物質思考と空間思考
幼少のころの私は極度の暗闇恐怖症でした。
いつ頃からそうなったのか、記憶は定かではありませんが、母の胸の中にいる頃にはなかったでしょう。
どこかで母親と切り離され、自分というものを知り始めたころ、鬼や魔物の類が知識に入ってくると同時に、魔物=闇という意識が生まれたのだと思います。
この闇への恐怖が消えたのははっきり覚えています。それを作文にして、教室の壁に貼りだされたのですから。(作文を褒められたのはそれが最初で最後でしたが。)
それは小学5年の時でした。長い不登校の時期を越えた時でもありました。
内容の詳細は忘れましたが、闇の恐怖が夜空を見ているうちに消えたという体験を書いたものでした。
夜が怖いというのを学友に知られるのが嫌で、わざわざ辞書で「臆病」という漢字を見つけて書いたのを今も覚えています。
私は空を見るのが好きでした。夕暮れから空の焼ける光景の移り変わる様子を、家の屋根に寝転がって見るのです。
オレンジ色が退き、うっすらとブルーが白み、徐々に闇が訪れてきます。一番星を見つけると、次々と星が増えて行きます。空はまるで耳にきこえるような音を立てて呼吸するたびに闇を深めて行きます。その中でもブルーがいつまでも残り、深い紺色からついに漆黒がやってきます。
しかしその頃には、全天は星のきらめきと変わり、中天を天の川が大きく横切り白い光が私まで照らしてくれているように思えました。
その時私は、突然闇というものを理解したのです。理屈はどうあれ、その瞬間から私は闇が自分と星空をつないでくれていると思えましたし、それから闇は私にとって星空と同じものになったのですね。
作文はそんなことを子供なりに書いた訳です。
半世紀を越えて今、当時のことを考えてみたとき私は自分でもびっくりすることに気付いたのです。
それは思考破綻を昇華させてくれる具体例でした。
子供の頃の闇に対する恐怖は、サンタはいないと分かるころにはたいがい消えて行くもののようですが、山奥にはサンタも来ませんでしたのでいつまでも闇を恐れていたのです。
その恐れは、得体の知れない魔物の気配であったり、闇自体が私を飲み込む魔性と思い込んでいたのですね。
その闇が、夜空の星を浮かべている闇とつながったわけです。魔性だった闇は、実は無数の星をちりばめている空だった。無数の星が浮かんでいる天空の闇は手のひらの空間とつながっている。それは同じものなのだと突然理解したのです。私を包んでいるこの空間があの星まで続いている。それがこの漆黒の闇の正体だったのですね。
これは恐れていた闇から逃げないで、前向きに受け入れたことを意味します。闇のとらえ方が魔性のものから空間へと昇華したのですね。そしてその瞬間から闇への恐怖が消えたのは私にとって何よりの驚きだったし、不思議でした。その驚きが作文になったわけですね。
今考えますと、闇のとらえ方が、(物質)思考から(空間)思考に変わったということなのかもしれません。
さて、この経験が、前回書きました時間軸(四次元)に生きる私たちが体験する破綻を新たな意識に昇華させてくれるのだと、今になって気付いたのです。
今回の心の旅で、私は人の心は時間軸とスケール軸から成り立っているということから、心の振り子のイメージを考えました。そのイメージから心を眺めると時間軸の力で苦悩が生まれても、スケール軸の力が私たちを癒しに向かわせると理解できたのです。しかし振り子が時間軸に取り込まれてしまうと、スケール軸の癒しは働かなくなる。いわば振り子の糸が切れたように、時間軸の中にさまよい「苦悩」を繰り返す。分かっていてもそこから逃げられないのは、苦悩の対極にある「喜び」が私達を時間軸に引き付けているからでした。
苦しみがあっても、明日はしあわせになれる。そう信じて人は時間軸の中で生きるんですね。私はそれをいけないとは言っていません。人間の健気な崇高さがその考えの中にはありますし、時間軸で生きる私たちにとって最高の宝物です。
それを想えば、時間軸にある四次元思考の原点は「信じる」ということなのですね。
明日を信じる。友を信じる。自分を信じる。愛を信じる。神を信じる。宇宙を信じる。
信じることで私たちは生きる力を得、安心してこの場所に立っていられる。
しかしなぜ信じなければいけなのでしょうか。
つまりそこに四次元思考の破たんがあるからなのです。
四次元思考は時間軸の上に成り立っているものですが、時間とはつまりは変化を認識しているということですね。時間は私たちの認識の中にしかありませんし、それを認識出来るのは変化を見る(感じる)しかありませんからね。
では変化とは何か、それこそが「物質」なのです。「物質」がなかったら私たちに時間の意識さえ生まれない。
日、水、燃焼、砂、ゼンマイ、振り子、水晶、電波・・・時計の歴史を見てもそれは納得できるでしょう。何?鳩、腹もある。はいはい。
究極には原子や素粒子の運動を見る。これが時間ですし、それを支えているのが、「信じる」こと。原子の振動が不規則で信じられなかったら時計にはならないのですね。
それが「物質思考」の本質なのです。「私は物質であり心は物質に宿っている」という思考がここにあるのですね。主人公は物質という訳です。
あたりまえのことですが、
自分とはかかわりのない「物質」、それは素粒子から人まですべて含めてですが、それをを受け入れるということは「信じる」ということ以外に方法はありません。
そしてこの「信じる」ことがかなわなくなったとき、不安や苦悩が生まれる。
信じられなくなったとき、「物質思考」は破たんします。つまり時間軸の四次元思考の中で、心の振り子の破たんした風景がここにあるのです。
信じるから苦しむ。もちろんそれもありですが、ここではあえて書きません。
いずれにしましても、これが四次元思考の中にある私たちの基本的な姿なのではないかと思えるのです。
思わず四次元の説明に時間をとってしまいましたが、この破綻から私たちを救ってくれるのが五次元思考、スケールの概念なのです。
簡単に言えば、「物質思考」から「空間思考」に昇華させることなのです。
ただ先に言っておきますが、これはいち無名作家のたわごとだということです。間違っても無批判で受け取ることがありませんようにお願いします。
(え?ハナからないって?)(そ・・・それもさみしいけど・・)
私が期待するのは、読んで下さる皆様の心に、私の風景をお届けすること。そしてその風が心を吹き抜けるとき、皆様のそれぞれの心の中の葦の葉が心地よく揺れるのを願うことです。
この風景を皆様の心で鑑賞していただきたいのです。言葉ではありません。
この図は今までの話しをまとめた五次元の図です。
この図を使って、次回四次元思考から五次元思考に昇華させていく心のダイナミックな運動を、宇宙を背景にしながら見て行きたいと思います。
過去記事
雑談に来ました☺。
少年時代のマスターの星空体験、静謐な短編小説みたいですね🍀。
これをどんな作文にしたのでしょう、キタヤブ少年は。読んでみたいなと思いました。
この時の体験がマスターの哲学(と言っていいのでしょうか?)の、大本なのでしょうね。
ここまで来たら言葉は必要ないでしょう。
でも、それを他人に伝えようとすれば言葉や図を使うしかない。悩ましいですね~。
屋根から見る地面、橋から見る川の流れ、そして高い雲、満天の星空。
すくむアンヨと出る冷や汗。
プリンセスプリンセスの「 M 」・・離れ行く心も怖い。
綺麗にまとまったでございましょうか・・
>心の中の葦の葉が心地よく揺れるのを願うこと
→ のしてんてんさまらしき、優しきお考えですね ♪
お言葉に甘えさせて頂き、次回からの「 スケールの概念 」も気楽に読ませて頂こうと思いま^す^
文頭に「僕は夜空に救われた」みたいな結論を書いたのですが、それがいいと先生に褒められた覚えはあります。
文章は忘れましたが、体験は残り続けるんですね。それが根元にあるのは確かなようです。
他人に伝えるということは、同時に自分の意識を目覚めさせるということでもあるので、旅は続きます。
悩ましいより本物に出逢えるかもというワクワク感です^ね^
心と心の隙間
隙間風
恐ろしいですね。
でも、馬鹿は木に登る
私は木の枝渡り、ターザンごっこ大好き。
家族で遊園地に行って、ジェットコースターに乗ろうと駄々をこねるのはいつも私の役目。
空ちゅう遊泳憧れますね。
でもって饅頭怖い
分かります~
私、饅頭怖いんですけ^ど^
ちょっと思い出したのですが🍀。
もう20年以上も前に読んだきりですので詳細はぼやけていますけど、ミヒャエル・エンデの『モモ』。
あの物語の中盤辺りで、ヒロインのモモは世界(宇宙?)からの歌を全身で受け、恍惚としながらその歌を歌います。
でも時間泥棒たちの奴隷と化した彼女の友達は誰ひとり、歌を聴いてくれません。
モモは、この素晴らしい歌を誰にも伝えることが出来ないのに、だんだんと虚しさを覚えます。
伝えられない歌はかえって、彼女を苦しめることになる……という内容のエピソードがありました。
星空体験から始まったであろうマスターの哲学、作文から始まって五次元・空間考(進化中)を著すに至る情熱は、モモの歌のようなものなのでしょうか?
世界・宇宙・空間が、マスターをつき動かしているのでしょうか?
いやまあ、誰にもそんなこと、わからないでしょうケドネ〰。
なんとなくそんな気が。
いえね、誤解されるかな?と思って今まで正面切っては言わなかったんですけど(笑)。
マスターは、こんだけ理屈っぽく理屈でイロイロ説明してらっしゃるのに『理屈ではない』『考えるな、感じろ』的なことをおっしゃる。ずっこいワ、このおっちゃん(昔の大阪のガキ的口吻。ズルい、みたいな意味です)的な感覚がわたくし、ありました(今でも多少)。
だけど、宇宙から受け取った歌を歌っているのなら。
『理屈』で『理解』しようとされたら、そりゃ気持ちワルイですよね〰。
その部分はなんとなく、体感でわかってきたような気がします。
肝心の内容は?
さあ?今後の課題ですね~(ダメじゃん💦)。
そのユリの香りを言葉で伝えようとしているのです。
そんなものは見ず聞かず、谷に行ってユリと出遭えばいい。
簡単に言えばこれだけのことです。
少しでもユリの香りに近づく説明をしようと試みますが、言葉は言葉。説明は説明。理屈は理屈。
その理屈がユリの香りだと思ってしまわれたらそこで目論見は頓挫してしまう訳ですね。だからズルいと思われても、そう言わざるを得ないのです。
谷にいけばユリが咲いていて、甘い香りが満ちているらしい。そう思ってもらったらいいわけで、
一度その香りを嗅いでみたい。
行ってみよう。
そんな風に、読んで下さる方の心が動いてくれるのがいいのですね。
私にとってこよなく甘いうっとりする香りでも、人によって感じ方は10人十色。
誰にもそれを一色に染め上げる権利など持っていませんからね。
むっちゃん、谷間に行ってごらんなさい。
すると、あんなこと言ってたけど、ああこのことを言ってたんだわ、あのおっさん。
というような発見が必ずあるはずです^よ^
このたとえ、よくわかります。
モンダイは、『〇〇山の中腹にある谷の東側』とかの位置情報?を言えないところ。
自分で自分の中を探してみましょう。
それでも極力ナビしようとしたら、膨大な理屈と説明になってしまう、と(笑)。
そしてモンダイは、仮に行ったとしても見付けられるとは限らないところ。
見付けたとしても百合だと気付かず、永遠にさ迷うかもしれないところ。
言葉に囚われていたら特にそうなる可能性が。『百合はこんな香りではないはず』とか。
マスターの危惧はおそらく、そこいらへんにあるのでしょう。
やっぱり、大変なことやってらっしゃいますねえ、大きなお世話ですけど……。
お疲れさまです(うーん、本人は疲れてないカモ?)。
お茶でもお淹れ致しましょうか?
説明しなければならない程のはからいがある絵だとするならば、龍の絵は全興寺にいつまでたっても飾られることはないのでしょう。
非常に残念に思います。
自分の谷を探すのに地図もナビもいらないでしょう。目を閉じれば自分しかいないのですから。
その自分がどんなことを感じ、どんな想いを描くのか。毎日見て感じて暮らしているでしょう。それをただ「谷」と言っただけです^よ^
それならこれはどうです。
私が五次元というとき、その言葉の裏側に五次元という言葉で納得できる自分の体験がくっついている。
それを言葉で伝えたら、裏側空っぽの言葉だけがむっちゃんに届くんですね。
だからその言葉の裏側に自分の納得できる体験をくっつけて翻訳するしかない訳です。
ようは私の考えを探るのではなく、自分を探るってことですね。言葉はただそのきっかけに過ぎないのです。
それをもし言葉だけで受け取ると、「谷」といってるけど、どこにあるのということになるわけですね。
複雑に考えないで、その言葉から自分はどんなことを感じ、思い当たることがあるのかどうか、自分の心の中を見るだけでいいのです。
思い当たることが成長につながればいいなと思いながら書いているのです。
自分で自分を説明するほど陳腐なことは無いですから^ね^