。

8月7日は七日盆と云って妙法寺でお勤めがある。

そのときに2枚の経木に戒名を書いてもらった。



亡くなられた旦那さんの遺影を飾ったアラタナに数々のお供えがある。

ハスの葉に乗せたのは脚を付けたナスビとキュウリ。

キュウリは馬。

先祖さんは急いで戻ってきてほしいという願い。

ナスビは牛のようにノロノロを帰ってもらう。

いわゆる精霊牛・馬である。

中央にあるのは5品の御膳。

アラタナの御膳は仏飯にお茶。

ナスビの漬物にジャコと炒めたトウガラシ、ナスビのおひたしだ。

その御膳にオガラ(アサガラ)の箸も添えている。

その横に立てたのはオガラ(アサガラ)の梯子。

梯子の上には旦那さんの戒名経木が2枚。



水鉢にシキビを浸けていた。

Tさんが云うには御膳は満中陰志にでる。

本膳のときはカシワンもあればオヒラもある。

アゲやゼンマイ、シイタケの煮ものもある。

いろんなことを話してくれるTさんは1月中旬には念仏講があるという。

ここらは伊勢講もあるし六斎講もある。

六斎講の寄り合いには掛軸を掲げる。

岡崎に2枚ある掛軸だそうで、三界万霊の掛軸のようだ。

連れだって先祖さんを迎えたMさんの他、Kさんらとともに安堵町の灯芯、特産品を受け継ぐ灯芯保存会の一員として活動しているそうだ。

短時間であったがアラタナさんを祭るT家にお礼を述べて再び岡崎川の川堤に向かう。

時刻は午後6時を過ぎていた。

そこにあった数本の線香は火が点いていた。



先祖さんを迎えた痕跡である。

岡崎には先祖さんの送り迎えに持っていく線香について説明した史料がある。

それによれば1本は道中清めの線香で清浄香(しょうじょうこう)である。

これは川堤に立てた線香である。

その場で火を点けて持ち帰る線香は2本。

1本は先祖さんの迎えの線香で名を佛使香(ぶっしょうこう)と呼ぶ。

もう1本は先祖さんの食べものに添える飲食香(おんじきこう)とあった。

(H28. 8.13 EOS40D撮影)

岡崎の北地蔵尊で聞く

2017年03月22日 08時49分03秒 | 安堵町へ
東安堵の大寶寺六斎講のナナトコ参りを拝見して再び戻ってきた岡崎川の川堤。

昼間に拝見したカンピョウ干しの景観があった北の地蔵尊である。

平成19年の8月13日のことである。

夕方の4時ころに遭遇した先祖盆宵迎えがある。

場は東安堵の東の辻。

道路際の歩道のところに線香を灯して先祖さんを迎えていた。

ここ岡崎も同じような時間帯に村の人が来るのでは、と思って散策していたら堤防沿いの道端に人がおられた。

祠の前に腰を屈めた婦人は北の地蔵さんの当番さん。

7月23日の地蔵盆は南の地蔵さんで行っている。

ここは北の地蔵さん。

地蔵盆は共同で5人が当番にあたっている。



婦人がいうには今夕は岡崎川堤の南北地蔵尊辺りで各戸が先祖さんを迎えるという。

火点けに清めの線香を1本持って岡崎川に出向く。

その場で別に持ってきた2本の線香に火を点けて自宅に戻るが、清めの線香は川堤に挿したままにしておくそうだ。

迎えは午後4時ころから始める家もあるが、たいがいは午後5時辺り。

家に招いた先祖さんは翌々日の15日に戻っていく。

夕方になれば仏壇のオヒカリから移した3本の線香を迎えた川堤に挿しに行くという。

この日の朝はお寺さんが各戸に参ってくださる。

そのお寺さんは妙楽寺だと思う。

平成24年の11月9日に電話が鳴った。

自然観察会でお世話になっているHさんが融通念仏宗派の妙楽寺で行われているブゼンサンがあると話していた。

ブゼンサンは豊前さんであろうか、岡崎川を改修した豊前守溝口信勝の報恩供養があるらしいと話していたので調べにきたが、寺本堂の改修工事で関係者が見つからず断念した。

そのときに集落を歩いて見て廻ったら南の地蔵尊があった。

平成25年の7月22日に訪れた際に見た地区の行事案内。

南の地蔵盆は7月23日に行われると掲示していた。

話題を先祖さん迎え・送りに戻そう。

婦人の話しによればお供えにナンキンやカンピョウ、オアゲサンなど3品、5品、7品。

詳しく聞けなかったのでわからないが、仏壇に飾ったお供えのすべては捨てるそうだ。

捨てるのは辛いが現代はゴミ収集車。

先祖さん送りに作った弁当やオニギリも捨てていたというのはかつての在り方。

たぶんに岡崎川に捨てたと思われるのだが・・・。

そこで話を聞いていた川向うの岸に人が動いた。

なにやら手にしているのは・・と思って急いだが、人はいなくなった。

橋が架かっていた場のすぐ近くに痕跡があった。

何かを燃やしたような痕跡である。

線香の灰もあった。

今、まさに先祖さんを迎えられたのであるが、聞取りはできなかった。

先ほど話してくれた婦人が云うには橋の向こう側は出垣内。

岡崎は北、東、西、南垣内の四垣内。

出垣内を入れて五垣内になる。

(H28. 8.13 EOS40D撮影)