マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

大岩・三市町村境界尾根にある大日さんの雨乞い井戸

2018年06月30日 08時46分36秒 | 大淀町へ
この年の2月12日に大日さん行事を行っていた大淀町大岩の大日堂。

翌月の3月12日は同じく大日堂で行われる涅槃会。

明日香村の取材を終えて大岩に向かったが、行事は既に終わっていた到着時間。

行事を終えて扉を閉めようとされていたK区長が応対してくださった。

そのときに話してくださった大日如来に伝わる雨乞いである。

雨乞い詞章に、当時に打っていた鉦を見せてくださった。

戦後間もないころまでしていた大岩の雨乞いである。

尾根道に井戸のように湧く泥水を掬って「タンゴオケ(肥桶)」に入れて運んで尾根を下りた。

「雨たんもれ」と云いながら大日堂の屋根に泥水を放り投げていた。

行列を組んで尾根の井戸に向かうときに唄ったのが「雨たんもれ」の詞章である。

長らく井戸の所在がわからなかったが、現在77歳の男性が兄とともに行ったことのある記憶を頼りに探してみたら見つかったと話していた。

日照りであっても水が湧く不思議な地の池。

名前のない池であるが、そこは“大日さんの井戸”の呼称がある。

そこへ行くには案内人の力が要る。

地図を書いてもらってもその通りには行けそうにもない地。

なにかの機会があれば、と思っていた。

大淀町の学芸員を務める松田度さんがFBに突如として揚げた「大淀町のここは高取・御所・大淀の境界の尾根の上。真ん中に水のわく「だいにちさんの井戸」。だいにったんの雨ごい行事は戦後すぐにやめてしまったようである」と伝えていた映像はK区長から聞いていた尾根であった。

映像は二日前に行われた尾根の清掃活動の際に見つかった井戸を紹介していた。

不思議の地に不思議湧く。

そうとしか言いようのない不思議な場所に湧くという「だいにちさんの井戸」であった。

涸れることなく常にその地に湧き出る水。

その様相からは単なる水溜りにしか見えない。

その日はカンカン照りのなかで行われた道普請であった。

雨が降るまでに一度は見ておきたい涸れない尾根の井戸。

案内人の力を借りないと到着しそうもない地は山の尾根である。

その件はK区長も参加していた道普請である。

場はなんとなくわかったが、独り歩きでは到底、その地に辿り着くことのできない尾根道。

すがった案内人はK区長。

前年の3月12日にお会いした区長さんである。

FBをされておられる区長さんに、「車では行けない尾根地だけに、明日行きますのでよろしくお願いします」と急なお願いをした。

翌日の今日の午後である。

電話ですぐ近くまで来ていると伝えた場に待ってくださっていた。

その尾根に行く前に会わせておきたい男性が居るという。

数年前にその地を、云十年ぶりに再発見した昭和18年生まれのMさんである。

鍬を手にした区長さんとともに向かう道すがらに村の史跡である県指定文化財の石神古墳への行き先を示す立て看板があった。

この日の目的は古墳ではなく、「だいにちさんの井戸」である。

真っすぐ行けば峠に出る。

その向こうはイブリ谷。

山間地の細い道をずっと下っていけば樋野(ひの)の町中に着く。

峠から歩いて20分。

葛小中学校西にある近鉄吉野線の吉野口駅に着く。

のちほどわかるが、下り道は急坂。

なんぼなんでも吉野口駅までの距離はケッコー遠い。

ネットマップでざっと測った距離は2kmほど。

下りだからそれぐらいで行けたのかもしれないが、戻りは逆の登り。

子供のころはずっとそうしていたという。

井戸のある尾根道に行く道は山歩き。



素人では道がわからない村の里道を登っていく。

つい先日に行われたばかりの道普請で綺麗に刈込をされた道は歩きやすい。

だが、ところどころにある木の根っこや瘤道も。

躓きやすい里道である。

井戸に通じる里道もまた尾根道である。

周囲は樹木が生い茂るからわかり難いが、両端はある程度の崖状態である。

かつてはその里道下にももう一つの里道があったそうだ。

生い茂っているからその道は見えないが、あそこらへんだという。

歩いた距離はどれぐらいであったろうか。

ぱっと明るくなった。

樹海から抜けた向こう側は視界が広がる。

そこが尾根道。

今は道がわからなくなっているが、右手に下り道があるそうだ。

藪の中の向こう側の道は見えない。



その道をずっと下っていけば吉野口駅の一つ手前の葛駅に着くという。

尾根に着いて区長さんが云った。

ここは山の尾根。

大淀町・大岩と高取町・丹生谷、御所市・樋野の境地にある。

山の尾根に水が沸く不思議な井戸とわかって辺りを道普請。

3カ大字の人たちが集まって、草刈り、伐採などの作業を一緒にしていたそうだ。

ここを掘れば水が湧いてくると云って持ち込んだ鍬を振り下ろす。

しばらくすればじわっと水が浸み込んで土の色が変化する。



さらに掘り進んで大きな穴にする。

湧いた水は尾根の土を混ざって泥水状態になっていく。

この水はどこから湧いてくるのだろうか。

手を少し浸けてみた井戸の水温。

体感であるが、これだけ炎天下にあっても湧きたての泥水は冷たい。

尾根の下に水脈があると思われるのだが素人判断で断言はできない。

地質調査の専門家に精緻な調査もしてほしいが、手弁当の無償ボランテイアにどなたかが手を挙げていただければと思う不思議の地の不思議の井戸である。



この地に胡坐をかいていたと伝わる仏像がある。

仏像はお堂に納まっていた。

小さな祠のようだったと伝承されるそれは松の木の下にあったそうだ。

丹生谷の人がその仏像を運び去ろうとしたら動かなかった。

動かないのなら、と諦めてそのまま放置したらしい。

言い伝えであるが、それが大岩にある現在の大日さん。

旧安養寺境内にある大日堂がそれだという。

大日堂の本尊は元禄十年(1697)に他所から移されたという木造大日如来坐像。

平安時代後期の作と伝わるが、大日さんの小仏もあるらしく、それは薬師如来像のようだ。

「雨たんもれ」と囃しながら大日さんの井戸まで登ってきた。

今日と同じように鍬で掘った穴から水が湧く。

泥水まみれの泥を掬いにきた。

掬った泥はタンゴオケ(肥桶)に入れて大日堂まで運んだ。

その泥は大日堂の屋根に投げつけた。

屋根に向かって放り投げたということだ。

何故にそのような行為をするのか。区長さんが云うには屋根が汚れているほどに雨が降る。

その効果があるから、そうしていたようだ。

区長さんはそこより少し離れた地も掘ってみた。

僅かに出るものの量は少ないから滲む程度である。

水脈はどこでどうなっているのかわからない不思議な地からの眺めが素晴らしい。

向こうにある、今では崖そのものになっている辺りから見下ろした地が葛駅。

国道309号線のカーブ状態がよくわかる。

実は丹生谷側は一面が崖状態。

昔はそこまでいってなかったそうだ。



崖は工事によって様変わり。

いずれ崖が崩れてこの貴重な尾根筋に湧く大日さんの雨乞い井戸。

地域の文化的歴史史跡。

いわば自然物であるから天然記念物に相当するもの。

過去に雨乞いを体験したことのある90歳の村人が生きている間に是非とも雨乞い行事を復活、再現したいと云った区長さんの言葉が心に響く。

急なお願いに対応してくださったお二人に感謝申しあげて大岩の地を離れた。

帰宅途中の午後4時過ぎである。

俄に黒い雲が広がってきた。

宇陀市では雹が降ったというから空気が急に冷え込んだのだ。

自宅に戻った時間帯は午後5時。

辺りはさらに曇って、天は真っ黒けになっていた。

雷が鳴りだして勢いのある大粒の雨が降ってきた。

短時間の降りであった不安定な気候の日である。

翌日の6月1日の午後10時半である。

前日よりもさらに勢いのある天候状態。

そのときはおっとろしいぐらいの雨風である。

台風なみの状態になったその夜は眠りにつくのも不安になるぐらいの天候である。

奈良県北部であるが、相当な雨量があったのは5月25日である。

翌日の26日は曇天から晴れに転じた。

翌日の27日、28日、29日、30日は連続する快晴の日。

雨なんぞ一滴も降っていない。

降っていないのに山の尾根にじわっと湧く水溜り。

どこから湧いてくるのか謎である。

尾根に水脈があるのか。物理的に地中探査をしてみないとわかるはずがない。

後日、高取町丹生谷在住のNさんが送ってきた詳細地図がある。

前日の道普請に参加していたNさんはGPS機能をもつ端末から国土地理院地形図にプロットした地図を作製された。

その位置は×印がつく。

位置は三つの地域が交差する地点より北になる。

3地区の境界線上にある×印。

地図に表示する住所は高取町大字丹生谷であるが、付近の住所、正確な所属を示すとは限らないと但し書きがある。

位置情報は34度25分19.62秒、135度45分53.57秒であるが、これもまた誤差の範囲であろう。

GPS情報が描き出す地図を拝見してのことだが、3地区境界線は尾根線であるような感じがしてならない。

そのデジタルGPS情報と大正2年に発行された明治41年の測量地図も送ってくれたが判然としない粗地図。

三角地点から北に2600mほどのところか。

そのすぐ近くに里道を示す線がある。

出発地点から距離計測したら365mだった。

そのマップが示すアドレスは丹生谷であった。

この日に撮らせてもらった大日さんの雨乞い井戸掘り情景は「大岩の雨たんもれ」をテーマに3枚の組写真で第7回の「私がとらえた大和の民俗」写真展で紹介させていただいたことを付記しておく。

(H29. 5.31 SB932SH撮影)

マルちゃんの和庵きつねうどん

2018年06月29日 08時31分15秒 | あれこれインスタント
この日の昼食はまたもや買い置きしていたカップ麺。

計画的ではないが、来月が賞味期限きれになるマルちゃんの和庵(なごみあん)きつねうどんを本日に食べることにした。

この商品はどこで売っていたか覚えている。

まちがいなくラ・ムーの京終店だ。

毎日が特売日で、昨日も同価格で売っていた。

この商品の塩分含有量は5.1g。

私が食べたかったから買ったわけではない。

カップ麺ならうどんを買ってきてほしいといったかーさんのために買った。

買ってはいたが、食べることはなくなった。

それを食べなきゃならんのが辛い。

お湯を注いで5分間も待つ。

待つ時間はなにかとちょこちょこ動いている間に時間が経過する。

蓋を開けたらどでーんと大きなきつねの揚げが入っている。



白い麺はほとんど見えない。

さて、お味である。

出汁が美味いからうどんが美味い。

つるつる口の中に入っていく。

箸で持ち上げては口の中に入れて噛みかみ、でもなく喉越しよろしく胃袋行き。

美味いはずだと思ったこの商品の謳い文句がカツオとコンブを極めた旨み出汁。

たしかに、である。

一方、きつねうどんとある揚げさんだ。

ジュわーを期待していたが物足りない味。

揚げさんの旨味が感じない。

感じないというよりも薄味なのか、味は消極的であった。

ちなみに入っていたネギ。

細かすぎてネギの食感はまったくない。

風味も劣る。

是非ともネギっぽくしてほしい。

そうすれば出汁に浸み込んだネギで美味さが倍増するのでは・・。

(H29. 5.31 SB932SH撮影)

奈良町の信仰-講の行事とその史料・前期企画展示in奈良市教育委員会史料保存館

2018年06月28日 08時16分22秒 | 民俗を観る
宇陀の気温は29.8度であったが、この日の最高気温は奈良市内が31.6度。

五條も31.3度。

気温がもっと高かったのは十津川村の34.5度。

全国でも2番目の気温になったそうだ。

近くの上北山村は34.2度。

太平洋沿岸の熱気が吹きあげたのかな。

気象観測してから5月気温としても最も高かった気温は記録になった、と夕方のニュースが伝えていた。

その暑さから逃げたのかどうか別にして拝観していた史料保存館は冷房が効いていて涼しかった。

拝聴した時間帯は午後3時から5時までの2時間。

記録は明日も更新されそうだと伝えていたから日中行動は日差しを避けたいものだ。

写真家Kさんから電話をもらったのは5月2日だった。

何度か訪れた奈良市史料保存館で企画展展示をされるようでから興味があれば是非どうぞ、ということだ。

その企画展は前期、後期の2部構成展示。

すべての展示物を交替展示するのではなく一部だけが前期、後期に分かれる。

つまりは前期、後期のすみ分けである。

5月2日から始まる前期は富士講に観音講、春日永代太々神楽講である。

6月18日までの展示で一旦締めて、6月20日から8月6日までの後期は山上講に地蔵講となる。

ここでいう山上講は前期に展示する富士講のことである。

寄贈した町の講は表面に山上講。

裏面に富士講と提灯だけが転換するが、展示される収納物品はまったく同じものである。

ここまで読まれてかたはピンと思われるだろう。

今回の展示テーマは「奈良町の信仰・講の行事とその史料」である。

史料保存館に寄贈された奈良の町屋講中が大切に仕舞われたモノモノである。

それは構造物であったり古文書であったりする。

いずれにしても「講」の取材は私が特に留意している民間信仰。

奈良県内は多種多様というか、さまざまな「講」の存在があった。

数えればきりがないのでここでは揚げないが、近年においては高齢化、費用或は精神的負担などによって後を継ぐ者も出てこずにやむなく解散した講は増える一方である。

そういった事態になるまでに行事の在り方を記録、取材したいと思うようになったのは、そういった現状を各地で聞くようになってからだ。

現状も含めて一部ではあるがカメラのキタムラ奈良南店で題して「大和の講」を8枚組の写真で紹介展示したことがある。

第11回とあるから平成25年の1月から2月にかけて展示していた。

展示される物品を拝見して少しでも講の取材に生かせたい。そう思って訪れた。

学芸員でもある館長が作成した解説資料がある。

「講」というものは、元々が仏教の言葉。

仏典を研究する学問僧の研究集会が起源であると書いてあった。

時代が下がるにつれて、仏教以外のさまざまな信仰行事やそれを行う集団も意味するようになった。

僧から民間に下りていった時代はいつからだろうか。

武家ではないように思える民間信仰は庶民。

町屋であれば町屋衆。

村であれば村民。

場は違えども「講」の名は同じ。

例えば伊勢講であれは伊勢大明神を信奉する集団。

愛宕講であれば京都の愛宕大明神。

庚申講であれば青面金剛童子。

特に一定の神社信奉でもない。

観音講であれば観音さん。

十一面観音菩薩を祭る長谷寺でもない。

西国三十三番ご詠歌を唱えることから西国三十三カ所の寺院に番外の地区の観音さん信仰である。

講は男衆もあれば女性だけの場合もある。

如意輪観音を祀る十九夜講がそれだ。

このことばかりを書くわけにはいかない。

館内に入って展示物を拝見する。

度肝を抜いた展示物は富士山に大峯山信仰する富士講・山上講である。

富士山の近辺に内八界、外八海の名がある。

富士五湖の名である。

富士山の信仰柄買ったものだろうと推定される。

信仰があったのは瓦町旧蔵の富士講/山上講祭壇である。

展示物は持ち運びが可能な組み立て式になっている祭壇である。

屏風に鳥居や掛軸などを収納する木箱の道具箱がある。

尊像を描く5枚(※中央に冨士浅間大菩薩を配して左に理源大師像・役行者像。右に不動明王像・中央に雨宝童子像を配置した三神像)の掛軸である。

文字は小さくて判読できないが、冨士浅間大菩薩の掛図下部に「内八界」の文字があるそうだ。

なかには富士五湖の“あまみ湖”、“四(し)びれ湖”、“すご湖”もあると解説くださる。

掛軸を丸めて納める軸箱は別途にある展示物。

それら道具を一切合切納める木箱は背負子で背負って運ぶ。

場に着けばそこで組み立てて設営する。

幅は210cmの高さが92cmにもおよぶ祭壇の厚みは20cm。

組み立てたら大きくなるが、道具箱に収めばそれほど感じない。



ポスターにその様子を撮った映像がある。

屏風、鳥居、尊像掛軸を配置した舞台の下にあるのが道具箱収めの木箱である。

道具、木箱も含めて傷痕が見える。

移動中にどこかとぶつかった痕跡であろう。

その色具合からいっても相当古い代物。

資料では江戸時代とある。

他に付属一式として瑞垣、薦(こも)、経文、御幣、提灯、三鈷鈴、錫杖、木札がある。

掛軸を吊るす主たる祭壇は富士講の営みであっても山上講の営みであってもまったく同じ。

異なるのは提灯に書かれた講名である。

実は反転すれば「富士本講」と「大峯山上」に入れ替わるのである。

つまり、大峯山上講の母体講中から富士講もできたというわけである。

もう一つの特徴は施主名がある瓦町の人たちだけでなく、近隣の東城戸町や柳町の人の講員も居たということだ。

富士宮、村山の地が登山口。

享保年間(1716~)と推定される江戸時代。

村山口に三つの坊があった。

それがわかったのは数える木札であった。

念仏経文に般若心経を唱えること10回をあげたことなど教えてくださる。

お話しする機会が設けられたので、こういうモノを作っていると見せてくれたダンボール紙で製作しミニチュア版の祭壇。



縮小サイズは1/8。

忠実に計測して原型作り。

色も縫ってそれらしくなった鳥居。

薦にあたるモノは市販品の簾を利用したもの。

5幅掛軸はそれらしく描く時間は確保できない。

こればっかりは写真で撮って切り貼りだ。

精巧に作られた祭壇に惚れ惚れする。

ちなみに展示解説板書に書いてあった富士講。

「南都では、富士登拝のかわりに在所の川に入って入水。身を清める垢離を行う富士垢離が行われていた」。

奈良町では「毎年六月に吉城川入って富士講中が垢離をしていたという記録がある」とあった。

奈良県内の事例は多くもないが各地に富士講、或いは浅間講があったことは知られている。

なかでも、今尚、入水して身を清める垢離をしている地域がある。

電話をしてくれた写真家Kさんとともに取材した奈良市上深川町・富士講の富士垢離、奈良市柳生町柳生下町の土用垢離、奈良市阪原町・富士講の富士垢離がある。

ちなみに旧月ケ瀬村の石打に古文書があるようだ。

その古文書には講中の行き先、つまり行程が書かれているというからどこをどう巡って富士の山に参拝したのかわかる文書。

価値のある記録書でもある。

阪原町の富士講は祭る石で造られた山の形がある。

それが富士の山。

講中が崇める富士の山であることもわかったというから、えー取材をしたと思っている。

もう一つの展示物品は内侍原町自治会が所有していた春日信仰の春日永代太々神楽講。

寄託した展示物は『春日永代神楽記(諸事記録控書)』ならびに『春日社永代太々寄進集帳』。

もう一点は観音信仰の観音講。

井上町が寄託した史料は『町中年代記』。

毎月17日が観音さんの縁日。

その日に井上町の観音講の営みをしているとあった。

そのことについては今もなおされている女性ばかりで構成される観音講の営み。

西国三十三番のご詠歌は井上町会所で午後にしているようだ。

また、廻り地蔵の習俗もあったそうだ。

高齢者による営みは6月末とか・・。

詳しいことは井上町を訪ねるしかないだろう。

ところで拝見中に館内を移動する男性と目が合った。

民俗行事に詳しい専門家の奈良市教育委員会のⅠさんに出合った。

お久しぶりに合わす顔に私の身体のことを気にかけておられた。

なんとか取材もできるようになってもうすぐ取材数も1800件に届くようです、といえば、2000件に到達したらお祝しようかと返してくださった。

あと何年かかるかもしれない民俗行事。

70歳になるまでに納めてみたい、と思った。

実際に1800件超えした行事はこの年の7月23日に取材した奈良市古市町の北の地蔵さんだ。

今回の展示はガラス張りコーナーだけでなく写真パネル展示もある。

それに載せていたのは富士講や山上講の石碑である。

天保六年(1835)建之の富士講石碑は西木辻町。

同じ場にもう一つの石碑は慶応元年(1865)の山上講石碑である。

その石碑について館長が解説してくださっているときに同じ場で聞いていた高齢のご夫妻がこういった。

夫妻が住む地域は京終(きょうばて)との境地。

県外から引っ越しされたような口ぶりであるが、中町聖天堂の裏手稲荷社に祭礼があると話してくれた。

夫妻がいうには5月5日。

稲荷社であれば5月5日ではなく二ノ午祭のように思える。

ご認識と思うのだが、実際は現地で尋ねてみたい行事でもある。

また、7月23日は八軒町地蔵堂に数珠繰りのある地蔵盆も興味がある。

(H29. 5.30 SB932SH撮影)

マルちゃんのやみつき旨辛辛黒富山ブラック風焼きそば

2018年06月27日 09時52分42秒 | あれこれインスタント
5月3日、ザ・ビッグエクストラ天理店で買ったマルちゃんのやみつき旨辛辛黒富山ブラック風焼きそば。

税込104円で打っていた。

物は試しと思って買ったわけではない。

食べてみたくなったから買ったのだ。

富山ブラックらーめんがいつから有名になったのかは知らないが、あの真っ黒けのスープは何なんだと思ったことがある。

BS放送のテレビが映し出す旅番組でタレントが食べたーいと叫んでいた。

希望が叶って最後の弟子さんが営んでいるお店を見つけた。

店主の話しを伺って現在に至るまでの先代の大喜師匠の苦労などを伝えていた。

そして真っ黒けのらーめん喰い。

ますはスープを口にしたとたんにしょっぱーいっ、である。

醤油味だがこってりでもなくあっさりしていると云っていた。

何が特徴なのか色具合でわかる富山ブラックらーめん。

若者に安く、そしてたくさん食べてもらえたらとチャーシューの量がすごい。

これも先代の心遣い。

味を継いできた店主が営むお店は喜八。

飛び入りであったが取材許可をもらって食べていた。

このらーめんであるのか知らないが巷に登場しているらーめん店は遠隔地。

食べたくとも無理がある。

そのらーめんが袋麺やカップ麺になって売り出すようになった。

袋麺は寿がきや。

カップ麺は袋麺同様に寿がきもあればニュータッチにヤマダイがあるらしい。

どこで売っていたかは覚えてないが特売にでていたある会社の富山ブラックらーめん。

商品に書いてある塩分含油量を見てがっくりする。

たしかな記憶でないが、7g以上だったように思える。

そりゃないだろう、である。

心臓病患者に相応しくない含有量では手を出せない。

もっとも健康な人でも一日の塩分摂取量は8gである。

朝に夜に食べられるものは限られてくるどころか、食事を摂ることさえ無理な塩分含有量である。

その点、焼きそば類であればぐっと下がって4g前後。

或はそれ以下である。

たまたま昼食に選んだスーパーがザ・ビッグエクストラ天理店。

その日の昼食はうどんチェーン店である。

スーパーに入ればなにかめぼしいものがあるのか、ないのか、ひと通り巡ってみる習慣がある。

そこで見た山盛り特売。

売っていたのがマルちゃんのやみつき旨辛・辛黒富山ブラック風焼きそばだった。

ブラックそのものではなくあくまで「ブラック風」である。

本物ではないが食べたくなったこの焼きそばの塩分摂取量は4.1gである。

これなら安心して食べられる。

そう思って買い置きしておいた。

かやくを投入してお湯注ぎ。

録画テレビを見ながら待つこと4分間。



お湯を捨てて液体ソースに粉末ソースを振りかける。

尤も液体ソースの場合は振りかけるではなく搾り出すであるが。

液体スープが味の中心部。

粉は香りでわかった香辛料は黒胡椒。

混ぜたら良い色具合。



たいがいのカップ焼きそばは粉であろうが、液体であろうが、こんなに色黒くはならない。

黒の味はどんなんだ。

一口食べてフアンになった。

これほど美味い焼きそばはない。

醤油ぽくもないソースというか出汁とも思える濃い味は魅力的。

ちっちゃくて細いメンマが歯にガツガツくいこんでくる。

直径が5mm前後のなるとはやや太麺のもちもち食感のブラック風焼きそばに埋もれてどこへいったのだろうか。

青ネギは入っているらしいとしか言いようがない。

溶けたのか、それとも黒に紛れてしまったのか・・・。

ただ、メンマも含めてこれが中国産だったとは、あとで知るのだが。

商品に「辛黒」とあるが、辛さはあまり感じない。

独特の風味の方が勝っているからなのか、辛みはまったく感じない。

メーカーが云う辛さはもしかとしたら黒胡椒であるのか。

ただ、やみつきになるのは間違いなしの焼きそばである。

(H29. 5.28 SB932SH撮影)

和爾町営農組合のカルパー籾種播種散布作業

2018年06月26日 09時00分53秒 | 民俗あれこれ(四季耕作編)
前日は大雨で中止された和爾町営農組合のカルパー籾種播種散布作業にようやく出会えた。

昔ながらの直播きでなく、動力散布機による現代的農法による播種作業である。

動力散布機の本体重量は12.8kg。



背中で担ぐ散布機に先日に作業されたカルパー粒剤の重さが加わる。

腰を上げて、さぁ出動。

散布機に付属する排出ホースを手にして水田周りの畦に入る。

畦を歩きながらホースを田に向けて籾種を飛ばす。



まさに飛ばすという表現よりも消防ホースを抱えて水を撒くような感じである。

市の施設管理のために消防訓練を受けたことがある。

そのときの実感は今でも忘れない。

消防水がホースより排出されるパワーが凄いのである。

排出される水の勢いに抱え構えた手と腕が弾かれ振り回されそうになった。

勢いに驚いてホースを抱える手を離したらとんでもないことになってしまう。

腰を落としてガッチリ構えて排出する。

そのときの記憶を思い出した。

装着した恰好を見て、失礼ながらもう一つの光景を思い出した。

それは映画ゴーストバスターズに登場する主役の恰好である。

映画の放射筒は短いが恰好は同じようなものだ。

播種に放出されるのは籾種だがゴーストバスターズは炎。

大きな違いはあるが、思い出した映像はミュージック付きだった。

畦からカルパー粒剤を撒いていく組合員。

畦近いところも中心部も撒く作業に慣れがいる。

直播きはまんべんなく撒かないといけない。

偏ってもいけないし、空白ができても・・。

散布機の排出量は器械にあるレバーでその加減を制御する。

排出圧力を制御するスロットルレバーを左手で閉じたり開けたりするかは操作する人の経験値。

上手い、下手は芽出ししたときの状況でわかるそうだ。

特に、であるが、初心者は散布する籾種がどこに飛んでいるのか見えない。

そういう場合はどうしても散布量が増えて、ある処ではついついレバーを開け過ぎて籾種だらけになるし、ある処は空白ということだ。

畦を歩きながら放出する播種は2周する。

作業を観察しているとホースは左右に振るだけでなく大きく傾ける場合もある。

それは遠くへ飛ばす方法だ。

田んぼの中心部辺りは相当の傾きをかけないと真ん中まで届かず、空白地帯になるらしい。



2周して戻ってきた組合員が云った。

レバーを操作しても排出量が少ない。

投入したカルパー粒剤はまだ残っているという。

調べてみれば原因がわかった。

投入した蓋があんばいと締まっていなかったのだ。

無理にねじ込んだ蓋の溝部分に隙間があった。

そこから「圧」が抜けて散布量が少なかったということだった。



カルパー粒剤とともに投入するのは除草剤に肥料もある。

そうすること合計は30kgにもなるというから相当な荷重が背中にかかっているわけだ。

「けっこー重たいんやで」と云った言葉が作業の大変さを伺える。

畦を歩くのも不安定な重さ。

2時間かけて7~8枚程度の直販作業は足腰がしっかりしないといけないが、作業している組合員のほとんどが和爾町の長老二十人衆。

高齢者にはこの重さが身体に堪えると云っていたのがよくわかる。

若いころに日本アルプスの白馬岳に登ったことがある。

二十歳代のころだから今よりは体力がある。

山岳部ではないからザックに詰めた荷物はたいしたものもなく重さは控えめ。

できるだけ軽量と考えて無駄をそぎ落とした30kg。

当時はカメラなんてものはまったく興味はなく、カセットデンスケの音声撮りだけは持参した。

ソニー製の初代カセットデンスケのTC-2850SDがある。

出番がなくなったTC-2850SDカセットデンスケは、今でも我が家の天井裏倉庫で眠っている。

機器の重さは5.4kgもあった。

数本のマイクロフォンに単一乾電池4本などの重さを加えたらそれだけでも肩に食い込む。

尤も白馬岳に持ち込んだのはやや小型軽量化した後継機種のTC-2220だった。

重さは乾電池含みの3.2kg。

2kgの差は大きかったことを覚えている。

あるブロガーさんはプロ仕様から民生用も一覧で紹介している。

懐かしいデンスケにうっとりしてしまう。

余談はさておき、話題は本題の直播きに戻す。

3周目を周回して戻ってきた組合員。

水抜きした田にそれぞれの方向からきた二本の筋が見える。

左は向こうの方から引いた。

手前はわかりにくいが、右側からだ。

直角に二本の二筋に斜めの筋。

いずれも左角にある田の排水口に集めている線引きである。

これは、いったい何であるのか・・。



隣の田で作業していた状況を観察してなるほど、と思った。

これは水抜きの導き筋である。

トラクターの後方にアタッチメントされた農具は特別注文。

特別だけに値段も特別の二桁の万単位。

営農組合の願いは負荷をかけず、効率的に水田に溝を切ることである。



これまでは人力だった。

鍬を持って一筋ずつ溝作り。

当然ながら長靴は泥田に沈んでいく。

泥田から足を抜くには身動き取れない。

動きにくいし、位置した場で鍬を入れて溝を切るのも体力が要る。

少しずつしか進めない。

何人もの人がそれぞれ分散して溝を切っていくが・・・これをなんとかしたい。

願いを叶えてくれた器具屋さんは手作りで仕上げた。

三角の溝切りは鉄製。



フインというか、トラクターの動きに合わせて左右自在に動く。

溝切りの幅は実測していないが、営農組合の要望通りの動きをしてくれる。



僅か数分で溝切は終えたが、排水口はもう少し幅を広げる。

人海戦術はここだけになったが、全体に対する負担はなくなった。



今年はほんま、ラクになったと皆が云う。

ちなみに蓋締めもきちんとした背負型動力散粒機はKioRiTZ(共立)のネーム入り。

㈱やまびこ製のDMC600若しくはDMC601。



散布する勢いが手に取るように見てとれる。

籾種を排出するホースの先端がスゴイ。



噴き出すと同時に煙のような噴霧状態。

塗布というか、籾種に衣付けしたカルパー粒剤が飛び散っているのである。



泥田に直接あたる籾種がバシバシ。

土砂降りに雨が降ったような跳ね返り



それでわかる勢い。

直播きの具合もさきほどとはえらい違い、である。

ベテランの3人目が登場する動力型散粒機の作業者。



そのころ丁度に隣の泥田で溝切するトラクターが現われる。

散粒機作業者と溝切が交差する間合いを見計らってシャッターを押す。

そろそろ本日の作業も半分が済んだ。

朝から始まってたったの30分。



後半も休憩なしに次の田にトラクターを移動して作業を続行。

その田の畔に咲いていたピンク色の花。

名前もしらない野草は和種でもないような・・・。

これってユウゲショウ?

それともヒルザキツキミソウ?

投稿したFBの画像から判断して自宅の庭にも咲いているとコメントしてくださった花の名前はアカバナユウゲショウ。



たぶん、そう、思うが、アカバナユウゲショウは四枚花弁。

私がこの場で拝見したアカバナユウゲショウは五枚。

その下のほうはなんとなく四枚花弁のように見える。

違いがあるのか、ないのか。

それともこれが変異花・・・。

写真で同定してくれたFB知人のらもさんの庭にも五枚花弁があるというから、何割かがそういう具合に芽出るのであろう。

和爾町営農組合の播種日程は5月24日から始まって29日まで。

本来なら28日で終える計画だったが、25日は土砂降りで中止した関係で一日分の遅れ。

何日か経てば水面下の泥田の中で根が出て芽も出る。

ぐんぐん伸びてやがては発芽した芽も水中から顔を出す。

日々の発芽状況を見ているわけにはいかないが、適度なときに見てくれたらよくわかると云われて、立ち寄る。

立ち寄る日は特別な日でもなく、行けたらの話しである。

和爾町営農組合の圃場を通り抜ける農道は車の往来が激しい。

特に朝、夕は道路を渡るにもひと苦労すると話していた農道はしょっちゅう利用している。

天理市の福住、旧都祁村、山添村へ行くには天理東ICから入って名阪国道を利用する。

針ICから北にも南にも。

五ケ谷ICからは旧五ケ谷村の各村の取材に行く場合もある。

その際に必ずといっていいほど利用する和爾町の農道。



県営圃場整備事業が竣工した記念碑がある。

起工は平成8年4月。

竣工は平成19年3月。

11年間もの工事を経て完成したときに建てたのが後方に見える和爾営農組合ライスセンターである。

完成してから十年間。

無料で通らせてもらっているだけに感謝しなければ・・・。

※農林水産省・北陸農政局が近隣で行われている直播き事例の紹介

(H29. 5.26 EOS40D撮影)
(H29. 5.26 SB932SH撮影)

窪之庄・幌を外した苗代田に立てるお札

2018年06月25日 09時21分29秒 | 奈良市へ
今年の5月4日も気になって立ち寄ったが、苗代田はあるもののごーさん札もイロバナもなかった奈良市窪之庄町の田んぼ。

たまたまの機会に田主から不要になったお札を貰ったことがある。

お札は三つの朱印を押した「牛王 八阪神社 宝印」である。

版木刷りではなく墨書である。

そのお札はイチジクの枝木に挿す。

その名は「ゴボウサン」だった。

昨年の11月8日、天理市楢町の興願寺で十夜の法会があった。

そこに来られていた4人の檀家は窪之庄の人だった。

神社行事が廃れてしまって何もかもなくなったと話していた。

苗代に立てるお札もないような言い方だった。

その件は数年前に訪れた田主から聞いていた。

神社に行ってもトーヤが納める御幣も昔のまんまに放置していた。

もうすることはないだろう、と諦めていた。

もしかとすればと思ってその日に取材する目的地コースを外して苗代田に向けてハンドルを切った。

4日は白い幌がかかっていた。

それから20日間は育苗。

気温が上がれば風通しする。

その状態を撮っておこうと車を停めたら、あった。



それで思い出した田主のお札立て時期。

初めて見つけた平成22年は5月16日だった。

その2年後の平成24年は6月5日であるが、田植えの真っ最中だった。

そのときに聞いた田主は苗代田をしてもついつい忘れてしまって、後日になってしまうと話していた。

その翌年の平成25年にお会いした時も苗代にお札は・・と聞けば、忘れていたであった。

その後もお会いしたが神社行事を続けていくことが難しくなってきたと云っていた。

心配はしていたが、平成28年に訪れた5月21日はあった。

今回も発見したのは5月半ばも過ぎたほぼ月末。

田植え前に気がついて立てているのだろう。

その田んぼ。

6月4日に通りがかったら水溜していた。

そろそろ始まる予感がする。

(H29. 5.26 EOS40D撮影)

我が家のセッコク・天紫晃

2018年06月24日 07時26分45秒 | 我が家の花
蕾状態は完ぺきに逃していた。

突然のごとく開花したセッコクはラベル有り。

昨年に特定できセッコクの品種は「天紫晃(てんしこう)」。

口紅シランとまではいかないが、薄紅色が混ざっている。

花びらにある薄紅色。

じっと見ていると可愛いものだ。



そうかといえば5月19日に開花した天紫晃はまるでダルマ目のデンドロビウム。

花びらの形がまったく違うからデンドロビウムでないことに気がつく。



これも雨に打たれてうな垂れる。

全開花してから6日前の25日である。



それも翌日の快晴になれば、再び美しい姿を見せてくれる。

(H29. 5.18、19、25、26 EOS40D撮影)

我が家のデンドロビウム

2018年06月23日 09時03分08秒 | 我が家の花
これほど頭を下げるセッコクは我が家にいない。

ただ、見た目ではロケットというか軸はまさにセッコク。

蕾をつけてきたから様子を撮っておこう。

いずれは花芽がはっきりするだろう。



それがわかったのは10日過ぎの5月25日。

降った雨に打たれてさらに頭を下げていた花は一目でわかる。

ダルマの目をしたデンドロビウムだ。



なぜにここにダルマ目のデンドロビウムがあるのか。

種が飛んだのか、それとも株が勝手に分かれてここまでハイハイしてきたのか。

22日に撮った親元のデンドロビウムは何も語ってくれない。

(H29. 5.12、22、25 EOS40D撮影)

和爾町・雨の日の田の水抜き

2018年06月22日 09時33分56秒 | 民俗あれこれ(四季耕作編)
カルパー粒剤衣付け作業を終えた翌日から毎日は圃場の水抜き状態を確認する。

24日、25日は播種をするからと云っていたが、25日は大雨状態になった。

和爾町営農組合長の決断に朝一番の中止命令が下った。

指定された時間に間に合うように車を走らせていたが、もうすぐというところで電話が鳴った。

本日は播種作業ができる状態ではないということで中止の連絡だった。

中止であっても敢えて向かう圃場である。

待っていてくれたのはカルガモくんだった。

この日の雨はざんざか降り。

車から降りて状態を撮るが、ちょっとした時間であってもびしょ濡れになる。

直播き枚数は圃場全体のおよそ半分。

67枚中の30枚に水を張っていた。

播種は24日から28日までの毎日作業の予定であったが、一日遅れで終わることになる。

昨日は数枚で終えたが、予定していた水抜きどころではない。



田から水を抜く溝に降った雨が吸い込まれていく。

隣の田には抜けた雨水が勢いよく流れ落ちる。



昨日に播種をした田から籾種が流れていくのか、それとも沈殿したままなのか、観察のしようがない雨天日である。

和爾町の営農組合は自前のライスセンターを設けている。

そこよりほど近い処には立派な建物がある。



農小屋の表現が似合わないぐらいの立派な建物横に苗代があった。

前々から気になっていた場所である。

車を横付けして窓越しに覗いてみた苗代田に茶色いものが見える。

枯れた松葉である。

ここにもあった和爾坐赤坂比古神社の御田植祭でたばった松苗。

組合員でもない人かもしれないが、ここで苗代を作って松苗を立てていたことを知るのである。



その場からの反対側は幌をかけない苗代田だった。

水口は手前であるから探してみるが、松苗は見られなかった。

(H29. 5.25 EOS40D撮影)

和爾町営農組合の籾種カルパーコーティング作業

2018年06月21日 08時14分16秒 | 民俗あれこれ(四季耕作編)
天理市和爾町に3月行事がある。

和爾坐赤坂比古神社で行われた御田植祭に集まる高齢者集団の二十人衆。

うち十五人衆のKさんがひとこと伝えられた言葉である。

5月半ばころに直播きをするというのだ。

県内事例に直播きを見ることはまずない。

かつては苗代にモミダネ(籾種)を蒔いて苗を育てたという人もいたが、高齢者だった。

何人かが話してくれた直播きはずいぶん前に途絶えた。

山間部に住む男性たちはかつてしていた農法を話してくれたこともあるが、実際はどのような方法でしていたかは想像するしかない。

何年か前に拝見した直播きは天理市南六条に住むご夫婦だった。

FBやブログでその在り方を紹介したが、営農組合の方法では、まったく違うらしい。

取材させていただけないかとお願いしていたら5月8日に電話があった。

直播き工法は和爾町の営農組合が主導的にしているという。

蒔く籾種はカルパーという方法で籾にコーティングをする。

金平糖を作るようなぐるぐる回転する機械でコーテイングする手法は平成15年から始めたという。

同時並行的に営農組合ライスセンター付近の圃場で代掻きをする。

数日経ってから背負った機械にコーテイングした籾種を水田に蒔く。

そんなんでえーんやったら見に来られますか、ということだった。

現代の直播き工法をみることはまずない。

機会お与えてくださった十五老のKさんに感謝する。

教えてもらっていたこの日に営農組合ライスセンターを訪れた。

営農組合の組合員は60人ほど。

12~13人が集まって毎日の作業をしている。

金平糖を作るような、イメージしていた通りの機械が回転するが、どちらかといえば、昔しによく見たセメントコネコネのセメントミキサー車の構造を思い出した。

JAから直買いした籾種1袋をカルパー粒剤でコーテイングする。

水道水の水をバケツで汲み上げる。

自動的に水分量を計測してくれるコーテイング機械。

籾種の一粒、一粒を綺麗にコーテイングする。

かつてはハンドルを手で回す手動式だった。

つい最近まではそうしてきたが、今は平成22年に導入した電動式自動回転式粉衣装置(ヤンマー自動コーテイングマシンYCT20)でコーテイングする。

消毒薬も注入して、カルパー粒剤と同時に籾種を消毒する。

保土谷化学工業製造のカルパー粒剤(※登録商標)は籾を蒔いた水田の土壌中で徐々に分解されて酸素を発生させるようだ。

蒔いた籾種は軽くて浮いてはなんにもならん。

逆に重すぎてもいかんらしい。

重さが重要なポイントである。

あるメーカーでは鉄分を付与することで加減しているらしい。

らしい、らしい、としか言いようのない始めて聞く農法に興味津々であるが、化学的な理解はまったくわからないが、粒剤メーカーの謳い文句に「本剤を種籾に粉衣して播種すると、土壌中で徐々に酸素を放出し、発芽中の種子に酸素を供給することにより直播水稲の発芽率を向上させ、苗立歩合の安定化に有効である」と書いてあった。

始めたころの直播(ちょくはん)農法は鉄で絡めていた。

ところが重さで埋まりすぎて芽が出なかった。

7年間も試行錯誤していた直販農法。

ようやく定着したのは今から7年前。

代掻きと並行する作業に、明日の夕方には田圃の水を抜くと話す。

十五老のKさんが補足される直播農法にドタ(泥田)の種撒きがあるという。

なんでも福岡式と云われるドロダンゴ投入方式。

山間では田圃の形が一定でなく、田も小さい。

畦から捕植する落下傘式だと話されるがリアルな像が浮かばない。

そのような話しをしてくださったKさんが東の方にある山を指さした。

その山は小山であるが、山の名は天神山。

今年も御田植祭をした和爾坐赤坂比古神社が鎮座していた旧社地になるという。

戦後間もない昭和23年。

戦争を終えた村の人らが外地から戻ってほどないころの時代である。

そのころまでしていた雨乞い。

天神山下にある池堤に村の人が集まっていた。

神職に頼んで雨乞い祈願をしていたという情景は、昭和13年生まれの78歳になったKさんが子どものころの記憶である。

また、営農組合は土地改良区・営農課組織から発展して今に至るという。

計画的に前もって作業日程を構築しておくと、組合長が話す。

5月初めの草刈りから始まった直播き農法は7日から3日間は畦塗り。

中旬には肥料配布に耕起して水入れ。

荒マンガを経てまたもや水入れ。

それから数日経ったころにカルパー粒剤作業である。

1袋が3kgのヒノヒカリ籾種に対して1袋が3kgのカルパー粒剤が2袋。

カルパー粒剤をコーテイングしたら実質は2.2kgになるという。

撒きすぎては籾種が密集してしまうので難しいところでもある。

その量で10反分を賄う。

籾種と粒剤の分量決めは、圃場の田一枚、一枚の面積を計算されて、それに見合う籾種量を決める。

つまりは一枚の水田に蒔く籾種量である。

歩合計算はロスなどこれまでの実績を加味して決められる。

一枚分の量が決まれば、それに見合うカルパー粒剤の量が決まる。

なんでも計算した上で作業量も決まるのだ。

その後の作業日程も計画されている。

代掻きに水抜き。

代掻きに播種。

代掻きに水抜き。

播種に代掻きに水抜き。

24日から始める直播きは28日までの毎日である。

そうしておけば6月のはじめぐらいには芽が出る。

また、奈良県の特産品を紹介してもらって栽培しているマコモダケもある。

マコモダケの生産はここ天理市と奈良市の阪原だけのようだ。

マコモダケは6月に苗を植えて、10月には収穫できるという。



ぐるぐる回転する処理状況はドアを閉めて行われる。

粒剤を混ぜる作業には注意事項がある。



粒剤は混ぜるときに粉となって飛び散る。

粉末は目に対して刺激性がある。

動作中は蓋をするのは当然であるが、直接的に作業する人は保護メガネやマスク着用を要する。

実は1回目のカルパー粒剤作業に誤りがあった。

粒剤の量に合わせて水の量も決めなければならない。

原因は水の量ではなく、投入したカルパー粒剤の量に軽量誤りがあった。

どうも、水分量を操作するレバー値がずれていたようだが、この状態であっても十分に使える。



そのために水分を多く含んでしまった籾種を乾かすために筵に広げた。



日が当たるうちに乾いていく。



干してから40分後には黒から白色に色具合が変化しはじめた。

この日はカルパー粒剤の作業と並行的に代掻きもする。



あっちの圃場、こっちの圃場と動き回って代掻きをする。



代掻きはこの日だけでなく、明日も、明後日も・・・。



こういった作業は6人の組合員でしている。

尤も和爾町営農組合は60人も所属しているが、実際に作業できる人は限られている。

うち二人は代掻き名人。

この日含めて6日間の毎日に出動する。



一回あたりのカルパー粒剤の衣付け作業はだいたいが30分程度。

一回ずつの回転はおよそ20分。



前後に投入や排出。

そして袋詰め。



午後も引き続きしているというが、午前中までしかお付き合いできない。

まだまだある準備済の袋を見てこの日は何袋するのだろうか。



午後いっぱいまでかかりそうだと話していた。

営農組合ライスセンター内に機械がある。



播種の前に行うべき作業が溝掘り。

車高が高い大きな車輪のある機械の後方に取り付けるアタッチメントが溝掘り道具。



水掻きというか、鋤簾の小型判に動力散布機もある。

明日の作業の出番待ち。

ところで、この日の作業におられた組合員が私に声をかけた。

その男性は、大和郡山市の矢田山ある場所でしていた水質調査の池にニッポンパラタナゴがいたと、話す。

そこから話題が広がって大和郡山市の少年自然の家の主催事業に観察指導員をしていたとも。

お名前を聞けば、Mさん。

なんと云十年ぶりの再会に驚きだった。

専門の水質関係の動植物観察なら任せてくださいと伝えられたが、観察・調査はボランテイア活動をされていないように感じた。

(H29. 5.22 EOS40D撮影)