家に帰ったら、可愛らしいお客さんが親父から座敷でボクシングを習っていた。
お隣の居酒屋「夢路」のお嬢ちゃんのMちゃんと、その幼稚園仲間の女の子達だ。
ボーイッシュで可愛らしいMちゃんは、よく家に遊びに来て親父やお袋の遊び相手をしてくれている。
親父がミットを持って、「ジャブ、ジャブ、ワンツー!」と声を掛けると、幼稚園児たちは真剣にパンチを繰り出していた。
順番待ちの子供達は、きちんと正座してジッと見学している・・・可愛い過ぎる!
なんで家でボクシングを教えているかというと、俺の親父は昭和32年度社会人ボクシング大会のライト級チャンピョンで、現役引退後は糸魚川ボクシングクラブを運営していたのだ。
地方のアマチュアボクシングクラブには珍しく、ちゃんとしたリングやサンドバックなどの練習機材が一式揃っていて、俺の子供の頃はジムが近所の子供達の遊び場だった。
ジムはクラブのスポンサーの一人でもある叔父が経営する土建屋の建屋を借りていて、最盛期には俺の家には若い練習生が居候したり、盛大な宴会をよくやっていた。
クラブ主催のクリスマスパーティーでは、縁側に母方の叔父がボーカルとリードギターをしているロックバンドを入れて、着飾った綺麗な若い女性も大勢来て、飲めや歌えやの大宴会。
当時では珍しい生ビールの樽(木の樽だった!)がデ~ンと置かれ、シャンパンが景気よく抜かれたが、あの頃は本当にみんなよく飲んだ。
そんな時はお袋一人では賄いが出来ないので、親戚のおんなしょ(女の衆)が動員されて、盆と正月と一緒に来た上に祝言も同時にやっているような騒ぎになることが普通だった。
今思うと夢みたいだけど、奥行二間で三尺幅の縁側にどうやってドラムセットを置いたのだろう?
バンドの編成は覚えていないけど、ドラマー、ギター、ベースの三人だけでも狭すぎるし、お客さんも八畳の座敷と六畳の茶の間をぶち抜いてもすし詰め状態だったと記憶している。
親父も若くて元気だったけど、それ以上に練習生の飲み食いの面倒や試合用のソックス(毛糸の手編み)やトランクス作りで大忙しのお袋は、一体、何時寝てるんだろうと不思議だった。
夜も遅くなってから親父が突然何人もお客さんを連れてきて、俺はよくビールや酒のツマミを買いに行かされたが、その都度、お袋は嫌な顔ひとつせず、ニコヤカにお客さんをもてなしていた。
お袋の得意料理の鳥の唐揚げは、突然の大勢の来客に手早く調理してたっぷり食ってもらって、しかも安くあげるために生まれた知恵の賜物だ。
選手の中には親父に次いでバンタム級チャンピョンになったコータローさんもいたし、北信越大会が糸魚川ボクシングジムで開催されたり、夏休みには駒沢大学のボクシング部が糸魚川に来て、合同合宿したりしていた。
なんと日本プロボクシング界の恩人、あまたの世界チャンピョンを育てた名伯楽エディ・タウンゼントをコーチとして招待したこともある。
家には若い衆がゴロゴロしていて賑やかだった。
俺が高校生の頃に土建屋の叔父が亡くなって、土建屋を廃業した機会に糸魚川ボクシングクラブも閉鎖したが、親父は今でも家の前にある糸魚川東小学校で学校の先生や子供達にボランティアでボクシングを教えている。
たまに近所の子供達もこうやって遊びにきてくれる。
映画「スタンドバイミー」を観た時、あの頃を猛烈に懐かしく思い出した。
糸魚川の人々よ、かって糸魚川には隆盛を極めたアマチュアボクシングの名門ジムがあったということを記憶しておいて欲しい。
せめて親父とお袋が生きているうちは。