マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

プレゼンツ40D

2010年02月28日 07時39分46秒 | しゃしん
出版記念にとryu先生が平成19年(2007年)10月に発売されたEOS40Dを持ってきてくださった。

年末の忘年会のときの先生の約束だった。

800万画素のKissデジNは軽くて行動的なカメラ。

故障もなく使い続けている。

40Dは1010万画素。

重さは740g。

ずっしりとする重さなのでブレることはないだろうが、EOS-3と同時に使っているので堪える。

連写はすごい。

KissデジNでは味わえない強烈な感触だ。

弓打ちの行事に威力を発揮する。

付けてくださった8Mのコンパクトフラッシュに速攻で収められていく。

液晶ファインダーが3インチサイズで大きくて見やすい。

老眼の私はとても助かるがいやに明るい。

撮った画像はそれほどでもないのだがファインダーの映像が明るいので気になってしかたがない。

ビューするたびに絞り値を下げるようになってきた。

先生はこれも一緒にとSIGMA APO50-500 F4-6.3 EX DGとSIGMA EFS55-250 4-5.6も。



これって野鳥観察をしなさいという厳命ですな。

使いこなせるかどうか不安だが少しずつ試していこう。

何度か行事取材に使ってみたところ、それほど撮っていないのにバッテリー残量が著しく減っていくことに気付いた。

どうやら製品不良があるようでファームウエアが発表されている。

支障はないが、早めに対応しなくてはならない。

後日よくよくこの件を再確認してみれば「EF 85mm F1.2 L II USM」の使用時に、電池残量が正しく表示されない現象の修正」だった。

(H22. 1.30 Kiss Digtal N撮影)

ウエデイングレセプション

2010年02月27日 07時20分12秒 | もっと遠くへ(ブライダル編)
「ヒルトップテラスなら」で甥っ子が結婚式をあげた。

教会でのブライダルは初めて見る。

賛美歌を歌い二人を讃えたあとはウエデイングレセプション。

友人たちが祝宴を盛り上げてくれた。

お料理をゆっくり食べていることができない。

写真屋は食べては写す、席に戻って食べ、絶好のシーンに入れば写すの繰り返し。

会場を駆けめぐる。



白身魚のブランダードと黒酢香る真鯛のタルタル



地鶏胸肉と茸のマリネ山椒風味



野菜のブイヨンとパルメザンチーズのパルフェ



サーモンのボワレ

季節の野菜とチョリソーのソース



梅酒のグラニテ

和牛ロース肉のコンソメポッシュ



柑橘類のエスブーマ添え

マンゴームースと青バナナのソルベ



ウエデイングケーキ

パン

コーヒーまたは紅茶

(H22. 1.30 Kiss Digtal N撮影)

旧暦二月正月まで

2010年02月26日 07時22分33秒 | 楽しみにしておこうっと
一月の末、宮堂町の街道を歩いていると注連縄飾りがみられた。

各戸の玄関に飾られた注連縄。

大神宮の灯籠や観音寺にもみられる。

一般的には小正月の15日には取り払う。

それが同町では旧暦の二月正月までそうしているという。

このような風習は他でもあるのだろうか。

民俗行事の調査項目が一つ増えた。

(H22. 1.29 SB912SH撮影)

惣谷天神社神事初めの正月狂言

2010年02月25日 07時54分57秒 | 五條市へ
長らく中断されていた伝統行事である大塔の惣谷狂言が復活を遂げるまで人と人による運命的な出合いがあった。

昭和32年、大塔村史編纂調査に訪れた当時郡山農業高校の教諭である保仙純剛氏。

吉野西奥民俗探訪録に「狂言あり」と極めて短い報告を頼りに足を運ばれた。

手紙などのやりとりなど度々の往来で復活への道を歩み出した。

狂言保存会を立ち上げ、抜群の記憶力を発揮して中断されていた狂言をひとつひとつ思い起こされた故辻本可也氏を中心に若い人も集まり、一曲、一曲と上演可能への尽力が続けられ七曲が完成したという。

もともと惣谷と篠原の両地区に伝わり上演されていた狂言。

いつしか篠原は篠原踊りだけが残されて狂言は絶えてしまった。

惣谷は大正天皇御大典祝賀に演じられたのが最後になった。

そのとき少年だった方は老境に入っていた。

惣谷の狂言は廃絶一歩手前で奇跡的に復活したのである。

吉野西奥民俗探訪録に残した人、それを拝見して調査に踏み込んだ保仙氏。

そしてわずかに記憶を残していた辻本可也氏。

この出合いがなければ私たちは今でも見ることができなかったのである。

記録と記憶の出合いがまさに結合した。

これを奇跡と呼べないはずはない。

当時に復活した狂言は万才(平成21年上演)、鬼狂言(平成15年)、鐘引、かな法師(平成22年)、つぼ負(平成16年)、鳥刺し(平成15、19年)、狐釣り(平成16年)の七曲。他に田植狂言、豆いり狂言、舟こぎ狂言(平成18、20年)、いもあらい狂言、米搗き狂言、花折狂言などがあったそうだ。

狂言が演じられる日は旧暦正月25日の神事初めである。

このころの奉納神事はお宮さんで梅の古木、宝踊、花しうての式三番を踊りお寺に移った。

そこでも同様に式三番を踊って狂言を上演。

囃子の笛、太鼓、胡弓が用いられ踊りと狂言が交互に演じられたそうだ。

昭和15年以降に途絶えて今日では踊りが見られないが、復活された狂言を一曲(または二曲)が演じられており、今年はかなぼうし狂言が奉納された。



演場の傍には出合いの氏の一人である保仙氏も参列されている。

集まった狂言観覧者はおよそ50人。

奇跡的な出合いにありがたく感謝して拝見する。

かなぼうし狂言は、お寺を譲られて喜ぶ小僧が教えられた借り物の断り方の順番を間違って、ちぐはぐな応対をする話で、登場人物は住職、小僧と村人の六べえ、七べえ、八べえの五人。



主題のおかしさは、昔話の典型例の粗忽な「一つ覚え」にある。

「かなぼうし」の「かな」は「かなし」で「愛し」。

「ぼうし」は「法師」で愛しい可愛いお寺の子供法師。

配られた保存会解説資料に、金法師、仮名法師などの当て字がされていると記されているが、愛しいお寺の小僧のことだからおそらく鐘法師であろう。

余談になるが、会津地方の郷土玩具に見られる「起き上がりこぼし」の「こぼし」は「こぼうし」であって、当てる字は小坊師。しかしながら小坊師姿の民芸品はあまり見られない。

※ 昭和34年6月大和タイムス社発刊の「大和の民俗」を参照する。

(H22. 1.25 Kiss Digtal N撮影)

大塔天満神社篠原踊り

2010年02月24日 07時30分30秒 | 五條市へ
国選択無形民俗文化財に指定されている篠原踊りは村の神事初めとして天満神社で奉納されている。

かって旧暦正月の2月に行われていたが現在は新暦の1月25日。

男性三人は白足袋に下駄を履いて梅鉢紋の着物に袴姿で、手には小太鼓とバチを持つ。

女性は紫地に白く「しのはら」と染め抜いた着物に帯を締め舞扇で踊る。

昔は太鼓を打つのは若い衆、踊るのは嫁入り前の若い娘だった。

奉納は「梅の古木踊り」、「宝踊り」、「世の中踊り」の三曲で式三番と呼ばれている。

「梅の古木踊り」は人作りをさし、育てる意味がある。

また、その名のごとく長生きできるようにと願っている。



「宝踊り」は氏子の繁栄を祈って財産が増えるように、最後の「世の中踊り」は世の中が平穏、泰平になるようと踊られる。



この三曲以外に入波踊り、御舟踊り、田舎下り踊り、綾取り踊り、哀れ龍田踊り、十七八踊り、俄か踊り、御稚児踊り、小原木踊り、近江踊り、新宮踊りなど30数曲が残されているが、山の里に五穀豊穣を願う奉納曲は式三番の三曲である。

十津川村上野地から宮司を迎えて始まった神事。

アメノウオ(実際は捕れなかったとこぼされる)など地元篠原で採れた神饌を供えて厳かに執り行われた。

音頭取りの方が亡くなられて昨年はやむなく中断されたが、今年は若い太鼓打ちが加わり、残されていたカセットテープの唄をバックに再開された。

神事を終えた村の人は集会センターで直会の宴。

牛肉のすき焼きに篠原で栽培された蒟蒻はご婦人方の手作りコンニャクと豆和えシラタキ。

歯ごたえがあって逞しいコンニャクになった。

ご飯はアゲメシ、アズキゴハンに白飯。

ようけ食べてやと村の接待を受ける。

(H22. 1.25 Kiss Digtal N撮影)

曽爾で合流

2010年02月23日 07時23分46秒 | 曽爾村へ
和歌山や大阪から写真クラブの方々が曽爾村にやってきた。

例年なら黒滝村でボタン鍋。同じ奈良でも違ったところへ連れてってと今年の新年会は曽爾村になった。

正月早々に和歌山から案内状をいただいた。

当日は仕事も取材も入っていない。

静山荘以来の曽爾村で合流。

目指すは高原ホテル曽爾。

宿に着いたらDさん夫婦が迎えてくれた。

二人と出会ったのは奈良の野迫川村。

和歌山にない奈良の風景を求めてやってくるのだ。

どこかえーとこないかと、たいがい電話がかかる。

その都度教えてあげるのだが、風景となるとジャンル外なのですぐにネタがつく。

それはともかく四人部屋にあがった。

ひとりは静山荘で宿泊したときのメンバー。

ワサビ漬けをしたことや早朝の素晴らしい景観撮影に行ったことを覚えている。

なんと愛媛から同行されたご夫婦もおられる。

写真クラブはといえばスライドを使っての作品講評会。

村の重鎮ゲストを迎えて始まった映し出される35ミリや大判作品にため息がでる。

メンバーの個性が如実に現れる。

1時間も超過したスライドショー。

舞台は代わってぼたん鍋で新年会。

ゲストの挨拶には私も出番があった。

それから4時間。宴会はカラオケ大会に様変わり。

歌いに唄って、ノドがガラガラ声になってしまったのはいうまでもない。

画像は宴会風景ではなくてホテル到着前に訪問した小長尾の元区長さん宅。

昨秋に取材させていただいた感謝祭のお礼に伺った。

その際に目についたのがこれ。

何度かお話しを聞いていた毎月25日に行われている天神さんの御供箱。

組当番の人が持ち回りの膳を納めている箱だ。

蓋には各神社にお供えされる個数が書かれている。

これでやっとはっきりした。

庚申さんや弥勒さんは一個、大日さんと浅間(せんげん)さんも一個ずつ。

多輪峯さん、秋葉さん、神武さん、皇大神宮さん、辻神さんも各一個ずつだ。

山の神さんと天神さんは二個。

集中している個所は纏めている。

これらは当番の人が分担してお供えに回る。

(H22. 1.23 SB912SH撮影)

住吉さんへ

2010年02月22日 08時19分03秒 | もっと遠くへ(大阪編)
生まれも育ちも大阪。

住吉さんの近くに住んでいた。

正月の初詣、夏には夏祭りと大社へ行くのが楽しみだった。

中学校時代は友人たちと学校帰りの遊び場だった。

実家にはおふくろが住んでいる。

区役所へ行く用事のついでに住吉さんへ寄った。

それは二つの目的があった。

ひとつは2年前に撮らせていただいた埴使参拝のお礼で、もうひとつはその記事掲載の許可を得るためだ。

お伺いすれば当時お世話になったT権禰宜さんは故郷山口県(下関生野神社)へ帰ったという。

早く訪れることができなかったことに悔やまれるが、その写真は大社に奉納されることになり、文章はS権禰宜さんに検証していただいた。

数カ所の指摘は予想通り。

一部分を割愛することで承諾を得た。

後日には埴使参拝に直接関係する畝火山口神社へもお伺いすることにして住吉さんをあとにした。

昼食はおふくろとかーさんの三人で味わうお店はくら寿司。

平日ならばとワンコインのランチ定食を注文する。

普段なら寿司盛りで十分な量であるがやたらとお腹が満腹にならない。

レーンを見ては追加注文する始末。

美味しいものには手が伸びるのだが、ゲソも漬け物もないし、ごはんは相変わらず柔らかめだよねと三人は同じ感想を口にした。

(H22. 1.20 SB912SH撮影)

奈良版に毎週水曜日連載

2010年02月21日 08時40分05秒 | 民俗の掲載・著作
1月6日から産経新聞で県内の行事を紹介する連載が始まった。

これから一年間、“奈良版”の毎週水曜日に掲載される。

シリーズの名称は「やまと彩祭」だ。

第一回目に山添村管生の山の神を紹介した。

誌面は想定以上に大きく、カラー写真がどどーんと迫ってくる。

その誌面をカメラのキタムラ奈良南店が紹介してくださった。

お願いをしていたわけではなかったですが、お店の計らいで産経新聞の切り抜きをデカデカとアップ。
ありがたいことです。

連載が始まった翌週の13日は下永のヨロイ吊り、20日は北椿尾の寒施行。

健康維持に留意して今後も知られざる民俗行事を発信させていただきます。

(H22. 1.20 SB912SH撮影)

連載の夕べ

2010年02月21日 08時36分16秒 | メモしとこっ!
一年間の連載が決まったことから産経新聞社奈良支局へ表敬訪問した。

K支局次長にご挨拶。横にはK記者が並ぶ。

自己紹介から始まった祭り談義。

5月に民博で開催された野本氏のオンダとノガミ写真展で触発を受けたという次長。

それから数ヶ月。郡山の祭りと行事展は記者が取材された。

このような行事がふんだんにある奈良に驚いたという。

「奈良大和路の年中行事」も紹介しておいたことは関係なく、知られざる民俗行事を新聞で広く伝えたいという。

行事を毎週、毎週掲載して一年間。お願いしたいという。

たいへんな話だ。

むやみやたらに執筆するわけにはいかない。

行事の内容も地域もバラエティにとんだほうがいいだろう。

「うちの行事が本に載ってない」といわれた行事は多数ある。

それらを選別して多様な行事を紹介する。

発行日に合わせて紹介できればなおさらだ。

ということで計画表を作っていった。

それだけではなんなんで、初回の原稿と写真を持参して話した。

早速読まれた。

文章はリズミカルで読みやすく判りやすい。

すでに読者向けの文章になっているといわれた。

そうなんです。それを意図して書いたのが山の神の行事。

そのトーンで一年間。

こなせるかどうかは不安がいっぱい。

締め切りに追われるのは苦痛なので、先々書きだめしておかなければならない。

ちなみに郡山で有名なコロッケのハヤシがこんなとこにお店が出ているなんて・・・

(H21.12.12 SB912SH撮影)

一年間の連載

2010年02月21日 08時31分34秒 | 民俗の掲載・著作
奈良大和路の年中行事』の本が支局に届いたとK産経新聞記者から連絡をいただいた。

2週間ほど前に民博で取材を受けた際にこんなことを考えているのですと言われていたあれだ。

なんでも局次長が奈良の歳時記に感心をもっておられているそうだ。

そこへこの本のことが話題になったという。

それは年間を通じて新聞に掲載していくという構想だ。

毎週、毎週に奈良の行事を伝えていく。

平城遷都1300年の年でもあるからこういう企画が通るのではと思った。

支局長がうんと言えば、の話だが。

掲載するとなると12文字50行で600文字。

結構な分量になる。

出版本からそのままでもいいという。

それは版元も許し難くまずいだろう。

おそらく書き直しになるであろう。

写真が入るので、そこまでの文字数にはならないらしい。

市広報市「つながり」に四苦八苦して文章を書いている。

それが毎週というピッチになる。

50週ぐらいの原稿を書きだめていかんとあかんペースになりそうだ。

私にとって本年はなんやかやとビッグイベントが続いた。

出版前には『大和郡山・天理今昔写真集』に祭りのコラム記事を執筆した。

民博写真展はそろそろ終了。

カメラのキタムラの個人展はすでにスタートした。

そして、したためた奈良の道の紀行文を出稿したばかり。

来年はゆっくりと過ごしたいと思っていたが無惨にも夢は消えそうだ。

その二週間後、掲載が決定したと連絡が入った。

一回目の締め切りは12月18日で掲載は翌年の1月5日、7日辺りになるそうだ。

連載される予定で出稿しなければならないが大きなニュースがあれば「飛ぶ」という。

予め年間出稿計画をしておいたほうが良さそうだ。

(H21.11.25 打診)