マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
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番条町・環濠に弔うイロバナ②

2022年04月08日 07時42分55秒 | 民俗あれこれ(葬送編)
旧月ケ瀬村の村行事の下見調査に向かう道すがら、尋ねた大和郡山市の番条町。

そう、気になっていた4月5日に見た環濠際にあった弔い花の件、を尋ねてみたくなったから車を番条町に向けた。

車を停めたそこからすぐ近くにある環濠。

4月5日に見た同じ場にあった。

近づいてわかったイロバナ。

えっ、と思ったその数。

2カ所に増えていた。

増える、ということはどういうことなのだろうか。

門を叩いたお家は、南垣内のF家の奥さん。

4月にも拝見した不思議さに、もしご存知でしたら、と尋ねてみたら経緯を教えてくださった。

イロバナが二つに増えていたその謎は・・・・・・・・。

実は・・と話し出した一匹の猫についてだ。

どこから、どう入ったのかわからないが、お家の蔵の中に見つかった、という。

生きている猫でなく、亡骸の姿だった。

F家も猫を飼っているが、そこからか迷い込んだ猫。

ご近所でもなく、まったく知らない猫だという。

蔵内に亡くなっていた猫の姿を見て、可哀そうだと思ってうずめた(※埋めた)という。

そうか、そうだったんだ。

F家の猫は、とても元気で活動的。

それに比して、死に場所をうちの蔵に選んでくれたんや。

だから、その「猫が可哀そうだから、うずんどいた」ということだった。

ただ、それだけでは寂しかろう、とお家に咲いていたイロバナを立てた。

お水を注いだ小皿を添えてあげた、というが、線香はくすべなかったそうだ。

その後、である。

蔵で亡くなった猫を弔ってから数カ月。

つい1カ月前のこと、である。

東側に建つ小屋の前の道に猫の亡骸を見つけた。

往来する車に轢かれた猫はぺっしゃんこになっていた亡骸。

干からびたようなその姿は、それこそ“カンピンタン“やった、と方言で話してくれた。

“カンピンタン“を充てる漢字は”寒・貧・短“。

三重県の方言で、干からびた状態をいうようだ。

そのことはともかく、娘さんが、この猫も弔ってあげよう、と声をかけてくれた。

場所は替えることなく、同じところ。

一匹目を弔ったその横にまた「うずんどいた」。

一匹目と同じように、イロバナを立て、お水を浸した小皿を添えて・・・。

(R2. 7.19 EOS7D撮影)

番条町・環濠に弔うイロバナ①

2021年12月16日 09時14分12秒 | 民俗あれこれ(葬送編)
所用で伺った大和郡山市の番条町。

昨年の令和元年5月11日。

当日は、奈良県立民俗博物館主催の「国際博物館の日」記念プログラム講演会があった。

大和民俗公園内施設にある旧萩原家住宅の茅葺屋根の全面葺き替え作業をしておられた茅葺職人さんの講話だった。

番条町にある大和棟民家もまた茅葺き。

云十年ぶりの葺き替え工事に就いた職人さんは、旧萩原家住宅の葺き替え工事を終えて、今は番条町民家の仕事をしていると知って出かけた。

講話してくださったお礼を伝えたくて立ち寄った。

忙しい作業時間の合間にしてくださったお話もまた民俗。

さまざまな体験談に学びがある。

長居に仕事の邪魔をしてはならない。

お礼に、職人さんが葺き替えをされた旧萩原家住宅をとらえた映像が掲載されている図録を手渡した。

これも何かの縁と思って差し上げた。

それから拝見した、現在作業中の茅葺き民家。

直接、作業をしている場は撮らない。

葺き替え工事の依頼主の断りなく撮るわけにはいかない。

そう判断して外観から眺めることにした。

番条町の環濠は、集落の北から東側から南にかけて。

昔の面影が見られるところは限られる。

ぐるっと廻って集落巡り。

バス停近くからの眺めもいい。

北に南も眺めていたそこにあったイロバナ。

さて、これは何だろうか。

奇麗なお花は立ててからそれほどの時間は経っていない。

たぶんにお庭に咲いているお花を飾ったのだろう。

縦長の花瓶は土に埋めている。

その傍に小皿もあることから弔いの花であろう。

3年前の平成28年7月1日

場所は田原本町の唐古。

天理市の庵治町との境界に近い場。

川の名前は存知しないが、土手というか堤防に花瓶。

ここ番条町と同様にイロバナを飾っていた。

その場は、亡くなった愛犬を弔う場だった。

つくりが似ている環濠傍のイロバナは、愛玩していた動物の弔い場ではないだろうか。

真相を知ったのは、それから3カ月後の7月17日だった。

(R2. 4. 5 EOS7D撮影)

四十九日満中陰の忌明け法要に拝見するヒトガタに分離するカサモチ

2020年04月25日 10時37分40秒 | 民俗あれこれ(葬送編)
かーさんの叔母さんにあたる女性が逝去された。

何度となく病に伏してはまた立ち上がる。

かーさんの母親は叔母さんよりも先に亡くなっている。

我が家の子どもたちがまだ小さいことだったからもう30年以上になる。

その母親の妹になる叔母さんが亡くなってからの忌明け。

四十九日の忌明けに自宅で法要を営まれる。

生前、お元気だったころである。

奈良を代表する東大寺二月堂のお松明を見せてあげようと云っていたが、約束を果たせなかった。

連れてあげたいと思いつつ・・。

月日の流れはいやがおうでも早く感じるころ。

入院の身になった叔母さんは連れていくことができなくなった。

悔やまれても、もう遅い。

お通夜に涙した夜にもうしわけない、と心の中に弔いを。

それから1カ月と少し。

この日が四十九日満中陰の忌明け法要である。

供養に仏説阿弥陀経を唱えたおじゅっさん。

長年に亘っておつきあいされてきた叔母さんのことを話していた。

お話しを終えたその後である。

かーさんの従弟にあたる施主がおもむろに動いた。

只今より、カサモチ(傘餅)を準備しますと、満中陰に集まった人たちに声をかけてから作業をする。

作業は四角いお盆にのせた丸い餅である。

厚めでもない餅に包丁を入れる。

切れそうで切れないのは、餅はまだ柔らかさがあるからだ。

しかも下に半紙を敷いているから、包丁を入れて動かすたびに餅全体が動いて切れない。

大きな丸餅に切取り線のように切れ目がある。

その切れ目に沿って包丁を入れたら切れるらしいのだが、どうも切りにくい。

径がどれくらいなのか測っていないが、円形の大きな餅。

餅は餅屋に注文して作ってもらったカサモチの餅。

カサモチを充てる漢字は、被る笠を象っていることから笠餅。

施主がいうにはインターネットで調べたカサモチだという。

席すぐ近くに座っていた親類の人(和歌山周参見育ちの義兄の嫁)はお通夜に見たことがあるという。

観音講かどうかわからないが、ご詠歌の西国三十三番を唱えていたその晩だからお通夜に違いない。

住んでいた里の風習らしく、その地にもあったカサモチの習俗である。

ネット調べの施主が云うには、この習俗は真宗にあると・・。

帰宅してから調べてみればあるにはあったが、四十九日の笠餅の形態がまったく違うその宗派は浄土宗、浄土真宗、日蓮宗、臨済宗、曹洞宗、真言宗、天台宗、禅宗などなど。

四十九日の法要に49個の餅を重ねて供える四十九日餅

そのてっぺんの大きな丸餅を被せておくようにする形から笠餅と呼んでいるようだ。

また、法要を終えて、親族らは四十九日の餅を分け合って食べるのがあり方だとか。

ただ、このブログによれば日蓮宗の場合は、「大きな餅から人形(ひとがた)を作る風習」があると書いてあった。

さらに、法要の読経を終えた僧侶が人形(ひとがた)に切り分けるとも。

餅切りの形は人形(ひとがた)の他に死出の旅装束に傘や杖もあるらしい。

切れ目に沿って包丁を入れる施主。

一枚、一枚を大切に切る包丁入れ。

すべてを切り終えたらお盆にのせてみなさんに見てもらう。



これが足、頭、腕、杖、数珠‥と説明を入れて披露する施主。



角状でなく丸状が数珠とわかる。

右手近くにあるのが杖である。

人形(ひとがた)に切り分けた餅の数はそれほど多くない。

自主的に欲しい親類らで分け合う。

身体の具合で、例えば痛いとか、治療している部位など、治りたいと願う人がもらって食べる。

そうすれば、患部の治りが早いと云われている習俗である。

腰が痛いなら、腰の餅を。

足が悪いなら足の餅をもらって食べる。

私はコリにこった肩痛に難義しているから近い部位の肩腕をもらっていただいた。

実は、ヒトガタに分離するカサモチを拝見するのは、この日が初めてではない。

平成16年、6歳上の従弟の兄ちゃんが亡くなった。

生前、関西テレビの番組「走れガリバーくん(※平成11年~放映)」にむりこぎ登場し、ガリバーくんを案内していたまさやんである。

ガリバーくんが訪れた寺院にたまたま牛乳配達に来ていたまさやん。

ガリバーくんがまさやんに質問したのをキッカケに、取材に興味をもったらしく、なぜか行くところ、いくところに顔を出していたことを思い出す。

14年前、大阪・南河内郡南加納の自宅間2階に集まった親族一同。

法要を終えて周りにいた叔父や叔母たち。

おふくろの横に座った私に、カサモチについて話してくれた。

その日も同じように肩腕のカサモチを口にした記憶がある。

(H30.10.27 SB932SH撮影)

唐古・愛犬弔う堤防の花立て

2018年07月25日 09時15分08秒 | 民俗あれこれ(葬送編)
取材させていただいた各地域のお礼に撮らせてもらった写真を渡すべくあちらこちらを廻っていた。

田原本町の矢部で2件の行事。

天理市の庵治町も2件。

その一つに庵治町旧木之本のゴウシンサンがあった。

主催者の一人であるKさんから、初物の自家栽培フルーツホオズキをいただいたことは今でも記憶に新しい。

初物のフルーツホオズキの美味しさはこの上ない美味しさだった。

味わってからは、道の駅で売っているのをよく見かけるようになった。

そのお礼もあって再会したKさんが云ったこと。

えっ、である。なんと、平成28年に取材したゴウシンサンが最後になったという。

その年は南にある地蔵さんの行事も最後になったという。

そんなことになったけど、個人としては申しわけないと思ってKさんは御供をしたいと話していた。

Kさんならたぶんに存じているかも、と思って、この筋の南に行ったところ、地蔵さんの向こう側にある墓地向かいの水路の堤防で見た花立てについて聞いてみた。

場所が場所だけに不思議な景観を醸し出していた花立てである。

それをはじめて見たのは平成28年の7月16日

取材した旧木之本のゴウシンサンの帰り道にあった花立てである。

本日に拝見した花立てにあった花は昨年とは違う。

造花でなく生花であったが、これは一体何・・と聞けば弔いだという。

実はあそこに花を立てているのは愛犬が亡くなった弔いの生花だという。

生き生きとしている花はいつ立てたのかわからないが、夏を彩るユリの花にシキビのようだ。



その地は田原本町の唐古。

ほぼ庵治町との境界地になる。

たぶんに愛犬の命日に毎月の弔い花を立てていると思う。

昨年に拝見したときは亡くなったのは“人”と思っていたが、当たらずと雖(いえど)も遠からず、であった。

堤防にあった花は弔意の命日花。

我が家でもそうしているというKさん。

何年か前に亡くなった愛犬は自宅庭に穴を掘って埋めているという。

K家の愛犬は18歳で亡くなった。

庭に植生する柿の木の下にうずん(※埋めて)で弔っているという。

(H29. 6.18 EOS40D撮影)

水路土手堤の花立て

2017年02月08日 08時13分52秒 | 民俗あれこれ(葬送編)
庵治町の行事やカンピョウ干しを拝見して次なる町で出かけようとした。

庵治町集落の中央を南北に抜ける街道は古代の官道。

下ツ道である。

地蔵さんを抜けて南下する。

細い水路に沿った車路がある。

そこを南下していた。

その水路は北に向かって流れる水路。

やがて大和川に注ぎ込む。

その水路に土手堤がある。

土手の向こう側は畑地。

スイカやドロイモなどを栽培している畑だ。

手前はまだ栽培していない畑地。

何を植えるのか判らないが、綺麗に整地されている。

その手前にあった鮮やかな彩り。

オレンジ色の花があった。

黒い点々もあるからオニユリの仲間だろうか。



本数を数えてみれば3本もある。

膨らみかけた蕾の下は花が開いたオニユリ。

しかも、である。

パイプでこしらえた花立てに挿している。

そう思ったが、パイプではなく市販の花瓶のようだ。

これは一体何なのか。

十数メートル離れた位置にも花立てがあった。

黄色の花瓶である。

付近には祭る石仏は見当たらない。

ただ、とにかく堤防の面は草木もなく綺麗に整地されているのである。

雑草の欠片もないその地に何があったのだろうか。

付近に軽トラを水田近くに寄せた男性がおられた。

その人に聞いても、ここは田原本町の唐古。

所有地でないから存知しないという。

人為的に立てた花立てはもしかとすれば、であるが、水路で亡くなった人を弔う形ではないだろうか。

(H28. 7.16 EOS40D撮影)

亡くなられた場に弔う

2016年12月23日 08時47分37秒 | 民俗あれこれ(葬送編)
昼食を摂っていた場の向こう側に何かがある。

作業小屋の角の処に花を立てていた。

花は甕のようなものに入っている。

白いものもある。

なんとなくオヒネリのように思えた。

これは何だろうか。

近づいてみればカンビールやワンカップの酒もある。

たぶん・・・・。

そこには線香もあった。

火を灯した線香は焼けて灰になった。

何本かの線香の跡が残っていた。

神事をしていた神主に尋ねた結果は・・・。

近くに住む人がこの場で亡くなっていたというのだ。

年齢は老けていない。

亡くなるまでは元気な姿でいたという突然の死。

行き倒れのように道端で倒れていたと話す。

外で亡くなれば弔いの場に花を立てて線香を。

福源寺の住職に念仏を唱えてもらったそうだ。

その話しを聞いてあらためて手を合わせる。

(H28. 6.10 EOS40D撮影)

南加納の四十九日弔い観音講

2016年06月03日 08時19分32秒 | 民俗あれこれ(葬送編)
天理の病院に入院しているときに判った訃報。

河南町に住む叔父が80歳で亡くなったとおふくろが伝えてくれたが、どうすることもできない。

葬儀は身内だけの家族葬で行われたと聞く。

退院直前におふくろが伝えた四十九日の法要の日程。

そのころであれば、リハビリで身体も動けて参列することもできるだろうと判断して是非とも行くと伝言していた。

この日は朝から生憎の雨。

奈良よりも大阪のほうがよく降っている。

カーナビゲーションにセットした大阪府南部の河南町。

カーナビゲーションが案内する通りに車を走らせる。

大和中央道よりまほろばIC。

そこからは西名阪高速道路。

降りる処は藤井寺ICだ。

外環状線などからは地道。

案内されるがままに車を走らせる。

貴志から富田林に入れば見慣れた道にでる。

そこからほど遠くない地が河南町の南加納。

平成22年11月22日には貴重な村行事の「ゐのこ(いのこ)」を取材した地である。

それ以降も度々訪れる。

おふくろを迎えに出かけて住之江に送る送迎者になる。

叔父は何度も手術に耐えてきた。

仏さんになった今では見ることも挨拶もできないが、とにかく法要に向かう。

勝手知ったる家はすぐそこだ。

遺影を掲げた祭壇に遺骨もある。

しばらくすれば連絡を受けた従姉妹たちがやってきた。

おふくろは従姉妹が駅まで出かけて迎えていた。

お住っさんは門徒。

同家も門徒。

初めての葬儀にてんやわんやだったらしい。

お住っさんが始めに言った。

「長丁場になるので足は崩してください」、だ。

まず一時間はかかるだろうと思ったが、それを遙かに超えたほぼ2時間。

穴も掘って塔婆も用意しておいた墓地法要。

連携がうまくできていなくて親族が参る形になった。

それから2時間後には村の観音講は仏前に座ってご詠歌を唱える。

それまでに済ませておきたいパックの膳。

この日は雨で墓行きができなかった数人と別れて早めの膳をよばれる。

蓋を開けて広げた膳の品数は今までみたことがないぐらいに多い。

南河内郡太子町・懐食吉田の会席膳は私の舌とよく合う味付け。

なにもかも美味い。

一品、一品の量が多くて時間がかかる。

半分ほど食べたころは墓参りを済ませた一行が戻ってきた。

お慌ててよばれる会席御膳。

食べ終わってばたばたと座布団などを並べる。

観音講は30人ぐらい。

いとこのねえちゃんからは、一定の年齢になれば村の観音講に入って西国三十三番のご詠歌を唱えると聞いていた。

私より10歳上のねえちゃんは講中の一人。

弔いの場には参列することはできない。

この日の導師は5人。

おりんや小さな鉦を座布団の前に置く。

これより始まった。



撞木を叩いて鉦を鳴らす。

同時にご詠歌を唱える。

西国三十三番御詠歌は23番辺りで小休止。

家人が配るお茶をよばれる。

続きは24番から。

番外があったかどうか不明だが、この日は「帰命頂禮ありがたや 中陰和讃の心得は ・・・」から始まる中陰和讃が唱えられる。

中陰和讃は南加納特有の詞章がある和讃らしい。

1時間ほどで四十九日の弔いご詠歌済ませて家に戻っていく。

この日の観音講は27人。

うち4人が男性だ。

奈良県内の事例では見かけたことがない組織である。

(H27. 9. 6 SB932SH撮影)

別所町の葬送儀礼

2015年11月29日 15時56分55秒 | 民俗あれこれ(葬送編)
風景写真家のYさんがとらえた注連縄写真。

田んぼの神さんなのか、それとも・・・。

正体を確かめたくて出かけた奈良市別所町。

朱塗りの鳥居付近に立ててあった注連縄は七・五・三。



両脇はススンボ竹だ。

近くの農具倉庫を修理していた村人は何度かお会いしている男性。

二日前の18日に上の垣内に住む90歳の男性が亡くなられたと云う。

葬儀を家でされて出棺霊柩車は葬儀場に向かう。



その通り道に金刀比羅神社の鳥居がある。

霊柩車が通るにはケガレがあると云って注連縄を立てるというのだ。

かつては神社に黒幕を被せて「メカクシ」をしていた。

それと同じで注連縄も「メカクシ」だと云う。

下の垣内であれば、鳥居を通らない。

その場合は「メカクシ」しないそうだ。

葬儀をされた家の前に辻ローソクが今でもあるはずだと教えられて上の垣内へ。



真新しい輪切りのダイコンを挿してローソクを立てていた。



存じている長老に話しを伺った。

戦時中はローソクを買えなくて赤いトウガラシを挿していたと云う。



その様子は近くに住む婦人もそう云っていた別所町では3月第一日曜日(今年は3月1日13時ころ)に長老が弓矢を射る「弓の的」行事が行われる。

平成17年に訪れて以来、未だに再見していない。

(H27. 2.20 EOS40D撮影)

23回忌でにぎり長次郎

2012年04月25日 06時45分34秒 | 民俗あれこれ(葬送編)
平成二年に亡くなった祖母は92歳だった。

平成元年の秋に大病を患った翌年のことだ。

退院してから京都の病院まで見舞いに行った。

年老いた祖母はそこに居た。

動くこともできずに新しき年が明けたことを喜んでいた。

それからしばらくした節句の月に病院から知らせが届いた。

駆けつけたときには時すでに遅しだった。

霊安室で対面したことを覚えている。

私が退院して元気を取り戻して安心してあの世にいってしまったのだろうか。

あれから20年以上も経った23回忌の年忌法要。

家族それぞれが20歳も前の光景を思い出す。

その日以来、法要に来てくださっている住職は大阪平野の大念仏。

奇しくもその大念仏からやってくる大和のご回在を取材するようになっていた。

街道を巡る如来さんに手を合わせている。

23回忌のこの日も住職に参ってもらった。

お寺では事務方だったが大和のご回在に出かけたことがあるという。

ご自身が担ったときはマイクロバスだった。

それまでは禅門たちがリヤカーで運んでいたという。

その時代の経験はないが各地を巡っていたそうだ。

度々の取材地である室生の下笠間。

当時は泊りもあって堂内で寝泊まりした記憶があるそうだ。

そのときの話される長老たちの豊富な話題に盛りあがったそうだが、記録をしておけばと今更ながらに思うと話す住職。

念仏は諷踊(ふじゅ)だそうだ。

当家の23回忌にその話で盛り上がった。

大和郡山市の額田部融通寺、矢田町通の円融寺住職のお名前も飛び出す。

ありがたいことだ。ちなみにO住職のお寺は平群郡下垣内の円通寺。

本山を含め同寺の取材もいずれお願いすることであろう。

そうして始まった祖母の年忌供養。

最後になる弔いあげは10年後の33回忌となる。

ちなみに13回の法要に際して、それぞれの菩薩や仏さんが仏事に充てられた追善法要の十三仏がある。

初七日は不動明王。二七日は釈迦如来。三七日は文殊菩薩。四七日に普賢菩薩。五七日が地蔵菩薩。六七日は弥勒菩薩。七七日は薬師如来。百カ日が観音菩薩。

一周忌は勢至菩薩。三回忌に阿弥陀如来。七回忌は阿閦如来(あしゅくにょらい)。十三回忌は大日如来。三十三回忌が虚空蔵菩薩である。

長い修行の締めくくりとされる弔いあげの33回忌を迎えて故人は菩薩の世界に入り、ご先祖さんは守り神になるというが・・・。

数えてみれば23回忌にあたる仏さんはない。

17回忌、27回忌もそうだ。

何故なんだろう。

そんな疑問とは関係なく久しぶりに出向いた大阪市内の住之江。

日曜日はどこもかしこも満員御礼。

入店した木曽路は予約客があり1時間待ち。

仕方なく昨年6月にも行ったこともある「にぎり長次郎」に切り替えた。

そこでも駐車場が満杯。

これまた仕方なく近くにある指定されたタイム制のパーキング。

2時間以内はお店で出される無料サービス券で助かる。

長次郎で頼んだ寿司は「花ひとひら」の寿司御膳。



もう一つは京にぎりの「大原」だ。

いずれも1480円。

前回は日替わり定食があったが、それはない。

980円の竹御膳を頼んだことを覚えている。

一挙に500円もプラスされた御膳。



それが出されるまでのお口初めに頼んだのが980円の「海の幸五点盛り」。

これは美味い。

トロトロのマグロにサーモン、タイ、イクラなど。新鮮な魚に舌が唸る。

御膳のにぎり寿司はいずれも11点だが、なんとなく「花ひとひら」のほうが上等のように感じる。

しかも、「大原」には付いていないサラダまである。

これがまた美味いのだ。

共に茶碗蒸しと赤だしみそ汁が付いているのだが・・・。

お腹一杯の満足寿司だった。



ついでに頼んだ120円の生ゲソ。

コリコリ、シコシコ、歯ごたえがあって、そんじょそこらのゲソではない・・・と思うから2皿にした。

そうそう、御膳に付いていた香物が美味しかったのだ。

べったら漬けだ。

これが気になって仕方ない。

それだからその一品を頼んだがメニューにはない品書き。

しかし、まぁなんですな。

頼んでみるものです。



出てきたのは漬けものの盛り合わせ。

シャキシャキ感のミズナが美味すぎる盛りは380円だった。

(H24. 3.11 SB932SH撮影)