マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

腹ごしらえタイムのつるまるうどん

2012年05月31日 06時40分06秒 | 食事が主な周辺をお散歩
お腹が減っては午後からの取材に出かけられない。

長谷からはほど良い距離にある針テラス。

この日もたくさんの観光客が訪れていた。

3か月前も来た「麺之庄つるまる饂飩(うどん)」。

手軽に食事ができるのがありがたい。

この日も頼んだのはぶっかけうどんは280円だ。

写人がカキアゲを載せてくれた。

でっかいカキアゲで麺が見えなくなった。

(H24. 4. 8 SB932SH撮影)

長谷町日吉神社造営上棟祭

2012年05月30日 06時34分22秒 | 民俗あれこれ(ゾーク事業)
縁があって拝見することになった奈良市長谷町の日吉神社造営上棟祭。

神社は急な坂道を登ったところだ。

駐車場はあるものの、そこは氏子さんの場所。

しかも、当日は上棟祭に集まる家族も大勢でいっぱいになる。

ソトウジコも居るだけに相当な人数の祭りは20年に一度の村の大祭典。

街道沿いの集落付近に停めざるを得ない。

そこからは氏子が運転する車でピストン輸送。

そこへ登場した本日の役者たち。

山添村中峯山(ちゅうぶせん)の大神楽保存会の人たちだ。

ここでお会いするとは思ってなかった神波多神社天王祭りの演者たち。

獅子舞や地増方デンデンの笛吹きをされていたSさんもいる。

日吉神社の由来は定かでないが、近江の日吉神社の大山咋神を勧請、或いは口碑によれば、紀伊の国、熊野、権現に三十三度の参拝をした一人の僧が分霊を勧請したとも伝えられている。

上棟祭を営まれる神社には鳥居を繋ぐ紅白の綱を張っていた。

境内を埋め尽くす椅子の数は相当な数量だ。

受付を済ませたウチウジコにソトウジコたちはおよそ160人。

圧倒される村の人たち。

久しぶりに会う顔と顔に会話が弾む。

美しくなった神殿に朱塗りの築地塀も映える。

そこにはこの日の祭典日が記されている五色の御幣が立ち並ぶ。

また、槌打ちの儀式で用いられる槌もある。



白く塗られた槌にはカラフルな文様がある。

海老錠の絵であろう。

槌の両側の縁には五重の楕円模様。

当日は気にもかけなかった模様だが、よくよく見れば炎のように見える。

もしかとすればだが、それは宝印ではないだろうか。

同神社には神宮寺の塔尾寺が存在していた。

明治時代には廃寺となったが、その名残を示す牛玉宝印の模様ではないだろうか。

形がとてもよく似ている。

斎主の神職は二人。

ともに先月24日に誓多林の八柱神社で上棟祭を祭典されたお二人だ。

昨年の6月にチョウナハジメの儀式が行われた日吉神社。

それから10カ月に亘って神社を建て替えられた棟梁も並ぶ。

まずは神事。

始めに修祓。

そして降神乃儀、献饌、祝詞奏上が続く。

そのあとは棟梁によって執り行われる上棟祭の儀式に移る。

始めの儀式は曳綱乃儀。綱を曳いて棟木をあげる。

神殿が永く栄えるように、また、氏子たちが氏神さんと永く結びつき、縁を深くする意味合いがある曳綱の儀式である。

斎主から大御幣を受け取る棟梁。

神殿前の鳥居下に立つ。

紅白の綱を持つのは大人衆を先頭に氏子らが続く。



「エイ エイ エイ」と掛け声をあげた棟梁は大御幣を大きく左右左の順に上方へ向けて揚げて振りおろす。

そのとき大御幣はトンと音がする。

盤木の音だ。

それを聞いた氏子たちは「オー」と応えて綱を曳く。

その際には「エイ エイ エイ」と三度発声する。

曳綱の儀式で掛けられる「エイ」は「永」。

永く栄える仕草を氏子全員で行ったのである。

次に行われたのは槌打乃儀。

曳綱によって曳き上げられた棟木。

それを納める儀式が槌打乃儀である。

槌は9本。

副斎主から受け取る男性たちは老人衆。

それぞれの持ち場に着く。



神殿を囲うように組まれた櫓に上がる人、天照皇大神社、春日神社、八幡神社、稲荷神社それぞれの末社や鳥居上に着いた。

白い槌を抱える老人衆は棟梁の掛け声に合わせて槌を打つ。

「せんざーい とー」が発声されてトンと大御幣。

「オー」と応える老人衆は軽く槌を振りおろす仕草をする。

2回目は「まんざーい とー」で3回目が「えんえーい とー」となる掛け声は「千歳 棟」、「萬歳 棟」、「永々 棟」の目出度い詞なのだ。

続いて行われる弓引乃儀。

櫓に上がり本殿の表鬼門(東北)、裏鬼門(南西)に向かって矢を放つのは棟梁だ。

天の矢、地の矢を放つ悪魔を祓う儀式である。

次も棟梁の儀式。

矢を放った天(あま)地(つち)の四方(よも)の神に餅を供える散餅(さんぺい)乃儀である。

そして、寿詞(よごと)を進上する棟梁。

神殿に向かって長谷の大神さまの名を唱えて栄え祀る。

厳かに祝いの祝詞を進上された。

その後は再び斎主が執り行う神事。

玉串奉奠、撤饌乃儀、昇神乃儀で終えた。



しばらくすると片手にササラを持って登場した赤ら顔の天狗。

もう一方の手には棒がある。

それでササラを擦りながら現れた。

奉納神楽の始まりだ。



村人たち一人、一人に寄ってきては頭の上に捧げるササラ。

怖がって隠れてしまう子供もいるが大方は頭を下げて受ける、ありがたい祓いである。

この時間は大神楽の演者が登場する間の取り方でもあるが、祓い清める時間でもある。

そうして現れた神波多神社獅子舞保存会。

前回の上棟祭にも奉納された方々だ。

それから20年。

長谷の情景は少しも変わっていないという。

左右の立ち位置には鬼が立つ。

黒面と赤面の鬼はそれぞれの色衣装を身に付けている。



長老たちは前席の特別席。

笛や太鼓の音に合わせて神殿から下ってくる。

奉納を演じる場は境内。

鞘から剣を取り出して舞う獅子舞。

演戯に見入る氏子たちの視線は獅子舞に集中する。

剣を納めた獅子舞。



天狗がちょっかいをするように眼前に迫る。

ササラを打ち鳴らして獅子と舞う。

あたかも天狗が操っているように見える獅子が動く。

最後の演技はシデを鈴を持つ獅子踊りだ。

連獅子とも呼ばれる。

こうして目出度い日の目出度い奉納を終えれば造営に際しての祝いの言葉。

委員長、来賓、外氏子らの挨拶である。



そして鏡開き。

代表者は一斉に槌を打ち下して酒樽の口を開く。

祝いの酒が配られて乾杯した。

閉会の後は20年に一度の記念写真。

村に暮らす人々の明るい顔が収められた。

宮司、大工棟梁、板金、塗装、絵師らの名が記された「奉遷宮札」が置かれた仮の社。



祭典を終えた氏子たちは神さんに向かって拝んでいる。

この夜は20時から遷宮式。

仮の社へ一時的に遷されている神さんを元のお社に戻される。

関係者だけが集まって神事を執り行ったそうだ。

(H24. 4. 8 EOS40D撮影)

出雲の閏年の庚申トウゲ

2012年05月29日 08時08分29秒 | 桜井市へ
出雲の地でも閏年の庚申さんをされていると脇本のM氏が話していた。

その所在を確かめたくてやってきた。

出雲と呼ばれる地区は桜井市の出雲である。

素朴で温もりを感じる素焼きの土人形。

かつては長谷寺詣でや伊勢街道を往来する人たちの土産にあったという。

永らく途絶えていた大和の出雲人形を復活した窯元水野家。

現在は奈良県の伝統的工芸品に指定されている。

その姿を拝見する時間はない。

夕闇が静かに迫っている時間帯だ。

一刻も早く庚申に関係する人を見つけることが今回の目的。

出雲集落を抜ける旧街道を走った。

そこを歩く二人の婦人。

一人は鍵を持っている。

もしかと思って尋ねてみた。

話によれば、さきほどまでお寺の掃除をしていたという。

お寺は地福寺。

氏神さんの十二柱神社の西側すぐ近くだ。

婦人の話では明日の午前10時半に閏年の庚申をするという。

午後13時から行う予定であったが、お寺さんが急遽都合がつかなくなり時間帯を繰り上げたという。

閏年の庚申さんは「トウゲ」と呼ぶ。

出雲には九つの垣内があり、それぞれの組単位で講中がある。

葉付きのカシの木に文字を書いてお寺の庚申さんに祀る。



庚申の石仏は二つ。

手前は「庚申」の文字があり、後方は青面金剛石仏だ。

両脇は地蔵さんであろう。

文字の中には梵字も含んでいる9組の講中がそれぞれに用意するカシの木は文字を書く部分を削って持っていく。

そこに来迎寺のおじゅっさんがそれぞれの木に墨書するそうだ。

お盆やコジュウタに入れたモチを供える。

庚申トウゲを終えたらカシの木はそれぞれの組の当番にあたるヤドの家が持ち帰る。

そのカシの木は玄関などに飾っておく。

集落を巡ってみればその木を祀る家がある。

旧街道沿いの家にもたくさんある。

前回の庚申トウゲのものなのか判然としないが、紛れもない家の守り神。

隣村の脇本でも見られた風習である。

ちなみにお寺近くに飾られていた家。



カシの木には「奉勧請 青面金剛童子 村内無事 家内安全 五穀成就 如意祈修」とある。

上のほうには五つの梵字があるが判読できない。

(H24. 4. 7 SB932SH撮影)
(H24. 4. 7 EOS40D撮影)

初瀬の団体バス

2012年05月28日 07時36分09秒 | 桜井市へ
天理の福住から奈良市の都祁へ向かう道は広域農道。

度々通う道である。

そこから南下すれば長谷寺に向かう道。

桜井市の小夫、瀧倉を抜けて初瀬ダムへと続く国道。

さらに南下すれば長谷寺に着く。

この道は意外と細くてくねくね。

乗用車やトラックが頻繁に往来している。

この日はやたらと観光バスが目立っていた。

すれ違う道を除けるにも一苦労する乗用車。

慣れていないのであろう。

川上の集落手前に大型バスの駐車場がある。

豊森駐車場だ。

経営している豊森さんは顔見知りの既知の人物。

行事の取材で度々訪問する。

通り過ぎようとしたときお顔が目に入った。

今日は昼ごはんも食べる時間がないくらいに忙しいと話す。

四月になれば桜見物の観光客が大勢訪れる長谷寺。

団体観光のツアー客だ。

拝観を終えた客人はぞろぞろと駐車場に戻ってくる。

乗せたバスは出発する。

料金を払わずに出発しようとするバス。

それを見た家人は追いかける。

こんなことはときおりあるのだと話す。

長谷寺の桜はまだ蕾。

それでもやってくるツアー客。

日程を組んでしまえば出かけるしかないそうだ。

来週の土、日曜日はもっと多くなることだろう。

(H24. 4. 7 SB932SH撮影)

小夫嵩方の閏年の庚申トアゲ

2012年05月27日 09時04分38秒 | 楽しみにしておこうっと
桜井市の北白木の人たちの話によれば隣村のダケホでは4月1日に閏年の庚申トアゲを済ませたという。

ダケホと呼ぶ地区は緩やかな斜面に田んぼが広がる小夫嵩方(おうぶだけほう)だ。

地区に住むS氏にお話を伺って奉っている庚申さんの場を案内してもらった。

小夫嵩方には三つの庚申講があり、朝10時にめいめいがトアゲ参りをしたという。

それぞれの講中のヤドで作ったゴクダイを塔婆は庚申塚の前に残されていた。

祠に納められた庚申石仏は2体。

左は「南無青面金剛六月吉日講中」とあり、右には「南無阿弥陀佛 何某」であった。

ゴクダイは八つ、或いは十二本に割いた竹に、編んだ丸い形の藁を挿している。

挿すことが困難だったのか十二本に割いたゴクダイは崩れないように縛っている。

丸内部は支えとなる竹が挿してある。

一つは十字でもうひとつは三本を並行にしている。

塔婆は葉付きの杉の木。

それぞれに願文が見られる。

左から「家内安全 五穀成就 庚申講一同 平成二十四年四月一日」で、もう一つは「猿田彦庚申供養 家内安全五穀穂就祈願 平成二十四年四月一日」だ。

その上には梵字が一文字書かれているが判読できない。

三つ目は「奉納 庚申供養 青面金剛中 家内安全 五穀成就 奉祈願 平成二十四年四月一日」とある。

「猿田彦」の文字も気にかかる小夫嵩方のトアゲ。

そういえば北白木の人たちによれば隣村の中白木でも般若心経を唱えるトアゲをいているという。

後日には両地区とも詳しいことを聞かねばならない。

(H24. 4. 7 EOS40D撮影)

北白木東垣内の庚申トアゲ

2012年05月26日 06時43分35秒 | 桜井市へ
旧暦閏年は3年、4年或いは2年の間隔でやってくる。

その年にあたれば庚申さんを祀る講中は塔婆に願文を記して庚申塚に参る。

地区にはそれぞれの組で構成されている講中があり、お参りにする日は講中を相談の上で決められる。

山間部の桜井市の北白木では東脇と西脇垣内にそれぞれの庚申講がある。

かつては当番の家にあたるヤドの家に集まっていた。

庚申講の営みは例年であるなら60日おきの「庚申」の日。

北白木では略して初庚申と終い庚申の2回の営み。

以前は年に3回集まっていたとNさんが話す。

ヤドで料理を作っていたが、元は安楽寺であった公民館に集まることにした。

二組の講中が一度に集まるのは困難なだけに日を分けている。

この日は東脇の講中が集まる日。翌日は西脇となる。

ヤドにあたった家では予め、杉の木や竹、お花を用意しておいた。

朝から集まった講中は6軒。

以前は8軒だったが村を出て行かれたので少なくなった。

前回の閏庚申は3年前の平成21年。

前ヤドに残されていた塔婆も持ってきた。

塔婆は葉付きの杉の木である。

東脇の庚申さんは山の中。

前回に供えた竹の花立てとゴクダイはそのままにしていた。

そこから持ってきて見本にしながら今回の花立てとゴクダイを作る。

ゴクダイはモチを乗せるからゴクモチダイとも呼ばれている。

男性たちは見本を参照しながら同じ寸法に造っている。

ゴクダイは竹を十字(四)に割いて、束ねて編んだ藁を丸くして乗せる。

竹の先を尖がらせているので藁を挿し込むようにして固定した。

塔婆も同じようにして寸法取りに木肌削り。

そこに願文を書きこむ。

間違ってはならないと目を凝らして見本を判読する。

書きあげた願文は「奉 猿田彦命供養塔 竒(青の誤字)面金剛 講中安全 五穀豊穣 天安祭全渇 講中八戸 平成二十四年吉日」。

段削りした上段には十文字の梵字。

意味は判らないという。

Nさんの話では杉ではなくヒノキだったという。

いつしか変化したのであろうか。



一方、婦人たちは公民館でモチ作り。

本尊などに供えるアンツケモチも作る。

炊いたアズキをモチを包むようにしてできたアンツケモチ。

器械搗きになったが手慣れた作業でモチを作っていく。

アンツケモチは参ったあとに会食される分も盛りつけた。

ビシャコ、モモ、キクなどのお花を花立てに入れる。

作業をしていた場にはシキビの花が咲いていたがそれは使わない。

また、ツバキの花は首から落ちると云って避けている。

冷たい風が吹き抜けるこの日の作業場。

そこには樹齢三百年と推定されるエドヒガンザクラがあるが、まだ蕾だ。



会食の準備も整ったころ、講中は花立て、ゴクダイ、塔婆を担いで山の庚申塚に向かう。

モチやお神酒も持参する。

山道は急坂。

育てていたシイタケの原木がある。

朽ちてきたので入れ替えする。

古くなったがそこにシイタケが生えている。

雨が多かったから水があがったのだという。



そのシイタケも供えようと採ってきてゴクダイに乗せた。

庚申さんの石仏は昨年に建て替えた真新しい屋形(祠)の中に納められている。

御供を供えて庚申さんの下地にローソクや線香を立てて火を点ける。



念仏を唱えることなく手を合わせてお参りを済ませた。

昔は牛を連れてきていた。

牛の角には布を巻いていたという。

お札もあったそうだ。

それはオコナイの牛玉宝印であったと思われるが確たる証拠はない。



お参りを済ませた講中はお神酒などを下げてこの場でよばれる。

こうして庚申トアゲを短時間で終えたあとは公民館で会食をする。

花立てとゴクダイは庚申さんに置いたままだが、塔婆は持ち帰ってヤドの家に納められる。



公民館では出かける前に作ったアンツケモチを席に配る。

テーブルには鉄鍋がある。

牛のすき焼きだという。

前回はパック詰め料理だったが、この年は行商が売りにきた牛肉を買って豪華な会食でトアゲの日を過ごす。



この日は夜もこの場で会食をする。

考えてみれば替ってみたものの公民館はヤドなのであろう。

1月のオコナイ、10月のマツリ、12月のヨカコ(八日講)でも盛りだくさんの行事料理を会食して盛り上がる北白木。

「イナカはクイコや。食べてばっかり」だと笑って話すNさん。



本尊の十一面観音立像は山のほうにあった金平山寺に安置されていた。

いつの頃か判然としないが火事で焼けてしまった。

本尊は焼けずに守られた。

それをここに移したという。

ミササギ(陵)と呼ばれる跡地は桜を植樹したそうだ。

お盆のときは道沿いにローソクをずらりと並べるらしい。

東脇垣内には庚申講の他、伊勢講もある。

6月の夜はヤドに掛軸を掲げて講の営みをする。

なお、翌日に行われる西脇垣内の塔婆の願文は確認できていないが、東脇の人たちの話によれば若干簡略化されているという。

(H24. 4. 7 EOS40D撮影)

スカイプにはまる

2012年05月25日 07時31分29秒 | つうしん
山添村のYさんは海外に行った娘さんとスカイプをしている。

スカイプって名は聞いたことがあるが、どのようなものなのかまったく存知しない。

スカイプ同士ならタダで通話できるしテレビ電話のように向こう側が見えて手にとるようだと話していた。

姪が短期留学するということでスカイプを導入した義兄宅も同じようなことを話す。

そんな日から数日経った。

五條からの帰りに寄ったKーズ電器。

不足していたサプライ品を買おうとしたらヘッドマイクが売っていた。

安売り(失礼)のボックスにあったがはっきりとは判らないままだった。

もしかとすればスカイプのヘッドマイクではと思ったのだが・・・。

その数日前にオースロラリアに居た息子がスカイプしたから家でその装置を設定してほしいという。


そのメールを受け取ったかーさんは「ほしい」という。
そういうが私自身がまったくわかっていないスカイプ。

K-ズ電器に立ち寄った。

詳しくないので教えていただけないかと店員さんに声を掛けたら紹介してくれた。

なんでもスカイプを導入して家族間通話を楽しんでいると話す。

体験者の説明は何を買えばいいのか理解しやすい。

音声通話だけならヘッドセットで。

これが安売りバケットに積まれていたのだ。

テレビ電話のようにしたければwebカメラが要る。

最近のノートパソコンには標準装備されている、あれだ。

我が家のパソコンにはそれがない。

webカメラは画素数によって映像品質が決まる。

鮮明なハイビジョンカメラも売っているが高価だ。

30画素ではザラザラ画面になるだろう。

かーさんとも相談して買ったのは320万画素のwebカメラ付きヘッドセット。

カメラはUSB端子に接続すれば認識された。

動作をさせるためには同包されていたCDだ。

これでインストールしなければならん。

で、画像はどうなのか。

認識されたUSBビデオデバイスをクリックすれば我が顔が現れた。

ヘッドフオンとマイクはピン接続。

たぶんここだろうと接続した。

装置はこれで揃った。

登録はいとも簡単。

予めにスカイプ名とパスワードを決めておく。

そうしてスカイプに接続してソースをダウンロードする。

けっこう時間がかかるもんだ。

なにやら画面がでてきた。

エコーテスト画面があったから試しに押してみた。

何かしゃべっているようだが音声は聞こえない。

グリーンとピンク端子はスピーカヘッドフオンとマイクらしいが・・・。

まったく聞こえないので接続が逆かと思いとっかえてみた。

そうすると日本語でしゃべる声が聞こえてきた。

音声はオーケーだ。

ところがしゃべった声が聞こえてこない。

音声ボリュームを最大にしても聞こえない。

耳を澄ませるとしゃべった私の声が聞こえている。

どうやら接続は正しかったようだが・・・。

自動にしてみればどうかなとクリックしたら聞こえてきた我が声。

とりあえず登録したが、正しかったのかおかしかったのか相手がおらんのでよう判らん。

今日はここまでだ。

そんな状況を次男に伝えた翌日の3日。

向こうで買った端末はipodtuch。

たしかカメラもマイクも付いているはずだ。

待っても受信されないから登録されたスカイプ名等がてがかり。

それを連絡先に入れてはみるものの電話番号が要る。

確かめるために電話したが、ipodには番号がないという。

なければ登録ができない。

仕方なくもうひとつの携帯電話の番号を無理やり登録した。

それも海外番号を付け足してだ。

発信はしてみるものの動作はしない。

しない、しない。

そのときに着信メッセージ画面がふっと出た。

それは登録した次男のローマ字名だ。

登録するには漢字は使えない。

拒否されたのであった。

仕方なくローマ字名で登録しておいた。

それが出てきた受信メッセージ。



慌ててヘッドマイクを装着した。

向こうから聞こえてきた次男の声。

おーー。

音声が接続できた。

ときおり断線はするが繋がったことには違いない。

登録した手順に間違いはなかったのだ。

なんやかやしゃべってインカメラにすれば画像が送られるはずだと伝えた。

他の部屋に居たかーさんを携帯で呼びだした。

いきなり出現した次男のアップ顔。

おおおおーーーー。

スカイプってすごい。

カメラをあっちこち動かした。

今、居る現場が映し出された。

まさにテレビ電話。

ところがこっちの画像も映っていないという。

まぁいいじゃないですか。

4日の夕刻。

パソコンで取材の整理をしていたら突然のごとくスカイプが受信メッセージ画面を吐き出した。

今回は音声接続を選ばずにビデオ接続をクリックした。

向こうから聞こえてきた声は「画像が出た」。

そう、昨夜の繋ぎは音声だけだったのだ。

向こうはテレビ接続だが、こっちは音声接続。

どうりで。

滞在先の映像も映し出されている。

バスが動く。

人物が通りを歩いている。

画像は悪いが雰囲気は十分に判る。

途切れる回数が減ったのはワイファイが繋がりやすい処に変えたからだという。

かーさんとともに会話したテレビ電話は30分。

おもしろすぎてはまりそう。

次の行先はワイファイも繋がらない土地らしい。

そうであれば通信は不可だ。

打開するにはプリペイドチケット(クレジット)を買って有料通信にしなければならないという。

プリペイドの使用期間は180日。

ほったらかしにしておけば消滅する。

ところが使えば、その日から180日。

繰り返し使えばなんともないが、足らなくなったらそうするんだ。

ネットで購入するのも可能だが、次男の話ではコンビニにそれが売っているという。

500円で購入してその番号を伝えてほしいという。

ところでスカイプの画面下にはSMSちゅうものがある。

ショートメールのチャットだと思うのだが、昨夜に入れておいた。

それが出ているかどうか??。

探してみるがどこにもない。

5日にプリペイドチケットをコンビニで購入した。

何をどうしたら皆目判らないので店員さんに聞いた。

それはこの端末から入力するのですと操作してくれた。

ポン、ポン、ポンと端末操作。

なにやらレシートがでてきた。

支払いはお店で。

そうすると一枚のシートが手渡された。

それにはクレジット番号が記されている。

さまざまな手続きがシートに書いてある。

予め、使用するにあたり使用の処理をしなければならない。

かーさんがその数字および画像を送っておいた。

それから数週間後の17日。

画像は1枚目だけが鮮明で判読できるが、2枚目以降は滲んで読めないという。

保存した画像は鮮明なのに送った画像はまったく読めないと言ってきた。

それでは一枚ずつ送ったらどうかと伝えた。

そうすれば上手くいった。

普段は誉めたことがないけど今回だけは誉めたるというのだ。

それからしばらくしてスカイプに着信メッセージが突然出た。

久しぶりの顔と声だ。

またもやなんやかやと話すが会話が英語。

どうやらネイテイブイングリッシュスタイルが少しずつできあがっていくようになってきたのだ。

映像は固定画面。

動かさなければそうである。

取り外し可能なので室内をあっちこっち動かして写す。

放送していたテレビ画面も写す。

最新の映像である。

パソコンに写しだされたモニター画面を見た。

テロップが反転しているのだ。

そっちはどうかといえば日本語文字も読める。

ということはモニター画面が鏡面になっていたのだ

(H24. 4. 2 SB932SH撮影)
(H24. 4. 3 SB932SH撮影)

近内町のヒナアラシ

2012年05月24日 06時45分09秒 | 五條市へ
女の子が居る家に行ってお菓子を貰いに巡るヒナアラシ。

旧暦の4月3日に五條市の近内町で行われている。

近内町は100軒ほどだが、女の子が居る家はおよそ60軒。

各家にはお雛さんが飾られている。

そこを一軒、一軒ずつ巡ってお菓子を貰う子供は男女区別なく小学6年生まで。

大きな袋を抱えて出発する。

小さな子供は乳母車を押す母親もつく。

それぞれの家がそれぞれに出発する。

近内町のヒナアラシは子供会のような団体でもなく組織的な集まりでもない子たちめいめいがバラバラに巡るのだ。

決められているのは出発時間が8時と小学6年生までだ。



他の市町村へお嫁に行った婦人も連れ子と共に近内町へ里帰り。

大和郡山市在住のI親子も楽しんでいる。

お菓子を貰う風習は経験者でなければ嬉しさが判らない。

近内町に嫁入りした人はとても驚いたというヒナアラシ。

かつては100軒も回ったという。



両脇に抱えたお菓子の袋。

持ち切れないほどにいっぱいになれば、一旦は家に戻って戦利品を下して再び町内を回ったそうだ。

この日は不思議と雨が降らないようだ。

小雨であってもヒナアラシをしていれば雨も止む。



「ヒナさん アラさしてー」と家人に声を掛けて家々を巡る。

かつては子供だけで回ったと高齢者は話す。

雛飾りをじっくり見る子はいない。

目的はお菓子貰いだ。

かつてはアラレやキリコを出していた。

それを盗むような感じで取っていったという。

その様相は生駒高山の月見どろぼうと同じようだった。



居間、縁側、玄関などで待ちうける家人たち。

子供たちが喜んで持って帰る姿に目を細める。

お雛さんは神さんのようなものだからご馳走を作って供えていたと話す婦人もいる。

町の下から上へ。上の子らは下へと巡る近内町。

あっちこっちから子供の姿が出没して交差する。



藤岡旧家もヒナアラシたちが来るとお菓子をあげている。

これが楽しみなのだというNPO法人うちのの館の人たち。

ヒナアラシが去った後は、先日まで飾っていた盆梅の鉢やお雛さんを仕舞っている。



次の展示替えが忙しい。

ヒナアラシが終わる時間に決まりはない。

再び襲ってくるかもしれないからと、お菓子を置いておく。

そこにはお内裏さまとお雛さまも。

優しい心づかいである。

歩いた歩数計は6千歩を示していた近内町のヒナアラシの走行時間は1時間半余り。



戻ってきた孫もお家のお菓子を貰う。

最後に立ち寄ったN家で飾っていたお雛さんの話を伺った。

この日はちらし寿司を供えていた。

ヒナアラシが去った後は家族揃ってお花見に出かけた。

近くにあるお宮さんだ。

そこには桜が咲いていた。

ちらし寿司の他、弁当やお茶を持っていって食べていた。

おじいちゃんもおばあちゃんも一緒だった。

農業を営んでいたのでみんなで花見をしていた。

ご主人の母親の話ではオモチを小さく切ってアラレにした。

それを油で揚げていた。

キリコモチとも呼んでいた。

この日の午後、一段落したらいち早く方付ける。

大雨であれば、湿気をすうからといってお内裏さんだけを方付ける。

家によってはお内裏さんだけを後ろ向きにする場合もあるという。

雨が上がって天気のいい日にお雛さんを方付ける。



娘が誕生すると嫁の実家が雛飾りを贈る習慣があった。

また、親戚筋やご近所からはおめでとうと初節句にお人形を贈ってもらう習慣があるという。

その人形も一緒に飾った雛飾りのある家。

贈る期間は3月3日から4月2日までだそうだ。

ヒナアラシが行われる3日までに贈るのは初めに生まれた子だけだった。

婦人は言った。

「何が楽しかったと言えば、ヒナアラシ。普段は出合うことが少なくなったが、子供や孫が同級生を連れてやってくる。あそこで生まれた家やと姉妹同志で盛り上がった。家に帰ったらお菓子を数えるのも楽しみだった。」と笑顔で語る。

ヒナアラシが去った一時間後には雨がポツポツ降りだした。

午後には暴風雨が襲いかかる。

雷も鳴りだした「春の嵐」はほんまもののアラシになった。

それは、それは、おっとろしいほどの強い風で、電車も一時的にストップした。

和歌山友ヶ島では瞬間最大風速が40m以上も吹いた温帯性低気圧。

地域によればヒョウや氷まで降ったようだ。

先日、訪れた南阿田にはヒナアラシの風習は聞かなかったが、宇陀市の本郷はかつてあったと聞いたことがある。

道返寺(どうへんじ)垣内で行われていたヒナアラシだ。

それは3月3日だったと思い出された。

ヨモギで作ったヒシモチや煎ったキリコモチを添えていた。

それを「盗りにくるさかいに置いていた」という。

女の子の楽しみやったヒナアラシにはセリのおひたしもあったそうだ。

(H24. 4. 3 EOS40D撮影)

出版千家再興

2012年05月23日 09時18分24秒 | メモしとこっ!
我が国の茶の歴史は仏教伝来とともに喫茶の風習を受け入れた奈良時代に始まるそうだ。

大和奈良から始まった「茶」の文化。

奈良の「茶」をテーマに撮影巡拝した仏隆寺は大和茶の発祥の地。

空海が唐から持ち帰った最古のお茶を栽培したとされる。

村田珠光で名高い称名寺。

また、西大寺の大茶盛や生駒高山の茶筅に東山間における茶畑風景。

もちろん郷土料理である茶粥もある。

東大寺二月堂修二会を祈る連行衆の食事に出される茶飯も。

そういった大和と茶の関係を撮りたくて度々出かけたものだ。

千利休の娘婿にあたる千少庵を主人公にして千家を物語る『千家再興』が著者から贈呈された。

利休と秀吉、それぞれの思いはどうだったのか。

秀吉の命を受けて天正十九年(1591)二月二十八日に切腹した利休。

その後の千家茶道は誰が引き継いだのか。

千利休の娘婿にあたる千少庵を主人公にして千家を物語る『千家再興』。

著者である井ノ部康之(いのべやすゆき)氏から送られてきた寒中見舞いに、初の小説になる『千家再興』が中央公論社から文庫版で発刊することが記されていたのだった。

井ノ部氏との出会いは当時の勤め先の市民交流館であった。

小説を仕上げるために大和郡山を訪れていた氏と観光案内などで話したことを覚えている。

そのときはじめて知った時代小説作家の井ノ部氏。

その年の8月に贈られてきた著書をむさぼるように一気に読みあげた。

歴史を知らない私にとって大切な本になった『利休遺偈(ゆいげ)』。

行方不明になった利休の辞世の書の行方を探す表千家六代目家元の覚々斎に三人の息子たちの物語りに引き込まれる。

その後も贈ってくださった炎上シリーズの『琵琶湖炎上』に『大仏殿炎上』。

『大仏殿炎上』では、今井宗久、津田宗久、千利休(宗易)が登場する堺の納屋衆。

珠光流のわび茶を学ぶ三人だ。

松永弾正久秀の問いに対する三人三様の答えは生きざま。

その後の生涯がそこにある。

それはともかく千利休の後継者は長男の千道安ではなく、娘婿にあたる千少庵(後妻の連れ子で養子)だった。

2代目千少庵の長男の千宗旦(そうたん)が3代目を継いだ。

宗旦に息子たちがいた。

次男の千宗守、三男の千宗左、四男の千宗室は利休から続く四代目。

三人三様の三千家となった。

武者小路小川に官休庵(かんきゅうあん)を建てて始めたことから、次男の千宗守は「武者小路千家」を創設する。

父親の千宗旦から千宗左が継いだ不審庵(ふしんあん)。

裏にあった今日庵に対して表の位置にあることから、三男の千宗左は「表千家」を創設。

父親の千宗旦が家の裏庭に建てた今日庵(こんにちあん)。

それを千宗室が継いで始めたことから、四男の千宗室が「裏千家」を創設する。

話は遡って、贈呈されたことを機会に、そのお礼として平成21年10月に発刊した『奈良大和路の年中行事』を送らせていただいた。

出版社は京都の淡交社。

裏千家と深い繋がりがある出版社だ。

偶然とも思える井ノ部氏との出会いは「茶」をキーワードに縁が繋がったのであった。

そんなことを思い出しながらじわじわと味わいたい『千家再興』である。

(H24. 4. 9 SB932SH撮影)

再訪、藤岡家住宅

2012年05月22日 08時48分00秒 | 五條市へ
NPO法人うちのの館が管理する五條市近内町の藤岡家住宅は俳人の藤岡玉骨の生家。

登録有形文化財である。

施設に感動した昨年の四月。

今年も同月に訪れた。

この時期はお雛さんを飾っている。



今年は花の季節が一週間ほど遅れていたが、樹齢250年とされる長兵衛古梅も美しく咲いている。

藤岡家所有のお雛さんは享保年間(1716~1736年)の製作と伝えられている。



左大臣、右大臣は嘉永元年(1848)だと納めている箱に書かれてあった。

その上に乗せられていたのは蘭陵王(らんりょうおう)。

年代は定かでなく、お雛さんとは別物と思われるが、雛壇に飾られている。

藤岡家は両替商だが、問屋でもあって馬や人足を扱っていた。

五條市の町内に藤井館があるという。

現在も旅館を営む藤井館は江戸時代まで同じような卸問屋だったと解説される。



鴨居上に祀られている「御祈祷之札」の屋形。

そこに吊るされた丸いドーナツのような形。

それは馬鈴。

馬の首や鞍、馬具に下げていた馬鈴だそうだ。



和泉、橋本、五條、御所、橿原、奈良へと続く街道を走る馬。

10時間ほどで着いたというから相当早い。

円形の内部は空洞で玉が入っている。

ヒモで吊るして振ればシャンシャンと音がする。

その音色が聞こえてくれば早駆けの馬が登場したのであろう。

五條は物流運搬の中継地。

川上村から切り出された木々は五條、橋本へと吉野川を筏で流す。

それぞれの地にはイカダバがあった。

カワバタと呼ばれる処は材木屋。

それは新町だったかもと話す。

ヒロセ、タカセという呼び地はおそらく「瀬」。

そこに係留した筏。

昭和21年生まれというご婦人は三つ、四つ覚えているそうだ。

橋本生まれの昭和11年ベルリンオリンピックを報じるラジオから聞こえてきた「マエハタガンバレ」で名高い前畑秀子さんが紀ノ川の急流で泳いでいたという。

筏流しは紀ノ川の河口まで。

流れが緩い処は小さな舟で筏を曳いた。

大阪湾から淀川に入って材木になったという。



そんな話題を提供してくれた藤岡家の土蔵はなまこ壁。

特徴ある形はあまり見かけることない円形の幾何学模様。

一般的にはなまこ壁は四角い菱型である。

斜めから撮ってしまったのでその美しさが反滅したことに悔やまれる。



鴨居には大黒さまに鯛を釣る恵比寿さん。

左側の一体は何であろうか。

話題はつきなく閉館時間の16時を過ぎていた。

二日後にはヒナアラシがやってくる藤岡家住宅。

長居をするわけにはいかない。

次に訪れる機会に尋ねてみよう。

(H24. 4. 1 EOS40D撮影)