9時起床。小雨が降っている。朝食は抜き、天ぷらそばの昼食をとってから、家を出るときは、雨は止んでいた。今日は夜の授業があり、帰宅は遅くなるので、セーターと革のハーフコートを着ていく。セーター+ジャケット+コート+マフラー+手袋という完全防備になるのはまだまだ先のことだ。
4限の大学院の演習は清水の『ジャーナリズム』(1948年)の検討。清水はこの本を11日間で書き上げた(と「まえがき」に書いてある)。岩波新書は400字詰換算で約250枚だから、1日25枚弱のペースということになる。相当なスピードだ。自伝『わが人生の断片』の中の記録によると、清水が『ジャーナリズム』執筆のために熱海にある岩波書店の別荘(惜檪荘)に入ったのは同年9月7日で、帰京したのは9月30日であったから、「11日間」というのは計算が合わないが、途中で用事があってたびたび上京していたらしい。また、構想を練っていた最初の3日は「11日間」にはカウントされていない。執筆していたのが正味「11日間」という意味である。
「九月七日(火) 部屋一杯の日光。・・・午後、筋書を考へるが、一向に纏まらずイライラするのみ。」
「九月八日(水) 曇つて涼しくなる。決心して筋書を作り始める。」
「九月九日(木) 重陽の節句。午後、筋書漸く終る。グッタリする。風が出て来る。明日は一寸東京へ出てみよう。」
筋書(設計図)を作ることがいかにエネルギーを必要とするものであるかをうかがわせる記述である。逆にいえば、ここで筋書をかなり細かく作っているから、この後の執筆のペースが速いのであろう。11日の午後に東京から戻って、本格的に執筆に着手すのは13日からである。
「9月14日(火) 昨日は半ペラ35枚。今日は(35-84)なり。夕方には病人のやうになつてしまふ。」
「半ペラ」というのは400字詰原稿用紙の半分のサイズの200詰原稿用紙のこと。作家には400字詰原稿用紙の愛用者が多かったが、ジャーナリストには半ペラが好まれた。半ペラで書いた方が、サクサク進む感覚があったのであろう。原稿用紙を広げるスペースが小さくていいから、どこでも(列車の中や喫茶店)執筆できるという身軽さも受けたのかもしれない。「夕方には病人のようになつてしまふ」というのは大袈裟な表現ではなくて、清水は身体の丈夫な人ではなかったのだ。若い頃、医者から「あなたは30歳までは生きられないでしょう」と言われたそうである。
「九月二十一日(火) 少し進む(186-232)。」
「九月二十二日(水) 今日は、ひどく疲れ、頭がボンヤリし、無理に書いているやうなり(237-270)。」
「九月二十三日(木) 朝から晩まで書き続ける。(270-328)」
おそらく原稿の締め切りが9月末日だったのであろう。清水は締め切りを守る人であった。一般にジャーナリズムの世界に生きている人は締め切りを守る。それが死活問題であるからだ。製造業の人たちが製品の納期を守るのと同じことだ。これに対してアカデミズムの世界の住人(大学教員)には締め切りを守らない人が多い。彼らは原稿料で食べているわけでないからである。清水は10月中旬に東北大学での1週間の集中講義(公職追放中の新明正道の代行)の予定があり、『ジャーナリズム』の原稿を書き上げたら、ただちに講義ノートの作成に入らねばならなかった。そういう事情もあっての別荘での「缶詰」であった。ああ、私も一度、池波正太郎の定宿であった「山の上ホテル」あたりで「缶詰」にされて、原稿を書いてみたい。そういう奇特な出版社はないものだろうか。
「九月二十八日(火) 夕方まで書く(409-470)。午後六時四十八分着の汽車にて吉野氏来る。」
「九月二十九日(水) 朝、家内と電話。午前中に書き終わる(470-494)。午後、原稿を少し整理し、序文を書く。日向が恋しい。夕方、町へ出て、モームのAshendenを買ふ。」
「九月三十日(木) 昨日は終日深く曇りたるに、今日は非常なる快晴。朝早く窓を開いて海を眺める。初めてこの家へ来りし時、暑さは堪え難く、長く止まるべきにあらずと思ひしに、この数日、涼しさちはより寧ろ寒さを淋しく感じて、久しく止まるべきにあらずと思ふ。午後一時の汽車にて帰京。」
「吉野氏」とは岩波書店の吉野源三郎である。駅に出迎えた清水に吉野は3枚ほどの英語の文書を渡した。7月13日にパリのユネスコ本部から発表された「戦争の原因に関する8名の社会科学者の声明」であった。吉野が清水にもちかけたのは、このユネスコの声明に応える形で、日本の学者たちが共同声明を出せないだろうかという相談だった。
「その場で私が感激したか、大した文書と思わなかったが、今となっては、それは明らかでないが、別荘に戻って、文書を丁寧に読み、吉野氏の話を聞いているうちに、事柄の大きさが判って来た。やがて、このタイプライター用紙三枚ばかりの文書が、それからの十数年間に亙る私の生活を多くの部分を決定することになった。」(『わが人生の断片』著作集14巻、317頁)
「平和問題談話会」の誕生のエピソードであると同時に、「ジャーナリスト清水幾太郎」から「平和運動家清水幾太郎」への転換点を示すエピソードでもある。それが清水が『ジャーナリズム』を書き終えんとしていたときであったのは、何かの因縁であろう。
6限の授業(社会と文化)の後、「秀永」で夕食。すっかり定番となった木須肉(ムースーロー)を注文する。カウンターの右隣の男性客も同じものを食べていた。彼もまた一週間の仕事を終えた後の夕食であろう。万国の労働者諸君的連帯を感じながら食べた。
4限の大学院の演習は清水の『ジャーナリズム』(1948年)の検討。清水はこの本を11日間で書き上げた(と「まえがき」に書いてある)。岩波新書は400字詰換算で約250枚だから、1日25枚弱のペースということになる。相当なスピードだ。自伝『わが人生の断片』の中の記録によると、清水が『ジャーナリズム』執筆のために熱海にある岩波書店の別荘(惜檪荘)に入ったのは同年9月7日で、帰京したのは9月30日であったから、「11日間」というのは計算が合わないが、途中で用事があってたびたび上京していたらしい。また、構想を練っていた最初の3日は「11日間」にはカウントされていない。執筆していたのが正味「11日間」という意味である。
「九月七日(火) 部屋一杯の日光。・・・午後、筋書を考へるが、一向に纏まらずイライラするのみ。」
「九月八日(水) 曇つて涼しくなる。決心して筋書を作り始める。」
「九月九日(木) 重陽の節句。午後、筋書漸く終る。グッタリする。風が出て来る。明日は一寸東京へ出てみよう。」
筋書(設計図)を作ることがいかにエネルギーを必要とするものであるかをうかがわせる記述である。逆にいえば、ここで筋書をかなり細かく作っているから、この後の執筆のペースが速いのであろう。11日の午後に東京から戻って、本格的に執筆に着手すのは13日からである。
「9月14日(火) 昨日は半ペラ35枚。今日は(35-84)なり。夕方には病人のやうになつてしまふ。」
「半ペラ」というのは400字詰原稿用紙の半分のサイズの200詰原稿用紙のこと。作家には400字詰原稿用紙の愛用者が多かったが、ジャーナリストには半ペラが好まれた。半ペラで書いた方が、サクサク進む感覚があったのであろう。原稿用紙を広げるスペースが小さくていいから、どこでも(列車の中や喫茶店)執筆できるという身軽さも受けたのかもしれない。「夕方には病人のようになつてしまふ」というのは大袈裟な表現ではなくて、清水は身体の丈夫な人ではなかったのだ。若い頃、医者から「あなたは30歳までは生きられないでしょう」と言われたそうである。
「九月二十一日(火) 少し進む(186-232)。」
「九月二十二日(水) 今日は、ひどく疲れ、頭がボンヤリし、無理に書いているやうなり(237-270)。」
「九月二十三日(木) 朝から晩まで書き続ける。(270-328)」
おそらく原稿の締め切りが9月末日だったのであろう。清水は締め切りを守る人であった。一般にジャーナリズムの世界に生きている人は締め切りを守る。それが死活問題であるからだ。製造業の人たちが製品の納期を守るのと同じことだ。これに対してアカデミズムの世界の住人(大学教員)には締め切りを守らない人が多い。彼らは原稿料で食べているわけでないからである。清水は10月中旬に東北大学での1週間の集中講義(公職追放中の新明正道の代行)の予定があり、『ジャーナリズム』の原稿を書き上げたら、ただちに講義ノートの作成に入らねばならなかった。そういう事情もあっての別荘での「缶詰」であった。ああ、私も一度、池波正太郎の定宿であった「山の上ホテル」あたりで「缶詰」にされて、原稿を書いてみたい。そういう奇特な出版社はないものだろうか。
「九月二十八日(火) 夕方まで書く(409-470)。午後六時四十八分着の汽車にて吉野氏来る。」
「九月二十九日(水) 朝、家内と電話。午前中に書き終わる(470-494)。午後、原稿を少し整理し、序文を書く。日向が恋しい。夕方、町へ出て、モームのAshendenを買ふ。」
「九月三十日(木) 昨日は終日深く曇りたるに、今日は非常なる快晴。朝早く窓を開いて海を眺める。初めてこの家へ来りし時、暑さは堪え難く、長く止まるべきにあらずと思ひしに、この数日、涼しさちはより寧ろ寒さを淋しく感じて、久しく止まるべきにあらずと思ふ。午後一時の汽車にて帰京。」
「吉野氏」とは岩波書店の吉野源三郎である。駅に出迎えた清水に吉野は3枚ほどの英語の文書を渡した。7月13日にパリのユネスコ本部から発表された「戦争の原因に関する8名の社会科学者の声明」であった。吉野が清水にもちかけたのは、このユネスコの声明に応える形で、日本の学者たちが共同声明を出せないだろうかという相談だった。
「その場で私が感激したか、大した文書と思わなかったが、今となっては、それは明らかでないが、別荘に戻って、文書を丁寧に読み、吉野氏の話を聞いているうちに、事柄の大きさが判って来た。やがて、このタイプライター用紙三枚ばかりの文書が、それからの十数年間に亙る私の生活を多くの部分を決定することになった。」(『わが人生の断片』著作集14巻、317頁)
「平和問題談話会」の誕生のエピソードであると同時に、「ジャーナリスト清水幾太郎」から「平和運動家清水幾太郎」への転換点を示すエピソードでもある。それが清水が『ジャーナリズム』を書き終えんとしていたときであったのは、何かの因縁であろう。
6限の授業(社会と文化)の後、「秀永」で夕食。すっかり定番となった木須肉(ムースーロー)を注文する。カウンターの右隣の男性客も同じものを食べていた。彼もまた一週間の仕事を終えた後の夕食であろう。万国の労働者諸君的連帯を感じながら食べた。