フィールドノート

連続した日々の一つ一つに明確な輪郭を与えるために

2003年9月(後半)

2003-09-30 23:59:59 | Weblog

 

9.15(月)

 昼間、散歩に出なかったので、夕食の後、蒲田パリオ5階の熊沢書店に行く。ここは午後10時までやっている。沢木耕太郎の新作『無名』(幻冬舎)と、長谷さんがメールで「もう読まれました。面白いですよ。」と書いてきた田中眞澄『小津安二郎周游』(文藝春秋)の2冊を購入。『無名』は沢木が彼の父親を看取った話が端正な静けさをたたえた文体で書かれている。『小津安二郎周游』は今年が生誕100年にあたる小津安二郎の評伝。評伝とはいっても、「小津安二郎は1903年、東京のどこそこに生まれ・・・・」といった杓子定規なスタイルで書かれたものではない。「小津安二郎は体の大きな人だったといわれる。だがどのくらい大きかったのか、正確なところは詳らかでない。」-これが書き出しである。ね、面白そうでしょ。

 

9.16(火)

 新装なった文学部事務所へ顔を出す。従来の一文事務所に、二文事務所と文研事務所が併合され、「戸山総合事務センター」となったのだ。全体の面積は変わらず、カウンターが前に出た分だけ、学生入口から入ると、空間が手狭になった印象を受ける(カウンターの背後に間仕切りが置かれて、事務所の内部が見渡せなくなったせいもあるかもしれない)。受付窓口は一文、二文、文研できれいに3分割されているが、学生の比率はまったく違うわけだから、混雑時にフレキシブルに対応できるのか心配だ。でも、各窓口に受付担当の女性がこちらを向いて座るバリアフリーなスタイルが採用されたのは喜ばしい。横を向いて仕事をしている人に「あの~」とは声を掛けずらいものだ。午後6時を過ぎて、文学部のスロープを降りるころには、空はもう暗くなっている。日中は暑いが、やはりいまはもう秋なのだ。

 

9.17(水)

 午前中からずっとパソコンに向かって、明日の研究会で報告することになっている英語の論文の翻訳作業。さきほど(午前1時)ようやく訳し終える。肩と背中の筋肉がコチコチである。しかし、まだ推敲の作業が残っている(不明の箇所は適当に訳してあるし、途中で、訳語が変わった単語もいくつかある)。バンテミンを塗って、もうひとふんばりだ。・・・・午前4時、ようやく推敲も終了。おやすみなさい。

 

9.18(木)

 岩波書店が創業90周年の事業の一環として「読書のすすめー読者が選んだ〈私の好きな岩波文庫100〉」という小冊子(文庫版サイズ)を作り、書店のレジで無料で配布している。読者投票で選ばれた100冊のリストと、そのリストをもとにした10篇のエッセーが載っている。エッセーの書き手は、池内恵、奥本大三郎、香山リカ、姜尚中、斉藤孝、斉藤美奈子、立花隆、田中優子、藤原正彦、船橋洋一である。これがなかなか面白い。一般に、読書をテーマにしたエッセーは面白いものだが、今回の場合、「岩波文庫の100冊」という共通の素材を各人がどのように料理するのか、その腕前を比べながら読むという面白さがある。私には最年少(1977年生)の池内恵(イスラム学者)の「書物の運命」が一番面白かった。構成が上手で、薀蓄も深い。名のある先輩諸氏に混じっての抜擢ということで、短い文章だけれど、きっと頑張って書いたに違いない。また、同じ本に対する筆者による評価の違いも面白い。たとえば、斉藤孝は、「読書欲のすすめ」の中で、ロマン・ロランの『ジャン・クリフトフ』について、「高校を卒業して上京し、浪人をしていた頃、毎日アパートのベッドの上で少しずつ読みすすめた。毎晩毎晩寝る前に読んだおかげで、すっかりその世界が自分の中に染み込んでしまった。自己形成をしていくプロセスが克明に描かれていて、胸が熱くなった」と書いている。一方、立花隆は、「非〈読書のすすめ〉」の中で、「いまさらロマン・ロランやヘルマン・ヘッセでもあるいまいという気持ちのほうが強い。特に『ジャン・クリフトフ』は長すぎるから、あんなものに摂りつかれて何日もすごすより、同じ時間を費やすなら、今はもっと現代にふさわしいものにとりくむべきだといいたい」と書いている。冊子が出来上がってから、2人の「タカシ」は互いの文章を読んで苦笑したに違いない。

 

9.19(金)

 有楽町マリオン新館7階の「丸の内ルーブル」で『英雄HERO』を観た。本当は2つ下の階の「丸の内プラゼール」で上映中の『座頭市』を観るつもりで出かけたのだが、蒲田のディスカウントショップで購入したチケットを机の上に置き忘れて来てしまったのである。映画館に着いてからそれに気づき、唖然、呆然、しかる後に憮然として、有楽町駅前の中華料理店で昼飯の回鍋肉を食べているときに、腕時計を見て、いまからなら『英雄HERO』の2回目に間に合うと考え、駅前のディスカウントショップでドリンク付1600円のチケットを購入し、映画館(ただし今度は2つ上の階)に戻ったというわけだ。で、映画の内容だが、ストーリーは単純(しかもクドイ)、テーマは気恥ずかしくなるほど平易(小学校のホームルームのレベル)、ワイヤーアクションは『グリーン・ディスティニー』や『マトリクス』の二番煎じ、映像美は「どうだ、すごいだろ」という感じがカラーフィルムの会社のCFを見ているようだった。評価は★★(満点を★5つとして)。チャン・イーモウ監督の作品は、『初恋の来た道』も、『あの子を探して』も、『至福のとき』も、ストーリーは単純で、テーマは平易なのだが、そういう特性はハートウォーミングな小品だからこそ生きるのであって、今回のような大作にそれを適用すると、金持ちが作った紙芝居みたいになってしまう。

 

9.20(土)

 川崎の「チネチッタ」で『座頭市』を観た。面白かった。以前、『菊次郎の夏』を観たときは、外国の観客(と審査員)の目を、日本人の観客の目よりも優先しているような感じがして気分のしらける場面があったが、今回もそういう場面が皆無とは言えないもののそれほど気にならず、「座頭市」というある年齢以上の日本人なら誰でも知っている時代劇のリメイク、というよりはむしろパロディーを、十分に堪能できた。それにしても、一体、座頭市は何人の人間を斬っただろう。随所に挿入される笑いと涙と演芸は、座頭市が人間を斬るシーンの凄惨さの鮮度を保つためにあるかのようである。その一方で、座頭市が守るべき人間は1人も敵の手にかかることがない。座頭市と入れ違いに托鉢僧姿の一団がおうめさんの家にやってきたとき、私はてっきりおうめと新吉は殺されるものと思った。しかし托鉢僧たちは家に火を放っただけで、すでに座頭市がいないと知ると、無益な殺生はせずに引き上げていくのであった。善玉は殺されず、殺されるのは悪玉だけ。まさに大衆演劇の王道を行くストーリー展開である。ラストの村祭りのタップダンス(!)には、もしかして座頭市もこれに加わるのかと思ったら、さすがにそれはなかった。でも、加わればよかったのに・・・・。そしたら『踊るマハラジャ』になっちゃうか。評価は★★★★。不満があるとすると、敵の用心棒に身を落とした服部源之助の病身の妻(夏川結衣)の存在が希薄であったこと、おきぬ・おせいの姉弟に、敵討ちをちゃんとやらしてやらずに、みんな座頭市が斬っちゃったこと、そしてラストの座頭市が石に躓いて転ぶときの顔のアップのストップモーションに陳腐な教訓的台詞(目が開いてても見えないものがある)が入ること。場内が明るくなったとき、私の後ろの席の若者2人組が、「4はあったな」「5かもしれない」「いや、そこまではないだろう」という会話を交わしていたので、★の数で作品の満足度を語り合っているのかと思ったら、上映の途中で起こった地震の大きさの話だった。

 映画館の外に出ると、雨が降っていた。目の前の小さな広場で知らない女性シンガーがテントを張ってフリーライブをやっている。伸びのあるきれいな歌声に傘を片手にしばらく足を止めて耳を傾けた。彼女の名前は拝郷(はいごう)メイコ。こういう場所でフリーライブ(CD即売会)やっているのだから、売り出し中の歌手なのだろう。家に戻ってからインターネットで調べたら、彼女の公式ホームページがあって、1978年の生まれで、出身地は大森、鈴ヶ森中学から都立三田高校に進み、1997年に音楽番組「P-STOCK」でグランプリを受賞し、2001年に「トマトスープ」という曲で待望のプロデビューを果たし、2002年にファーストアルバム「ミチカケ」を発売・・・・とプロフィールが書かれていた。同じ大田区の出身と知って、俄然、親しみが湧く。私の高校時代の友人には鈴ヶ森中学の出身者がいる。親父さんの跡を次いでマッサージ師になったKと、養護学校の先生になったMだ。2人ともいい奴だった。ずっと会っていないが、元気でやっているだろうか。よし、ここは応援の意味で、彼女のアルバム「ミチカケ」を購入せねばなるまいと、インターネットで注文した。そして、おまけに声援のメールまで送ってしまった。

 

9.21(日)

 台風が近づいてきている。一日中、雨が降り、肌寒い。暑さ寒さも彼岸までというけれど、本当だ。「さびしさは秋の彼岸のみづすまし」(龍太)

 昨日、川崎の「チネチッタ」に『座頭市』を観に出かけたのは、土曜日なので、都心の映画館は混んでいると思ったからだが、川崎に行ったのはこの前がいつだったか思い出せないくらいひさしぶりのことだった。駅前の大規模な再開発が行われたとは聞いていたが、改札を出て、まずコンコースの立派なことに驚いた。天井がもの凄く高く、しかも天窓になっていて、どこか外国のターミナル駅のようである。地下街も、これは歩き回ってはいないが、相当に広い様子だ。チネチッタは東口を出て5分ほど歩いたところにある、なんというのだろうか、ディズニーランドの中の街角の1つをそのまま持ってきたような、映画のセットのような空間で、12のスクリーンがあるシネマコンプレックスを中心に、レストランやショップから構成されている。昔、ミスタウンと呼ばれていた映画館街を再開発したものらしい。チネチッタの近くには、昔ながらの立派なアーケードの商店街もあり、映画の後、昼飯はその中の「天龍」という中華料理店で食べた(チネチッタの洒落たレストランは1人で入るところではない)。お客で一杯だったので入ったのだが(初めての場所では混んでいる店に入ればまず間違いはない)、どのメニューも安く(たとえばラーメンは360円)、私が注文したチャーシューメン(600円)もチャーシューメンとしては安いだろう。混んでいる理由の半分はこの安さにあるのだと納得した。本当はチャーハンも注文したかったのだが、ロの字型のカウンター席だけの店内で1人で2品注文している客はいないようだったので、みんなの視線を浴びるかもしれない行為は慎んだ。その代わり、食後、向かいの「ドトールコーヒー」では、ホットコーヒーにアップルパイを1つ付けた。購入したばかりの『座頭市』のプログラムを隅から隅まで読んでから、店を出て、オープンしたばかりだの「ダイス」デパートに入っている「あおい書店」に行ってみた。広いとは聞いていたが、本当に広い。八重洲ブックセンターや渋谷のブックファーストも広いが、あれはビル全体が本屋なわけで、ワンフロアーだけの店舗としては私がこれまで行った中で一番広い。富士の樹海みたいに広い。もし誰かと一緒に来て、はぐれてしまったら、再会するのは難しいのではなかろうか、というのは冗談だが、小さな子ども連れの場合はまじめに要注意だろう。文学全集のコーナーに『新版 志賀直哉全集』(一番新しい編年体形式の全集で、新字体で、読みにくい漢字にはルビが振ってある)を見つけたときはハッとした。あれ、これって、全巻予約購読ではなかったのか。バラでも買えるのか(小説・随筆は1巻から10巻までで、11巻から16巻までは書簡、17巻から21巻までは日記、22巻が人名索引等)。だったら、1巻から10巻までを購入しようかなと真剣に考えた(志賀の全集は旧版で所有しており、書簡と日記はそちらでも、当然、編年体形式だから)。しかし、雨が降っているし、古本屋にあたってからでも遅くないはないと思いとどまった。購入したのは、NHKブックスの井田茂『異形の惑星』と、講談社現代新書の池内恵『現代アラブの社会思想』の2冊。どちらも蒲田の本屋で探したが、みつからなかったもの。NHKブックスや講談社現代新書を置いていない本屋はないのだが、シリーズの冊数が多いから、実際には目当ての本がないこともよくあるのだ。文庫や新書や叢書で見つからないものがあるときは、ここに来ればいいかもしれない。

 蒲田から川崎へはJR京浜東北線でわずかに1駅なのだが、通勤とは反対方向であること(定期券が使えない)、川向こうであること(多摩川を間に挟んで蒲田は東京都、川崎は神奈川県に属する)が心理的バリアとなって、これまで縁のない街であったが、かくのごとき映画館と本屋と商店街があるとなれば、もう話は別である。とにかく自宅の玄関を出てから30分後には映画館のシートに座っていられるというのは素晴らしいことだ。

 

9.22(月)

 午後から調査実習のケース報告会。午後1時から(正確には、昼飯を食べていない学生が数名いたので、急いで食べてくるように指示をして、1時半ごろから)始めて、途中2回の休憩を挟みながら、8時までかかって9ケースの報告をこなした。終わったときはみんな腹ペコである。「太公望」にくりだす。二文の学生担当教務主任をしていた頃は、よく行ったものだが、久しぶりである。あいかわらず料理の味はいいが、中国人の主人が中国人の使用人(よく替わる)を叱りつけている(あるいは教育している)姿もあいかわらずである。初めて目にする学生たちは、一様に吃驚する。私は聞こえない振りをしている。支払いのとき、主人から「学生たちは1年生か」(全員ウーロン茶を飲んでいたのでそう思ったのだろう)と聞かれたので、3年生なのだが面倒なので「そうだ」と答えると、「日本の大学生はお酒を飲みすぎるよ」と主人は言った。報告会は明後日、明々後日も引き続き行う。

 

9.23(火)

 大学院の修士課程の入試。昼休み、教員ロビーで支給の弁当(五目おこわ)を食べていたら、心理学の豊田先生が向かいの席に「よろしいですか」と言って座られた。顎鬚をたくわえられている。「お髭が・・・・」と私が言うと、「無精髭です」と言われた後に、「プロレスにデビューするつもりかと聞かれます」と言って笑われた。確かに五月人形のショウキさんに似ているなと心の中で思ったが、口には出さずにおいた。ひとしきり髭談義が続いた後に、ちょっと唐突な感じで、「夏休みは何か映画をご覧になられましたか」と質問されたので、最近観た順に、『座頭市』と『英雄HERO』と『踊る大捜査線THE MOVIE 22』の名前をあげると、豊田先生もその3本はご覧になっていて、さらに私の観ていない『ターミネーター3』や、『トーク・トゥー・ハー』(アカデミー脚本賞)なんていう映画もご覧になっている。聞くと、学生たちとときどき映画を観にいかれるそうだ。へえ、そうなんだ、私は映画館へは1人でしかいかないが・・・・。あっ、もしかして、豊田先生は、学生の誰かから私が授業で映画やTVドラマをよく使うという話を聞かされていたのではないか。それならば髭談義から映画談義への突然の転換も理解できる。われわれは食事が終わるまでずっと映画とTVドラマの話を続けた。ちなみに豊田先生は秋から始まるTVドラマでは『白い巨塔』を一番楽しみにされているそうだ。

 帰宅すると、Amazonに予約注文しておいたHandbook of the LIFE COURSEが届いていた。7部34章から構成される700頁を越える大著(しかも活字が小さい)。中扉には「ライフコース研究者の世代を励まし支援してくれたエルダー夫妻に」と献辞が記されているが、第1章「ライフコース理論の登場と発達」はそのグレン・エルダーが執筆している。まさにライフコース研究のハンドブックの決定版といっていい。

 

9.24(水)

 実習のケース報告会2日目。7ケースが報告される。帰り道、自宅の近所のコンビニで、この秋のTVドラマの特集が載った『テレビ・ステーション』の最新号を購入。風呂上りにパラパラと眺める。豊田先生イチオシの『白い巨塔』(全21回!)ももちろん期待できるが、私は豊川悦司主演の『エ・アロール』を楽しみにしている。豊川は出演作を選ぶ。彼の出演したドラマで期待外れだったものはこれまでに皆無である。プロデューサーが、豊川主演の『愛しているといってくれ』、『青い鳥』を手がけた貴島誠一郎である点も心強い。脚本は『恋ノチカラ』の相沢知子である。

 

9.25(木)

 実習のケース報告会3日目(最終日)。8ケースが報告される。3日間の報告会で合計24ケースが報告された。平均すれば1人1ケースの報告である。自分が担当したケースの報告というのは最低限の課題であって、他の学生たちが担当したケースの報告にどれだけ注意深く耳を傾けることができるかが肝心な点である。そのことを理解している学生がどれだけいるかによって、いずれ書かれる報告書の水準は決まる。

 

9.26(金)

 午前10時半から午後6時半まで、間に昼休みを挟んで、ずっと会議。昼休みに中央図書館のバックナンバー書庫へ行って、1950年前後の『改造』、『中央公論』、『世界』から清水幾太郎関連の記事をコピーする。本当はずっとそこにいたい気分だったが、今日は重要な議題が目白押しなので、そういうわけにもいかない。午後は途中で2回ほど会議室を抜け出して、一度は、研究室で実習の領収証の整理(実習費は私の立替分がかなりの額になっていて、せっせと事務所に領収証をもっていかないと銀行口座にお金がなくなってしまいそうなのだ)。もう一度は、文カフェで息抜き(ここ数日気になっていた白玉しるこを食す。食べたいだけの分量を自分で容器に入れ、レジで計量し、分量に応じた金額を支払うシステム。白玉を6個ほど入れたが、140数円だった。うん、これは合理的だ。適度の甘味は疲労回復の効果絶大である)。会議の途中で勝手に抜け出していいのかというと、いいというわけではないが、そうでもしないと、今日のような長丁場の会議に最後まで付き合うことは難しい。実際、途中で退出して、そのまま帰ってこない人も少なくないのだから、帰ってくるだけよしとしていただきたい。6時半に終わったので、夕食は何日かぶりで家族と一緒に食べることができた。

 宅配便で届いた拝郷メイコのアルバム『ミチカケ』を繰り返し聴く。10曲、どれも素敵な曲だ。♪最後にきみが作ってくれる、台所からトマトの匂い、ぼくのすべてに染みついて、記憶を揺りおこしていくだろう・・・・(「トマトスープ」より)。♪サーカスが終わる、演じるアンコール、ちょっとあの頃に戻れた、テントから駅へ、何度も言いかけた、大事な言葉がありました、でも飲みこんだ・・・・(「サーカス」より)。♪また少し大人になった証拠に、寂しい時無理して笑ってるの、一日でいちばん長い影が、行儀よくついてくる・・・・(「ゆうぐれ」より)。思うに、シンガー・ソング・ライターの場合、ファースト・アルバムというのは、それまでに作りためた全作品の中から選定するわけだから、ベスト・アルバムみたいなものである。間に合わせで詰め込んだ曲は1つもない。

 

9.27(土)

電車に乗って、鞄から本を取り出そうとして、入れ忘れてきたことに気づく。電車の中で読むものがないというのは、活字中毒者にはつらい。しかたがないので、ノートを取り出し、10月に入ったら書き始める予定の「清水幾太郎の内灘」(仮題)の筋書きを考えていたら、あっという間に早稲田に到着。ぼんやりしているよりも、本を読んでいる方が時間は早く過ぎるが、書きものをしているとさらに時間は早く過ぎる。精神の集中度の違いを反映しているのであろう。午後、『社会学年誌』の編集委員会。4時ごろ終わり、文カフェに白玉しるこを食べに行く(気に入ると続けて食べる癖がある)。今日は白玉を7個にしたら150数円だった。1個あたり10円と考えてよいのだろうか。編集委員長の嶋崎先生も文カフェに来ていて、こちらは遅い昼食のようで、カレーとサラダをトレーに載せていた。ご一緒させていただいたが、彼女がカレーライス、私が白玉しるこ、という構図はなんだか可笑しかった。

 帰宅すると、台所から炊き込みご飯のいい香がする。なんと松茸ご飯である。今年の夏は雨がちであったが、そのため松茸が豊作で、例年より価格が下がっているらしい。妻が自慢げに言うには、4合のお米に松茸6本を入れたそうだ。4合に6本というのが、世間一般の水準と比較してどうなのかは私にはわからないが、確かに、いつもは香はすれども姿が見えない松茸が、今年はその実体をはっきりと認知することができる。雨がちの夏も悪いことばかりではないのだ。

 

9.28(日)

 今日は秋のオープンキャンパス。社会学専修の主任として、助手の下村君と一緒に102教室で受験生の個別相談。4年生のO君とKさんにも、兄貴分・姉貴分として、受験生のお相手をしてもらった。午前10時から午後4時までの間に、50人ほどの受験生が訪れる。わざわざ社会学専修の部屋を訪れる受験生だから、当然なのかもしれないが、「社会学に関心があります」ときっぱりと言われると少々びっくりする。私が彼らの年齢の頃に、はたして「社会学」という言葉を知っていただろうか。倫社(倫理社会)の中に社会学に相当する内容のことが一部含まれていたことは後から振り返るとわかるが、当時は、それを「社会学」として認識してはいなかったと思う。文学部に入ったときも、日本文学を専攻するつもりでいたが、教養課程の2年間(現在は1年間)に高校時代には知らなかった学問のカテゴリーと新鮮な出会いを経験し、特定の1つの分野に関心を絞ることができずに人文専修に進み(いまと違って人文は人気のある専修ではなかったように記憶している)、大学院への進学のときにようやく社会学を専攻することに決めた。だから、大学受験の段階で、「将来は大学院に進学して社会学の研究者になりたいと思っています。具体的にどのようなプロセスを踏んで研究者になるのか教えてください」といった質問を受けると、心の中で(へぇ・・・・)と感嘆してしまう。もっとも清水幾太郎なんかは、中学3年生(16歳)のときに社会学の道に進むことを決意しているから、いつの時代にも早熟な少年というのはいるものですけどね。

 

9.29(月)

 いよいよ後期の授業が始まろうとしている。長いようで短い夏休みであった。後期は土曜1限の社会学基礎講義がなくなるかわりに(後期は嶋崎先生が担当)、オープンカレッジ(早稲田大学エクステンションセンターの公開講座)が木曜の3限に入る。放送大学で教えていた頃は、自分より年長の学生はめずらしくなかったが、早稲田に来てからは二文の授業でたまに年上の学生と出会うだけになってしまった。だからオープンカレッジは新鮮でもあり、少し不安でもある。もっとも放送大学のときの私は30代の後半だったが、いまの私は50代の直前である。自分の年齢が上がった分、年上の学生の数は減るはずである。若造が年配の方々を教えるのではなく、おじさんがおじさん・おばさんを教えるのであろう。しかし、いずれにしろ、大学の教室で20歳前後の若者を教えるのとはだいぶ雰囲気が違うはずだ。やっぱり、ネクタイはしていくべきだろうな。これからは「木曜日はネクタイの日」だ。

 

9.30(火)

 午前9時から大学院修士課程の入試の二次試験(面接)があり、7時45分に自宅を出る。ラッシュアワーの通勤電車に乗るのはひさしぶりである。当然、座れないし、本も読めないので、車内広告(宮城県の観光案内)をながめていたら、4つ目の田町でたくさん乗客が降り、目の前の席が空いたので、それから先は木曜日の研究会で報告する英語の文献を読むことができた。そうか、ラッシュアワーといってもこの程度なのか・・・・。もちろん路線によるのだろう。実際、結婚して最初に住んだ綱島から乗る東横線は終点の渋谷までずっと鮨詰め状態だった記憶があるし、ついこの間まで住んでいた原木中山から乗る東西線もラッシュアワーは茅場町まで混む一方だった。ただし、そうした朝の満員電車に乗るのは、今日のような入試関連の日がほとんどで、普段は午前10時以降の電車に乗っているので、電車は私にとって本を読み、講義ノートを作り、そして居眠りをする場所である。

東京駅で降りてホームを歩いていると、「京浜東北線は午前8時15分頃大井町で起きました人身事故のため上下線とも運転を見合わせております」というアナウンスが聞こえてきた。時計を見ると8時20分である。ついさっきではないか。事故が起こったとき私が乗っていた京浜東北線は大井町を過ぎて新橋あたりを走っていた計算になる。家を出るのがあと5分遅かったら足止めをくらうところだった。・・・・夜、帰宅して、夕刊を広げると、事故の記事が載っていた。「三十日午前八時十五分ごろ、東京都品川区大井のJR大井町駅構内で、京浜東北線のホームにいた男性が線路内に飛び込み、大宮発蒲田行き普通電車(十両編成)にはねられて死亡。警視庁大井署は自殺とみて身元確認を急いでいる。この事故で、同線大宮―大船間などで最大四十七分遅れ、約十一万人に影響が出た。」こうした事故の場合の典型的なスタイルの記事である。「最大四十七分遅れ」という表現は、一人の男の死が社会に及ぼした効果はわずか47分間しか持続しなかった(47分後には何ごともなかったように日常が再開した)という空しさを漂わせている。「約十一万人に影響」という表現は、止むに止まれぬ事情から自ら死を選んだ人間を非難する気持ち(人様に迷惑をかけやがって・・・・)を含んでいる。私は子どもの頃から新聞でこうした記事を読む度に、将来、どんなことがあっても、鉄道への飛び込み自殺だけはやめておこうと思ったものだった。もしかすると、空しさと非情さを漂わした紋切り型の記事の真のねらいは、自殺の抑止にあるのかもしれない。


2003年9月(前半)

2003-09-14 23:59:59 | Weblog

9.1(月)

 3年前に一文の社会学専修を卒業し、テレビ番組の制作会社に勤めているHさんから「あくび通信Hawaii1号」と題されたメールが届く。「あくび通信」は彼女が海外に出かけたときの定番で、現地での見聞をレポート風にまとめて、リアルタイムで送信してくる(配信先リストの中に卒論の指導教員であった私のメールアドレスも登録されているのである)。今回のハワイ行は、初めて海外で開催される「ウチナーンチュ会議」という沖縄県人会の会合に出席するのが目的。しかし彼女は京都の出身である。その彼女がなぜ「ウチナーンチュ会議」に出席するのかというと、彼女が卒論研究で沖縄の竹富島にフィールドワークに行ったとき、泊まった民宿で親しくなった民俗学者のご夫婦の奥さんのご専門が「ハワイ移民」で、「今度ハワイでウチナーンチュ会議あるから、一緒にこーへん?」と関西弁で誘って頂いたのである。好奇心旺盛なところと、他人とすぐに打ち解ける性格は、彼女の持ち味である。

フィールドワークの帰りに立ち寄った沖縄県立博物館で「ハワイ移民100周年特別展」が開かれていたことも彼女の好奇心を刺激したらしい。いま沖縄県立博物館のホームページを開いて3年前のこの催しの案内に目を通したのだが、沖縄からの最初の移民30人がハワイに上陸したのは1900年1月8日だそうだ。日本からの最初のハワイ移民は1885年だったから、それから15年遅れての移民開始ということになる。小学館の『決定版20世紀年表』を見ると、1900年の前後というのは、日本人の移民先がハワイや北米から中南米へ転換する時期だったことがわかる。「第1回ペルー移民790人が横浜を出航」(1899年2月27日)。「第1回メキシコ移民83人が横浜を出航」(1901年11月16日)。「第1回ブラジル移民781人が神戸を出航」(1908年4月28日)。それと表裏をなすように、「サンフランシスコで日本人学童の排斥事件が起きる」(1906年4月1日)、「米国務長官、駐米大使青木周蔵に対し、日米相互移民禁止条約の締結を提議」(1906年12月28日)、「日本人労働者200人がサンフランシスコで上陸拒否される」(1907年1月22日)、「外務省、移民会社各社に対してハワイ移民の停止を通告」(1908年1月25日)など、アメリカへの移民は日に日に厳しい状況になっていった。日清・日露の戦争に勝利したことで、日本という国家、日本人という民族が、欧米人にとって目障りなものとして認識されるようになったということである。そういう時期のハワイ移民であったから、彼らの経験した苦難は想像するにあまりある。Hさんが訪れた「日本文化センター」でガイドをしている日系二世の吉武茂幸さん(81歳)の話。「ポルトガル人などが、さとうきびプランテーションの監督を務め、少しでも休むとムチを打たれました。ひとりひとりに番号札が付けられ、名前を呼ばれることはありませんでした。まるで奴隷のように扱われる日々が続いたのです。」 「日本文化センター」のホームページを開いたら、移民一世たちが座右の銘を刻んだ石柱の写真があって、その1本に「仕方がない」と刻まれていた。日本人の伝統的な心性を目の当たりにした気がした。

 

9.2(火)

 前期、私の調査実習の一員で、後期からアメリカのシラキュース大学に留学したAさんからメールが届く。シラキュースはニューヨークから車で4、5時間ほどのところ(ニューヨーク州の中央付近)にある町で、1年を通して曇りの日が多く、冬はとても寒い(零下20度!)らしい(「シラキュース大学日本青年会」のホームページにそう書いてある)。事実、Aさんからのメールによると、すでに屋外ではトレーナーが必要だという。先週から授業が始まったのだが、社会学の授業は先生が早口でまくしたてるので全然理解できず、泣きたくなるという。彼女に限らず、留学をした人たちは最初は必ず、一体自分は何をしにここに来たのかと、泣きたい気持ちなるものである。Aさんもいま直面している最初の坂道を乗り越えて、シラキュースの寒い冬を暖かなハートで迎えてほしい。

 有隣堂と栄松堂を梯子して以下の本を購入。

 (1)柳美里『交換日記』(新潮社)

 (2)柳美里『石に泳ぐ魚』(新潮社)

新刊は(1)。彼女の幻の処女作『石に泳ぐ魚』の出版差し止め訴訟の最高裁判決が出たのは昨年の9月24日で、大方の予想通り彼女の敗訴となったが、その前後の日記は非常に興味深い。(2)は改訂版。原告は改訂版についても出版差し止め請求をしたが、それについては一審で棄却されている。

 (3)多胡吉郎『我輩はロンドンである』(文藝春秋)

NHKのディレクターがロンドン勤めをしていたときの漱石をめぐるエッセー。漱石本と春樹本は腐るほど出ているが、この本はこれみよがしの薀蓄や独りよがりの思い付きを語ったりしないところが美徳である。文章も味わいがある。

 (4)『ブルーガイドニッポン29 大阪』(実業之日本社)

週末に学会で大阪に行く。大阪は初めてなので(!)、ガイドブックを買おうとあれこれ見たのだが、いまのガイドブックは食べ物のことしか書いてない。いつからこんな情けないことになってしまったのだろう。結局、街の雰囲気が読んでいて一番伝わってくる本書を購入。ガイドブックの老舗だけのことはある。梅田茶屋町に「阪急古書のまち」という古書店街があることがわかったので、ぜひ行ってみようと思う。

 (5)深浦康一『最前線物語』(浅川書店)

 (6)近藤正和『新ゴキゲン中飛車』(日本将棋連盟)

 どちらも将棋の定跡の解説書。大阪の宿は天王寺に取ったのだが、近くにジャンジャン横丁があって、そこには有名な将棋会所「三桂クラブ」がある。最近はコンピューター相手の将棋しか指していないので、ひさしぶりに人間相手の将棋を指してみようか。私はいまでこそ「将棋の強い社会学者」だが、学生の頃は「社会学に詳しい将棋指し」であった。

 

9.3(水)

 夕方、研究室を出ようとしていたとき、突然、雷を伴った激しい雨が降ってきた。空が光ってから、雷鳴が轟くまでの時間がどんどん短くなっていき、ついに同時になった。いま、雷雲の真下にいるらしい。さすがにこういうときに傘を差してスロープを下るのはやめたほうがよかろうと、31号館の下のベンチに座ってしばらく雨をながめ、雷の音を聞いていた。今日は暑い一日だったが、明日からは涼しくなるという。短かった夏の終わりを告げる雷雨のような気がした。昇降機しづかに雷の夜を昇る(三鬼)。

 

9.4(木)

 『高原へいらっしゃい』の最終回。やはり一話削除した影響だろう、展開が速すぎる。本当は「八ヶ岳高原ホテル」が売り払われ従業員が離散していくのに一話、ホテルが買い戻され従業員が再結集するのに一話、という構成であったはずである。ちょうど『Dr.コトー診療所』が、コトー先生が診療所を辞めて東京に帰っていくのに一話(今週)、コトー先生が再び島に戻ってくるのに一話(来週の最終回)、という構成であるように(最終回はそうなるに決まっている)。下降と上昇を一話の中に詰め込むとどうしても話がお手軽になってしまう。

明日から大阪に行き、8日に帰京の予定(フィールドノートの更新も8日までありません)。

 

9.5(金)

 東京発午前10時53分の「のぞみ11号」に乗り、午後1時26分に新大阪に到着。初めての大阪である。ホームのアナウンスも、駅構内の土産物屋の売子の声も、標準語である。しかし、地下鉄御堂筋線のホームにエスカレーターで上がってくる人々を観察したら、かねて聞いていたとおり、左側を開けている。大阪に来たことを実感する。何の変哲もない駅弁で昼食を済ますのではなく、大阪に着いてから何か食べようと、車内では何も食べずに我慢していたので、腹ペコである。難波(なんば)の「自由軒」をめざす。ところが地下鉄を降りて地表に出ると方向感覚が麻痺している。しかも陽射が厳しい。すでに午後2時である。空腹と疲労で「自由軒」は諦めて、第2候補の「末広軒」に目標を切り替えたところ、こちらはすぐに見つかる。明治30年から続く洋食屋の老舗でハヤシライス(700円)が美味しいという話だ。地下の小さな店で、テーブル席は3組の客で埋まっていたので、カウンター席に座る。カウンターの中には老人と呼んでもよい男性が2人と若い男性が1人いた。若い男性が注文をとりに来たので「ハヤシライスを!」と快活に注文する(初めての店ではあるが臆してはいけない)。するとカウンターの中の老人の一人が、よくぞハヤシライスを注文してくださったという感じで、「おおきに!」と大きな声で言った。よかった、気難しいオヤジじゃなくて。待つこと20分、ハヤシライスが運ばれてきた。あれ? ご飯が少ない。これではとても足りない。やや気落ちしながら最初の一匙を口に運ぶ。う、うまい! 腹ペコであることを差し引いても、素晴らしく美味い。デミグラスソースが実にマイルドだ。きっと、いろいろなものを入れて、じっくりと何日もかけて煮込んだものに違いない。最後の一匙まで慈しむように平らげる。「末広軒」を出て、再度「自由軒」をめざす。名物のカレーライスを食べるためである。私はとくに大食いというわけではないが、家でカレーライスやハヤシライスを食べるときは、大抵、お代わりをする(どこの家もそうだよね?)。「末広軒」のハヤシライスで人心地着いたせいで、方向感覚も回復し、「自由軒」は今度はすぐに見つかる。予想していた通りの大衆食堂である。織田作之助が愛した店である。名物のカレーはルーとごはんが混ざっていて(ドライではなくウェットまま)、それがカルデラ火山のような形態で皿に盛られ、真ん中の窪んだ部分に生卵が落とされている。私の隣のおじさんは生卵をカレー(とライス)に混ぜずに食べていたが、私はスプーンで全体をグチャグチャとかき混ぜて食べた。多分、この食べ方が正しいと思う。というのもカレーがかなり辛く、味が尖がっている感じなので、生卵とからめることでほどよくマイルドになるからだ。量は、やはり大衆食堂だけあって、十分だ。さすがにハヤシライスを一皿食べた後だけにお腹一杯になった。腹ごなしに商店街をブラブラ歩く。金曜の午後だからか、とても活気がある。大阪的活気だ。吉本興業の牙城、「なんばグランド花月」では本日2回目の公演が始まろうとしていた。プログラムを見たらトリはオール阪神巨人だった。見てみたい気もしたが、4000円はちょっと高い。

 天王寺東映ホテルには午後4時頃チェックイン。シャワーを浴び、一休みして、散歩に出る。天王寺公園を横切って通天閣まで歩く。ミナミの下町というのだろうか、東京で言えば浅草に雰囲気が似ているが、浅草をもっと落ちぶれた感じ、時代の流れに取り残された感じにすると通天閣界隈になる。入場料600円を払って高さ91メートルの展望台に昇る。観光客はそこそこいるものの、喫茶店は閉鎖されていて、斜陽産業であることは歴然としている。売店で壜入りのオレンジジュースを買ったとき、壜底に果汁が沈殿していて、おばさんが一生懸命振ってから栓を抜いて私に渡してくれたのも物悲しかった。通天閣を降りて、ジャンジャン横丁と呼ばれる通りを歩く。串かつ、寿司などの食物屋が軒を並べる中に、目指す「三桂クラブ」はあった。たくさんの客が将棋を指し、碁を打っている。それを通行人が立ち止まって硝子越しにのぞきこんでいる。昭和30年代の風景のようであった。もちろんいまでも将棋・碁会クラブはあるが、繁華街では場所代の安いビルの上の階にあるのが普通で、市井の人々の目に触れることはなくなってしまった。私は通りから硝子越しにしばらく観察をした。チェスクロックは使われていない。つまり考慮時間は無制限(=良識の範囲内)ということだ。手合いカードもない。つまり一局終えるごとに対戦相手が変わるのではなく同じ相手と続けて指すということだ。どちらも私が慣れ親しんでいるやり方ではないが、郷に入らば郷に従えである。店内に入ると、席主が「どのくらい指しはりますか?」と尋ねた。「二段くらい」と答える。私は日本将棋連盟の三段の免状を持っており、町道場では四段で指していた。しかし、ここ数年、将棋から遠ざかっていることを考慮して控えめに答えた。対局相手に指定されたのはここの常連の一人とおぼしきおじさんであった。駒を並べながら、ふと、壁に掛けられた会員の段位を見て驚いた。有段者が少ないのである。これはここのクラブのレベルが低いことを意味するのではなく、逆に高いことを意味する。つまり段位が辛いのである。ここは「王将」坂田三吉の地元である。東京では初段は腐るほどいるが、ここでは初段は並みの指し手ではない。私は謙遜で「二段」と自己申告したつもりだったのだが、実は、とんだ大口をたたいてしまったのだった。対局が始まる。指し手が進み、相手の棋力は私と同程度であることがわかった。私には相手の考えていることがわかり、相手も私の考えていることがわかる。必然的に局面は膠着状態になる。こうした場合、勝敗を分けるのは集中力の持続、すなわち勝負への執念である。数年ぶりで人間相手の将棋を指す私と、毎日ここで将棋を指している相手との差がここに出る。4局指して私の1勝3敗であった。6時から始めて4局目が終わったのが9時半。夕食はジャンジャン横丁の串かつ屋のつもりであったが、遅くなったので、屋台で買ったタコ焼きを食べながら夜道を帰る。しかしさすがにこれだけではものたりないので、ホテルの近くの「すゑひろ」という大衆食堂でキツネうどんを食べ、コンビニで夜食用に鮭のおにぎりを1個買って帰る。

 

9.6(土)

 大阪市立大学での日本家族社会学会大会の一日目。午後のテーマセッション「戦後日本の社会変動」で他のメンバー2人と一緒に報告。私は司会も兼ねていたので、他の2人の報告原稿にも事前に目を通していたのだが、その中でK氏が日本の家族社会学の大御所であるM氏の学説を批判していることを知っていた。会場にはたぶんM氏もおられるであろう。M氏だけでなく、M氏の教え子や、M氏の世話になった人も大勢いるであろう。これは一波乱あるだろうと私は、不安半分、期待半分で当日を迎えた。心配したとおりK氏があちらこちらから集中砲火を浴びることになった。K氏はM氏という超弩級の戦艦を相手に戦ったのではなく、戦艦とそれを取り囲む艦隊を相手に戦ったのである。夜の懇親会の会場で、何人かの研究者が私のところにやってきて、自分はK氏の見解を支持しますと言った。だったら質疑応答のときに発言してくれればよかったのにと私は言ったが、それが無理な注文であることも承知していた。学会とはつまるところ社交の場なのである。

 

9.7(日)

 大会二日目。午前のテーマセッション「NFRJ98からの提言(2)」に出席。昼休み、弁当を食べながらNFRJ-S01のメンバーと第二次報告書の相談。午後のシンポジウム「現代社会における家族ならびに結婚の意味を問う」はテーマに魅力を感じないので失礼する。一旦、ホテルに戻り、ちょっと昼寝をしてから、着替えをして、天王寺公園の中にある大阪市立美術館に行く。行く途中の道に露天のカラオケ屋がたくさん出ていた。こんなものを見るのは初めてである。客は下層社会の人々である。用意された椅子とテーブルで一杯やりながら、自分の順番が来るのを待ち、路上のマイクの前で歌うのである。曲が混じらないように屋台と屋台の間には一定の間隔が空いている。道を進むにつれて歌い手と曲が次々に変わっていくのである。美術館はそれほど期待せずに行ったのだがとてもよかった。よく映画はビデオでなく映画館で観るべきだというが、美術品も本ではなく美術館で観るべきである。今回、そのことを強く感じたのは、墨絵の巻物と洛中洛外図を観たときである。横に長い墨絵の巻物は美術本には部分しか載っていないことがほとんどである(これは大和絵の巻物や屏風絵についても言える)。しかし、それでは巻物の面白さは伝わらない。右から左へ、深山から始まって海に出るまでの過程、春から始まって冬に至る過程、そういう空間的・時間的展開こそ巻物の面白さである。また、洛中洛外図のような大きな絵は美術本では縮小がきつくなり細部がわかりずらくなる。しかし洛中洛外図の面白さは細部にこそ宿る。ここでこんなことをしている人たちがいる、あそこであんなことをしている人たちがいる、と眺めて回る楽しみである。また、この美術館には印籠や根付のコレクションがあり、一つの部屋が全部そのために使われている。こんなにたくさんの印籠や根付を観たのは初めてである。閉館の時刻が近づいたので、美術館を出て、一昨日行ったジャンジャン横丁の「三桂クラブ」にまた顔を出す。今日の相手は一昨日の人よりも棋力は劣り、途中で難しい局面はあったものの、2戦2勝。その後、隣で観戦していた老人から対局を申し込まれる。この人はさらに棋力が劣り、4戦4勝。都合、本日の成績は6戦6勝。しかし相手が弱かったのでちょっと物足りない。夕食は天王寺の駅ビルの中にあるトンカツ屋でとる。同じビルに蒲田でもお馴染みの熊沢書店が入っていたのでのぞいてみる。東京には「東京人」という雑誌があるが、ここには「大阪人」という雑誌があるのを知ってびっくり。中島らも『牢屋でやせるダイエット』(青春出版社)を購入。

 

9.8(月)

 学会は昨日で終わり、今日は純粋な大阪散策の日。9時半ごろホテルをチェックアウト。とりあえず荷物を新大阪駅のコインロッカーに預けてから、市内に戻る。心斎橋から心斎橋筋(大阪で一番のアーケード街)を難波まで歩く。戎(えびす)橋には「危険ですから川に飛び込まないで下さい」という看板が立てられていた。いよいよ阪神優勝の日が近づいている。道頓堀通りの太左衛門橋のたもとにある有名な「大たこ」のタコ焼き(6個で300円)を賞味する。うん、確かにタコが大きい。「大たこ」の向かいの「角座」ではチャン・イーモウ監督の話題作『英雄(HERO)』を上映中で、見てみたい気もしたが、目指すは「なんばグランド花月」である。11時50分開演の1回目の公演に間に合うように30分前に着いたのだが、すでに指定席(4000円)は完売で、立ち見(2000円)しか残っていないというので見物は諦める。平日だからと高をくくっていたが、甘かった。前売り(3500円)を買っておくべきだった。さて、どうしようと歩いていると、「東宝敷島」で『踊る大捜査線 THE MOVIE 2 レインボーブリッジを封鎖せよ!』がかかっていて、しかもちょうど初回の本編が始まるところだったので、数秒考えて、飛び込む。東京にいたらわざわざ映画館では観ない作品だが、旅先なので、こういう展開も悪くないと思った。作品の出来は、そうですね、75点くらいかな。女性本部長がもっとクレバーで、犯人たちももっとクレバーでないとね・・・・。ユースケ・サンタマリアのネゴシエーターは、WOWWOWドラマ『交渉人』の三上博史を観た後では冗談としか思えない。最初から、サスペンスではなく、コメディー&人情ものとして割り切って観ればいいのかもしれない。実際、笑えたし、しんみりもした。映画館を出たのが2時。古書店「天地書房」で矢作勝美『伝記と自伝の方法』(出版ニュース出版、1971年)と臼井吉見『残雪抄』(筑摩書房、1976年)を購入し、「551蓬莱」本店で豚マン2個(330円)を食べてから、心斎橋筋を戻る。来たときよりも人出がずぶん増えている。完全閉店セールをやっている鞄屋で36000円の正札の付いたイタリア製のビジネスバッグが10000円で売られていて、衝動買いしそうになったが、荷物になるので思いとどまる。讃岐うどんの専門店「川福」できつねうどん(650円)を食べてから、地下鉄で梅田まで行き、茶屋町の阪急電鉄の高架線下にある「阪急古書のまち」をのぞく。「天地書房」の女主人に尋ねたところ、大阪には神田や早稲田のような古書店街はなく、ここが唯一それらしい場所とのことだった。店の数は10はなく、しかも店ごとの専門が特化しているので、見て回るのにそれほど時間はかからなかった。結局、購入したのは、矢沢永一『大正期の文藝評論』(中公文庫、1989年、品切れ)一冊のみ。新幹線(午後5時53分新大阪発のぞみ24号)の発車時刻まであと1時間となったので、大阪見物はおしまいにして、新大阪駅に向かう。家族の土産には一口餃子(30個入り)と赤福(8個入り)を買う。車内での夕食用におにぎりを3個買って(いくら、たらこ、牛筋肉。その場で握ってくれる)、新幹線に乗ろうとしていたとき、妻から今日は何時に帰るのかとメールが入る。9時過ぎになるとメールを返したら、今日の夕食はビフテキなのにとまたメールが来た。あれ? 夕食は済ませてくると言っておかなかったかな・・・・。車内では隣の席が空いていたので、ノートパソコンを広げてずっとフィールドノートを書いていた。散歩と古本と映画と美術館と飲食、東京でしていることを大阪でもしたに過ぎないわけだが、唯一、ひさしぶりに人間相手の将棋を指したことが非東京的日常であった。蒲田に着いたのは9時ちょうど。迎えに来てくれた息子の自転車に荷物を載せて蒲田的商店街の雑踏の中を家に向かった。

 

9.9(火)

 私の卒論ゼミのOBで、いまは東大の大学院の博士課程で戦前の小店員の保護問題を研究しているT君が、昨日のフィールドノートを読んで、雑誌『大阪人』は『東京人』よりもずっと先輩格の雑誌で、『東京人』が1986年の創刊であるのに対して、『大阪人』は1947年創刊で、さらに前身の『大大阪』は1924年創刊であることをメールで教えてくれた。実は、T君は先々週、『大大阪』をほぼ全号所蔵している大阪府立中之島図書館に出向いて行って、終日目を通していたのである。「最近映画館が、商店の小僧が仕事をサボって映画を観られるように、専用の駐輪場を設置してけしからん」といったルポが載っているそうで、東京には『大大阪』に相当する雑誌はこの時期にはなく、都市社会事業の面では東京を大きくリードしていた当時の大阪の様子がよくわかる、とのことだった。・・・・なるほどねぇ。それにしても「戦前の小店員の保護問題」とはずいぶんと渋いテーマに取り組んでいるものだ。

 今夜は月と火星が大接近している。月は満月で、非常に明るいが、火星も負けずに赤く光っている。3階の子供部屋のベランダで眺めていたら、息子、娘、そして妻もベランダに出てきて、一家でお月見となった。

 

9.10(水)

 午前中からK氏と二人でNFRJ-S01(戦後日本の家族の歩み調査データ)のクリーニング作業。10月1日から日本家族社会学会員へのデータ(ver.2)の公開を行う予定(ご希望の方はまず日本家族社会学会に入会して下さい)。昼食は「五郎八」の揚げ茄子のみぞれおろし蕎麦とお稲荷さん、食後に葛切り。葛切りは唯一のデザートとして前からメニューにあることは知っていて、気になっていたのだが、K氏は私と同じく下戸なので、そろって注文してみた。上品な黒蜜の甘さがそば汁の後にはぴったりだった。クリーニング作業は、それほどの量ではなく、4時には終わった(ver.1の時点で時間をかけて徹底的にクリーニングをしたからである)。後はコードブックが出来上がれば公開できる。

 帰宅途中、有楽町のビッグカメラに寄って、『最強東大将棋6』を購入。帰宅して、さっそくPCにインストールして、試してみた。強さ自体の向上は実感できないが、レーティング戦のシステムが導入され、自分の棋力のレベルがコンピューターとの対戦を続けていくうちに数値化され、かつ変動するのが面白い。でも、やっぱり、人間相手の将棋の方が面白いね。

 

9.11(木)

 8月は冷夏だったが、9月はしっかりと残暑である。今日も暑い。どうだろう、8月はなかったことにして、これから夏休みが始まることにしらたら。一種のサマータイムみたいなものです。国民全員、「せーの」で、今日は9月11日ではなくて、8月11日ということにしちゃうと。そう決めちゃうと。そう思い込んじゃうと。反対の方、いますか?

『Dr.コトー診療所』の最終回。よかった。とくに時任三郎がよかった。もちろん吉岡秀隆もいい。柴咲コウもいい。泉谷しげるもいい。小林薫もいい。千石規子(つるばあさん役)もいい。富岡涼(子役)もいい。なんだか円谷幸吉の遺書みたいだが、みんなよろしゅうございました。しかし、やはり、一番いいのは時任三郎である。彼が息子と一緒に東京まで出かけて行って、病院の廊下で、コトー先生に島に戻ってきてくれと言う、あの場面、あれが今日のハイライトシーンであった。「みんなあんたに島に戻って来てほしいと思ってる」と言おうとして、やめて、「俺があんたに戻ってきてほしいんだ」と言い直す。そのとき息子が父親の顔を見上げて、「お父さん・・・・」と言う。つまり、このドラマは、よそ者であるコトー先生が島民たちにしだいに受け入れられていく物語なわけです。拒絶から受容へ。時任三郎はそのプロセスを体現しているわけです。彼は第1話から第10話まで一度も微笑まなかった。終始厳しい顔をしていた。とっておいたんです、最終回のために。彼の船でコトー先生が島に帰ってくる。歓喜する島民たち。しかしコトー先生は船酔いで吐き気を催している。その姿を見て初めてほほえむ時任。そのやんちゃ坊主のような笑顔。憎い演出です。ところで、一昨日、二文の卒論ゼミのときに、仙台放送(フジTV系列)の東京支局に勤めているMさんから聞いたのですが、視聴率が取れたら、『Dr.コトー診療所』は『北の国から』のようにスペシャルを制作する話があるそうです。20%を越えているわけだから、決まりだよね。楽しみだ。

 

9.12(金)

 午後、大学で『社会学年誌』45号の特集のための研究会。道場氏、入江氏、私の3人。インターネットサイト「日本の古本屋」の話題でひとしきり盛り上がる。古本屋を梯子しながら本を探す楽しさは何ものにも代えがたいが、特定の本を探している場合には、「日本の古本屋」は力強い助っ人である。なにしろ私に代わって全国の古本屋を瞬時に探して回って、結果を報告してくれるわけだから。もちろん「日本の古本屋」とはいっても、いまはまだ、一部の古本屋がそれぞれの店の在庫の一部をネット販売しているに過ぎない。もし、将来、日本中のすべての古本屋が、それぞれの店の在庫のすべてをネット販売するようになったら、それはまさに革命と呼ぶに相応しい事態であろう。

先月、「日本の古本屋」で購入した清水関連の本は以下の通り。

『生活の叡智』(実業之日本社、1942年)*1500円

『思想の展開』(河出書房、1942年)*3000円

『三つの生命』(鱒書房、1948年)*800円

『日本文化形態論』(弘文社、1950年)*1300円

『私の社会観』(創元社、1951年)*1000円

『基地の子』(光文社、1953年)*1000円

『社会学ノート』(河出文庫、1954年)*1500円

『日本が私をつくる』(光文社、1955年)*1000円

『女性のための人生論』上(河出新書、1956年)*1000円

『現代思想入門』(岩波書店、1969年)*1000円

清水はその81年の生涯に94冊の単著を出した(その他に33冊の訳書と38冊の編書がある)。すさまじい数である。売文業者(清水はこの言葉を好んだ)としての清水の活躍の舞台は雑誌、とくに『世界』や『中央公論』といった総合雑誌であった。雑誌に発表した論文が何本かたまるとそれを一冊にまとめて本にするということを続けていくうちにこれだけの数になったのである。『清水幾太郎著作集』全19巻(講談社、1992-93年)はその一部を収めるに過ぎない。それ故、以前から、古本屋で著作集未収録の本を見つけるたびに購入していたのであるが、「日本の古本屋」を使うようになってから、飛躍的に能率が上がった。今日、「日本の古本屋」をのぞいたら、『女性のための人生論』の下巻が、上巻を買ったのとは別の書店から出ていたので、心の中で「ラッキー!」と叫びながら、すぐに発注した。他に清水関連の本を4冊注文。

『学生論』(河出書房、1951年)*2500円

『人生と思想』(河出新書、1951年)*1000円

『日本の運命とともに』(河出書房、1953年)*2800円

『人間を考える』(文藝春秋、1970年)*1000円

『諸君』創刊号(文藝春秋、1969年)*1500円

ちなみに、『諸君!』は清水の最後のホームグラウンドとなった総合雑誌であり、爆弾論文と言われた「核の選択 日本よ国家たれ」は『諸君!』1980年7月号に掲載された。

 

9.13(土)

 宅配便で長谷正人さんから彼の編著『映画の政治学』(青弓社、2003年)が届く。昨年の『社会学年誌』43号の特集論文を核にして1冊の本にまとめたものである。とりあえず「はじめに」(いかにも長谷さんらしい文章だ)に目を通し、お礼のメールを送る。「特集のコーディネーターはかくあらねばならないと肝に銘じました」と。本書は「映画の社会学」ではなく「映画の政治学」である。編者曰く、「映画を政治的に語ること、映画をめぐる日本の言説空間に『政治』を導入すること。私たちが本書で企図していることは、この簡明な表現にほぼ尽きているといえよう」。いま、映画を「政治的」に語ることは流行っていない。それは政治的メッセージを含んだ映画が流行っていないということではなく(もちろんそれもある)、映画一般を「政治的」に語ることが時代遅れのようになってしまっているということである。たとえば、『千と千尋の神隠し』という大ヒットした映画ももっぱら「趣味的」ないし「オタク的」に語られている。今夏、大ヒットした『踊る大捜査線 THE MOVIE 2』も、それをちゃんと論じた文章にはまだお目にかかっていないが、たぶんそうなるだろう。長谷さんたちはそうした状況に一石を(7本の論稿から構成されているから「7石を」というべきか)投じようというわけだ。しかし、同時に、長谷さんたちの論稿は、取り上げている作品のもつ「魅惑」や「快楽」に徹底的にこだわっている。作品を冷徹な外科医のような手さばきで腑分けしてみせる、ある種のカルチュラル・スタディーズとの違いがそこにある。

「日本の古本屋」で清水幾太郎の本を4冊注文。

『科学社会史』(山雅房、1941年)*1500円

『思想の歴史8 近代合理主義の流れ』(平凡社、1965年)*500円

『思想の歴史10 ニーチェからサルトルへ』(平凡社、1969年)*1000円

『講座日本の将来5 余暇時代と人間』(潮出版、1969年)*1500円

「清水幾太郎」で検索して出てきた一覧表を見ながら何冊か入力ミスがあるのに気づく。「蟻書房」が出品している『現代思想入門』(平凡社、1959年)は、出版社が間違っている。平凡社ではなく岩波書店が正しい。「悠山社書店」が出品している『私の社会史』(創元文庫、1953年)は書名が間違っている。正しくは『私の社会観』。「あじさい堂書店」が出品している『昨日の夜』(文藝春秋、1977年)も書名が間違っている。正しくは『昨日の旅』。旅行記です。『昨日の夜』では、小川知子の、♪あなたがかんだ小指が痛い 昨日の夜の小指が痛い・・・・という歌(ゆうべの秘密)を連想してしまう。

*後記:いつもこのフィールドノートを見てくれている中学時代の同級生のW君からメールが届き、上記の歌詞は伊東ゆかり『小指の思い出』であると指摘される。そ、そうだった。『ゆうべの秘密』は、♪ゆうべのことはもう聞かないで、あなたにあげた私の秘密・・・・、というのだった。伊東ゆかりも、小川知子も、中学生のわれわれには色っぽい大人の女性であった。

 

9.14(日)

 朝、雲ひとつない青空が広がっていたが、だんだん雲が多くなり、夕方には雨がぱらついた。深夜、窓から入ってくる夜気がひんやりとしている。夏から秋への移り変わりの季節には、一日の中に夏と秋がある。

 ヨーカ堂の広告を見ていた妻が、「アクエリアスの2リットルボトルが半ダース880円よ」と言った。1本当たり146円はコンビニの半額である。我が家では私と息子がアクエリアスの愛飲者で(同じようでもポカリスエットは甘みが口に残るので好まない)、常に何本かストックがある(研究室の冷蔵庫の中にもある。)。さっそく妻と自転車に乗って出掛け、2箱購入。帰りに南天堂書店に寄って、大江健三郎『いかに木を殺すか』(文春文庫)と小林旭『さすらい』(新潮社)を購入。

 TVで世界柔道を見ていたら、田村亮子の出る女子48キロ級の決勝の前に、男子無差別級の決勝をやっていた。おかしいな、普通、男子無差別級決勝が大会の最後を飾るものではないのか・・・・。そうか、これは実況放送ではなくて、録画を流しているんじゃないかと気づき、インターネットを開いたら、男子無差別級は鈴木桂治が優勝し、女子48キロ級は田村が優勝したと速報が出ていた。おかげで全然ハラハラせずに決勝戦を見ることができた。ところで、スタジオの藤原紀香は「女子48キロ級決勝の前に男子無差別級の決勝をご覧下さい」というコメントを確か言っていたよな。つまり彼女は録画とわかっていてワーワー、キャーキャー、実況中継風の芝居をしていたわけだ。やれやれ。どおりで隣の吉田秀彦のテンションが低かったはずだ。