2.15(日)
昨日の教室会議のとき、正岡先生が小さな新聞の切り抜きを回された。社会学専修のOGで、元文教大学教授の菊池幸子氏(81歳)の訃報記事だった。1週間前のものだという。迂闊にも存じ上げなかった。もう十数年前のことになるが、私は当時菊池氏が主宰していた「福祉社会研究所」で研究員をしていたことがある。研究所といっても、京王線の初台の駅前のマンションの一室で、常勤の研究員はいなかった。私がこの研究所でアルバイトをするようになったのは、早稲田大学の助手の任期が終わり、放送大学に就職する際に、当初の予定と違って1年間のブランクが生じてしまい、無収入でブラブラしているわけにもいかないので、放送大学の仲村優一先生に紹介していただいたのがきっかけである。「生活の質」に関する調査の実施というのが私に与えられた仕事で、週に3回(月・火・水)研究所に通って、調査票の設計、調査票の配布に協力していただく労働組合や主婦連合会との交渉、回収したデータの入力と集計を委託するコンピューター会社との打ち合わせ、集計結果の考察とレポートの作成・・・・という一連の作業を一人でこなした。月給は15万円であった。9月から勤め始めて翌年の3月末で退職する予定であったが、調査結果を核にした本の出版という企画が持ち上がり、その編集業務のため、放送大学の仕事の傍ら週に1回は顔を出すことになり、それが2年間続いた。出勤日が週3回から1回になるとき、大学院の後輩のM君を後任として推薦したが、彼は主任研究員としてしばらく研究所に勤め、研究所の事務員をしていた女性と結婚し、現在は城西国際大学の助教授になっている。菊池所長は感情の起伏の激しい方で、職員の方はいつも緊張していたようだが、私は腰掛研究員の気楽さから言いたいことは言い、それで大きな衝突はなかったのは、一応、仕事はちゃんとこなしていたからであろう。短い期間であったが、あれは私の人生で唯一サラリーマン的な日々であった。近所の蕎麦屋でお昼によく食べた味噌煮込みうどんの味が忘れられない。あの蕎麦屋はいまでもまだあるだろうか。
2.16(月)
暮れに論文を一本書き上げて一息ついていた清水幾太郎研究を昨日から再開。先の論文「清水幾太郎の『内灘』」では1950年代前半の清水に焦点を当てたが、今度は1940年代後半、すなわち読売新聞社の論説委員を辞めて「二十世紀研究所」を設立し、その所長として活動していた頃の清水に焦点を当て、彼における戦前と戦後の連続性―不連続性の問題を考えてみたい。これから新学期が始まるまでの間、午前中は清水研究、午後は調査実習の報告書作りと授業の準備、夜はポピュラー文化研究(要するに、小説を読んだり、TVドラマや映画を観たり、CDを聴いたり・・・・)というのが、生活の基本パターンとなる。今夜はジャック・ニコルソン主演の映画『アバウト・シュミット』をビデオで観た。ユーモアと苦味がほどよくフレンドされた大人の映画である。
2.17(火)
「またか」とお思いだろうが、今朝も娘と一緒に家を出て、新宿方面の某大学に向かう。電車を降りるとき、娘の片方の耳のピアスが取れてしまった。「座席と座席の隙間に落ちた」と娘が言ったので、「『落ちた』ではなく、『入った』といいなさい」と私。娘は「座席と座席の隙間に滑り込んだ」と言い直した。うん、それでもよろしい。
午後はずっと大学の中央図書館の閲覧個室で過ごす。個室があることは以前から知っていたが使用したのは初めてである。私にとって図書館は、本を借りたり、コピーしたりする場所で、じっくり読む場所ではない。読むのはもっぱら研究室、自宅の書斎や居間、喫茶店、そして電車の中である。しかし、今日のように、中央図書館の地下1階・2階の研究書庫や、2階の雑誌バックナンバー書庫の間を行き来するのであれば、個室をベースキャンプとして活用するのがよい(だんだん増えてくる本やコピーを抱えて移動するのは面倒だ)。閲覧個室は地下1階に22室(教員用)、地下2階に28室(大学院生用)ある。1階の研究書庫の受付で身分証を渡して個室の鍵を受取る。108室だ。閲覧個室が並ぶ前の廊下はシングル専用のビジネスホテルのような雰囲気であるが、個室のドアを開けると、そこは3畳大の空間で、シングルルームというよりは、大杉栄が『自叙伝』の中で書いていた東京監獄(市ヶ谷刑務所)の独房を連想させる。ただし、広さは同じだが、ここには独房にはあった洗面台や便所はない。あるのはドアと反対側の壁の窓(地下1階といっても半地下で窓からは中庭が見える)に向かって作り付けられた幅180センチ、奥行き70センチ(どちらも目測)の机と、椅子だけである(より正確に言うと、机の上には電気スタンドがあり、机の下にはゴミ箱がある)。机の横の壁には電気のコンセントと、ネットワークに接続するコンセントがあり、ノートパソコンを持ち込めば、それで原稿を書き、インターネットも利用できる。空調は壁のスイッチで3段階に調整できる。勉強部屋としては申し分ない。大杉栄なら、「コンフォルテブル・エンド・コンヴェニエント・シンプル・ライフ!」と独りごとを言うだろう。・・・・でも、欲を言えば、ソファーが欲しい。たんに本を読むだけなら(つまりノートを取ったりしないのであれば)、机の前に座って読むよりも、座面の低いソファーで読むことの方を私は好む。できればサイドテーブルも欲しい。個室内の飲食は禁じられているので、サイドテーブルに珈琲カップを置くことはできないが、ペンと手帳と付箋紙を置いておくためである。さらに欲を言えば、壁面にはリトグラフか何かが1枚欲しい。いろいろな好みの人が利用する部屋だから、クレーあたりが無難ではないだろうか。もちろん贅沢はいわない。複製でかまわない。そうそう、眠くなったときのために、ソファーはリクライニング機能の付いたものにしてほしい。うたた寝をして風邪を引くといけないから、薄手の毛布もなくちゃ。ときどき受付の女性の方が部屋をのぞいてくれて、もし毛布が床にずり落ちていたら、そっと掛け直してくれないだろうか。
2.18(水)
このごろ朝は7時頃に起きる。目覚まし時計を使うこともなく、妻に起こされることもなく、自然に目が覚める。思うに、娘の受験に付添って行くことが何回かあったために、「朝は7時起床」という規律が身体化してしまったのであろう。起きて、トイレと洗面をすませると、すぐに書斎のパソコンの前に座り、メールをチェックし、返信の必要なものがあれば返信のメールを書く。もし、前夜、「フィールドノート」を付けずに寝た場合は、昨日の「フィールドノート」を付けて、ホームページを更新する。1時間から1時間半ほどそんなことをやって、食欲が目覚めてきたら、朝食をとる。起きてすぐに食べるより、ずっと美味しく食べることができる。とくに味噌汁が美味しい。「五臓六腑にしみわたる」というのはお酒の場合に使う表現だが、そう表現したくなるほど温かい味噌汁が美味しい。食後、午前中の仕事(清水研究)にとりかかる。私の場合、3時間というのは仕事の単位としてちょうどよく、1時間や2時間では気ぜわしい感じがする。読むにしろ、書くにしろ、「これから3時間ある」と思うと、じっくり、ゆったり、取り組むことができる。午後は1時から会議や学生との面談が入ることが多いので、遅くとも家を12時には出なくてはならない(昼食は大学周辺でとるので、その分の時間も考えると、11時半には出たい)。それまでに3時間仕事をするためには、7時というのは理想的な起床時刻である。もちろんもっと早く起きればもっとたくさん午前中に仕事ができる計算になるが(実際、そういう朝型の人を何人か知っているが)、そのためには就寝時刻もそれに合わせて早める必要があり、私の場合、最低でも6時間は寝ないとダメなので、10時、11時に就寝しなけらばならず、しかし、それでは夜の読書やビデオ鑑賞という楽しみを少なからず犠牲にすることになり、それは気が進まない(代わりに早朝に小説を読んだり、ビデオを観たりする、という気にはなれそうもない)。というわけで、諸々の社会的・心理的・生理的要因が交錯する焦点に、「朝は7時起床」という規律は、すべてを満足させる救世主のように、すっくと立っているのである。しばらくの間、これに従ってやっていこうと思う。
2.19(木)
年度末である。一年間の活動の決算の時期である。ここでいう決算とは、第一に、活動の成果としての報告書を完成させるということであり、第二に、会計の締めの日までに予算をきちんと使い切るということである。学部の調査実習を例にすれば、いまは報告書作りの真っ最中で、学生たちは就職活動の合間をぬって、原稿を書いている(最終的な締め切りは3月19日に設定されている)。実習費は、夏休みが終わった時点で、予算(約180万円)を使い切ってしまった。地方在住の対象者へのインタビュー調査にかかる費用が当初の見込みを上回ったことが主たる原因で、いわゆる「嬉しい誤算」なのだが、一時はみんなで街頭のティッシュ配りのアルバイトでもしなければならないかと思ったものの、急遽、他から50万円を調達することができ、また、その後の活動の中心がお金のかかるデータ収集からお金のかからない(ただし時間はかかる)データ整理に移行したこともあって、どうにか報告書の印刷費と郵送費は残っている(はずである)。調査実習はあくまでも一例で、年間を通じて並行して進められてきた大小の予算を伴った活動が、いま、一斉に決算の時期を迎えているわけである。予算というものが年度単位で組まれるもので、その多くは次年度への繰り越しができない性質のものである以上、ぼやいてもしかたのないことだが、「春休み」というのは、その長閑な響きとは裏腹に、けっこうあわただしいものなのである。「あめんぼに早春の水とどまらず」(佐野青陽人)
2.20(金)
わが家はケーブルテレビに加入していて、通常の地上波、NHKの衛星放送のほかに、WOWOW(洋画中心)と衛星劇場(邦画中心)とオプション契約している。月々の料金はWOWOWが2000円、衛星劇場が1800円である。最新の映画は映画館で、見過ごした(あるいは映画館で観るほどではないと判断した)比較的新しい映画はレンタルビデオで観ているわけだが、レンタルビデオ店はやはり新作・近作(それもヒット作)中心で、アカデミー賞作品や小津や黒澤といったビッグネームの作品を別にすると、昔の映画(とくに邦画)の品揃えは不十分である(置いてはあっても一本しかなくてそれが貸し出し中なんてことがよくある)。私にとってのWOWOWや衛星劇場の存在価値はその辺にある。もっとも利用頻度はそれほど高くはなくて、月々の料金の元が取れないことの方が多いのだが、元をとろうなんて気持ちで観ていると、なにしろ映画を観るためには時間という資源を平均で2時間ほど投下しなければならないわけだから、他の活動に支障が出る。月に数本、「これは」と思う作品があればそれで十分なのだ。今日はその「これは」の日だった。アラン・パーカー監督、ジーン・ハックマン主演(ウィレム・デフォーが共演)の『ミシシッピー・バーニング』(1988年)をWOWOWで観た。1960年代半ば、ミシシッピー州の田舎町で起こった3人の公民権運動家の失踪(殺害)事件を、2人のFBI捜査官の活動を通して描いた作品で、レンタルビデオ化されたばかりのときに観て、その緊迫した場面の連続に圧倒された記憶がある。今日、15年ぶりに観て、素晴らしい作品であることを再確認した。一方、衛星劇場の方でも「これは」があった。日活ロマンポルノの「団地妻」シリーズの記念すべき第一作、西村昭五郎監督、白川和子主演『団地妻 昼下がりの情事』(1971年)が放送されたのだ(深夜の放送だったので、ビデオに録っただけで、まだ観てない)。日活ロマンポルノの代表的作品はビデオ化されていて、1970年代のポピュラー文化研究には欠かせない素材なのだが、例の「成人コーナー」という場所に置かれているため、インテリの自意識が邪魔をしてレンタルしにくいのである。私にとっての衛星劇場の存在価値はこの辺にもある。
2.21(土)
午後、実習の報告書の原稿の相談(6名)。事前に草稿をメールで送って来るように言っておいたのだが、6名のうち、前日(当日というべきか)の深夜に送ってきたのが4名、当日の午前中に送ってきたのが2名、確かに「事前」には違いないが・・・・。私がチェックするポイントは2点。第一は、構成がわかりやすいかどうか。第二は、文章がわかりやすいかどうか。2つのことは別々のことである。構成のわかりやすさとは、「はじめに」で問題が明確に提起され、「本論」でその問題が説得的に考察され、「おわりに」で結論が簡潔に示される、という流れ(ストーリー)が存在するということである。あたりまえのことのようだが、実際には、何を問題にしたいのかが曖昧で、考察が場当たり的かつ独りよがりで、結論らしい結論がない原稿というものがあるのだ。一方、文章のわかりやすさとは、誰よりもまず書き手自身が自分の文章の意味をよく理解していて、それが読み手にきちんと伝わるということである。自分がよく理解していないことを相手によく理解させることは不可能であり、とくに文献を援用して議論を展開する場合に、その文献の理解が生半可だと、議論は補強されるよりもむしろ浅薄なものになる。また、たとえ本人はよく理解しているつもりでも、それを相手に伝えるためにはそれなりの文章の工夫(レトリック)を必要とする。ただ思いついた言葉を書けばいいというものではない。思うに、大学教育において、一番欠けているのが、話すことと書くことの訓練である。もちろん講義の聴き方や、本の読み方を知らない大学生というものはいるが、何かの間違いで大学に来てしまった人間でない限りは、門前の小僧なんとやらで、聴くことと読むことはなんとかなるものである。しかし話すことと書くことは、本人の意識的な努力と、教える側の明確な方法論がないと、いつまでたっても上達しない。
2.22(日)
陽射しは暖かだが、風がやたらに強い、散歩には不向きな天気で、外出しようかどうしようか迷いながら、結局、一日あれこれと本をつまみ読みして過ごす。夜更けには雨になり、書斎の窓ガラスを叩く雨音がちょっとした台風のようで、何だかワクワクした。ブリザードの夜に読書に耽る南極基地の隊員もこんな気持ちなのだろうか。
2.23(月)
昨日のポカポカ陽気で庭先の椿の蕾がだいぶ膨らんだ。朝起きてから、昼食を間に挟んで、清水幾太郎の評論集『日本の運命とともに』(河出書房、1951年)を読む。ここには1946年から1951年までの間に発表された短めの文章88篇が発表年順に収められている。それを最初から読んでいく。そうすると彼の意見の持続する面と変化する面が読み取れる。清水というと、「転向」や「変節」が問題にされることが多いが、そして、そういう面があることは確かだが、その一方で、持続する面、流行の思潮に安易に乗るまいとする面もあったことに気づく。これは清水に限らないが、評論家というものは他の多くの評論家と同じことを書いていたのでは商売にならない。他の商品一般と同様、評論という商品も差異が命なのである。差異を生み出す方法としては、新しいものにいち早く飛びつくか、古いものに固執するか、この2つが基本であり、とにかく世の中の趨勢に従って大多数の人間と同じペースで歩いて(変化して)いたのではだめなのである。戦後の最初の数年間、清水は保守的と受取られる文章を多く書いている。彼は最初から「進歩的文化人」として戦後のスタートを切ったわけではなかったのだ。
夕方から、有楽町のシャンテ・シネに『ニューオリンズ・トライアル』を観に出かける。前売り券を買っておいたのだが、気づいたら日比谷映画での上映は終わっていて、上映館がシャンテ・シネに替わっていた。前売り券の裏面には「上記劇場以外はご使用できません」と書いてあり、シャンテ・シネの名前はそこに記載されてなかったので、券を無駄にしてしまったかなと思ったが(ときどきある)、念のために電話で確認したら、使えますとのことだった。ああ、よかった。まだ財布の中には『シービスケット』と『ミスティック・リバー』の前売り券が入っているので、忘れないようにしなくては。
『ニューオリンズ・トライアル』は銃規制をめぐる裁判を描いた映画で、ダスティン・ホフマンとジーン・ハックマンが原告(銃乱射事件で夫を失った女性)側弁護士と被告(銃器メーカー)側陪審コンサルタントの役で共演している(初共演らしい)。それだけでも十分見所のある映画だが、一般の裁判映画と違うのは、法廷での丁々発止のやりとりや、陪審員室での白熱したやりとりよりも、陪審員への裏工作という陪審員制度のタブーに力点を置いて描いているところだ。本当にそこまでやるのか、できるのかということを別にすれば、実にスリリングな場面展開の連続で、善玉と悪玉がはっきりしていて、その悪の組織を手玉に取る謎の若い男女二人組の活躍は『スティング』のポール・ニューマンとロバート・レッドフォードのように爽快で、ヒューマンタッチな娯楽映画といえよう。
謎の若い女を演じた魅力的な女優は、レイチェル・ワイズ=マリー。前にどこかで観た女優だと思いつつ、なかなか思い出せず、見終わった後、プログラムを買って確認したら、そうそう、『レニングラード』に出ていた女優だ(『ハンナプトラ/失われた都』でヒロインを演じたそうだが、それは観ていない)。知的で、もちろん美人で、しかも腕っぷしも強い。三拍子揃っている。その彼女が、インタビューに答えて、ホフマンとハックマンの印象をこんなふうに語っている。
「ダスティンのすごいところって、・・・・あれほどのキャリアがあって、すでに伝説的な存在になっているのに、だれよりも必死に仕事に打ち込むの。演技の仕事に本当に夢中で、そのプロセスのすべてを愛しているのよ。ジーンの方は、恐ろしいほどの存在感があって、なにもしていないように見えるのに、彼の前に立つとそれを感じるの。言葉にするのは難しいんだけど。くすぶり続けている炎というか。でも、実際に彼は非常にシャイで、演技のことについて語ったりするのもあまり好きじゃないの。」
その当の二人はインタビューの中でこんな会話を交わしている。
―お二人の演技の手法が違うと監督は言っていましたが、実際はどうなんですか?
ホフマン「いや、スタイル的には、それほど違わないよね」
ハックマン「共通点も多い。台詞を覚えてこないとか(笑)」
ホフマン「年を取ると、ますますきつくなるよな(笑)」
映画館を出ると、街にはすっかり寒気が戻っていた。帰宅したのは午後7時半。夕食の時刻にちょうど間に合った。コートを脱いで、しかしジャケットは脱がずに食卓に付いてハンバーグにかぶりついたら、妻に叱られた。
2.24(火)
吉野家が牛丼に続いて、その代替メニューの一つとして売り出した焼鶏丼が、鳥インフルエンザの影響で販売休止となることが決まったが、私がときどき利用する近所の吉野家(蒲田西口店)の向かいに、今日、カレーハウスがオープンした。以前から決まっていた話なのであろうが、いまやカレー丼が主力商品となった吉野家にとっては、踏んだり蹴ったり、「神様、そこまでしますか」という展開である。単一の商品、単一の輸入先という合理化戦略の落し穴がはからずも露呈し、リスク分散戦略の重要性が誰の目にも明らかになった今回の事態だが、これはたんに企業の経営者にとってだけのことではなく、普通の人々にとっても自身の生活や人生のあり方を反省する契機となるものだろう。たとえば、勤務先の会社がいつ倒産するかわからないのだから(倒産はしなくても自分がいつリストラに遭うかわからないのだから)、収入のルートが単一というのはリスクが大きい。サラリーマンもアフター5や週末に副業にいそしむ時代が来るだろう。また、恋人からいつなんどき別れ話を持ち出されるかわからないのだから、ロマンチックラブの対象が単一というのはリスクが大きい。二股、三股は当たり前になるだろう。いや、未婚者だけの話ではない。配偶者からいつなんどき離婚を言い出されるかわからないのだから、一夫一婦制というのはリスクが大きい。しかし、民法改正は一朝一夕にはいかないから、自衛の手段として愛人を作っておこうと考える既婚者が増えるだろう(増えないか?)。
2.25(水)
午後、教授会。定年退職される6人の先生方の挨拶があった。
久米稔先生(心理学)。普段、教授会では見かけない方がいるなと思ったら、立ち上がって挨拶を始められたので、びっくりした。そうか、この方が久米先生であったか。
深澤道子先生(心理学)。カウンセリングがご専門で、私が二文の学生担当教務主任をしているとき、大学の総合健康教育センターの所長をされていたので、いろいろな会議でよくご一緒させていただいた。
北村実先生(哲学)。私は学部の3年生のとき、先生が担当されていた人文専修の演習を履修していた。ヘーゲルの『法の哲学』がテキストであった。最初の時間、自己紹介のとき、私は「人文専修は第二哲学専修ではありません」と生意気なことを言い、先生が「その通りだ」とお答えになったことを覚えている。
井内雄二郎先生(英文学)。教授会で発言されるのはほとんど初めてらしい。でも、お話はとてもお上手だった。
小池規子先生(英文学)。学生時代は楽しかったが、教員時代は辛かった(とくに大学紛争の頃は)というお話をおっとりした口調で話していらした。英文学専修のマドンナ的存在の方であった。
引地正俊先生(英文学)。昔、「早稲田船上大学」というツアーがあって(いまもあるのだろうか)、私は学部の3年生のときこれに参加して、ヨーロッパを旅行した。そのときの引率教員のお一人が引地先生であった。
これで学部時代(1973-76年)にお世話になった先生はもう正岡寛司先生(社会学)しか残っていない。学生時代は遠くなりにけりである。
2.26(木)
かつて文学部キャンパスから一番近い喫茶店は、門の脇の、公衆電話ボックスのすぐ隣の「ブルボン」であった。いまでも店構えはそのまま残っているが、女主人が高齢となられたために店を閉じて久しい。その次に近い喫茶店は、「ブルボン」の隣、1階(半地下)にドコモ・ショップが入っているビルの2階にある「フェニックス」である。昔からある喫茶店だが、私はこれまで一度も入ったことがなかった。しかし、どんな店なのだろうと気にはなっていた。今日、昼休みの時間に調査実習の報告書の原稿の相談が一件入り、昼飯を食べながらしようということになり、けれど別件で呼び出しの電話が携帯に入る可能があったので、すぐに戻れるように「フェニックス」に入ることにした。店内は、中央に大きな楕円形のテーブルがあり、周囲の壁際に2人用、4人用のテーブルがいくつか配置されている、いたってシンプルで、明るい空間であった。客はわれわれしかいなかった。昼休みの時間に客が入っていなくて大丈夫なのだろうろうかと、いろいろな意味で不安を感じたが、その後、適度に混んできた。食事のメニューはピザとスパゲッティが主で、私はミックスピザのセット(珈琲とサラダ付き)、Hさんはビーフストロガノフを注文した。ウェイトレスがHさんに「お飲み物の方はよろしいですか?」と尋ねたとき、Hさんが「はい、大丈夫です」と答えたのが何だか可笑しかった。われわれがそこにいたのは1時間くらであったろうか。ずっと喋っていたので、音楽が流れていたかどうかは覚えていない(流れていたとしても静かなものだったのだろう)。店を出るとき、客はほとんどいなくなっていた。今後、この喫茶店を利用するかどうかの判断は、次回、一人で本を読みに来たときに、決めようと思う。
2.27(金)
午後、調査実習の報告書の原稿の相談を2件。本当は職業班の相談の予約も入っていたのだが、メンバーの集まりが悪いということでキャンセルになる。やれやれ。最終報告が目前に迫っているというのに、大丈夫なのだろうか、この班は。
オウム真理教教祖の松本智津夫被告に死刑判決(東京地裁)が出た。主文を後回しにして判決理由の朗読から始めたため、新聞社は夕刊の一面トップに「死刑判決」と印刷することができず、読売新聞では苦し紛れに、「松本被告 死刑判決へ」という見出しを付け、リードの中では「求刑通り死刑が言い渡されるのは確実となった」と書いていた。万が一、そうじゃなかったら、どうするつもりだったのだろう。とにかくマスコミが欲しかったのは、「死刑」という言葉、それだけであったように思う。死刑判決が出て、ただちに弁護団は控訴の手続きをして、辞任した。「死刑が予想される裁判の場合は、できるだけ裁判を長期化させ、被告の延命を図る」というのが弁護団の方針だそうだが、それは医療現場における医師の論理に酷似している。近年、医師の論理は患者の尊厳や医療費負担の観点からの批判にさらされているが、弁護士の論理はあいかわらず無風地帯に置かれているようである。
2.28(土)
ポール・オースターのエッセー集『トゥルー・ストーリーズ』(柴田元幸訳、新潮社)が出た。先日、Amazonで購入したThe Red Notebookの4篇の自伝的エッセーも収められている。せっかく原文で楽しもうと思っていた矢先の出来事である。もうちょっと待っていてくれてもよかったんじゃないか、柴田君。
2.29(日)
昨日から風邪気味で、夕べは寒気がしてよく寝られず、明け方近くになってようやく眠れる状態になり、昼近くまで寝ていた。午後、『トゥルー・ストーリーズ』を読んで過ごす。オースターが8歳のとき、野球見物に行き、帰りにウィリー・メイズとばったり出くわした。オースター少年はメイズの大ファンだった。彼はメイズにサインをねだった。メイズは「鉛筆を持っているかい」と彼に聞いた。彼は鉛筆を持っていなかった。あいにく父も母もまわりの大人たちも持っていなかった。「悪いな、坊や」とメイズは言って、夜の中に消えていった。その夜以来、オースター少年は外出するときはいつも鉛筆を持ち歩くようになった。
「家を出るとき、ポケットに鉛筆が入っているのを確かめるのが習慣になった。べつに鉛筆で何かしようという目的があったわけではない。私はただ、備えを怠りなくなかたのだ。一度鉛筆なしで不意打ちを食ったからには、二度と同じ目に遭いたくなかったのである。/ほかに何も学ばなかったとしても、長い年月のなかで私もこれだけは学んだ。すなわち、ポケットに鉛筆があるなら、いつの日かそれを使いたい気持ちに駆られる可能性は大いにある。」
そうやって彼は作家になったのである。・・・・とオースターは自分の子どもたちに語っているそうだ。
私がそうやって本を読んでいる間に、妻は子どもたちを連れて川崎のさくら屋へ行き、2人の腕時計を購入した。2人にとって人生で最初の腕時計である。折りしも私の腕時計の分解掃除が終わったと時計屋から連絡の電話が入ったので、妻に受取りに行ってもらった。20年間の錆を落として戻ってきた腕時計は、さっぱりとした顔をしていた。たぶん人生の最後の日まで私はこの腕時計と付き合うことになるだろう。今日はわが家にとって腕時計の日だった。