9日の日にも訪れた明日香村の冬野。
鼻持ちならない撮影隊に気分が鬱陶しくなったから、場を離れた。
この日であれば鬱陶しい撮影隊とは遭遇しないだろう。
期待値はゼロだが、なんとなくそう感じたから出かけてみた。
車を停めた場は通称冬野墓と呼ばれている宮内庁管轄の良助法親王(りょうじょほっしんのう)の墓前の道路際。
私が探す目的地は波多神社。
9日に訪れたとき、鎮座地にたどり着かなかったから再調査である。
カーナビゲーションが示す神社の位置はまだ先だ。
道があるようでない道はどこなのか。
民家が数軒ある。
その間をぬって里道をゆく。
どこまで行っても目的地らしき雰囲気に到達しない。
里道と思っていたが、むしろ山道に近い感じの道。
この先、どこまで行くやら、である。
水溜している施設があった。
ここは冬野の水源地。
傍にあった石仏は2体の不動明王。
近くに地蔵尊らしきものもある。
いずれも最近と思われる花を飾っていた。
参拝に花を立てたのはおそらく冬野の人であろう。
が、人影はまったく見られない。
諦めて来た道を戻った。
民家の1軒に冬野総代表示があった。
お声をかけたら屋内から声がする。
ご主人はI総代だった。
当地に訪れた目的地の波多神社は逆方向にあった。
民家傍にある坂道を登った処に鎮座するが、ここら辺りは獣が多く、田畑を荒らすために電柵を設置しているという。
総代に尋ねたのは波多神社の行事である。
波多神社の行事は昭和62年3月に発刊された『飛鳥の民俗 調査研究報告第一輯(集)』に紹介されている。
9月14日は例祭のマツリ。
この年は次の日曜日にあたる9月17日を予定していたが、台風15号が上陸する可能性があることから、これよりずっと前の週になる9月2日の日曜日に済ませたという。
台風が来なかったら14日以降の日曜日にするというから、取材は来年に持ち越しになった。
神社へ行くには電柵を外してあがってくれても構わないというお言葉に甘えて足を運んだが、外すには注意が必要だ。
おかしな部分を触れたら感電する。
かつて電柵にズボンごと引っかけたときの恐ろしさを思い出して断念したが、向こうの方に見える神社の鳥居をカメラに納めた。
向こうにあるのは地蔵尊のように見える。
総代が話した行事は飛鳥坐神社の飛鳥宮司が御湯をするらしい。
『飛鳥の民俗』に例祭のマツリのことが書いてあった。
かいつまんで列挙しておく。
頭屋家で一年間祭るオカリヤは既製の形。
注連縄を張る。
昼前に篠竹の御幣を立てる。
神饌は朱塗り膳で供える。
祭典後にハマチ或はカツオの焼物など馳走をよばれる。
直会が終わればオカリヤや御幣を次頭屋に送る、ということだ。
ちなみに総代が話してくれた行事に仏事がある。
毎年の8月17日は観音講の行事である。
17日は観音さんの縁日。
講中の営みを拝見したいとお願いしておいた。
二つの行事の詳細は行ってみないとわからないが、楽しみは一年後に、としておこう。
集落から下って隣村の畑に向かった。
その途中に思わずブレーキした地に石仏があった。
錫杖をもつ姿の地蔵石仏。
その隣は庚申さんだ。
箱入り酒がお神酒であろう。
石仏2体の姿がなんとも言えない佇まいを装っていた。
畑に降りて少し歩いてみる。
誰一人として遭遇しない畑の集落に神社があった。
扁額などから八幡社のようだ。
昭和62年3月に飛鳥民俗調査会の編集・発刊による『飛鳥の民俗 調査研究報告第一輯(集)』がある。
大字畑は二村。
上に上畑、下に下畑がありそれぞれに氏神さんを祭る神社がある。
上畑の神社の氏神さんは旧くは木花咲夜姫命だった八幡神社である。
下畑の神社は春日神社。
二村ともそれぞれに垣内ごとの3組に分かれる宮講があると書いてあった。
また、畑は隣村の入谷、栢森、稲渕の4村とともに参拝する飛鳥川上坐宇須(※宇佐)多伎比売命神社がある。
マツリに参拝する各村の座位置は決まっているとある。
上畑の神社行事については『飛鳥の民俗』に書かれていないが、下畑の春日神社で行われるマツリに記載があった。
記事によれば、10月13日は頭屋家の御幣切り。
御幣は篠竹に挟んでヤカタに御幣を立てる。
また、境内では御湯の作法がある。
祭事が終われば籤引きで決める頭屋決めがある。
興味深いのは神職こと斎主が座る円座に乗せた新藁は、持ち帰って妊婦の腹に巻いておけば安産になるという。
言い伝えの安産で思い出した大和郡山市柏木町素盞嗚神社の宵宮がある。
柏木町の安産願いの印しは御湯をされる巫女さんの腹に巻くサンバイコである。
いただくモノは違っていても安産の願いは一つ。
子孫繁栄である。
また、直会と思われる座の膳に蒲鉾や芋、大根、牛蒡、松茸(椎茸)、白和え蒟蒻、柿、高野豆腐にアンパンがあると書いてあった。
大字畑の民俗行事は神社行事だけでなく村の年中行事に取材心が惹かれる行事がある。
一つはカラスノモチである。
鏡餅をとった残りモチのカラスモチは12個。
例年は12個であるが、閏年は13個になる。
餅つきの翌日に田畑に出向いて、「鳥来い、モチやるわ、ギンナン三つとかえことしょ」とおお声を挙げて畑に蒔く。
カラスノモチは畑以外に大字上居(じょうご)にもあった。
「カラス来い、モチやるわ 十二のモチは、お前に一つ、自分に二つ、ゴンゲンさんに三つ、ツレ(宙で)取ったら皆やるわ」と叫んで一升枡に12個(閏年は13個)入れてやりに行くと書いてあったが、今でもしているとは思えないカラスノモチの習俗であるが、かつて天理市の藤井や奈良市の誓多林町でされていた民俗を収録したことがある。
畑の年中行事はまだまだあった。
ウラジロを敷いた三方に盛る鏡餅、蜜柑、柿、昆布を玄関に祭る。
これを戸主から順番に頭上に掲げる作法をする。
戸主が終われば家族に廻して家人それぞれが頭上に掲げて拝むように作法をする。
これを元日祝いのイタダキまたはイタダキノゼンと呼んでいた。
奈良市長谷町・誓多林町や山添村周辺の奈良県内東部山間部は今でもイタダキノゼンをしているお家があるが、畑ではおそらく中断しているのだろう。
他にも初山、山の神、七草粥、ウヅキヨウカ、八十八夜のレンゾに8月13日のソンジョサン(※先祖迎え・送りであろう)。
また、下畑にはかつてイノコ行事をしていた記録がある。
平成11年に発刊された『奈良県立民俗博物館だより』に明日香村下畑で行われていたイノコ行事のことが書かれているそうだ。
各家を巡って「ホーレン」と呼ぶ稲の藁で打ちつけていた。
藁の内部には「クワエのヤ」を入れていたとある。
「クワエ」は「クワイ」が訛った表現であろう。
ちなみにクワイを充てる漢字は「慈姑」である。
「ヤ」はクワイの芽。矢のように突き出ているからその名で呼んでいたようだ。
イノコの詞章は「いのこのばんに おもちつかんいえに はしでいえたて かやでやねふき うしのくそでかべぬって ここのよめさんいつもらう 三月三日のあさもらう」であった。
かつては旧暦の11月15日であったが、12月1日に移ったとあるが、戦時中に中断したようである。
さまざまな年中行事があった大字畑。
かつての民俗の掘り起こしに、体験された人の記憶を辿ってみたいものである。
(H29. 9.14 SB932SH撮影)
(H29. 9.14 EOS40D撮影)
鼻持ちならない撮影隊に気分が鬱陶しくなったから、場を離れた。
この日であれば鬱陶しい撮影隊とは遭遇しないだろう。
期待値はゼロだが、なんとなくそう感じたから出かけてみた。
車を停めた場は通称冬野墓と呼ばれている宮内庁管轄の良助法親王(りょうじょほっしんのう)の墓前の道路際。
私が探す目的地は波多神社。
9日に訪れたとき、鎮座地にたどり着かなかったから再調査である。
カーナビゲーションが示す神社の位置はまだ先だ。
道があるようでない道はどこなのか。
民家が数軒ある。
その間をぬって里道をゆく。
どこまで行っても目的地らしき雰囲気に到達しない。
里道と思っていたが、むしろ山道に近い感じの道。
この先、どこまで行くやら、である。
水溜している施設があった。
ここは冬野の水源地。
傍にあった石仏は2体の不動明王。
近くに地蔵尊らしきものもある。
いずれも最近と思われる花を飾っていた。
参拝に花を立てたのはおそらく冬野の人であろう。
が、人影はまったく見られない。
諦めて来た道を戻った。
民家の1軒に冬野総代表示があった。
お声をかけたら屋内から声がする。
ご主人はI総代だった。
当地に訪れた目的地の波多神社は逆方向にあった。
民家傍にある坂道を登った処に鎮座するが、ここら辺りは獣が多く、田畑を荒らすために電柵を設置しているという。
総代に尋ねたのは波多神社の行事である。
波多神社の行事は昭和62年3月に発刊された『飛鳥の民俗 調査研究報告第一輯(集)』に紹介されている。
9月14日は例祭のマツリ。
この年は次の日曜日にあたる9月17日を予定していたが、台風15号が上陸する可能性があることから、これよりずっと前の週になる9月2日の日曜日に済ませたという。
台風が来なかったら14日以降の日曜日にするというから、取材は来年に持ち越しになった。
神社へ行くには電柵を外してあがってくれても構わないというお言葉に甘えて足を運んだが、外すには注意が必要だ。
おかしな部分を触れたら感電する。
かつて電柵にズボンごと引っかけたときの恐ろしさを思い出して断念したが、向こうの方に見える神社の鳥居をカメラに納めた。
向こうにあるのは地蔵尊のように見える。
総代が話した行事は飛鳥坐神社の飛鳥宮司が御湯をするらしい。
『飛鳥の民俗』に例祭のマツリのことが書いてあった。
かいつまんで列挙しておく。
頭屋家で一年間祭るオカリヤは既製の形。
注連縄を張る。
昼前に篠竹の御幣を立てる。
神饌は朱塗り膳で供える。
祭典後にハマチ或はカツオの焼物など馳走をよばれる。
直会が終わればオカリヤや御幣を次頭屋に送る、ということだ。
ちなみに総代が話してくれた行事に仏事がある。
毎年の8月17日は観音講の行事である。
17日は観音さんの縁日。
講中の営みを拝見したいとお願いしておいた。
二つの行事の詳細は行ってみないとわからないが、楽しみは一年後に、としておこう。
集落から下って隣村の畑に向かった。
その途中に思わずブレーキした地に石仏があった。
錫杖をもつ姿の地蔵石仏。
その隣は庚申さんだ。
箱入り酒がお神酒であろう。
石仏2体の姿がなんとも言えない佇まいを装っていた。
畑に降りて少し歩いてみる。
誰一人として遭遇しない畑の集落に神社があった。
扁額などから八幡社のようだ。
昭和62年3月に飛鳥民俗調査会の編集・発刊による『飛鳥の民俗 調査研究報告第一輯(集)』がある。
大字畑は二村。
上に上畑、下に下畑がありそれぞれに氏神さんを祭る神社がある。
上畑の神社の氏神さんは旧くは木花咲夜姫命だった八幡神社である。
下畑の神社は春日神社。
二村ともそれぞれに垣内ごとの3組に分かれる宮講があると書いてあった。
また、畑は隣村の入谷、栢森、稲渕の4村とともに参拝する飛鳥川上坐宇須(※宇佐)多伎比売命神社がある。
マツリに参拝する各村の座位置は決まっているとある。
上畑の神社行事については『飛鳥の民俗』に書かれていないが、下畑の春日神社で行われるマツリに記載があった。
記事によれば、10月13日は頭屋家の御幣切り。
御幣は篠竹に挟んでヤカタに御幣を立てる。
また、境内では御湯の作法がある。
祭事が終われば籤引きで決める頭屋決めがある。
興味深いのは神職こと斎主が座る円座に乗せた新藁は、持ち帰って妊婦の腹に巻いておけば安産になるという。
言い伝えの安産で思い出した大和郡山市柏木町素盞嗚神社の宵宮がある。
柏木町の安産願いの印しは御湯をされる巫女さんの腹に巻くサンバイコである。
いただくモノは違っていても安産の願いは一つ。
子孫繁栄である。
また、直会と思われる座の膳に蒲鉾や芋、大根、牛蒡、松茸(椎茸)、白和え蒟蒻、柿、高野豆腐にアンパンがあると書いてあった。
大字畑の民俗行事は神社行事だけでなく村の年中行事に取材心が惹かれる行事がある。
一つはカラスノモチである。
鏡餅をとった残りモチのカラスモチは12個。
例年は12個であるが、閏年は13個になる。
餅つきの翌日に田畑に出向いて、「鳥来い、モチやるわ、ギンナン三つとかえことしょ」とおお声を挙げて畑に蒔く。
カラスノモチは畑以外に大字上居(じょうご)にもあった。
「カラス来い、モチやるわ 十二のモチは、お前に一つ、自分に二つ、ゴンゲンさんに三つ、ツレ(宙で)取ったら皆やるわ」と叫んで一升枡に12個(閏年は13個)入れてやりに行くと書いてあったが、今でもしているとは思えないカラスノモチの習俗であるが、かつて天理市の藤井や奈良市の誓多林町でされていた民俗を収録したことがある。
畑の年中行事はまだまだあった。
ウラジロを敷いた三方に盛る鏡餅、蜜柑、柿、昆布を玄関に祭る。
これを戸主から順番に頭上に掲げる作法をする。
戸主が終われば家族に廻して家人それぞれが頭上に掲げて拝むように作法をする。
これを元日祝いのイタダキまたはイタダキノゼンと呼んでいた。
奈良市長谷町・誓多林町や山添村周辺の奈良県内東部山間部は今でもイタダキノゼンをしているお家があるが、畑ではおそらく中断しているのだろう。
他にも初山、山の神、七草粥、ウヅキヨウカ、八十八夜のレンゾに8月13日のソンジョサン(※先祖迎え・送りであろう)。
また、下畑にはかつてイノコ行事をしていた記録がある。
平成11年に発刊された『奈良県立民俗博物館だより』に明日香村下畑で行われていたイノコ行事のことが書かれているそうだ。
各家を巡って「ホーレン」と呼ぶ稲の藁で打ちつけていた。
藁の内部には「クワエのヤ」を入れていたとある。
「クワエ」は「クワイ」が訛った表現であろう。
ちなみにクワイを充てる漢字は「慈姑」である。
「ヤ」はクワイの芽。矢のように突き出ているからその名で呼んでいたようだ。
イノコの詞章は「いのこのばんに おもちつかんいえに はしでいえたて かやでやねふき うしのくそでかべぬって ここのよめさんいつもらう 三月三日のあさもらう」であった。
かつては旧暦の11月15日であったが、12月1日に移ったとあるが、戦時中に中断したようである。
さまざまな年中行事があった大字畑。
かつての民俗の掘り起こしに、体験された人の記憶を辿ってみたいものである。
(H29. 9.14 SB932SH撮影)
(H29. 9.14 EOS40D撮影)