マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

旧都祁村南之庄・宮参りの辻立て幣

2020年11月20日 10時23分55秒 | 民俗あれこれ(護符編)
目的地は旧都祁村の白石。

東西を通り抜ける街道はよく通る道。

白石に到着する一歩手前にあった御幣。

石垣を組んだ家、その角地にあった幣。

この地は白石の隣村になる南之庄。

これって何。

初めて拝見する小幣。

不思議な光景に佇んでいたことがある。

平成28年10月20日、地区に住むKさんに伺ってわかった。

御幣は宮参りの辻立て幣だった。

この日も通りがかりに拝見した小幣。
いつ立てたのかわからないが、宮参りをされた証し。

幣は2本。古いのは朽ちて黒ずんでいるが、もう一つは比較的新しい。

近寄ってみてわかった宮参りの辻立て幣。

この日は先勝。

6日前の8日は大安。

そのときに南之庄の氏神さんである国津神社に宮参りされたのであろうか。

(H30. 7.14 EOS7D撮影)

逆さ文字の十二月十二日水の護符

2020年04月24日 10時15分06秒 | 民俗あれこれ(護符編)
この日は叔母さんの四十九日の満中陰法要。

料理屋でなくご自宅で行われる法要に大勢の親類縁者たちが参集された。

扉を開けて入った玄関口。

扉を閉めようと振り返ってときに思わず口にした、えっこれは・・。

そう、紛れもない「十二月十二日」の護符であるが、当家はその「十二月十二日」に続いて「水」の文字もある。

「水」の文字で思い出した他所の護符。

在所は田原の里の一角になる奈良市須山町である。

在所の一軒に護符が見つかった。

その文字並びは正位置に書く「12月12日の水」である。

宜しければ撮らせてほしいと願った民俗の一つ。

直前になって電話を架けたが、やんわりとお断り。

無理なかろう、である。

当家は酒販売店。

お店の合間に「十二月十二日水」の文字を書く。

その数、多しのようだ。

書いておいた護符は何時貼られるのか。

お店を閉めた夜中。

12月12日の夜中である。

糊付けでなくセロテープでぺたぺた貼るようだ。

祈りもなにもせずに、ただただ貼るだけだから・・・という。

義母が生前のころにしていた「12月12日水」のお札貼り。

「あんたらも貼りや」と云われてしていたそうだ。

お話しを伺ったお嫁さんは、水曜日の「水」だと思っていたが、義母は天下の石川五右衛門が火で焚いた湯釜に沈められて釜茹で処刑をされたから、「水」だと話していたそうだ。

私がこれまで取材した民家の在り方はさまざま。

糊付けするケ-スもあるし、セロテープ貼りも。

貼った護符は毎年剥がして新しく貼る家もあれば、その護符の上から貼る家も。

天理市荒蒔はA家セロテープ。

桜井市脇本のB家C家もセロテープ。

大和郡山市万願寺町のD家もセロテープである。

ちなみに私の祖母が生前にしていた「十二月十二日」護符は糊付け。

毎年に剥がしていたような気がする。

ところで「水」の文字がある護符である。

それは初めて拝見したわけでなく、前年の3月に取材で訪問した奈良市須山町のE家であるが、表現は異なり「朝の水」であった。

しかもE家は逆さ文字でなく正位置の貼り方であった。

昨年の12月は京都の事例である。

「十二月十二日」の護符を書いて、玄関や窓の桟などに貼っている民家の事例も興味深かった。

(H30.10.27 SB932SH撮影)

三菱重工ビーバーエアコンのリコール作業の際に再発見した方違護符

2019年10月02日 09時39分05秒 | 民俗あれこれ(護符編)
長年に亘り、私の部屋で活動してくれる三菱重工製ビーバーエアコンがある。

購入した当時は夏場の冷房が中心のエアーコンディショナー。

いつしか月日が過ぎて冬場も利用せざるを得ない年ごろになった。

数週間前にビーバーエアコンを製造・販売する三菱重工の事業所から電話があった。

なんでも発火の恐れがあるという。

消費者を大切にしたいメーカーが動いた。

いわゆるリコール対応

型番が、その恐れになっている対象機種あるのかはで公開されるネット情報で照合願いたいということだった。

まさに該当するビーバーエアコン

ネットに応えると事業担当者から電話があった。

伝える女性はお客様のご都合のつく日の設定である。

事業所希望の日は先約の用事があった。

それならと設定したリコール対応日は5月のGW明けの月曜日。

朝9時までに修繕に寄る時刻を伝えると聞いている。

当日は緊急で受診する医院行き。

架かってきた電話は朝8時40分。

丁度間に合って、11時に到着予定となった。

そのビーバーエアコンを設置いるすぐ横に柱がある。

方角からいえば我が家の裏鬼門にあたる柱。



貼ってある護符に「方違幸大神大麻」とある。

我が家は新築。

大阪・住之江から大和郡山市の方角に移転するのは相応しくないというお告げがあった。

そのお告げは方違の神さんにお願いすれば問題はないと紹介されて大阪・堺市にある方違(ほうちがい)神社に出かけた。

お願いする件は新築した終の棲家に安住の暮らしができますように、ということだ。

方除祈願に参拝して授かった護符は今でもこうして我が家の安全を護ってくれている。

まずは点検しますと伝えられて作業に入る。

それから20分後にはもう完了しましたという。

いつの間に修理したのかまったくわからない。

目の前でしている時間帯はずっとパソコン処理をしていた。

静かに対応された仕事人。

終わって伝えられたことは修理を要しない状況であったという。

結線するリード線は断線している状況でもないからご安心くださいという。

仕事人は続けて云う。

ただ、そこはむき身なのでリード線は湿気が被らないように保護したという。

もう一つの仕事をしておいたという箇所は外壁と内壁の空間である。

すべてではないが、見える範囲にパテで穴埋めをしたという。

屋外には室外機がある。

室内空調機間を接続するダクトは穴を開けた外壁からぶち抜いて繋げている。

外壁は雨があたっても問題が発生しないようパテで塗り固めているが、室内側の穴は特に何もしないのが現状である。

と、すればそこに空間が生じる。

外壁と内壁の間は空間。

湿気はある。

どこからともなく風が吹いて湿気がむき出しのリード線に影響を与える。

そういう構造に見える範囲にパテで塗り固めた仕事人。

我が家は築30云年間も経った木造住宅。

建築しているときの毎週に亘って職人さんを慰労していた。

お茶は欠かせない慰労日。

お弁当も予め用意させていただいたこともあるし、家で飲んでもらえるようにワンカップ酒も差し入れしたことを覚えている。

そんなことをふと思い出した今回のリコール対応。

製品機種番号はSRKZ25EH-W。

号機番号は656500025RR。

綺麗に掃除もされているし、特に問題もなかったが煙草のヤニで色が・・・とだけ。

煙草は心臓僧帽弁閉鎖不全症に陥った平成27年7月10日からは一切を絶った。

健索切除縫合形成手術をきっかけに辞めた。

それからのパソコン部屋。

室内空気はすっかり奇麗になった。

それはともかく、SRKZ25EH-Wの製造年は2006年だから、かれこれ14年間も正常に稼働してきた。

いつまでもってくれるかわからないが、ガンバってや。

(H30. 5. 7 SB932SH撮影)

天井に「空」

2018年08月03日 09時09分18秒 | 民俗あれこれ(護符編)
魔除けの紫陽花習俗取材に寄せてもらっていたS家である。

ふと見上げたお部屋の天井である。

仏壇を納めているその一角の天井に「空」の墨書を貼っていた。

初めて見る、これは・・。

新築した際に仏壇の位置を替えた。

神さんは天に戻るとかいうが、仏さんもそういう観念があるが、これは何だろう。

「空」の書はご主人が書いていたという。

ご祈祷してもらった「空」の書。

ネット等で調べてみれば、「天上符」のようだ。

「天」の書は「天上符」。

「雲」の文字なら「雲上符」。

仏壇屋さんが詳しいようだが・・・。

要は、仏壇や神棚があるお部屋の真上に2階の部屋がある場合である。

2階に居るときに、1階に仏壇があることを忘れて、踏んでしまうことになる。

そのような場合に貼る天井の護符が「天上符」、「雲上符」。

その上(2階)には何もない天や雲であると知らせる書。

仏壇の上は清浄で何もないという一種まじないのようなものである。

仏壇屋さんに売っているらしく、裏面シールを剥がして貼るタイプもあるようだ。

(H29. 6.26 EOS40D撮影)

上・民家の厄除け護符

2018年07月18日 08時41分59秒 | 民俗あれこれ(護符編)
昭和5年生まれの母親の話しによれば葛城市の二上山登り口に行く近鉄電車の二上神社口駅から歩いたところにある神社にあったそうだ。

そうであれば神社は通称加守神社の名で呼ばれることが多い葛木倭文座天羽雷命神社であるが、果たしてそうだろうか。

加守神社の摂社になる神社がある。

二上山雄岳山頂付近に鎮座し、大国魂命を祀る葛城二上神社ではないだろうか。

それとも二上山雌岳に神蛇大王(竜王)を祀る当麻寺中之坊鎮守社であるかもしれない。

と、いうのもお札にある文字が「氷柱」。

なぜに氷なのかわからないが竜王を祀るだけに水の神さんと考えられるのだ。

ずいぶん前のようなことで貼ってから何十年にもなる小さなお札。

厄除けに効くとかで貼っているそうだ。

もう一つ、特徴的なお札がある。



一枚は□で囲った「守」の一文字。

その横に貼っていた文字は縦列が「北守閉止南」。

左右に「東西」とある。

つまりは東西南北に守られた「守閉止」。

貼ってあった場所は玄関扉の真上。

つまりは施錠。

閉めた扉によって厄を入れないようにしていると思われる。

この2枚に「守」がある。

「守」とくれば神社は加守神社。

たぶんにそうであるが、母親は神社がどこであるのか、所在地も覚えていない。

厄除けのお札は玄関に門屋。

横にあった「立春大吉」も厄除け。

立春時間(立春の日の深夜の1時頃)を過ぎてから(立春の日の早朝)に貼るのが一番いいとされているお札である。

(H29. 6.11 EOS40D撮影)

須山町・旧暦十二月十二日朝の水護符

2018年02月15日 08時59分40秒 | 民俗あれこれ(護符編)
奈良市須山町で行われている子供の涅槃講について廻っていた。

村の戸数は13軒。

お菓子を貰いに一軒、一軒を訪ねる子どもたちが立ち止った玄関に、である。

ここにもあったと思わず指をさした「旧暦十二月十二日朝の水」と書いた護符である。

用意していたお菓子を子どもに渡していたご婦人に尋ねる護符。

これまで拝見したことがある護符は、逆さに貼っていた「十二月十二日」の文字であった。

五右衛門所縁のある護符とされているような証言がある護符であるが、信憑性は薄らいでいる。

京都検定問題にまで登場する護符である。

釜茹で処刑され、亡くなった日が12月12日であると解説される。

ところが、公家日記の『言経卿記(きつねきょうき)』によれば、文禄三年8月24日(西暦1594年10月8日の記述として、“盗人、スリ十人、又一人は釜にて煎らる。同類十九人は磔。三条橋間の川原にて成敗なり”の記載があることから、亡くなった日に不一致が認められる。

で、あれば泥棒除けのまじない護符はそれで良し、としても、「十二月十二日」の日は一体何であるのか、である。

流行りの護符はいつから始まったのか、そしてどこから始まったのか、であるが、推測の域を出ないが、明治時代以前の旧暦のように思えて仕方がない。

私が推定するのはトシハジメの日。

尤も12日ではなく、13日である。

12月13日は新しい年が始まる基点というのでしょうか。

トシハジメの日になる。と、いうことは、前日をトシオワリの日と呼んでもいいだろう。

一年の切り替わりに厄を祓う。

そんな日に護符を貼って、新しき一年を御守りくださいという願掛けのように思えるのである。

逆さに貼る「十二月十二日」泥棒除け護符の県内事例を調査したことがある。

ある、といっても分布までとはいかない、ごくごく一部の地域の一例である。

一つは平成23年12月12日に取材した桜井市脇本の元一老家である。

同家でこの習俗をしていると知ったのは前年の平成22年の10月15日だった。

元一老から知人の家でもしていると聞いて訪問した同市脇本のK家

ルーツを辿りたかったが、過去記録・記憶が途絶えて断念した。

翌年、たまたま話題になった歯医者さん。

実家にあるとよ、と云われて取材させてもらったこともある大和郡山市満願寺町の民家である。

また、ラジオで放送されていた情報に興味をもって始められた天理市荒蒔の事例もあるが、須山で拝見した護符は、異種のようである。

前置きはそれくらいにして肝心かなめの「旧暦十二月十二日朝の水」である。

玄関柱に貼ってあった護符より前に目についたのは節分のヒイラギイワシだった。

それを撮っていたら、この日に同行取材していた写真家Kの、ここに、と指摘されたのである。

カメラのファインダーはヒイラギイワシをどの方向からとらえたらいいのやらと、向き、角度の焦点は、ヒイラギイワシだった。

まさか、その下にあるとは思っては見なかった、

指摘の気づきにぐっと引いて撮ってから、話しを伺った。婦人の話しによれば、「朝一番に水を汲んで、墨を擦った。夜に書いた」という。

書いて貼る目的は「火事にならんように」である。

なるほど、である。

朝一番の水は井戸水。

柄杓で掬ったかどうかは聞いていないが、目覚めのとき(※実際は起床して落ち着いた時間帯の午前10時ころらしい)の朝一番の水である。

まるで元日の朝に汲む「若水」のように思えた朝の水は防火のためのまじないであった。

婦人の実家は近隣村の奈良市南田原町。

母親が実家で毎年にしていたお札貼り。

当地へ嫁いで来てからも母の教えをずっと継承しているという。

須山町は旧添上郡田原村にある一村。

明治13年に制定された当時の旧田原村行政地区は、須山村をはじめとして茗荷村、此瀬村、杣ノ川村、長谷村、日笠村、中ノ庄村、誓多林村、横田村、大野村、矢田原村、和田村、南田原村、沓掛村、中貫村からなる村。

現在は奈良市が行政区域の東山間部に位置する。

南田原町と云えば、平成23年4月19日に取材した十九夜講や、南福寺薬師堂で行われている八日薬師のイセキの行事を思い出す。

平成22年9月5日に2年後の平成24年の取材である。

婦人の実家はどこにあるのか、わからないが機会があれば訪ねてみたくなる護符であるが、先に拝見したい習俗は須山の同家である。

一応は取材許可をいただいたが、気になっていた「旧暦」である。

実施される日は新暦の12月12日なのか、それとも毎年日付けが動く旧暦の12月12日であるのか、だ。

厳密に確かめたくて、再訪したのはこの年の12月2日。

十日早い2日に立ち寄って、あらためて取材の許可願いをした。

承諾してくださった同家の習俗は旧暦の12月12日であった。

旧暦の12月12日と云えば、まだまだ先の年明けになる。

直前になれば家の事情と重なり、できない場合もあるから電話して、と云われたが・・・。

それはともかく再確認させてもらった同家の習俗。



護符を貼る所は、玄関の他に風呂場、茶小屋、農小屋など火を使う建屋の桟に貼るという。

火事にならないように願掛けの護符を桟に貼る。

貼った護符は剥がさずに、前年の他過去に貼ったお札の上に貼る。

水は井戸水ではないようだ。

過去はそうであったかもしれないが、蛇口を捻って注いだコップ1杯の水を硯に落とす。

その水で墨を摺って「旧暦十二月十二日朝の水」を墨書する。

何年か前、母親がまだ生前のころである。

例年、母親が書いたに7枚のお札をもらってきて貼っていたそうだ。

亡くなられた以降に継承するようになったと話していた。

婦人のお札を拝見して、類事例をネットで探してみた。

「朝の水」を書く事例は見つからなかったが、「水」例がヒットした。

東京都品川区にある㈱アイデアポインの社員さんが記した社のブログにあった「十二月十二日 水」の順当貼りのお札である。

ライターは社員さん。

その社員さんの体験ではなく、いろいろと調べて纏めてくださった記事のようだ。

ライターが云うには、このお札の目的は1.泥棒除け、2.火難除け、3.水難除けになるそうだ。

特に注目すべき点は地域分布である。

記事によれば、逆さ文字の「十二月十二日」護符は、京都・大阪・奈良・和歌山辺りにある泥棒除けであるが、防火のまじないになる「十二月十二日 水」の場合は大阪から和歌山の県境に見られるそうだ。

ときには遠く離れた北海道根室にもあるらしいが、その根拠は紀和山間部の多くの開拓民が移民先に持ち込んだという推論。

ただ、根室は漁港。水難、火難除けである。

年寄りが願いを込めて書いて貼っているようだ。

実に興味深く拝見したブログ記事。

出典を書いてあれば、なお嬉し、であるが・・。

探してみればそのまま転載されていた記事が二つあった。

一つはブログ

二つ目はベストアンサーであった。

(H29. 3.26 EOS40D撮影)

巡り合えたあじさい節句

2017年12月16日 08時56分26秒 | 民俗あれこれ(護符編)
長居をするにつれ溜まってきたものが気にかかる。

徐脈もちの関係で利尿剤を服用している。

少なくとも1時間に一度は排尿しないと身体が膨満、浮腫みになる。

トイレを貸してくださいとお願いして使用させていただく。

それからしばらく経ったことだ。

同行取材しているKさんがトイレに吊っている包に文字があるという。

もしかとしてこれは、といって確認した。

紙包に書いてあった文字は日付である。

家人に尋ねた「これなんですのん」の答えは「毎年の6月に庭に咲いているあじさいを摘んできて包んでいます」という。

では、「この文字はなんですのん」とまたもや問合せ。

これは女性が、シモの世話にならないように祈願するまじないのようなものだと教えてくださる。

このあじさい花のまじないはある民俗本に載っていたと云ったのはKさんだ。

地域は不明であるが、なんとなく山城町の上狛のようだった、という。

女性だけに信ぜられた民間信仰。

Sさんの奥さんの母親が住む桜井市芝の友だちから聞いたまじないを嫁入り先のS家に伝えたという民間信仰。

そのことを知った義母は、それは良いことだと、私も一緒にしたいと云って続けてきた民間信仰である。

こうした民間信仰は母親、或いはおばあさんから子どもに伝えていくのが常であるが、年齢を遡る逆の形態が面白い。

さて、このあじさいのまじないには呪文がある。

ほぼ半年前にトイレに祭っていた紫陽花はとっくに枯れている。

一年間はそのまま放置して翌年に新しい呪文を書いた紙で、新しく摘み取った紫陽花を包んでいるから、拡げて中身を見せてくださった。

呪文の願文は「鳥枢沙摩明王 オンクロ ダナウウン ジャク ランラン」。



さて、それがどういう意味をもっているかわはまったくわからない、という。

願文に日付はもとより、願主の名前、生年月日も半紙に書く。

書いた願文は紫陽花を覆い隠すように包んで水引で括る。

それをトイレにもっていって、逆さに吊る。

手を合わせることのないまじないである。

ネットで調べた「鳥枢沙摩明王」は、「うすさまみょうおう」或いは「うすしまみょうおう」読みとする密教の明王の一尊。

真言宗、天台宗、禅宗、日蓮宗などの諸宗派で信仰されるとあった。

しかも、である。

飯島吉晴氏が報告された論考『烏枢沙摩明王と厠神』があると・・。

「鳥枢沙摩明王」はトイレの神さま。

「うっさま明王」の名で親しまれているらしい。

また、陳甜氏が論考された『ポックリ信仰研究序説:ポックリ信仰の諸相(東北文化研究室紀要)』によれば、「鳥枢沙摩明王」はトイレの神様也。

「不浄を厭わず、不浄な場所に巣食って諸病災厄の因をなす魔鬼の類を抑える呪力を有するために、厠(かわや)の守護神」である。

ごく普通の一般家庭では、周囲の人の世話をする役目とされる嫁に面倒をかけたくない、とりわけシモの世話にならんように、という願う人は多い。

大事なことはS家の嫁と姑は、お互いがシモの世話にならんようにと思いやっていることである。

シモの世話の件に関しては嫁、姑間のことでもないと思っている。

親子、或いは義理親子であっても、男女関係なくご互いが、寝たきりにならず、家族の世話もかけずにポックリと逝く安楽往生が理想ではないだろうか。

葛城市染野の傘堂祈願もシモの世話にならんようにとする民間信仰。

方法論が違うだけで願いは同じだと思っている。

呪文の「オンクロ ダナウウン ジャク ランラン」は鳥枢沙摩明王のご真言であったが、何故に紫陽花であるのか。

何故に6月の節句であるのか、謎は残った。

ちなみにネットをぐぐって得られたあじさい祈願の方法である。

あじさい神社で知られる兵庫県相生市若狭野町野々に鎮座する「若狭野天満神社」のHPで「魔除けあじさいお守り」を詳しく紹介されていた。

(H29. 2.11 EOS40D撮影)

旧都祁村南之庄の小幣立て

2017年01月13日 09時54分49秒 | 民俗あれこれ(護符編)
小山戸で行われた夏神楽のおせんどう取材を終えて同旧都祁村の上深川に向かう道中である。

南之庄の国津神社あたりの田畑を眺めながら集落に入った。

たぶんここだけであろうと思う茅葺民家があった。

夏日であった日であるがアジサイ花が咲いていた。

ここを通る道は旧白石街道。

屋敷周りにある黒い腰板に白壁土塀に屋敷門。

風情を感じた民家を撮らせてもらった。

ここより西へ少し動く。

左手に見える石垣造りの家であるが、家屋はその石垣の高さで見えない。

上を見てもなにもない。

下を見れば何かがある。

白い色の小幣が2本。



パイプに挿してあることを考えれば常にそうしていることだろう。

なにゆえの幣であるのか。

お祓いをするにしては常々、いつもそうしているということだ。

この日は急がねばならない。

滞在時間が長くなっては間に合わない。

付近に人がおらずに今回は断念。

近くに来るようなことがあれば、ぜひとも尋ねてみたい幣の在り方である。

そのことについては後日(平成28年10月9日)に判明した。

小幣を立てていた場所より数軒向こうの家におられた婦人の話しによれば、宮参りに行く際にここへ立てるというのである。

お宮参りは地域の氏神さん。

国津神社である。

お宮参りはその神社でしてもらう。

そこで待つ村神主に祓ってもらうという。

何故にここなのかはわからないが、昔からこの場にしているという。

村神主は存知しているKさんだ。

今度、お会いしたら教えてもらおうと機会を狙っていた。

その日から十日目辺り(平成28年10月20日)。

榛原の平井や萩原小鹿野で聞き取りを終えて帰路につく。

その道中になる旧都祁村。

たぶんに居てはると思って立ち寄った。

気になる小幣はやはり国津神社に向かうときに通る辻に挿す宮参りの祓いの幣になるそうだ。

Kさんが村神主を務めて2年目になる。

これまで5人の子どもの宮参りのご祈祷をしたという。

南之庄で生まれた子どもはご祈祷をしてもらいたい場合は村神主に頼む。

それは孫のお爺さんやお婆さんが気づいてお願いするものだという。

祖父母でなくとも両親がお願いする場合もあるらしいが、だいたいが祖父母。

村で暮らしてきたからお願いするのは忘れない。

南之庄で行われている宮参りの在り方は他所では聞いたことがない。

たぶんにない、と思うのだ。

実は宮参りの小幣を挿す処はもう一カ所あるという。

ここより数十メートル。

神社寄りの道にあるという。

それも確かめたくなったが、この件を聞き終わったのは夕暮れの時間帯。

上出の人らが参るときにはその場所に小幣を挿して国津神社に参るそうだ。

要するに住んでいる垣内の位置からより近い小幣立てに挿すというわけだ。

挿す人は男の人の役目になるという。

なぜに南之庄ではこのような習俗があるのだろうか。

それはともかく宮参りの人たちが村の街道を歩いておれば、それを見つけた人は大慌てで祝いのヒモセンを付けるそうだ。

誰がいつ頃に宮参りするのか、村に伝わっているのだろう。

村が誕生を祝っている宮参りの在り方は極めて珍しく、Kさんに取材をお願いした。

役期間中であればいいのだが・・・といえば引継ぎ事項にいれておくと・・。

(H28. 7. 3 EOS40D撮影)

荒蒔十二月十二日の護符

2015年09月04日 09時04分52秒 | 民俗あれこれ(護符編)
所用で立ち寄った天理市荒蒔町。

前當家の作業場に逆さのお札が貼ってあった。

お札の文字は「十二月十二日」。

12月12日の朝、こうして息子が貼っていたと再現してくれた。



建て替える前の母家には扉、窓などあらゆるところに貼っていたそうだ。

夫妻の話しによれば、毎日放送ラジオの「ありがとう浜村淳」で浜村さんが話しをしていたのを聞いて、「これはえーで、泥棒除けになるんや」と云って10年前から始めたと云う。

釜ゆでの刑に屈した盗賊頭の石川五右衛門が屋根から泥棒に入ろうとするのを阻害すると信じられた護符。

屋根から覗いたときに判るように逆さにして貼るという・・・伝えである。

何故に「十二月十二日」であるのか。

京都通百科事典によれば、五右衛門が釜ゆで処刑された日だとある。

まことしやかに流布している説だが、五右衛門が誕生した日という説もあるようだ。

「十二月十二日」の護符は家内の実家もしていたし、大阪生まれの我が実家でも。

明治39年生まれのばあさんがしていた。

これまで調査した地域は葛城市や御所市にもあったと聞いている。

大和郡山市内でも数軒の事例を聞いたことがある。

桜井市の脇本では知人から泥棒除けの話しを聞いてしているという民家もある。

流布は広範囲であるが、荒蒔の事例は公共電波が伝播させた事例であった。

「十二月十二日」の護符の話題を提供してくれた荒蒔の前當家。

荒蒔にケイチンの鬼打ち行事がある。

平成17年1月12日に拝見したことがある。

鬼を射止める弓はカワヤナギの木。

矢はススンボの竹。

前日に神社五人衆が作るらしい。

例年は12本の矢にするが、新暦の閏年では13本になるという。

射止めた矢を貰って帰ったその年に男の子が生まれるというのだ。

ちなみに前當家は平成28年のケイチン當家を務めるそうだ。

(H26.12.14 EOS40D撮影)

満願寺町のお札

2012年03月07日 06時43分32秒 | 民俗あれこれ(護符編)
奈良県立民俗博物館の玄関ホールでミニ・モノまんだら展「十二月十二日のお札」を展示されている。

泥棒除けのまじないだとされる十二月十二日の文字を書いたお札を玄関にはっておく。

民間における風習が各地で見られるが家の風習だけにその存在を見つけることはとても困難である。

額田部町に住むY婦人はそのお札のことは知っていたが貼ってはいないという。

同町に住むS婦人は以前に住まいしていた母屋で行っていたという。

いずれもかつてのことだ。

そんな話題をした行きつけの歯医者さん。

先生が生まれ育った実家に残っているかも知れないという。

あれば、と撮影願いをしていたのであった。

そうして出かけた先は満願寺町のI家。

父親がお住まいだ。

玄関を開けてここだと指さす先にあったお札。

まぎれもない十二月十二日のお札であるが逆さではない。

お札の横には「立春大吉」のお札もある。

疫鬼を家外に追い払って「福」を招き入れるのであろう。

これもまたまじないのお札である。

十二月十二日のお札は24時に貼るのが良いとされる。

豊臣秀長の菩提寺として知られる大和郡山の春岳院。

かつては午前0時に訶利(梨)帝母(かりていも)=鬼子母神の尊前で祈祷した水を用いて墨を摺った。

梵字に頭を添えて「十二月十二日」と墨書した。

そのお札は檀家に配っていたと、ミニモノまんだら「十二月十二日のお札」の解説にある。

立春大吉も同じように2月3日の24時に墨を摺って墨書したお札を貼っておく。

そうしておけば鬼は入ってこずに福を招いて一年間が無病息災で過ごせるというまじない。

どちらも家内安全を願う護符に違いないが、貼った人(母親)は此の世に居ない。

話を聞いておけばルーツの一つが判ったかも知れないが、先生も父親も聞かずじまいだった。

あの世で聞くしかないと話された。

ところで、700年前(1309年・宮廷絵師高階隆兼作)の鎌倉時代後期の暮らしぶりを描いた絵巻「春日権現験記絵」には屋根に登った赤鬼が見られる。

屋根から室内を覗き込む鬼の姿だ。

疫病神、異国の或いは怨霊の姿の鬼は病に伏す家人を伺う。

それを見て思い起こすのが「十二月十二日のお札」だ。

釜ゆでの刑に屈した盗賊頭の石川五右衛門が屋根から泥棒に入ろうとするのを阻害すると信じられたお札。

それゆえに文字を逆さにして貼るのだと・・・伝えがある。

「立春大吉」のお札の文字は左右対称。

表から見ても裏からでも同じ文字である。

ゆえに玄関に入らずとも鬼が見えるのは立春大吉の文字。

鬼は振り返り戻っていくという。

上下、裏表に違いはあるものの逆さに貼る十二月十二日のお札はもしかとすれば邪鬼除けだったのではないだろうか。

(H24. 1.17 EOS40D撮影)