のしてんてんカスタードクリーム キャンバスに鉛筆
自分とは何でしょうか
なぜ人は自分なのでしょうか
生まれて死ぬまで私達は自分であり続けます
自分から一歩も出ることはできないのはなぜなのでしょう
そんな自分をちっぽけな存在と
思ったことはありませんか
宇宙の中の
けし粒にも劣ると
思ったことはありませんか
それが四次元思考の
限界なのです
では
五次元は
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五次元(新たな認識能力について)
第四章 五次元思考で見る自分の姿
(自分と他分)
自分という言葉から何がわかるのか、
考えてみたい。
言葉を解釈すると、自分とは自身の取り分(領地)ということになる。
つまり全宇宙があって、その中で自身であると思われる部分のことである。
すると、
その他は自身ではない部分であり、
これを他分と呼ぶことにしよう。
すると宇宙は自分と他分によって成り立っていることになるだろう。
つまり、
自分という言葉は、最初から己を宇宙から切り離した言霊を持っているのである。
それが一生自分から出られない唯一の理由であろう。
そしてどう考えても四次元思考では
宇宙の中のけし粒以上にはならないのである。
自分に対して他分はあまりにも大きい。
計り知れないものはみな他分の中にあるのだ。
ところがである。
この自分と他分の境界線はどこにあるのか。
そう考えてみたらどうだろう。
自分と他分、
二つは完全に独立していて切り離して考えらえる存在である。
四次元思考では身体を己の器と考えられ、疑問なく納得できる問題であろう。
が、しかし
厳密にいうとその境界はとても難しいのだ。
その難しさは、実は五次元思考で自分を認識しようとしたときに顕著に表れる。
それは五次元思考の欠陥ではなく、新たな真実に遭遇するということだ。
どんなに探してみても境界などないということである。
自分と他分に国境はないということだ。
(スケールの概念と自分)
スケールの概念で自分を観ると、
上の図は心が思い描く世界を時間(黒)とスケールの概念(赤)で表したものである。
時間軸で観た自分と他分は、時間によってふたつの境界ははっきりしている。
過去や未来の自分が身体的につながっているとはだれも思わないだろう。
過去の自分はすでに過ぎ去ってしまった自分であるのだから当然のことである。
しかしスケール軸で観た自分はそういうわけにはいかないのだ。
小さなスケールの世界では自分の中に素粒子宇宙が見えてくる。
大きなスケールで観ると、自分は地球上に今現に生きているのである。
これらは別々に存在しているのではなく、今同時に起こっている実在のあるべき姿なのである。
同じものをスケールを変えて眺めているだけのことであるから、当然のことだ。
境界線どころか、切り離すことのできない唯一無二の存在というしかないだろう。
下の図は自分と他分を素粒子のスケールで観た図である
白地は空ということになる。
仮に線で囲った部分を自分だとすると、この線が境界線となるのだが、
果たして空間に線が引けるのかという問題が生まれるのだ。
物質ではない空にはそもそも空の存在を区切る何ものも存在しないのである。
ならば身体を作っている素粒子だけを足し込んだらいいと言えるだろうか。
しかしそれも不可というしかない。
素粒子同士をくっつけるわけにはいかないのである。
無理やりそんなことをしたら、この世はバランスを崩して崩壊するかもしれない。
核融合レベルの問題が起こってくるだろう。
結局、素粒子のスケールで観ると境界線は存在しないことになるのである。
それと同時に思いもしなかった一体感がやってくるのだ。
図を見てすぐに気付くことだが、どこかに一体感を感じさせるものがあるのである。
それは視点を素粒子から空間に移したときに現れる。
境界線を引こうと空を見たとき、突然気が付くのだ。空に境界線は引けないのだと。
そして
それはどんなスケールの世界で観ても同じことだということを理解したとき、
この世界に存在する空間とは、
スケールの世界を丸ごと浮かべている、たった一つの存在だということである。
素粒子も、人間も、地球や銀河も、すべて例外なくただ一つの空間の中に存在しているのだ。
それが空なのである。
自分の姿を素粒子のスケールで観ると自分は素粒子として空間に浮かんでいる。
自分の姿をそのままのスケールで観ると、自分は空間に包まれて、地球に引き寄せられている。
自分の姿を地球のスケールで観ると自分は地球と共に空間に浮かんでいる。
つまりスケールの影響を受けて自分は様々に姿を変えているように見えるけれども
その様々な姿に見える物質のすべては、たった一つの空間の中に折り重なって存在しているのである。
あらためて自分とは何かと問うなら
その答えは
空
自分とはただ一つの空間だというしかないのである。
スケールの概念で自分を観たら空間が揺るがない存在として見えてくる。
物質は空間の中に浮かんでいる。
もし浮かんでいないとするなら、物質と物質はくっついているということだ。
すべての物質がくっついたとしても
一つになった物質はやはり空間に浮かんでいるだろう。
物質は空に浮かんで互いに引き合い、あるいは反発しあって
空に浮かんだまま
様々な構造物を作る
四次元で観ればそれが生老病死に見えるだけなのだ。
この世にゆるぎない自分と呼べるものがあるとするなら、
それは空なのである。
それが五次元の世界観となるだろう。
(四次元と五次元の違い)
四次元であろうが、五次元であろうが、観ようとしている世界は同じ存在である。
観る方法が変わったからと言って世界が変わるわけではない。
それなのに違いが現れるのは
それぞれの概念が働くとき、それぞれの目に付け所が違うからである。
意識して何を観ているのか(認識対象)の違いなのである。
四次元世界を認識するために働く時間の概念は、物質の変化を秩序付けたものである。
つまり認識対象が物質にあるということである。
一方、五次元世界を認識するスケールの概念は、空間の存在を秩序付けたものなのである。
すなわちその認識対象は空間そのものということなのである。
物質を知るのは時間であり、
空間を知るにはスケールの概念が必要だということなのだ。
時間とスケールによって
私達は物質と空間をそれぞれに主体として認識できるのである。
(世界認識の骨格)
物質と空間によって世界はできている。
この根本原理を受け入れるなら
私達は五次元によって
初めて自分と世界を統一的に認識できるであろう。
すなわち
実在の空間を三次元空間として認識し、
心の空間を二つの概念でとらえる。
物質を変化として理解し、時間によって世界の動きを認識する。
そしてすべての物質を存在させる空を
その根源として知るのである
(自分とは何なのか)
話の流れからすると、自分という存在は
空間の中に消えてしまうのではないか。
そう考えてしまうのはあり得ることである。
しかしそれは枝葉を見て幹を見ていないだけのことだ
幹には揺るがない空の実在があるのである。
自分とは何かという問いは空とは何かと同じだということである。
そこに空の秘密があるのである
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次回予告
(第五章、空の秘密)
人間は認識して世界を思い描く動物だと言えます。
その認識の力は今や爆発的に習得する機械的な知識の量によって
逆に自分を見失う危機さえささやかれています。
知識がすべてなら、人間はやがて
機械に負けてしまうでしょう。
しかし人間は
人間です。
空の秘密は
機械ではなしえない
生身の身体と心の喜びを教えてくれるかもしれません。
空はいかにして認識できるのか
次回一緒に考えてみたいと思います
ご期待ください
「四次元」と仰っている世界を「三次元」すれば
私のような凡脳にも まだ理解の及ぶところがありますが…。
時間と素粒子の座標も やはり三次元的発想とすれば…。
「認識対象」の違い!と?
認識は 三次元ではリアルに認識できますが
四次元は 頭の中(思考)で その一部を認識できるに過ぎず、
う~む~ 堂々巡り!にて一次元に乗り四次元の一部を感じつつ…。
「三次元ならリアルに認識できる」
Unknownさんはタンポポを見て色や形を愛らしく認識されているのでしょうね。その時私なら、春を感じます。Unknownさんはどうでしょうか。心の中に温かく明るい景色がタンポポと共に思い起こされる。
これが四次元の認識なんです。タンポポと共に時間意識が働いていると考えるのですね。
世の中にはタンポポだけでなく無数のものがありますね。それぞれ違うものですが、どの一つをとってみてもこの時間意識がひっついているのがわかりますね。世界を認識する共通のものとして時間が考えられるのです。三次元に時間という柱を加えて四次元です。四次元とはそういう意味なんですね。
ところで、
学生時代に、顕微鏡で植物の細胞を観た経験はありませんか?
緑の葉っぱにいくつもの部屋が見える。それが細胞だと聞かされました。その細胞は分子や原子でできていて、それは素粒子という小さな粒が集まったものだという知識は、優しい子供向け雑誌で知りました。
タンポポを観たら、そんな小さな粒が集まってできていて、そのタンポポの生えているあぜ道は地球の皮膚だとだと想像します。すると頭の中でそんな風景が思い浮かびますよね。星の王子様みたいな想像です。
タンポポでなくても、蝶でもメダカでも、心の中で同じような風景を思い浮かべられられますよね。
どんなものであっても同じような世界が思い浮かべられる。そんな風に思うことをスケールの概念と名付けたのです。
大きな世界や小さな世界が思い描けたら、あなたの世界観は頭の中でそこまで拡げた大きな世界を認識する人だというわけですね。
それを、誰にでも当てはまるように言い直したら、五次元の考え方ということになったわけです。
次元やなんやと言いますが、要は言葉ではなく、心が幸せであるかどうかなのですね。
興味を持っていただいてありがとうございます。
減法で次元を捉えてみるのも新鮮ですね。
次元はパンを切った断面として例えられたりしますね。
のしてんてんさんは芸術家だから
空間の図で5次元を例えていますが、
座標はしっくりくる人とそうでない人がいますね。
のしてんてんさんの次元分析は
進行形ですよね。
まだまだ行き先がある感じですね。
気が済むまでいけば
全体図も明確になるでしょう。
追伸:私宛(Ksan)の伝言はありがたく読みました。
まあー日常は普通に過ごしていますが、
バレエの稽古が全くできないので
私の絶望も進行中です。
美大生の学生が手の関節が溶けてしまって
絵を描けない感じですかね。
だから美大を辞めるしかないような、そんな感じです。
方便は真実をつかむための道具に過ぎないのですから、当然のことです。
そこで五次元というのは方便なのですから、様々な方便があっていいと思います。
どんな方法でも、真実に届けばいいのですから、次元にこだわる必要はないのですね。
私が言いたいのは、思考そのもののことであって、真実が五次元だと言っているのではないのです。
思考がより真実に近い認識を得るために、考えられる能力が五つあるというのです。
スケールの概念を使うと、空がより身近に感じられるということを言いたいのですね。