ヌナカワ姫にまつわる鬼の伝説がある。
出雲が攻めて来た時、夜星武(エボシタケル)という鬼が抵抗した。
一度は出雲勢力を撃退した夜星武が喜んで踊った場所が、糸魚川市街から東に15キロくらいにある能生町の鬼舞(きぶ)という地名の由来。
正攻法では敵わぬと考えた八千鉾神が、たくさんいる妃の一人を夜星武に嫁がせる懐柔策に出て、次の戦いで勝利、夜星武が降参した場所が鬼伏(おにふし)の地名の由来。
戦国史によくでてくる、和議、そして骨抜きにして征服するパターンそのものだが、古事記の英雄譚にせよ、スサオノやヤマトタケルなどは強敵を騙し討ちで破っているので、歴史は卑怯者が勝つことになっているのですね( ´艸`)
鬼舞と鬼伏は国道8号線沿いに並んだ小さな漁村で、現在は鬼舞漁港の上に「両鬼橋」がかかっている。
夜星武の一族が住んでいた山が、能生町の「烏帽子岳・エボシダケ」で、山の名前はエボシタケルに由来するとの口碑があるが、「あんな高くて険しい山に人が住める訳がない」という人がいた。
しかし口碑とはそういったもので、出雲に追われてヌナカワ姫が糸魚川方面から逃げてきた際に鉾を納めた「鉾ケ岳」、ヌナカワ姫が生まれた「奴奈川姫の産所」、新婚時代の八千鉾神とヌナカワ姫が暮らした洞窟などなど、ヌナカワ姫伝説に登場する土地は、人が住めない峻険な環境ばかりなのは、後世の人が地元の深山幽谷や奇岩、洞窟に伝説をシンボライズさせ、また中世以降に両部神道や白山修験の影響なども受け、時代と共に変容していったからだろう。
地域ごとのヌナカワ姫伝説を並べると矛盾点や重複が多いのは、こんな理由からだと思う。
糸魚川市街地から西と信州にかけては、出雲との戦いと敗残の伝説、能生町から西の中越地方にかけては出雲から逃走する伝説が多く、八千鉾神とヌナカワ姫が仲睦まじく暮らした伝説は、上越市の海岸部のみ。
両鬼橋(鬼舞漁港)の西側が、上越方面の鬼舞、西は糸魚川方面の鬼伏なので、夜星武一族が上越方面から侵攻してきた出雲と戦い、そして破れた伝説と符合がいくのは偶然か?
そんな地域ごとの伝説のプロットに、考古学の出土状況を重ねて俯瞰すると、上越に橋頭保を築いた出雲勢力が、東から西にヌナカワ郷に侵入してきた形跡が読み取れる。
東日流外三郡誌がなんの検証もなく地域振興策に取り上げられ、後から大恥をかいた3つの自治体の轍を踏んではいけないし、文献史学だけに頼ると、思わぬ落とし穴があることを忘れてはいけないのだ。