のしてんてん CGより
自己愛(ナルシズム)を超える自己愛があります。その愛にもっとも近い言葉は涅槃ということになるでしょうか。
その違いは、己の外側か内側かということにあります。
ナルシズムは己の外側に恋をする。
それに対して涅槃は、己の内側を愛する姿なのです。自分を好きになることによってそれは成し遂げられます。
涅槃に向かう自己愛、そんな自分を好きになる道筋を色々な場面から見ていきしょう。
①では「おいしい!」を取り上げました。
今回は、
②「うつくしい!」です
先日見た秋の御在所岳、青い地球の姿ですね。
言葉なくただ見つめるばかりです。
「ウワァ~」
歓声を上げて、気付けば思いきり空気を吸い込んで胸が膨らんでいます。
そして何拍子も遅れて。
「美しい!」という言葉がやってきます。
目で見る風景は、私達のもっとも身近なものですね。普段見慣れた風景を見てこんな反応をすることはめったにありません。
考えてみて下さい。
うつくしい!と目を見張っているとき、私たちはけっして自己嫌悪など考えることもありませんね。
逆に心配事で心がいっぱいになっていたり、思い通りにならないことに苛立っていたりすると、どんな美しい風景を観ても心は動かないでしょう。
百聞は一見にしかずと言いますが、見ることは世界を具体的に理解するもっともすぐれた感覚器です。言葉で百回聞いても分からないのに一目見るだけで理解できます。
つまり見るということは、私たちが生活する中で最も依存している機能ですよね。
それはつまり、一番思考と直結している感覚と言えるのです。見ることと思考はとても強く結びついていて、私たちが見るものは実は気付かないところで思考の操作を受けて見方をコントロールされているのです。
たとえば、電車を見たらこれは乗りもの、コップを見たら、これは器というように、そのものの美しさより、そのものの持っている機能を見ている訳です。
日常生活の中で私たちは、見るという能力をただそのものを見極めるということに使うのではなく、その機能を見るために使っていることに気付きます。私たちの生活はそれらの機能をうまく使って快適に過ごすことなのですから当然ですね。
仕事に追われているとき、空を見ても流れる雲に意識を留めることはありませんし、道端に咲く小さな花に気付くこともありませんよね。それらは当面自分のすべきことには役に立たない。つまり自分の気にかかっている事のほかは目に入らないのですね。と言うより、目に映るものに意識を向けられないということでしょう。
これが私たちの日常です。慣れ親しんだ風景は毎日目にしていても意識することは無いのです。見ていないのと同じです。
ここにも、日常の忙しさに追われて生きている私たちの実態を見ることが出来ますね。自分を好きになるゆとりも、きっかけもないわけです。
路上に落ちたいがぐりを見ても、価値のないものは踏んづけて通る。(いがぐりは痛いので避けますけど)普段私たちの見るものはそんな価値観に左右されています。
けれどもときおり、「美しい!」と感じる風景に出遭うことがありますよね。
この「美しい!」という感情は普段の思いを突き抜けてやってきます。銭勘定など関係なく全身で感じている喜びの感情ですね。
美しい!そう感じて風景を眺めている自分を観察してみてください。
その時私たちは喜んでいるのです。
この身体が喜んでいる。それはまさに自分を好いている瞬間なのですね。
その時、私たちは何も考えていません。自分を好きなどという想いすらありませんね。ただあるがままに自分を解放して喜んでいる。その時の自分は喜びそのものなのですね。忙しい日常から突然顔を出した混じりっ気のない自分の心です。
それは自己嫌悪の思いからでは体験できない「美しい!」という至福です。
自分が好きという無意識の思いが、その至福に道を開いているのです。
「自分を好きではないが、美しさは感じるよ」という人がいるかもしれません。
そんな人はきっと自分が嫌いなわけではないのですね。
自分が好きというのは、「美しい!」と感じる心のことであり、世界の調和を感じとる能力なのです。
それは普段無意識の中に隠れているのです。
美しい!という本質は調和だと思います。それは身の回りのどこにでもあります。
どんなところにも美を見つけられる人は
自分のどんなところも好きと言える人なのかもしれません。
あなたに美しい!という感動の心がいくつもいくつも訪れますように。
地球の爆弾すべて花火となれ!
③宇宙の宝物
家族も周囲も、自分を大切に愛してくれるのが解って居ても、自分を愛する事が出来ずに来ました😢
ただ、絵を描くことは大好きで、今でも下手の横好きが辞められませんけど、どうしたら自分を愛する事が出来るのでしょうか?
私も同じなのです^よ^
だからいろいろ考えてしまうのです。
それを悪いことと思ってしまうとそれまでですが、自分が嫌いで愛せなくたっていいではありませんか。
それを悪いと思わないで、認めてあげる。そうすると、どうしたら自分を愛することが出来る?という想いは出てきませんね。
実際そんな方法はどこにもありません。
それより、今の自分をOK、大丈夫と認めて、それ以上悪く考えるのはやめてみることですね。
出来たら嫌いな自分をリストアップしてみたらどうでしょう。考えているだけでなく文字にしてみれば客観的に自分を眺められますし、案外嫌いなところなんて少ないものです。それにリストを見ているとそう思っていたことがなんだか馬鹿らしくなって来たり、悪い面の裏側にいい面があることに気付いたりして、なんだかしいものです^よ^
今の自分をOKと認めたら、あとは良い面を探すだけです。
おいしい!体験。美しい!体験。
そして大好きな絵を描く。その時の気持ちは、すでに自分を愛している証拠なんですから、からさんに方法などいりませんよね。
そして愛してくれる家族。その家族を愛することこそ、自分を愛することなのですから、
自分を愛せないのではなく、そのことに気付いていらっしゃらないだけなのかもしれませんね。
答えになっているか分かりませんけれど、少しでも力になれたらうれしいです。
自分が自分の意思で自分を好きになる。
まずあり得ないと思います。
自分を好きになるように、自分をコントロールするなどという、およそ愚にもつかない自己啓発本ならいざ知らず、自分が好きという心の在り方を理想とすること自体、ある種のいかがわしさを感じさせずにはいられません。
ま、もっとも、世の中には理想的な自己を形成することを目的とした、わけのわからない商売はごまんとあるようですがそんなものに構っている暇があるのであれば、実現可能な範囲で、今まで出来なかったことが出来るようになる為に、能力を身につけるなり延ばすなりした方がよっぽどましな感じが到します。
実現不可能な理想を求めることは勝手ですが、その前に片付けなくてはならない日常の細々とした事の方に、むしろ心を砕く必要があるのではないでしょうか?
安易な自己肯定が涅槃ならば、御釈迦様もあんな苦労はなさらなっかたでしょう
美しさや味わいは自己を肯定するものではなく、束の間の息抜き程度のことでありそれ以外に意味があるとは思えません
生きることが苦しみであるならば、むしろ苦しみを常態として、この先に待ち受けているであろう幾多の労苦に対して如何に始末をつけていくのか、痛みや出血
を極力伴わずに、耐え切れられる程度で済むのであればそれに越したことはないでしょう。
生きることにおいて、大方の苦労が片付けられ、ある程度の目安がついた時に初めて自分を受け容れられるのでないでしょうか。
こんばんは!
私の場合ですが、
全くの無一物、
私の物など何もありません。
私自身でさえ、天、宇宙から
お借りしているので、
お借りしているものは大切に☆
お返しする時が訪れましたら、
感謝とともにお返しするのみです。
ですので好き嫌いもなく、
感謝ばかりです♪
なにしろすべて無償で
お借りしています。
空気もお水も人間社会での
代価は必要ですが、
宇宙からは全身全霊!
身体細胞身体素粒子のすべて
宇宙根源の宇宙元気に至るまで、
すべて無償で提供して頂き、
感謝感動あるのみです☆
けれども自分には甘く、
他者に厳しい方々も多いこの世の中、
自分を愛せない、自分を好きになれない方々は、
勝手な推測でまことに恐縮ですが、
ご自分を真摯に見つめておられる方々、
生半可な許容など拒否、自身に厳しく
何事も突き詰めていかれる方々だと感じられるのですか、
生きることに大変丁寧で、熱心なみなさま☆
ご立派だと思います☆
私など風来坊は恥ずかしい限りです。
けれどものしてんてんさん!
懲りずにご指導くださいまして、
ありがとうごさいます。
今後とも変わらぬご指導ご鞭撻のほど、
よろしくお願いいたします☆
朝昼晩の気温の変動が激しいですので
お体ご自愛くださいますよう♪
この一瞬いつもまっさら生まれたて
時の先端ひかりのうぶ声☆
今宵もどうぞ素敵な時をお過ごしくださいませ♪
いつものしてんてん天力!
ありがとうごさいま^す^
感謝感激∞8∞
まかこ 拝
ともすれば独走してしまう心の問題ですので思考のよきブレーキとなりましたし、より深く考えてみる契機となりました。
自分の意志で自分を好きになる。
あり得ないことだというご教示、私もまったく同感です。
表面的なことでは意志で動くことも出来ますが、生死は元より、生命の活動然り、自分を好きになることもその例外ではありません。
美しい!おいしい!という感動もまた自分の意志でどうすることも出来ませんよね。
一方自己嫌悪は、自然に生まれるものではないのですね。己の価値判断、すなわち自分の意志の結果生まれる苦悩です。
人間だけが苦悩する。その苦悩をすべて引き受けて自己肯定をすることはけっして安易なものではなく、己を宇宙の一員として認める、ある意味厳しい決意なのだと思います。
私の思いとUnknownさんの考えで一つだけ違うのは、「美しさや味わいは自己を肯定するものではなく、束の間の息抜き程度のこと」だけですが、誰が息抜きをするのかという問題です。
息抜きとは緊張から身をほぐすこと、それは能動態で生きている私たちの緊張をほぐしてくれる訳ですね。
つまり美しい!は能動態思考から中動態思考に切り替わった瞬間だと私は思うのです。美しい!にはそれだけの力があるわけです。
つまりその時、自分と対立する一切のものがなくなる。それが自分を好きになる形だと思うのです。
自分を受け入れるというのは、能動態の自分に気付き、中動態に生きること。
私はUnknownさんにそう教えていただいたと思っております。
龍の絵が完成しそうです^よ^
同感で^す^
そして私というものさえ存在しない。
けれども自分という領域があって、自分にしか分からない心があって、人のことはかいもく分からない、孤立無援の自我が苦悩する。
人生は苦なり。お釈迦様の時代から変わらない私たちの姿と言えばいいでしょうか。
そんな中、まかこさんの次の声明は感動的です。感謝感激で^す^
「私自身でさえ、天、宇宙からお借りしているので、お借りしているものは大切に☆お返しする時が訪れましたら、感謝とともにお返しするのみです。」
積み重ねられた人間の智慧が、お釈迦様には発想できなかった答えを生み出したそんな現代を感じます。(大袈裟と叱られそうですが・・・)
私の言う好きは、自己嫌悪の対極で使っていますので、まかこさんの言う「好き嫌いもなく、感謝ばかり」はまったくもって大賛成です。
この一瞬いつもまっさら生まれたて
時の先端ひかりのうぶ声☆(まかこ)
一瞬の光が動く時計台
過去と未来の狭間につねあり(のしてんてん)
ありがとうございま^す^。^