1985年の「日航機墜落事故」の事故現場となった群馬県上野原村は、水際立った村役場の対応の見事さが賞賛され、陣頭指揮をとった村長の黒沢丈男氏は時の人となった。
自治体の首長に求められるのは「無私」とした黒沢村長も、やはり「無私の日本人」の典型。在りし日の黒沢村長
海軍航空隊関係者は、事故をつたえるテレビニュースで毅然とした態度で語る黒沢村長の姿に、「この人がいれば大丈夫」「さすが黒沢少佐!」と溜飲を下げたという。
じつは戦時中の黒沢村長は、獅子奮迅の活躍が賞賛された、海軍戦闘機部隊の名指揮官だった。
所属部隊から特攻隊員を出せと命令されても断固拒否し、どうしても出せというなら自分が先陣をきるとまで「抗命」して、ついに部下から特攻隊員を出さなかった。出世の欲がないから部下を護りきれたのだ。
が、戦後は自分の至らなさから、多くの部下を死なせてしまったという自責の念から、武勇談の類いは一切語らなかった。
戦時中の黒沢村長のことは神立尚紀著「零戦 最後の証言」に詳しい。
戦後の黒沢さんは公職追放となり、過疎の上野原村に帰郷して農業に従事し、徐々に信頼をえて村長に就任。
田舎の因習に苦労しながらも、敗戦で荒廃した人心に心を痛めて村民の道徳教育に力点を置き、破綻しかけていた村の過疎対策に尽力した。
それら功績が「日航機墜落事故」でいかんなく発揮され、上野原村の発展に余生をささげ、91歳で惜しまれながら現役を勇退。
激甚災害が多発する昨今、自治体の首長には「無私の日本人」が求められる。
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