1.15(水)
1996年度の人文専修の卒業生で私が卒論指導をしたAさんから久しぶりのメールが届く。彼女は卒論でTVドラマ『北の国から』を取り上げた。私も『北の国から』のファンの一人で(それで卒論指導を引き受けたのだが)、初回の指導のときに『倉本聰研究』(理論社、1990年)という本があるのをご存知ですかと尋ねたら、すでに彼女はその本を読んでいて、「私のバイブルです」と答えたのが印象的だった。卒業後も『北の国から』の新作がTVで放送される度にメールで感想を述べ合ったりしてきたが、その『北の国から』が昨年9月に放送された『‘02遺言』をもってついにシリーズを終了した。本来であれば、すぐに感想のメールの交換があるとろころなのだが、Aさんも私もそれをしなかった。彼女の事情はわからないが、私がそれをしなかった理由は『’02遺言』の作品としての出来に不満があったからである。少なくとも『北の国から』シリーズの最後を飾る作品としては不満であった。『北の国から』は家族の物語である。物語は、妻に浮気をされた男(黒板五郎)が妻と別れて、2人の子供(純と蛍)を連れて故郷の富良野に帰ってくるところから始まる。子供たち(とくに兄の純)は水道も電気もない生活に大いに不満であり、そうした場所に自分たちを連れてきた父親に不満であった。長期的に見れば、物語は父親と2人の子供の絆の回復・強化の過程である。もちろんその過程は単純に一方向的なものではなく、子供たちの成長とそれに伴うさまざまな出来事を通して行きつ戻りつする。行きつ戻りつしながらも、視聴者は彼ら親子がいつか必ず幸福になることを疑わない。事実、『‘02遺言』の結末はそういうものであった。しかし、その展開はあまりにも速すぎた。唐十郎演じる伝説の漁師が五郎に向かって「あんた、凄い人だ。」と言ったり、ラストの駅のホームのシーンで「父さん。あなたはすてきです。」という純のナレーションが流れたり、そういう直接的な説明(台詞)で五郎という人物をあっさり美化してしまった。『北の国から』のファンはそんなことは言われなくてもわかっているのである。言わずもがなのことを言われてしまうと、聞かされるほうは興冷めがするものである。明らかに倉本は焦っていた。本当は最終話まであと数本の構想が彼の頭の中にはあったはずだ。それが突然のシリーズ打ち切りで、その数本のゆるやかな過程を圧縮して脚本にしなくてはならなくなった。その結果、私には『’02 遺言』は放送を見逃した数本の作品の総集編のように見えた。今回のAさんのメールには『北の国から』が終わってしまったことを残念に思う気持ちが書かれていたが、『’02遺言』についての評価はとくに書かれていなかった。だから上記のような負の評価を返信のメールに書くことには多少の躊躇があった。もし彼女が『’02遺言』に満足したのであれば、私の感想はそれにケチを付けることになるからだ。しかし、結局、そのメールを返したのは、きっと彼女も私と同じように感じているだろうと思ったからである。
1.16(木)
Aさんから返信あり(送信時刻を見ると勤務中に書いているものと思われる)。『‘02遺言』への私の感想に同感とのこと。やっぱり、と思う。とろで、彼女はリクルートに勤めているのだが、私がこれまで卒論指導をした学生のうち彼女を含めて5人(社会学3人、人文2人)がリクルートに就職している。一番の年長はAさんの一つ上の学年だったMさんで、彼女は昨年、「東京に近い地方での編集職」を希望して仙台へ転勤となり、そこで結婚情報誌『ゼグシィ』(東北版)の編集の仕事をしている(ただし彼女自身は未婚)。一番の年少は2年前に卒業したT君で、彼は早稲田大学の担当とかでよく大学に顔を出している。リクルートは若い人たちの会社のようで、みんな元気に働いている。
1.17(金)
朝、TUTAYAに返却する予定のCD4枚を忘れて家を出る。これで延滞料(190円×4枚)を取られるはめになった。朝からついてない。雑用が夕方までに終わらず、夕食は食べて帰るからと家に電話して、午後9時頃まで研究室で仕事。帰宅すると、「お父さん、このごろ帰りが遅いけど浮気でもしているんじゃない」と娘が夕食のときに妻に真顔で言ったという話を妻から聞かされる。あのなぁ・・・・。おそらく娘の友達にそういうことでもめている家の子がいるのであろう。しかし、弱ったな、来週は、タイミングの悪いことに、卒業生との食事会やクラス・コンパとかで、夕食を外でとる日がいつもより多いのだ・・・・。
1.18(土)
センター試験の試験監督で一日中立ち通しで足が棒になった。夕方、くたくたになって地下鉄の駅へ向かう途中の道で、携帯電話に伝言が入っていることに気づく。昨日の朝、H君が亡くなったという知らせだった。H君は大学院での私の1年後輩で、当時は、よく一緒に食事をしたり(彼はよく飲み、私はよく食べた)、雀卓を囲んだりした(彼は強く、私は弱かった)。彼とはもう何年も会っていなかったが、某大学の非常勤講師をしていて二日酔いで教室に現れたりするので職員の人が困っているという話を人伝に聞いていた。数ヶ月前、脳梗塞で入院し、半身不随と言語障害が残り、しかし、一時は回復の兆しがみえていたそうなのだが・・・・(後記:実は彼の命を最終的に奪ったのは、脳梗塞ではなく、その後に発見された骨髄腫瘍による敗血症であることを知った)。本人の希望で葬儀は一切行わず、遺体はすでに荼毘にふされたとのことだった。家族は母親と弟が一人で、妻子はいなかった。47歳の死はどんなにか無念の死であったろう。合掌。
1.19(日)
ぼんやりと過ごす。
1.20(月)
(この3月末で定年退職される佐藤慶幸教授の最終講義。専修主任として前説を務める。)
佐藤先生の講義に先立ちまして、貴重なお時間を5分ほど頂戴し、佐藤先生のご紹介をさせていただきます。先生は1933年(昭和8年)のお生まれで、岐阜県の中津川のご出身です。1933年という年は日本が国際連盟を脱退した年であり、「暗い谷間の時代」でありました。終戦のとき、先生は12歳でした。地元の県立中津高校を卒業され、早稲田大学第一文学部社会学専修に入学されたのは1952年です。以後、1956年に学部を卒業されて早稲田大学文学研究科に進まれ、1959年(26歳)に文学部助手となられ、1963年(30歳)に文学部専任講師、1966年(33歳) に助教授、そして1971年(38歳)に教授となられました。
私が早稲田大学第一文学部に入学したのは、先生が教授になられて間もない1973年で、先生の講義を初めて拝聴したのは3年生のときでした。ちなみに現在の社会学専修の先生方の中で私が学部時代に講義を拝聴したのは佐藤先生と正岡先生のお二人だけです。もう30年近く昔のことになります。そのときの先生の印象は、知的で、スマートで、背筋が伸びて姿勢のいい先生だなというものでしたが、それはいまも変わっておりません。
講義の中身でいまでもよく覚えているのは、初回の授業で、いきなりドイツ語の長い文章を黒板いっぱいに書かれたことです。おそらくマックス・ウェーバーの『社会学の根本概念』の一節であったと思います。先生のご専門は理論社会学で、とくにマック・ウェーバーの社会的行為論を深くご研究されており、1982年(49歳)に博士号をお取りになったときの論文のタイトルも『アソシエーションの社会学:行為論の展開』というものでした。
しかし、先生は理論社会学の書斎にただ閉じこもっているだけの方ではありませんでした。1980年代の中ごろ、先生にひとつの転機が訪れました。それは「生活クラブ生協」という運動との出会いでした。先生はウェーバーの行為論の研究から出発して、目的合理的行為のシステムとしての官僚制や資本主義社会の限界や病理を克服する、乗り越えるための方法論として「アソシエーション」とう社会関係に着目されていたのですが、「生活クラブ生協」の運動はまさにその「アソシエーション」の具体的形態の1つであったのです。この出会いを契機として先生は理論社会学という書斎のドアを開けられて、現実的で実践的な社会活動の展開に研究の眼を向けられるようになったのだと思います。
本日の最終講義のタイトルは「言語論的転回とアソシエーション」です。私もこれからフロアーで聴衆の一人として、30年前に初めて聴いた先生の講義と本日の講義を結びつけながら、先生の研究者としての歩みを追体験したいと思います。では、佐藤先生、よろしくお願いいたします。
1.21(火)
昨日、我が家にADSLが開通した。無線LANも設定し、娘が自分の部屋で自分のパソコンで利用できるようにした。業者に来てもらって一切をやってもらったのだが、5時間くらいかかった(料金は1万5千円)。さっそく試してみたところ、有線のデスクトップパソコンと無線LANラン内蔵のノートパソコンは問題なくインターネットにつながるのだが、無線LANカードを入れたノートパソコン(娘のパソコン)の接続が不安定で、突然切れたりする。無線アクセスポイントを設置した2階の私の書斎と3階の娘の部屋の距離(および間の遮蔽物)のためか、受信レベルが低い。問題はもう1つあって、どうも近所の家の無線アクセスポイントの電波を拾っていて、おまけにそちらの電波の方が強いのである。試しにこちらの電波を切ってみたところ接続が安定した(!)。こんなのありなのだろうか。やれやれ。
1.22(水)
昼過ぎに日比谷で或る会合があって、少し早めに着いてしまったので、プレスセンター1階の「JUNKUDO(淳久堂)書店」で時間を潰す。ちょうど『村上春樹全作品1990~2000』の第2巻(『国境の南 太陽の西』と『スプートニクの恋人』が収められている)が出ていたので購入する。3時に会合が終わり、研究室に戻る途中、ちょっとお腹が空いたし(朝が遅かったので昼食をとっていなかったのだ)、買ったばかりの本にも目を通したいので、早稲田駅側の「シャノアール」に入り、ハムトーストとコーヒーを注文する。「シャノアール」は蒲田の商店街の中にもあり、散歩の途中で買った古本を読むためによく利用するのだが、コーヒーが250円、ハムトーストが280円と本当に安い。難はテーブルと椅子が小さいこと(座席数を多くするため)と、分煙のシステムがちゃんとできていないことだが、この低料金なのだ、あまり贅沢は言えまい。注文を終えて、さっそく村上春樹の「解題」を読む。彼が中篇小説というものを自分の中でどう位置づけているかという話と、『ねじまき鳥クロニクル』が完成するにあたって彼の妻(彼の作品の最初の読者)が果たした役割についての話が興味深かった。
夜、渋谷の「DOMA」という居酒屋で、社会学専修の卒業生のY君、H君、Tさんと会食。卒業生といっても「教え子」ではなく、私が大学院生の頃、正岡先生の調査実習の授業の手伝いをしていて、そのとき学生だった人たちで私は「先輩」のようなものである。卒業してちょうど20年で、3人とも40代の前半の年齢である。Y君は鉄道会社の広報課長、H君は出版社の営業部長、Tさんはベンチャー企業のディレクターである。彼らはときどき連絡を取り合って会っているらしいのだが、私が彼らに会うのは20年ぶりなのである。先日、Y君が会社の昼休みに(本当に昼休みなのだろうか?)インターネットを検索していて私のホームページを発見し、その感想をメールで送ってくれたのが今回の会食の発端である。ホームページを公開していると、たまにこういうことがあるから楽しい。Y君からはお土産に彼の会社の関連の映画(小さな中国のお針子)のチケット2枚、美術展(メトロポリタン美術展)のチケット2枚、そしてT電鉄の無料乗車券1枚をいただいた。無料乗車券は「終点まで乗っても無料です」とのことだったが、行ったら帰ってこなくてはならないのだから、できれば他のチケット同様に2枚いただきたかったが、「先輩」の株が下がるので言わずにおいた。私の方からは早稲田グッズの店で買った「ビッグベア」の携帯ストラップ(400円)を3人に進呈した。
1.23(木)
午前10時からK君の修士論文の最終試験(面接審査)。K君は博士課程には進まず、4月からNHKの記者になることが決まっている。就職口が決まっている人の試験というのは気分的に楽である。
1.24(金)
1週間の疲れが出たのであろう、昼まで熟睡。
1.25(土)
風邪が抜けきっていないような感じなり。少し寒気がする。終日、自宅で過ごす。
1.26(日)
学会の機関紙の投稿論文の査読の締切が昨日であった。徹夜で、論文を読み、査読のコメントを書き、明け方、近所のポストに速達で投函する。その後、昼近くまで寝て、散歩に出る。「南天堂書店」で岩波文庫版の『道草』と、これも岩波文庫でH.G.ウェルズ『タイム・マシン』を購入。『道草』はもちろん筑摩書房の『夏目漱石全集』に入っているが、電車の中で読むにはやはり文庫に限る。『タイム・マシン』の方は映画のDVDを借りる前に原作を読んでおこうと思って。
1.27(月)
起きたら午後1時近かった。テレビを付けると「笑っていいとも」のエンディングの場面だった。い、いけない。私は、というか人間は、本来夜行性の動物なので、「今日は2限の授業があるから8時には起きなくてはいけない」といった外的強制力が消滅すると(学部の授業は先週で終わったのだ)、起床時間がどうしても徐々に遅くなっていくのである。昨日も(という表現は正しくないだろう)寝たのは午前6時だった。だから睡眠時間としては7時間で、とくに寝すぎているわけではない。しかし、やはり、午前中には起床しないといけないだろう。誰に迷惑をかけているわけではないのだが、何となく世間に申し訳ないという感じで、寝覚めがよくないのである。
1.28(火)
来年度の講義要綱の校正作業。自分の授業の分だけなら簡単なのだが、今年は専修主任なので、社会学専修の49科目全部の初稿に目を通さなくてはならない。疲れたが、面白かった。実を言うと、たぶんこれはわが専修だけのことではないと思うのだが、同僚が来年度どんな内容で授業をやるのかわれわれは知らないのである。もちろん社会学の授業をやるということはわかっているが、具体的にどんなテーマでやるのかはふたを開けてみるまでは、つまり3月下旬に出来上がる講義要綱を見るまではわからないのである。別に秘密にしているわけではない。聞けば答えるし、聞かれれば答えます。でも、聞かないんですね。マナーなのか、無関心なのか、たぶん自分のことだけで精一杯なんでしょう。ところが、今回は、専修主任の役得(?)で、いまの時点で全科目の内容がわかってしまった。感想は・・・・面白かった。自分が学生なら出てみたい授業がいくつもあった。そうか、みんな面白そうな授業をやっているんだと、変に感心してしまった。その上、自分もしっかりしなくちゃなと、殊勝な気持ちになってしまった。ちなみに私が学生なら出てみたい授業(社会学専修科目)のベスト5を順不同で言うと(言っちゃっていいのか?)、「社会科学論」(森先生)、「社会学概論2」(長谷先生)、「社会学研究11・12」(土井先生)、「社会学演習ⅢB」(長田先生)、「社会学原典講読5」(道場先生)である。もちろんこれはあくまでも講義要綱を読んでの判断ですからね、実際に授業に出て、「なんだ、面白くないじゃないか」と言われても責任は取れませんからね。えっ? 自分の授業が入ってないじゃないかって? はい、私はその程度には謙虚な人間なのです。
1.29(水)
終日、書斎に篭って卒論を読む。ひたすら読む。なにしろ20本である。これが終わったら(まだ数日かかるが)、「社会学研究10」の試験の採点が待っている。なにしろ250枚である。おまけに成績評価の事務所提出は2月3日である。前期試験の成績評価は夏休みを間にはさんで10月末までと超余裕なのに(もっとも、私、数日遅れましたが)、なんで後期試験の成績評価はこんなに短期間に出さねばならないのだ!(・・・・なんてことを書くと、では、前期試験の成績評価を8月3日にしますなんて言われかねないので、はい、頑張って採点しま~す)。
私の講義をとっている学生Yさんからメールが届く。この「フィールドノート」の愛読者ですが、要望が1つと、質問が1つありますとのこと。要望は「フィールドノート」は更新した分を先頭に掲示してほしいというもの。質問はなぜ「日記」を公開しているのかというもの。もっともな要望であり、質問である。まず、要望の方だが、多くのホームページの日記は確かに新しいものが先頭に置かれている。私もそれに従おうと考えなかったわけではなかった。しかし、頻繁にアクセスして下さっている方には申し訳ないが、「現在」を先頭に置いて「過去」に遡及するという形式は日記というものが本質的にもっている時系列性あるいは因果性というものにマッチしないのではなかろうか。ただし、折衷案として、過去のバックナンバー(1ヶ月単位)は時系列的な形式で保存しておいて、当月分は遡及的な形式で掲載するという方法はあるかもしれない。次に、質問の方だが、公開される日記は通常の日記とは違うものである。私は通常の日記は付けていないが、もし付けていたとしても、それをそのまま公開するということはありえないだろう。通常の日記(もしそれがあったとして)を私が公開しない理由は、恥ずかしいからではなくて、それでは読み手にとって面白くないだろうと思うからである。永井荷風も高見順も(この二人の日記は日記文学の双璧である)「作品としての日記」を公開したのである。二人の文豪の名前を出した後で恐縮だが、「フィールドノート」も日記という形式(文体と言ってもいい)を借りた作品なのである。そしてすべて作品というものは、人の目にさらされることを前提にして制作に取り組まなければ、「たるむ」ものである。
1.30(木)
授業と研究会で大学へ出る。帰宅後、卒論をひたすら読む。合間にインターネットで買物。洋書を1冊とCDを2枚。洋書は、Jay Rubin, Haruki Murakami and the Music of Words, 2002, The Harvill Press. アメリカの文芸評論家(村上春樹の作品の翻訳家でもある)による村上春樹論である。CDの方は、永井龍雲の「ベスト’97」と「龍雲ベスト2002『25色の肖像』」。永井龍雲は以前から気になっていた歌手である。フォーク大全集といった類の10数枚組のCDには必ず彼の「道標ない旅」(1979年)が収められている。美しい高音で伸びやかに歌い上げたその曲は「健康的な尾崎豊」といった印象を私に与えた。しかし、その後の彼については何も知らなかった。それがふと思いついてインターネットで検索してみたところ、彼はいまも現役の歌手でアルバムも出していることがわかった。それが上記の2枚のCDである。
1. 31(金)
午前、修士論文の面接試験を1件。午後、卒業論文の口述試験を9件。今日の分の卒論で一番面白かったのは、電車内という空間における規範をテーマにしたAさんのものだった。アンケート調査と観察に加えて、実験を行ったところがポイントである。向かいの座席に座っている人の顔をずっと見つめたり、車内がガラガラのときにあえて人の隣に密着して座ったり、といった「おかしな」行動をして、そのときの相手の反応を観察したのである。そういう実験を一見清楚で大人しそうなAさんが平気な顔でしている情景を想像して、私は論文を読みながら可笑しくてたまらなかった。さぞや相手は面食らったことであろう。「よくやれたね」と私が言うと、Aさんは「面白かったです」としとやかな口調で答えた。これだから人はみかけによらないというのだ。ちなみにAさんは4月から日本航空のスチュワーデスになる。「グッド・ラック」と私が言うと、Aさんはにっこり笑って、「あちらは全日空ですから」と言った。れ、冷静だ。