わたしの写真のお仲間では、自然の景物を写真にしている人が圧倒的な数にのぼる。
アマチュアは花や、名勝地の写真を撮りたがる・・・と昔から、相場が決まっている。
わたしが写真をはじめた70年代初頭から、現代にいたるまで。
大きく高価な一眼レフをもってうろうろしていても、人の不審をかうことはないし、
写真にたいして関心がないような人に見せても「まあ、きれいねぇ」とほめてもらえる。
ポストカードっぽい写真に執念を燃やしているような方々もずいぶんいる。
アマチュアでシリアスな写真、ドキュメンタリー写真、コンテポラリー写真をやっている人は極めてまれ。モノクロとなると、さらに数がへる。
ところで、マイミクにpita~☆さんがいる。
わたしはこの方の写真が、以前から気になっていた。
pita~☆さんの写真の魅力を、独断と偏見で少し論じてみたいと思っていたが、非才ゆえアプローチの仕方がわからず、その魅力の核心をつかまえられないでいた。いまでもそうなのだが、いくらか書けそうなので書いておこう。
ここに引用させていただいた2枚を見て、どう感じるだろう。
彼女の写真の多くは、並みの“ネイチャーフォト”(ちょっといやなことばだが)と微妙に、ときに大きく違う。
わたしが見るところ、彼女の真骨頂、・・・その中心には、水辺写真がある。
これはおそらく、類い希な資質ではないだろうか?
感受性の在処が、型にはまっていないのである。
フレーミングはあまり厳密ではない。場合によっては無造作といっていいほど(・・・とわたしには見える)。
上下左右に眼を走らせると、いわば「遊びの空間」のようなものを指摘できるのだけれど、むろんそこがいいのである。
虚心にものを見る。
・・・というと、禅宗の坊さんか茶人のいい草に聞こえるだろうか?
ほとんどものを知らないというのは、決して悪いことではない。
以前は絵を描いていたとおっしゃっているので、持って生まれた天性だけで撮っているのではない。しかし、pita~☆さんほど虚心に・・・ということばが似つかわしい人は、そう多くない。よくぶつかるのは、「いいんだけれど、作為が目立ちすぎて鼻につく」というケース。
わたしくらいのベテランともなると、撮影の何パーセントかは、その種の作為との闘いかも(^^;)
わたしの友人でまことに博覧強記。なんでも知っているような人物がいるけれど、
1時間も話していると、だんだん退屈してしまう。俗にいうマップラバーなので、彼の頭の中は、公式だらけ。本やマスコミから仕入れた最新の正確な地図の中に、すぐにあてはめて、どこかで聞いたようなことばかりをいうのである。わたしにもそういう傾向がややあるから、これは自戒の意味をこめて書いておこう。
「知っている」というのは、学校の教師やジャーナリストは別として、小説家や写真家にとっては、しばしば邪魔なものとなる。
つまらないコンセプトで外界を「あるべき姿」として概念的に切りきざむのではなく、
まず「そこにあるもの」を、個々にしっかりと見て、受容する態度のことである。
つぎの2枚は、わたしが愛してやまない作品。
水の変幻である。モネの絵を思い浮かべる人もいるだろう。
こういう被写体にふっとカメラを向けて、シャッターを押す。
水の音、風の香り。
そばでその撮影ぶりを見ていたら、彼女の体が半透明に透き通って、水や風に溶けこんでいるのがわかるだろう。むろん比喩的な意味で。
写真は、撮影者の身体性と不可分なものである。
またpita~☆さんの繊細さ、あるいは美意識といったようなものは、つぎの一枚によくあらわれている。
光と影のあわいにひそむ小さな美のドラマ。
見ようとしなければ、決して見えてはこない光景である。
さらに“すごい”“綺麗”“いいなあ”といった褒めことばではとらえきれない、視線のバランス感覚。テクニシャンなのかもしれないが、テクニックで撮っているというより、いわばこころで撮っているとおもえるような作品に眼がとまる。
これは人には教えることができない、彼女だけに備わった、固有の能力ではあるまいか。
自由でのびのびとものを見て、受け容れ感じる能力。それがそのまま写真に反映し、「pita~☆さんの世界」を形づくっていく。ここに引用した数枚では不十分だけれど、50枚、100枚と見ていくと、サインなどなくても、彼女の写真だというのが、否応なしに理解できる。本物のフォトグラファーである証拠だと、わたしにはおもえる。
※写真はいずれもpita~☆さんの写真です。
彼女の承諾をいただき、ここに掲載しています。
アマチュアは花や、名勝地の写真を撮りたがる・・・と昔から、相場が決まっている。
わたしが写真をはじめた70年代初頭から、現代にいたるまで。
大きく高価な一眼レフをもってうろうろしていても、人の不審をかうことはないし、
写真にたいして関心がないような人に見せても「まあ、きれいねぇ」とほめてもらえる。
ポストカードっぽい写真に執念を燃やしているような方々もずいぶんいる。
アマチュアでシリアスな写真、ドキュメンタリー写真、コンテポラリー写真をやっている人は極めてまれ。モノクロとなると、さらに数がへる。
ところで、マイミクにpita~☆さんがいる。
わたしはこの方の写真が、以前から気になっていた。
pita~☆さんの写真の魅力を、独断と偏見で少し論じてみたいと思っていたが、非才ゆえアプローチの仕方がわからず、その魅力の核心をつかまえられないでいた。いまでもそうなのだが、いくらか書けそうなので書いておこう。
ここに引用させていただいた2枚を見て、どう感じるだろう。
彼女の写真の多くは、並みの“ネイチャーフォト”(ちょっといやなことばだが)と微妙に、ときに大きく違う。
わたしが見るところ、彼女の真骨頂、・・・その中心には、水辺写真がある。
これはおそらく、類い希な資質ではないだろうか?
感受性の在処が、型にはまっていないのである。
フレーミングはあまり厳密ではない。場合によっては無造作といっていいほど(・・・とわたしには見える)。
上下左右に眼を走らせると、いわば「遊びの空間」のようなものを指摘できるのだけれど、むろんそこがいいのである。
虚心にものを見る。
・・・というと、禅宗の坊さんか茶人のいい草に聞こえるだろうか?
ほとんどものを知らないというのは、決して悪いことではない。
以前は絵を描いていたとおっしゃっているので、持って生まれた天性だけで撮っているのではない。しかし、pita~☆さんほど虚心に・・・ということばが似つかわしい人は、そう多くない。よくぶつかるのは、「いいんだけれど、作為が目立ちすぎて鼻につく」というケース。
わたしくらいのベテランともなると、撮影の何パーセントかは、その種の作為との闘いかも(^^;)
わたしの友人でまことに博覧強記。なんでも知っているような人物がいるけれど、
1時間も話していると、だんだん退屈してしまう。俗にいうマップラバーなので、彼の頭の中は、公式だらけ。本やマスコミから仕入れた最新の正確な地図の中に、すぐにあてはめて、どこかで聞いたようなことばかりをいうのである。わたしにもそういう傾向がややあるから、これは自戒の意味をこめて書いておこう。
「知っている」というのは、学校の教師やジャーナリストは別として、小説家や写真家にとっては、しばしば邪魔なものとなる。
つまらないコンセプトで外界を「あるべき姿」として概念的に切りきざむのではなく、
まず「そこにあるもの」を、個々にしっかりと見て、受容する態度のことである。
つぎの2枚は、わたしが愛してやまない作品。
水の変幻である。モネの絵を思い浮かべる人もいるだろう。
こういう被写体にふっとカメラを向けて、シャッターを押す。
水の音、風の香り。
そばでその撮影ぶりを見ていたら、彼女の体が半透明に透き通って、水や風に溶けこんでいるのがわかるだろう。むろん比喩的な意味で。
写真は、撮影者の身体性と不可分なものである。
またpita~☆さんの繊細さ、あるいは美意識といったようなものは、つぎの一枚によくあらわれている。
光と影のあわいにひそむ小さな美のドラマ。
見ようとしなければ、決して見えてはこない光景である。
さらに“すごい”“綺麗”“いいなあ”といった褒めことばではとらえきれない、視線のバランス感覚。テクニシャンなのかもしれないが、テクニックで撮っているというより、いわばこころで撮っているとおもえるような作品に眼がとまる。
これは人には教えることができない、彼女だけに備わった、固有の能力ではあるまいか。
自由でのびのびとものを見て、受け容れ感じる能力。それがそのまま写真に反映し、「pita~☆さんの世界」を形づくっていく。ここに引用した数枚では不十分だけれど、50枚、100枚と見ていくと、サインなどなくても、彼女の写真だというのが、否応なしに理解できる。本物のフォトグラファーである証拠だと、わたしにはおもえる。
※写真はいずれもpita~☆さんの写真です。
彼女の承諾をいただき、ここに掲載しています。