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山鹿灯籠まつり(2) ~ 賑わいの陰で ~

2013-08-17 16:41:09 | 歴史
 今年も多くの観光客で賑わった「山鹿灯籠まつり」。その起源についてはいろんな説がある。その中の有力な一つが、記紀神話に書かれた景行天皇の九州巡幸にまつわる説。地元民が松明を灯して、天皇一行を行在所となった今の大宮神社のところまで案内したという話だ。この松明が時代を下って灯籠に変わり神社に奉納されるようになったという説。
 もう一つの有力な説は、室町時代、温泉が枯れてしまった時、山鹿金剛乗寺の中興の祖、宥明法印が祈祷によって温泉を復活させ、宥明法印の没後、追善供養のために灯籠が奉納されるようになったという説。これは肥後國志にも書かれている。
 僕は「山鹿灯籠まつり」が盛んになりさえすればどんな説でも構わないと思うが、僕なりの推測を含めた感想を述べてみたい。

 そもそも景行天皇の九州巡幸は2千年近くも前の、まさに神話時代の話。地元民が松明を灯して案内したというような英雄伝説は各地に存在する。そのこと自体はともかく、その松明が時代を下って灯籠に変わったというところに「後付け」臭さを感じてしまう。そもそも灯籠は仏教伝来とともに中国から伝わった仏具。景行天皇の行幸を記念する祭りは室町時代よりも前からあったのだろうが、灯籠が祭りのメインアイテムとなったのは、宥明法印の追善供養以後というのが自然だと思われる。つまり狭い意味での「灯籠まつり」ということであれば、金剛乗寺起源説が有利な気がする。にもかかわらず、今日、「山鹿灯籠まつり」の中で、なぜ金剛乗寺に陽が当らなくなったのだろうか。これにはおそらく明治時代初期の「神仏分離令」が影響しているのではないだろうか。明治新政府は神道を国教化するため、それまでの「神仏習合」を改め、神社から「仏教色」を排除させた。それは結果的に仏教に対して「廃仏毀釈」のようないわれのない弾圧を加えることとなった。まさにこの時、金剛乗寺は「山鹿灯籠まつり」の表舞台から退場させられたのではないだろうか。そんな気がしてならない。
 下の写真は「山鹿灯籠まつり」が最高潮に達していた昨日の金剛乗寺の様子をHIROさんに撮って来ていただいたものだ。まつりの喧騒を開祖の空海上人や、中興の宥明法印はどんな想いで眺めていただろうか。



金剛乗寺の石門


楼門。左側の奥に山鹿温泉の源泉が見える。


風格漂う楼門をくぐる。


本堂