8時半、起床。あっ、「梅ちゃん先生」を見損なったと思ったら、今日は日曜日だった。朝から雨の降る日曜日。
焼きソーセージ、レタス、パン、紅茶の朝食。
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午前中に査読を依頼されている論文を読んで、結果をメールで担当者に送る。
午後、散歩に出る。雨は、雨だけであれば(風を伴わなければ)、散歩の妨げにはならない。傘を差せばいいだけのことである。
カキフライでも食べようと、東急プラザ7Fの「とん清」に行ってみたが、まだカキフライはメニューに出ていなかった。10月からだろうか。それで生姜焼き定食(950円)を注文する。写真ではもっと厚味のある肉のはずであったが、実際には薄い肉であった。薄い肉をキャベツの山に立てかけるように盛り付けてあるのだが、薄いためにヘナヘナと腰砕けになっていて、少々情けない姿である。薄手の肉3枚だけでご飯を食べきるのは困難だが、味噌汁と漬物とキャベツの支援を得て、食べきることができた。生姜焼きは食べたいけれどカロリーの高さが気になる・・・という人にはちょうどよいかもしれない。
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食後のコーヒーは「ルノアール」で。近くのテーブルに見知った顔の女性がいると思ったら、あるコースの助手の方だった。目が合うと、私のところまでやってきて、挨拶をされた。一緒にいた男性も紹介され、初めましてと挨拶を交わした。蒲田は彼の地元なのだという。
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「ルノアール」にしたのは読みかけの小説、白岩玄『野ブタ。をプロデュース』(河出文庫)を最後まで読んでしまいたかったからである。TVドラマ『野ブタ。をプロデュース』(2005年)の原作であるが、私はTVドラマの方しか知らなかった。TVドラマで掘北真希が演じたいいじめられっ子の小谷信子は、原作では小谷信太という男の子で、TVドラマで主人公の桐谷修二(亀梨和也)の相棒として信子のプロデュース(いじめられっ子→人気者)に協力する草野彰(山下智久)は原作にはない人物であることは知っていたし、結末も原作とドラマでは違うらしいということも知っていたが、秋学期の演習とのかかわりで、実際に読んでみようと思ったのである。芥川賞の候補になっただけのことはあり、とても面白かった。斉藤美奈子は「解説」の中で書いている。
「そもそも「装われた自分」と「本当の自分」との分裂という問題は、文学のテーマとしては、そう珍しいものではありません。太宰治作品における「道化」や、三島由紀夫作品における「仮面」はその典型的な例ですし、文学者を「仮面紳士」と「逃亡奴隷」という二つの類型に分けて見せたのは伊藤整でした。
その意味で『野ブタ。』もまた普遍的(古典的?)なテーマを扱っているとはいえるのですが、この小説が特異なのは、 それをきわめて現代的な意匠の中にぶちこんでしまったことです。現代的な意匠とは、今どきの高校生の中に生態をリアルに活写しているという意味ではなく(それも本書の大きな魅力ですが)、すべての人間性が「キャラ」に集約されてしまうような時代性のことです。
『野ブタ。』は「俺」という一人称で綴られています。しかし、地の文を語っている「俺」は、着ぐるみで武装したキャラとしての「桐谷修二」なのでしょうか、それとも武装を解いた「本当の自分」なのでしょうか。
残念ながら、そこは判然としていません。というか、その両方がマダラ模様のように入りまじっているのがこの小説の文章なのです。」
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読み終えて、帰宅してから、宇野常寛が『ゼロ年代の想像力』(ハヤカワ文庫)の中で『野ブタ。をプロディース』の原作とTVドラマを比較していたあたり(第8章)を改めて読んでみる。
「木皿泉がこのドラマ化にあたって課せられた使命は、原作小説では終わりのないバトルロワイヤルの中でやがて擦り切れて、惨めに敗北しながらもゲームを離脱することのできない器用貧乏の少年を救うことだ。小手先の器用さに溺れ、自分の力に酔う小さな、そして極めて優秀な(メタ)決断主義者を、どう着地させるのか・・・(中略)・・・原作での「救うものと救われるもの」という二者関係は、修二・彰・信子の三人組の「プロデュース」チーム=共同体として描かれることになる。/この共同体は、物語が進むにつれ、その有限性によってむしろ可能性が開かれた『木更津キャッツアイ』的な共同体へと成長していくことになる。」(199-200頁)
なるほどね。