天保十二年(1841)、建之の狛犬の台座に左三つ巴の巴紋が見られる川西町保田(ほた)の六縣(むつがた)神社。
かつては六所明神・保田神社と呼ばれていた。
境内にある富貴寺は神宮寺であろう。
永正元年(1504)に寺への田地寄進状、大永八年(1528)には宮座(宮本)への田地売却文書があったそうだ。
天文二十年(1551)の神事次第が残されているとすれば、まさに僧侶と村神主(宮守)による祭祀が行われていたのであろう。
その次第は拝見したことがないが、六縣神社で行われている御田植祭後に配られるお札に「牛玉 冨貴寺 寶印」の書が見られる。
六縣神社は富貴寺に属していた。
戦前までは講組織によって寺行事の牛王突きが行われていたようだ。
それがどのような形態であったのだろうか。
考えるに、祈祷された牛玉寶印を杖に挿して、それを突いていたのではないだろうか。
大和郡山市に矢田山金剛山寺がある。
正月初めの行事に
修正会(初祈祷)が行われている。
二日には牛王加持として牛王杖で床をコツコツと突くランジョウがある。
かつては壁板も叩いていたという悪魔祓いの作法である。
それとも山添村岩屋の興隆寺で6日に行われる正月行事の
修正会に際して、祈祷されたゴーサン(牛王印)を額に押す所作であろうか。
東、西、南、北の方向に向かって魔除けの作法をされた牛王の寶印。
それを額に押すのである。
押すと云うよりも突き出す作法である。
それらの作法を思い起こす牛王突きは廃絶されて現認することはできないが、椿の枝木に括りつけた牛玉寶印書は御田植祭行事の一連として現存している。
稲苗に見立てた椿の枝木は苗代に挿すという。
蕾(花芽)がたくさん付いているほど実りがよく豊作が叶うというから、貰って帰る村人は蕾数を手にとってその数を確かめる。
取材時に授かったお札と椿の木。
花器に移しておいたら1カ月後の3月9日に咲いた。
その花色は赤だった。
保田は北、中筋、寺、宮南、宮北、東、西の7垣内。
六縣神社・富貴寺がある垣内は宮北であるが、小字でいえば的場になる。
保田の小字は西南に八王寺、南に南口、東南に西垣内、出口。
東は上蔵縄手、宮ノ辻、七反田がある。
北上すれば寺垣内、寺前、中筋垣内、下蔵縄手、三昧田。
街道の北側に西垣内、北垣内、北口、東口だ。
つまり保田は北に北口があり、南に南口。東は東口に囲まれた集落なのである。
保田の西には曽我川を挟む川保田地区がある。
その西隣、南北に細長い川中垣内があった。
おそらく曽我川はこの垣内を流れていたのではないかと思われる垣内名である。
曽我川が動いて蛇行した名残の垣内名ではないだろうか。
さて、修正会は寺行事であるが、御田植祭は神社の行事だ。
以前は2月14日に行われていたが、祭祀される人々の都合を考慮して14日に近い祝日の建国記念日の11日に移行された。
十数年前(平成5年)のことだという。
戦前までは宮座行事として行われていた御田植祭は40戸からなる地主層の宮座十人衆(中老、若衆の年齢階層もあり)とマツリトウヤ(頭人)が務めていた。
辻本好孝氏著の和州祭礼記では昭和12年には旧正月の14日だったと綴っている。
他所で行われていた数々の宮座の行事日史料から推測するには、保田も同じように正月行事の修正会と思われる牛王突きと御田植祭は別々に行われていたと思われるのである。
戦後の農地解放でトウニンジ(名称からトウヤの頭人が耕作する宮座の田と思われる)がなくなり、村行事に移行された。
そのときのトウヤは兄頭屋と弟頭屋だった。
当時のトウヤ(頭人)は二十歳過ぎの者が務めていたそうだ。
秋祭りに御分霊を遷し神社へ御渡(遷しましの頭人家で祀ると思われる)をするマツリのトウヤは成人式を迎える者が務めていたが、田植え行事は厄年の者に移された。
なお、平成21年に発刊した『奈良県祭り・行事調査報告書 奈良県の祭り・行事』によれば、富貴寺の行事は戦前の宮座系譜をひく富貴寺講(50戸程度)が、今なお並立して勤めているようだ。
田植え行事は42歳の厄年を迎えた男性が務める。
見習いの前厄と補佐役の後厄の人たちが援助して所作をする。
行事を行う前は大和郡山市の松尾寺へ出かけて厄除け祈願に行く。
また、行事の一環として龍田川で手足を清めることもあったが、現在は中断されている。
赤ん坊に見立てた小太鼓を産む妊婦の所作があることから子出来おんだと呼ばれている六縣神社の御田植祭。
奈良県内にはさまざまな御田植祭が行われているが、子孫繁栄を意味する安産所作は極めて珍しい。
他に類例がなく平成18年に県指定された無形民俗文化財である。
また、男性が女装して演じる御田植祭には宇陀市大宇陀の野依白山神社で行われる節句オンダや橿原市大谷町の畝火山口神社、明日香村の飛鳥坐神社の御田植祭にも見られる。
この点においても珍しいのである。
お田植えの所作は水見回り、牛使い、施肥、土こなげ、田植え、田螺拾い、弁当運び、種蒔きなど田植えにおける予祝の在り方を演戯する。
御田植祭に先立って厄年の人たちはお祓いを受ける。
拝殿に登る厄年男(本厄、前厄、後厄)たち、大字の三役、敬神講員(各垣内の年長者7名)。
結崎の糸井神社宮司により、祓えの儀、厄年祓い清めの祝詞奏上、玉串奉奠など神事が厳かに行われる。
その後、ソネッタンと呼ばれる大和の里の巫女を迎えて御湯が行われる。
古いお釜に紙片を投入されて始まった。
酒、塩、洗い米を入れて御幣で釜内を掻き混ぜる。
釜を清めたのであろう。
鈴と御幣を手にして四方を回る。
四神を保田の地に呼び起こすのだ。
そして、元の社に送り納めそうろうと祝詞を唱え、二本の笹を釜に入れて何度かシャバシャバする。
湯に浸けて祓い清めた笹で一人ずつ祓っていく。
いわゆる湯祓いである。
こうして祓いの儀式を終えた男たちは田植えの所作に転じる。
拝殿北に座った大字三役、講員の前方、西、南、東の端に子供たちが並ぶ。
かつては男児だけだったが、現在は女児も参加を認めている。
曽我川東側の集落保田の戸数は200戸(正確には180戸ぐらい)。
新興住宅を含んでいるかと思えばそうではなかった。
旧村だけでの戸数だという。
子供がとにかく多い保田。
「子出来おんだ」のおかげであるのかも知れない。
登壇する男の子が言った台詞。
「ここは神さんが通る道やから、開けとかなあかんのやで」と年少の子供に作法を教える姿に感動を覚える保田の子供。
健やかに育った信仰の証しはその台詞に込められている。
マナーが薄れてきた現代の大人たちは子供を見習わなければならないと思った祭典は進行役の呼び出しに沿って進められる。
クワを手にした二人の農夫は畦を直す。
拝殿の床をコツコツ叩くのは畦を塗り固める所作であろう。
次に登場したのは牛使いと牛だ。
牛役は牛面を付けるわけでなく、指を頭の上に突きだして牛の角を表現しているようだ。
牛使いは牛役の腰を掴んで後ろにつく。
足を揃えた両人は「よいしょ」の掛け声をかけて左右にぴょんぴょん飛ぶ。
マンガ(馬鍬)掻きの所作である。
施肥の所作を行う二人が次に登場した。
両端に椿の枝木を括りつけた青竹を首からぶら下げている。
青竹は二つ折りに曲げたものだ。
腰を屈めながら椿の葉を一枚ずつ千切っては床に置いていく。
肥料見立てた椿である。
床一面に肥え椿を広げた農夫は床にひれ伏した。
周りの子供たちは「ぼちぼちやでー」の声が掛かるのを待ちかねている。
「ぼちぼちやでー」・・まだまだ。
「それいけー」が発せられると同時に農夫に群がった子供たち。
持った椿の小枝は農夫にバシバシ。
子供が扮する風雨に負けじと耐える農夫。
力強く稲は風雨にさらされても倒れることなく、稲が成長していく姿を表現しているという。
嵐が過ぎ去ったあとは土こなげだ。
クワを手にした農夫が再び登場する。
こうした所作はそれぞれ拝殿をふた回りする。
その度に風雨に見舞われるのだ。
田植えの所作に重要な役割をもつ保田の子供たち。
こうした所作に加わることで、農耕の在り方を学習するのであろう。
ときには作法と関係なく暴れ出す子供もいる。
田植の所作を経て田螺拾いの所作に転じた。
農夫は一人だ。
籠(桶)に見立てた小太鼓を小脇に抱えて登場する。
田螺を拾っては太鼓をポンポンと打つ。
田螺に見立てた椿の葉を拾う。
「ようおんで」と云いながら拾っていく。
古来より田螺は食料だった。
農薬の影響などから急速に減少して田んぼから消えた田螺。
60歳以上の人は田螺を食べた記憶があると思うのだが・・・。
平成4年に農村漁村文化協会から発刊された昭和『聞き書 奈良の食事』によれば、斑鳩の里では茹でた田螺とネギを味噌和えにして食べたとある。
ドロイモと一緒に煮つけたのも美味しかったようだ。
泥田に住む田螺は水に浸けて泥を吐かせておく。
塩で揉んでぬめりをとる。
さっと湯がいて殻から身を取り出した田螺は醤油を入れて煮たそうだ。
盆地部だけでなく大和高原の山添村でも食べられていた田螺。
真っ赤なイチゴの房のようなジャンボタニシを目にすることが多々あっても、食べられる田螺は田んぼからすっかり消えた。
そして登場した妊婦。
手拭いで姉さん被りした妊婦は女装であるがゆえ化粧をしている。
白の装束に赤い腰巻姿だ。
神饌米を入れた半切り桶を右手で支えながら頭に載せている。
左手といえば小太鼓だ。
抱きかかえるような格好で白い装束内に持っている。
そうして敬神講の講長の前に座り問答が始まった。
現在は講長であるが、かつては宮座の神主だった。
「田んぼへ弁当を持っていってくれるか」と神主が述べると、妙に色っぽい声で「はい」と答える妊婦。
神主は夫役でもある。
「ぼちぼちいってくれるかと」伝えられて拝殿を一周する妊婦。
弁当運びの所作である。
再び対座して、「あんたに尋ねるが、ひがしんだい(東田)は」に答える「三ばいと二はいと、また五はい」。
続けて「にしんだ(西田)は」に「四はいと四はいと、また二はい」。
いずれも合計すれば十杯だ。
きたんだい(北田)は三ばいと三ばいと四はい。
みなみんだい(南田)は二はいと二はいと六はい。
すべてが十杯であった弁当運びである。
次に尋ねるは「台所まわり」だ。
かつては台所ではなく「たなもと(臺:ウテナ所)」の字を充てていた。
「水」に対して「水壺の中」。
「杓」に対して「水壺の上」。
「おしゃもじ(御杓子)」に対して「釜の蓋の上」とくる。
かつては箸筒と呼んでいたようだが、「箸」に対しては「箸籠の中」。
「茶碗」に「茶碗籠の中」。
「オセンソコ(ご飯のこと)」に「お櫃の中に」と答えるさなか、妊婦が訴えだした。
「キリキリとお腹が痛くなりました」。
産気づいて陣痛が始まったのだ。
「はあー はぁー はぁーーー」と云いつつ前かがみ。
突然、懐からこぼれ出した小太鼓。
すかさず、拾いあげた夫は「ボンできた ぼんできた めでたいな」と大喜びで太鼓を打ち囃子す。
出産の儀式を滞りなく終えた妊婦の所作。
田植えの祭典は、まさに豊作の孕みであったのだ。
植えた稲苗は秋になれば実が孕む。
それを子出来孕みにかけて豊作を予祝した妊婦の所作だったのだ。
最後に登場したのは半纏姿(かつては烏帽子を被る素袍着)の農夫。
片肌を脱いで半切り桶を肩に拝殿を回る。
その際には種蒔き唄を詠う。
「近江の国通ればー 雪森長者に 行き合うたらー 行き合うたるところなら このところに蒔こうよー」と抑揚をつけながら謡う。
「蒔こうよ」と謡うときに神饌米(籾)を大きく蒔き散らせば「よーんなか(世の中) よーけれども ふーくのたーね まこうよ」と囃す。
二番に「河内の国を通ればー せしなげ長者に 行き合うたらー 行き合うたるところなら このところに 蒔こうよー」。
三番が「宇陀の郡を通ればー 市森長者に・・・同文」。
四番は「大和の国を通ればー 橋中長者に・・・同文」を詠う。
そして、「大和四十八万石― 保田の明神蒔き納めー」を謡った種蒔き所作で御田植祭を締めくくられた。
(H24. 2.11 EOS40D撮影)