マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

五條市南阿田の流し雛の展示

2024年09月25日 09時11分00秒 | 民俗を観る
只今、開催中の県立民俗博物館「博物館でひなまつり」の展示物に目がテンになった。

はっとしたソレは、奈良県五條市南阿田で行われた吉野川・流し雛

女児が吉野川の岸辺から流す竹の皮でつくった小舟にのせた千代紙製のお雛さま。

取材に出かけた南阿田で購入した流し雛は、県立民俗博物館に寄贈した。

そのものを展示してくださった。

学芸員から伝えられて、思いだした。

平成24年3月20日に、県立民俗博物館に寄贈した祭具の一つであった。

久しぶりにご対面した流し雛に、再び出会えたのが嬉しい。



後日に再訪したら、なんと県立民俗博物館に提供した南阿田で行われた吉野川・流し雛の写真も展示していた。

幼いころを思い出されたのかわからないが、成年女性が下流に流れてゆく流し雛を観る視線が愛おしい。

後方に展示された立ち雛にご興味あるかたは、こちらを参照ください

なお、展示写真の解説・コメントに「”流し雛”は、身の穢れを祓う、という三月節句の人形の原意に近いものと、いえるでしょう。戦前までは、五條市各地に”流し雛”の風習が伝えられていました。南阿田では、戦中戦後の一時期が途絶えていましたが、昭和44年(1969)に復活、流しびな保存会によって、その伝統が、今に受け継がれています。現在は、4月の第一日曜日の午後1時から源龍寺において雛供養が行われたのちに、晴れ着に身を包んだ少女たちが、手に手に雛を持って吉野川の河原に向かい、雛流しが行われます」と、あり、調査・撮影に私の氏名を記載してくださった。

(R4. 2.19 SB805SH 撮影)
(R4. 3. 4 SB805SH 撮影)

県立民俗博物館の博物館ひなまつり

2024年09月24日 07時53分48秒 | 民俗を観る
私の写真展は、火のマツリ

大和の年中行事よりも、もっと盛況なのが、県立民俗博物館・本館内で行われている博物館のひなまつり

「私がとらえた大和の民俗」と同じく令和4年3月27日・日曜日までの企画展

幕末から昭和中期の雛人形や郷土玩具などを展示している。



展示物は、云十年前、いやもっと前に博物館に寄贈されたもの。

寄贈家に飾っていた古い時代のお雛さま。



御殿雛から、愛らしい豆雛など、いろいろ・・

学芸員のお話を聞く、となるほど、なるほどの世界。

知らないこといっぱい・・。

観覧・入館に料金(※大人200円/65歳以上は県内外とも無料)は、受付窓口に。

あらためて、お雛さんに関係する地域行事にも足を運びたくなってきた。



県内事例もあるには、あるが少し足を伸ばして京都岐阜岡山高知など、類似例の民俗調査をしたいもんだ。

(R4. 3. 4 SB805SH 撮影)

令和4年のならみんぱくのひなまつり

2024年09月12日 07時34分26秒 | 民俗を観る
今年も開催された県立民俗博物館の企画展。

2月から3月にかけて展示されるひなまつり。

2月12日(土)よりはじまった展示は「古民家でひなまつり」。

展示会場は県立大和民俗公園内に施設化した古民家。

無料で入場(座敷不可、土間まで)、拝見できる古民家施設。

今年もまた、旧臼井家住宅地。

公園に入ってすぐ左。

古民家建物がすぐ見える。



会期は、先行している関係から、3月6日(日)まで。

閉園時間近くになれば、そのアナウンスがあるから、よく耳を澄ませてね。

一方、大物は県立民俗博物館の本館展示。

「古民家でひなまつり」より、一週間遅らせた2月19日(土)から3月27日(日)までの期間展示。

会場は本館だから、午前9時から午後4時までの展示する「博物館でひなまつり」。

今回は、京都芸術大学が協力している。

授業に民俗文化財の修復実習作業。

長期間に亘った修復期間。

立派な御殿雛は、江戸時代に近畿圏で広がった雛飾り。



京都御所を見立てた御殿に雛人形を飾る。

戦後においては、百貨店や人形店で販売される雛人形は、段飾りが主流を占め、御殿雛は見られなくなった。

展示の御殿雛は、御所市寺内町の豪商の家に江戸末期から明治時代を経て昭和6年まで受け継がれていたもの。

幅約4メートルにもおよぶ大型の御殿雛に圧倒される。

経年劣化が進んだ御殿。

木部の破損やゆがみ、接合部の緩み、襖や障子などに紙の破れなどが見受けられ、修復は、それぞれの素材に応じた修復技術が必要になった、と授業生は語る。

当時、担当した学芸員から、聞いたたいへんな作業


その一部が、ネットに公開されている。

館内入館に観覧料金は、大人が200円に大学生は150円。

なお高校生以下および65歳以上は無料。

現在は、古民家に一部展示。

御殿雛などの大きな展示物は、毎年において収蔵庫より選択し、よりテーマに沿った展示をしてきた。

毎年の展示を愉しみにしている方たちは、実に多い。

かつて私ども民俗を撮るカメラメンが展示してきた「私たちがとらえた大和の民俗」写真展の展示期日をどうするか、検討した結果、入館が多い時季に合わせたこともある。

それが、ひな祭りの期間だった。

今回、最後になった「私たちがとらえた大和の民俗」古民家写真展も、その時季に寄り添うかたちで、展示日を決めた。

まぁ、早い話がひな祭り企画展に便乗したワケであるが・・・

只今、10回目になる「私がとらえた大和の民俗」写真展の仕掛中。

令和4年、今月の2月23日(水・祝)から3月27日(日)までの期間。

展示会場は、旧臼井家住宅地から、歩いてすぐ近くの旧荻原家住宅ならびに旧赤土離れ座敷。

古民家活用の写真展は、今回が2回目。拝見された方々も、私たちカメラメンも、古民家展示に助けられた。

風情のある古民家の屋内展示。

おそらく、日本全国において古民家屋内展示したのは県立民俗博物館が初だったろう。

これまで何度も議論した古民家活用。

実行できたのは、本館の耐震工事であった。

本館の工事中は一切すべての展示もできない。

ならば、と決めた古民家活用。

本館工事を終えてリニューアル展示をした県立民俗博物館。

導線を広げ、明るく見やすいようになったリニューアル展示。

これまでの暗いイメージから脱した


ただ、残念なことに、私たち大和のカメラマンが学芸員とともに活動してきた写真展は、今回の第10回をもってラスト展示。

県立民俗博物館の意向によって幕を閉じる


さて、本題は「令和4年のならみんぱくのひなまつり」である。

先にあげた京都芸術大学が協力し、京都御所を見立てた御殿に飾った雛人形。

細かい部分を拝見。



衛視の立ち姿を観るのも、また愉し・・

古風な内裏雛を観るとき、いつも頭の飾りを観てしまう。



どことなくわかりそうな享保雛に古今雛。



私が尤も被写体にしたい麗しき内裏雛。

一つは、江戸時代ものの内裏雛は川西町結崎。

天保七年の作は奈良市の秋篠からもある。

2体を見比べていると、どことなく顔の表情が硬い、柔らかいにわかれる。

作者、或いは工房の違いであろう。

今回の展示にいちばん興味を惹いた雛人形は、陶器製の立ち雛。

京都でつくられたとされる立ち雛であるが、壁に立てることなく、寝かせた状態で展示していた。



手前に並べて展示していた紙製の雛人形は、私が入手してきた五条市南阿田の吉野川流し雛。

行事の一環に地域の婦人たちがつくった流し雛。

いずれも現地で購入した手つくり流し雛
である。

一事例に、県立民俗博物館に寄贈した流し雛が、ここに展示していた。

今回も、また展示企画は横山浩子学芸員。



本日は、新聞記者の来館に、令和4年のならみんぱくのひなまつり取材を受けていた。

ちなみに、私がアップしたFBに、この立ち雛を、画面で観ていた知人のFさんから、「誰の作品ですか?」と、コメントされた。

「上段の立雛ですか?それとも下段の千代松紙でつくった紙雛のことですか?いずれにしても作者はお会いしたことはありません。立雛は京都の立雛作者。作風でネット探しましたがわかりません。紙雛は行事が行われた五條市南阿田に住む婦人たちがつくっていた竹舟とセットした紙雛」、と回答したら、「下に作者名をいれてほしかったです。いずれにしても素晴らしい作品です」と、返答された。

わかるものなら作者名は記載したいが、特に上部に配置した京都の立ち雛。

頭も衣装も陶器製。

手持ちに事例がない。

返答はしてみたが、もやもやが残る。

作者は、おそらく工房集団ではないだろうか。

300年前に造られた仏師が製作したと考えられる伏せ鉦が、後世に残されている。

例えば、「室町住出羽大掾宗味作」とか、「西村左近宗春作」の銘を刻印している打ち鉦である。

民俗史料など手掛かりは持ち合わせていないが、おそらく代表仏師の名を刻印したのでは、と思っている。

世にたくさん見られる(※残されている)鉦は、全国に散らばる。

大量に製作した可能性も否定できない。

あくまで推定であるが、独りコツコツした製作作業でなく役割をわけた集団作業では、と思っている。

横山浩子学芸員の話によれば、展示に回答のできない明治期にしているが、実は江戸期だった、という。

たぶんであるが、時季も、製作場所も不明。

工房集団で造りこんだ立ち雛ではと、推定されている。

工房であれば、作者の名は表に出ない。

実は、展示した立雛は学芸員が、個人的にあるところから買ってきたと話す。

大阪のある文化施設に展示していた京都の立雛の出里は、奈良・橿原の豪商宅にあったそうだ。

ただ、その豪商がどのような手段で入手したかは謎である。

あくまで推定であるが、当時は豪商が大量に買い付けて、なんらかの祝い事に配ったのでは、と・・

大阪の展示でわかった大量にあった、という立雛は同形。

つまり大量生産する工房があったからこそ、それが可能だったことと、配る風習があったことによる立雛の生い立ち・・・だから作者の名はわかりようなく、文書も遺されていない。

つまりは、回答できない江戸時代に生産された陶器製の立ち雛。



気になるものだから、その後に再度調べたネット情報に立ち雛はみつかるのか・・・

ニッポン放送がNEWSONLINEに公開していた「雛人形が江戸時代に立ち姿から座った理由とは?~雛祭りの歴史(1)~」

平成30年の2018年1月19日から3月11日の期間に開催。

「井伊家伝来”砂千代姫のお雛さま”を、ホテル雅叙園東京の”百段雛まつり」に展示。

その一部を紹介しているニッポン放送のNEWSONLINE公開。

お雛さんの姿、形の変遷、文化歴史がわかる。

当展示に立ち雛があったが、横山学芸員は持ち込み展示した立ち雛とは、また違う。

ちなみに、立ち雛は、江戸時代以前からあった、とされるそうだ。

記事にあった立ち雛は和紙でできていた。

頭部は、丸いが、装束部分は扁平。

自立できない紙つくりの立ち雛。

やがて時代はかわり、和紙つくりから布に移った。

以降、装束は豪華になっていく・・

そう、「立ち雛タイプの雛人形は、お雛様のルーツ?座雛と立ち雛との違いと成り立ち」伝えるブログ記事もある。

お雛さまのはじまりは、立ち雛から・・。

「人形(※ひとかた)に成形した立ち雛。紙に神霊の代わりに据え、災いは川に流す」。

つまりは五条市南阿田の吉野川流し雛に相当する


「千代紙で作ったお雛さんを流して罪や穢れを流して祓い清める」。

まさにそうである。

最近、販売されている立ち雛の姿を見てみよう。

京都の木村桜士堂がネット販売している立ち雛は御所立雛。

江戸時代のような風情は消え、現代的な様相。

今の時代に好まれる、どっちかといえばアニメチックかな


山形県の人形の栄光も立ち雛を販売しているが、こちらも現代風

「雛まつりの起源は、上巳の節供という三月のはじめに行われた祓いの行事。紙など簡素な素材で作った人形に、人間の穢れを移し、水に流すなどして処分した。立雛は祓いに用いた形代の人形から発展したと考えられ、その歴史は坐雛よりも遡る」と解説していた京都国立博物館・文化遺産オンラインがヒットした。

横山学芸員が、持ち込み展示した立ち雛に、より近い存在。

右手にある立ち雛が、まさしく同等レベル。

モノクロ画像であるが、カラーの彩りが蘇ってきそうな立ち雛。

文化遺産オンラインに見つかった同等レベルの立ち雛の時代は表記されていない。

似ている立雛に古式立雛を並べて比較。

古式立雛よりも、さらに年代は遡るのでは、と推定した立ち雛の様相に感動、感動である


(R4. 2.19、20 SB805SH 撮影)
(R4. 3. 5 SB805SH 撮影)

工事中の下ツ道歴史広場

2024年09月08日 07時39分22秒 | 民俗を観る
大淀町・大岩の平日喫茶のきまぐれや写真展を終えて、帰路に就く。

途中に立ち寄る地産地消売りの野菜や果物。

気に入った商品を買って戻ってきた住まいは大和郡山市。

京奈和道路の最北部を走る大和北道路。

まだ、工事中のようだが、何をつくっているのだろうか。



角地にあったモニュメントに「下ツ道歴史広場」とある。

そうか、ここは名阪国道郡山ジャンクション工事中に発掘、発見された「下ツ道」の一部。

「下ツ道八条北遺跡」は、奈良県大和郡山市の最南部。

八条町の一角にあたる。

八条町の北隣は伊豆七条町。

地元民は、親しみを込めて「ひっちょう」、「はっちょう」と呼ぶ地区である。

両村とも、伝統的な民俗行事のいくつかを取材したことがある。

また、すぐ近くに天理市南六条北との境界にあたる。

平成23年12月18日、発掘された「下ツ道八条北遺跡」の現地説明会に参加し、これはすごい、と思った。

解説が、終われば、すべてが地下に戻される。

二度と見ることのない貴重な「下ツ道八条北遺跡」発掘調査

指定文化財の概要もネットに見つかる。

発掘調査後に意見を求められたことがある。

私の思いは、そのまんま、とはいわないが、むかし、むかしの下ツ道が、足元に見えるようにしてほしい、と訴えた。

土を被せて、地中に再び戻すことも大切だが、例えばクリアーで、透明な物質によって全面保護できないか、と思った真っ平のクリアーな地面。



その場に立てば、丸々見える発掘調査痕。

そんなのがある公園にしてほしい、と願ったが・・・

で、完成に近づき、ほぼ全容が見えてきた下ツ道歴史広場



この時点では、明白ではないが、便所棟や東東屋棟もわかる。

ただ、気になるのは、まともに受ける風の向き。



西から吹く風は、とても冷たい。

東屋棟なんて、柱に屋根があるだけ。

壁は一枚もない東屋棟は、まともに受ける風から逃げようとしても無理がある。



円形広場もあるが、スケートボード・花火・BBQ・焚火は禁止。

そりゃそうだろ。

もちろん、自転車・バイク・自動車の乗り入れ禁止。

当たり前だのクラッカー、といいたいところだが、都市部で流行りだしたハンドル付電動キックボードなどのパーソナルモビリテイは、出禁だろう。

これらについて詳しい情報パネルがそろうみたい。

直接、下ツ道歴史広場とは関係はないが、天理の石上神宮と、その領域にあたる布留の郷。

その境界を示す「傍示浚え 榊立神事(※ほうじ浚え さかきたてしんじ)」解説板が設置されていた。

幾度となく、民俗行事を取材していた天理市南六条町北方・三十八神社。

平成20年の10月1日に行われた布留の境界に立てる榊立て神事。

当時、榊を立てた境界は、大和郡山市伊豆七条町・横田町を流るる川

東から流れてくる上流は、大和郡山市・元柳生集落。

水路を辿れば、ここのすぐ角地に榊を立てていた。

立てていたのは、南六条町北方の二人の頭屋。

西に連なる布留の山々を観ていた。

望郷を眺めるような立ち姿に思わず、シャッターを押していた。

あれから云十年経った。



ジャンクション工事によって、南に数百メートル移した、と碑文に書いてあった。

前年の令和3年10月24日に、撮っていた横田の信号。



北寄りの工事は、既に高架橋も工事が進んでいる大和北道路

数年も経てば、橋脚は何本になっているのだろうか。

また、地下トンネルの行方は・・

(R4. 2. 4 SB805SH 撮影)
(R3.10.24 SB805SH 撮影)

琵琶湖博物館・湖国の食事-附民俗行事写真展〜道具・郷土食(下)〜

2024年04月20日 07時46分10秒 | 民俗を観る
さて、個別の展示に戻ろう。

ハッと息をのむ不思議なカタチの檻。

図絵がなくともわかった琵琶湖に住む魚類を捕獲するモンドリ。

それにしても、ちょっと違うような・・・

人間の檻でもないコレは、「タツベ」の呼び名がある鯉やエビ漁にも陥る漁具。



解説を読んでわかった、この「タツベ」もモンドリの一種の形態。

本ものを展示してあった竹組みの「タツベ」。

どのような場所に設置するのか、生態を考えたモンドリ的仕様の「タツベ」。



それにしても、「タツベ」の語源は何だろうか


琵琶湖周辺の各地にみられる食の文化。

日常に食べる食事はさまざま。

画像は綺麗に撮れていない不鮮明な画像。

見苦しい点は、ご容赦願うが何かの折に見たくなる。

食の原材料が捕れなくなれば、代用に切り替え。

それまで食べていたカタチも変化する。

普通に暮らす民家の生活。

背景に写るモノモノも暮らしの民俗。

お家がひとつ違えば、細かい部分に差異が生まれる。

それが暮らしの民俗。



正面に展示している姿はおんぶの赤ちゃん。

現在のおんぶは近年に大変化した。

胸に抱えるのが現代的。

父親も前に抱えるカタチになった。

尤も、大昔の父親は赤ちゃんをおんぶしたことはないだろう。

背中おんぶは、何十年も経ったら、ソレなぁに、と質問がくるだろうな。



だからこそ、残しておきたい博物館展示の映像。



ほんと、図録がほしいものだ。

部屋を移動し、角度を替えて、より分かりやすく解説する食の文化。

はじめの一歩に見た琵琶湖を俯瞰

食の名称をデザインした立てた旗に位置図を拝見してきた。

これより拝見する展示は、地域ごとにある食の解説。



雪深い風土の湖北の地。

壁展示の前に並べた各道具は食の道具。

三重県と接する千メートル級の鈴鹿山脈。



奥永源寺地域に山の暮らし。



そこより南下した安土。

先の湖北も、奥永源寺地域も、興味深い行事がある。



さらに南下したそこは野洲・日野。



琵琶湖から距離をとった東部地域の甲賀(こうか)に気になる江戸時代からはじまったとされるかんぴょうつくり。



水口の地に生まれたかんぴょうつくり


奈良・大和のかんぴょうつくり文化との比較調査をしてみたい地域である。



一方、琵琶湖の西寄りの井香立(いかだち)地域

比良山と比叡の山並みが連なる緑に囲まれる山麓地。



北に移動すれば扇状地の志賀。

さらに北上。

湖岸西の山。



渓谷の地の朽木(くつき)。

若いころ渓流の魚を求めて足を踏み込んだ針畑川〜安曇川が流れる山深い朽木。



記憶にあるのは扇子つくりに杣人文化、木地師発祥の君ケ畑。

懐かしい響きに郷愁さがこみ上げる若狭街道。



その街道沿いに旧くから地域の人たちが伝承してきた朽木古屋の六斉念仏

川島さんが話していた、朽木の民俗信仰が存続の危機に陥っていると・・

若狭の国、福井県の各地に伝わる同系の六斉念仏

大和・奈良も同じように、衰退の域に入っているが、なんとか継承してきた奈良の六斉念仏。

八島安堵・・・



信楽朝宮・三上神社の神饌御供にごんぼまつりやずいき神輿もある。



午後1時20分ころから拝見した数々の展示物。

すべてではないが、入館した午後1時から3時まで、ずっと立ち見つづきに疲れた。

トイレ休憩もとったひと休み。

(R3.10.26 SB805SH 撮影)

琵琶湖博物館・湖国の食事-附民俗行事写真展〜行事・行事食〜

2024年04月18日 07時52分14秒 | 民俗を観る
ただいま、滋賀県草津市にある琵琶湖博物館にて施設内展示されているテーマ企画展の湖国の食事を見学中。

情報量は多い。

前半は、生業に使われた本ものの道具やレプリカ製の郷土食などを拝見してきた。

同じ会場に、まだまだ見せてくれる展示物。



ここからは、行事や、その行事において特別な神饌・御供ならびに氏子たちが食べる行事食の展示に移る。

解説によれば、「湖国の行事を彩る食事」として、川島朱実さんが県内各地域に取材慣行された祭りや念頭に行われる地区の五穀豊穣を願う伝統行事、オコナイのときに食べる行事食の写真も展示している。

栗東市大橋の三輪神社の「ドジョウのなれずし」や東近江市の日枝神社の「ちん」と呼ばれる動植物を模したもち菓子などの模型も展示している。



新しくつくったカンジョウナワに旧いカンジョウナワは燃やし・・・は、とんどであろう。

背景に展示した数々の民俗行事写真。

行事写真は、写真家の川島朱実さんがとらえた映像作品。



これはなんだろうか。はじめて見る膳の盛り。

長浜市湖北町延勝寺で行われるオコナイ行事にもてなす料理。



長方形に切り揃えた大根を重箱に詰める大根の”重引き”。

他に、鮒の荒汁や鮒の子まぶしに、イサザと大根の煮物などたくさんの調理を「本膳」と呼ぶ年頭の会食にふるまわれる。



リアルに見える栗東の三輪神社の大祭にどじょうのなれずし。



東近江市黄和田・日枝神社の敬宮神事に栗東・三輪神社のどじょうのなれずし。

リアルにつくられた大祭に奉納されるどじょうのなれずし。

黄和田の日枝神社の敬宮神事に男性たちがカタチつくる14種類の神饌「ちん」。



木を削ってつくった14種類の「ちん」は、氏子の男性が初老記念に奉納したもの。

うるち米粉で捏ねて茹で。

その生地を成型し、いわゆる餅菓子をつくるが、目は小豆。

そのカタチ、大きさは原寸大の「ちん」はひな形を基につくるようだ。

おこぜ(※別途山の神に供える)、さる、子犬、うす、うさぎ、志な(※支那か?)の犬、びわの葉、ひよどり、はしづな、かめ、いのしし、むすび、きくざ、ぶとの14種。



堂々たる、大屏風。

湖国に春を告げる豪華絢爛図。

大津市の無形民俗文化財に指定されている日吉山山王祭をとらえた祭礼図屏風(当館撮影?)。

多数の舟がある。どれもこれも神輿を乗せた廻船。

岸辺の舟にも神輿。

琵琶湖を渡る舟神輿図は江戸時代中期に描かれたもの



併せて展示していた粟津の御供。

この図絵の左上に「ぶとまがり」なる食べ物がある。



米粉でつくった「ぶとまがり」。



奈良の漢國神社(かんごうじんじゃ)・林神社(りんじんじゃ)行事に饅頭祭がある。

祭礼を終えて後日に訪問し、あらためてご挨拶した宮司より、こちらには挙げた「ぶと」菓子がある、と教えてくださった。

その「ぶと」菓子」の形はねじりん棒のように見えた。

味はない、という「ぶと」菓子」。

実は、春日大社にもる、という。

油で揚げた「ぶと」菓子。

甘くもない「ぶと」菓子


一ついただき口にした感想は、宮司の云われたとおりだったことを思いだす。

粟津の御供にある「ぶとまがり」とも、よく似ている。

奈良の和菓子屋さんのお店に餡子を包んでいるぶと饅頭が売られているが、私が口にした「ぶと」菓子に餡はない。

(R3.10.26 SB805SH 撮影)

琵琶湖博物館・湖国の食事-附民俗行事写真展〜道具・郷土食(上)〜

2024年04月17日 07時57分38秒 | 民俗を観る
まだ、工事中だと思った琵琶湖博物館の出入り口。

入館したら、すでに子供たちが・・。

学童が学ぶ琵琶湖博物館の展示を覗き込んで、何かを発見したようだ。



現代的な炊事場に「火の用心」の護符を貼っている展示が嬉しい。

これこそ、ほんまの暮らしがわかる。

コンロは、IHヒーターの時代になっても、必要な「火の用心」。

つまり、これこそ民俗の一篇。

学芸員に敬意を表したい。

展示の挨拶文に『つくる、たべる、つなぐ、滋賀の食事と知恵』。



「・・・自然環境や歴史的背景と深く結びつき・・・土地の恵みを美味しく、無駄なくいただく食事文化が育まれていた。しかし、現代では、例えば鮒ずしや味噌などを家庭ではつくらなくなっている。受け継がれた知恵や技のなかに失われつつあるものが、少なくない・・・」

「”滋賀の食事文化研究会”は、滋賀の食事に関する幅広いことがらについて、地域から学び、その技を身につけるとともに、記録し食文化を伝える活動をしてきた・・・・研究会の活動のすべてをごすることはできないし、実際の味を賞味することもできませんが、観覧後、実際につくったり、食べたりする機会をもっていただければうれしく思います(一部略、補正しました)」とあった。

以下、滋賀の食文化はあまりにも多く、情報量に枚数制限はするものの、落とすワケにはいかない。大切な資料になり得るさまざまな暮らしの食文化。

貴重な映像は多数になるが、できる限り後世に伝え、繋ぐためにもここに公開しておきたい。

「くいじという言葉」がある。



滋賀県の方言である”くいじ”は、食事のこと。

豊郷町、甲良町、沖島、中主町、安土町、高島郡、高月町で使われていた、という記録もあるそうだ。

「くいじは済んだか」といえば、それはお昼の食事を終えたか、と心配する言葉であった。

現在では、ほとんど使われなくなった、食の方言だけに、仕様はさまざまらしい。



会場展示に炊事場の次はお家のウラ。

樽に漬け物の亀もあれば石臼もある。



農作業に必ず見る道具も・・どこやらのお家のあり方。

今にもお家の人が現れそうな、自然体に置いたお家のウラが再現されている。

物干しにピンチ。

玉ねぎも干している自然な風景。

思わずシャッターを押したくなる農家のさりげない景観が素晴らしい。

一歩、足をすすめたそこは畑作地。



ひいた野菜を綺麗に洗い場もある。

まるで、昭和の時代や、レトロ感に懐かしさを感じる見学者もおられることだろう。

「野山からは、木の実や山菜・・・一度は、途絶えた焼き畑を復活される取り組みをしている地域(※長浜市余呉町)がある」。

「米どころの近江。水田魚道を設けた“魚のゆりかご水田”に、鮒や鯰の稚魚が孵化する」。



そして、琵琶湖を中心に周囲に食の名称をデザインした立てた旗がいっぱい。

奥琵琶湖東岸の旗にナニがある。



名称が判断できる順に、焼きサバそうめん、打ち豆汁、白菜のたたみ漬け、はぐき漬け。

西岸にサバのなれすし、栃餅、とんがらし漬け、納豆餅が見える。

位置を移動し、南下した地域に立った幟旗。



いばら団子に吊りかぶら汁、オイカワのめずし、丁字麩の辛子和え、赤こんにゃく、泥亀汁、丁稚ようかん、めずし(たですし)、くるみごぼう。



対岸の西側に栃餅、こねこね、とんがらし漬、納豆餅、坂本菊、しじみ汁、菜の花漬けだど。



撮り位置替えて、わかった日野菜漬、ブリのぬた。



さらに南下した地域から見る幟旗に、やっとわかった茶粥とハスのめずし。

目線を揚げたら、学童児童が大勢。



思い思いの学びにひとつずつ関心を寄せているようだ。

方角を替えてみた奥琵琶湖から。

こちらの幟旗に見た郷土食。



サバのなれずしに、ビワマスのこけらず。

さまざまな郷土食になぜか見られない水口のかんぴょう。

尤も、水口はかんぴょうの生産地。

栽培し、つくっては市場に出荷。

生産地の人たちが食べるかんぴょう料理は、なぜにないのか。

地域の景観や調理した郷土料理を写真で紹介する展示もある。



湖北の行事とともに紹介する展示に、焼畑と山かぶ、オコナイと餅。祭りのごちそう、多彩な漬け物になれずし、報恩講のお講汁・打ち豆汁。



湖東は、オイカワやハスのめずし、ブリ(※伊勢湾から届く)のぬた、日野菜漬、ナスの泥亀汁、吊りかぶら汁、いばら団子。



湖南からは、坂本菊に菜の花漬け、ずいき祭のめずし、茶粥、どじょうすし、ごんぼ祭のくるみごぼう。



湖西からは、納豆餅、栃餅、こねこね、とんがらし漬、いもねり、サバのなれずし。



琵琶湖の郷土料理といえば、ダントツにあげられるふなずし。

食べる人、食べない・食べられない人。

極端に分かれる好みの問題。

私は、口にした途端に吐いた方の人だ。

ふなずしは、特別なコーナー展示。



作り方に、それを漬ける道具も展示している。

会場は、レプリカ展示のため、美味しさの匂いはしないが、どのような形態でされているのか、よくわかる展示。



そこには、調理をとらえたビデオ映像も同時進行。

目線は、どっちを向けばいいのやら、集中したいものだ。



熱心に見入る学童。

もしかしたら、うちと同なじちゃうかっ、なんて会話しているかも・・



琵琶湖の郷土料理は、お土産にも見る琵琶湖産小魚の佃煮がある。



そうそう、滋賀米どころ。近江米が有名だ。

打ち豆をつくる道具は、石臼?。



どうやら石臼は、臼挽きでなく、そこにあるように木鎚で叩いて大豆をひとつ、ひとつ潰すんだろうな。

次の展示はかんぴょう。

動画もあるから、かんぴょうつくりも紹介していたのだろうか。

かんぴょうを充てる漢字が「干瓢」。

実は、種、苗から育てたユウガオ。

受粉してから実をつける。

やがて育ったユウガオの実が巨大化する。

畑で育てたユウガオの実を収穫し、早速はじめる皮むき。

青々とした皮の下から現れる純白の実。

それをカンナと呼ばれる道具で切り取っていくひも状のユウガオの実。

長くなった実を竿などに干して乾かす。

夏の風物詩にかんぴょう干し。

だから、充てる漢字が「干瓢(かんぴょう)」。

名称は実までの状態をユウガオと、呼び、干して乾いた状態がかんぴょうである。

映像映すテレビの前に置いている展示物は、まさに「干瓢」。



封をしているからほんもの生もの。

さて、個々に拝見していた食文化の展示は、まだまだある。

後半の展示は、写真展を見てからだ。

(R3.10.26 SB805SH 撮影)

みんぱく秋まつり2021in奈良県立大和民俗公園内古民家に愁ふ

2024年03月11日 07時38分41秒 | 民俗を観る
11月13日(土)に14日(日)の両日は、年に一度は開催される県立民俗博物館のみんぱく秋まつり。

今年も開催した2021年のみんぱく秋まつり


テーマは「つくって、たべて、たのしむ秋」。

その内容は「江戸時代の古民家が建ち並ぶ民俗公園、3月に常設展示を一新した民俗博物館を舞台に、秋にぴったりなワークショップや物産販売、演奏会、紙芝居、芸能の上演、飲食のテイクアウトなど、個性豊かなプログラムが集合!」。

関西文化の日は入場無料のイベントが満載。

なかでも拝見したいイベントは、古民家修理工事中の状態。

こんな機会は滅多にない


内容は「・・・今年度の修復古民家は、奈良県十津川村。山深い峡谷の地。風雨の厳しい場所に立地していた“旧木村家”。杉皮に覆われ、大きな石をのせた屋根。雨除けに板をはり詰めた家屋。厳しい自然のなかに暮らしぶりが伺える。工事中の現場公開を見てもらう見学会。屋根の葺き替えに合わせて、普段では見られない角度から・・。古民家を、まじかに見ていただく」(※要約し文は補正)」趣向。

その“旧木村家”は、県立大和民俗公園内にあるが、入口のゲートからいえば、最奥端。

途中に見ていく各種のイベント。

詳しく拝見するワケにはいかない午後2時半の時間帯。



食事を済ませたこの時間帯ににぎやかさはなく、一部は帰り支度の広場。

コロナ禍による影響であろうか。

秋のワークショップに物産の販売。

和楽器や雅楽の演奏もあれば、昔を懐かしむ紙芝居や芸能の上演。

ネットに見つかった風流舞・奏楽

食事はランチにおやつ。

テイクアウトで提供する食事もあるそうだ。

さて、古民家を拝見しながら歩いてみる。



旧吉川家の戸口から見た旧萩原家住宅。

近年において茅葺屋根を修復したから美しく輝いていた。

最初に見た演舞は親子が演じる民芸寺子屋の獅子の舞い。



場は旧赤土家の離れ。

三方から拝見できる貴重な古民家である。

旧萩原家住宅の前で売っていた民具・工芸。



縁起物の下駄の細工は、夫婦下駄。

ミニサイズだけど実にいいね。

もうひとつは竹細工。



生駒・高山の茶筅つくりには負けるが、これもまたいいね。

ここよりは坂道になる。

ゆっくり、ぽちぽち歩く。

峠、私にとっては峠に見える頂点

小さな峠であるが、越えたときにやっとここまで来たか、と思う。



そして現れた古民家は、旧岩本家住居。

ここは、イベントのある都度、団・グループが催しをされている。

裏へ廻っていくと、古民家を舞台にお披露目。



演奏関係が多いように思える。

そこからさらに、西を向けば旧松井家住居。



近年になり著しく茅葺屋根の崩れが心配だ。

そして、やってきた吉野集落。

工事現場に入る前に見ておきたい十津川村の各所の他、旧西吉野村の一部にも見られる多段型のハザカケ。

ここ旧木村家の事例では、大和民俗公園の地形を考え、5段型に設えたのであろう。



稲干しの状態が見えないから、わかり難いが、まさにこれこそが多段に稲架けができる構造をもつ「ハザ(ハデと呼ぶ地区もあるが・・)」である。

私が、各地に出向き調査してきた多段型の「ハザ」。

最大は10段仕様。

地区、というか個人お家の関係や物理的条件から低くした8段型や、もっと低い多段型ハゼを見てきた。

工事を担当していた職員さんが話してくださる現場の話から、考えてみなきゃならない後継者つくり。

建築工事の体験によって何人もの人たちが志望する仕事に繋がるのだろうか。

非体験者よりも、この現場に来るだけでも、なんらかのキカッケが生まれたらいいのだが・・・

体験者に、なんらかの記録をとってもらってはどうか。

道具を測るなり、幅、長さに厚み。

重さの記録から、構造つくりのヒントにならんかなぁ。

定規を充てて、記録するペン文字。

それだけでも思いだす記憶の残照。



例えば、ここ旧木村家には、当時使っていたカラウス(※唐臼)がある。

それを使うのは無理だとするなら、つくってみてはどうか。

民俗を研究している大学生のインターシップによる体験学習。

梁から吊った紐に掴まって、カラウスをしていたという先駆者の動作はどこにも書いていない。

梁にその紐を通す窪みがあって、それでわかった、と話してくれた工務店の担当者になるほど・・

杉の葉も触って体感する。

十津川村に今でもみられるハダに、手が伸びる高さはどこまで・・

届く、届かない高さに梯子の有無。

或いは登って足をかけ、固定して稲束を受け取ることも書かずに、単にこれはハダ・ハザです、と云っても聴衆には頭に描けない・・なんてことをつぶやいてしまった。

何故にそのことを呟いたのか。

それは、これからの人材育成。

暮らしの体験をしたいない時代に生まれ育った人たち。

都会の生活しか知らない人たち。

ここ民俗博物館に必要な要件は、体験の有無。

あっても、その体験数がモノをいう。

生活文化が、さらに近代化。

農や漁業の営みもあるが、それは生産体験。

暮らしの体験は、物理的、地域的、また家族構成によっても違いがある。

それぞれの県や市町村ごとに民俗資料館や博物館をつくってきたが、今後はどのようになっていくんだろうか。

云十年、或いは数百年間を経た時代に、継承されることなく、どれほど残っているのか。

国も、県も予算がないと、いう。

国の文化を、どう将来に繋げていくのか、真剣に取り組まなきゃ、いずれは文化の消滅を招くことになるだろう、と危惧している。

そんなことをいろいろ考えてしまった県立大和民俗公園。

戻りの道に見つけた花。



種子を生んで、子孫を残し後世に委ねる。

時間帯は午後3時半。



そろそろ夕陽が沈む時間帯に、紅葉が染まった。

(R3.11.14 SB805SH 撮影)

高校生が描いた原爆の絵展in三の丸会館

2023年11月26日 08時26分51秒 | 民俗を観る
高校生が描く原爆の絵展。

会場、三の丸会館の1階ロビー。

30分間のトレーニングを終えてから拝見した絵画の描写。

おどろ、おどろしさばかりが強調される絵画。

当時、体験した生?の生き証人である男女それぞれの人たちが語る被爆した現実の体験話から想定して描いたと説明にある。

高校生のほとんどは女子。

たまたま展示した作品がそうなったかもしれないが、およそ200枚の作品から選んだ40点をパネル展示。

主催者は、国連NGO認証団体・新日本婦人の会奈良県本部。

日本政府に核兵器禁止条約に署名・批准を求める団体。

特にその行為を反対する理由はもってないから署名したが、別途あった感想文に描くにあたって指導があったと思える黒い画像。



絵そのものの描き方、構図、被災者の配置に差異は認められるが、色彩絵の具に、ほぼすべてが同一性を感じる。

被ばくに映画の「黒い雨」とか、見本にする写真?絵もあったのではと思わざるを得ない。

実際は、青空だった証言も多く、米軍が記録した白黒写真から最新のデジタル技法を用いて再現された青い空の映像もあることも、知らなかったのか。

もしかとするが、大人の知恵が働いているのではないかと疑問をもった。

(R3. 9. 9 SB805SH 撮影)

戦時中の暮らしの民俗展に学ぶ奈良県立民俗博物館

2023年10月09日 07時29分58秒 | 民俗を観る
「私がとらえた大和の民俗」写真展に、10年間もご一緒してくださった写真家のMさん。

なんと、3年も続けて拝観しているという。

前日の7日から開催される戦時中の暮らし民俗展示を見たく出かけると伝えてくださり、同行することにした。

先に拝見した、臼井家住宅。



扉のすべてを開けて風通し。

おかげさんで、開かずの扉の向こうに仏壇も拝見できてよかったが、空気が流れない日は、堪える。

屋外の熱気が古民家まで入り込みに、打ち合わせは不向きと思った古民家。

涼しくなるのは、8月末、いや9月に入った中ごろにならんと、耐えられないのでは、と思った。

戦争展は、そのほとんどが悲惨さを訴え、戦争撲滅、二度と・・という類が多く、足を運ぶことはなかった。

戦争体験はないが、おふくろが若かったころの体験談に、その恐ろしさは、映画やテレビなどで映し出される映像と重なり、わが身も体験したかのようになっていた。

米軍艦載機が、田畑にいたおふくろに機銃掃射。

パンパンパン・・乾いた銃声音に、田畑を走って逃げていたおふくろの両サイドに・・・タタタタタ・・・。

生きた心地はなかった、と話していたが、いつしか口を閉ざすようになった。

91歳で亡くなった大おばあさんは、大阪市内のど真ん中の東区瓦町で呉服屋を営んでいたお嬢さん。

結婚して親父を生んだその地で暮らしていたが、戦争末期の大阪大空襲に焼け出された罹災民。

その地は大阪・住之江。

罹災者住宅の大阪市営住宅

大阪南部の富田林で米軍艦載機の銃器に追い廻されたおふくろと暮らし、私が生まれた。

それからずっとが、貧困生活だった。

ご近所のほとんどの人が罹災者。

悲惨さを体験した人々に思いだしたくない事実もある。

先に拝見したのは、臼井家民家の奥の間が扉解放され仏壇が見えるようになっていたから思わず携帯写真で撮っていた。

それから移動、拝見した本館内のミニ展示コーナー「戦時下のくらし」

令和3年8月7日から同月29日まで展示していた会場は、耐震工事を終えてリニューアルした本館内である。

子ども・大人分けの展示もあるが、比較するものがあればより一層記憶に残る展示になる。

できるなら一枚一枚の展示に、例えば戦争がはじまった年、終わった年とか、また世界的な動きに日本はどう対応し戦争に向かったのか。

戦争をまったく知らない子どもたちに、画一的に教える学校教育の枠内に収める緒ではなく、なぜ、戦時中の暮らしにこの道具が必要になったのか・・・

創意工夫された判断などを伝えることで、そうか、そういう時代だったからこそ生まれた道具を学ぶ展示。

悲惨さばかりを植え付けるような展示でなく、当時の人たちはどう考えどう暮らしたのか、それはなぜにその考えに至ったのか、あらためて認識を広げる展示
に、学芸員のTさんと話し合っていた。



防火バケツは耐火布製。

説明に「“時局防空”必携では、焼夷弾の消火のほかに、空襲がはじまったら、まず周りの燃えやすいものに水をかけて、延焼を抑える」と、あった。



現在のアウトドア商品と同じような形の防火バケツである。

実は、暮らしの民俗に布製のバケツを遺していた民家を訪れたことがある。

今でも、使えそうな布製バケツ。

遺していた民家は、いずれもかつては大庄屋のお家だった。

1カ所は、県内桜井市・小夫

もう1カ所が、県内宇陀市・榛原柳



灯火管制の灯りは、布で覆っていたわけじゃなかったんだ。



戦時下の備え説明に「第一次世界大戦において航空機による都市襲撃が行われたことから、都市空襲に備えるため、昭和12年に”防空法”が公布された。灯火管制も防空法の中で定められた」と、ある。



その前下に展示していた長い棒をもつ道具。

近づいてわかってきた。



形からして箒である。

網目に編んだ掃き道具の箒?。

一見して、それがどのような場合に防火道具になるんだろうか。



名称は”火はたき”。

掃く方じゃなくて、はたく道具だった。



「空襲で焼夷弾が落ちてきたら、水や砂をかけて消火にあたりますが、周辺に飛び散る火の粉を水で濡らした”火はたき”で、たたき消した」。

その”火はたき”は家にあったというMさん。

それが、消火道具だったとは・・・、と思いだされた。

この丸い道具はなんだ。



一瞬、戸惑った円形の道具は、”文化パンヤキ“。

そう、この中にパン生地を入れて焼く道具。



パン焼き器の説明に「直火で熱して焼き上げるパン焼き器。戦後も食糧難が続いていたので、パン食が普及しました。パン焼き器の材料は、航空機に使われていたジュラルミンを転用して造られた」、とあった。

初見のパン焼き器、面白いことに” 特製”の文字だけが右読みになっていた。

一升瓶でつくる“どぶろく”つくり?も展示していた。



「昭和16年、コメは配給制になり、政府は7分搗き白米の販売を禁止しました。配給されたコメは、家庭精米するために、唐臼(※からうす)がない家は、一升瓶を使って精米しました」と、ある。

そうなんだ。

この展示で思いだした“どぶろく”つくりではなかったんだ。

白黒映画に見た、棒で搗く一升瓶のシーンは、ずっと“どぶろく”つくりと、思っていたんだわ。

誤っていた記憶認識は払しょくしやんとあかんな。

右側に立てていた展示物。

そういえば、出征軍人之家札って見たことあるような気がする。

また、左側の展示は手押しポンプの”空気入れ“。



展示物は、昭和19年に購入されたもの。

ポンプ部分が竹でできている。

つまりは、材料の鉄が入手できない戦時中。

鉄の代用に竹がある。

解説に「代用品は、”輸入材料に頼らず、身近な材料でも作れる”という、技術力を示す意味合いもありました」と、あった。

次の展示は下駄だ。



それにしてもちょっと変わった下駄。

その名も”八割” 草履。

見た目の形は下駄であるが、草履。

「戦時中、物資が不足していた時につくられたときにつくられた草履です。小材を継ぎ合わせ、表は竹皮を編んでつくられています」と、あったが、よく見れば履く足の部分が竹の皮で、地面を蹴る部分は木材。

二層構造の下駄でいいんじゃないかな。

なるほどと思ったのは、陶器製のキャップのネジ穴。



陶器は焼成に縮むが、こんなに上手くできるコツは、どのような技術があったのだろうか。

そのほかに、米搗き、豆柄落としなどの展示もあった盛りだくさんの「戦時下のくらし」の展示コーナー。

体験者であろうが、非体験者であっても、当時の暮らしの民俗を学ぶことができた。

次のワークショップは9月26日と10月24日。・・・ 終了しました

いずれも日曜日。

ショップ思考する作業場もできたから、と見学した。

ところで、Mさんの奥さんは桜井市柏森。

近隣村落の白木も和田もみなサシサバがあった、という。

仏壇か、なにかに供えたサシサバは、まず親が食べるので酒びたし。

子供も食べたが酔っぱらったとか。

サシサバを売っていた処は和田へ行く道のカーブ道にあったタバコ屋さん(※まほろば湖の口ノ倉橋手前の・・)。

かつてなんでも売っている店だった。

また、箸中はサシサバでなく、かつてはトビウオだった、と話してくれた。

(R3. 8. 8 SB805SH撮影)