わたしは数年に1回、チェーホフ熱という熱にとりつかれる。なぜかはよくわからない。このロシアの小説家、劇作家が気になって仕方なく、本を買ってきては短編などを何作か読んで、お茶をにごす・・・ようなことをしてきた。
チェーホフにはこの人特有のおもしろさ、チェーホフ的世界があるのだが、わたしにはこれまで十分捕捉しきれなかった。
どこかあまりに歯がゆいところがある。
したがって、ほぼ同じ作品を何回も読むハメになる(^^;)
それをわたしは“チェーホフ熱”と称している。44歳で結核のため倒れたこの作家から、日本文学は、いや世界文学すらも、多大な影響をこうむっている。そのことは、これまで読んできた本の、あちらにもこちらにも書かれてあった。
福田恆存に非常に鋭利な分析をふくむ「チェーホフ」(「西欧作家論」講談社所収)があり、佐々木基一に「私のチェーホフ」(講談社)がある。わが国ではじめてドストエフスキー論をまとめた小林秀雄にも、短いものではあるが個性的なチェーホフへの言及がある。
新劇界に与えた影響は「知る人ぞ知る」といっていいだろう。女優東山千栄子が主演した「桜の園」が、公演回数310という記録的なロングランをつづけたことは、わたしですら知っているし、太宰治の「斜陽」は、「桜の園」を下敷きにしないと、こまかなところが、十分見えてはこない(「桜の園」の初演は昭和2年)。
・・・というわけで発症した「チェーホフ熱」。
だが先日「桜の園」(小野理子訳 岩波文庫)を読んで、わたしは肩すかしを食らった( ・ὢ・ ) ムッ
「これがどうして名作なんだろう? そんな気配がしないではないが、うーん、よくわからん。感動しないなあ」
文庫の巻末に付せられた年譜(読める年譜である)はとても出来がいいので、精読したが・・・。
ですぐに浦雅春さんの「チェーホフ」を手にした・・・という経緯がある。
これはいままで読んだ「チェーホフ」論の白眉といっていいだろう。うん、そうか、そうなのか! わたしはしばしば膝を打った。用意周到に、慎重を期して書かれている。ロシア文学者浦さんが、ほぼ全力を出し切っているのではないか、と思われる。
第二章「サハリンへの旅」、第三章「コミュニケーションへの渇き」あたりは圧巻である。
第三章の1「ナンセンスな世界」、2「主人公の消失──『イワーノフ』から『かもめ』へ」あたりが本論の核心部。
そう・・・わたしにはチェーホフの“核心”が、これまで見えなかった。だからはぐらかされたと、つねに考えてしまったのだ。
チェーホフの悲しみ、チェーホフのナンセンス、チェーホフのユーモア。その相互関連を、浦さんはとても鮮やかに、手際よく語っている。これは説得がある!
「本当のチェーホフって、どういう人だったの?」「チェーホフ文学の核心には、何があるの?」「ここはどうして、こういうふうになってしまうの?」
いくつかの謎が(・・・わたしにとっての)氷解するような、そんな読後感がわたしを満足させてくれたのだ。
チェーホフに少しでも興味がある読者なら、十分愉しめる充実した内容を備えている。
名高い「かわいい女」に対する評釈も、価値観がひっくり返るような指摘あり、ここを読むことができただけでも、わたしは著者に感謝せずにいられない。
いまもチェーホフ熱にとりつかれているが、この熱が下がったあと、また近々チェーホフ熱に罹るのは眼に見えている(^^♪
そう、チェーホフとは一生のつきあいになるだろう。そういうわたしにとっては、最高の参考書が本書なのである、とひとまずいっておこう。
評価:☆☆☆☆☆
チェーホフにはこの人特有のおもしろさ、チェーホフ的世界があるのだが、わたしにはこれまで十分捕捉しきれなかった。
どこかあまりに歯がゆいところがある。
したがって、ほぼ同じ作品を何回も読むハメになる(^^;)
それをわたしは“チェーホフ熱”と称している。44歳で結核のため倒れたこの作家から、日本文学は、いや世界文学すらも、多大な影響をこうむっている。そのことは、これまで読んできた本の、あちらにもこちらにも書かれてあった。
福田恆存に非常に鋭利な分析をふくむ「チェーホフ」(「西欧作家論」講談社所収)があり、佐々木基一に「私のチェーホフ」(講談社)がある。わが国ではじめてドストエフスキー論をまとめた小林秀雄にも、短いものではあるが個性的なチェーホフへの言及がある。
新劇界に与えた影響は「知る人ぞ知る」といっていいだろう。女優東山千栄子が主演した「桜の園」が、公演回数310という記録的なロングランをつづけたことは、わたしですら知っているし、太宰治の「斜陽」は、「桜の園」を下敷きにしないと、こまかなところが、十分見えてはこない(「桜の園」の初演は昭和2年)。
・・・というわけで発症した「チェーホフ熱」。
だが先日「桜の園」(小野理子訳 岩波文庫)を読んで、わたしは肩すかしを食らった( ・ὢ・ ) ムッ
「これがどうして名作なんだろう? そんな気配がしないではないが、うーん、よくわからん。感動しないなあ」
文庫の巻末に付せられた年譜(読める年譜である)はとても出来がいいので、精読したが・・・。
ですぐに浦雅春さんの「チェーホフ」を手にした・・・という経緯がある。
これはいままで読んだ「チェーホフ」論の白眉といっていいだろう。うん、そうか、そうなのか! わたしはしばしば膝を打った。用意周到に、慎重を期して書かれている。ロシア文学者浦さんが、ほぼ全力を出し切っているのではないか、と思われる。
第二章「サハリンへの旅」、第三章「コミュニケーションへの渇き」あたりは圧巻である。
第三章の1「ナンセンスな世界」、2「主人公の消失──『イワーノフ』から『かもめ』へ」あたりが本論の核心部。
そう・・・わたしにはチェーホフの“核心”が、これまで見えなかった。だからはぐらかされたと、つねに考えてしまったのだ。
チェーホフの悲しみ、チェーホフのナンセンス、チェーホフのユーモア。その相互関連を、浦さんはとても鮮やかに、手際よく語っている。これは説得がある!
「本当のチェーホフって、どういう人だったの?」「チェーホフ文学の核心には、何があるの?」「ここはどうして、こういうふうになってしまうの?」
いくつかの謎が(・・・わたしにとっての)氷解するような、そんな読後感がわたしを満足させてくれたのだ。
チェーホフに少しでも興味がある読者なら、十分愉しめる充実した内容を備えている。
名高い「かわいい女」に対する評釈も、価値観がひっくり返るような指摘あり、ここを読むことができただけでも、わたしは著者に感謝せずにいられない。
いまもチェーホフ熱にとりつかれているが、この熱が下がったあと、また近々チェーホフ熱に罹るのは眼に見えている(^^♪
そう、チェーホフとは一生のつきあいになるだろう。そういうわたしにとっては、最高の参考書が本書なのである、とひとまずいっておこう。
評価:☆☆☆☆☆