フィールドノート

連続した日々の一つ一つに明確な輪郭を与えるために

9月27日(木) 晴れ

2012-09-28 00:01:19 | Weblog

  8時、起床。「梅ちゃん先生」のテーマソングで起きる。残りはあと2回。「終わりなき日常」にも終わりは来るということ。

  食パンを買いに近所のコンビニへ。買物を終わって、コンビニの外を出てると、空には秋の雲。夏子のことはもう忘れよう。さよならも言わずに、どこか遠くへ行ってしまった。

  カレー、トースト、牛乳の朝食。

  演習「ケーススタディの方法」と選択基礎演習2「日常生活の社会学的探究」のコースナビに自己紹介用BBSを設置する(そのことを受講生にメールで知らせる)。「ライフストーリーの社会学」の受講生に初回休講(およびその補講について)のメールを出す。

  昼から大学へ。

  昼食は「たかはし」の刺身定食(鯛と鮪)。稲畑先生と千野先生と一緒になる。「たはかし」の前身で、文キャンの目の前にあった「万福」の思い出話をする。私が好きだったメニューは、トン汁定食とチキンカツ定食である。

  1時から現代人間論系のゼミ・卒研ガイダンス。

  前半の1時間はゼミ担当教員の話。後半の1時間はゼミごとにブースに分かれて、学生は各ブースを回って教員と先輩(ゼミ3・4年生)から説明を聞くという方式。20分くらいで入れ替えの合図があって、第一波、第二は、第三波と来たわけだが、私のところには第一波はけっこう来たが、第二波、第三波は数人しか来なかった。成績のことを気にしている学生が多かったが、成績はよいに越したことはないが、それだけで決まるわけではない。あまりあれこれ考えずに、素直に、希望するゼミを申請して、「志望理由書」を一生懸命書くことです。

  ガイダンスが終わって、3時半から現代人間論系の教室会議。来年度の時間割など時間のかかる議題が多くて疲れた。

  会議を終えて、研究室で雑用を片付けてから、大学を出る。

  9時頃、帰宅。


9月26日(水) 晴れ

2012-09-27 01:39:14 | Weblog

  7時半、起床。今日は午後に教授会がある。いつもであれば朝から緊張感があるのだが、もう教務ではないので、それはない。では、気持ちが晴れ晴れしているかというと、そうでもない。別件で気分が重いことがあるからだ。何もかもから解放されるなんてことはありえないのだな。

  焼肉、キャベツ、ご飯、冷麦茶の朝食。 

  はす向いのAさんのご主人が先日亡くなった。私の父と同じ享年81歳だった。今朝、Aさんの奥さんと道で会ったので、お悔やみを申し上げ、しばらく立ち話をした。看病の話が主だったが、Aさんの奥さんとはこれまで道であって挨拶を交わすくらいで、話らしい話をしたことがなかったが、今日は初めてそれができたような気がする。Aさんの奥さんもなんだか満足されたようすだった。われわれが立ち話をしている間、通りかかった近所の方が何人もお悔みの言葉をかけて行った。Aさんの奥さんはこれからしばらくの間、近所の方たちと話をたくさんされることだろう。そうやって塞ぎがちな気分が少しでも緩和されたらと思う。

  教授会は2時からで、大学に着くのは1時40分くらいになりそうだったので、昼食の弁当を蒲田駅で買って、研究室で食べる。買ったのはかしわ弁当。甘辛の鶏肉と錦糸卵がご飯の上にのっている。けっこういける。お茶は教員ロビーのお茶の機械からもらってきた。

  教授会は時間になったら手ぶらで出かけて行けばいいのだから、楽なものである。新しい教務の先生方が紹介されたが、みなさん、どうかくれぐれもお体大切に。

  教授会の後、1つ会合があって、6時半に大学を出る。

  蒲田に着いてTSUTAYAでTVドラマ『すいか』(2003年)のDVDを1枚(1~3話)を借りる。授業(演習「ケーススタディの方法」で使用するかもしれないので、予習である。

  帰宅したら、ネットで注文しておいた、『木更津キャッツアイ』と『野ブタ。をプロディース』のDVD-BOXが届いたいた。もちろん教材として購入したのである。


9月25日(火) 曇り

2012-09-26 02:29:48 | Weblog

  8時、起床。「梅ちゃん先生」も今週で終わる・・・はずだが、いつもと同じような調子で話が続いている。エピソードの集積として成り立っているストーリーなので、フィナーレへ向けての大きなうねりというようなものはないのである。あるとき始まって、あるとき終わる、でも、登場人物たちの人生はまだ続く、そういうストーリーである。

  ウィンナーとキャベツの炒め、トースト、紅茶の朝食。

  昼食は自宅でちらし寿司。

  新宿の紀伊国屋画廊で開催中(本日が最終日)の増田常徳展「不在の表象」に出かける。

   新宿にはたまにしか来ない。銀座は碁盤の目のようなストリートに沿って人が歩いている。渋谷はすり鉢上の斜面を人が上り下りしている。ここ新宿では平坦な面にジワーと人が広がっていく。

  増田さんは1年半前の震災以来、原発問題に強い関心を持って、それを作品にしている。持続する精神。元々、ガスマスクを被った人間は増田さんの作品にはよく登場していたが、おそらくそれはアウシュビッツのガス室や近未来的な化学兵器や生物兵器と関連するものであったろう。それが今回は原発事故の処理にあたる人たちや、危険地域で生活する人たちを描くための表象となっている。描かれている人物はみな地面から浮遊している。それは彼らが幽霊であるからなのか、存在論的な不安をかかえて生きている人間であるからなのか、どちらにもとれそうである。

  紀伊國屋書店で、以下の本を購入。

    野間俊一『身体の時間 〈今〉を生きるための精神病理学』(筑摩選書)

    斉藤環『被災した時間 3.11が問いかけているもの』(中公新書)

  帰りは高田馬場から東西線に乗り、神楽坂で下車して、「トンボロ」で一服。この頃、神楽坂でよく降りるが、それは「隣町」というものが自分には面白く感じられるからである。大森や池上は蒲田の隣町であり、神楽坂は早稲田の隣町である。自宅や職場のある街は日常生活の舞台であるが、その隣町は、少しばかり非日常的な場所である。日常と非日常の狭間といってもいい。見知った街でも、見知らぬ街でもない、そういう隣町を歩くのがこの頃面白く感じる。自分の世界を広げたいような、自分の世界に閉じこもりたいような、どちらの気分もある。

  有楽町で途中下車して、シャンテシネで『最強のふたり』を今日こそ観ようと思ったが、妻に「映画を観て帰るから今夜は外食」とメールしたところ、「ラジャー」ではなく、「豚シャブだったのに」と返信があった。私はとくに豚シャブに目がないというわけではないが、その文面にいささか拗ねたような雰囲気を感じ取ったので、「じゃあ、帰るね」と返信して、有楽町の駅に引き返した。非日常もいいが、日常も大切にせねばならない。


9月24日(月) 晴れ、夕方から雨

2012-09-25 11:51:28 | Weblog

  7時半、起床。久しぶりの青空。やっぱり書斎のカーテンを開けたときに青空だと気分がいい。

  ポトフ、トースト、牛乳の朝食。

  午後から大学へ。東京駅の丸の内駅舎の復元工事がほぼ終わった。

   神楽坂で途中下車して、赤城神社の敷地の中にある「赤城カフェ」で昼食をとる。ランチメニューの中から、「バジル入りハンバーグ トマトクリーム煮込み ペンネ添え+サラダ」(コーヒー付き)を注文する。店内は明るく、ご近所の奥様方やOLさんたちの利用が多く、女子会的おしゃべりに満ちた空間である。料理は美味しかったが、ワンプレート風というのだろうか、ハンバーグとペンネの入った皿の中にさらにサラダの皿が入っているというのは食べずらかった。テーブルの上に別々に置いてほしいと思う。

   赤城神社の脇にあるパン屋さん「亀井堂」で、評判のクリームパンを購入。神楽坂で途中下車したのは、「赤城カフェ」で昼食をとるためというよりも、ここのクリームパンを食べてみたかったからである。研究室でお八つに食べたが、なるほど、評判だけのことはあると思った。カスタードクリームがとてもふんわか、プルンプルンしていて、幸福感をかもしだしていた。しかも思いのほか大きいパンなのだ。1個200円。


一番人気の商品らしく店内にはクリームパンがいっぱい並べられていた

   銀行に寄って、通帳からの引き出し停止の手続きをする。夏休みに入る前に記帳をしたのだが、その後、通帳が行方不明になっている。家の中での迷子だと思う。印鑑がなければ通帳での引き出しはできないが、万が一ということもあるので、銀行の人と相談してそうすることにした。この口座は私個人のお小遣いを管理している口座で、家計の口座(名義は私だが妻が管理している)とは別である。通帳がなくても、カードによる引き出しや、カードによる買物には差し支えないのだが、記帳ができないことだけが困るといえば困る。新しく通帳を作ると1000円の手数料がかかるので、それはもうしばらく探してからにする。ひょっこり出てこないだろうか。

  研究室の片づけ。捨てる一方だから、だんだんすっきりはしてくるが、それは私が以前の状態を知っていてそれと比べるからそう思うだけで、たぶん、いま初めて研究室のドアを開ける人がいたとしたら、何て散らかった部屋だと思うことだろう。

  4時から3年ゼミのゼミ長のN君とOさんと27日(木)のゼミ・卒研ガイダンスの件で相談。ガイダンスは現代人間論系の2年生が対象で、13:00から15:00まで、36号館382教室で行われるのだが、前半はゼミ担当教員による各ゼミの簡単な紹介。後半は、ゼミごとに教室内でブースに分かれ、学生が各ブースを回ってより詳しい話を聞いたり質問をしたりすることになっている。3年生にはそのときに相談係になってもらうのだが、何か配布資料(ゼミ要項とは別にもっとインフォーマルなゼミ紹介のチラシのようなもの)があった方がいいだろうということになり、0さんが編集をしてくれることになった。

  研究室を出たのは6時過ぎ。夕方からパラパラと降り始めた雨が、急に激しさを増した。


9月23日(日) 雨

2012-09-24 02:55:12 | Weblog

  8時半、起床。あっ、「梅ちゃん先生」を見損なったと思ったら、今日は日曜日だった。朝から雨の降る日曜日。

  焼きソーセージ、レタス、パン、紅茶の朝食。

  午前中に査読を依頼されている論文を読んで、結果をメールで担当者に送る。

  午後、散歩に出る。雨は、雨だけであれば(風を伴わなければ)、散歩の妨げにはならない。傘を差せばいいだけのことである。

  カキフライでも食べようと、東急プラザ7Fの「とん清」に行ってみたが、まだカキフライはメニューに出ていなかった。10月からだろうか。それで生姜焼き定食(950円)を注文する。写真ではもっと厚味のある肉のはずであったが、実際には薄い肉であった。薄い肉をキャベツの山に立てかけるように盛り付けてあるのだが、薄いためにヘナヘナと腰砕けになっていて、少々情けない姿である。薄手の肉3枚だけでご飯を食べきるのは困難だが、味噌汁と漬物とキャベツの支援を得て、食べきることができた。生姜焼きは食べたいけれどカロリーの高さが気になる・・・という人にはちょうどよいかもしれない。

  食後のコーヒーは「ルノアール」で。近くのテーブルに見知った顔の女性がいると思ったら、あるコースの助手の方だった。目が合うと、私のところまでやってきて、挨拶をされた。一緒にいた男性も紹介され、初めましてと挨拶を交わした。蒲田は彼の地元なのだという。

  「ルノアール」にしたのは読みかけの小説、白岩玄『野ブタ。をプロデュース』(河出文庫)を最後まで読んでしまいたかったからである。TVドラマ『野ブタ。をプロデュース』(2005年)の原作であるが、私はTVドラマの方しか知らなかった。TVドラマで掘北真希が演じたいいじめられっ子の小谷信子は、原作では小谷信太という男の子で、TVドラマで主人公の桐谷修二(亀梨和也)の相棒として信子のプロデュース(いじめられっ子→人気者)に協力する草野彰(山下智久)は原作にはない人物であることは知っていたし、結末も原作とドラマでは違うらしいということも知っていたが、秋学期の演習とのかかわりで、実際に読んでみようと思ったのである。芥川賞の候補になっただけのことはあり、とても面白かった。斉藤美奈子は「解説」の中で書いている。

  「そもそも「装われた自分」と「本当の自分」との分裂という問題は、文学のテーマとしては、そう珍しいものではありません。太宰治作品における「道化」や、三島由紀夫作品における「仮面」はその典型的な例ですし、文学者を「仮面紳士」と「逃亡奴隷」という二つの類型に分けて見せたのは伊藤整でした。
  その意味で『野ブタ。』もまた普遍的(古典的?)なテーマを扱っているとはいえるのですが、この小説が特異なのは、 それをきわめて現代的な意匠の中にぶちこんでしまったことです。現代的な意匠とは、今どきの高校生の中に生態をリアルに活写しているという意味ではなく(それも本書の大きな魅力ですが)、すべての人間性が「キャラ」に集約されてしまうような時代性のことです。
  『野ブタ。』は「俺」という一人称で綴られています。しかし、地の文を語っている「俺」は、着ぐるみで武装したキャラとしての「桐谷修二」なのでしょうか、それとも武装を解いた「本当の自分」なのでしょうか。
  残念ながら、そこは判然としていません。というか、その両方がマダラ模様のように入りまじっているのがこの小説の文章なのです。」

  読み終えて、帰宅してから、宇野常寛が『ゼロ年代の想像力』(ハヤカワ文庫)の中で『野ブタ。をプロディース』の原作とTVドラマを比較していたあたり(第8章)を改めて読んでみる。

  「木皿泉がこのドラマ化にあたって課せられた使命は、原作小説では終わりのないバトルロワイヤルの中でやがて擦り切れて、惨めに敗北しながらもゲームを離脱することのできない器用貧乏の少年を救うことだ。小手先の器用さに溺れ、自分の力に酔う小さな、そして極めて優秀な(メタ)決断主義者を、どう着地させるのか・・・(中略)・・・原作での「救うものと救われるもの」という二者関係は、修二・彰・信子の三人組の「プロデュース」チーム=共同体として描かれることになる。/この共同体は、物語が進むにつれ、その有限性によってむしろ可能性が開かれた『木更津キャッツアイ』的な共同体へと成長していくことになる。」(199-200頁)

  なるほどね。