二草庵摘録

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ユニークな書評が愉しい♬ ~堀江敏幸・角田光代「私的読食録」を読みはじめた

2024年07月15日 | エッセイ(国内)

■堀江敏幸・角田光代「私的読食録」(新潮文庫 令和2年刊)


晩酌しているためか、心身の老化が激しく、このところ長篇小説が読めない、という症状がつづいている。わたしの場合、62~3歳のころから、お行儀が悪いのだが、寝転がって読むことがふえてきた。
だけど長篇小説だと、寝転がってもダメ(´Д`) 体はもちろん、頭の方も、いかれかけている。そういうわけで、読める本は限定されてしまうのだ。

そういえば、先日葛西善蔵の「蠢く者」「死児を産む」のふたつを読んだが、これは両方ともすごかった。何がすごいかというと、私小説特有のリアリティである。
「死児を産む」の中で、刑務所に入っているという読者からのファンレターに対し、「まあ、ちょっと誇張があるんだけどね」・・・とつぶやいている(笑)。愛人や友人と、喧嘩三昧している日常が描かれているのだが、おせいとの痴話喧嘩は迫力満点というか、よく“殺し合い”にならなかったものである。肉と肉がぶつかりあう、激しい音がリアルに聞こえてくる。

「蠢く者」「死児を産む」の2篇は過去に読んでいる。そのときより、評価があがったなあ。かつては葛西善蔵が、十分読み込めていなかったのだ(。-ω-) 「哀しき父」「子をつれて」ははじめて読んだときから高く評価できたのにね。

はて、さて。今日は葛西の巻ではなく、堀江敏幸・角田光代の「私的読食録」の巻である。
単なる書評じゃなく、作品に登場する“食”に焦点をあてて、感想をしたためてあるところがユニークなのだ。

《たとえば、物語の中で少女が食べる「甘パン」。あるいは、殺し屋が飲む一杯の「珈琲」。小説、エッセイ、日記……と、作品に登場する様々な「食」を、二人の作家はあらゆる角度から食べ、味わい、読み尽くす。その言葉が届くとき、あなたの読書体験は、眼前の本の味は、まったく新しいものに変わる。読むことで味を知る、味を知ることで読みたくなる。すべての本好きに贈る、極上の散文集。》BOOKデータベースより

読むことで味を知る、味を知ることで読みたくなる、とあるがまったくその通り。
ところでわたしは、堀江敏幸さんも角田光代さんも、これまで読んだことがない。堀江さんはともかく、角田光代さんは、1冊の本ももっていない。
いまどきの女流など、わたしには縁がないとかんがえているのだ。無理して読んでも、腹立たしいだけ・・・という気がしている。ところが本書「私的読食録」では、どちらかといえば角田さんの方がおもしろい♬

取りあげられているのは向田邦子「父の詫び状」、内田百閒「御馳走帳」、開高健「最後の晩餐」、青山光二「妻恋いの宿」そのほか全100篇の小説・エッセイ。切り口が斬新なのだ。
“なんでもない日々が、ささやかな波乱に満ちる”の武田百合子、“五感のすべてで覚えた鮨の味”の志賀直哉、“飲食という、生のきらめき”のヘミングウェイ。
1冊あたり、3ページ弱。まだ全巻の1/3程度しか読めていないが、二人の卓越した読み巧者ぶりがつたわってくる。

《「小僧の神様」は、光景という視覚ばかりでなく、におい、舌触り、味、音と、ほとんど五感のすべてで覚えている。寿司酢の、酸っぱいのにまるいようなにおい、寿司の、ネタが舌にのるように食べるときの。ひんやりした冷たさとつるりとしたなめらかさ・・・》(79ページ)
感情移入したため、本来見えないはずのものまで見えている。角田さんの単純な錯覚ではなく、“そんな細部を書かずに見せてしまう”すごい小説であると、「小僧の神様」を称えている。

すぐれた小説家は、ある意味、小説の“読み巧者”なのである。だから100冊読んだといっても、喜びこそあれ苦痛は少しもない。「私的読食録」は、そのあたりの事情をまざまざと明かしてくれる。
「小僧の神様」志賀直哉
「鮨」岡本かの子
んん! 寿司かな、鮨かな? 

わたし的には、食べものについて書かれた小説がほかにもあったかしらね(´・ω・)? いまは思い出せないけど。
ところで「小僧寿し」チェーンはこの作品から店名を取ったといわれている。

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