探し求めていた「ナルカナランカ」があった。
大和郡山市小林町在住の婦人の出里は宇陀市菟田野佐倉だった。
実家に住んでいたころの正月七日。
七草粥を作って食べていた。
その粥を自宅にあったカキの木の叉にナタを当てて「なるかならんか」と兄がすれば、妹の婦人は「なります なります」と応えたと云う。
山添村大塩に住む男性は「ナルカナランカ」を1月15日にしていたと云う。
三叉になっているカキの木にナタを当てて木肌の皮を剥く。
傷を付けるような感じだったと話していた。
姉さんがナタで伐って「なるかならんか」と声をあげれば、弟の男性は「なります」役を勤めたと云う。
5歳の頃の体験だからおよそ60年以上も前のことである。
「ナルカナランカ」の作法をしたカキの木にはぜんざいのモチをくっつけた。
木肌に虫が入る行為だと云っていた。
2月の年越しの日にオカユ(粥)を炊いた。
庭の木に傷をつけて「ナルカナランカ」をしたと話していたのは天理市藤井町に住む婦人だ。
その日はとんどの日であったのか記憶が曖昧だと云っていた。
宇陀市本郷で聞き取りした様相も同じような作法であった。
どんどの火は家へ持って帰って竈にくべた。
その火で夕ご飯を炊いた。
ぜんざいのようなお粥だったそうで、モチを入れると云っていた。
小豆も入っていたというからアズキ粥であろう。
そのアズキ粥を二叉になったカキの木の下に置く。
そこをナタで傷を付けた伐り口に向かって「なるか ならんか」の台詞を云った。
そうすれば、相方は「なります なります」と応えた。
「ならぬ」という応えはないようだった。
アズキ粥を伐り口に置くのは消毒だと話される行為は、子供心にとても不思議なものだったと話していた。
奈良市都祁南之庄に住む男性も「ナルカナランカ」を覚えていると云う。
カキの木になにかを供えていたようだという記憶は子供の頃。
年寄りがしていたときに掛けた台詞は「なるかならんか」だったそうだ。
天理市の苣原でもそういう行為をしていたことを聞いたことがある。
ハシにカラスのモチ(カキの木団子とも)を付けて子供が「なりますか なりませんか」と云って、足で蹴っていたことだけを覚えていると話していた。
奈良市別所町に住む婦人もそのような行為を覚えていると云う。
正月七日の七草の日だった。
一人の子どもがカキの木にナタを「チョンしてなるかならんか」と声をあげた。
そうすれば、もう一人の子供が「なります なります」と返した。
親が「ナルカナランカをしてこい」と云われたのでそうしていたそうだ。
そのときにはカキの木の下にオモチやホシガキ、ミカンを供えたという。
今年の15日、とんど火で炊いたアズキ粥調査で立ち寄った桜井市箸中。
老人会役員の一人が話していた「ナルカナランカ」。
男性の出里は山添村だ。
1月7日の斜め上方にある山の神さんに参ってカギヒキをしていた。
「エンヤラソー オレノトコロノクラニ モッテコイ」と掛け声かけて「ヨイショ ヨイショ」していた。
その日に家にあったカキの木にナタを当てた。
「なるか ならんか ならんかったら きってしまうぞ」と云って伐り口にアズキ粥を置いたと話すが大字は教えていただけなかった。
こういった行為を民俗行事では実成りを良くする「成り木責め(なりきぜめ)」と呼んでいる。
7日の山の神参りの際に行われている地域もあれば、小正月のとんど火の翌日にされる地域に分かれているものの同じ行為である。
史料によれば、田原本町矢部、天理市楢町や御杖村・曽爾村にも存在していた。
現在はどこでも見られなくなった「成り木責めの風習は今でもしてるんや」と話していた山添村の男性。
家の行事の記録係として、度々伺っている。
かつては小正月の15日の朝であったが、ハッピーマンデー施行後は成人の日になった。
垣内単位で行われるとんどの前に出かける。
山の上のほうにあるカキの木に向かう。
昨年は40cmも積もった雪で難儀されたが実成りは豊作だった。
「ナルカナランカをやっていて良かった」と云う。
カキの木は何本かあって、吊るしの渋柿、江戸垣、富有垣などだ。
今年は「これにするか」と云って持ってきたナタで伐り口をつけるカキの木はこれまで何度かされていた。
その下辺りにナタを打ちこむ。
カッカッとナタが当たる音が聞こえる。
伐り口が当たれば白い肌が露出する。
そこに炊いたアズキ粥を少しずつ、箸で摘まんで置く。
「ナルカナランカ」の台詞は覚えておられないが、おばあさんがおましていたので今でもこうしていると話す。
「もう一本もしておこう」と傍にあったカキの木に移動した。
そこでも同じようにナタで伐り込んでアズキ粥をおます。
廻り一面は男性が所有する茶畑だ。
向こう側にある残り柿の木をバックにアズキ粥・皿、箸、ナタを入れ込んで撮った。
眺望は山村ならではの地。
美しい風景に思わずもう一枚撮っておいた。
残り柿をバックに伐り口に供えたアズキ粥も撮った。
「ナルカナランカ」に出かける直前にされた行為がある。
大晦日に立てたホウソ(ナラ)の木である。
家のオトコシ(男)の人数分を立てる。
そこは門松立ての場ではなく納屋辺りだ。
ここにもナタで伐り口をつけてアズキ粥を供える。
ホウソの木は正月前に伐って立てた。
注連縄を結って小松も立てた。
注連縄は七・五・三でウラジロやユズリハも添えて、カキの木につらくって掛けたと云う。
「ナルカナランカ」も含めて、なぜにそうした行為をするのか、また、何を意味するのか伝わっていないが、毎年こうしてきたと云う。
昨年に立てたホウソの木は割り木にして竃の火にくべて雑煮を炊いた。
それはオクドさんの火種であって、不浄な火には使わない。
今では竃もなくなり、とんどに燃やすようになった。
当時はアズキ粥を炊いて、モチは神棚や仏壇に供えていたと云う。
男の人数分というホウソや割り木にして竃の火種で思い出したのは室生下笠間で拝見したオンボさんだ。
男性の母親は下笠間が出里であった。
もしかとすれば、であるが、母親が実家でしていたことが、同家で伝えられたと思うのである。
「ナルカナランカ」をされた茶畑から下って垣内のとんどが始まった。
竹を伐り出して火を点ける。
そのころにやってきた垣内の人。
家で飾った注連縄を持ってきた。
勢いがついた火に投入する。
竹で櫓を組むわけではなく、そこらにある竹を燃やす。
その時間帯は上出、下出、井ノ出谷などの垣内もとんどをしているが、こちらの垣内は3軒。
習字焼きをする子供もいない。
下火になったとんどで家から持ってきたモチを焼く。
燃えた竹はキツネ色になった部分を10cmぐらいに切り取って持って帰る。
味噌桶の蓋に置いておけば味噌の味が良くなると云う。
味噌の色が変色せず、味が落ちないというまじないのようだ。
とんどの刃灰も持ち帰って田畑の撒くと云う。
注連縄を燃やした男性が話したフクマル。
家の前の辻に出てワラに火を点けて燃やした。
その火で松明に火を移した。
「東のクラ 西のクラ」に向かってお祓いをして家に入ったと云う。
それをしていたのはお爺さんだった。
父親はその行為を継承することがなかったから詳しいことはそれ以上判らないと話す
「ナルカナランカ」ととんどの取材を終えて下った地にもう一人の男性と出合った。
同家にも「ナルカナランカ」をしていたが、それはお婆さん。
カキの木をナタで傷をつけてアズキ粥を供えていたと云う。
そのときの台詞は「なるかならんか ならんならな ちょちぎる」だったと思い出してくれた。
(H26. 1.13 EOS40D撮影)