マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

村屋坐弥冨都比売神社の小豆粥御供

2014年06月30日 07時19分09秒 | 田原本町へ
正月元旦に供えた村屋坐弥冨都比売神社の三宝飾り。

15日の朝には三宝飾りに盛ったお米はアズキ粥にして炊く。

それをビワの葉に乗せてそれぞれの神さんに供えると守屋宮司が話していた。

その様相を拝見したく立ち寄った神社には、そこらじゅうに「あるある」である。

境内の石段、拝殿の表と裏、本殿(2)と石段。



末社の恵比須社、村屋神社、物部神社にも本殿や石段に供えてあった。

「征清討壹戦死病没紀念碑」や蔵の前にも供えていたアズキ粥は、すべてがビワの葉に載せていた。



キリコモチと思われる四角いモチも添えていた。

(H26. 1.15 EOS40D撮影)

豊井町小正月の苗代御供

2014年06月29日 09時08分54秒 | 民俗あれこれ
昨年の1月18日にたまたま見つけた田んぼのススキ。

荒起こしをした場にカヤススキがぽつんとあったのだ。

なんであろうか、と思って傍まで歩み寄った。

そこにはアズキ粥と白いもので包んでいたオカガミがあったのだ。

それから数日かけて田んぼの主を見つけて話を伺った。

田主が云うには「1月15日の朝におましている」である。

その状況に変化があるのか、ないのか、確かめたくて、この日、仕事帰りに立ち寄った豊井町の田んぼ。

立ててあったカヤススキの本数はおよそ15、6本である。

傍には一合枡に盛ったアズキ粥と千切った一個のモチもあった。



横には昨年同様に白い布で包んだオカガミもある。

その場は苗代作りの場である。

昨年の5月8日に苗代にイロバナやケッチン行事で祈祷された2本の松苗を立てていた。

若干移動していたが、苗代の場である。

この日、田んぼにご主人はおられなかったが、昨年に聞いた話しでは「家を出る前にカヤススキの茎を箸代わりにして一口、二口、家族が食べてから、苗代場に立てる」と云っていた。

前日に御所鴨神下垣内の男性が話していたカヤススキの箸がある。

家族が5人おれば、束にして10本を立てたということを考えれば、豊井町の田主家もそうであろうと思う本数。

家族はおそらく8人であろう。

家族の喰いぶちの稲作、今年も豊作であってほしいという願いであるような気がした。

(H26. 1.15 EOS40D撮影)

日清どん兵衛きつね

2014年06月28日 08時41分14秒 | あれこれインスタント
仕事を終えて小正月の調査に出かける。

仕事が終わったのは12時半。

お腹がもたないと思ってカップ麺を車に積んでいた。

今回は日清のどん兵衛きつね。

お湯を入れて5分間待つ。

焼きそばを食べたいと思っていたが、うどんにしたのだ。

この日の昼間はなぜか温暖。

気温も高くなった。

アツアツのうどんで汗も出る日だ。

カップいっぱいに広がったきつね揚げ。



でっかいのである。

スープは後入れにした。

細かいネギはすぐに戻る。

麺はつるつる。

喉越しが良い。

出汁はカツオ味であろう。

日清のカップ麺の味は無難な味。

特別でもない万人向きである。

(H26. 1.15 SB932SH撮影)

東佐味茶屋出垣内のとんど

2014年06月27日 07時20分37秒 | 御所市へ
鴨神下垣内住民に教えてもらった東佐味のとんどは3カ所で行われている。

すでに北垣内・南垣内の2カ所は火点けされて残り火。

時間的にも間に合わないと判断して思ってモーテル付近に出かけた。

平成5年辺りに建てられたモーテルは「御所ホテル リトルチャペルクラシック」である。

それより僅か北側は風ノ森だ。

そのモーテル西傍に立ててあったとんどは茶屋出垣内。

とんどの横には門松もあった。

しばらくすれば、何人かがやってきた。

高鴨神社に飾っていた門松をいただいて一緒に燃やすと云う。

当番の人が持ってきたゴゼン(御膳)はお神酒、洗い米に塩だ。



導師が前に立って大祓えの詞を3度唱和された。

とんどを立てた通り道はアスファルトになっているが、古来行き交う人が多かった街道。

面影は見られないが、高野街道だと云う。

当時往来する旅人に摂待する茶屋を営んでいた家は今でも屋号は「まっしゃ」と呼んでいる。

名字が益田やから「まっしゃ」で通っていると話すのは弥勒寺の檀家総代の一人。

毎年、4月18日に山の上にある峰山百体観音で観音祭をしていると云う。

「今年は奇麗にしたので見にきてくれや」と話す百体観音は西国・坂東・秩父の写し霊場。

103体もあるという観音さんはレンガ造りの祠で囲っていると云う。

「落慶法要をしますんや」と云っていた。

かつては峰山こと、観音山の広場で稽古した村芝居もしていたと云う観音祭。

相撲もあった祭りはそうとうな賑わいであったと話す時代は昭和26年頃の様相である。

とんどの煙がなびく右側の山がそうである。

子供が少なくなった茶屋出垣内のとんど。



昔しは小学校が終わった夕方ぐらいに行っていたが、今ではそれより早い15時に点火をすると云う。

かつては子供が大勢やってきた。

とんどの火に習字の書を翳して天に向かって飛ばした。

それは「天筆(てんぴつ)」の名があると云う。



燃えたとんどの火はランタンで持ち帰る人もおられた。

以前は提灯が多かったようだが、今は僅か数人になったと云う。

下火になれば先を割いた二股の竹にモチを挿して焼いていく。



その場で食べるモチ焼きである。

「そういえばモチ焼くときに「ブトノクチ カノクチ 云々」とかの台詞があって、千切ったモチをとんどに入れてたな」と話す人もおられたが行為はなかった。

72歳の男性が云うには、「持ち帰ったとんど火で荒神さんや竃の神さんにおました。翌朝はアズキ粥を炊いて一年間の無病息災を祈った。穂があるカヤススキを刈り取ってきて、それを箸代わりにアズキ粥を食べている」と云う。

「アズキ粥はビワの葉を小皿代わりに載せて、実が成るカキとかミカンの木の下に供えている」とも云う。

「おばあさんがおった頃は門屋の両脇にもおました」と話すとんどとアズキ粥の風習だ。

「アズキ粥を炊いているときは鍋蓋から噴きこぼれないようしやんとあかん。大風が吹いて米の出来が悪くなる」とおばあさんに云われたことを話してくださった。

そのおばあさんは田んぼの苗代作りをする場に12本のカヤススキを立てていたそうだ。

それはしなくなったが、11日の早朝にはオカガミを苗代場に供えていると話す。

ここでもとんど火とアズキ粥の風習があったことを知ったのである。

男性が話した正月のモチ搗き。

12月30日に杵で搗いたモチは高鴨神社に供えると云う。

そういう話しを聞いていた16時頃、高台で煙が上がった。

高天(たかま)でもとんどが始まったようだ。

(H26. 1.14 EOS40D撮影)

鴨神下垣内のとんど

2014年06月26日 08時20分31秒 | 御所市へ
西佐味水野垣内を下った中出垣内のとんどは既に終わっていた。

そこから道なりに下っていけばとんどの煙が見えた。

そこはどこだろうと思って着いた地は鴨神下垣内。

南小田(南幸田かも)と呼ぶ小字である。

たった今、燃え尽きたばかりだと云う下垣内とんどは周りに竹を打ちこんで支えていたようだ。

今では数人となった大祓えの詞を3度奏上したあとで、とんどに火点けをしたと云う。

火点けの方角は恵方。

この年は東北東だった。

とんどで暖をとっていた村の人が話すかつてのとんどの在り方。



「とんどの残り火を持ち帰って朝にアズキ粥を炊いた。ビワの葉に載せて神さんに供えた。アズキ粥は穂付きのカヤススキを箸代わりに用いて食べた。一口、二口ぐらいやった。田んぼ(苗代の場)にカヤススキをその場に立てた。家族が5人おれば、束にして10本を立てた。一人一膳ちゅうことや」と話す。

「アズキ粥は食べるだけで田んぼには持っていかなんだ」と話した長老は83歳。

戦後間もないころに止めたと云う。

長老曰く、「今ではせんようになったが、とんど火でモチを焼いた。「カノクチ ブヨ(ブト)ノクチ ハチノクチ」と云いながら千切ったモチをとんどに投げ込んでいた。蚊とか、ブヨ(ブト)に刺されると叶わんのでまじないをしていた」と話す。

「小学生の頃は書き初めをした習字の書も燃やしていたが、今では何もせんようになった」と云う。

そのようなかつての風習を聞いていた時間帯だ。



「あっちの方でもとんどするんや」と指をさした処から煙が上がった。

場所は東佐味である。

「もう一つがあるはずや」と云っている最中に煙が上がった。

最初の方が北垣内で、次は南垣内のようで14時に点火したもようだ。



北垣内は陸橋の手前。弥勒寺付近のようである。

「東佐味はもう一つあるんや」と云う。

「モーテル右側にあるもやもやとしたもんが見えるやろ」と云われて急行した。

(H26. 1.14 EOS40D撮影)

西佐味水野垣内のとんど

2014年06月25日 07時23分29秒 | 御所市へ
五條市の取材を終えて立ち寄った御所市西佐味の水野。

これまで山の神や弁天さんのイノコを取材した処である。

水野垣内では正月初めにシンギョもあれば、観音さんもある。

今ではたったの4軒で営む水野の行事の廻り当番がぜんぶやってきたという婦人。

とんどにはゴゼン(御膳)をおまして般若心経を唱えると話していた。

年寄り講中には寒さが堪える。寒くならないうちに行いたいと申し合わせて、この年は例年より1時間も繰り上げて始めた。

水野から見渡す東の山脈。

東吉野村・川上村・天川村辺りである。

連なる山脈は標高1700mから1900m級。

山間に積もった雪で神々しく見える。

水野の弁天さんを祀る向かい側にあるため池堤でとんどを組む講中。

「人手がなんせ少ないからたいへんですわ」と話しながら組んでいた。

当地在住の高鴨神社の宮司も講中の一人。

「支え棒を持ってきた」と云って倒れないように組む。



ゴゼンの御供はタイ一尾、コーヤドーフにブロッコリーだ。

ローソクに火を灯して一同が並んだ。



導師は宮司が勤めて、一同は大祓えの詞を唱和する。

そうして火を点けたとんど。

この年の恵方は東北東の方角やと云いながら、なぜか一言主神社のしおりを参照して「あっちや」と示した。

火を点ける人は特に決まっていないが、この年は長老が勤めた。



またたくまに・・・ではなく、なぜか広がらないとんどの火。

何本も重ねたしのべ竹を括ったのはフジツル。

これを10束ぐらいでとんど組みをされたのだが、湿っていたので広がらない。

その間には供えたお神酒をいただいて燃えるさまを見る講中たち。

もくもくと煙をあげたと思った瞬間に倒れた。



鏡のように池に映る姿を撮りたかったが、そうは上手くはいかない。

ほぼ同時間に始まった西佐味の中出垣内は「ここから下にある」と云っていたので急行したが、結局判らずであった。

隣村の大西・福西は二日前に行われた。

そこではお供えはなく、「ただ燃やすだけや」と話していた。

とんどは水野の他に国道沿いの鳥井戸や新五百家もあるらしい。

(H26. 1.14 EOS40D撮影)

つるまる饂飩店で昼食

2014年06月24日 08時33分58秒 | 食事が主な周辺をお散歩
取材を終えて無性にお腹が減ってきた。

午後の予定は決まっていないが腹ごしらえは必須だ。

いつもの通り道になる針テラスに車を停めて一目散にドアを開けたのはつるまる饂飩店。

何度も入店して食べる味に惹かれていくのだ。

注文したのはぶっかけうどん。

店員さんが尋ねた。

「太いのにしますか、それとも細い麺」。

今まで問われたこともなかった麺の太さ。

試しに頼んだ細い麺。

できあがりは早い。



いつものようにネギ、カツオ削りぶしにおろしダイコン。

トッピングもいつも通りで天カスにおろし生姜。

これで一杯が280円。

今日はお腹が空いていたので180円のとり飯の中を頼んだ。

小サイズで120円だが満足できない量ゆえ中サイズをもらった。

合計でたったの460円。

ぶっかけうどんはいつも通りでとにかく美味しい。

出汁に馴染んだ麺はシコシコ。

細いがコシもある。

おろし生姜も入れたがそれほど決め手にはならないが美味しいのである。

満足な味を噛みしめてとり飯をいただく。

パックに納まったとり飯の一口目。

これは美味い極上の味。

鶏肉が味を引き締めているのだろうか、それとも醤油味が決め手なのか、コクがあってとにかく美味いの一言である。

箸が進むくんである。

とり飯の具材は鶏肉の他、ゴボウ、ニンジンも入っていた。

ほかほか味のとり飯は途中で食べにくくなった。

パック詰めのせいでしょうか、残り少なくなれば箸に絡んでくれないのだ。飯椀であればがっつけるのだが・・と思った。

2食とも大満足になった昼食時間。

小雪が舞っていたが、身体も心もほくほくである。

(H26. 1.13 SB932SH撮影)

ナルカナランカ

2014年06月23日 07時21分49秒 | 山添村へ
探し求めていた「ナルカナランカ」があった。

大和郡山市小林町在住の婦人の出里は宇陀市菟田野佐倉だった。

実家に住んでいたころの正月七日。

七草粥を作って食べていた。

その粥を自宅にあったカキの木の叉にナタを当てて「なるかならんか」と兄がすれば、妹の婦人は「なります なります」と応えたと云う。

山添村大塩に住む男性は「ナルカナランカ」を1月15日にしていたと云う。

三叉になっているカキの木にナタを当てて木肌の皮を剥く。

傷を付けるような感じだったと話していた。

姉さんがナタで伐って「なるかならんか」と声をあげれば、弟の男性は「なります」役を勤めたと云う。

5歳の頃の体験だからおよそ60年以上も前のことである。

「ナルカナランカ」の作法をしたカキの木にはぜんざいのモチをくっつけた。

木肌に虫が入る行為だと云っていた。

2月の年越しの日にオカユ(粥)を炊いた。

庭の木に傷をつけて「ナルカナランカ」をしたと話していたのは天理市藤井町に住む婦人だ。

その日はとんどの日であったのか記憶が曖昧だと云っていた。

宇陀市本郷で聞き取りした様相も同じような作法であった。

どんどの火は家へ持って帰って竈にくべた。

その火で夕ご飯を炊いた。

ぜんざいのようなお粥だったそうで、モチを入れると云っていた。

小豆も入っていたというからアズキ粥であろう。

そのアズキ粥を二叉になったカキの木の下に置く。

そこをナタで傷を付けた伐り口に向かって「なるか ならんか」の台詞を云った。

そうすれば、相方は「なります なります」と応えた。

「ならぬ」という応えはないようだった。

アズキ粥を伐り口に置くのは消毒だと話される行為は、子供心にとても不思議なものだったと話していた。

奈良市都祁南之庄に住む男性も「ナルカナランカ」を覚えていると云う。

カキの木になにかを供えていたようだという記憶は子供の頃。

年寄りがしていたときに掛けた台詞は「なるかならんか」だったそうだ。

天理市の苣原でもそういう行為をしていたことを聞いたことがある。

ハシにカラスのモチ(カキの木団子とも)を付けて子供が「なりますか なりませんか」と云って、足で蹴っていたことだけを覚えていると話していた。

奈良市別所町に住む婦人もそのような行為を覚えていると云う。

正月七日の七草の日だった。

一人の子どもがカキの木にナタを「チョンしてなるかならんか」と声をあげた。

そうすれば、もう一人の子供が「なります なります」と返した。

親が「ナルカナランカをしてこい」と云われたのでそうしていたそうだ。

そのときにはカキの木の下にオモチやホシガキ、ミカンを供えたという。

今年の15日、とんど火で炊いたアズキ粥調査で立ち寄った桜井市箸中。

老人会役員の一人が話していた「ナルカナランカ」。

男性の出里は山添村だ。

1月7日の斜め上方にある山の神さんに参ってカギヒキをしていた。

「エンヤラソー オレノトコロノクラニ モッテコイ」と掛け声かけて「ヨイショ ヨイショ」していた。

その日に家にあったカキの木にナタを当てた。

「なるか ならんか ならんかったら きってしまうぞ」と云って伐り口にアズキ粥を置いたと話すが大字は教えていただけなかった。

こういった行為を民俗行事では実成りを良くする「成り木責め(なりきぜめ)」と呼んでいる。

7日の山の神参りの際に行われている地域もあれば、小正月のとんど火の翌日にされる地域に分かれているものの同じ行為である。

史料によれば、田原本町矢部、天理市楢町や御杖村・曽爾村にも存在していた。

現在はどこでも見られなくなった「成り木責めの風習は今でもしてるんや」と話していた山添村の男性。

家の行事の記録係として、度々伺っている。

かつては小正月の15日の朝であったが、ハッピーマンデー施行後は成人の日になった。

垣内単位で行われるとんどの前に出かける。

山の上のほうにあるカキの木に向かう。

昨年は40cmも積もった雪で難儀されたが実成りは豊作だった。

「ナルカナランカをやっていて良かった」と云う。

カキの木は何本かあって、吊るしの渋柿、江戸垣、富有垣などだ。

今年は「これにするか」と云って持ってきたナタで伐り口をつけるカキの木はこれまで何度かされていた。



その下辺りにナタを打ちこむ。

カッカッとナタが当たる音が聞こえる。

伐り口が当たれば白い肌が露出する。



そこに炊いたアズキ粥を少しずつ、箸で摘まんで置く。

「ナルカナランカ」の台詞は覚えておられないが、おばあさんがおましていたので今でもこうしていると話す。

「もう一本もしておこう」と傍にあったカキの木に移動した。



そこでも同じようにナタで伐り込んでアズキ粥をおます。

廻り一面は男性が所有する茶畑だ。



向こう側にある残り柿の木をバックにアズキ粥・皿、箸、ナタを入れ込んで撮った。

眺望は山村ならではの地。

美しい風景に思わずもう一枚撮っておいた。



残り柿をバックに伐り口に供えたアズキ粥も撮った。

「ナルカナランカ」に出かける直前にされた行為がある。

大晦日に立てたホウソ(ナラ)の木である。

家のオトコシ(男)の人数分を立てる。

そこは門松立ての場ではなく納屋辺りだ。

ここにもナタで伐り口をつけてアズキ粥を供える。



ホウソの木は正月前に伐って立てた。

注連縄を結って小松も立てた。

注連縄は七・五・三でウラジロやユズリハも添えて、カキの木につらくって掛けたと云う。

「ナルカナランカ」も含めて、なぜにそうした行為をするのか、また、何を意味するのか伝わっていないが、毎年こうしてきたと云う。

昨年に立てたホウソの木は割り木にして竃の火にくべて雑煮を炊いた。

それはオクドさんの火種であって、不浄な火には使わない。

今では竃もなくなり、とんどに燃やすようになった。

当時はアズキ粥を炊いて、モチは神棚や仏壇に供えていたと云う。

男の人数分というホウソや割り木にして竃の火種で思い出したのは室生下笠間で拝見したオンボさんだ。

男性の母親は下笠間が出里であった。

もしかとすれば、であるが、母親が実家でしていたことが、同家で伝えられたと思うのである。

「ナルカナランカ」をされた茶畑から下って垣内のとんどが始まった。

竹を伐り出して火を点ける。

そのころにやってきた垣内の人。

家で飾った注連縄を持ってきた。



勢いがついた火に投入する。

竹で櫓を組むわけではなく、そこらにある竹を燃やす。

その時間帯は上出、下出、井ノ出谷などの垣内もとんどをしているが、こちらの垣内は3軒。

習字焼きをする子供もいない。

下火になったとんどで家から持ってきたモチを焼く。



燃えた竹はキツネ色になった部分を10cmぐらいに切り取って持って帰る。

味噌桶の蓋に置いておけば味噌の味が良くなると云う。

味噌の色が変色せず、味が落ちないというまじないのようだ。

とんどの刃灰も持ち帰って田畑の撒くと云う。

注連縄を燃やした男性が話したフクマル。

家の前の辻に出てワラに火を点けて燃やした。

その火で松明に火を移した。

「東のクラ 西のクラ」に向かってお祓いをして家に入ったと云う。

それをしていたのはお爺さんだった。

父親はその行為を継承することがなかったから詳しいことはそれ以上判らないと話す
「ナルカナランカ」ととんどの取材を終えて下った地にもう一人の男性と出合った。

同家にも「ナルカナランカ」をしていたが、それはお婆さん。

カキの木をナタで傷をつけてアズキ粥を供えていたと云う。

そのときの台詞は「なるかならんか ならんならな ちょちぎる」だったと思い出してくれた。

(H26. 1.13 EOS40D撮影)

稲渕ドウコウのオコナイ

2014年06月22日 09時03分38秒 | 明日香村へ
明日香村稲渕で行われる「ツナカケ」行事には大勢の観光客が訪れて賑やかになるが、その稲渕で「ドウコウ」と呼ばれる講中の行事があることを知る人はおそらくいないだろう。

まったくといっていいほど知られていない「ドウコウ」の存在を知ったのは昨年の4月3日のことだ。

旧暦閏年に行われた庚申さんの「モウシアゲ」取材のお礼に再訪した際に、その場に居られた男性が話した「ドウコウ」の件。

「正月初めに立ち寄る龍福寺。昼ごろだ。前はトヤの家でいっぱい飲んでいた。「デン」と呼ばれる膳があった。負担を避けてトヤ家の廻りは止めた。4軒の営みは今でも変わらなく、お寺である。飛び石の石橋付近に生えているネコヤナギの木をとってくる。昔から所有する版木に墨をつけてお札を刷る。お札はネコヤナギに括りつけて祈祷をする。住職が唱える場は寺本堂でなく、境内にあるお堂だ。行事を終えたお札はネコヤナギとともに苗代に立てる」と云っていた。

それは正月初めに祈祷されるオコナイのように思える行事だと思えたのである。

その話しを聞いてからもう少し詳しいことを聞きたくて訪れた今年の正月三日。

教えて下さった84歳のTさんを訪ねた。

営みの場は龍福寺境内にある大日堂である。

大昔から使っている版木で刷ったお札をヤナギの枝に括りつけて寺僧侶が般若心経を唱えると話していた。

そのお札は苗代に立てるというのだから、間違いなく「オコナイ」の営みであると確信したのだ。

稲渕の龍福寺に到着、4軒(以前は7軒)の講中が参集した丁度のときであった。

寺僧侶に取材の目的を伝えてあがらせてもらった寺務所。

早速始まった講中の作業。

始めに版木刷りをする墨を摺る。

昨今のオコナイでは墨汁を使うことが多いがドウコウの在り方は墨を摺るから始まる。

しかも半紙の上から手で押さえるのではなく、バランを用いた丁寧なやり方だ。

かつては竃の煤を集めて、水で溶いて椀に入れ、ザラザラした感触の墨を筆で版木に塗っていたと云う。

版木の文字は「牛王 天徳山 寶印」。



側面にはうっすらと享保十一年(1726)の墨書が判読できた。

天徳山は龍福寺の山号であるが、今の宗派は浄土宗でご本尊は阿弥陀如来である。

無住寺だった時代もある龍福寺。

寺年代記を示すものがなく、詳しいことは判らないが、それ以前は真言宗であったかも知れないと僧侶は話す。

龍福寺の大日堂傍らにある層塔は天平勝宝三年(751)の記銘がある史石の竹野(女)王碑。日本最古の石塔を訪れる史跡めぐりの人たちは数多いが、行事を尋ねる人は皆無のようだ。

「牛王 天徳山 寶印」の書はごーさんのお札。

これに寶印を押すのだが、なぜだか黒色の墨汁である。



他所では朱印を押しているが、なぜだか黒色。

尋ねた結果は、「顔の上部の額に押すときはこちらを使う」と拝見した寶印は二種類。



写真左側が現在用いているやや小型の寶印で黒色、右側はかつて使っていた大型の寶印で朱色だ。

中央に置いたのは大昔に使っていたとされる木製の椀。

朱の色が残っていた。

一枚、一枚、講中の人数分のごーさんは寶印ではなく四角い角印に朱で押していく。



寺名であるのか、それとも、お札の記銘であるのか判らない角印である。

お札は予め準備でいておいた花芽付きのカワヤナギの木。

下部は皮を剥いで二股にしてある。

そこに四つ折りにしたお札を挟みこむ。



刷った枚数は講中の4枚であるが、一枚多めに刷ってくださって、カワヤナギに挟んだものをいただいた。

貴重なドウコウの行事の用具は、県立民俗博物館に寄贈したいと思った。

ドウコウの営みの場は数年前に本堂とともに改築されて落慶法要を済ませた大日堂だ。



ご本尊の前に供えたのは「オデン」だ。

Tさんはそれを「デン」と呼んでいた。

「デン」であるのか、「オデン」であるのか判らないが、おそらく御膳が訛ったようだ。



御膳は仏飯や調理膳のコーヤドーフ・アゲ・ニンジン・ホウレンソウ・サトイモ・シイタケの煮びたし椀がある。

豆腐の椀もあれば、煮豆のお平もある。

お酒も載せた「オデン」の下は高杯だ。

底面には、「天文十二年癸卯(1543)十二月十□本願主又四郎 大住□次郎 祢四郎」の朱塗り記銘があった。



近年において、新調された際に、もともとあった記銘年代・寄進者の名を記したようだとTさんは話す。

版木は享保十一年(1726)の290年前。

御膳の高杯は470年前のもの。

年代記銘で時代年が判明した貴重なドウコウのオコナイ用具に感動する。

30年ほど前に訪ねてきた県立民俗博物館の職員の願いで、民博の展示協力にドウコウ関係者が出かけたと云う。

図録があれば確かめてみたいと思った。

寺僧侶の前に立てた願文塔婆には「奉修祈願大日如来 天下和順 日月清明 風雨以時 災励不起 国豊民安 五穀豊穣 維持平成廿六年一月十二日 堂講中」の文字がある。

「ドウコウ」の呼び名は「堂講」であったのだ。

堂講のオコナイは神名帳の詠みあげもない祈祷法要だ。



真言宗派であれば神名帳の詠みあげなどがあるが、龍福寺は浄土宗であるゆえ、その在り方は見られない。

法要で終えると思っていたときのことだ。

おもむろに始まった当番(トヤ)の婦人が立った。

今では使っていない朱の椀と寶印を取り出して作法をする。



寶印を手にして、天、地、東、西、南、北に突きだす所作である。

このような作法は一昨年に拝見した山添村岩屋の宮さんの修正会とまったく同じである。

岩屋の修正会もオコナイの在り方である。

「エイ」「ヤー」と声を掛けることもない寶印の突きだし作法。

岩屋では魔除けの作法だと云っていた。

つまり村から悪病を追い出す作法なのである。

突きだした寶印は講中の額に当てる真似をする。

本来ならば朱を塗りつけて額に押すのであるが、それはしなかった。

稲渕の堂講の作法を拝見して同村にも修正会があったと実感した。

作法を終えれば、牛王寶印書を挟んだカワヤナギを講中に手渡す。

その渡し方が実にユニークであった。

後ろ向きになった当番の人は後ろにいる講中一人ずつにカワヤナギを手渡す。

当番の人がどれを選別したのか判らないようにしている作法だと云う。



オコナイの営みを済ませた講中は供えた酒を酌み交わす。

寺僧侶も注がれて〆の酒を飲む。

こうして営みを終えた講中は寺僧侶にお礼を述べて当番家に戻っていった。



法要を済ませた龍福寺。

かつては大日堂に飼っていた牛を連れてくる「うったきさん」があったと話した80歳の前住職。

「うったきさん」は牛滝祭り。

春先に牛を飼っていた村人が田んぼを耕した後に連れてきた。

牛は奇麗にして、大日堂に繋いでいた牛繋ぎの鉄輪に繋げていた。

改築するまでは牛繋ぎの鉄輪があったそうだ。

境内は狭いので、3、4頭ずつ。

順番を待つ牛もたくさんいた時代は前住職が子供の頃の様相だ。

供えたモチを持って帰っていく農家も多かった時代だったと話す。

(H26. 1.12 EOS40D撮影)

北妙法寺のツナクミ

2014年06月21日 09時08分17秒 | 橿原市へ
昭和59年から2年間をかけて調査記録した奈良県教育委員会発刊の『大和の野神行事』報告書がある。

それによれば、橿原市北妙法寺町で行われていた行事名はノガミサンと書かれていた。

ノガミの場はススツケ祭り(平成23年から中断中)をしていた地黄町より西へ数百メートルの地域だ。

かつて北妙法寺村は土橋村・中曽司村・地黄村・曽我村・五井村・寺田村・慈明寺村・大谷村・小槻村からなる高市郡真菅村に属していた。

明治22年(1889)のころである。

その後の昭和31年に市町村合併によって真菅村の村名は消滅したが、各村の名は橿原市の町名で継続された。

橿原市内に存続するノガミの行事は北妙法寺、地黄町、五井町、四条町、慈明寺町、見瀬町、古川町がある。

東坊城町は形式を替えて出垣内が復活させた。

調査報告書には忌部町もあった。

昭和32年頃には途絶えているというが、私が聞いた話しでは大谷町の八幡神社で農神祭と呼ぶ祭典があるらしい。

それはともかく北妙法寺のノガミサンは村の人曰くツナクミの名であった。

北妙法寺は本村で27戸。

昔からの旧村農家であれば18戸。

そのうちの5戸が専業農家になるそうだ。

旧村を囲むように西、南側は新興住宅地。

建築が増えるにつれて、屋就川(若しくは八釣川)から西側集落の旧村は見えなくなった。

地区の氏神さんは春日神社。

社殿傍に建つ公民館は村の寄り合いにも集まる場である。

この辺りは小字垣内。

昼過ぎともなれば村の男性たちが公民館横の集落道に集まって綱を組み始めた。

長老らが太く結った綱は蛇頭(じゃがしら)だ。

ワラ打ちをすることなく、3本組みに束ねた2本のロープを電信柱に括りつける。

それが蛇胴になる心棒。

三人がかりで結っていく。

藁束をその都度手渡して継いでいく。

三人が持っているのは二本のロープに三本拠り。



長いロープを受け持つ三人はその拠り方を見ながら、お互いが捻じれたロープを手渡していく。

ツナクミをする人たちは長老、年配者ばかりだ。

かつては1月7日がツナクミの日であったが、今では集まりやすい第二日曜日に移したと云う。

昔は綱を結う人とロープを持つ人が掛け合うように声があがっていたと話す。

30分ほどすればおよそ20mの長さの蛇の胴体ができあがった。



長老らが縄を結って作った蛇頭(耳・口もある)を胴体の先端に取り付けて、金属製の梯子にぐるぐる巻きで調えた。



一旦、ジャができあがって一旦は休憩。

公民館に上がって一服する間に子供たちが絵馬を墨書で書いていた。



描くのは牛の姿であるが、小学校低学年の子供の腕では牛に見える・・とも言えない絵馬が愛らしい。

隣についたお爺ちゃんがカマやクワを書いていく。

「奉納」の文字も墨書し、竹で作った幣も調える。

公民館でのひとときは春日神社の新嘗祭に供えたにごり酒やお茶で過ごす。

それは蛇に取り付けるのであるが、明日香村稲渕の行事取材に向かわなくてはならず、断念した。

調査報告書によれば調査年の3年前。

昭和56年頃であろうか。

今では旧村農家全戸の行事であるが、当時は輪番で廻る当屋制度があったようだ。

ワラを持ちよる家は当屋。

長い綱を結って組む際に仲間うちで巻きあったとある。

蛇ができあがれば集落南側を流れる屋就川上流にあるヨノミの木に巻き付ける。

その場に向かう道中では、年内に婿養子と嫁取りした家に出向いて土足で家まで上がり込んで家人に巻き付けたとある。

ジャは梯子に乗せて、当屋、アトサキ当屋、手伝い人らが担いでヨノミの木に巻き付けたようだ。

その場は村の入り口であると書かれていた。

ツナクミの日より二日後に再訪した北妙法寺。



胴体は幹周りが太くなったヨノミの木の下。

上の方には巻き付けた蛇頭がある。

蛇頭を揚げた方角はアキの方。



今年は東北東である。

そこには竹の幣と墨書された牛に農具の絵馬や奉納の書の重ね合わせが見られた。

ツナクミの際に話していた長老の回顧話。

当時は、蛇を巻きつけたままの人を近鉄電車付近にあった壕に放り込んだと話していた。

(H26. 1.12 EOS40D撮影)
(H26. 1.14 EOS40D撮影)