フィールドノート

連続した日々の一つ一つに明確な輪郭を与えるために

2007年7月(後半)

2003-07-31 23:59:59 | Weblog

7.15(火)

 夏休みがそこまで来ている。それまでに馬力を入れて片付けなくてはならない仕事が2つ、3つあるので、そうウキウキしてはいられないのだが、でも、やはりウキウキしてしまう。つい頬がゆるんでしまう。保育園→小学校→中学校→高校→大学→大学院→(職場としての)大学と、つねに長い夏休みのある人生を送ってきた。だから夏休みのない人生というものを想像することができない。いや、想像することはできるが、正視することができない。しかし、世の中のほとんどの人は夏休みのない人生を生きているのである。この春、大学を卒業して就職した人たちは、人生で初めての夏休みのない夏を経験しようとしている。高学歴社会が構造的に生み出す大きな人生の試練といってよいだろう。

 

7.16(水)

 3限の「社会学研究9」の講義は今日が最終回(来週は教場試験)。ふぅ、終わった。やれやれ。5限の「社会学演習ⅢD」の調査実習はインタビュー調査がいよいよ始まり、今月末に予定している鴨川セミナーハウスでの2泊3日の合宿が前期のピークになる。これからだんだん勾配が急になっていく。今日の授業も規定の午後5時50分では終わらず、7時半までかかった。その後、10人ほどの学生と「サイゼリア」で食事。那須先生の大学院のゼミの人たちの姿も見えた。「サイゼリア」にはひさしぶりに来たが、メニューをみて、値段の安さに驚いた。文学部のカフェテリアといい勝負ではなかろうか。どおりで混んでいるはずである。ところで、メニューの一番最後にある「ドリンクバー」というのは面白いシステムである。コーラー、ジュース、ウーロン茶といったソフトドリンク類は所定の代金を払ってセルフサービスでお代わり自由というシステムなのであるが、代金を払った人に腕章とか、首飾りとか、特別の色のコップとかが渡されるわけではないので、代金を払っていない人がソフトドリンクをもってきてもわからない。あるいは、代金を払った人が、2人分の飲み物をもってきて(お代り自由なのであるからお代り分を先にもってきておいてもかまわないだろうという論理で)、1つを代金を支払っていない友人に渡してもわからない。いわば信頼の上に成立つシステムである。事実、われわれは、全員の人数分のドリンクバーを申請した。しかし、申告せずにドリンクバーを利用する客も一定数はいるはずであり、そのことは代金を設定する場合に考慮されているに違いない。あたかも年金制度における掛け金のごときである。そういうことを考えると、律儀に正しい申告をしたわれわれは、2回くらいはお代りをしないと損をしたような気分になり、1杯目はメロンソーダ、2杯目はウーロン茶、3杯目はコカコーラという具合に(私の例です)、本当は水でもいっこうにさしつかえないところを、ソフトドリンクを過剰に摂取してしまうのである。

 

7.17(木)

 7限の「社会・人間系基礎演習4」も今日で前期は終了。「大学」というテーマでB4判1枚(左右見開き2頁)のレポートを提出してもらう。入学して数ヶ月、この間に大学で見聞したことを素材にして、前期の演習で学んだ社会学的な概念を総動員して、自分なりの分析を試みるというのがレポートの趣旨である。名前の横には筆者の顔写真を貼っておいてもらう。このレポートは私だけでなく、クラスの37名全員が読む。したがって37部コピーをして提出してもらい、全員が全員の分を受け取る。この人はこんな文章を書く人なのか、らしいな、意外だな、と文章と顔写真を見比べながら目を通す。そして読んだ感想を7月中にクラスのBBSに書き込むことになっている。レポートというものは人に読まれ、評価されることを前提にしないと、上達しない。自己の内部に「一般化された他者=読者」の視線をもっていない人の書いた文章は読むに耐えない。しかし、大学のほとんどのレポートはただ提出させるだけで、教師がどう読んだのか、そもそも読んでいるのかいないのかさえ、わからない。他の学生がどんなに面白い(あるいはつまらない)レポートを提出しているのかも無論わからない。わかるのは自分のレポートの最終的な成績(ABC・・・・)だけだ。だから何かの本をただ写したに過ぎないような「レポート」が大量に提出されることになる。不毛な儀式というほかはない。帰りの電車の中で、32名のレポート(5名未提出)を順に読んでいく。うん、なかなか面白い。7名分を読み終わったところで、蒲田駅に到着。続きは明日の電車の中で。

 

7.18(金)

 大学院の演習も今日で前期は終了。『近代日本文化論』全11巻の中から計20本の論稿を読んだ。個々の論稿の分量はさほどではなく、内容も難解ではない。しかも論稿のコピーは1週間前に全員(8名)に配布してある。したがって、報告者は、こういうことが書いてありましたという内容の紹介以上の何ものかを、報告において期待されることになる。センスが問われ、勉強量が問われることになる。本日の報告者だったY君とAさんは、厚みのある(お手軽でない)よい報告をした。たぶん他の授業でもきちんと準備した報告をしているのであろう。そうであれば、いずれ彼らは教員の間で認められる。つまり「この学生は研究者の仲間入りをする人間だ」と認められるのである。修士課程の2年間というのは、そういう審査の期間なのである。いまの時点で、Y君とAさんに注文があるとすれば、それは自分が報告者のときは遅刻してはいけないということである。本日、Y君は20分ほど遅刻し、Aさんはさらに20分ほど遅刻した。互いにもう一人の報告者が先に始めていてくれるものと期待していたらしい。やれやれ。企業のプレゼンに担当者が遅れたら切腹ものであろう。

 

7.19(土)

 「社会学基礎講義A」の教場試験。試験中、教室の中を巡回して気づいたことは、場所によって室温がずいぶんと違うということ。教壇の辺りはクーラーからの風を感じて上着が必要なのだが、教室の一番後ろの窓際の席はちょっと汗ばむ感じだ。日本列島の気候に似ている。暑がりの学生は前の方に、寒がりの学生は後ろの方に座ってくれるとちょうどよい。しかし、一般に、真面目な学生が前に座る傾向が高いので、真面目でかつ寒がりな学生は風邪をひきやすい。気の毒なことである。「質問のある人は黙って手をあげること」と言ったら、何人かの学生が手をあげた。

学生A「答案用紙を上下逆さまにして字を書いてしまったのですが・・・・」

私「気にしないで下さい」

学生B「ナニナニについて論じなさいとありますが、論じるというのは自分の意見を入れてもよいということですか」

私「そうです」

学生C「イツダツ(逸脱)という漢字を忘れてしまったのですが、どう書くのでしょう」

私「自分で考えて下さい」

・・・・そうこうしているうちに終了の時刻となる。答案約180枚。夏休みに入る前に採点を終えたいものだ。

 卒論ゼミを終え、「すず金」で鰻重を食べ、「あゆみブックス」で村上春樹・柴田元幸『翻訳夜話2 サリンジャー戦記』(中公新書)を購入し、「シャノアール」で読む。柴田の「Call Me Holden」は秀逸。アメリカ文学史における『キャッチャー・イン・ザ・ライ』の位置づけを主人公ホールデン・コールフィールドの口調で(!)語ったもの。舌を巻く芸である。研究室に戻って、雑用を片付け、閉店間際の生協文学部店で佐藤忠男『映画の中の東京』(平凡社ライブラリー)を購入し、帰りの電車の中で読む。冒頭の章で、小津安二郎、黒澤明、成瀬巳喜男の3監督の作品が取り上げられている。読んでいたら黒沢の『野良犬』が無性に観たくなり、蒲田駅に着いてただちにTUTAYAに飛び込んでレンタルする。

 清水幾太郎の孫の清水真木が広島大学で哲学の講師になっていることを知人からのメールで知り、彼の著書『岐路に立つニーチェ 二つのペシミズムの間で』(法政大学出版局、1999年)をアマゾンで注文する。この本は以前店頭で見かけた記憶がある。しかし、そのときは迂闊にも彼が幾太郎の孫であることに思い至らなかった(孫の名前が真木であることは知っていたのに・・・・)。幾太郎の一人娘、つまり真木の母親、礼子は青山学院大学の哲学教授で専門はスピノザである。血は争えないとはよく言ったものだ。

 

7.20(日)

『野良犬』を観た。1949年の映画だ。敗戦から4年後、私の生まれる5年前の映画だ。満員の路面電車の中で若い刑事(三船敏郎)がピストルをすられ、その行方を捜す間に、そのピストルで人が殺傷される事件が2件起きる。3件目の事件が起きる前になんとか犯人をつかまえようと東京中を歩き回る刑事。われわれは刑事と一緒に、敗戦後間もない東京の市井の風景と人々を見、そして巷に流れる音楽を聴く。そして真夏の暑さ、それもクーラーというものがまだ存在しない時代のむせ返るような暑さを肌で感じる。野良犬というものを見なくなって久しいが、野良犬が口を開けて、ハーハーと息をするのが聞こえてくるような暑さである。それはたんなる夏の暑さではなく、当時の東京の熱さでもあろう。

ただいまの時刻、午前5時40分。徹夜でようやく原稿を書き上げる。グラフを12枚組み込んだ重いファイルだったせいか、途中で文書の保存ができなくなり、大いに焦った。思わず「神様・・・・」と祈ってしまった。ファイルを2つに分割したら保存が可能になり、ホッとする。窓の外はもう明るい。カラスが鳴いている。

 

7.21(月)

 子どもたちが家にいるので、「今日は休みか」と聞いたら、「もう夏休みだよ」と言われた。そうか、もう夏休みなのか。そういえば数日前に通知表を見たっけな。来年、長女は大学受験、長男は高校受験で、いつもの夏休み気分ではない。通常であれば、私も夏休みモードに突入しているのであるが、今年は授業の終了が1週間遅く(学期始めの科目登録の混乱のせいで)、今週まで授業がある。おまけにまだ梅雨は明けていないときている。終日、原稿の手直し作業。ただいまの時刻、午前3時30分。さすがに2日続けて徹夜は無理だ。これを書き終えたら寝るとしよう。

 

7.22(火)

 大学からの帰路、東西線の中で原稿を読んでいたら、大手町で降りそこなって日本橋まで行ってしまった。大手町まで戻るのも芸がないので、銀座線で新橋に出ることにした。銀座線のホームに行く途中に売店があって、店頭にミキサーをたくさん並べてフレッシュジュースを売っている。昔はこういう店が街中にあった気がする。ちょっと贅沢で、しかも健康にもよさそうで人気があった。ちょうど銀座線の電車がホームに入ってくるときだったが、一本やりすごして、その昔懐かしいフレッシュジュースを飲むことにした。スローフードの精神である。オレンジ、バナナ、メロン、イチゴ、ミックスといろいろ種類があったが、オーソドックスなオレンジジュースを注文する。紙コップ一杯200円。安い。「格安提供」と書いてある。でも、安すぎないか? 少し不安な気持ちになって、一口飲む。み、水っぽい。絞りたてのオレンジジュースを水で薄めてような味である。いや、ようなではなく、まさにそのものである。水増しし過ぎです。「格安」でなくていいから、もっとしっかりと甘酸っぱいオレンジジュースが飲みたかったのに。しかもぬるい。まだ梅雨が明けぬとはいえ、7月下旬である。生ぬるいオレンジジュースなんていやだ(鉄拳の口調で)。

 蒲田の有隣堂で「ほんとうの時代」(PHP)という月刊誌を購入。知人(といっても70歳を過ぎた方で、私の放送大学時代の教え子)から自分の投稿が載ったので見てくださいというメールが届いたので。最初は立ち見ですます気だったが、ファンである米長邦雄のインタビュー記事が乗っていたのと、表紙の「50代から読む“大人の生き方誌”」とい謳い文句が目にとまり、「そうだな、私も来年は50歳だしな・・・・」と思い、素直に購入。「総特集 定年後、ボケる人、ボケない人」はパス。いくらなんでもまだ私には早いだろう(早稲田大学の教員の定年は70歳)。「特別企画 青春18きっぷで出かける鉄道の旅」は写真が素敵だった。旅心を大いにかきたてられた。私も学生たちのようにインタビュー調査で遠くの町に行ってみたい。ところで、知人の投稿だが、サラリーマン時代は、「犬吠崎」(銚子の外れ)ゆえ、宴会などで歌わされることが苦痛でしかたなかったが、いまは仲間とカラオケに行くのがとても楽しいという内容。ふぅむ、私も「犬吠崎」の口で、人前で歌うなんて拷問以外のなにものでもない。ときどき学生から、「先生はよい声をしているから、きっと歌もお上手なんでしょうね」と言われるが、酒が飲めそうな顔をしているのに下戸というのと同じで、声の質と歌のうまさは相互に独立の事象なのである。私もいつの日か、「犬吠崎」で「襟裳岬」を熱唱することがあるだろうか。たぶん、ないね。

 

7.23(水)

 「社会学研究9」の教場試験。論述問題は3題の中から1題を選択して解答するのだが、教室を巡回しながらチェックしたら、大多数の人が一番難易度の低い問題を選択していた。これは当然のようでいて、あまり得な選択ではない。なぜなら採点者(私)は同じような解答をたくさん読むことになり、その中で「うん、これは出来のいい解答だ」という評価を得るためには、それなりの工夫を必要とするからだ。一方、難易度の高い問題に解答することは、すでにそのこと自体が「ほほう、この問題を選びましたか。」という印象を採点者に与える。もちろん難題に挑んだはいいけれど、箸にも棒にもかからない解答ではどうしようもないが。安全策でいくか、冒険を試みるか。試験は人生に似ている。いや、寺山修司風に言えば、人生が試験に似ているのだろう。

 

7.24(木)

 午前、生協から依頼されていた1年生向けの専修紹介記事の〆切を1週間間違えていることに気づき(先週の土曜日だった)、時間がないので、昨年のもの(前主任の文章)に少し手を加えただけの原稿をメールで送る。昨年の原稿は校正がしっかりなされていなかったのか、「都市社会学」が「都市社会額」、「原典講読」が「原点購読」、「専任教員」が「選任教員」、「調査過程」が「調査家庭」となっていた。これ、ちょっとひど過ぎないか。

 午後、母が大森の東邦医大病院に再入院することになり、入院の手続きと、担当医の説明を聞きに行く。帰りに梅屋敷通り商店街を散歩。ペットショップのケースの中のアメリカンカールがとてもかわいかった。肉屋さんでコロッケと鳥の唐揚(どちらも1個100円)を買って帰り、子どもたちと食べる。なかなかいける。

 夜、試験問題(何のかは書けない)の作成。続いて、明日が〆切の学会誌の投稿論文の査読。最初は面白そうな論文と期待して読み始めたのだが、途中からだんだん腹が立ってきた。卒論以上、修論以下のレベル。査読のコメントを書き上げたのが午前2時。深夜の道をポストまで歩き、投函する。

 

7.25(金)

 1週間ほど前に通販で購入したリクライニング・チェアーが研究室に届く。送料・消費税を入れて2万円ちょっと。安物であるが、一応、イタリア製。以前から、研究室で眠気に襲われる度に(昼食後に多い)、ソファ・ベッドがあったらなあと思っていた。しかし、研究室にそれだけのスペースはない。ビーチ・チェアーでは床に寝ているような気分であろう。そこで思いついたのがリクライニング・チェアーである。これなら普通の椅子としても使える。実際、座ってみると、居眠り用としてだけでなく、読書用としても適していることがわかった。背筋を伸ばしての読書もよいが、シートに身を沈めての読書はいかにも「読書に耽る」という感じだ。ただし、リクライニング・チェアーを普通の椅子として使う場合、問題が1つある。他の椅子よりも座面が10センチほど低く、かつ背もたれ部分が大きい点だ。したがって、研究室で4、5人の学生と何かの相談をする場合、なんだかマフィアの親分が子分たちの報告を聞いているような構図になる。つまり、エラソーな感じになるのである。一般的な意味で、大学教授は大学生よりもエライことは確かであるが、エライことと、エラソーな感じを人に与えることとは同じではない。エライのに、エラソーな感じを人に与えない、という印象管理が大切なのだ。

 

7.26(土)

 前期最後の卒論ゼミ(一文)。14人中12人出席。夏休み中は当然ゼミはお休みなので、次回は10月3日。アンケート調査やインタビュー調査を予定している人はもちろん、文献研究中心の人も夏休みは書き入れどきである。それは私とて同じことで、夏休みは『社会学年誌』(早稲田社会学会の機関誌)に載せる論文の執筆と、日本家族社会学会大会(大阪市立大学、9月6・7日)での発表の準備で忙しい(・・・・ということに一応なっている)。

 夕方、入院中の母を見舞いに行く。しかし、ぐっすり眠っていたので、そのまま帰る。昨日、手術を受け、そのときの麻酔のせいであろう、昨夜は一晩中吐き気がして眠れなかったらしい。今日、吐き気止めの点滴をしてもらって、どうやら落ち着いたようだ。

 夜、ビデオに録っておいた『高原へいらっしゃい』を観る。ところが、Gコードで録ったにもかかわらず、最後のところが録れていなかった。予約のキャンセルの電話が立て続けに入って、で、その後どうなったんだ? 消化不良のまま、机に向かい、留学をするKさんのための推薦状と、電気通信大学のS先生が早稲田大学の図書館を使えるようにするための推薦状の作成。深夜、コンビニのところのポストに投函する。

 

7.27(日)

 明日から2泊3日で、鴨川セミナーハウスで社会学演習ⅢD(調査実習)の合宿である。そのための準備や母の見舞いで一日が暮れる。夕方、妻と東急プラザで買い物。麻のジャケット、綿とテンセルのブルゾン、デッキシューズ、サングラスを購入。この種のものを買うときは、必ず妻がついて来る。私のセンスを信用していないのである。そして、悔しいことに、妻の見立てはたいてい正しいのである。

 買い物がすむと、妻は夕食の支度に家に帰り、私は栄松堂をのぞく。以下の4冊を購入。

(1)『小林秀雄全作品10 中原中也』(新潮社)

中原中也は清水幾太郎と同じ1907年(明治40年)の生まれであるが、1937年(昭和12年)に30歳で亡くなっているせいで、清水と同時代人という感じがしない。それは太宰(1909-1948)にも言える。人は生まれた年よりも、死んだ年で、いや、仕事をした時代で、われわれの記憶に残るものなのだ。

(2)谷村志穂『10年後の「結婚しないかもしれない症候群」』(草思社)

彼女が『結婚しないかもしれない症候群』(主婦の友社)を出したのは1990年であった。それから約10年後の2001年に彼女は13歳年下の男性と結婚した(いわゆる「できちゃった婚」であった)。その彼女が、『結婚しないかもしれない症候群』でインタビューした女性たちに再びインタビューを試みたのが本書である。つまり一種の追跡調査レポートである。

(3)佐藤卓己編『戦後世論のメディア社会学』(柏書房)

論文集だが、とくに第3章「女性週刊誌が支える天皇制―代表具現のロイヤル・ファッション」、第5章「レトロスペクティブな革命―七〇年代フォーク・ソング」、第6章「『受験地獄』の黙示録―朝日新聞『声』欄に見る教育『十五年戦争』」を読んでみたいと思う。

(4)『文藝別冊 総特集 山口瞳 江分利満氏の研究読本』(河出書房新社)

山口瞳が死んですでに8年が経つ。別の言い方をすれば、『週刊新潮』で「男性自身」を読めなくなって8年が経つということだ。私は山口瞳と池波正太郎から礼儀作法というものを学んだ(池波が死んでから13年だ)。本書には、その2人の対談が載っている。山口の『居酒屋兆治』(1982年)が出たときの対談で、タイトルが「縄のれんをくぐると」となっている。

娘の通っている都立雪谷高校の野球部が、全国高校選手権の東東京大会の準決勝で安田学園を延長戦の末に破り、決勝に進出した。凄い! あれよあれよという間にここまで来てしまった。29日の決勝戦の相手は優勝候補筆頭の二松学舎である。

 

7.28(月)

 合宿1日目。朝、10時に東京駅八重洲中央口を出たところの高速バス乗場に集合し、10時20分発の「アクシー号」に乗る。東京湾アクアラインを渡ってあっという間に千葉県に入る。最初、修学旅行の高校生のように騒がしかった学生たちも、おそらく前夜は合宿での報告の準備で睡眠不足なのであろう、房総半島の山中にさしかかる頃には皆熟睡していた。ただ、私のすぐ後ろの座席のAさんとHさんは最後までずっと喋っていて、私はそれを聞くともなく聞きながら、年頃の娘をもつ父親の気苦労を思ったりした。終点の安房鴨川駅前には予定よりも20分早い12時に到着。そこからタクシー6台に分乗してセミナーハウスに向かう。私(と3人の女子学生)の乗ったタクシーの運転手は、話し好きな上に、女性好きで、「大学の先生は若い女性に囲まれてうらやましい」という類の話をセミナーハウスに着くまでの間ずっと喋っていた。

 鴨川セミナーハウスは海を見晴らす小高い丘の上に立っていた。閉鎖になったどこかの会社の保養所でも買収したのかと思っていたが、新しく建てたものだという。この7月11日にオープンしたばかりで、何もかもがピカピカの状態である。部屋割りを決め、荷物を置いて、さっそくゼミをスタートする。今回のゼミの課題は2つあって、第一は、ライフストーリーのインタビュー調査の方法論に関する文献の講読。第二は、すでにインタビュー調査を終えて、テープ起こしも終わっているケースについての詳細な報告。これまでの授業では、方法論の話は必要最低限しかしてこなかった。実際にインタビュー調査をする前に方法論の話を詳しくしても身につかないだろうと考えたからである。何ケースかを実際にやってみた後で、方法論の勉強をした方が、実践的にそれを理解することができる。ところが、最初の文献報告のときに、いきなり居眠りを始める者が何人かいた。それも机につっぷして寝ている者までいた。当然、叱る。1回叱ると数時間はその効果が持続する。

 合宿の楽しみの1つは食事である。今日の夕食のメニューは、ビーフシチュー、小海老のフリッター、鶏のササミとレタスのサラダ、コンソメスープ、デザート(チーズケーキ)。おいしくいただく。私はしっかりご飯のお代わりをしたが、学生は、男子学生も、あまりご飯のお代わりをするものがいなかった。私の学生時代とは隔世の感がある。そういえば、我が家でもご飯のお代わりをするのは私だけだ。

 夕食後も8時から10時までゼミ。消灯は11時。明日は7時起床である。なんて健康的な生活であろう。

 

7.29(火)

 合宿2日目。午前6時半頃、窓の外から聞こえてくる学生たちの話し声とラジオの音で、目が覚める。私のゼミの学生がラジオ体操をやっているのだ。朝食は7時半から。白井総長の顔が見える。オープンしたばかりのセミナーハウスの見学に来られたのかと思ったが、白井ゼミの合宿なのだそうだ。朝食はセルフサービスなのだが、順番待ちの行列ができている。食堂のスペースも手狭な感じである。職員さんに伺ったところ、食堂の座席は満室の場合の50%の数しかないそうで、テラスのテーブルを使って対応しているのだが、雨の日などは、テラスに面したゼミ室も食堂として使わざるをえないのだという。トップシーズンでなく、年間の稼働率の平均値(予想値)に合わせて設計されているということであろうが、ゆとりのない話である。朝食の味噌汁はとても美味しかった。

 午後、みんなで海辺に出かける。梅雨明け前の海水浴場は人影もまばらで、われわれ(26名)は浜辺における最大派閥を形成していた。これだけの若者がドッチボールやビーチバレーに喚声を上げていると、夏の浜辺らしい雰囲気になってくる。私は堤防に腰を下ろして、TVドラマ『ビーチボーイズ』でマイク真木が演じていた海辺のペンションのオーナーのような気分で、若者たちを眺めていた。

 夕方、セミナーハウスに戻ると、娘からメールが届いていた。雪谷高校が二松学舎を破って、甲子園出場を決めたという知らせだった。すぐにインターネットで新聞社の速報を調べたら、0-0で迎えた9回表に一挙5点をとって、5-0の完封勝ちをおさめたとのこと。いやー、驚いた。夏の大会で都立高校が代表になるのは、国立、城東に続いて3校目である。この夏は久しぶりに高校野球を楽しめそうだ。

 

7.30(水)

 合宿3日目(最終日)。午前7時半、朝食の準備ができたことを知らせる館内放送の声で目が覚める。あわてて身支度を整えて食堂へ行くと、わがゼミの面々はまだほとんど来ていない。昨夜、コンパがあり、私は消灯時間の11時頃自室に引き上げたが、その後学生はまだしばらく話し込んでいて、なかには午前4時ごろまで起きていた者もいるらしい。それでは起きられないはずだ。8時半からゼミ。午後1時半にタクシー7台を予約しているので、それまでに7本の報告をこなさなくてはならない。最後の最後までタイトなスケジュールである。寝不足から居眠りをする学生が目立つ。当然、注意する。外国から早稲田大学に来る留学生がそろって言及することに、日本人の学生の授業中の居眠りがある。自分たちの国ではありえないことだと言う。そのとおりだと私も思う。日本の大学生が授業中に居眠りをするのには、いろいろ原因があろうが、教員がそれを注意しないことが原因の1つであることは間違いない。注意されない(負のサンクションを受けない)逸脱行為は逸脱行為ではなくなる。日本の大学生も企業に入れば、まさか会議中に居眠りはしないであろう。そんなことをすれば「ダメ社員」の烙印を押されて責任ある仕事から外されるからである。ゼミの休憩時間のとき、「先生は眠くならないんですか?」と私に聞いた学生がいたが、その学生も私の立場になったら絶対に居眠りなどできないはずだ。ゼミの担当教員が学生の報告中に居眠りなどできるはずはない。そもそも、教員だからということではなく、他人が報告しているときに居眠りをするということがどれだけその人にとって失礼なことであるかは、ちょっと考えればわかるはずである。すなわち、居眠りは寝不足から生じるというよりも、むしろ他者に対する敬意の欠如から生じるのである。・・・・予定していた内容をすべて消化し、午後1時半、管理人さん御夫婦に挨拶をして、タクシーに乗り込む。居眠りの件を別にすれば、学生たちはよく準備し、まずまずの報告を行ったと思う。25本の報告は、もしそれを通常の週に一度の授業の中で行ったら、8週間はかかるものであった。

 高速バス、アクシー号は午後4時ちょうどに東京駅八重洲口に到着。バスを降りた場所で、幹事のK君が合宿中のMVPの発表があり、当然私だろうと思っていたところ、レクレーションのとき、波にさらわれたビーチサンダルを探して頭から波をかぶってずぶぬれになったKさんが受賞する(私は心の中で自分自身に特別賞を授けることにした)。また、後期から1年間アメリカに留学するAさんに、全員が寄せ書きをした色紙が渡される。予定では、ここでAさんがウルウルするはずであったが、嬉しそうに明るい笑顔で受け取る。この子はアメリカでもちゃんとやっていけるに違いないと、私は確信した。記念の写真を撮って解散。私は東京駅地下街の喫茶店「平野屋」に入り、ホットケーキと珈琲を注文してから、持参したノートパソコンを開き、本日のフィールドノートを書き始めた。私にとって5年ぶりの合宿はこうして無事終わった。・・・・ところが、注文した品が30分経っても出てこない。ウェイトレスに確認すると、どうも忘れられていたようだ。いまから改めて注文する気にはなれず、店を出て、蒲田に着いてから、いつもの「市美多寿」に行き、いつものホットケーキとレモンジュースを注文した。やはりホットケーキは地元のこの店で食べなさいという天のお告げだったのだろう。

 ホットケーキを食べ終えて、栄松堂に寄って女性作家の小説を2冊購入。一仕事終えた後は、いつも小説が読みたくなる。

(1)村山由佳『星々の舟』(文藝春秋)

129回直木賞受賞作品。彼女のエッセーは読んだことがあるが、まだ小説は読んだことがない。今回の直木賞受賞を機に読んでみようと思って。

(2)よしもとばなな『デッドエンドの思い出』(文藝春秋)

よしもとの小説、その透明感のある文章は昔から好きである。「これまで書いた自分の作品の中で、いちばん好きな小説です。これが書けたので、小説家になってよかったと思いました。」という彼女の言葉が本書の帯に載っている。そう言われては読まないわけにはいきません。

 本の代金は早稲田カードで支払う。なにしろ合宿に行く前に銀行でおろした30万円を全部使ってしまい、財布には千円札が1枚しか残っていなかったのだ。

 

7.31(木)

 日中の陽射しの暑いこと! 今日で梅雨明けなのでは? 調査実習の関係で夏休みの間も最低週に2回は大学に出ることになる。今日はその日。午前、研究室に地震による転倒防止の工事が入る。作りつけの書棚の上に上乗せを4つ置いて本箱として使っているのだが、これらを連結し、かつ壁に固定してもらう。これで大きな地震が来ても本箱が落下する心配はなくなった。でも、本は飛び出すと思う。

 午後、学生たちが三々五々やってきて、インタビュー調査の準備作業。合宿から帰った翌日だというのに・・・・、彼らも忙しいゼミに入ったものである。ところが、今日来るはずのS君が夕方になっても来ない。携帯にかけてみると彼が出て、「キュウヨウが入ったので・・・・」とのこと。電話を切った後、みんなで、「キュウヨウは急用ではなくて休養なのではないか」と言って笑った。インタビュー調査の担当ケース数は1人当たり5ケース(全部で120ケース)くらいになる見込みだ。5ケースというと大したことがないと思うかもしれないが、インタビュー時間は3時間前後で、これをテープ起こしするにはその10倍の時間がかかる(初心者の場合)。それを5ケースである。しかもインタビューは原則として男女2人の学生がペアーになって行うので、自分がメインの調査員となって担当する5ケース以外に、サブの対象者として同行するケースが3、4ケースはある。また、対象者は東京近辺にばかり集中しているわけではない。北は北海道から南は沖縄まで広がっている。当然、学生は泊りがけで出かけていくのである(念のために言うと、この場合は男同士、あるいは女同士のペアーで行く)。だから遠方の方のインタビュー調査は夏休み中に集中的に行わざるをえない。それでは夏休みとはいえないじゃないかと文句の一つも出てもよさそうなところだが、少なくとも今のところは、私の耳にはそうした苦情は聞こえてこない(最近、耳が遠くなって・・・・ということはない)。正直、これには感心する。遠方の調査は旅行を兼ねることができるということもあろうが、それも調査実習というものに積極的に取り組む姿勢があったればこその話である。今回の調査実習はいい学生が集まったと思う。ただ1つ心配なことは、インタビューの件数が私の予想を大きく越えてしまって、学生たちが疲労困憊し、調査実習の予算も途中で底をついてしまわないかということである。インタビューの依頼を承諾していただける割合が75%(160人中の120人)を越えないことを願うとは、贅沢な悩みである。

 昨年1月に実施した全国調査「戦後日本の家族の歩み」の報告書が出来上がる。この調査は、1920年~1969年生まれの全国の女性5000名を対象として(有効回収率69.5%)、家族経歴上のさまざまな出来事(結婚、出産、育児、妻の就労、親との同居・別居、離婚、家族の介護、相続など)について質問し、回答をコーホート間比較することによって、戦後日本の家族変動の実態を明らかにしたものである。600部印刷して、300部は印刷所に発送作業を委託したので、残りの300部が研究室に搬入された。300部というのはそれなりの量で、すでに満杯状態の研究室を見渡して、どこに置こうか思案する。もっとも私の研究室に置くのはしばらくの間で、9月6・7日の日本家族社会学会大会(大阪市立大学)で希望者に配布することになっている。

大学を出るのが午後8時頃になったので、どこかで夕食を食べようと思ったが、途中で財布を研究室に忘れてきてしまったことに気づく。空腹のまま帰宅したら、妻が「あれ、食べてこなかったの?」と聞くので、財布の件は言わずに、「やっぱり君の手料理が一番だ」と答える。


2003年7月(前半)

2003-07-14 23:59:59 | Weblog

7.1(火)

 卒業生のIさんからお中元が届く。いつものようにヨック・モックのお菓子の詰め合わせ。ありがとうございます。家族全員で奪い合うようにいただきました。また夏が来たことを実感するひとときです。でも、気を使わないで下さい。・・・・あっ、決して、他の卒業生の方々に何らかのメッセージを伝えようとしているわけではありません。断じてそうではありません。天地神明に誓ってそうではありません。ちなみに我が家は全員カルピスが好きです。

 

7.2(水)

 梅雨の晴れ間。3限の授業を終えて、「メーヤウ」でインド風ポークカリー(★3つ)を食べていたら、後から来て隣に坐ったサラリーマン風の客が通常メニューでは一番辛い(★4つ)インド風チキンカリーを注文した。なんだか悔しい。

 調査実習は来週からいよいよインタビュー調査が実際に始まる。学生はみんな緊張している。初対面の方から人生の物語を聞くわけだから緊張するのはあたりまえである。ただし、最初の1ケースをやれば、緊張は大分ほぐれるはずだ。健闘を祈る。夜、高田馬場の居酒屋「俺んち」でコンパ。前夜祭のようでもあり、出陣式のようでもあった。私は一次会で失礼したが、電車の中でまた眠ってしまい(ビールを一杯とカシスソーダを一杯で)、蒲田を通り越して、川崎まで行ってしまった。

 

7.3(木)

 7限の授業が始まる前にカップヌードルを食べただけだったので、蒲田に着いたらお腹が減っていることに気がついた。電車の中で読んでいたJ.P.ホーガン『星を継ぐもの』が息をもつかせぬ展開になっているところだったので、どこかで食事でもしながら続きを読もうと、「つけ麺大王」に入ってレバニラ炒め定食(千円)を注文する。出てきたものを見て、びっくりした。量が並大抵ではないのである。通常のレバニラ炒めの二倍はある。これまでの私の人生の中で出会ったレバニラ炒めの中で量的には第1位である。おまけにスープの量も通常の1.5倍はあり、飯の量も大盛りである。ここは肉体労働者の食欲を満たすことを基準にしている店なのかもしれない。出て来たときは、こんなに食べられるだろうかと思ったが、そこはレバニラ炒め、ご飯が進む。食べ終わるまでにかなり時間がかかったが、その分、『星を継ぐもの』を何頁も読み進めることができて楽しかった。ラーメン屋とか牛丼屋ではこういう真似はできない。

 今週から夏のTVドラマが始まる。私は気になるドラマの初回はひとわたり見ることにしている(それでふるいにかけて、2回目以降も見るドラマを選定する)。今夜は『高原にいらっしゃい』と『Dr.コトー診療所』の2本を、大学から妻に電話して、ビデオに録っておいてもらって(家を出るときバタバタして予約録画をセットできなかったのだ)、深夜、『高原にいらっしゃい』をとりあえず見た。これは山田太一の脚本でずいぶん昔に田宮次郎主演でやったドラマのリメイク版である(脚本は山田の脚本を原作にして別の脚本家が新たに書いたもの)。今回、主役を演じるのは佐藤浩一。旬の俳優である。驚いたのは、昔と同じホテルが使われていたこと。同じものを新たに建てたのだろうか? それともあのホテルはずっと現役で営業していたのだろうか? このドラマ、山田太一の原作に敬意を払って、来週も見ることにする。

 

7.4(金)

 「ゆうれい貸します」は今夜で最終回。鶴田真由演じる幽霊も成仏できてなによりである。彼女を次にTVで見られるのは、8月23日(土)の午後1時からのwowwowドラマ「交渉人」である(彼女のホームページの日記に撮影中の模様が書かれている)。さて、金曜の夜は、鶴田真由と並んで私の好きな女優である稲森いづみ主演のNHK・TV夜の連続ドラマ「ブルーもしくはブルー」の1週間分(4回)をまとめて再放送する日だ。稲森が1人2役を演じており、彼女のファンには「一粒で二度美味しい」ドラマである。

 

7.5(土)

 寝たのが午前4時で、起きたのが午前7時。どうも毎回、土曜は寝不足状態で大学に出ることになってしまう。午前中は大丈夫なのだが、昼食後、いつも睡魔に襲われ、研究室で居眠りをしているのだが、今日はいろいろな人が研究室にやってきてウトウトしている閑がなかった。懐かしかったのは、5年前に文学部の社会学専修を卒業したKさんの突然の訪問であった。昼飯後の散歩から戻ってきたら、研究棟前のベンチに彼女が座っていて、「あれ、どうしたの?」と尋ねると、私を待っていたのだと言う。彼女はいま外資系の大手コンピューターメーカーでシステム・エンジニアをしているのだが、近々、アメリカの大学院への留学(組織行動学の勉強)を考えていて、そのために必要な推薦状の依頼に来たのである。会社は休職扱いになるそうだが、2年間、給料(同世代ではかなりよい方であろう)はストップするわけで、これはかなりの決断である。それに彼氏とも離れてしまうわけで・・・・ということを私が言おうとしてやめたのを察して、「ちょうどきりもいいので」と彼女は笑って言った。なるほどね。

 夜、一昨日ビデオに録っておいた吉岡秀隆主演のTVドラマ『Dr.コトー診療所』の初回を観る。『北の国から』ならぬ『南の島から』といった感じの美しい風景がふんだんに盛り込まれている。丁寧に作られていて、『ブラックジャックによろしく』に続いて、今期も医者物が期待できそうだ。

 J.P.ホーガン『星を継ぐもの』を読了。SFにもいろいろなタイプがあるが、これは最先端の科学知識を総動員しての謎解きの面白さで読ませるタイプのSF(別の言い方をすると、人間ドラマは皆無といっていい)。ホーガンはコンピューターの営業をやっていた人で、この作品でデビューしてたちまち「現代ハードSFの巨星」となった。

 

7.6(日)

 DVDでコン・リー主演の映画『きれいなおかあさん』(スン・ジョウ監督、1999年)を観た。なんだ? この日本語のタイトルは! 内容は、離婚して女手一つで聴覚障害のある男の子を育てる母親の物語。あの美しいコン・リーが化粧らしい化粧をせずに頑張るおかあさんを演じている。だから『ほんとは、きれいなおかあさん』が正しい。

 

7.7(月)

 ちょっとした用事があって、父と2人で日本橋まで出かける。父は大正12年の生まれで、この8月で80歳になる。ここ数年で、ずいぶん耳が遠くなり、足も弱った。私が意識してゆっくり歩いても、ついてこられない。だから私はときどき立ち止まらなくてはならない。横断歩道を渡るときも、青の途中では渡れない。信号が赤になるのを待ち、再び青になってから渡り始めないとならない。父の歩調に合わせて歩いていると、そして立ち止まっていると、いつもより街の風景を眺める時間が多くなる。ビルの上の空を仰ぎ見ることが多くなる。

 蒲田パリオ(東口駅ビル)の熊沢書店は夜10時まで営業をしている。素晴らしい(有隣堂も栄松堂も8時まで)。閉店時間だけでなく、文庫の充実ぶりも素晴らしい。今日は創元SF文庫に入っているJ.P.ホーガンの『ガニメデの優しい巨人』、『巨人たちの星』、『内なる宇宙』上下を購入。すべて昨日読み終わった『星を継ぐもの』の続編(巨人たちの星シリーズ)である。

 夜、TVドラマ『僕だけのマドンナ』の初回を観る。脚本が贔屓の岡田恵和なので、観ないわけにはいかないが、マドンナ役の長谷川京子はそれほど魅力的な女優ではない。『スターの恋』でハム会社のOL役でドラマデビューしたときは好感をもったが、続く『天体観測』で憂い顔の美人系の役に転身してしまってからは、「どう、私、女優よ」という感じが鼻についてしまって、いただけない。モデル出身の女優といえば、小雪がそうだが、彼女も最初は台詞棒読みのひどい演技しかできなかったが、精進を重ねて、ようやく主役を張れる女優になった。長谷川京子の場合は、主役を張るのが明らかに早すぎる。今回のマドンナの役は、6年前の(やはり岡田恵和が脚本を書いたTVドラマ『ビーチボーイズ』に出演していた頃の)稲森いづみが最適だと思うね。

 今夜の『SMAP×SMAP』特別編は、今年の1月から3月に放送されていたTVドラマ『僕の生きる道』の後日談。ドラマの出演者16名に矢田亜希子が「もしあと一日の命だったら、あなたは何をしますか」とインタビューしていたが、これは是枝裕和監督の映画『ワンダフルライフ』からヒントを得たものであろう。久保先生役の谷原章介が「まず部屋の掃除をする」と答えていたのが印象に残った。確かに自分の部屋の状況というものは自分の精神状態を如実に表わしている。私も、原稿に取り掛かるときは、まず、書斎の掃除をする。そうだ、明日の午前中は、書斎の掃除をしよう。

 

7.8(火)

 調査実習の授業のインタビュー調査の最初の1件が今日あった。夜、担当のHさんに首尾はどうだったかと電話で聞いたら、「よいインタビューができました!」と弾んだ声が返ってきた。それはよかった。で、インタビューはちゃんとテープに録れていたか聞いたら、「まだ、聞いてません」と言うのでガックリする。おいおい、それは一番最初に確認することでしょ。私は録音したつもりで録れてなかった(テープが終わっているのに気づかないでインタビューを続けていて)という愕然とする経験を何度かしている。あれは、論文を書き終えて、そのファイルを保存せずにソフトを終了してしまったときと同じくらいショックである。おそらく全部で100ケースを越すであろう今回の調査では、念のため録音機器を2つ同時に使っているのだが、レコーダーはちゃんと動いていたとしても、喫茶店などでインタビューをやる場合、周囲の雑音のために会話がクリアーに録音されないかもしれないという危惧がある。とにかく調査が終わったら、まっさきに録音状態を確認することを、明日の授業で徹底させなければ。・・・・でも、まあ、最初のケースが無事に終わって、よかった。

 

7.9(水)

 思い切って告白するが、私の今日の朝食はビフテキだった。朝からビフテキを食う人間を世間はきっと許さないだろう。成金趣味か、精力絶倫か、はたまた過食症か・・・・とにかく何かよからぬラベルを貼られるに決まっている。実は、昨日のわが家の夕食のメニューがビフテキだったのだが、私はあいにくと学校の用事が長引いてしまい、家で夕食をとることができなかった。それで、夕食に私が食べるはずだったステーキ肉を今朝調理してもらって食べたというわけだ。私は朝が遅いので(今日も起きたのは10時だった)、お腹はけっこう空いている。だが、一日の最初の食事がビフテキというのは、観念的な部分でためらいがある。塩鮭と味噌汁とご飯という日本人の典型的な朝食イメージとのギャップに戸惑ってしまう。「こんなことをしていいのか」という自責の念がある。作家の石川淳は肉が好きで、朝からビフテキ(ローストビーフだったかな)を食べていたという記事を読んだ記憶がひょっこり蘇って、あの石川淳と同じなら恥ずかしくないと自己弁護をしたりする。とにかくいまひとつ味わって食べることができなかった。慣れの問題だと思う。昼食は3限の授業が終わってから「てんや」の天丼を食べた。490円の安価な天丼ではあるが、天丼は天丼である。朝食がビフテキ、昼食が天丼。もし夕食が鰻丼であれば、三冠達成である。夕方、研究室を出る前に、いつものように自宅に「いまから帰ります」コールをして、「今日の夕食は何?」と聞いてみた。妻の返事は「今夜はね、余りものを片付けちゃおうと思って・・・・」であった。事実、帰宅してみると、皿数こそ多いものの、メイン料理らしいメイン料理のない、飲茶のような食卓であった。次のチャンスに期待しよう。

 

7.10(木)

 私の研究室には冷蔵庫があって(もちろん備え付けではなく自分で買ったのである)、常にアクエリアスと爽健美茶のペットボトルが入っている(前者は自分用で後者は学生・来客用)。爽健美茶を学生・来客に出す場合、以前はガラスのコップを使っていたが、割れたり、洗うのが面倒であったりして、いまではコンビニで10個100円で売っている透明なプラスチックのコップを使っている(紙のコップは検尿を連想してしまうので使わない)。本来、このプラスチックのコップは使い捨て用で、実際、私も使い捨てているのだが、問題は、一回の使用で使いすててよいものかどうかということである。たいては1回で使い捨てるのだが、学生がいっぺんに4、5人も研究室に来た場合、いかに一個10円のコップとはいえ、その数のコップを1回の使用で捨てるのはなんだか資源の無駄使いのような気がしてならないのである。洗って再利用してもいいのではないか、いや、そうすべきなのではないか、という思いが湧き上がって来るのを禁じることができない。実は、今日もそういう場面があって、学生たちの考えを尋ねたところ、みな再使用肯定派であった。もっとも彼らはそのとき新しいコップで爽健美茶を飲んでいたところだったので、自分たちが使ったコップが誰かに再利用されるのを肯定しているだけで、自分たちが再利用のコップで飲むことを想定したわけではないかもしれない。彼らが研究室から出て行った後、テーブルの上に残されたコップをどうすべきかでしばし思案し、結局、洗って再利用することにした。

 夕食は自宅近くの「洋食の店 暢(のぶ)」という数ヶ月前に開店した洋食屋で食べた。初めて入る店である。夜、10時半頃で、ドアのところに営業中の札が下がってはいたものの、店内はやや暗く、客もいなかったので、「よろしいですか?」と聞いてから入った(なんだか池波正太郎みたいだ)。メニューの中の「暢さん定食」(750円)というのを注文する。店内にはビートルズの曲が控えめな音量で流れていた。マスターは私と同年輩の人のようだ。「暢さん定食」はハンバーグ、プレーンオムレツ、コロッケ、オニオンリング、サラダ(レタス、たまねぎ、トマト)、そして付け合せにちぎりこんにゃく。どれも美味しい。1つ1つが丁寧に調理されている。衣はサクサク、中はアツアツ。弁当の冷めたフライを食べなれている身には新鮮な感動がある。近所にこういう洋食屋さんが誕生したことを喜びたい。

 

7.11(金)

 9月6日、7日に大阪市立大学で日本家族社会学会の大会があり、そこで報告をすることになっているのだが、その報告の要旨を大会事務局にメールで送る〆切が今日である。午後10時頃から作り始め(遅い!)、ついさきほど完成し、添付ファイルで送った。ただいまの時刻、7月12日午前5時。杓子定規に考えると、〆切に遅れているわけであるが、事務局の人がメールを開くのは12日の朝であろうから、セーフですよね? これから寝ても2時間しか眠れない(1限の授業があるから)。おまけに脳が簡単にはヒートダウンしそうにないから、いっそこのまま大学へ行こうかしら。今日もまた午後は研究室で居眠りだろう。

 

7.12(土)

 1限の社会学基礎講義Aは今日が講義の最終回。前半は講義で、後半は教室の外(キャンパスの外でもかまわない)に出て「暗黙の規範を探す」というテーマでのフィールドワーク。演習ではしばしばやるのだが、講義形式の授業では初めての試み。180名の学生が出て行って(1人、2人、残っている学生がいたが、何か意図があってのことだろう)、ガランとした教室で待っていると、やがて三々五々学生たちが帰ってきたので、B6判のメモ用紙を渡して小レポートを書いて提出してもらった。課題にはオプションがあって、それは「何かちょとした逸脱した行動をやってみて、周囲の反応を観察する」というもの。もちろん万引きとか下半身露出とかの洒落にならないものはだめ。何人かの学生がこの課題に挑んでいたが、たとえば、その1つは、他の授業中の教室に入っていって、「あっ、失礼しました」と言って出てくるというもの。う~ん、ぎりぎりセーフか。でも、すぐに出てきてしまっては、教室内の教師や学生の反応は十分に観察できないと思うのだが・・・・。さきほどの教室に残っていた学生は、「先生がフィールドワークを指示したの教室に残っている自分を他の学生たちがどういう目で見るか」ということを観察していたとのこと。やっぱりね。

 卒論ゼミの後、「たかはし」で昼飯(刺身定食)を食べてから、「あゆみブックス」で三浦雅士『村上春樹と柴田元幸のもうひとつのアメリカ』(新書館)を購入し、「シャノアール」でしばらく読み耽る。春樹本はうんざりするくらい出ているが、柴田元幸と組み合わせて、彼らが翻訳しているアメリカの作家の小説(と翻訳者たちとの関係性)について語っているところが本書の眼目。「二十世紀末から二十一世紀初頭にかけて登場した日本の若い作家たちって、ひょっとするとみんな村上春樹、柴田元幸の影響を受けているのではないかという気がしてくるほどだ。作風においてはもちろんだけれど、作家というもののあり方においてもっと強い影響を受けている。作家というのはこんなふうに振る舞うものだという感覚のようなもの、作家のライフスタイルのようなものにおいて影響を受けているような気がする」と三浦は書いている。そうだろうと、私も思う。

 

7.13(日)

『村上春樹と柴田元幸のもうひとつのアメリカ』の後半(三浦と柴田の対談)を読む。柴田が私と同じ1954年の生まれで、しかも同じ大田区の生まれであることは知っていたが、志茂田中学の出身とは知らなかった。なんだ私の出身の御園中学の隣の中学じゃないか。ただし、居住環境でいうと、志茂田中は多摩川に近い工業地帯にあり、御園中は蒲田駅に近い商業地帯にあった。この違いは、三浦が柴田に東京オリンピックの頃(小学校4年生)に街が近代的になったという感じはしたかと訊ねたときに、柴田が「それはないです。渋谷とかあっちのほうに住んでいないと見えにくかったと思う」と答えたところに表れている。とんでもない、蒲田駅周辺は東京オリンピックを境にして大きく変貌した。東口に立派な駅ビルが建ち、西口周辺が区画整理されて、現代のベトナム映画の中に見るようなゴミゴミした、しかし活気のあった、駅前市場が一掃されてしまった。街はとても清潔になった。柴田は11群を受けて、日比谷高校に進み、私は14群を受けて小山台高校に進んだのだが、志茂田中の出身で、中3の夏に大森の吉崎学園を会場にして行われた進研ゼミの講習会で親しくなり、小山台高校で再会したUさんやI君は柴田の同級生だったのか・・・。もしかしたら、あの夏期講習に彼も来ていたのかもしれない。

・・・・そんなことはいいとして、村上春樹の小説はかなり英訳されているが、柴田がリチャード・パワーズ(柴田は彼の『舞踏会へ向かう三人の農夫』を訳している)に、日本の作家では誰に共感するかと訊いたら、すぐに村上春樹と答えたという(やはり柴田が訳した『イン・ザ・ペニー・アーケード』のスティーブン・ミルハウザーもそうだという)。で、どんなところがいいのかと訊いたら、「個人の物語の小さな弧と歴史の大きな弧の交差を扱っているところ」と答えたという。これって、社会学者ミルズが「社会学的想像力」と呼んだものと同じではなかろうか。ミルズは、個人の生活と社会全体の構造、あるいは個人の生活史と社会全体の歴史、この両者の相互浸透を認識する精神の資質を「社会学的想像力」と呼び、社会学を学ぶことはこの「社会学的想像力」を鍛えることにほかならないと言った。だから、社会学者のはしくれである私も、ライフコース研究をするにあたって、諸個人の人生を量的データだけで記述・分析しないで、生活史という諸個人の人生の固有性を温存した質的データをできるだけ活用するように心がけているのである。そうか、「社会学的想像力」も「文学的想像力」も記述・分析の言語が違うだけで、めざすところは同じなのだなと、妙に納得してしまった。

三浦と柴田の対談を読み終えて散歩に出る。先週、近所に開店したばかりのタイ料理の店「トムヤンクン」に入ってみる。さほど広くない店内にタイ人の従業員が5、6人もいる。多すぎないか? これで従業員の給料が払えるのだろうか。メニューをざっと見て、トムヤンクンのスープにビーフンが入ったもの(名前は忘れた)を注文する。トムヤンクンはもっと癖があるのかと思っていたが、日本人向けに調理されているのだろうか、あっさりとした味で、何かにたとえるとすると、そうですね、「札幌ラーメン塩味」のスープに香草と鰯のつみれを入れたような感じだった。私の後ろの席の客がウェイトレスに盛んに自分はタイに旅行したことがあるんだと話していたが、どうもタイと台湾を混同しているようだった。

 

7.14(月)

 今日中に書き上げるつもりの原稿があったのだが、原稿を書く体勢になかなか入れずに、だらだらと時間をつぶしてしまった。まるでマーク・ストランドの短編小説集『犬の生活』(村上春樹訳、中央公論新社)の冒頭の一編「更なる人生を」に登場する主人公の父親のようである。彼は作家なのだが、3冊目の小説がなかなか書き出せず、それを都会生活のせいだと考えた彼は、一家でメイン州に引っ越すのだが、しかし、やっぱり書き出すことができず、それを今度は退屈な田舎暮らしのせいにするのである。

 「何かを始めたいという気持ちだけはあるのだが、『これから机の前に座って書き始めるぞ』という衝動より先に行くことができずに、門口のところでいつまでもぐずぐずしていたのだ。/母と僕は、父が自室をうろうろと歩きまわる足音を、よく耳にしたものだ。父は日常と没入のあいだの、怠惰と渇望のあいだの、どっちつかずの世界に生きているようだった。来る日も来る日も、彼は新聞と、コーヒーと、書こうという試みと、散歩と、海と、夕食と、ニューヨークに帰りたいという想いと、それを実行することへの恐れとに直面していた。」

 この父親の気持ち、よくわかります。まず、パソコンの電源を入れること。次に、パソコンの前に座ること(この順序は逆であってはならない。パソコンが立ち上がるまでの時間をじっと待っているのは苦痛である)。そして、書きかけの原稿のファイルを開くこと。実に簡単な工程に思えるが、実際は、ここまで自分をもっていくのが大変なのである。要するに、何をどう書くかがいまひとつ定まっていないのである。原稿の長短の問題ではなく、視界の良し悪しの問題なのである。深い霧の海に出て行く船乗りのように気分が重いのである。もっとも明日が〆切というのであれば、いやもおうもなく書くしかないわけであるが、まだ若干の、ほんの首の皮一枚程度の、余裕があるのがいけないのである。背水の陣でないと本気が出ないという性向は学生の頃からのもので、それを棚に上げて、卒論指導なんかでは、「早めに書き始めなさい」などと言っているのだから、言行不一致もはなはだしい。