マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

石木町・大和田/城町・早くも据えた地域の正月飾り

2024年05月05日 07時38分04秒 | 奈良市へ
ご近所さんの神社。

早くも据えた門松飾り。

しめ縄も新しくなった。

前日の日曜日に三つの区の人たちが集まって作業していたのだろう。

三つの区と、いうのは昔の行政区域。

神社が鎮座する地は、奈良市石木町。

神社の氏子は、石木町に同市の大和田。

さらに、大和郡山市の城町・東城(ひがしんじょ)。



2月1日の早朝に行われる粥占で知られる登弥神社

そこから南に歩いて千歩も行かん地に、これまた早くもとんどの準備。

当番の人が運んできた伐採枝。



かつては我が家の目の前の丘に植生していた竹林から竹を伐りだし、何本も運んでいた。

竹は抱えるわけでもなく、トラックにも載せない運び方。

1人が1本の竹をずるずる引きずって児童公園まで。

往復していた人力運びは、何年か前にやめた。

住まいする地元、旧村の東城主水山(もんどやま)のとんどは、昭和46年ころまでは1月31日がとんどの日であった。

いわゆるニノ正月のとんどであったが、現在は、1月半ば。

正月新年会に集まった初寄りあいに決める日程は、新年会を終えた一週間後の日曜に・・。

とんど場のすぐ横にある残り柿。



毎年にやってくる野鳥の餌場。

年が明けるころには、すっからかん状態になる。

(R3.12.20 SB805SH 撮影)

高樋町・突如出現した2021奈良マラソンを応援する笑(藁)爺

2024年04月15日 08時26分18秒 | 奈良市へ
お世話になっている高樋町・町思会の活動にまさか、まさかの・・。

稲藁を活用してつくった2021奈良マラソンを応援するつくりものができあがった、と連絡してくださった。

町思会の皆さんが、農作業をしている一角に突如として出現した巨大な藁つくり人形?。

コロナ禍の影響に中止せざるを得なかった奈良マラソン。

毎年の愉しみにしているランナーさんは多い。

中止はやむなしの昨年であったが、今年は万全の体制にコロナ拡散防止対策を講じて実施に至った。

7年前の私は、折り返し地点で先頭ランナーが走っていく姿を闘病していた入院棟から見ていた

駆けるランナーに応援の声は揚げられないが、そのとき元気をもらった、と思っている。

応援者が沿道に溢れるくらいになるのも怖い時代。



ウイズ・コロナを目指して開催を余儀なくされた奈良マラソン大会事務局や参加ランナーに、巨大な応援者が現れた。

2年ぶりに開催となった全国各地から集まってきた出場者は7435人。

フルマラソンのみの実施に人数制限した選手たち。

設営してからも、道慣れ、練習に余念がない全コースを走っているランナーも多く見る。



好天のマラソン日和の中、紅葉の残る大和路を駆け抜けていった、とニュース、報道が伝えていた。

完走した走者は6789人(完走率は91.31%)。

ちなみに、町思会が伝えてくれたライトアップも見たかったなぁ。

(R3.12. 8 SB805SH 撮影)

通りすがりに、この年も拝見した奈良市今市の地蔵盆

2023年09月14日 07時54分18秒 | 奈良市へ
宇陀市室生の小原、西隣の染田を経て、大和高原の地でも奈良市内の旧都祁村・白石に立ち寄った。

刺しさばをつくり、店内販売をしている辻村商店。

なぜかシャッターを下していた。

仕方なく、でもないが仕入れた和歌山県産の刺しさばを見届け、天理市の福住から下る旧五ケ谷村。

さらに西へ、西へとハンドルを握る帯解街道。

この年も拝見した奈良市今市の地蔵堂。

今日は、22日。

なぜに地蔵堂の扉が開いているのか?

今日は、平日でもない海の日の祝日、木曜日。

翌日の23日ならわかるが、その日も祝日のスポーツの日。

東京オリンピックを実行するがための、今年限りの連チャン祝日。

実に、ややこしい令和3年の2021年。

コロナ禍によって2020年の東京オリンピックは、一年先送りした結果である。

さて、この日が奈良市今市の地蔵盆であるのか、わかっていない。

4年前も通りすがりに拝見した平成29年7月23日の地蔵盆も、今日も同様。

付近にどなたもおられないから、尋ねることもできなかった今市の福徳延命地蔵尊。

吊るした提灯は、地蔵堂の天井にびっしり埋め尽くした情景が美しい。

今夕に地蔵盆があれば、ここに滞在し、明かりが灯った地蔵盆の姿を撮っていることだろう。

午後3時半であっても、それはそれ。

吊るした提灯に圧倒されるのもいいだろう。

(R3. 7.22 SB805SH撮影)

横井町・瘡神さんの青井神社の夏祭りは・・

2023年08月27日 07時58分13秒 | 奈良市へ
前年の7月15日、16日の両日は、下見調査をしていた。

調査地は、奈良市横井町の青井神社

昭和40年過ぎまで行っていた瘡神さん。

「旧添上郡明治村(※明治22年成立~昭和30年消滅)・北永井村小字登坂」の地に鎮座していた、と教えてくれたのは、現在、大和郡山市・櫟枝に住むIさんだ。

Iさんに初めて出会った場は櫟枝の地。

水口まつりの実施状況を調査に現地入り

県内事例にまず浮かぶことがない苗代に立てる護符がある。

最近は、印刷された護符も見かけるようになってきたが、古来より版木刷りだった。

刷りに使用するのは筆墨。

版木でなくとも、墨書されているケースが多くある。

その墨に、なんと、竈で火をくべた際、竈の内部に付着する「煤」を集め、水に溶かした「墨」だった。

触感がザラザラしていたのでわかった古来の手法。

尤も、今もなお本格的な墨の原材料は、灯明を燃やした際に発生する「煤」である。

そのことを確認したく、集落に移動。

そのときに出合ったのが、Iさんだった。

そのIさんは、かーさんが所属する卓球クラブの会員。

ひょんなことからわかったご縁つながり。

Iさんが、思っている私なのか、それとも・・・

きちんと挨拶しておきたい、と思って出かけた表敬訪問

顔が一致した、と云ってくれた。

そのIさんが、生まれ育った出里が、奈良市横井町。

かつては「旧添上郡明治村(※明治22年成立~昭和30年消滅)・北永井村小字登坂」の地。

そこが瘡神さんこと、青井神社。

それもまた、ご縁と思って昨年に調べた地に、まさしく青井神社が鎮座していた。

鎮座地は、代々社家を務めるお家が所有地。

前年の今頃に伺い、取材願いしたくさがみさんの夏祭り。

行事日程を伺っていたので、その時間に間に合うよう出かけた。

到着した時間は、午後1時半。

提灯も立てている青井神社。

角庭の表玄関入口から、白い玉砂利を本殿まで敷いていた参拝道。



小雨降る状況にタープを張っていた。

夏祭りの様相に、やっと出会えた青井神社の夏祭り。

入口に古くから使われてきたことがわかる太鼓(※昭和初期製作)を据えていた。



おそらく夏祭りの神事をはじめる呼び太鼓であろう。

呼び鈴を押して挨拶した青木家。

屋内から出てこられた家族さん。

奥さんが話してくれた今日の夏祭り。

提灯1基を立て、雨天予想に神職も濡れるからと、タープも張り、御供も供えた。



が、当主の旦那さんが急遽、事情を生じたため、今年の行事の取材には、応じられないので、来年にまたお越しください、と伝えられた。

事情が、事情だけに、ご心配される家族さん。

頭を下げて帰路に就いた。



たしかに天候は不安定な状態。

しばらくしたら真っ黒な雲湧き。

天理と同様のどしゃぶりになった模様。

後片付けも難儀されたことであろう。

帰宅してからのネット調べ。

奈良市の施設、南部公民館情報によれば、「・・・『青井社由緒書』には、疱瘡を病んだ小町の夢にあらわれた神童のこと、平癒した小町は、自分の黒髪を切り、地中に埋め塚とした。小町塚鎮守疱瘡神といい、社殿のなかに土を盛り上げた土壇があるようだ。なお、青井社絵図によると、小町伝承の霊水の井戸は、神水として描かれている。井戸は現存する。・・・[「小町の宮」碑 由来記 (帯解寺)より抜粋]」、とあった。

南部公民館から東に行けば帯解寺がある。

その帯解寺の寺域に、平安時代の歌人、小野小町にまつわる「小町の宮」がある。

「小町宮址」が確定して以来、小町の命日である4月24日は、法要を執り行っている、とあった。

青木神社・グーグルクチコミに、小野小町伝承の書き込みがみられた。

(R2. 7.16 SB805SH撮影)
(R3. 7.15 SB805SH撮影)

横井町青井神社・瘡神さんを訪ねる下見調査

2023年08月26日 07時42分31秒 | 奈良市へ
「生まれ故郷に今でも疱瘡まつりをしてるやろか」。

そう話していた女性は大和郡山市内の櫟枝町に住むIさん。

嫁入りしてからはずいぶんとご無沙汰している故郷。

自家用車に乗ってあっちこち出かけるIさんは、現役バリバリ。

年齢は88歳の卓球クラブ員。

噂によれば、それは、それはお元気なご様子。

出里は奈良市横井町。

今でも疱瘡神社を「くさがみさん(※瘡神)」と呼ぶIさんが育った時代。

「旧添上郡明治村(※明治22年成立~昭和30年消滅)・北永井村小字登坂」の地に鎮座していたようだ。

疱瘡神社の鎮座地を探す目的に出かけた令和2年7月15日。

所在地がまったくわかっていないから、カーナビゲーションの力を借りて探した下見調査は、果たして・・・

北に向けて走っていた国道。

右手に、見えた鎮守の森。

その辺りに行けば、なんとかなるだろう。

う一ん、鳥居が見つかったが、ここはどこなんだろうか。

水草がいっぱいに広がっている石の構造物。

これはいったい何だろうか。

水は溜まっているが、実に浅い。

手水鉢でなく、これは礎石では、と思った。

鳥居から西へ、西へと参拝道。



振り返り見れば、東に山々が。ここからは見えなかったが、左手に若草山がある。



奥に入って参拝。神門をくぐって、本殿に参拝。

ここの神社は、いくり(伊久里)の杜に鎮座する穴栗(あなぐり)神社。



万葉歌碑を設けている神社に訪れる人は多く、鎮座地が「日本書紀」景行天皇の条にある「春日穴咋邑」に推定されていることから歴史ファンも来訪しているようだが、私の調査は民俗行事。

どなたにも遭うことなく、ほんの数分間の滞在。

鳥居をくぐった辺りから、やぶ蚊がいっぱい。

痒みは、身体のあちこちに広がる攻撃。

早々、退散した神社。

時間帯も夕刻近く。

その日の下見はここまで。

翌日の16日にも訪れた奈良市横井町。

実は、手元に出里が横井だ、と云ってくれたIさんのメモがある。

よくよく見れば、「くさ上さん」に、「青井神社」のメモ記である。

そうか、「青井神社」が、探していた瘡神さんこと、瘡神神社であったのだ。

ネットに、見つかった青井神社

ネット情報によれば、上街道沿いにある青井神社。

立地がわかった以上、再訪問するしかない。

関係者と巡り合えるかもしれない。

そう、思って車を走らせた。

その地は、まさに奈良から天理に向けて南北につながる上街道。

古来は、上ツ道と呼んでいた。

天理からは桜井へ。

そして長谷寺までの一本道。

の見方えあれば、長谷街道。



昔から街道沿いに暮らしてきた人たちは、必ずや上街道か長谷街道、と話してくれる歴史的に旧い街道である。

ちなみに、昭和初期の8年に発刊された高田十郎編/『大和の傳説(絶版)』に、疱瘡神・青井明神の項に掲載されているようだ。



広地に車を停めて、少し歩いたところに見つかった「青井神社」。

民家の庭に鎮座していた「青井神社」。



扁額をみて、間違いなくここだ、と思った。

神社の関係者は・・・。

立地する民家に住む方に尋ねるのがたしかな情報、と思い、呼び鈴を押した。

屋内から出てくださった青井家の家族さん。

大学生と思われる若い男性の話によれば、当主は今、出かけているので詳しいことはわからない、という。

ただ、前日の7月15日の午後の時間帯に、神職に来てもらって神事をしていたようだ。

名刺を渡して、来年の15日に、また伺います、と伝えた。

あらためて拝見した青井神社。

扉は閉められているので、内部の様相は見えないが、社前に建つ石燈籠に「疱瘡神社」。



比較的新しい、文久二年(1862)の建之である。

(R2. 7.15、16 SB805SH撮影)

押熊町・コロナ禍の八幡神社初詣

2022年11月22日 07時52分46秒 | 奈良市へ
奈良市押熊町の八幡神社行事にしめ縄かけがある。

そのしめ縄の形態は、県内に見られる類似例調査で知った。

近くに住むYさんの情報で知った簾型のしめ縄。

ここにも類似例があったとは・・・。

拝見した日は、昨年の令和2年1月5日。

正月三が日を二日過ぎた5日の訪問。

Yさんが伝えていた簾型しめ縄に実は名称があった。

後日、お会いした村神主に座の一老が話してくれたその名称は「編み注連縄」。

なるほど、である

垂らすモチワラが簾のように見える。

その縄結いつくりである。

他所の地域で拝見した簾型のしめ縄。

数本の藁束を手にして心棒になる竹に括る。

その次の藁束は被せるように、また繋げていくように・・まるで編むようにつくるしめ縄。

その作業から、名称したと考えられる押熊八幡神社の簾型しめ縄。

12月の22以降、25日ころまでに正月を迎える門松立てがある。

拝見していないが、そのときに合わせて、つくった「編み注連縄」を割り拝殿の入り口頭上にかけるようだ。

ちなみに、同じ奈良市内に簾型しめ縄をつくり、同様にかける神社がある。

平成27年12月7日に取材した疋田町に鎮座する三輪神社のしめ縄名称は、「御前飾り」。

神さんの御前に飾るから、そう称している。

正月・元日に訪れた目的の取材は、八幡神社行事にしめ縄にある。

予め、当時二老だった方に教えてもらった、しめ縄にかける伊勢海老に興味をもった。

しめ縄に、本物の伊勢海老を飾る地域がある。

私が知る範囲であるが、それは大和郡山市内にある2カ所の神社にある。

1カ所は、市内城下町内在所の野垣内町。

平成19年12月30日に取材した春日若宮社にかける伊勢海老のあるしめ縄。

その日に拝見した野垣内町の伊勢海老は生きた伊勢海老でなく茹でた海老だった。

もう1カ所は、城下町外に在所する田中町。

甲斐神社にかける生きた伊勢海老しめ縄。

取材日は、平成24年12月31日

簾型のしめ縄に括りつける作業も拝見した。

いずれも長い髭をもつ伊勢海老。

長寿を願う形だ、と思った、

他の地域にもあるのでは、と思って探し回ったこともあったが、まさか押熊町の八幡神社にされていたとは・・・

当時二老の話は続く。

元日の正午前。

髭がピクピク動く生きた伊勢海老を既にかけていたしめ縄に括りつけ、固定する。

初詣に来られた参拝者。

その誰であっても構わない、お咎めもしない伊勢海老たばり(※賜るから転化し、訛った“たばる”言葉)習俗があった。

「私の子どもが生まれたときとか、妹の祝いに手に入れたことがある」と話す。

そのうち、口コミで拡がった伊勢海老たばり。

宮さんの担当が、伊勢海老を取り付けようとする。

その動きを知った、初詣参拝者が並ぶようになっていた。

神社側に、制止する動きはない時代だった。

その当時、伊勢海老の取り合いは勝手な取り合いだった。

われこそ手に入れたい、と競争するような伊勢海老たばり。

お話を伺っていると、数年前まで同じような状況だった唐招提寺の宝扇の奪い合いを思い起こす。

毎年の5月19日に行われている「うちわまき」行事である。

平成14年、15年に拝見した「うちわまき」

鼓楼にあがった僧侶らが、境内側に向けて飛ばす「魔除けの宝扇」。

手に入れようと集まってきた参拝者が、私も、わたしもと手が伸びる群衆の争奪戦(※現在は争奪のない整理券による人数制限・先着順などに替えられている)。

尤も、押熊の伊勢海老たばりは、神社側が投げることなく、参拝者自身の争奪であるが・・・・

県内外に見られる”花うばい”のあり方と同じような具合の伊勢海老たばり。

吉野町小名に花笠まつりがある。

神社に奉った当屋の花笠は、氏子たちの手に・・。

かつては奪い合いするくらいの争奪戦だった。

いつしか一本の花を一人ずつ配るようになった。

伊勢海老の取り合いになって喧嘩にでも発展するなら、と時間を決め、じゃんけんによる抽選。

当たった人がもらうようにした。

押熊もまた、安全性を考慮したのである。

昨今は、受験やらと云って若い者の参拝が多くなり遠くからでもやってくる。

大学を卒業し、就職できたからとお礼参りもあり、初詣に千人もの参拝者に膨れ上がった八幡神社の初詣。

実は、センター試験のときも願掛けが多くなるそうだ。

しかし、この年はコロナ禍。

世に至る神社や寺が対応・対策される参拝者制限。

さまざまな取り組みにニュース報道も多くなった時代に押熊が取ったコロナウイルス感染症対策拡大防止対策は・・・

鳥居前に掲げ「コロナウイルス感染症対策拡大防止対策実施中」。

手水使用不可、マスク装着、ソーシャルデイスタンス、咳エチケット、声をあげず控えめになどの理解・協力をお願い。



手・指消毒剤の設置。

鳥居をくぐり境内に入ったところにテーブルに置いた消毒液。

割り拝殿前にも消毒液の設置。

ロープを張り、密にならないよう左側一方通行をお願いしていた。



ぞろぞろやってくる参拝者は、お願い事項を守り、静かに参拝される。

頭を下げて入った割り拝殿。



頭上に今まで見たこともなかった「編み注連縄」をかけていた。

「編み注連縄」は、正月期間中にかかげ、7日に下ろされ蔵に収めておく。

2月3日の節分に行われる護摩焚きによって焼却される。

蔵から出した「編み注連縄」は、誰にも見られないよう護摩壇内部に移していた。

年中期間のごく一時的な日にちにしか見ることのできない「編み注連縄」の飾りつけ。



ウラジロにニコニコ仲睦まじくの串柿。

ダイダイに白紙に包んだ御供(※おそらく固炭であろうか)がある。

また、割り拝殿内に書かれていた「ご芳名ご記帳について」。

「新型コロナウイルス感染症対策拡大予防のためご芳名ご記帳は、1月1日から7日まで中止させていただきます」とあった。続いて尚、1月8日からは、従来通り月次祭にご祈祷させていただきます。押熊八幡神社 神主」とある。

私も、参拝者。



行列が途絶えた合間をぬって、初詣に願う心は、新型コロナウイルスの収束。

人気の少ない間合いに、拝見した正月の御供。



伊勢海老たばりのない「編み注連縄」。

伊勢海老はどこに・・・



元日祭の神事を終えた村神主は。

白衣から作務衣姿に着替え、忙しく動き回っていた。



尋ねた伊勢海老の所在は、御供にあり。

茹でた伊勢海老なら、見つけやすいが、生きたままの伊勢海老はどこに・・・

ぼやけて見えていた。

眼を凝らしてやっと姿をとらえた。



視線が合った伊勢海老は、三方に載せ本殿に奉る神饌御供として供えていた。

例年なら、供えた活け伊勢海老は「編み注連縄」の名で呼ぶ簾型のしめ縄に架けるのですが、密を避けるための今年は・・・

続けて云われた件に、思わずのけぞった。

前代未聞のコトが起こった、と・・・。

(R3. 1. 1 EOS7D/SB805SH撮影)

突風に煽られ倒れていた佐紀町西畑の簾型しめ縄

2022年11月05日 07時43分58秒 | 奈良市へ
山陵町(みささぎちょう)の山上八幡神社の砂モチ習俗に合流した橿考研所属・発掘調査が専門のYさんが、コメントを送ってくれた。

「砂モチが見られる近くの神社。4社のうち佐紀町西畑の佐紀神社は、昨日の12月29日に。
佐紀町の釣殿神社と山陵町の山上八幡神社は、本日の30日に砂モチが置かれた。置く方法、成形の有無、置く範囲。おそらく時代の変化を経たうえでの、現在の有り様だと思われるが、近接しているのに、驚くほど特徴が違っていて、見ていて楽しい。私にどのような形で未来に伝えることができるか分からないけど、今はとにかく自分の目と耳で、残っているものを確かめていきたい。」、伝えていた。

私が返答したコメントは、「取材、お疲れさまでした。」

「2事例でも、3事例であっても興奮する砂モチのあり方。現在は、こうであっても昔に遡れば・・。記録のない時代からずっと地域が続けてきた口承伝承もありますが、もっと多くの事例も併せて地理的な面での考察。今日、長老がぽそっと云われた思い。“当社は、それほど古いものでなく、近くの神社から受けた分霊を祀っている」と・・。

「時代経過もありそうだし、ある時期の氏子が、こうしようとかの一言で、そのときからこれまでとは違う文化を継承するようになったとものと思料します。」

「そうそう、伝えてくれた西畑の簾型しめ縄の風倒」である。

鳥居正面からとらえた映像では、簾型しめ縄は、午後にかけるつもりの状態。何かが不足したのか、午後に作業を、としているのだろう、と思っていたが、裏側に廻ってみたしめ縄。支柱にしていた笹竹もろとも倒れていた。



「突風に煽られて倒れたようですが、心棒の造り、構造は、私の目から見ても、軟弱でした。たまたま駐車場に停めようとした夫妻。西畑のものではないですが、お寺さんに風倒状況を伝えて、氏子さんに連絡していただきますから、ご安心ください、ということでした。」と、コメントを入れた。

(R2.12.30 EOS7D/SB805SH撮影)

佐紀中町・門外釣殿神社の砂モチ終えて据えた前掛けしめ縄

2022年11月04日 07時19分38秒 | 奈良市へ
山陵町(みささぎちょう)の山上八幡神社の砂モチ習俗に合流した橿考研所属・発掘調査が専門のYさんとともに、隣のご近所といえるほど近い距離にある2地区の正月迎えのあり方を拝見したく立ち寄った。

平成26年12月31日訪問して以来、久しぶりの門外釣殿神社の所在地は佐紀中町。

時間帯は、正午時間の午後12時20分。

門松を立て、砂モチを済ませていた。

最後に簾型しめ縄を飾りつけているところに伺った。

門外釣殿神社の史料『釣殿神社行事概要』に、「前掛け」の表記がある簾型しめ縄。

宮さんの前に掛けるからその名にされたのか、存じていないが、平成28年12月15日にたまたま通りがかったときに目に入った筵敷きダイコン干しをされていた当主が話してくれた前掛けしめ縄の名称は、「ゾウガイ」だった。

門外釣殿神社の氏子のOさん。

かつては、神社役を務めたこともあるOさんは、昭和9年生まれ。

地元に長年暮らしてきた地域の歴史・文化を伝えてきたはずだが、貴重な俗称までは継承されなかったようだ。

そのゾウガイしめ縄は、正面からでは見えない位置に掛けている。

割り拝殿に掛けているのだが、真ん前に建てている年代を感じる朱塗りの鳥居の陰に隠れているために見えない。

鳥居をくぐって参拝。



後ろにふり向いて、初めて気づくゾウガイしめ縄の最後の作業が飾りつけ。

「ニコニコ、仲睦まじく」の名で呼ばれる10個の柿を連なる吊るし柿。



葉付きのダイダイに奉書に包んだ栗、カタ炭、塩を紅白水引で括って取り付けた。

それから撮らせてもらった砂モチ。

今日の日差しはキツイ。



神社の木々の陰とのコントラストギャップ状態の砂モチはとらえ難い。

尤も、砂モチをされてから数時間の経過に乾燥がはじまっていたから、余計に形がわかりにくなった。

突然の取材にお礼を伝えて、あらためて拝見した門松。

神社役の人たちの背丈より高い。

鳥居の高さとほぼ同じ。



こんなに大きな門松だったのか、と帰り際の気づき。

あらためて、過去データを振り返り見たその高さは、この日に見た高さの半分程度。

『釣殿神社行事概要』の規定に変化があったのではないだろうか。

(R2.12.30 EOS7D撮影)

山陵町・・山上八幡神社の正月迎えの砂モチ

2022年11月03日 07時09分03秒 | 奈良市へ
30日の晦日。

民俗取材の行先は、奈良市山陵町(みささぎちょう)の山上八幡神社の砂モチ。

写真家のKさんが事前に聞いた話によれば、「これが最後か」の詞に、釣られてカンジョウ縄かけ取材計画していた京都・加茂町の銭司行は諦めた。

山上八幡神社の砂モチは以前も拝見しているのだが、どのような作業をされて、砂モチ形成をしているのか、見るのは初めてだった。

山上八幡神社は、幾度も訪れて年中行事を拝見していただけに「よう来てくれた、久しぶりやのう・・」、のご挨拶。



朝8時から正月飾りの作業をしていた神社役の六人衆。

割り拝殿内に左右2基の門松をつくっていた。

寒い朝だけに防寒服を着ていた。

しめ縄は業者発注にしたが、門松つくりは手作業。

松・竹・梅の三役も揃えている。

これらの枝を飾る順位は、背の高い木枝お後方に据える、と話していた。

中央に据えた3本の孟宗竹。

高さそれぞれ違えて、正面に向ける面は綺麗に切った斜め切り。

杉皮付きの杉板で囲った門松の土台。

崩れないよう黒紐できっちり締めた土台に砂を盛っている。

かつては、竹を組んでつくった土台であったが、杉板に切り替えた。

竹組の時代は、毎年新しくつくっていたから青竹だった。

毎年の作業に、竹の伐採作業もある。

そんなこんなで、当面は作り直しが無要の杉板に換えられた。

作業労力の負担軽減を考慮された六人衆の決断である。

できあがった門松は、運搬車に積んで所定の位置に運ぶ。



鳥居の前、参道両側に据えた、次の作業が砂モチ。

砂モチをする場は、拝殿前の境内一面。

等間隔に砂モチを置く箇所を決める。

そのために必要な道具はメジャー。

置く間隔は50cm。

いやいや、そうやなくて30cmや、疑義の声があがった。

六人衆がもつ規定資料に書いてあるはずや、という。

図面を確認してみれば、30cm。

測り直して、あらためて筋をつけていく。

さて、砂モチに置く砂は、2種類の真砂土。

赤土に白い土。

どちらの色土から置いていくのだろうか。

これも規定があり、図面に示している赤土の●、白土の〇印に置く順を確認する。



その開始の基点は、拝殿側から見て、右位置の角に赤土。

その次に白土。

開始地点が決まれば、交互にこの配置を繰り返す。



その紋様はまるでオセロのように見えるが、どうも違う。

和柄紋様の鹿の子紋に近い格子状に黒、白、黒、白が交互に配置される。



手分けして砂モチ作業を進める六人衆。

およそ砂モチ作業を終えたら、次はしめ縄飾り。



数年前までは板しめ縄の名で呼ぶ簾型のしめ縄をかけていたが、手つくりはやめ、京都の業者に手配するよう切り替えた。

先行きが不透明な座だけに、苦しい選択をされたのである。

これまで引退した先輩方がつくってくれた材は神社に遺る。

1人、2人は交替しながら役に就く六人衆。

いつまでもこの体制を続けるには無理がある。

若い人が神社役に加わってくれるのが尤もな体制になるのだが・・。

数年、いや数年後は、さてどうなることやら。

現状維持を続けられるのも4~5年までか、と沈痛な思いで作業してきた正月飾り

これまでの板しめ縄から、太くなったしめ縄に移ったが、中央に飾り付ける葉付きのダイダイにユズリハ。



紅白の水引で括った奉書包みはカタスミに”ニコニコ仲睦まじく”といわれている縁起物の串柿も飾る。

拝殿のしめ縄以外に、細縄のしめ飾りはあ、うんお表現する狛犬とか、境内のご神木にかける。

また、社殿左手に大きく育った太い幹のご神木は、中太のしめ縄を飾る。

作業が終るころに見つかった一輪の花。

雨が降っていたこの日に咲いた四季桜。

毎年に咲いているようだ。

ほぼ終わりころに合流できた写真家のKさん。

そして、一昨年、昨年から県内の砂モチを調査している橿考研所属の発掘調査専門のYさんも合流した。

Yさんからの砂モチ情報は、田原本町西代の八坂神社。

また、Kさんからは、かつて度々調査していた天理市長滝町にカラスのモチを見つけたと、連絡が入った。

また、天理市の上仁興の四社神社の灯籠に正月の餅を想定する白餅が数個、供えていた。

情報としてであるが、奈良市中山町の八幡神社に砂モチがあった、という。

県外を離れ、京都南部・木津川市の市坂にもあったそうだ。

なお、2件の民俗事例は、貴重な情報。

西代は1月3日に、長滝は1月2日に現地入り調査した。

(R2.12.30 SB805SH撮影)
(R2.12.30 EOS7D撮影)

不退寺の難除供養碑・彼岸の無縁仏施餓鬼

2022年07月09日 08時58分13秒 | 奈良市へ
JOYOアートギャラリー2020/入賞・入選作品を拝見していた京都府城陽市施設の文化パルク城陽

館内4階は「五里ごり館」の愛称がある「城陽市歴史民俗資料館」。

地域民俗の一端を教えてもらって帰路につく。

京都市と奈良市を結ぶ国道24号線。

大動脈幹線をさらに下った南端が和歌山市。

一部では信号待ちなどでまま時間のかかる地道の24号線。

京奈和道の全線が繋がったら、一層便利になるだろうが、まだまだ・・。

焦って帰る予定はない。

季節を感じる地域の景観を車窓ごしに観ながら、と思って国道を走る。

城陽市から県境までは20kmもない凡そ17kmの距離。

地道走行時間は、信号待ちを考慮しても40分ほど。

城陽ICから木津までを京奈和道路利用なら、20分で着く。

その代わりと言っては何であるが、利用料金は730円。

20分の差を埋めてくれる。

急ぎの場合の費用は、決して無駄とは言えない。

県境の地は木津川市の市坂。

一歩入った奈良県側はJR大和路線の平城山駅(ならやまえき)。

戻ってきた感が高まる地にまずは安堵する片道2車線の奈良バイパス。

しばらく走ったところで渋滞。

交通量が多い上に信号待ち。

ふと気配を感じた大和路線の向こう側。

高台のような場に居た男性の動きを見ていた。

何やら旗のようなものを立てようとしている。

その傍にあった石塔のようなかたち。

まるで墓石のように思えた。

民間墓地に旗立てをする男性。

遠目ではっきりしないが、麦わら帽子を被る男性は壮年のように見える。

家族が眠る墓石に旗立て。

お彼岸の墓地参拝に旗を立てる習俗では、と思った。

動き出した渋滞。

止まっては動く、繰り返しに直近に信号がある。

そのまま見過ごすわけにはいかない。

墓石に立てる旗立ての真実を確認したく、青になった法華寺東信号を左折れ。

JR大和路線の踏切を越えずに手前の筋道に入る。

十年ぶりになるこの道は、不退寺に向かう道。

今はお寺さんに寄っていく時間はないが、国道から見た墓石がある道はどこを行けばいいのやら。

不退寺門の左側を見た。

とても狭いが軽バンタイプならいけそうだ。

そろりそろりと抜けた道は急な曲がり道。



この先にどんな道があるのだろうか。

少し走ったところに見つかった墓石。

男性が居るから間違いなし。

車を停められる広地があった。

住民にお声をかけ、ちょっとだけの駐車に許可をもらった。

そこからほんの数メートル。

肉眼でもわかる赤、紫、黄色の旗立て作業中の男性。

麦わら帽子でなくモダンな帽子だった。

壮年に見えた旗立ての男性はどことなく若い姿。

車窓からでもわかった自転車もある。

左際を走るJR大和路線。

その左は国道24号線。

西の方角に見えるこんもりとした樹木がある地は宇和奈辺陵墓である。



男性が笹竹に拵えた旗を立てようとしているが、なかなか上手く地中に入っていかない。

立てては倒れる旗立て。

苦労されている様子に、何をされているのか、尋ねてみた。

話してくださった男性。



実は、若い人だった。

年齢は26歳。

現在は、京都の学問所に通って仏の世界を学んでいるそうだ。

通いの学びに日々研修中の身という男性に驚き。

なんと、この場からすぐ近くの不退寺住職の息子さんだった。

本来であれば、前日の20日に行う予定であったお彼岸の法要は、都合この日になったと、いう。

墓石と思われた石塔は無縁仏を供養する碑であった。



逆光によって見えにくかった刻印文字。

判読は難しかったが「難除供養碑」までが読めた。

施餓鬼の五色旗は、紫・黄色・赤・白・黄色

それぞれの色旗を立てる位置に決まりがあるらしく、方角がそれぞれある、という。

ただ、碑周り土がとても堅かった。

竹を利用して、少し掘ってはみるのだが、土中に入っていかず、あれこれ位置を替えて立てていた。

カラカラに渇いた土地。

雨後であれば、突き立てることはできるが、天候良しの日は苦労を伴う。

了解をいただいて撮らせてもらった施餓鬼旗の旗立て。



やや斜光がかった午後3時半の光が眩しい。

青空に映える五色の旗が美しい。

携帯電話のカメラでは申しわけないくらいに美しい施餓鬼旗。



僅かであるが、県内事例の施餓鬼行事を取材した地域は4カ所。

いずれも8月のお盆の間に行われていた。

天理市苣原・大念寺の施餓鬼、同市南六条・西福寺の施餓鬼、大和郡山市小林町・新福寺の施餓鬼、山添村菅生の施餓鬼

いずれも施餓鬼棚を設営する本堂の外側(※菅生は十二社神社の参詣所)で行われるが、僧侶が唱えるお念仏は、外に向かって・・。

つまり、“外棚(そとだな)とも呼ばれる施餓鬼棚は、外に居るとされる「ガキンドサン」に向けて、念仏を唱えるのである。

一般的にお寺でされる場合は寺施餓鬼という。

お家で先祖さんを迎えるお盆のあり方に、無縁さんとか餓鬼さんを祭る限られた地域がある。

その範囲は広いが、いずれも外に近い廊下とか、前庭に餓鬼棚を設ける。

棚を設けずに廊下に直置きあるいは、天井辺りから御供ごと吊るす家もあるが、その場合は、寺施餓鬼に対して家施餓鬼と呼ぶ。

家施餓鬼の数事例を挙げておく。

一つは、山添村菅生・N家のガキンドのカンゴ事例は珍しい形態。

未だに同形態のものと遭遇しない貴重なあり方である。

奈良市八島町の檀家参りに見た無縁さんの吊るし御供

桶に供える形態も珍しい。

三つめは、多くの地域にみられた廊下直置きのガキンド。

奈良市高樋町・E家の事例を取り上げる。

これまで、家施餓鬼に寺施餓鬼の事例を拝見してきたが、本日、たまたまの遭遇に拝見した彼岸の施餓鬼旗立ては初めて見るあり方。



貴重な習俗の一例として記録しておく。

五色の旗のすべてを立てた次は、お供えである。

自転車籠に入れて持ってきた綺麗な水。

ペットボトルの口を開けて水で碑に流す。

水焼香では、と思っていたが・・。

供える場を綺麗に清めてのせた。



蓮の葉で包んだ御供である。

そして、立てた線香に火を点けてくゆらす。

それから始まった砂撒き。



碑の四方に対してなのか、それとも施餓鬼旗を立てた五方角なのか・・・、

聞かずじまいだったが、周囲に撒いたその砂は何なのか。

撒いた砂は清めの砂。

その砂は、水を溜めた容器に浸けてかき混ぜる。

かき混ぜてしばらく待てば、砂は重さで沈殿する。

沈殿後のどれくらいの時間が経ってからかわからないが、綺麗なうわ澄みの水(上澄水)を掬って飲む。

そうすれば身体を清めることになる、と母親から教わったそうだ。

砂を収めていた袋を見せてもらったら、西大寺さん御加持の砂。



「大和西大寺 光明真言加持土砂」とある。

金龍山不退寺(※正式には金龍山不退転法輪寺)は、真言律宗西大寺の直末寺。

直接、西大寺さんから授かったお砂であった。

この年の4月より、花の御寺の様相をSNS(※Twitter)で紹介していますから、是非ともお越しいただければ・・と、話していた。

ちなみに、「光明真言加持土砂」とは・・・。

本堂で光明真言の功徳で、土砂を加持し、毎年の10月3日~5日の3日間。

つまり、三昼夜続けて総回向の法要、「光明真言土砂加持大法会(光明真言会)」であるが、詳しくは、西大寺のHPとか、参加者がアップするブログなどを参照されたし。

真言律宗総本山の西大寺がアップしている「光明真言土砂加持大法会(光明真言会)」によれば、光明真言をお唱えして、ご本尊前に置かれた土砂を加持、光明真言の力を加えて清める、とあった。

また、知人の陶芸作家さんもアップしていた。

(R2. 9.21 SB805SH撮影)