2017年のクスノキ
画像からダブルイメージをつくると、こんな若々しい精霊の姿が現れた。
このクスノキに出遭ったのは、ちょうど一年前、
はるひ美術館で個展を開催した2017年2月8日~2月26日の間のことだった。クスノキは神社の境内と思しき場所にたたずんでいた。駅から美術館に歩く道すがら、遠くからでもその姿が見える道しるべのようでもあって、私は毎日そのクスノキに挨拶して通ったものだ。
その姿に魅了され、クスノキに意識を向けるうちに、↑上のような精霊を見い出した。樹の模様が作りだした偶然と言えばそれまでだが、なぜか心が触れあったような気がしてならなかった。その想いに触れた17年2月21日時の記事、
時間があれば覗いて見てください。
いずれにしても、このクスノキは私のイメージの中で、宇宙とつながった豊かな自然を感じさせてくれていて、会期中、心のオアシスのように思っていた。
それからまる1年。18年2月24日だった。
いろいろな要因が重なって、はるひ美術館に行くことになったとき、真っ先にクスノキに逢えると思った。外出の面倒さと、逢引の期待が半々だったかもしれない。
のんびり歩くには最適の天気で、私の心は膨らんでいた。
ところがその膨らみが大きかった分、その暗転があまりに大きく衝撃的だった。
精霊の心もちそれは云うまでもなく(私のイメージ)そのものだけれども、それが人間に対する恐怖心を抱いたのだ。同時にそれが反転して、精霊の呪詛となって私に襲いかかってくるような錯覚をともなった。
どうしてか・・・まずは、私の衝撃を体験してください。
↓このクスノキが・・・ (じっくり眺めてから次の写真を)
こんな姿になっていたのです!↓↓
こんな想像をしたこともなかったし、こんな風景があり得ようとは考えもしなかったことだが、
現実にクスノキには一年前の潤った森のイメージはない。無残に切り落とされた主幹に恐ろしさを感じたというのは、私の想い過ぎだろうか。切られたのは数日前に違いない落ちた枝がまだ青々とした葉をつけて周辺に転がっている。
必ず何かの理由があるだろうし、人の側の論理があるはずだけれど、枝払いならもっと切り方があるだろう!とつい口に出してしまう。
人の姿のない、昼時だった。
私は対面して坐り、手弁当をひらいて、痛々しいクスノキの肌を見ながらおむすびを咀嚼した。
そのうちに私の心が落ち着いてくると、思考が動き出す。
「なぜ、自分はこのクスノキに出逢ったのだろう」
「なぜ私がここに来るという、そんな偶然が生まれたのだろう」
もしかしたら、
偶然とか必然とか、そんなこととは関係のない。この今という事実だけが何かの意味を伝えてくれているのかも知れない。
・・・この事実は、クスノキが今、こうして生きていることを伝えている?
切り落とされた過去を嘆き悲しんでいると思う、この私の思考が
はたしてクスノキの嘆きだと言えるだろうか。
私なら、指を切られただけで泣きわめき、自分の境遇を呪うだろうが、
クスノキはそれこそ、この今を充足して立っているのではないか。
見事なまでに今を受け入れている。そう考えることも出来るのだ。
この事実を学習するために、今私はここでおにぎりを食っているのかも知れない。
余興だが、この樹のダブルイメージを見てみたくなった。
やってみると、 何やら悲しげな顔が浮かびあがった。
今日の 真鹿不思議のドア はこれ
タイトルのごとく、絶句致しました。
『人の論理』となると何でしょう?
ざっと思い付くのは
① 天災等で木の上部が壊滅的ダメージを受け、切断せざるを得なくなった。
② 一見健康そうに見えたが、実はこの楠は病んでいたので切断(以下同文)。
③ この木に鳥が沢山寄ってくるので糞害がひどく、地域の住民が音をあげ、切断(以下同文)。
④ 宮司さんとか自治会長などのお偉いさん?が交代し、楠の世話(落ち葉、すごいでしょうし)が面倒だという元から潜在していた本音を遠慮なく具現させた。
⑤ 楠の上部をバッサリ切らなくては祟りがある、など、お告げ的なスピリチュアルな理由。
うーん。
私の貧困な発想ではこのくらい、でしょうか?
①②はしょうがない。③も、そこに住んでいる人にすれば切実で、綺麗事言ってられない部分もあるでしょう。
④は、なんだかな~、ですが、じゃあお前が毎日ここまで通って世話すんのか、エ⁉と言われたら、余所者としては沈黙するしかない。
⑤は……対処するしない、以前の問題(苦笑)。
この姿、痛ましいです。
でも……楠は生き続けるでしょう。
せっかく伸ばした枝葉を奪われてもまた新たに枝葉を伸ばし、生き続けるでしょう。
百年後には再び、以前のような堂々たる姿、取り戻しているでしょうね。
おそらく、楠が楠として素直に生きている限りは。
楠は多分、誰も恨んでいないでしょう。
枝葉の大部分がなくなって、もしかすると困惑しているかもしれませんが。
『人の論理』と関係なく、淡々と生き続けるでしょうねぇ。
それに甘えるのもどうかと思わなくないですが、楠の命のあるがまま、伸びて下さい……と、一人間として今、思います。
⑥光が届かないので、下草が育たないため(環境原因説)
⑦「輪にし、手くびに掛けられるくらいの太い枝をすべて切ってくれ」と言ったのに植木屋が「輪にして、首に掛けられるくらい」と勘違いして切ってしまった。(錯誤事故説)
⑧社務所の床の間にどうしても楠の幹を飾りたくなった。(必要悪説)
⑨伐採能力を試す必要があった(試し切り説)
⑩遺言があって、実行された(依願説)
どう考えても、まともな答えが出てこないですね。不可解です。
切る現場を想像すると、7~8mはありそうなところで、幹を切るというのは、大掛かりな重機がなくては出来ないでしょうから、単に思い付きや間違いで切れるものではありませんから、
結果理解できませんね。
で、人間の方はほっといて、楠の方に意識を向けたら、教えられることが多かったって話なんですけど、
やっぱ、いやなものを見た感は大きいです。
すごい、⑥以外マンガのネタになりそうな理由。
ギャグのつもり?それとも真面目?
だけど試し切りとかおかしいでしょう(笑)。この楠、神社の神木ですよね?
神木で試し切りなんて、バチがあたるぞよ〰。
まあ……妥当なところは①②、③④も結構ありがち(幹さえ残ってりゃ枯れてようがどうしようが『神木』。だから切っても文句ねえだろみたいな即物的発想)。
⑩、意外とあるかも。それこそ先代宮司さんが亡くなる間際、夢枕に楠の精が立って(ア、⑤がまじる)『私の枝で棺を作りなさい』とおっしゃった、とか。切ったばかりの枝で棺が出来るのかとか、色々疑問は浮かぶけど(笑)。
あるいは、楠に人知れぬ確執を持った(?どんな?)地元の有力者がもっともらしい理由をつけ、楠を切れ、切った者に遺産をやる……とか?しっかしこれも荒唐無稽だなぁ。
なんだか神社に問い合わせてみたい気もします。
でも教えてくれないでしょうねぇ、胡散臭いと思われるのがオチ。
教えてくれても正しそうな理由だけで、本音は切った人々しかわからない。
楠は生きている。
残った事実は今のところ、それだけですね。
怒りを覚えるような仕打ちだと想います。…茫然としてしまうほどに。
…その上で、…のしてんてん様の今の課題と楠の課題、ダブルイメージの半透明な部分と真鹿子様の詩から…完全な私見でコメントしたき事を…書かせていただきます。
「・既存の技術・材料を持って、これから全く新しいものを描く…
…そうした困難と今、戦っているのはあなた(のしてんてん様)だけじゃない。
・今の楠から作られたダブルイメージは半透明な風景が多い…
…それは未来の可能性の証。半透明はこれから色(葉や枝)を重ねていく可能性。」
…確かに雄々しい荘厳な姿は失われてしまいました…本当に立派な先代が…。
…でも根本から切られたわけじゃない。そして今
”本来一生、葉を付けるはずのなかったはずの枝に葉がついている。”
彼らは気持ちとしては初々しい新枝たちです…先達たちよりあとに生まれた枝故に日を浴びる事のない人生を送るはずだった彼ら…不慮の事故で先代たちが皆この世を去り…それでも他の誰でもなく葉をつけた彼ら。
”幹からの既存のラインから送られてくる膨大な栄養を…必死にさばきつつ、試行錯誤しつつ…必死に答えを出しつつ探している。”
…そういった姿が”既存の技術を持って、全く新しい課題に挑むのしてんてん様と重なるかもしれない”…と。
そして
”ダブルイメージの半透明(空と枝の画像を足して2で割った部分)に真鹿子様の言葉を借りるなら「無限大」を感じる…”と。
半透明かつ現実にはありえない光景…されど現実を下地に描かれた空間…私のような若輩者が述べるのはおこがましいですがそれこそ
「まだ決まっていない・無限の可能性を持った未来」
だと。きっとこれからこの半透明な部分に枝や葉が来て、彼ら新枝達が彼らなりの風景を描くと。新進気鋭の画家の如く。
駄文:この剪定は恐らく”社よりやや高めの木に囲われ、されど上から光が入るように”と言った注文で切ったのかな~と。
…左下の完全な伐採、されど手前(社の横)に伸びる枝を集中的に残した、なお社の外側への枝(右)は別に上に伸びてもいい…あくまで素人知識ですが。
改めて申し上げますが、本当に落胆な出来事ではあります…人工的で風情の無い行動だと。
…されどこれによって”新しい可能性、既存の幹を守って、新しい世界を作る枝の歩み”が始まると捉えても…と想いまして。
すいません、かなり熱くなってしまいました…ただ…こういった考えも…なくはないかな?そう考えて糧になれば、この想いも無駄ではないかな?と想い、長文失礼しました。
その時ちょっと思い出したのが、いつだったか取り上げました、次郎物語の松の話しです。
岩の上に落ちた松のみが、逆境を悲観せず今ある自分を受け入れてまっすぐに育っていく。それがやがて大きな岩をも割る力になるってやつです。
どちらも、キーポイントは、今ある自分を受けいれるということですよね。
そこを学べば、クスノキも喜んでくれるのではないでしょうか。
そう思いたいですね。
…されどこれによって”新しい可能性、既存の幹を守って、新しい世界を作る枝の歩み”が始まると捉えても…」
新しい可能性に向かって進むか、
落胆して思い悩むか、
二つの選択肢は、黄金と泥ほどの違いがあるということですね。
それはどんなことであれ、
挫折した失敗したというようにすべてのマイナスの境遇にあてはまるように思いますね。
そこにはいつも二つの選択肢がある。
黄金の道を取るのか
泥の道を行くのか。
クスノキは身をもってそれを教えてくれているのだと思いましょう。
折師さんのコメントでそれがよく分かりました。ありがとうございます。
実際にこの場を経験されたのしてんてんさまにおかれましては、さぞかしショックが大きかっただろうとお察し致します。
対面して、おむすびを頂いたとのこと。
クスノキの精霊にとり、この事が何よりの慰めになったことでしょう。
今問われるのは、自分の心の置場。
この光景の受け入れ、「 よし 」とするか「 わるし 」とするか。
私にとっては「 よし 」とするまでには相当の時間が必要でございます。
でも実際に切られているのですから、どうしようもありません。
クスノキの剪定は実際こんな大胆に切るものなのでしょうかね。
実は私の心も今、こんな状態なのです。
昨日、全興寺での龍の制作が白紙になってしまったのです。
また追々お話しできると思いますが、「よし」とするのが私の修行と心得ておりますが、それこそクスノキの心境を学ばなくてはいけませんね
泰然自若
宇宙樹クスノキ
のしてんてん様
こんにちは!
わたしには、クスノキ神魂(真根)の根付きも、
今一層どっしりと、
堂々たる菩薩樹が、
座禅を組んでおられるように
感じられます。
私がおっちょこちょいで
あわてものだからでしょうけれど、
ものの感じ方はやはり千差万別。
宇宙万物すべてそれぞれ
独自の感じ方があっても良いのでしょうね。
これからはクスノキの幹もいよいよ太くなり、
ある程度太くなりましたら、剪定方法も変わってくると思いますけれど、
クスノキが清澄なる宇宙樹波動を発揮♪
風格のあるより良きクスノキとなりますよう
お祈り申し上げます☆
感謝一念
まかこ 拝
”昨日、全興寺での龍の制作が白紙になってしまったのです。”
…え…え…ええっ…? こちらの方が信じられないものを見てしまった気分。
”「よし」とするのが私の修行と心得ておりますが、それこそクスノキの心境を学ばなくてはいけませんね ”
…この状況でその心境は既に見事と想います、本当に。
…若輩者の言葉ではありますが…sure_kusa様の”良しとするには時間がいる”…私なりに、借り物ではありますがこの言葉をここに残したいと想います…。
「時がなだめてく、痛みと共に流れてく」
私はのしてんてん様の絵が、好きです。