旧暦閏年は3年、4年或いは2年の間隔でやってくる。
その年にあたれば庚申さんを祀る講中は塔婆に願文を記して庚申塚に参る。
地区にはそれぞれの組で構成されている講中があり、お参りにする日は講中を相談の上で決められる。
山間部の桜井市の北白木では東脇と西脇垣内にそれぞれの庚申講がある。
かつては当番の家にあたるヤドの家に集まっていた。
庚申講の営みは例年であるなら60日おきの「庚申」の日。
北白木では略して初庚申と終い庚申の2回の営み。
以前は年に3回集まっていたとNさんが話す。
ヤドで料理を作っていたが、元は安楽寺であった公民館に集まることにした。
二組の講中が一度に集まるのは困難なだけに日を分けている。
この日は東脇の講中が集まる日。翌日は西脇となる。
ヤドにあたった家では予め、杉の木や竹、お花を用意しておいた。
朝から集まった講中は6軒。
以前は8軒だったが村を出て行かれたので少なくなった。
前回の閏庚申は3年前の平成21年。
前ヤドに残されていた塔婆も持ってきた。
塔婆は葉付きの杉の木である。
東脇の庚申さんは山の中。
前回に供えた竹の花立てとゴクダイはそのままにしていた。
そこから持ってきて見本にしながら今回の花立てとゴクダイを作る。
ゴクダイはモチを乗せるからゴクモチダイとも呼ばれている。
男性たちは見本を参照しながら同じ寸法に造っている。
ゴクダイは竹を十字(四)に割いて、束ねて編んだ藁を丸くして乗せる。
竹の先を尖がらせているので藁を挿し込むようにして固定した。
塔婆も同じようにして寸法取りに木肌削り。
そこに願文を書きこむ。
間違ってはならないと目を凝らして見本を判読する。
書きあげた願文は「奉 猿田彦命供養塔 竒(青の誤字)面金剛 講中安全 五穀豊穣 天安祭全渇 講中八戸 平成二十四年吉日」。
段削りした上段には十文字の梵字。
意味は判らないという。
Nさんの話では杉ではなくヒノキだったという。
いつしか変化したのであろうか。
一方、婦人たちは公民館でモチ作り。
本尊などに供えるアンツケモチも作る。
炊いたアズキをモチを包むようにしてできたアンツケモチ。
器械搗きになったが手慣れた作業でモチを作っていく。
アンツケモチは参ったあとに会食される分も盛りつけた。
ビシャコ、モモ、キクなどのお花を花立てに入れる。
作業をしていた場にはシキビの花が咲いていたがそれは使わない。
また、ツバキの花は首から落ちると云って避けている。
冷たい風が吹き抜けるこの日の作業場。
そこには樹齢三百年と推定されるエドヒガンザクラがあるが、まだ蕾だ。
会食の準備も整ったころ、講中は花立て、ゴクダイ、塔婆を担いで山の庚申塚に向かう。
モチやお神酒も持参する。
山道は急坂。
育てていたシイタケの原木がある。
朽ちてきたので入れ替えする。
古くなったがそこにシイタケが生えている。
雨が多かったから水があがったのだという。
そのシイタケも供えようと採ってきてゴクダイに乗せた。
庚申さんの石仏は昨年に建て替えた真新しい屋形(祠)の中に納められている。
御供を供えて庚申さんの下地にローソクや線香を立てて火を点ける。
念仏を唱えることなく手を合わせてお参りを済ませた。
昔は牛を連れてきていた。
牛の角には布を巻いていたという。
お札もあったそうだ。
それはオコナイの牛玉宝印であったと思われるが確たる証拠はない。
お参りを済ませた講中はお神酒などを下げてこの場でよばれる。
こうして庚申トアゲを短時間で終えたあとは公民館で会食をする。
花立てとゴクダイは庚申さんに置いたままだが、塔婆は持ち帰ってヤドの家に納められる。
公民館では出かける前に作ったアンツケモチを席に配る。
テーブルには鉄鍋がある。
牛のすき焼きだという。
前回はパック詰め料理だったが、この年は行商が売りにきた牛肉を買って豪華な会食でトアゲの日を過ごす。
この日は夜もこの場で会食をする。
考えてみれば替ってみたものの公民館はヤドなのであろう。
1月のオコナイ、10月のマツリ、12月のヨカコ(八日講)でも盛りだくさんの行事料理を会食して盛り上がる北白木。
「イナカはクイコや。食べてばっかり」だと笑って話すNさん。
本尊の十一面観音立像は山のほうにあった金平山寺に安置されていた。
いつの頃か判然としないが火事で焼けてしまった。
本尊は焼けずに守られた。
それをここに移したという。
ミササギ(陵)と呼ばれる跡地は桜を植樹したそうだ。
お盆のときは道沿いにローソクをずらりと並べるらしい。
東脇垣内には庚申講の他、伊勢講もある。
6月の夜はヤドに掛軸を掲げて講の営みをする。
なお、翌日に行われる西脇垣内の塔婆の願文は確認できていないが、東脇の人たちの話によれば若干簡略化されているという。
(H24. 4. 7 EOS40D撮影)