里依子につられて、私は持ってきた伊藤整の詩集を取り出して開いた。そこには『忍路』と題する詩があって、私は言葉少なにその詩を里依子に見せた。
昨日忍路の話をすると、そこにはまだ行ったことがないと言い、近くにそんな素晴らしいところがあるなんて知りませんでしたと嬉しそうに応えたのだった。その彼女の声があまりに印象的であったために、私はとっさにその本を里依子に差し出したのだ。
里依子はそれを受 . . . 本文を読む
私はそんな里依子を見て、どうして彼女がこれほど私が札幌に残ることに執着したのかどうしても理解できなかった。一人で帰りたいというどんな理由があるのだろう。私は電車の中でそんなことばかり考えていた。
札幌から千歳に向かう列車の中で二人の間には重苦しい空気が流れ、互いに口を開こうとはしなかった。ただ列車だけが動いて車窓の風景が白々しく流れてゆくのだ。私は虚ろに走り過ぎる景色を見つめるばかりだった . . . 本文を読む
そんな私を前にして、里依子はやがて悲しげに私が一緒に帰ることを認めた。どうして彼女が苦しそうなのか私には理解できなかったが、しかしこのように里依子を苦しめることしかできない自分に、熱い怒りのようなものを感じないではおれなかった。
札幌の駅で預けておいた手荷物を受け取っている間に里依子は千歳までの切符を買って、それを私に渡した。その時の里依子を私はどのように表現していいのか分からない。
そ . . . 本文を読む
「私のために悪いですから、札幌の街を見て帰ってください。」
一人取り残された里依子が小走りに私を追ってきて、哀願するように言った。私はそんなことはないと言い張った。
「一緒に帰らせてください。」
私はいくらかおどけた調子で言い、そんな身振りをして見せた。それを見て里依子は笑ったが、互いの心は張り詰めるばかりだった。
「私のために悪いから・・・」
里依子は何度もそう繰り返した。
「私 . . . 本文を読む
里依子は、一緒に行きたいという私の気持ちをかたくなに拒んだ。
「せっかく来たのだから、札幌を見て帰ってください。」
彼女はそう繰り返した。その時の里依子の表情に私は悲愴の影を見た。それが私の心をえぐるのだ。とたんに里依子の心が閉ざされたように思われた。たとえ私のことを慮って言ってくれた言葉であったとしても、私にはそれが言い訳のように聞こえ、そのたびに自分の胸を押し潰すのだ。
とある交差 . . . 本文を読む
私が帰ろうと言ったのは、当然私も一緒に千歳まで帰ろうということだった。だが里依子の「帰ります」は私を含めてはいなかった。
「私一人で帰れますから・・・」
暗い面持ちで駅の方に向かう里依子に並んで私も歩き始めたとき、彼女は私を見てそう言ったのだ。そのまなざしはとても悲しそうに見えて私は愕然となった。
私は里依子の気持ちを量りかねて、自分が何をしようとしているのかさえ分からなくなってしまっ . . . 本文を読む
道立近代美術館は私に大きな充実感を与えてくれた。それは束の間であったにもかかわらず私の心に強く残るものだった。そして何より、里依子の絵ごころに触れて私はいつまでも忘れないだろうと思うのだった。
「帰ろうか・・・」
美術館を出て、私は迷いながら言った。里依子の風邪がひどくなるのを見て、これ以上歩き回るのは辛いだろうという思いやりと、いつまでも一緒にいたいという想いが交錯してどうしようもなく口 . . . 本文を読む
道立近代美術館は地元の作家を大切にし、その業績を住民に知らせようとする地方美術館の役割を十二分に果たしたとても気持ちのいい美術館でした。
この三日間の旅の中で最も至福に満たされた時間であったといえるでしょう。
次回でいよいよ最終章になります。
忍路(その9)は旅の結末であり、新たな出発の暗示でもあります。揺れ動く若き心のうたを引き続きお楽しみください。
HPのしてんてん
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体力をつけなくてはといって私は高価なメニューを勧めたが、里依子は安い一品料理を選んだ。そしてそれが私たちの最後の食事となるだろう。今度はいつ会えるだろうと思うと私は何を食べているのかさえ分からなくなる。
食べながら里依子は有島武郎の話をした。彼はニセコを舞台にして小説を書いているんです。と里依子は言い、そして微笑んだ。
ニセコは里依子のふるさとであり、その豪雪の地に生まれた彼女は色白で頬 . . . 本文を読む
私は苦しそうに座っている里依子の額にそっと手をあてた。彼女は上目づかいに私を見たが、そのまま身を動かさなかった。里依子の額は火照るように暖かく、熱があるのだと思われた。私はこれ以上里依子を引きまわしてはいけないと、もう一度考えた。
それに今夜、会社の上司の送別会があると言っていた。その会に彼女がどうしても出席しなければならないのであれば、今日これ以上彼女に無理をさせてはならない。
それで . . . 本文を読む