奈良市須山町で行われている子供の涅槃講について廻っていた。
村の戸数は13軒。
お菓子を貰いに一軒、一軒を訪ねる子どもたちが立ち止った玄関に、である。
ここにもあったと思わず指をさした「旧暦十二月十二日朝の水」と書いた護符である。
用意していたお菓子を子どもに渡していたご婦人に尋ねる護符。
これまで拝見したことがある護符は、逆さに貼っていた「十二月十二日」の文字であった。
五右衛門所縁のある護符とされているような証言がある護符であるが、信憑性は薄らいでいる。
京都検定問題にまで登場する護符である。
釜茹で処刑され、亡くなった日が12月12日であると解説される。
ところが、公家日記の『言経卿記(きつねきょうき)』によれば、文禄三年8月24日(西暦1594年10月8日の記述として、“盗人、スリ十人、又一人は釜にて煎らる。同類十九人は磔。三条橋間の川原にて成敗なり”の記載があることから、亡くなった日に不一致が認められる。
で、あれば泥棒除けのまじない護符はそれで良し、としても、「十二月十二日」の日は一体何であるのか、である。
流行りの護符はいつから始まったのか、そしてどこから始まったのか、であるが、推測の域を出ないが、明治時代以前の旧暦のように思えて仕方がない。
私が推定するのはトシハジメの日。
尤も12日ではなく、13日である。
12月13日は新しい年が始まる基点というのでしょうか。
トシハジメの日になる。と、いうことは、前日をトシオワリの日と呼んでもいいだろう。
一年の切り替わりに厄を祓う。
そんな日に護符を貼って、新しき一年を御守りくださいという願掛けのように思えるのである。
逆さに貼る「十二月十二日」泥棒除け護符の県内事例を調査したことがある。
ある、といっても分布までとはいかない、ごくごく一部の地域の一例である。
一つは
平成23年12月12日に取材した桜井市脇本の元一老家である。
同家でこの習俗をしていると知ったのは前年の
平成22年の10月15日だった。
元一老から知人の家でもしていると聞いて訪問した同市脇本の
K家。
ルーツを辿りたかったが、過去記録・記憶が途絶えて断念した。
翌年、たまたま話題になった歯医者さん。
実家にあるとよ、と云われて取材させてもらったこともある大和郡山市満願寺町の
民家である。
また、ラジオで放送されていた情報に興味をもって始められた天理市
荒蒔の事例もあるが、須山で拝見した護符は、異種のようである。
前置きはそれくらいにして肝心かなめの「旧暦十二月十二日朝の水」である。
玄関柱に貼ってあった護符より前に目についたのは節分のヒイラギイワシだった。
それを撮っていたら、この日に同行取材していた写真家Kの、ここに、と指摘されたのである。
カメラのファインダーはヒイラギイワシをどの方向からとらえたらいいのやらと、向き、角度の焦点は、ヒイラギイワシだった。
まさか、その下にあるとは思っては見なかった、
指摘の気づきにぐっと引いて撮ってから、話しを伺った。婦人の話しによれば、「朝一番に水を汲んで、墨を擦った。夜に書いた」という。
書いて貼る目的は「火事にならんように」である。
なるほど、である。
朝一番の水は井戸水。
柄杓で掬ったかどうかは聞いていないが、目覚めのとき(※実際は起床して落ち着いた時間帯の午前10時ころらしい)の朝一番の水である。
まるで元日の朝に汲む「若水」のように思えた朝の水は防火のためのまじないであった。
婦人の実家は近隣村の奈良市南田原町。
母親が実家で毎年にしていたお札貼り。
当地へ嫁いで来てからも母の教えをずっと継承しているという。
須山町は旧添上郡田原村にある一村。
明治13年に制定された当時の旧田原村行政地区は、須山村をはじめとして茗荷村、此瀬村、杣ノ川村、長谷村、日笠村、中ノ庄村、誓多林村、横田村、大野村、矢田原村、和田村、南田原村、沓掛村、中貫村からなる村。
現在は奈良市が行政区域の東山間部に位置する。
南田原町と云えば、
平成23年4月19日に取材した十九夜講や、南福寺薬師堂で行われている八日薬師のイセキの行事を思い出す。
平成22年9月5日に2年後の
平成24年の取材である。
婦人の実家はどこにあるのか、わからないが機会があれば訪ねてみたくなる護符であるが、先に拝見したい習俗は須山の同家である。
一応は取材許可をいただいたが、気になっていた「旧暦」である。
実施される日は新暦の12月12日なのか、それとも毎年日付けが動く旧暦の12月12日であるのか、だ。
厳密に確かめたくて、再訪したのはこの年の12月2日。
十日早い2日に立ち寄って、あらためて取材の許可願いをした。
承諾してくださった同家の習俗は旧暦の12月12日であった。
旧暦の12月12日と云えば、まだまだ先の年明けになる。
直前になれば家の事情と重なり、できない場合もあるから電話して、と云われたが・・・。
それはともかく再確認させてもらった同家の習俗。
護符を貼る所は、玄関の他に風呂場、茶小屋、農小屋など火を使う建屋の桟に貼るという。
火事にならないように願掛けの護符を桟に貼る。
貼った護符は剥がさずに、前年の他過去に貼ったお札の上に貼る。
水は井戸水ではないようだ。
過去はそうであったかもしれないが、蛇口を捻って注いだコップ1杯の水を硯に落とす。
その水で墨を摺って「旧暦十二月十二日朝の水」を墨書する。
何年か前、母親がまだ生前のころである。
例年、母親が書いたに7枚のお札をもらってきて貼っていたそうだ。
亡くなられた以降に継承するようになったと話していた。
婦人のお札を拝見して、類事例をネットで探してみた。
「朝の水」を書く事例は見つからなかったが、
「水」例がヒットした。
東京都品川区にある㈱アイデアポインの社員さんが記した社のブログにあった「十二月十二日 水」の順当貼りのお札である。
ライターは社員さん。
その社員さんの体験ではなく、いろいろと調べて纏めてくださった記事のようだ。
ライターが云うには、このお札の目的は1.泥棒除け、2.火難除け、3.水難除けになるそうだ。
特に注目すべき点は地域分布である。
記事によれば、逆さ文字の「十二月十二日」護符は、京都・大阪・奈良・和歌山辺りにある泥棒除けであるが、防火のまじないになる「十二月十二日 水」の場合は大阪から和歌山の県境に見られるそうだ。
ときには遠く離れた北海道根室にもあるらしいが、その根拠は紀和山間部の多くの開拓民が移民先に持ち込んだという推論。
ただ、根室は漁港。水難、火難除けである。
年寄りが願いを込めて書いて貼っているようだ。
実に興味深く拝見したブログ記事。
出典を書いてあれば、なお嬉し、であるが・・。
探してみればそのまま転載されていた記事が二つあった。
一つは
ブログ。
二つ目は
ベストアンサーであった。
(H29. 3.26 EOS40D撮影)