いのりで願いがかなうなら宗教も哲学も必要はなく、有史以来どれだけの血の涙が流れてきたのか・・・。
満州の実効支配を名実化するためと、食料増産や景気対策を目的として、中国東北部への移民を奨励した国策が満蒙開拓団。実際は現地の人々の農地や家屋を武力を背景に奪って開拓団に格安で払い下げたので、現地人たちの恨みをかった。イスラエルがパレスチナでやった蛮行と同じことを日本もやった。
日本が無条件降伏を表明する直前の1945年8月9日、不可侵条約を破ったソ連軍が満州侵攻。
満州地域を支配していた帝国陸軍の関東軍は僅かな部隊に守備を命じ、30万の満蒙開拓団を見捨てて退却。8月16日にあっさりと武装解除したために無辜の開拓団はソ連軍の欲しいままとなり、集団自決をする開拓団が相次いだ。祈っても奇跡はおこらなかったのだ。
そんななかで岐阜県の黒川開拓団はソ連軍と交渉して、10代独身の乙女15名を性接待させる条件で安全をとりつけた。しかしソ連兵の扱いは性奴隷そのもので、彼女たちは暴行でアザだらけとなり、性病をうつされた。
みんなを守るためと泣いてガマンし続けた乙女たち・・・が、引き揚げ後の黒川村はこの事実を封印し、乙女たちはキズモノ、汚れモノと誹謗中傷されて離村せざるを得なかった。
戦後何十年も経ってから、当事者のひとりの佐藤ハルエさんが実名で公表したが、キワモノ扱いされて大きな話題にはならなかったようだ。風向きがかわったのがロシアのウクライナ侵攻である。
この悲劇を扱ったアーカイブ映像がYouTube動画で視聴できるが、書籍も何冊か出版されている。
同じ悲劇を繰り返してはいけないと他の当事者たちが名乗り出て、ついに黒川村は封印してきた事実を公に認め、開拓団の悲劇を刻んだ碑を建立した。
そして新たな証言もでた。日本軍は橋を爆破して退却したので、帰国する際の黒川村開拓団は河を渡ることができず、14歳の女の子をソ連軍に差し出す代わりに河を渡してもらったそうだが、その女の子はどうなったのだろう?
戦後は誹謗中傷されて黒川村に住めなくなったハルエさんは、シベリア抑留者だった夫にすべてを話して結婚。力をあわせて戦後を懸命に生きた。現在は家族の理解をえて戦争体験の語り部をしているが、お孫さんは「わたしたちが今あるのは、おばあちゃんのお陰」と言ってくれるのだそう。
8月15日は終戦にあらず。
戦争犠牲者とは戦死者のみにあらず。
弱者の武器は声をあげること、史実と真摯に向き合い同じ過ちを繰り返さないこと。
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