マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

小林町尼講のネハンサン

2012年03月31日 18時10分35秒 | 大和郡山市へ
大きな涅槃の掛け図を掲げられた大和郡山市小林町の公民館。

床の間の高さは大和ご回在の如来さんは丁度いいが、涅槃はあまりにも大きく床にはみ出してしまうぐらいになった。

3年前に表装し直した涅槃さん。

それまではボロボロだったと話す尼講の人たち。

昔はおばあさん講とも呼んでいた講中。

平均年齢は70歳を超えているという。

掛け図の前に組んだ祭壇にお花を飾ってお寿司を供えた。

ローソクを灯して導師が講中の内部に入った。

お数珠を膝に置いて輪になった講中は手を合わせる。

木魚を叩いて念仏を唱える導師に合わせて唱和する般若心経は一巻だ。

やーて、やーて、はんにゃしんぎょうと唱えたあとは膝に載せていた数珠を手にした。

なむあいだ、なむあいだと唱えながら左側に送っていく数珠繰り。



「大きな珠がきたらくるりと手前に回して頭を下げるのです」と話すMさん。

木魚の音色となむあみだと念仏が繰り返される。

かつては100回もしていたそうだが、数珠の数取りは53。

およそ半分になったそうだ。

以前は子供も入って数珠繰りをしていた尼講の涅槃さん。

その頃は宮さんに蓆を敷いてしていたという。

お地蔵さんにマメを供えて数珠繰りをしていた。

炊いたイロゴハンも供えていたのは子供の頃だというから随分前のことだ。

旧の公民館から新築した公民館に場を移しても続けてきた尼講の数珠繰りはおよそ25分。

3月21日の彼岸さんや4月21日のお大師さん、7月23日のお地蔵さんに8月19の施餓鬼にも念仏を唱えるという。

(H24. 2.14 EOS40D撮影)

野遊び⑨in馬見丘陵公園

2012年03月30日 08時22分08秒 | 自然観察会
スタッフ14人に保護者会は14人も集まった野遊び自然観察会。

今年度最後となった今回は馬見丘陵公園にやってきた。

野遊びとしては初の会場となる。

馬見丘陵公園は先日に下見をした広大な公園だ。

4~5世紀に築造された馬見丘陵古墳が点在する歴史的遺産と豊な自然環境を保全、活用するために奈良県が都市計画された。

公園の広さは奈良公園に次ぐ2番目の広さである。

出発地の公園館を見上げてみれば大空を舞うタカがいる。

遥か上空をホバリングする鳥は果たして・・・。

追いかける双眼鏡から外れてしまった。

ハイタカかチョウゲンボウであると思われたが断定できない。

ツツピーと囀るシジュウカラ。

野鳥はバレンタインデー辺りからカップルを求めて囀るらしい。

ヒヨドリ、モズを見て下池に向かった。

そこにはカワアイサ、カワウ、カイツブリ、ハシビロガモ、マガモ、コガモ、カルガモが泳いでいる。

その池の西側からぐるりと回って北方面、東側の池堤を歩く。



オナガガモもいた。

一本の樹木があった。

その下に落ちていた黄色い実。

ムクロジである。



樹上を見上げれば確かに実がぶらぶら。

ムクロジの実は石鹸になる。

この実の皮を水に浸けて手でこすれば泡立つのだ。

もちろん石鹸のように汚れを落とすことができる。

橿原市太田市のツナクミのときに掛ける樹木の一つにムクロジがある。

その木をゴボゴボの木だと呼んでいたことを思い出す。

界面活性作用をもつサポニンが含まれているからだそうだ。



魚にとっては毒であるサポニン。

こうした石鹸の木にはエゴノキもある。

ムクロジの実は黒い。

羽子板の羽根に使われているとても堅い実である。

先を急ごう。

エナガ、ハシブトガラスに畑に留まるケリを見て東側に移動する。

そこではカシラダカやニュウナイスズメがいた。

小枝に留まっているが逆光で見えにくい。

池にはヒドリガモも佇んでいる。

コゲラがドラミングしていた林の中に居たアオバト。

昼食後にずいぶんと楽しませてくれたアオバトだったのだ。

昼食は古墳下の広場で過ごした。

晴れたり曇ったりだったが気持ちいい風にラーメンがすすむ。



滅多に持ってこないのだが、いっぺんは試しにというわけで先日買っていた大阪ラーメンだ。

産経新聞の記者さんが自ら開発としたラーメン。

話題沸騰で売り切れ店が続出したというラーメン。

一口目はコクのあるトンコツ醤油味がツンとくる。

次第にそれは緩やかにやわい味に落ちついていく。

まずまずの味に、おかげさまで身体が温もった。

食べ終わってしばらくした時だ。

逃げていったアオバトが元の場所に戻ってきたという声に大急ぎで駆けつける。

そこで観察したアオバトは樹上にいる。



留まってはグイ飲みこむ姿にみとれる。

ぐいぐい飲みこんで「そのう」で消化するのは鳥独特の消化機能だそうだ。

飲みこんだドングリが喉から胸にかけて膨らんでいく。



その様子がはっきりと判るアオバトのドングリ丸飲み喰い。

実はアラカシだ。アオバトは何度もなんども立ち位置を替えては丸飲みする。

なんぼほど食べるんだろうか。

数えたすーさんが言った。

アオバトの演技賞は15粒だと・・・。

野鳥がそれほど食べるのは、すぐに消化して飛ぶエネルギーに変換するという。



野鳥撮りカメラマンとともに10分以上も観察させてくれたアオバトに感謝する。

戻り路にはキジバト、ジョウビタキがいた。

ヤマガラは賑わいをみせて囀りまくる。



あっちこっちに小枝を飛び回る。

まるであわてん坊のようだ。



そのときカメラが捉えたヤマガラの口。

何かの実を銜えている。

美味しそうな実だこと。

池にはヒドリガモ、ヨシガモ、ダイサギも見られた。

私は見られなかったが、アオサギ、メジロ、カワラヒワ、マヒワらしき野の鳥などもいたそうだ。

たっぷりと観察させてくれた馬見丘陵公園。

本日の距離は4800歩だった。

(H24. 2.12 EOS40D撮影)

保田六縣神社子出来おんだ

2012年03月29日 06時43分53秒 | 川西町へ
天保十二年(1841)、建之の狛犬の台座に左三つ巴の巴紋が見られる川西町保田(ほた)の六縣(むつがた)神社。

かつては六所明神・保田神社と呼ばれていた。

境内にある富貴寺は神宮寺であろう。

永正元年(1504)に寺への田地寄進状、大永八年(1528)には宮座(宮本)への田地売却文書があったそうだ。

天文二十年(1551)の神事次第が残されているとすれば、まさに僧侶と村神主(宮守)による祭祀が行われていたのであろう。

その次第は拝見したことがないが、六縣神社で行われている御田植祭後に配られるお札に「牛玉 冨貴寺 寶印」の書が見られる。

六縣神社は富貴寺に属していた。

戦前までは講組織によって寺行事の牛王突きが行われていたようだ。

それがどのような形態であったのだろうか。

考えるに、祈祷された牛玉寶印を杖に挿して、それを突いていたのではないだろうか。

大和郡山市に矢田山金剛山寺がある。

正月初めの行事に修正会(初祈祷)が行われている。

二日には牛王加持として牛王杖で床をコツコツと突くランジョウがある。

かつては壁板も叩いていたという悪魔祓いの作法である。

それとも山添村岩屋の興隆寺で6日に行われる正月行事の修正会に際して、祈祷されたゴーサン(牛王印)を額に押す所作であろうか。

東、西、南、北の方向に向かって魔除けの作法をされた牛王の寶印。

それを額に押すのである。

押すと云うよりも突き出す作法である。

それらの作法を思い起こす牛王突きは廃絶されて現認することはできないが、椿の枝木に括りつけた牛玉寶印書は御田植祭行事の一連として現存している。

稲苗に見立てた椿の枝木は苗代に挿すという。

蕾(花芽)がたくさん付いているほど実りがよく豊作が叶うというから、貰って帰る村人は蕾数を手にとってその数を確かめる。

取材時に授かったお札と椿の木。

花器に移しておいたら1カ月後の3月9日に咲いた。

その花色は赤だった。

保田は北、中筋、寺、宮南、宮北、東、西の7垣内。

六縣神社・富貴寺がある垣内は宮北であるが、小字でいえば的場になる。

保田の小字は西南に八王寺、南に南口、東南に西垣内、出口。

東は上蔵縄手、宮ノ辻、七反田がある。

北上すれば寺垣内、寺前、中筋垣内、下蔵縄手、三昧田。

街道の北側に西垣内、北垣内、北口、東口だ。

つまり保田は北に北口があり、南に南口。東は東口に囲まれた集落なのである。

保田の西には曽我川を挟む川保田地区がある。

その西隣、南北に細長い川中垣内があった。

おそらく曽我川はこの垣内を流れていたのではないかと思われる垣内名である。

曽我川が動いて蛇行した名残の垣内名ではないだろうか。

さて、修正会は寺行事であるが、御田植祭は神社の行事だ。

以前は2月14日に行われていたが、祭祀される人々の都合を考慮して14日に近い祝日の建国記念日の11日に移行された。

十数年前(平成5年)のことだという。

戦前までは宮座行事として行われていた御田植祭は40戸からなる地主層の宮座十人衆(中老、若衆の年齢階層もあり)とマツリトウヤ(頭人)が務めていた。

辻本好孝氏著の和州祭礼記では昭和12年には旧正月の14日だったと綴っている。

他所で行われていた数々の宮座の行事日史料から推測するには、保田も同じように正月行事の修正会と思われる牛王突きと御田植祭は別々に行われていたと思われるのである。

戦後の農地解放でトウニンジ(名称からトウヤの頭人が耕作する宮座の田と思われる)がなくなり、村行事に移行された。

そのときのトウヤは兄頭屋と弟頭屋だった。

当時のトウヤ(頭人)は二十歳過ぎの者が務めていたそうだ。

秋祭りに御分霊を遷し神社へ御渡(遷しましの頭人家で祀ると思われる)をするマツリのトウヤは成人式を迎える者が務めていたが、田植え行事は厄年の者に移された。

なお、平成21年に発刊した『奈良県祭り・行事調査報告書 奈良県の祭り・行事』によれば、富貴寺の行事は戦前の宮座系譜をひく富貴寺講(50戸程度)が、今なお並立して勤めているようだ。

田植え行事は42歳の厄年を迎えた男性が務める。

見習いの前厄と補佐役の後厄の人たちが援助して所作をする。

行事を行う前は大和郡山市の松尾寺へ出かけて厄除け祈願に行く。

また、行事の一環として龍田川で手足を清めることもあったが、現在は中断されている。

赤ん坊に見立てた小太鼓を産む妊婦の所作があることから子出来おんだと呼ばれている六縣神社の御田植祭。

奈良県内にはさまざまな御田植祭が行われているが、子孫繁栄を意味する安産所作は極めて珍しい。

他に類例がなく平成18年に県指定された無形民俗文化財である。

また、男性が女装して演じる御田植祭には宇陀市大宇陀の野依白山神社で行われる節句オンダや橿原市大谷町の畝火山口神社、明日香村の飛鳥坐神社の御田植祭にも見られる。

この点においても珍しいのである。

お田植えの所作は水見回り、牛使い、施肥、土こなげ、田植え、田螺拾い、弁当運び、種蒔きなど田植えにおける予祝の在り方を演戯する。

御田植祭に先立って厄年の人たちはお祓いを受ける。

拝殿に登る厄年男(本厄、前厄、後厄)たち、大字の三役、敬神講員(各垣内の年長者7名)。

結崎の糸井神社宮司により、祓えの儀、厄年祓い清めの祝詞奏上、玉串奉奠など神事が厳かに行われる。



その後、ソネッタンと呼ばれる大和の里の巫女を迎えて御湯が行われる。

古いお釜に紙片を投入されて始まった。

酒、塩、洗い米を入れて御幣で釜内を掻き混ぜる。

釜を清めたのであろう。

鈴と御幣を手にして四方を回る。

四神を保田の地に呼び起こすのだ。

そして、元の社に送り納めそうろうと祝詞を唱え、二本の笹を釜に入れて何度かシャバシャバする。



湯に浸けて祓い清めた笹で一人ずつ祓っていく。

いわゆる湯祓いである。

こうして祓いの儀式を終えた男たちは田植えの所作に転じる。

拝殿北に座った大字三役、講員の前方、西、南、東の端に子供たちが並ぶ。

かつては男児だけだったが、現在は女児も参加を認めている。

曽我川東側の集落保田の戸数は200戸(正確には180戸ぐらい)。

新興住宅を含んでいるかと思えばそうではなかった。

旧村だけでの戸数だという。

子供がとにかく多い保田。

「子出来おんだ」のおかげであるのかも知れない。

登壇する男の子が言った台詞。

「ここは神さんが通る道やから、開けとかなあかんのやで」と年少の子供に作法を教える姿に感動を覚える保田の子供。

健やかに育った信仰の証しはその台詞に込められている。

マナーが薄れてきた現代の大人たちは子供を見習わなければならないと思った祭典は進行役の呼び出しに沿って進められる。



クワを手にした二人の農夫は畦を直す。

拝殿の床をコツコツ叩くのは畦を塗り固める所作であろう。



次に登場したのは牛使いと牛だ。

牛役は牛面を付けるわけでなく、指を頭の上に突きだして牛の角を表現しているようだ。

牛使いは牛役の腰を掴んで後ろにつく。

足を揃えた両人は「よいしょ」の掛け声をかけて左右にぴょんぴょん飛ぶ。

マンガ(馬鍬)掻きの所作である。



施肥の所作を行う二人が次に登場した。

両端に椿の枝木を括りつけた青竹を首からぶら下げている。

青竹は二つ折りに曲げたものだ。

腰を屈めながら椿の葉を一枚ずつ千切っては床に置いていく。

肥料見立てた椿である。

床一面に肥え椿を広げた農夫は床にひれ伏した。



周りの子供たちは「ぼちぼちやでー」の声が掛かるのを待ちかねている。

「ぼちぼちやでー」・・まだまだ。

「それいけー」が発せられると同時に農夫に群がった子供たち。

持った椿の小枝は農夫にバシバシ。

子供が扮する風雨に負けじと耐える農夫。

力強く稲は風雨にさらされても倒れることなく、稲が成長していく姿を表現しているという。

嵐が過ぎ去ったあとは土こなげだ。

クワを手にした農夫が再び登場する。

こうした所作はそれぞれ拝殿をふた回りする。

その度に風雨に見舞われるのだ。

田植えの所作に重要な役割をもつ保田の子供たち。

こうした所作に加わることで、農耕の在り方を学習するのであろう。

ときには作法と関係なく暴れ出す子供もいる。



田植の所作を経て田螺拾いの所作に転じた。

農夫は一人だ。

籠(桶)に見立てた小太鼓を小脇に抱えて登場する。

田螺を拾っては太鼓をポンポンと打つ。

田螺に見立てた椿の葉を拾う。

「ようおんで」と云いながら拾っていく。

古来より田螺は食料だった。

農薬の影響などから急速に減少して田んぼから消えた田螺。

60歳以上の人は田螺を食べた記憶があると思うのだが・・・。

平成4年に農村漁村文化協会から発刊された昭和『聞き書 奈良の食事』によれば、斑鳩の里では茹でた田螺とネギを味噌和えにして食べたとある。

ドロイモと一緒に煮つけたのも美味しかったようだ。

泥田に住む田螺は水に浸けて泥を吐かせておく。

塩で揉んでぬめりをとる。

さっと湯がいて殻から身を取り出した田螺は醤油を入れて煮たそうだ。

盆地部だけでなく大和高原の山添村でも食べられていた田螺。

真っ赤なイチゴの房のようなジャンボタニシを目にすることが多々あっても、食べられる田螺は田んぼからすっかり消えた。



そして登場した妊婦。

手拭いで姉さん被りした妊婦は女装であるがゆえ化粧をしている。

白の装束に赤い腰巻姿だ。

神饌米を入れた半切り桶を右手で支えながら頭に載せている。

左手といえば小太鼓だ。

抱きかかえるような格好で白い装束内に持っている。

そうして敬神講の講長の前に座り問答が始まった。

現在は講長であるが、かつては宮座の神主だった。

「田んぼへ弁当を持っていってくれるか」と神主が述べると、妙に色っぽい声で「はい」と答える妊婦。

神主は夫役でもある。

「ぼちぼちいってくれるかと」伝えられて拝殿を一周する妊婦。

弁当運びの所作である。

再び対座して、「あんたに尋ねるが、ひがしんだい(東田)は」に答える「三ばいと二はいと、また五はい」。

続けて「にしんだ(西田)は」に「四はいと四はいと、また二はい」。

いずれも合計すれば十杯だ。

きたんだい(北田)は三ばいと三ばいと四はい。

みなみんだい(南田)は二はいと二はいと六はい。

すべてが十杯であった弁当運びである。

次に尋ねるは「台所まわり」だ。

かつては台所ではなく「たなもと(臺:ウテナ所)」の字を充てていた。

「水」に対して「水壺の中」。

「杓」に対して「水壺の上」。

「おしゃもじ(御杓子)」に対して「釜の蓋の上」とくる。

かつては箸筒と呼んでいたようだが、「箸」に対しては「箸籠の中」。

「茶碗」に「茶碗籠の中」。

「オセンソコ(ご飯のこと)」に「お櫃の中に」と答えるさなか、妊婦が訴えだした。



「キリキリとお腹が痛くなりました」。

産気づいて陣痛が始まったのだ。

「はあー はぁー はぁーーー」と云いつつ前かがみ。

突然、懐からこぼれ出した小太鼓。



すかさず、拾いあげた夫は「ボンできた ぼんできた めでたいな」と大喜びで太鼓を打ち囃子す。

出産の儀式を滞りなく終えた妊婦の所作。

田植えの祭典は、まさに豊作の孕みであったのだ。

植えた稲苗は秋になれば実が孕む。

それを子出来孕みにかけて豊作を予祝した妊婦の所作だったのだ。



最後に登場したのは半纏姿(かつては烏帽子を被る素袍着)の農夫。

片肌を脱いで半切り桶を肩に拝殿を回る。

その際には種蒔き唄を詠う。

「近江の国通ればー 雪森長者に 行き合うたらー 行き合うたるところなら このところに蒔こうよー」と抑揚をつけながら謡う。

「蒔こうよ」と謡うときに神饌米(籾)を大きく蒔き散らせば「よーんなか(世の中) よーけれども ふーくのたーね まこうよ」と囃す。

二番に「河内の国を通ればー せしなげ長者に 行き合うたらー 行き合うたるところなら このところに 蒔こうよー」。

三番が「宇陀の郡を通ればー 市森長者に・・・同文」。

四番は「大和の国を通ればー 橋中長者に・・・同文」を詠う。

そして、「大和四十八万石― 保田の明神蒔き納めー」を謡った種蒔き所作で御田植祭を締めくくられた。

(H24. 2.11 EOS40D撮影)

弁天講の頭屋

2012年03月28日 06時45分33秒 | 楽しみにしておこうっと
室町時代に起こった円満井座・竹田座の金春流、結崎座の観世流、外山座の宝生流、坂戸座の金剛流があった大和四座。

猿楽の発祥の地とされているのが田原本町。

能の最古流派と云われている金春流の居地。

その昔、美貌な顔立ちの公達面が天から降ってきたとされる十六面をご神体として祀った伝わる集落があるという田原本町。

天から面が降ってきたと伝わる地域が他にも2か所ある。

一つは翁の面と一束の青葱が降ってくる夢を見た能楽師が、探してみればそこにあったとされる川西町結崎の面塚。

もう一つは大和郡山市の小林町の面塚。

ここも翁の面が天から降ってきたと伝わる。

その面を見つけたのは隣村の今国府町の住民。

両町で所有することになった面は両町に鎮座する杵築神社の祭礼に被られる。

実は、面は天から降ってきたわけでもなく、一人の能楽師が借金のかたに置いて帰ったというのが事実であった。

真実はともかくどちらもロマンを伝える天からの贈り物であろう。

建国記念日の2月11日。

以前は10日に祭祀されていた弁天講の行事。

太く結った注連縄を昨年に取り付けられた注連縄と掛け替えられる。

新しくなった注連縄を鳥居に掲げたのは神社祭祀を務めている弁天講の人だ。

弁天講は七人衆と呼ばれる講中で営まれてきた。

講中は言い伝える家いえの七人衆が継承されてきた。

村を出ていく人や辞退を申しでることもあって七人衆は三人になってしまった。

弁天講の維持を続けてしていくため、新しい時代に対応した講の改正をなされ村行事になった。

一年間の祭祀を務めるのは年番のトーヤ(頭屋、当屋)。

新トーヤを決めるのは2月7日の夜半。

かつては24時を過ぎてから行われていたフリアゲ神事。

お伊勢さんに参って授かった伊勢明神さんのお札を用いて新トーヤを決める。

その作法をフリアゲ(振りあげ)と呼んでいる。

現在はこの日に行われているが、かつては旧暦に行われていた正月行事であった。

講に残る『弁財講人数帳 宝永弐丙酉暦(1705) 正月吉日』とあり、正月七日の晩に斎行されていたと昭和59年3月に田原本町教育委員会が発行された『田原本町の年中行事』に記されている。

小さな紙を丸めた紙片には新トーヤ候補の名が記されている。

その上から静々とお札を下げていけば一枚の紙片がくっついてくる。

神さんのお告げが下り、新トーヤが決まる瞬間だ。

その作法を見守る三人の総代。

不正がないようにフリアゲ神事を監理する役目である。

新トーヤが決まればその家に当たったことを知らせに行く呼び使い。

それは7回繰り返される。

呼び使いは提灯を手にして迎えにいったが、今は電話の呼出だ。

各家では当たってほしいといって玄関を開けて待っているが未だに当たらないと話すK婦人。

28戸の集落であるが弁天講を継ぐ家は18軒。

一回の回りは10年も経なければならない。

フリアゲに残った分は「イノコリ」として回す。

この日までトーヤを務められたH婦人が言うには「トーヤはアキの方向に当たることが多い。それでないときは逆アキの方角(ウラアキ)になる。」そうだ。

こうして飛ぶこともあるトーヤ決め。

この年のアキの方角は北北西だったが托宣されたのはウラアキであった。

アキの方角に家があるK婦人は「結婚してから40年も経つけど未だに当たっていない」と話す。

それだけにトーヤの支度はまったく知り得ない。



そんなわけで案内していただいたトーヤ家で祭祀後に戻されたお供えを、H婦人のご厚意で一緒に拝見した。

お供えはこの日まで務めるトーヤが作る。

材料はキントキニンジンとダイコンだ。

赤と白の短冊が交互に組んだ井桁(いげた)形のお供えはイドガワと呼ぶ。

漢字を充てれば井戸の側。

つまり、三段組みの井戸枠である。

弁天さんは水の神さんだけに井戸なのである。

財閥住友の商標は井桁だ。天正十八年に創業した住友。

屋号の泉屋を起こした際に作られたマークが井桁。

「いずみ(泉)」を現したのであった。

泉湧く井戸の枠組みであるイドガワのお供えは美しい。

盛った器ではないが傍らに水引で括ったミズナ(水菜)が置かれてあった。

これも水に関係している。

もう一つのお供えにセキハンがある。

モチゴメ三合にアズキ三勺(セキ)を混ぜて炊いたセキハン。

円錐形の大きなおにぎりの形にする。

その頂点には立てた米粒を乗せる。

一粒のお米である。

このセキハンの米粒をいただくと子宝に恵まれるという。

子供ができてお乳がよく出るとされることから新婚の家に配られるそうだ。

もう一つは豆腐だ。

その豆腐はヘソのように中央部が小さく半球状に出ているそうだ。

ふんどうとも呼ばれるその辺りを中心に四角く切り取る。

盛る器の大きさに合わせて切り取って吸い物にする。

こうした形の豆腐は滅多に手に入らない。

橿原市のデパートで見つかったと嬉しそうに話すHさん。

そのヘソ部を田んぼの中心だと言った。

その豆腐を2丁、米は2升、コンニャクが1丁、お神酒ワンカップを安堂寺の弁天さんに供える。

こうしたお供えは寛延三年(1750)、弘化二年(1845)にも書き継がれているそうだ。

旧トーヤから新トーヤへの引き渡しはこの日の夕べに行われる。

公民館で会合を終えた一行はお渡りをして家の玄関に注連縄を張った新トーヤ家に向かう弁天さんの日。

それまでの毎日を祀ってきた弁天さんのヤカタに手を合わす。

洗い米、塩、水を供えて2礼、2拍手、1礼と神事に則り手を合わす。

一年間も祀ってきたが扉は開けたことがないと話す婦人に、伝統を繋ぐ信仰の清々しさを感じる。

(H24. 2.11 EOS40D撮影)

小林町三夜の総集会

2012年03月27日 08時37分16秒 | 大和郡山市へ
正月から数えて23日目。

その夜は「二十三夜さん」と呼んで豊作や健康を祈ったと話すHさん。

それは旧暦の二十三日であることから「二十三夜さん」。

「にじゅうさんや」を略して「さんや」と言えば通るから「三夜」と称していたという。

務める人が多くなって、いつしか建国記念日の祭日になった。

旧公民館があったときは朝早くに起きてそこで祈っていたという「三夜」は村の総集会となった。

新しく建て直した公民館に集まってくる村人たち。

村の取り決めや決算報告をされる集会。

この年は村の旅行の相談もする。

床の間に掲げられた掛軸は新福寺が所蔵する天照大神の神像は雨宝(うほう)童子であろう。

頭頂に五輪塔が描かれ、右手に宝棒(ほうぼう)、左手に宝珠を持つのが定番の童子姿の神像だそうだ。

この掛け図の姿を見て思い出した。

昨年末に訪問した額田部のK家に残されている古い掛け図だ。

ストロボ撮影して現れた姿が同一だったことだ。

おそらく伊勢講の日に掲げられていたのであろう。

傷みが激しく涅槃の掛け図を修復、表装するにあたって掛軸も修復(平成21年)された。



掛け軸の前に組んだ斎壇には洗い米、塩、お神酒に野菜や果物を供えて火を燈す。

新福寺住職がお経を唱えて村の日ごろの絆を結ぶ。

3巻の般若心経も唱えられた。

天照大神を掲げるのはお日待ちの行事。

かつては会所の外で心経を唱えていた。

お日待ちの神さんは太陽信仰。

お日さんが昇るのを待って一夜を過ごすと話す住職。

天照大神を掲げてその夜に籠っていたのは区長の家だったという人もいる。

いつしか村の集会と合同で営まれるようになった。

集会は決算報告会。

いわゆるサンジョ(算定)であると話す。

算定が三夜になったのか、二十三夜が三夜に訛ったのか定かでないが、いつまでも村の伝統を守り続けていきたいと両人は話す。

11月23日か、12月23日を「二十三夜まち」と呼んでいたと記す『楢町史』。

天理市の楢町のことを記した書籍だ。

それによれば、かつてはハタ(機)を織ったときに娘たちがハタを持ち寄って三夜の月(夜半一時)を見たという。

その件を考えてみれば。

二十三日の日待ちを「三夜」と称するのはあながち間違いではないだろう。

(H24. 2.11 EOS40D撮影)

法蓮会所二月の阿弥陀講

2012年03月26日 07時43分44秒 | 奈良市へ
嘉永年間(1848~)に始まったとされる法蓮会所の阿弥陀講。

平成6年には講中は42軒だった。

農業を勤めてきた法蓮の人たち。若くはない。

一昨年には男性一人、女性二人が入会されたが、そのあとに長老たちが亡くなった。

入れ替わりがあるものの講を維持していくのは難しいと話される。

一昨年3月の慰霊祭は40人も集まったが、この日は20人。

冷え込む日には出席もし辛いそうでどうしても欠席が多くなるという二月の阿弥陀講。

堺県から奈良県に遷った明治時代に字法蓮ができ、そのときに組織されたのが「法蓮会所方」で120年の歴史をもっている法蓮会所。

明治維新の際に廃仏毀釈が起った。

そのときに貰ってきたとされる蝋燭台。

聖武天皇御陵(佐保山陵墓)を守っていた眉間寺(みけんじ)の什物であったのではないかと話すWさん。

延宝三年(1675)に発刊された南都名所集に描かれている寺だ。

眉間寺は松永弾正久秀が同寺を毀(こわ)して多聞山城を築造(永禄三年・1560)し始めたとされている。

その絵図はかつての残影を描いたのではないだろうかと推定されているが、実際の城閣は現在の若草中学校辺りである。

同寺は寛永三年(1791)に発刊された大和名所圖會にも描かれている。

眉間寺は陵墓内。

その地から300mほど南西にあるのが法蓮会所だ。

「随分前のことだが」と前置きされてIさんが語られた法蓮の「アマヨロコビ」。

旱(ひでり)が続いて田んぼは干上がった。

3日間もカンカンに照ってしまうと田んぼも干上がるのだ。

池の水を管理するのは水利組合。

田んぼがひび割れするときには池の水を入れる。

それでも雨が降らない日が続く。

そのときに「アマヨロコビ」をしていた。

「今日はアマヨロコビや」と言って鉦を叩いて町内を振れ回っていた。

カン、カン、カンと聞こえてくる鉦の音は農作業を休む合図。

仕事を休んで一日中遊んだという。

百姓が多かった法蓮。

雨が降れば喜んで農作業を休んだというのだ。

骨休みだと言って、雨を喜んで鉦を叩き振れ回る。

鉦を打つ場所は辻ごとであったそうだが、それは戦中時代までで戦後に途絶えたという。

そのときに使われたものかどうか判らないが阿弥陀講が数珠繰りをされる際に叩かれる鉦がある。

「法蓮村會所 京大仏住 西村左近宗春作」の刻印が見られる鉦だ。



導師が数珠の輪の中に入って鉦を叩く。

香偈、三唱禮、略懺悔の念仏を唱えてから数珠繰りをする。

阿弥陀講のご詠歌を唱えながら数珠を繰る。

善光寺の三番を唱えて、八番、十五番の飛び番になる。

阿弥陀如来も唱えられて法蓮観音菩薩の念仏和讃に移る。

その二番にそのアマヨロコビを詠ったのではないかと伝えられている和讃がある。

「みほとけを たのむやがてに ふるあめの おときくこそは とふとかりけり」だ。

法蓮会所方地蔵尊三番には「ありがたや 法蓮会所の じぞうそん むらの(人々)もろもろ まもりたまうぞ」とある。

その番唄は、雨がほしいときにはたいそうなご利益があるといって近隣地区から貸し出されたこともあったという。

ありがたい観音さんはとても大きな掛け図だ。

一般的に上から吊るす掛軸だが、法蓮では床の間。

普段は扉を閉めている。

その扉が開けられると観音さんが出現するのだ。



お軸というよりも巨大な仏画のように思える観音さんを描いた掛け図にはカミナリさんが描かれている。

大きく口を開けたその姿は左に青鬼、右は赤鬼のように見える。

鞴で風を起こす風神と雷鼓を打ち鳴らす雷神であろうか。

乗っている雲下からはザンザンと降り注ぐ雨にカミナリが光っている。

そのカミナリさん絵は後世に書き足されたものだと伝えられている。

下部には波がしらや蓮の葉も見られるというが暗がりで生憎感知できなかった。

観音菩薩の和讃、カミナリさんが描かれた観音像図に「アマヨロコビ」の雨乞い風習の三題が揃った法蓮会所の阿弥陀講の日。

念仏を終えたあとはいつもの会食。

男性、女性の席になぜか別れて巻き寿司をよばれる。

(H24. 2.11 EOS40D撮影)

初の試み、大和な雛まつり

2012年03月25日 09時35分52秒 | 大和郡山市へ
商工会のHさんが仕掛け人だった。

お顔を拝見すればどこかで見たような・・・。

そう、地域振興課におられた方だった。

課の後押しもあってようやく辿りつけた初のイベント。

この日も忙しく藺町線にある観光案内所傍にある建物でお雛さんの飾り付けをされていた。

そのお雛さんはKさんが持ち主。

小さい子供のころに両親が買ってくれたお雛さん。



あれやこれや言いながら、当時を思い出して昔を懐かしんでいるかのように笑顔で飾りつけをしている。

写真を撮るならこんな姿がいいでしょうと応える。

Hさんの話によれば初めての試みだけに予想もしないことがあるかも知れないが、できる限り城下町に住む人たちの笑顔で古式ゆかしい町の姿にしたいと話す。

たくさんの観光客が来てくれて「うちにもこんなのが出てきたよ」と蔵出しになればと思っているという。

来る人、来る人に笑顔で応えて商売繁盛に繋がって盛り上がればいいのだけど・・・。

大和郡山の城下町は400年前、羽柴秀長が築造した。

それ以前は筒井順慶だ。

増田長盛が外堀を造り原形ができた。

各地から町人を集めて城下町は町人の町。

狭いながらもその商人を有する町名が今でも残されている。

町人が住む家は長屋。

鰻の寝床のように間口は狭いが奥は深い。
そこにひしめき合った商人の町屋があった。

もちろん武家屋敷もならんでいた。

その名残はほとんどない。


今でもある鍛冶町付近の土塀。風化してしまっている。
(H24. 1.10 SB932SH撮影)

どこか懐かしい景観はどこかへいってしまった。

商人の町はところどころに風情を醸し出す町屋がみられる。

小京都のひとつとして紹介されるがそんなのは一部分だけだ。

町屋はいつしか現代的昭和後期の様相になってしまった。

どこが城下町なのか程遠い。

城跡を再生するよりも先に目指すのは町屋ではないだろうか。

隠れていた土蔵。

何が眠っているのだろうか。

江戸時代の文化があるかもしれない。

昨年に聞いた車町(蛭子神社)の郡山の十日戎。

塩町戎は商人の祭り。

柳澤文庫は柳澤家の蔵出し出展。

商人民家ではならでは、のモノがあると信じている。

お雛さんどころかとんでもないものが当主も知らずに眠っている・・だろう。

城下町を再生するにはこうした現代的商店を城下町文化が彷彿するような町屋文化に鞍替え。

大和な雛まつりをきっかけに長年かかってでもいい。

鮭の遡上で有名な三面川新潟県村上で長年かかって再生された町屋は生きたモデル。

誰しも入ってみたいと思う格調ある玄関、間取り、そんな再生された町屋の姿を描いてほしいと願うばかりである。

「ボン」とも呼ばれている若き店主たちに期待する。

(H24. 2. 9 SB932SH撮影)

再発処置

2012年03月24日 07時34分02秒 | むびょうそくさい
昨年の8月に十津川に出かけたときは何でもなかった。

9月もそうであったが10月に異常が認められた持病。

秋祭りの取材ではお渡りが多くある。

結崎、額田部と続けさまに行ったときに変調が見られたのだ。

引き続いて出かけた松尾では最高潮に達した。

いつか再発するのではと思っていた。

一昨年の5月に出血したことがあった。

それは数日で治まった。

手術を施したのは平成21年6月だった。

あれから2年半も経つ。

異常な症状は10月以降も続いたが、しばらくすれば正常に戻る。

そんな日々を繰り返していたが出ぱっなしになったのが12月18日だった。

忘れもしない、冷たく強い風が吹き飛ぶ日だった。

その日からの毎日は下着に汚れをつける症状になった。

長距離を歩いたり、長時間も立ったままの姿勢であれば顕著にそれが発症する。

これは完ぺきな再発であると自己診断して覚悟を決めた。

前回はでっかい痔核の除去手術だった。

それは数週間の入院治療に専念することであった。

今回もそうであるのか、ないのかと心配しつつ一週間前に病院の玄関を潜った。

診療の結果は・・・。

当時の手術前の症状はこうであったと医師から写真を見せてもらった。

その映像ははっきりと覚えている。

あふれんばかりの真っ赤な苺色の内痔核だった。

上下左右向にあったでかい異物。

そのときの手術は負担をかけまいと左右にあった小っちゃい二つを残された。

それが今回の症状にあたると診断された。

またもや大手術かと思えばそうではなかった。

麻酔もいらない一日限りの治療で済むという結果にほっとする。

そうしてやってきた処置室前。

パチン処置は痛いと言う人もいればそうでもないという人も。

そんな声を聞いていた。

そして扉は開いた。

ベッドに横たわり患部を開方する。

器具が嵌められ医師の手が動くが、痛みは感じない。

医師は心配そうに声をかけるがなんともない。

だが、身体は緊張の塊。

息をはけば緊張は解けるらしいが、そういう気持ちは起こらない。

およそ5分で治療を終えた。

十数分後に状況を確認された医師。

順調な処置であったが普段の暮らし方はどうなのか。

お風呂も食事も荒いことをしなければと但し書き。

自転車、バイクは厳禁。

小さいうえにガタゴト道の振動が患部に影響を与えるという。

来週にその様子を診るので来てくださいと伝えられて帰宅した。

痛みも痒みもまったくない処置に感謝する。

その三日後に内痔核がでてきたように思える。

量的には少ないが下着は再び汚れがつくようになった。

そして六日目の朝。出血を伴う便が出た。

これは医師が言っていた通りだった。

処置したパチンが外れるときにはそうなるのだ。

処置後の内核痔はどうなっているのか。

不安な面持ちで病院を訪れた。

診断の結果では処置は問題なく奇麗に除去できているという。

ただ、傍には少しだけ内核痔があるという。

それが違和感になっているのだ。

それを処置するかは3週間を経なければならない。

処置した部分は堅くなる。

それが引っぱられるようであれば処置した部分に影響を与える。

だから期間を開けなければならない。

その後も下着を汚す毎日の症状から解放される。

待ち望んだ日々を送った3月6日。再発処置をしてもらった。

2回目の体感は変わらない。

ハフーと息を吐く。

処置時間は数分間。

パチンと患部を嵌めたときには少々の出血を伴った。

これはなんでもないのだが、それ以上の処置はもうできない。

お尻が固まってしまって排便も難しくなるという。

手術も諦めたほうがいいと伝えられた。

(H24. 2. 7 SB932SH撮影)

南矢田の御日待講祭

2012年03月23日 08時03分03秒 | 大和郡山市へ
御日待講祭の祭典に先立って、2月1日に矢田坐久志玉比古神社で行われた粥占・水溜占祭表を氏子たちに配られる南矢田の公民館。

配られた表を見られた人たちは「今年の2月は雨が少ない。9月はどしゃぶりやな」という。

「稲刈りの前の雨は難儀なことだ」と話すのは農業を営んでいる人だ。

表の上部に印をされた黒く塗られた毎月の結果状況を見て応えたのだ。

月々の雨降る具合は農家にとっては大いに気になる天気予報。

テレビでは毎日のように天気予報の報道がされている。

珠には3カ月予報もされるが週間予報である。

今日や明日は気になる雨。

その雨がなければ農作物は育たない。

晴れが続けば田んぼは乾いてしまう。

もっと続けば旱魃だ。

そんな日が続けば雨乞いをしていた。

近年は分水ができて旱も起こらなくなったゆえに雨乞いは見られなくなった。

矢田で見られた水溜占の結果はともかく、こうした一年間の雨量は気になるもの。



(H23. 2. 3 EOS40D撮影)
宇陀市大宇陀の野依では豆を焼いて予想する豆焼き占いがある。

大和で行われている数少ない水溜占である。

神社では粥占も行われている。

22種類の結果は「大」「中」「小」で現される。

「小」の結果がでた作物は三種類。

春なすびにぶどう、トマトである。

矢田で栽培されていたぶどう農家は徐々に減ってきている。

私が知る限り近年において2軒が廃業された。

粥占は作物の出来、不出来を占うもの。

「大」や「中」の結果を見て栽培をする人が多いそうだ。

「すいかは大やからたくさん作らな」と話す人もいる。

このように大和で粥占をしているのは矢田坐久志玉比古神社から北東2km。

富雄川東に鎮座する登弥神社(奈良市石木町)と南東10km離れた大和神社(天理市新泉町)の3か所である。

だが、登弥神社と大和神社では水溜占は見られない。

この日、「天照皇大神」の掛軸を掲げられた公民館に集まってくるのは清水地区と垣内地区の人たち。

地区のお日待ち行事である。

かつては回り当番のトーヤ(当家)のヤド家で掛け図を掲げてお日待ちをしていた。

翌朝、お日さんが出てくるまでヤドで籠もって会食をしていたという。

それぞれの地区で行われていたお日待ちは、十数年前に合同行事となって矢田坐久志玉比古神社宮司による祭典を行うことになった。

両地区の合同行事ではあるが、それぞれの地区が保有する掛軸を掲げていたことから隔年おきに掛軸を替えられる。



(H23. 2. 6 EOS40D撮影)
昨年は中央に伊勢の天照太神宮(雨宝童子)を配する清水地区の三社託宣の掛軸であったが今年は垣内の当番だ。

お日待ちの神事は昨年と同様に斎行された。

洗い米、小モチ、海の幸や里の幸などの神饌を供える。

宮司一拝、祓えの儀に続いて降神の儀。

室内の灯りをすべて消して真っ暗にする。

「オオォーー」の神降ろしと同時に照明が消された。



灯りが点けられ献饌の儀、祝詞奏上、玉串奉奠、撤饌の儀、そして昇神の儀も再び照明が消された。

厳かな神事は矢田の神さんが納められたヤカタの扉を閉じられて終えた。

ほどなくお神酒が配られ、神さんに感謝をこめて乾杯された。

南矢田のお日待ちは2月5日と決まっていたが、立春明けの日曜日に行われている。

(H24. 2. 5 EOS40D撮影)

上仁興四社神社春まつり

2012年03月22日 06時45分19秒 | 天理市へ
天理市上仁興の春まつりは2月最初の申か寅の日に行われていた。

いつしか集まりやすい2月初めの日曜日に移った。

春まつりは氏神さんの四社神社で行われる。

かつては2軒の当屋が餅搗きをしていた。

それはなくなったがスキやクワのミニチュア農具を作り神殿前に張られた注連縄に括りつける。

春を迎えたら田に出る道具だという。

その注連縄にはもう一本ある。

そこにはカマやナタの山仕事の道具。

年末12月に行われた亥の子座の日に掛けられたのだ。

上仁興は山間部。

農と山の生業があった証しであろう。

その証拠に山の神も祀られており、1月には山の神参りもある地域だ。

神社前に集まった村人たちはとんどで暖をとっている。



傍らに祀られている地蔵石仏には炒った豆を供えられていた。

節分の日にはこうして豆を供えるそうだ。

それは燈籠などにも見られる。

豆を撒くのは夕方。拾って帰って歳の数だけ食べる。

炒るのはホウラクかフライパンだと話す。

拝礼をして拝殿に登る村人たち。

タイ、スルメ、コンブに野菜などの神饌を供えて春まつりが行われた。



当屋が座に着く人たちにお神酒を注ぐ。

白いカワラケを手にして一同が揃って酒を飲む。

一献の儀式である。

氏神さんに供えられたスルメとコンブは半紙に載せられ配られる。

再び座に向かって酒を注ぐ。

ニ献の儀である。

この年からケンサキのスルメに替えられた。

「高価になったがこっちが美味い」と云いながら春まつりの直会の語らいに盛りあがる。

最後に三度の酒が注がれる。



三献の儀を終えれば、ススンボ竹に挟んだ牛玉宝印が配られる。

この書は1日に宮本衆が摺られたものだ。

この日は宮本衆の姿は見られないが、神社の祭祀を下支えしている。

牛玉宝印には朱印が4か所。

文字は見られないが、春になれば苗代に挿して豊作を願う。

ちなみに上仁興ではもう一枚の牛玉宝印書がある。

1月の七草元座講の際に摺られた書だ。

それには「四社明神」と墨書されるが廃寺となった元釈尊寺の行事である。

この日の春まつりの書には墨書がなかった。

それは寺の名であったと思われる。

(H24. 2. 5 EOS40D撮影)