マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

コロナ禍に消沈する天理上山田地区に元気を取り戻そう初の大とんど

2024年05月13日 07時42分57秒 | 楽しみにしておこうっと
東山間地のさまざまな民俗の調査を終えて帰路に就く。

帰り道にどの道を選ぶか。

そのときの閃きに、というよりもハンドルが、右、左って、意思が働くもの。

奈良市長谷町から名阪国道。

下った地区に旬の駅がある。

最近は、専ら買い物に出かける美味しいものを提供する旬の駅トドロキタウン店。

奈良市廻りよりも早く着く。

気持ちは美味しい食料品を晩食の肴に・・。

奈良市長谷から天理市山田町に抜ける峠越え。

下り道にいつも思いだす上山田の田の虫送り。

オヒカリもらいの場から下る道に打つ太鼓の音色は・・・・今日ではないから聞こえはしない。

集落を過ぎようとした、そのときだ。

右手に見たこともない景観が・・・。

えっ、今のは、なんだ?。

はっと気づいた大きなとんどに急ブレーキ。

軽トラが数台あるから、とんど組みの作業をしていた。

お声をかけてわかった上山田の大とんど。

設営を終えていっぷくしていたそうだ。

これまで、それぞれの垣内単位に小とんどをしていたが、コロナ禍になってからは意気消沈。

密閉・密接・密集を避け、安全に暮らせるよう三密対策が、日本全国に課せられたこんにち。

会話の機会さえ遠ざける。

そんなコロナ禍の暮らしに村の人たちは消沈していた。

村に元気を、と1カ所にしぼりこみ、初めて取り組む大きなとんど組みに転換した上山田地区。

作業は、日曜日の26日を予定していたが、雪が降るとの予報に、急遽繰り上げた。

初めての試みに、みなが元気になってくれるだろうと、役員たちは朝から組んでいた。



今日の段取りをすべて終えて帰っていく。

午後4時前の時間帯。



見送った場に佇む私は、設営したばかりの風情を撮っていた。

年末に暮れる時間帯の流れは早い。



夕暮れ近い時間帯の暮らしに人たちが動く。

とんど日は、令和4年1月10日の午前10時に点火する。

餅を焼く人もいるだろうが、アウトドアだから、人と人の距離は広いからコロナ禍の影響は受けない、という判断で実施することにした、と話していた。

(R3.12.24 EOS7D 撮影)

天理・武蔵町の郷神さん調査

2023年08月29日 07時45分29秒 | 楽しみにしておこうっと
天理市杣之内町に住むN氏もが編集の一員としてまとめた『天理市の歳時記』の控えが手元にある。

平成22~23年度・天理市社会教育委員会(生涯学習・人権部会)が編集した史料(仮版)に、7月16日に行われる地域行事がある。

「郷神さん」の名称がある武蔵町の行事。

「地区の東の入り口にあたるところに、「太神宮」の文字を彫った石塔の灯籠。5組の伊勢講加入所帯から1名が代表に参加する。宮座5人衆とともに祈願する行事。終えた講中は、各組の当番家で伊勢神宮に祈願し、会食をする」と、ある。

平成23年の7月16日の午後6時に「ゴウシンさん」のメモ書きがあった。

何かの具合に、武蔵町の行事を知ったからメモしていた、と思うのだが、記憶にあるのは、その「太神宮」塔に、しめ縄を張った四方竹を通りがかりに、目撃したからであろう。

その日は、明日に行われる毎月の営みに準備していた田原本町・伊与戸の大師講の人たちにゴウシンサンの件を聞いていたから、海知町に武蔵町などに行っていたのだろう。

コロナ禍の時代に、さまざまな行事は中止されているが、「郷神さん」はどう対応されているのか、も知りたくて車を走らせた。

尤も、武蔵町の「郷神さん」も中止の判断をされているなら、そのまま戻ってくるワケにはいかないから、外したときを考え、その先にある柳本も調べることにした。

自宅からおよそ40分で着く武蔵町の太神宮。

人影もなく、四方竹を張った形跡すらない。

この状況で吹きさがるわけにはいかない、と判断して近くの民家を訪ねた。

奥から出てこられたY家婦人が云うには、先週日曜の11日。

午後5時だったか、6時か覚えてないが、実施していた、という。

16日の固定日から、みなが集まりやすい日曜日に移していたのだった。

実施しているとわかったが、来年はどうなるのか、村でいろんな意見が出ている、という。

コロナ禍もあるが、若いもんから意見が出ているそうだ。

数組が交替する年番組によって実施してきたが、組自体を辞退するような動き、もあるらしい。

史料によれば、5組が交替する年番対応だったが、おそらく組によって、軒数の隔たりが出てきているのではないだろうか。

また高齢化への片寄り。

或いは、若いもんばかりの組では、仕事で村の行事に参加し難くなったのか。

県内、どこも同じような問題を抱える課題に、今、大きく変容しようと協議を重ねているのかもしれない。

もしかとすれば、だが来年の「郷神さん」は中断している可能性もあるようだ。

(H23. 7.16 記)

檜垣町三十八社砂モチ・バッテリーあがりになるほど長時間に亘った檜垣町の民俗行事調査

2022年11月12日 07時55分45秒 | 楽しみにしておこうっと
午後に砂モチ作業をしている、と知って出かけた天理市。

三十八神社とも呼ばれる檜垣町の三十八社

読み名は「みそはちしゃ」と、呼ぶこともあるし、「さんじゅうはっしゃ」と、呼ぶことも・・。

神社からすぐ傍。

門松を立てている家を訪ねた。



お聞きした砂モチは、昨日にしたそうだ。

年末大晦日でなく、晦日30日の朝にしたと・・。

あれま、であったが、応対された奥さんが、うちに上がってゆっくりしいや、と言われておじゃまする。

その家のご主人は、営農組合長のMさん。

お歳は私より数年先輩の74歳。

住まいする地域の行事取材になにかと世話してくださった奈良県職員・農村振興課のSさんとともに農村活動をしている方だった。

存じているだけに、なにかと話題が弾む。

今も豆活動で、よく来てくださるので助かっていると、Mさんが嬉しそうに話してくださる。

行事のことなら檜垣町の歴史文化に強いという76歳のSさんをコールしてくれた。

女性の講なら、この人だというMさんもお家に呼んでくださり、紹介してもらった。

あれこれいっぺんに話してくれたので、帰宅してから民俗行事情報の交通整理が要るな、と思った。

砂モチは、毎年12月30日の朝から。

門松を立ててから砂モチをする

トヤとともに今年もダンプで運んだ砂で形つくった、という。

組合長の奥さんも、口を揃えていう砂モチは、古墳の羨道のようなもの。

神さんが通る道だから、砂モチを避けてお参りする。



往路は左側。

参拝終えた復路は右側。

お伊勢さんと同じや、と、いう。

今でこそ、ダンプで運んでくる市販購入の砂であるが、かつては川砂を用いていた。

川砂は、綺麗だったころの大和川。

地元檜垣町では、大和川でなく、“初瀬川(はせがわ)”と呼んでいた川の砂。

村屋坐弥冨都比売神社の北に架かる村屋橋下辺りに砂だまりがあり、その砂を運んでいたが、護岸工事によって川砂は消え、砂が採れなくなったから市販の砂に切り替えたそうだ。

かつての大和川は蛇行だったから、砂だまりがあった。

採取地の綺麗な砂は、隣村の田原本町・蔵堂地域内にあった。

昭和57年8月に発生した台風10号によってもたらした激しい豪雨。

流れていた大和川(※初瀬川)左岸にあった堤防が決壊した。

田原本町北部の大部分が甚大な浸水被害を受けた。

その後、5年間に亘って行われた大和川改修工事によって川筋は大きく変わった。

その工事によって川東垣内は東西に分断。

旧大和川は細い水路を中心に公園化され、当時の面影を残している。

護岸付け替え工事によって、現在みられる川の流れになった。

直線的な流れでは、砂だまりができない。

だから、やむなく市販の砂に相成ったわけである。

檜垣町集落は50戸。

数組に分かれたそれぞれに庚申講があり、その数は6組。

6軒の組ごとに講の営みがある。

旧暦閏年に行われていた檜垣町の庚申講。

現在は、4年に一度の新暦にしている、という。

お家にあがらせていただくときに見つけた庚申講の塔婆。

樫の木の塔婆が、M家に残されている。

上から五文字の梵字がある。



五輪塔と同じく「空 風 火 水 地」。詠みは「キャ カ ラ ヴァ ア」である。

次の文字は願文。

「奉納寫 青面金剛童子 家内安全 子孫長久 五穀豊就 意願満足 祈願収候成 平成二十八年二月十三日 當主□□□□」と、ある。

念仏を申す“トアゲ”のときは、葉付きの樫の木。

講中の営みを終えた樫の葉を落とし、玄関上に飾るのが習わし、とされている。

4、50年前に盗まれた大日さん。

なぜか戻ってきたから、その日を記念に5月8日に村行事をしている。

安置するお堂は大日堂。

また、一番古いという地蔵さんに不動明王、弘法大師さんお安置している。

毎月の8日は、有志の女性たちが集まって般若心経を唱える。

子供らのためにしている地蔵盆は7月23日。

8月23日のお昼は、伊勢大明神を掲げる風日待ちをしてきたが、コロナ禍の関係で取りやめている。

8軒が寄り合う伊勢講に“田”がある。

いわゆる講田である。

他村でも聞くように、講田で栽培したコメを売り、講の収入源にしていたと思われる。

元日の朝、大日堂に安置している4体の仏像に正月御供の鏡餅を供える、という。

正月早々の行事取材をお願いした。

三十八社のマツリは10月23日。

明神講による神社行事のようだ。

また、3月3日は、ハツオさん行事。

ショウグンさんとも呼ぶらしい。

ちなみにこちら檜垣町でのサシサバは・・と尋ねたら、「サシ」はあった、という。

塩辛いとまではいかない「サシ」は日常に食べていたそうだ。

焼いて食べていた「サシ」は、行商が売りに来ていたらしく、2枚重ね。

また、サイラの開きと呼ぶサンマも食べていた。

これらは和歌山から東吉野を経由して運ばれたようだ。

聞き取りに長話。滞在時間は午後1時から午後3時。

情報多寡の民俗行事。長時間に亘った聞き取り調査に、トイレも拝借した。

排尿処理に操作盤を押そうとしたそこにあった願文。



見たことのある願文に「鳥枢沙摩明王(うっさま大王)」、「大小便時 当願衆生 蠲除煩悩 滅除罪法 オンクロ ダノウ ウンジャク ランラン」とあった。

とてもよく似た願文を拝見したことがある。

平成29年6月。山添に住むSさんのご自宅に行われたあじさいのまじない願文も「鳥枢沙摩明王 オンクロ ダナウウン ジャク ランラン」。

シモの世話にならないよう、トイレに吊るした逆さ紫陽花

そのときの願文もまた同じ鳥枢沙摩明王(うっさま大王)のご真言(※事例はさまざま。トイレに貼られているトイレの神さん)である。

次の取材地があるから、Mさんに尋ねる間もなかったが・・

ありがとうございました、とお礼を伝えて帰ろうとしたらエンジンが、回転しない。

汗、汗、汗・・・である。

ちょっとだけの立ち話のつもりにハザードをしたままの2時間。

バッテリーあがりに汗、汗・・。

Mさん、Sさんが、すぐに動いてくださった。

軽トラから引いたブースターケーブルを繋ごうとした軽バン車。

普段から見ていないバッテリーってどこにあるのか?



マニュアルを探して見つかった後ろの蓋。

繋げて軽トラのエンジン始動。



そして軽バン始動にブルブル回転音にほっとした。

お二人とも農業従事者。

農機具のバッテリー始動にたびたびブースターケーブルの出番があるそうで、作業は慣れておられた。

感謝しかないバッテリー上がりの緊急措置。

頭下げて出発したものの、いつ停止するかもわからない。

ヒヤヒヤしながら走った10kmほど。

それくらいの距離を走っておけば、十分に充電できたはずと判断した。

(R2.12.31 SB805SH撮影)

都祁白石町の民俗行事②

2021年01月04日 09時35分51秒 | 楽しみにしておこうっと
国津神社社務所内で行われていた神宮寺の行事。

大字白石の行事である。

この日は虫干し。

大般若経転読法要を終えた地区役員は直会に移る。

その際によばれる仕出し弁当がある。

大字が料理を発注したお店は地元の辻村商店。

店主は十二人衆の一員でもある。

営みの場に運ばれた店主。

行事取材が終ったら立ち寄って、と願われていた。

足を運んだ商店の駐車場に置いてある台。

昨日まで天日干しをしていた刺しサバ作りの場に鯖は一尾もない。

その日まで干していたことがわかる状態である。

それはともかくお店に入って本日に行事に区長を紹介してくださったお礼を伝える。

昼も遅くなったからカップ麺でも食べてけ、と云われて湯を沸かす店主。



ありがたいことである。

この虫干し以外にいくつかの年中行事があるそうだ。

一つは虫干しと同じ場で行われるオコナイである。

Tさんは1月4日だというが、役員の人たちは10日とか。

何年も前に聞いていた日は9日。

どれが本物かわからないのは、おそらく固定日だったのが日曜日に移ったからだろう。

そのオコナイはウルシ棒で叩くというからランジョー(乱声)であろう。

ランジョーもまた大般若経とともに真言宗派の寺で行われている祈祷行事である。

ウルシの木に被れるから手袋を嵌めて所作をしているらしい。

また、興善寺住職は同じく1月に行われる室生の深野に出仕されるという。

そのことは虫干し法要に来られていた住職からも聞いていた。

そのウルシ棒は新芽がある梅の木、サカキの木とともに苗代に立てて水口まつりをするという。

この件もまったく知らなんだ。

隣町の南之庄町で一度見たことはあるが、白石町にあればと思うと胸が躍るが、護符についてはどうもなさそうだ。

白石町の戸数は160戸。

大きな集落である。

大字役員は2年任期の区長を頭に七つの垣内から選ばれた垣内代表とともに活動する自治会組織と、三つの地区に分かれる白石北、中、南地区から選ばれた3人の氏子総代が村行事の任に就く。

また、上・下合わせた宮座十二人衆や一年任期の社守制度がある。

七つの垣内の内訳は水湧(みずわけ若しくはみずわく)垣内の他、東部・都祁・八坂・古市場・南部・丸山がある。

なお、都祁垣内は戦時中に八坂垣内からの分かれである。

ちなみに三つの地区の目安は、といえば、食事処の和食一久がある地区が北。

中は国津神社。

南は辻村商店になるようだ。

国津神社の造営は平成27年10月11日。

本殿が美しくなった。

融通念仏宗派の興善寺も何年か前に庫裏を建て替えた。

そのときの寄進費用もそうとうなものだった。

先に挙げた水湧垣内(水湧之庄)だけで行われる垣内行事がある。

この日は旧寺・公民館で行われる夏神楽がある。

夏神楽はおそらく都祁水分神社の宮司が舞う神楽であろう。

この都祁地域ではまず間違いなく夏神楽をしていると・・。

水湧之庄にハツオウジがあるという。

たぶんに八柱神社のことだと思うが・・。

5月は各家でチマキ(粽)を作って食べる。

また、11月3日はイノコのクルミモチがある。

3日は国津神社のふる祭り。

その日はイノコの日だから各家それぞれがイノコのクルミモチを作って仏壇の先祖さんに供える。

多めに作って親戚に配り、作らない隣近所にもおすそ分けするようだ。

フクマルについて尋ねてみたが、それはどうも耳慣れない言葉のようで・・・。



その代わりではないが、年末に正月の餅を搗いたときにある。

三日月のような形にした餅であるが、店主は団子だというそれを藁で作った「舟」に入れて木にぶら下げる。

その際に発する詞章が「カラスコーイ、モチヤロ(若しくはモチヤルゾ)」である。

平成25年12月28日に取材した天理市藤井の民家で行なわれたカラスノモチと呼ぶ習俗がある。

そのときの詞章は「カラコ カラコ モチやるわ ザクロ三つと替えことしょ」である。

また、平成24年12月31日に取材した奈良市誓多林町・中誓多林の民家はテンノウサンのカラスドンノモチだった。

テンノウさんこと八阪神社に供えるカラスドンノモチには詞章がないが、二つの事例は白石で聞いた「カラスコーイ モチヤロ」によく似ていると思った。

カラスのモチは、桜井市の滝倉にもあった、と聞いた。

後年であるが、令和2年の12月。

なにかとお世話になっている写真家のKさんが、かつて取材したことがある2月行事の正月頭屋にあった。

行事の一環に千本杵で餅を搗く。

マイダマ(※繭玉とも)にカラスノモチ、センゴクマンゴク(※千石万石)と称する餅をつくり、それぞれの儀礼に用いた習わしだった、と伝えてくれた。

詳しく述べるに、マイダマはシダの木の枝にくっつけるようにした餅。

カラスノモチは、藁ヅトに小玉大の餅を12個、閏年は13個詰め、社務所裏に育つ樹木に吊るしておく。

やがて鳥獣がやってきて啄む餅。

これをカラスのモチという。

また、カンセンギョ(寒施行)の習俗もあったようだ。おばあさんがおられた時代である。

太鼓打ちを先頭にヨソの村まで出かけて施行していたという。

その営みは日蓮宗だったからそうしていたらしく、県内事例にある「狐の寒施行」ではなさそうだ。

(H30. 7.22 SB932SH撮影)

都祁白石町の民俗行事から

2020年12月16日 09時28分52秒 | 楽しみにしておこうっと
2日にかけて刺しサバ干しを撮らせてもらった都祁白石町の辻村商店。

お礼に2009年(平成21年)に発刊した著書を献本した。

京都の出版社である淡交社が発刊してくださった『奈良大和路の年中行事』である。

その著書には11月初めに行われる氏神さんの祭りを掲載している。

氏神社の国津神社に向かって渡御する座の十人衆。

狩衣を着た祭りの頭屋に黒門付き姿の十二人衆。

上の六人衆と下の六人衆からなる座中である。

店主も座中であるからお渡り行列に参列する白石町の「ふる祭り」。

六人衆の一番若い人が先頭を行く太鼓打ち。

スコを持つ座中がお渡りをする姿は黒の山高帽を被っていると教えてくれたのは、当時座中であったNさん。

教えてくれた場は隣村の都祁友田町に鎮座する都祁水分神社。

祭礼に各郷村が座する座小屋におられたNさんだった。

そのことを聞いて国津神社の場を確かめに来た日は平成17年11月1日だった。

白石町のふる祭りを取材したのは翌年の平成18年11月3日

鳥居を潜って参進する一行をとらえた姿を載せた。

あれからもう12年も経っていた。

当時、お渡りをしていた人たちは年季が終わって座中を退いていることだろうが、その掲載があるから、今回お世話になった店主に献本することにした。

頁をめくっていた奥さん。

あっと驚く仕掛けはないが、隣村の行事に写っていた婦人の名が口に出た。

その行事は平成19年の9月12日に行われた隣村の南之庄町の歓楽寺の薬師会式のボタモチ籠りである。

各家で作ったボタモチを持ち寄って法会を営む

続けて奥さんが云った。

ボタモチ籠りは白石町でもしているというのだ。

白石町にボタモチ籠りがあると知ったのはずいぶん前のこと。

どなたが話してくれたことさえ覚えていないが、北と南垣内のお寺でしていると聞いていた。

北になるのか、南のそれであるのか、わからないが、営みの場はすぐ近くにある融通念仏宗派の興善寺にある薬師堂。

日程は南之庄と同じ9月12日であったが、今は集まりやすい直近の日曜日らしい。

朝から境内やお堂を清掃し、それが終ってからのお昼のようだ。

残念なことに当日は毎年出かける十津川入り。

この日は大宇陀栗野も薬師堂に行事がある。

行事の名称は十二薬師。

先だって取材した天理市柳本町の薬師堂で行われる行事も十二薬師であるが、営む月は7月12日。12日、つまりは薬師さんの縁日。

柳本町に法要を営んでいた長岳寺住職がいうには、薬師さんを守っている十二神将の数であると話していた縁日が12日である。

ボタモチ籠りを掲載している頁に大きなズイキを並べて法要している写真がある。

それも南之庄町歓楽寺の金剛会式である。

その掲載写真にへぇー、と声をもらした。

ペラペラと捲られた奥さん。

私の出里の行事も載っているという。

それは天理市福住町上入田の行事。

不動寺の御膳である。

その頁写真を見たお店の手伝い女性もまた上入田の人。

盛り上がった話題は出里までおよんだ収録行事である。

これほど喜んでいただくと著者冥利に尽きる。

その頁の次もまた隣村の小倉町である。

上入田とほぼ同じような造りもんの野菜を供える行事である。

場は小倉町の観音寺。

17日に行われるから十七夜の会式とも呼んでいる観音寺会式である。

詳しいことは書けないが、小倉町の婚姻関係は特殊になるようだ。

そのことが関係するのかどうかわからないが、小倉町から嫁さんをもらう場合は、氏神を祀る八柱神社に人形を供えるらしい。

機会があれば一度伺いたい民俗である。

近隣の行事に盛り上がった話題提供に一役買った著書はともかく、白石町に薬師さんのボタモチ籠りがあるとわかった。

実は二日後の22日は「虫干し」があるという。

場は国津神社の社務所。

寺屋敷の名もあるその場で大般若経経典の虫干しをするという。

興善寺の住職を迎えて拝んでもらう。

シキビで作法もするという大般若経。

おそらく転読法要の作法であろう。

その経典を納めている籠は山伏が担ぐような道具であるらしい。

元々は神社に寺があったという。

その寺名はわからないが真言宗だったようだ。

氏子総代が参集して営まれる虫干しは、民俗行事の採録から外すことのできない「干す」テーマ。

店主は参加できないから区長に伝えておくと云ってくれた。

白石町に気になるカンジョウナワがある。

場はわかっているが、いつ架けられるのか。それを知りたかった。

勧請縄掛けは12月25日くらいに神社の門松を調えるその日にしているという。

ありがたい情報に胸が小躍りしてくる白石町に特別な言い方の方言があるという。



それ「ずる」。

物を下げる場合に使う言葉で「ずる」という。

「そこにずってくれ」と力仕事を頼まれたときは、物を持ち上げて下げる。

引きずるのではなく、持ち上げながら「ずる」のである。

近隣の村では聞いたことないと云われる「ずる」。

白石町だけの交わされる方言のようだ。

(H30. 7.20 EOS7D撮影)

榛原角柄・民家の注連縄に竹作りの神酒徳利

2020年09月11日 10時53分16秒 | 楽しみにしておこうっと
1月6日に拝見した注連縄。

その日は急がねばならない取材が待っている。

ゆっくり落ち着いて話を伺う時間がない。

掲げていたお家の注連縄に頭を下げて失礼する。

翌日の7日は山の神の在り方を拝見したく山添村の片平に勝原を訪れていた。

陽が沈むまで少しばかりの時間に余裕があった。

帰路の行程は大きくハンドルを切って宇陀市の榛原に向かう。

あのお神酒どっくりを吊るしていた注連縄をまた見たくなってというか、お家の方に話しを伺いたくて再訪したが注連縄はすっかり消えていた。

一般的な事例からいえば年神さんを迎えたしめ飾りを下げる日は小正月。

14日、若しくは15日であるが、昨今はとんど組み作業をする人足の関係で休日に移行する地域が増えている。

その例も考えられるが、この年の7日は平日の月曜日。

もしかとすればだが、拝見してからの夜間に外してとんど焼きをしている可能性も考えられる。

真相はお家の方に聞くしかないが、いくら大きな声で呼びかけても反応がない。

どうやらご不在のようである。

それから一週間後の14日に再び立ち寄った。

カドニワに自家用車があるからたぶんにおられるであろう。

玄関も開いていたからこの前と同じように大きな声で呼び出したら、奥から返事が聞こえた。

自己紹介ならびに取材主旨、尋ねる経緯を伝えて注連縄のことを尋ねる。

話してくださったのはY家のご婦人である。

注連縄に竹製のお神酒どっくりを作って架けていたのは旦那さんだった。

詳しいことは本人に聞かないとわからないが、概略を教えてくださった。

だいたいが1月4日辺りに作って架ける。

数日後の1月7日は山行きさん。

注連縄にお神酒どっくりを持って山に行く。

出発にあたっては無事を願って僧侶にお念仏を唱えてもらう。

おそらく安全祈願の祈祷念仏であろう。

それを済ましてから僧侶とともに山行きする。

かつて山行きに出かけていたのは旦那さんのお父さん。

奥さんはおじいさんと云っていたからそうであろう。

山仕事はしていない旦那さん。

山行きは形式的であるのかもしれないが、父親の意思を継いで注連縄にお神酒どっくりをしているという。

山行きとはおそらく山の神参りであろう。

6日、竹製のお神酒どっくりを見た瞬間に思った山の神との関係性。

伺ったことでわかった。話してくださった山行きに、是非とも同行取材をしてみたいと思った。

一年後にまた寄せていただきたく、お願いした。

(H31. 1. 6 SB932SH撮影)
(H31. 1.14 聞取り)

滝本町のイノコ御供

2020年08月09日 09時20分59秒 | 楽しみにしておこうっと
数週間前、写真家SさんがFBに投稿した映像に思わずいいね!を入れた。

とびきりのいいね!である。

映像は5本の竹筒を笛のような形にして並べた何か、である。

他にも束ねる5本竹はあるが、2本組もある。

花を飾っている棚のように見えたそれはいったい何であろうか。

ぱっと頭に閃いたのは山の神である。

ほぼ同型と思われる2本仕立ての竹筒はお神酒入れ。

酒を注ぐ徳利みたいようなものだからお神酒どっくりの名で呼ぶ地域もあれば「ゴンゴ」と呼ぶ地域もある。

私の知る範囲でいえば、地域はいずれであっても該当する行事は山の神である。

ひとつは奈良市柳生町の山脇。

山の口講が供える竹筒は「ゴンゴ」である。

山行きさんが初山に出かける際に供えていた「ゴンゴ」である。

田原の里の史料によれば柳生よりそれほど遠くない奈良市中之庄町にも「ゴンゴ」が登場するようだ。

山の口講と同じように山行きの際であるが、ゴンゴと呼ぶ竹製のお神酒入れを供えて参ると・・。

事例はもう一つある。桜井市白木・北白木のオトサシの前に出かける山の神参り。

山の道具などとともに供える竹筒作りのお神酒入れである。

当地では「ゴンゴ」でもなく「お神酒どっくり」でもなくお神酒入れである。

見聞きした他にも数件の事例があるが、ここではこの2例だけにしておく。

機会があれば祭事場を案内しましょうと云っていたSさん。

紹介者の許可が出たようでこの日に案内をしてもらう。

その場は集落より近いそうだが、急な坂道。

地元民でなければ彷徨う地。

その地の所有者も存じているSさん。

たまたまの遭遇に許可を得て入山する。

しとしと雨が降るこの日。

傘をさしての山行きに靴が滑りやすい。

あそこがそうだという場。

なるほどと思われる御供場である。

刻印の一部に「神前」と読めた灯籠。

寄進者なのかさっぱり判読できない文字である。

Sさんが聞かれた話しによれば、元々はこの場でなく山の上の方に祭っていたようだ。

理由はわからないが、山の上までの行程が難しくなって里に下ろしたという事例はままある。

吉野町小名の事例は地蔵尊であった。

可能性はあるのかどうか確かめようと山登り。

すぐ傍に大岩が数体もある。



この岩の向こう側かもというが、本日の足場では無理がある。

ところどころに見つかる樹木。

葉を見たとたんに同定したSさん。



これは茶の木。

点々、散々の場に自生していることからかつてはこの山が茶畑だったと推定される。



さて、竹製のお神酒入れである。

5本並べて水平にかました竹止め。

巧い造りに感動する。



なるほどと思った固定の方法。

発想が素晴らしい。

紹介者の話しでは山の神ではなく行事名は「イノコ」だという。

(H30.12.26 EOS7D撮影)

西大寺北町・十五所神社の御幣

2020年07月08日 11時02分39秒 | 楽しみにしておこうっと
ずいぶん前、現奈良民俗文化研究所・所長の鹿谷勲さんが話していた神社であるが、鎮座地が実にややこしい。

本日に伺った野神町(垣内)の野神神社の行事に来られていた91歳のM一老に伺って、やっとのことで見つかった。

なんでも元日に神事があり、紅白の水引で括った幣を立てると聞いていたからの下見。

足を運んだら、そこに。

ただ、御幣の様相から、月日の経過が見てとれる。



いつの時点に立てられたか、正月参りの際に伺ってみたいものだ。

(H30.12.15 SB932SH撮影)

片平の民俗調査

2020年04月09日 08時58分14秒 | 楽しみにしておこうっと
平成21年に書き残していたマツリ日程。

祭事の場は山添村の大字片平。

氏神社は八柱神社。

行事の特徴に書いてあった「まつりど」メモに「九献の儀」、「子供相撲」の文字があった。

10年前のメモにあった行事日は、第二日曜日。

かつては10月16日であったが現在は第二日曜日。

県内事例の行事数がいちばんに多い第二日曜日。

未だに足を運べない地域は200以上にもおよぶだけに詳細はいっこうにつかめていない。

大病を患ってからは無理の効かない身体になった。

できる限りも難しい身体状態に取材数は極端に絞らざるを得なくなった。

ふと、目についた片平のマツリに興味をもった。

場所だけでも目に入れておこうと車を走らせた。

先に調べておきたい地域がある。

山添村に行く道中に立ち寄った奈良市の旧五ケ谷地区。

その一つにある興隆寺町・八坂神社の祭りである。

以前、お世話になったK家の向かいに住む旦那さんの聞取りによれば、先週の10月7日だった、という。

10月7日であれば第二日曜日。

いつかは拝見したいマツリは千本搗きもあれば、きなこ餅に醤油味噌を包んだ餅喰いもある。

また、村人大勢集まって松茸飯に豚汁喰いもしていると聞いているマツリ。

すぐ近くにある公民館からのお渡りもある。

ここ興隆寺町もまたマツリは第二日曜日。

2地区とも取材するには2年かかりになる。

旦那さんが云うには、隣村の高樋も中畑も7日だと云ったが、後日に確認した高樋のO総代の話によれば平成28年から第四日曜日に移したようだ。

前年の平成29年の3月1日に行われた興隆寺の祈年祭に供えるシロモチ御供。

今も、毎月の朔日にしていると聞いてほっとする。

ここ興隆寺町から山添村の片平まではおよそ40分。

カーナビゲーションの指示に沿って車を走らせる。

西名阪国道を走って三重県境手前にある五月橋ICを下りて、地道の県道25号線に入り、中峰山の三差路を左手に上がって大字の中之庄、吉田を抜けて名張川沿いに村道を走る。

公民館(※後日にわかった五月老人憩いの家)らしき建物があるからここが大字片平の中心地と思ったが、八柱神社へ向かう道はどっち。

右手、左手に分かれる道のどちらを選択するか。

えいやっ、で決めた選択道。

急こう配の狭い道はどこに到達するのだろうか。

先を目指して坂道を登っていったら四つ辻に出る。

さてさて、ここも選択地。

辻近くの畑地で作業されていた婦人に声をかけて尋ねた神社行事。

それならすぐ下に区長さんがおられるから紹介してあげる、と案内してくださったが、生憎の不在。

副会長のIさんならおられるはずだからとあらかたの所在地を教えてもらった。

会長、副会長を紹介してくださったW婦人にお礼を伝えて、八柱神社へ向かう道を歩いていく。

車は辻に置いてきたのは、左崖に並ぶ路傍の石仏の向こう側は墓石群。

その角を曲がったところでしていた樹木伐採の工事中。

作業に伐った雑木が道に散らかっているから車は通れない。

歩いていくしかないからどこかに車を停めなくては・・。

それならその辻に、通行の邪魔にならんよう停めてもいい、とWさんが云ってくれた。

少しの時間なら畑作業で見ているし・・とありがたく甘えて、神社に向かって歩いた。



なだらかな道を歩いてすぐわかる右手の建造物。

八柱神社の社務所若しくは参籠所であろう。

さらにその右手に五色の幕を張っている寺院が見える。



上り切ったところが境内地。



鳥居下からまずは拝ませてもらう。

石段を登った参道に建った灯籠に「八王子」の刻印がある。



かつて、というか江戸時代はおそらく八王子社であったろう。

県下では、山添村の他、奈良市旧都祁村や田原の里でわりあい多くに見られる。

明治時代の神仏分離の際、牛頭天王と習合していたスサノオ神と天照大神の誓約によって化生した五男三女神の八柱に変えられた、とウキペデイアにある。

しかも、その灯籠には16花弁の菊花紋章を彫りこんでいる。

いわゆる菊の御紋であるが、灯籠に菊花紋章を拝見するのは初めてだ。

風になびく五色の幕。



真言宗豊山派の金剛山浄明寺である。

本堂近くに建つ五輪塔は正中二年(1325)乙丑四月□日大願一緒」の銘があり、鎌倉時代の造立。

山添村指定の文化財である。

短時間の参拝を済ませて車を停めた処に戻ってきた。

その辻に建つお家の壁に見た構造物。

どことなく田舟のような形だと思った。



仮に田舟としても古びていないのが気になる。

結んだロープも真新しいから現役のようであるが、用途は何であろうか。

また、その建物の南角に地蔵堂らしき祠がある。



ぐるっと廻ったそこに錫杖をもつ石仏が立っていた。

まさに地蔵さんである。

畑作業をしていたWさんに再びお会いして尋ねた舟。

名張川対岸に片平の土地があり、そこへ行くに箱舟を浮かして渡っている、という。

たぶんに軽トラなどの荷台に載せて出かけているのだろう。

その渡船、民俗の1件として是非拝見してみたくなる。

また、地蔵石仏は、愛宕さんとして崇めてきた、とも。

また、この地区は、大晦日の12月31日に「フクマイリ」をしている、という。

午後6時。もう真っ暗になっている時間帯。

辻から西へ行った処に組んだ大きなトンドに火点けをする。

地区の人は、場に順次やってきて、午後7時ころになったら持参した2個の餅を焼く。

1個はそのトンド場で食べて、残りの1個は持ち帰るそうだ。

一部の地区であるが、片平の地域文化に興味を惹かれる。

車を動かして村道に戻り、そこから片平の南部地区に向かう。

W婦人に教えてもらった副区長の家を訪ねて南に下る。

ほぼ目印のない三差路。

右手にある狭き道を登っていくとどんつきに出た。

その辺りに数軒の家がある。

すぐ近くにある1軒のお家を訪ねた。

そのお家が副区長のI家だった。

玄関前から声をかけさせてもらったらI家のご婦人がおられた。

しかじかを伝えたら向こうの山にご主人が作業をしている、という。

もうすぐ戻ってくると思うから、少し待ってくださいと云われて十数分。

Iさんが戻ってこられた。

取材主旨を伝えて片平の行事を教えてもらう。

一つは八柱神社の秋祭りである。

今年は、体育の日の前日になる日曜日。

10月7日にしていた。

その祭りに初めて村入りする儀式がある。

村入りは、この片平で今年生まれた子どもと大人であるが婿養子に村入りした人を役受けする「まつりど」である。

村入りする人は、小トウ(3、4人)と呼び、小トウを務めた最後の年はノキド(※トウを退くからノキド)と呼ぶそうだ。

先に訪れていた八柱神社に平成31年度の役を知らせる貼り紙があった。

「退営」役はN家三男の名。

「初営」役は、H家の孫の名がある。

それぞれの役に、施主さん2名の名前も記されていた。

また、「用意」役に、施主Nさんの名があった。

山添村年中行事編集委員会・山添村教育委員会が編集、平成5年に発刊した『やまぞえ双書』に、片平八柱神社の秋祭りが詳しく書かれており、「まつりど」については、次の文で紹介されている。

「まつりどは、子どもの誕生順に、男子は全員、女子は長女だけが資格を得る。なお、婿養子にきた者は、その年をもって一歳とみなし、その役を得ることになる。まつりどの構成は、初営(※しょうと)3人と退営(※のきど)の3人。初営にあたれば数年を経て、退営をするように組み合わされている」とあった。

なお、『やまぞえ双書』によれば「用意」役は当屋の補欠である。

当屋に万が一の場合となったときに、その当屋に代わって、急遽役に就く「補欠」である。

また、1月6日は神社参籠所でオコナイ行事をしているそうだ。

参集した村人は、ランジョーの床叩きがある。

また、額に朱印を捺すごーさんの所作もある。

ごーさんの木は藤の木。藤の木肌は剥がしやすく、剥がした木肌は紐のようにして結ぶ、というからこれまで県内各地で拝見してきたオコナイと同じ所作をしている、と思った。

大晦日の午後は山の神の場に架ける注連縄作りをする。

地区外れの場に大きなとんどを組む。

時刻は午後6時。

先ほどWさんが話した「フクマイリ」と同じことをしているらしく、火を点けたとんどを燃やし、餅2個を焼いて食べる。

火が衰えてからになるが、フク火を家に持ち帰る。

その際、若水を汲んで雑煮を炊く火種にする。

正月明けた6日はオコナイ。

直会を終えたら自宅に戻って、山の神に祭る農具を作る。

農具は斧や鍬に鎌など。木材で作った農具は7日早朝の山の神参りにもっていって祭る。

また、その際にカギヒキをしている。

「西の国東の国に・・・」とかの詞章を唱えるカギヒキの所作である。

山の神参りを済ませたら七草粥である。

片平の民俗行事の概観が掴めた。

取材にあたってはあらためて年末近くに電話させていただくこと、お願いして片平を離れた。

(H30.10.14 SB932SH撮影)

粟原天満宮・勧請縄の残欠

2020年03月19日 09時49分04秒 | 楽しみにしておこうっと
知人のUさんが、FBにアップしていた神社が気になる。

神社そのものでなく、ご神木かどうかわからないが、大きく育った杉の大木である。

階段を登りきったそこに植わっている大木は左右に1本ずつ。

境内側からとらえられたその1本の映像に、とても気になる物体がだらりと下がっていた。

目を凝らしてみれば、太い縄である。

房もありそうなその縄は注連縄、それともカンジョウナワであろうか。

実態を見たくなって車を走らせた。

目的地は桜井市粟原(おうばら)に鎮座する天満宮である。

カーナビゲーションにセットしたその地は山の方。

集落から細い道をさらに登ったところにある粟原寺跡は国史跡

史跡巡りに訪れる人は多いようだが、すぐ近くに鎮座する天満神社には目がいかないようだ。

神社に架かる太い縄のことを知りたくて、屋外におられた二人の男性に声をかけた。

太い縄は、カンジョウツナ。

充てる漢字は勧請綱である。

男性が云うには、太い勧請綱の縄結いが難しいようだ。

若手ではできない縄結い。

長老に教えてもらいながら結っている、という。

特に難しいのが捻り。

縄結いに数人。

身体の捻りと綱をもつ腕の捻りは逆の動きになる。

頭では理解できても、身体と腕がなかなかついていかんらしい。

勧請綱にぶら下げる房がある。

その房の個数は三つであるが、材は葉がある榊(サカキ)の木である。



勧請綱を架けた翌日以降に村の人が亡くなられた場合は、すぐさま綱を切る習わしがある。

今年の勧請綱は、この9月までずっと落ちずに、また切ることもなく、架けたままにしていたが、朽ちてきた状態をみて、そろそろ落とさなくては、と切り落としたそうだ。



切ろうが切ろまいが、特に決まりもないが、古い勧請綱は翌年の小正月。

つまり1月15日(※現在は成人の日)に行われる大とんどに燃やされる。

粟原のとんど場は、地区にある火の見やぐらのある畑地。

所有者の了解を得て借用した場でとんど焼きをしていた。

大とんどもとても大きい。

伐りだした100本の竹で組んだとんど櫓。

近年のことである。

とんどを燃やしたら焼けた葉っぱが飛散した。

旧村で行われているとんどはいずこもそうであるが、粟原の大とんどの竹があまりにも多かったのか、焼けた量はそうとうなものだったそうだ。

その日の風、天候具合もあって飛散量が多かったこともあって周辺地域から苦情の声があがったようだ。

そのことがあって、規模を縮小したとんどに切り替えるようだ。

昔は子どもも大勢いた、と祭りの神輿も話してくださった。

そのころの神輿は4人乗り。

少子化の波は全国的。

ここ粟原もご多分に洩れず少子化。

神輿に乗る村の子どもは3人。

そうであっても神輿を担ぎだす。

集落を巡行/下り尾や名寄地区境界まで。

行き交う車の多い国道166号線を担いで巡行するには難しいと判断されて、軽トラに載せて巡行している、という。

聞き取り者が紹介してくださったI区長家を尋ねたが、本人はお出かけ。

伺った奥さんは、戻ったら電話させていただきます、と・・。

3カ月先の正月明けにしているという勧請綱架けは午後いちばん。

当日はよろしくお願いしますと伝えた。

(H30. 9.23 EOS7D撮影)