ここ数日、私は創作の面で、地獄のような道を歩んでおりました。
文字にするのがためらわれるのですが、
最近の禅論議で、これは今後の己のために書いておきたいとおもいました。
1月に入って、はるひ美術館での個展作品が一段落して、最後にひもの絵に行き着きました。
それを受けて、新たなひもの絵を描き始めたのです。
宇宙の成り立ちのもっとも根源に光とひもがある。
光とひもさえあれば宇宙を表現することが出来る。
そんなイメージで、構図を描き、着実に描き進めてきました。
今思えば、カッコいい思考に酔って、思いがどんどん形骸化していくことに気付かなかったのです。
作品がまだどうとでも動く完成度5~60%では、思考に酔っていられましたが。
70%を超えるあたりから、心と作品の間に違和感が出てきました。
それでもまだ、その違和感は、何とか思考がつくろって、この絵はいい方向に進んでいると思えました。
しかし先先日、ついに破綻がやってきたのです。
この絵はダメだ!思考では解決できない、心の不安がやって来て、絵はゴミ同然。
翌日朝、あらためて作品を見て、駄作は決定的。
必死でよいところ、活路を探そうとする思考がパンクして、そこから自分を覚えておりません。
絵はめちゃめちゃに、物理的にこわれはしませんでしたが、画面は原型をとどめないほどこすり取られ、しばらく野獣と化しておりました。
爆発が治まると急に静かさがやって来て、ぐちゃぐちゃにこわれた絵を観たとき、
描いたひもの残骸が、心につながってきたのです。
わたしはなんだか戦争の後のがれきから、何か大事なもののかけらを見つけた気分になって、そこから、鉛筆を動かし始めました。
自分で敷いたレールの上を走っていた創作が、瓦礫となって、そこから描き進む作業になって、私は、穏やかで新鮮な気分になっている自分に気付きました。
昨日の午前中はそんな地獄と天国の狭間を通っておりまして、
その午後は、見つけた心のかけらを広げて行くことだけを考えて、描き進めることが出来ました。
すると、午前中に夢中で壊した画面の痕跡が、作品に光を与えてくれる重要な要素として見えてきたのです。つぶされたひもが、そのこすり取られた痕跡のために、いのちが与えられたような、そんな効果に驚きました。
わたしが描いたのではない、爆発のあとに過ぎない傷が、絵の本質に変わってしまったのが痛いほど分かりました。
新しいキャンバスを張ってやり直す覚悟でしたが、何とか人様のお目にかけられるレベルに達した作品となりました。
しかし、二度と描けない絵だとも分かっていました。
こんな絵を一生描けと言われたら身が持たない。
けれども、創作とは何かを考えられられる一日でした。
ちょうど、「なりきり」という言葉をコメントでいただいた日と重なって、己の未熟さと、それゆえにある伸びしろの大きさを実感させられた一日でもありました。
死にたくなるような苦しみ。
……思い出しました。
かの『こがらしのほこり』、です。
テーマと登場キャラクター以外極力削り、シンプルに骨だけにするのが自分の想像以上にキツく、恐ろしかったものです。
マスター……いえ画伯。師匠。
その節はお世話になりました。
自分ひとりでは出来なかったことです。
肩で息をしながら何とか作品の骨格をあぶり出し、だけどナニかが足りない。
のたうち、ふっと出てきた一文。
『これは私が、知り合いの風からきいた話です』
冒頭の一文です。
別になんてことのない、童話によくある紋切り型に近い一文、でしょう。
でもこの一文を冒頭へ入れ、全体を見直した途端『……出来た』と心で呟いてました。
書けた、でも、作った、でもなく。
『……出来た』と。
このお話は、最初からこの世界にあったのだ。
それこそウォーキングでもしている内に、よもやま話をするように風が、木の葉をゆさぶって話してくれたのだ。
ただ私は、それを手に取ったり目で見たり出来るように加工しただけなのだ。
加工は終わった。
最善を尽くした。
後は、私の出る幕ではない。
以前書いた『色鉛筆にこだわり続けたイラストレーターさん』のように、私は色鉛筆(心の癖)を手放すのが異常に怖かったようでした。一回、色鉛筆以外の画材で描いてみたら?という、至極真っ当なアドバイスを実行するのが、ただそれだけのことが、殺されそうな程の恐怖でした。
色鉛筆を手放したい、気持ちはある。他の画材にチャレンジしてみたい。このままでは駄目なのもわかる。
だけど……死にたくない、みたいな(苦笑)。
別に死にませんでしたし……むしろ呼吸が楽になりました。
何だったんだアレは、ですが……あの感覚はやはりまだ、身体の中に残っています。
ヘボ役者たる所以、でしょう。ははは…。
『こんな絵を一生描けと言われたら身が持たない』、に、妙に共感しました。
私ごときひよっこがおこがましいでしょうけど、『こがらしのほこり』みたいな感じでばかりお話を書いてたら、一年もたずにあの世行き……という気がしますので(笑)。
こんにちは!
今月はまさにのしてんてんさんの『春と修羅』月
従来の思考も形骸化しているように感じられ
制作中の絵画にも違和感を覚えるほど、
急速に飛躍成長なさった月
ご自分でも自分が窮屈で苦しく切なくいたたまれないほど
大きくなられている
脱皮誕生の月
新境地への衝撃的な脱皮をなさっと驚いております☆
脱皮後の、心(新)細胞が外気に触れ、馴れるまでの動揺、激痛!
言語を絶する地獄の錯乱修羅、お察し申し上げます。
けれどもこの修羅の苦しみは産み(海)の苦しみ
脱皮お誕生日☆
お芽出とうございますと、
何故かわたくしは確信しております♪
あらためまして
脱皮お誕生日☆
お芽出とうござい^す^♪
春と修羅
宮沢賢治先生の
『春と修羅 序』からの
朗読のお薦めが、
わたくし真鹿子(まかこ)からの
のしてんてん画伯へのプレゼントですが、
気が向いた時、少しずつでも、
朗読なさって観てくださいね♪
出逢ってくださいまして
ありがとうございま^す^☆
トンチンカン真鹿子ですが
これからも学ばせて頂きます。
感謝∞8∞八方拝です!
人はどこかで殻を破らねばならない。
しかし、物質的な殻はともかく、精神的な殻は難しいですね。
それは自分が認めて初めて、殻になるので、気が付かなければ、それはただの強迫観念にすぎません。
殻、壁、
どうやっても前に進めない場所。
それを見つけられるのは前に進もうという意欲だけですから、
「こがらしのほこり」の体験は、むっちゃんの前進意欲がつくり出したものと言えるでしょう。
心が満足すればいい。
でも、満足しなければ、おいおいええ加減にしてくれよとぼやきながらも進むしかない。
進むとまた壁が現れる。
「こがらしのほこり」はそこで役立つのです。
何が?
「別に死にませんでしたし……むしろ呼吸が楽になりました。
何だったんだアレは、ですが……あの感覚はやはりまだ、身体の中に残っています。」
これです^ね^。
殻を破っても死なない。
思い込みからの解放感。
殻の外に在るものを知ったのですから。
そうでしょ^う^。
何かもどかしい気分がまだ残っています。
これだと分かっているのに、思考がひっくり返らない。
思わせぶりで、貫けないまま、収まってしまう可能性もあるのです。
春と修羅
わたしにはそれが必要なのかもしれませんね。
いずれにしましても、
脱皮は必要なのだと思いますし、
このまま殻を破れなかったら、ふさがった気持ちを持ち続けるしかない。
突然立たされたこの場所は
一体何なのでしょうか。
なぜ、このタイミングで・・・・
動くしかありません。
今日も作品とにらめっこで^す^