8.15(金)
大雨の一日。しかし、卒論の相談と調査実習の作業で大学へ出かける。電車の車内広告を眺めていたら、「永谷園の冷し茶漬け」とか「涼しさ倍増横浜シーワールド」とか、寒々しいものが目立つ。一体、今年の冷夏の経済的損失はどのくらいになるのだろう。
4年生のKさんは「テレビのバラエティー番組における笑いの変遷」をテーマにしていて、文献を読んだり、横浜にある放送ライブラリーで昔のお笑い番組のビデオを見たりしているのだが、それだけでは物足りず、永六輔、大橋巨泉、前田武彦、青島幸雄、萩本欽一、いかりや長介、ビートたけし、明石家さんま、松本人志、・・・・といったバラエティー番組のエポックメーカーたちにインタビューをしたいと言い出した。やめときなさいとは言えないよね、若者がやる気でいるわけですから。で、彼女が考えてきた依頼状の文案を見せてもらって、あれこれ意見を述べる。とは言っても、私自身、こういう方たちにインタビューの依頼などしたことがないから、どれだけ有効なアドバイスになっているかどうか、はなはだ自信がない。いや、ずっと昔、大学院生だった頃、ある研究所の依頼で、各界のオピニオンリーダーたちに親子関係についてのインタビュー調査を何人かのスタッフと行ったことがある。私が担当したのは、岸田秀さん(心理学者)、羽仁進さん(映画監督)、渡部昇一さん(英文学者)、中山千夏さん(参議院議員)、・・・・といった方たちで、よくインタビューに応じてくださったものだが、依頼状に研究所の顧問をされていた扇谷正造氏(当時のマスコミ界の長老)の名前を使わせていただけたことが大きかった。無論、断られた方も多く、当時、人気の絶頂にあった向田邦子さん(作家)もその一人で、絶対に無理だろうなと思いながら、おそるおそるご自宅に電話したら、いきなり本人が出られたのでややうろたえながら説明を始めたところ、「私、そういうことは、よくわかりませんので」とやんわりと断られ、通常であれば、「先生、そこを何とか」と粘るところを、「すみませんでした」とあっさりと引き下がってしまった。これは私が彼女の大ファンで、彼女の創作の邪魔をしてはいけないと、自らにブレーキをかけたのである。それからほどなくして向田さんは飛行機事故で亡くなった。事故のニュースを聞いたとき、私の耳には受話器を通して聞いた彼女の声がありありと蘇った。
新型のコンピューターウィルスが猛威を振るっている。今日、研究室に来た調査実習の学生8名のうちの2名がそのウィルスの被害者だった。今回のウィルスはメールの添付ファイルを開くと感染するタイプのものではなく、ネットに接続していると知らないうちに感染するというやっかいな代物。12日に発見されて、昨日、加入しているプロバイダーと大学のメディアネットワークセンターから緊急連絡のメールが届いて、感染のチェック、感染の予防、ウィルスの駆除などの方法が説明されていたので、すぐに対処した。しかし、被害にあった2名の学生は、そうしたメールが届く以前に感染してしまったらしい。インターネットへの接続もできないようで、そうするとウィルス駆除のワクチンをしかるべきホームページからダウンロードできないわけで、復旧は大変そうだ。インタビュー調査の対象者との日時の打合せはPCメールでやっているケースが多いので、ゼミのBBSを通じて、今後、対象者とのやりとりはPCメールではなく電話ないし携帯メールで行うよう指示を出す。それにしても緊急連絡メールを読まずに削除している学生が多いのには驚いた。被害が増加の一途をたどっているはずである。
8.16(土)
今日も朝から雨が降っている。一昨日と同じく、郵便を出しに出たついで駅まで足を延ばし「有隣堂」をのぞく。一昨日よりも店内が混んでいるのは、雨降りだけれど土曜日のせいだろう。杉山直『宇宙その始まりから終わりへ』(朝日選書)を購入。レジで1500円を出したら(代金は消費税を含めて1260円)、「よろしいですか」と聞かれた。1万円札や5千円札で払おうとしているわけではない。千円札2枚でもない。千円札と500円硬貨を出しているのである。「よろしいですか」はないと思うのだが。おそらくこの店員は金額がいくらであれ、おつりを渡す必要があるときは、ひとまず「よろしいですか」と客に尋ねるように指導されているのであろう。もちろん1260円の品物に客が1500円を出しても「よろしいですか」と聞いた方がよい場合がある。それは1500円を出した後で、客が「百円玉2枚と10円玉6枚ないかな」と財布の中を探している場合である。しかし、私の場合は、1500円を出して直立不動の姿勢で待っているのである。財布の中に260円がないことを、そのポーズによって決然と示しているのである。「よろしいですか」と詰問された私は、憮然として「はい」と答えた。消費税というものが導入されてから、こうした経験をすることが増えたように思う。いっそ早いところ消費税10%になってくれた方が計算が楽だし、一円単位の支払いをしなくて済むからいいように思う。ところで支払いを済ませた後で気になったのが「よろしいですか」の閾値である。たとえば1499円の支払いに1500円を出したとしても、さきほどの店員は「よろしいですか」と聞いただろうか。まさかそれはあるまい。では、1498円の支払いならどうか。さらに1497円の支払いならどうか。・・・・と1円単位で支払い額を下げていったときにどの段階で「よろしいですか」の一言が発せられるのであろう。予想するに1491円のときに「よろしいですか」(=1円玉はありませんか)が発せられる可能性が高い。もしそこで発せられなければ、1481円、1471円、1461円は通過し、1451円で再び可能性が高まるであろう。もしそこでも発せられなければ・・・・と思考実験は続いた。『宇宙その始まりから終わりへ』が扱っている時間のスケールから見たら、まったくどうでもいいような話である。
「TUTATA」でチャン・イーモウ監督『活きる』(1994年の作品だが日本公開は2002年)のDVDを借りて帰る。原題は『活着』。「着」は動作の持続を表す接尾語として使われる場合はzheと発音し、動作の結果を表す補語として使われる場合はzhaoと発音する。私は学部時代の第二外国語が現代中国語であったので、かろうじてその程度の知識は頭の隅に残っている。しかし、『活着』の「着」がどちらなのかがわからない。映画は、1940年代の国共内戦、1950年代の共産党の勝利、1960年代の文化大革命(=走資派批判)といった激動の時代を生き抜いてきたつつましい家族の物語。生き抜いてきたことに力点を置けば「着」はzhaoであり、まだ家族の物語は終わっていないことに力点を置けば「着」はzheである。黒沢明の名作を連想させる『活きる』という邦題からすると、後者が正解なのであろうが、あの夫婦にはカーテンコールの賞賛とねぎらいの言葉をかけてあげたい気がする。
8.17(日)
インターネットサイト「日本の古本屋」で入手した本多顯彰(あきら)『大学教授 知識人の地獄極楽』(カッパブックス、1956年)を読む。本多は法政大学教授(英文学)で評論家、前年に同じカッパブックスから『指導者 この人々を見よ』を出して、戦後の進歩的文化人の戦中の言動を暴露して話題になった。本書はその続編というべきもの。ゴシップ満載で興味尽きない。たとえば、本多が東大の学生だったとき、医学部の片山国嘉主任教授に講演の依頼に行ったところ、「行ってあげたいが、日本の法医学は、私と一緒に一進一退してるんでね。私が、一日遊べば、一日だけ日本の法医学がおくれることになる」と答えたそうだ。凄い自信!
衛星放送WOWOWのドラマ『交渉人』を観た。主演は三上博と鶴田真由。贔屓の女優が出ているから言うわけじゃないが(多少それもあるかもしれないが)、実に面白かった。劇場公開してもいけるんじゃないだろうか。路線が違うから単純な比較はできないが、ストーリーとしてはいま公開中の『踊る大捜査線』よりも絶対に面白いと思う。これ一本観ただけでWOWOWに毎月支払っている2000円の元が取れたような気がする。ちなみに鶴田真由さんのホームページの6月の日記には撮影の裏話がいっぱい書かれている。
しかし、『交渉人』を観たために、私の(日本のではなく)清水幾太郎研究が2時間遅れてしまった。これから、その遅れを取り戻すべく、やはり「日本の古本屋」で入手した清水幾太郎『日本が私をつくる ドレイ根性からの解放』(カッパブックス、1955年)を読むことにする。内灘闘争の翌年(1954年)、6月半ばから9月下旬まで、清水は初めての海外旅行に出かけた。旅行の前半は日本文化人会議の代表としてストックホルムで開かれていた「国際的緊張を緩和するための集会」に参加し、ソヴィエト・アカデミーの招待でソヴィエト国内を見学し、中国人民保衛世界和平委員会の招待で北京を視察した。後半は、代表団を離れて一人で西欧に戻り、フランス、イタリア、ドイツ、イギリスを見物してから帰国した。清水47歳のときのことである。本書は旅行中の日記と帰国後お世話になった彼の地の人たちに書いた手紙13通から構成されている。それは要するに清水が自らの外国体験を浄化して、経験として意味づけたものである。『清水幾太郎著作集』(全19巻)には収められておらず、以前から気になっていた本なので、読むのが楽しみである。
8.18(月)
雨は上がったけれど、太陽は見えない。しかし、気温と湿度は上昇し、昨日までの感覚で長袖シャツにジャケットで外出したら汗をかいた。大学で報告書の発送作業や領収書の整理をする。実習のインタビュー調査の対象者からOKの返信が3通あって、これでちょうど100名になった。昼食はひさしぶりに「秀英」で。この店で一番のお気に入りは油淋鶏(鶏の唐揚の葱ソース掛け)なのだが、数日前の我が家の夕食が油淋鶏だったので、二番目に好きな回鍋肉(豚肉とキャベツの味噌炒め)にした。ご飯が進む。研究室に戻る途中で「成文堂」で片岡義男『文房具を買いに』(東京書籍)を購入。私は彼の小説はほとんど読まないが、彼のフォト&エッセイは大好きだ。今回は外国製の文房具(ノート、鉛筆、ボールペン、ホチキス、消しゴム・・・・)が満載。写真を見ているだけでも楽しいが、それと彼の思い入れたっぷりの、しかしあくまでもクールな文章との組み合わせは絶妙だ。研究室のリクライニング・チェアーで少し昼寝をして、頭をスッキリさせてから、前期試験の採点。ときどきユニークな答案があって飽きない。午後6時になったところで、研究室を出る。「あゆみブックス」で荒川洋治の新らしいエッセイ集『忘れられる過去』(みすず書房)を購入。帰りの電車の中で読む。『夜のある街で』のときと同じ萱慶子の絵が表紙を飾っている。言葉に敏感な人の文章というものは読んでいて気持ちがいい。たとえば、柳田國男の「美しき村」という文章を取り上げて、「境田というあたりの」「たしか才田といった」という言い方にひかれると荒川は言う。そう書かれると境田も才田も「ぼんやりした輪郭で現れるので、興味を刺激する」と言う。なるほど、そう言われるとそんな気がする。また、「秋田県鹿角の小豆沢湯瀬から、二戸郡にはいっていく」は、二戸郡の前に「岩手県の」を付けたいところであるが、柳田はそれを控える。「いまはこういうことはしない。ぼんやりとしたことは嫌われる。闇を含むものは好まれはしない。だがひところまで文章はこのくらいの『明るさ』のなかに立って、知るべきものを照らしていた。」なるほど、やはり、そう言われるとそんな気がする。詩人の言葉は説得力がある。
深夜、NHK衛星放送第二で、バート・ランカスター主演の映画『泳ぐ人』(1968年)を観た。ランカスターは大好きな俳優で、サーカスの軽業師(『空中ブランコ』、1956年)から孤高の大学教授(『家族の肖像』、1974年)までどんな役をやっても様になってしまう人だった。最後に彼を観たとき、彼は『フィールド・オブ・ドリーム』(1989年)で老いた町医者を演じていた。その存在感は主演のケビン・コスナーを凌駕しており、ランカスターが出演したことであの映画は決定的に名作になったといっても過言ではない。『泳ぐ人』は、私が中学2年生のときの作品だが、テレビで宣伝されるのを観ただけだった。他人の家のプールを渡り歩く(泳ぐ)男の話ということだけ頭に残っていて、いつか観てみたいと思い続けてきたのだが(ビデオにはなっていない)、今日、やっとその願いがかなった。不思議な映画だった。郊外の丘陵地帯にある高級住宅地。ある家のプールに海水パンツ一枚のランカスターが突然現れる。住人夫婦とは旧知の間柄のようだが、ランカスターの妙に元気な言動が場違いな感じを与える。そしてランカスターは眼下の風景を眺めながら、これから知人の家のプールを渡り泳ぎながら自宅まで帰るというプランを思いつき、それを実行に移す。最初の数軒は比較的順調だった。彼は「やあ、やあ」という感じで迎え入れてもらえた。しかし、知人たちが彼に話しかける言葉の端々から、どうも彼は仕事に失敗し、家庭もうまくいっていないことが察せられる。新しい仕事を紹介したいという知人の話に手を振って、家で妻や娘が待っているからと次のプールへと向かうのだが、それは幻想に違いないことが誰の目にも明らかになる。事態はだんだん惨めさの度合いを増して行って、最後のプール(自宅の崖下の市民プール)では、馴染みにしていたハンバーガー屋の夫婦から、ツケの催促をされた上に、娘さんたちが店に来て父親のことをさんざん馬鹿にしていたことまで告げられる。ボロボロになりながら、彼が自宅にたどり着くと、借金の抵当にとられたのであろう、誰も住まなくなって久しい広い敷地の住宅は門にも玄関のドアにも鍵がかかっていて、降り出した雨に打たれながら、彼がいくらドアを叩いても、空っぽの室内からは返事はない。・・・・そういう映画だった。シュールだが、わかりやすい(中流階級の不安!)、そして暗い映画だ。しかし、この暗さには惹かれるものがある。憂いを帯びた音楽も胸に沁みた。
ところで、『泳ぐ人』の原作者はジョン・チーヴァーなのだが、三浦雅士『村上春樹と柴田元幸のもうひとつのアメリカ』の中の三浦と柴田の対談の中にこういうやりとりがある。
三浦「いま、ジョン・チーヴァーの評価はどうなっているんですか?」
柴田「チーヴァーは全短編集がベストセラーになったのが二十年くらい前ですね。あれでもう完結しちゃったという感じです。ある程度お金も地位もあっても人は不安なんだってことをすごく雄弁に書いてますけどね。でも、学生には受けないですね。『泳ぐ人』ってすごく印象的なものを授業で読んでいても、なんでこんな先が見える話を書くんだっていう反応です」
三浦「郊外生活者が隣のプール、隣のプールと泳いでいたら月日がものすごい速度で経っていたって短編でしょう。O.ヘンリーほどの意外性もないと?」
柴田「O.ヘンリーは一応どんでん返しがありますからね」
映画を観た後で、いま、この箇所を読み返して、「あれっ?」と思った。三浦の記憶違いでないとすれば、『泳ぐ人』は原作と映画では時間の設定が違うのだ。原作では、プールを渡り泳いでいる間に、主人公は成功=幸福の時代から失敗=不幸の時代へと滑り落ちていくらしい。個々のプールが人生の異なる時期を象徴しているのだ。しかし、映画では、そうではなくて、すでに失敗=不幸の時期にある(しかし精神に異常をきたし始めていて過去の成功=幸福の時期に生きていると思い込んでいる)主人公が、プールを渡り泳ぎながら、知人たちから冷たくあしらわれることで、しだいに虚飾が剥がれ、ついには悲惨な現実を直視せざるをえなくなる。設定されている時間はあくまでも「現在」で、「過去」は主人公の頭の中にだけ「現在」として存在するのだ。両者を比べれば、原作の方がよりシュールである。しかし、それをそのまま映画化してしまうとSF映画のようになってしまうだろう。やはりリアリティは大切だ。原作を読んでいないから断定はできないが、たぶん映画の方が原作よりもいいのではないだろうか。
3階の自室で受験勉強をしている娘が私の書斎にやってきて「里腹三日」の読み方と意味を尋ねた。「さとばらみっか」と読み、「嫁に行った女が実家に帰ってきて、三日は空腹を感じないくらい、腹いっぱい飯を食べること」(それだけ婚家では遠慮して生活している)という意味だと教える。しかし、いまや完全に死語となったこんな言葉を入試に出す大学なんてあるのだろうか。
8.19(火)
昼過ぎに自宅を出て大学へ行く。地下鉄の駅から上がって、「五郎八」(いろは)で昼食(揚げ餅そば)。私以外に客のいない時間帯で、女将さんとあれこれ話をする。大学はいつまで休みなのかと聞かれ、9月の下旬までと答えると、女将さん、ふぅと溜息をついた。やはり大学が夏休みの間は客が減るらしい。ふだんから学生はあまり来ないが、教職員に常連さんが多いらしい。話の合間に女将さんは外を歩いている人にどうぞいらっしゃいませと声を掛けていた。
今週はインタビュー調査自体が少なく、研究室にやってきたのはH君とS君の2人だけ。待機している人数(私、I君、Y君)の方が多い。手持ち無沙汰な感じで、おしゃべりをしたり、本を読んだりしていたら、夕方になっていた。
東西線の大手町駅からJRの東京駅へは地下の通路を歩いていくのだが、改札口の前の広場ではときどき古本とか昔の東京の地図とかCDとかを売っている。今日は古本が売れられていたので、ちょっと足を止める。尾形明子『田山花袋というカオス』(沖積舎)と『梶井基次郎小説全集』(沖積舎)を購入。価格は前者が3000円→1000円。後者が2800円→1100円。どちらも同じ出版社の本だが、もしかしたら倒産した出版社の特価(自由価格)本なのかもしれない。さきごろ倒産した社会思想社の現代教養文庫もたくさん並んでいたし・・・・。
深夜、清水幾太郎『日本が私をつくる』(光文社、1955年)を読み終える。実に面白かった。傍線と付箋だらけになった。どうして清水礼子さん(幾太郎の一人娘で『清水幾太郎著作集』の編者)は本書を『著作集』に入れなかったのだろう。察するに、この時期の清水は平和運動(とりわけ米軍基地反対運動)にのめり込んでいて、文章も勢い党派的な内容のものが多く、後世に残す価値のあるものは少ないと判断されたためであろう。確かに本書の中にも、「長期的に見れば、誰が何と言っても、歴史は資本主義から社会主義へ向かって流れているのです。」(38頁)といった調子の左翼の公式的見解は散見される。しかし、同時に、運動への懐疑や教条主義的マルクス主義への批判など、安保闘争後の清水の「転向」を予感させる見解も散見されるのである。1つだけ例をあげておこう。1955年2月の第27回総選挙で革新派(=憲法擁護派)の応援のため地方を飛びまわって帰ってきた直後に書かれた文章の一節である。
「今の僕は勉強したい一心だ。十日間も地方を飛びまわっていると、たまらなく書斎が懐かしくなってくる。懐かしくなってくるというとのんきだが、じつは、大切な研究を放擲しているという罪悪感に悩まされるのだ。特に、旅行の終わりごろになると、もう苦しくなってくる。書斎一筋、研究室一本槍でやっている友人が羨ましくなる。自分は何という愚かな人間なのであろう。それで家に帰りつくと、疲れた体で勉強を始める。ところが、そのうち、ある基地でこういう問題が起こっている、ぜひ、来てもらいたい、というような手紙が舞いこんで来る。それをことわって、勉強を続けるには、他人にたいしてよりも、自分自身にたいして弁明が要る。しかし、こうした手紙がある程度までふえてくると、今度は新しい罪悪感が頭をもたげてくる。こんな時代に机にかじりついていることが許されるであろうか。この苦しさが昂じてくると、仕事を投げ出して、飛んで行ってしまう。思えば、時計の振子のような動作を何べん繰返して来たことであろう。振子といえば、右にあげたのが二つの極端とすれば、その間に教師の仕事があり、また評論家という仕事が控えていて、この二つのものも明らかに僕の関心とエネルギーとを吸いつけている。だから疲れが深くなると、ああ、面倒だ、どれか一つにならぬものか、と考えはするが、しかし、ズルズルベッタリ、今日まで一種の甘辛食堂のようなものを経営して来ているのは、現在の日本として止むを得ない必要があるかもしれないし、かたわら、僕自身にしても、一方、飛びまわることによって、ただ書斎にいたのでは目に入らぬものを見る機会に恵まれることもあり、他方、書斎にいるおかげで、ただ飛びまわっていたのでは気づかぬものに、気づくということがあるのだろう。しかし、万事メデタシメデタシにはいかぬ。のんきに構えていれば、次第に両方が半人前になってしまうだろう。その危険が気になり始めると、居ても立ってもいられなくなる。けれども、この危険が何とか回避されたら、というより、これを何とか回避することを通じて、新しい学問の可能性の一つが確保されるのではないか。当分は、そのつもりで、この重すぎる負担に堪えて行くよりほかはないと思う。」(118-9頁)。
8.20(水)
日中、薄日らしきものが微かに差す。でも地面にはっきりとした影はできない。猪俣浩三・木村禧八郎・清水幾太郎編『基地日本 うしなわれていく祖国のすがた』(和光社、1953年)という本を、電車の中、研究室、「すず金」、「カフェ・ゴトー」でひたすら読む。この時期の米軍基地反対運動は「パンパン」(米軍兵士相手の売春婦)と「子ども」がキーワードである。前者が米軍基地に寄生する不純なもの、後者は米軍基地によって損なわれる純粋なもの、そうしたワンセットの象徴として使われている。単独講和反対や再軍備反対と違って、米軍基地反対にはやっかいなところがある。基地は地元に経済的利益をもたらすからだ。だから経済的利益を犠牲にしても死守しなければならないものがないと基地反対運動は盛り上がらない。選ばれたものは「女子の貞操」と「子どもの純性」だった。本書に収められた神崎清「街娼論」と菅忠道「基地の教育問題」を読むとその辺の事情がよくわかる。
帰宅途中、昨日と同じJR東京駅地下の古本販売コーナーで、ドナルド・リチー『小津安二郎の美学 映画の中の日本』(社会思想社、1993年)を購入。定価1200円のものが300円で買えた。驚いたことに現代教養文庫は定価と関係なく一律300円で売られていた。本書は1978年に出版された同名の本(映画専門の古本屋には必ず置いてある)を文庫化したもので、450頁もある上に、活字が小さく、写真が多い。これが300円とはお得な買物である。
「トリビアの泉」という番組がずいぶんと高い視聴率をあげているらしい。今夜、どんなものかと見てみたが、一種の雑学番組で、それほど面白いとは思わなかった。というのも、私自身が雑学的な人間であるために、番組で紹介される雑学的知識が旧知のものである場合が多かったからだ。たとえば、童謡『春の小川』のモデルとなった小川は渋谷にあるとか、江戸時代の武士がスフィンクスの前で記念写真を撮ったことがあるとか、そういうことはすでに知っていることなので「へぇ」とならないのである。回答者の一人に作家の荒俣宏が出ていたが、彼は博物学の大家だから、この種の歴史的・社会史的雑学は彼にとっては常識に属するはずで、久本雅美やびびる大木やMEGUMIたちが盛んに驚いて見せている横で困っている姿が印象的だった。おそらくタモリもそうなのではなかろうか。タモリといえば、「ボキャブラ天国」は面白い番組だった。あれ、またやってくれないかな。
8.21(木)
ひさしぶりの夏の陽射し。梅屋敷通り商店街をぶらぶら歩きながら、「三島書店」でチャールズ・ブコウスキー『パルプ』(新潮文庫)を買って、「琵琶湖」という名前の喫茶店に入り、荒挽きソーセージとトマトのピザと珈琲を注文する(「荒挽き」という言葉に弱いのだ)。『パルプ』はブコウスキーの遺作で探偵もの。訳は柴田元幸。最初に読んだブコウスキーの作品は『ポスト・オフィス』(坂口緑訳、幻冬舎アウトロー文庫)で、これが実に面白かった。しかし、2冊目に読んだ『町でいちばんの美女』(青野聰訳、新潮文庫)や3番目に読んだ『詩人と女たち』(中川五郎訳、河出文庫)はいまひとつだった。思うに、『ポスト・オフィス』では「俺」となっていた一人称が、『町でいちばんの美女』と『詩人と女たち』では「わたし」となっていたのがいけないのだ。「わたし」は上品すぎる。柴田はもちろん「俺」と訳している。
「俺は途中で話を忘れて、女の脚に見とれてしまった。俺はいつだって女の脚に目がないのだ。生まれてまず見たのも女の脚だった。まああのときは、そこから出ようとしてたわけだけど。それ以来ずっと、入ろうとしてきたが、たいていはひどくツキがなかった。」
この引用文中の「俺」を「わたし」に置き換えたとしたら、インテリ崩れの助平な探偵になってしまうが、主人公はそういうキャラではない。「こっちはオックスフォードの奨学金をもらう頭なんてありゃしない。生物の時間はいつも寝ていたし、数学も苦手だった。でもとにかく今日まで生きてはきた。たぶん。」・・・・こういうキャラなのである。もし『パルプ』を日本を舞台にしてTVドラマ化するとすれば、主人公の探偵は、「俺」の場合は岩城晃一、「わたし」の場合は佐野史郎だろう。もちろん、当たるのは前者だ。
8.22(金)
この時期、大学院受験の相談をよく受ける。今日も他大学の学生が研究室を訪ねてきた。ウチは自専修の学生と他専修、他学部、他大学の学生を差別しない。筆記試験と面接試験の成績が良ければ受かり、悪ければ落ちる。単純明快である。修士課程の入試は9月23日。4年生の場合、卒論と受験勉強の両立は大変だと思うが、あと1ヶ月、集中力を持続して頑張ってほしい。
夜、名古屋での調査から戻ったM君、Hさんと、これから北海道での調査へ向かうKさんと、焼肉屋「ホドリ」で食事。焼肉というのは、肉を食べる時間よりも肉が焼けるのを待っている時間の方が長い。普段、私は飯を食うのが早いのだが、肉が焼けるのを待っている間は、中休みである。食べる、休む、食べる、休む、食べる、休む・・・・この反復である。だからステーキやトンカツを食べるときよりも食べ終わるのに時間がかかる。今日も正味1時間はかかったであろう。だから焼肉を食べ終えると一仕事終えたときのような充実感がある。よく食べ、よく喋った。話題の1つにそれぞれの家族における父親の地位というものがあった。日本の家族は母子中心である。母子という連星から数光年離れた場所に父という6等星がポツンと浮かんでいる。彼らの父親は私と同年代である。だから彼らの語ることは他人事ではない。明日はわが身、いや、すでに今日のわが身なのかもしれない。
8.23(土)
この夏一番の暑さ。海やプールは大変な人出だったようだ。みんなこんな夏の一日を待っていたのだ。陽が西に傾く頃、2階のベランダにリクライニング・チェアーを持ち出して、気持ちのいい風に吹かれながら、雲をながめていた。
8.24(日)
遅れてきた真夏の日々。蒸し暑いがクーラーは使わない。蒸し暑さを満喫する。♪短い夏が始まっていく・・・・、という浜崎あゆみの歌の不思議な日本語の歌詞が妙にぴったりな感じだ。暑いときには熱いものが食べたくなる。昼食は散歩の途中で「喜多方ラーメン」に入って葱ラーメンを食べる。澄んだスープと柔らかいチャーシューと白髪葱の組み合わせが絶妙。癖になる味だ。「誠竜書林」に寄って200円均一の棚から4冊購入。
(1)渡部昇一・林望『知的生活・楽しみのヒント』(PHP、1998年)
(2)東海林さだお『東京ブチブチ日記』(文藝春秋、1987年)
(3)丸谷才一編『遊びなのか学問か』(新潮社、1985年)
(4)『日本詩人全集32 明治・大正詩集』(新潮社、1969年)
渡部昇一にとって昼寝は生活に不可欠な要素で、一仕事終えて次の仕事までの間、ホテルで昼寝をするのだそうだ。「私の個人支出で、本代以外にもっとも多額なものの一つはホテル代です」と言っている。昼寝をするためにホテルを使う! 私は研究室で昼寝をするときのためにリクライリング・チェアーを2万円で購入したが、慎ましい話である。
散歩から帰る途中、自動販売機でドクター・ペッパーを買う。ドクター・ペッパーを飲むのは30年ぶりくらいかもしれない。初めて飲んだときは「何だこりゃあ?」と思った。こんなものすぐに消えてなくなるだろうと思った。しかし一部の好事家の根強い支持を受けて、今日に至るまで、しぶとく生き残っている。だから最近出たバニラ・コークという言語道断な飲み物も存外生き延びるかもしれない。ひさしぶりに飲んだドクター・ペッパーはずいぶんと味がマイルドになった感じがした。時代に迎合しながら生き延びてきたのだと思うと、いじらしい気がしないでもない。
8.25(月)
世界陸上を見ていて寝るのが遅くなり(例のフライング問題のせいだ)、目が覚めたのが午前10時。窓の外の空は青く、高い。海はきっと水平線まで見渡せるだろう。鎌倉の由比ガ浜に行ってみようと思い立つ。蒲田から鎌倉までは電車で1時間。鎌倉駅から由比ガ浜までは徒歩20分(途中、木陰のベンチで、コンビニで買ったおにぎりを食べた)。海辺はウィンドサーフィンにはもってこいの風が吹いていた。滑川(なめりがわ)が海へ注ぐ右側を由比ガ浜海岸、左側を材木座海岸と呼ぶ。海の家がたくさんあって賑やかなのは由比ガ浜海岸の方だが、私はいつも材木座海岸の方に降りる。子供の頃、父の勤務先である千代田区役所の保養所が材木座海岸の側にあったせいで、材木座海岸から見る風景が私の鎌倉の海の原風景なのである。陽射しは強く、海はキラキラと輝いているが、水平線の彼方に夏の海の象徴である入道雲はない。受け入れがたいことだが、あと数日で8月が終わるという噂はやっぱり本当なのだ。しばらく浜辺を散策し、客もまばらな海の家で一休みしてから、若宮大路を駅まで戻る。ちょっと疲れたが、午後4時を過ぎ、小町通は日陰になっていたので、少し歩いてみる気になる。「木犀堂」という古書店があった。文士の町の古書店だけあって棚の大部分を文学作品が占めている。志賀直哉『枇杷の花』(新潮社、1969年)を手に取る。700頁近い分厚い本だ。帯に「志賀直哉自選作品集・限定版」とある。何部の限定なのかと奥付を見ると1500部とある(ただし版画のようにシリアルナンバーが記されているわけではない)。売値は9000円。結構な値段だ。「あとがき」を読む。
「私は自分の事ばかり書いている小説家のように思われているが、必ずしもそうばかりではない。/今度、私は自分で目次を決め、最後のつもりでこの本を作った。/なかには『予定日』のように極端な私小説もあるが、又『いたずら』のような、ひとから聴いた話を想い切り潤色した作品もある。/私は作り話にもある愛着があって、そういものをなるべく竝べた。/これがこの本の一方の意図、もう一つは五十四年間一緒に暮らした老妻との関係、―『くもり日』という淡々とした小品に始まり、『老廃の身』に到る、生涯の友達を読者に読みとってもらいたい意図で目次を作って見た。/この本は高田瑞穂、紅野敏郎、そして新潮社の山高登の三氏のお世話で出来たもので、謝意をあらわす。/著者/昭和四十三年十月十七日」
事実、『枇杷の花』は志賀の最後の本になった。この「あとがき」を書いてから2年と4日後、志賀は亡くなった。大学生のときに購入した志賀の全集が自宅の書庫にあるので、どうしようか少し迷ったが、ひさしぶりで鎌倉を訪れた記念に購入することにした。帰りの電車の中で「くもり日」を読む。
「薄ら寒い、今にも時雨れて来そうな陰気臭い午前だ。普通ならこんな日は外出するのでは利口ではないと俊吉は思った。部屋に炭火を入れ、こういう日らしい気持ちで読書でもするのが、相応しいのだが今日はそうして彼はいられなかった。」
志賀の作品は冒頭でその日の天候と主人公の気分について触れるものが多い。『枇杷の花』に収められた作品の中から拾ってみる。
「伊豆半島の年の暮れだ。日が入って風物総てが青味を帯びて見られる頃だ。十二三になる男の児が小さい弟の手を引いて、物思わし気な顔付をして、深い海を見下ろす海岸の高い道を歩いている。弟は疲れ切っていた。」(真鶴)
「朝から冷たい時雨が時々来るような日だった。私はしめつけられるような頭痛で甚く元気がなかった。手足が冷え、額ばかりが熱く、総てが受け身な気持で何をするのもいやだった。」(黒犬)
「薄曇りのした寒い日だった。彼は寒さから軽い頭痛を感じながら、甚く沈んだ気分で書斎に閉じこもって居た。時々むこうの山の見えなくなる程雪が降って来た。」(痴情)
「その日は朝から雨だった。午からずっと二階の自分の部屋で妻も一緒に、画家のSさん、宿の主のKさん達とトランプをして遊んでいた。部屋の中には煙草の煙が籠って、皆も少し疲れて来た。トランプにも厭きたし、菓子も食い過ぎた。三時頃だ。」(焚火)
志賀にとって、自我というものは気分と表裏一体のものだった。そして気分はしばしば天候に左右される。雨や薄曇りの寒い日の話が志賀の作品に多いのは、偶然ではない。志賀の文学は「不快な気分」をその根底にもっている。
蒲田駅に着いて、有隣堂の文房具コーナーを覗いたら、先日買った片岡義男『文房具を買いに』の冒頭で紹介されていたモールスキンの手帳(罫線・方眼・白紙の3種)があったので、白紙のものを購入。1500円。
「表紙で測って横幅が九十三ミリ、そして縦の幅は百四十二ミリだ。本体と表紙とのあいだに、サイズの差がほとんどない様子が、ぜんたいの雰囲気を引き締めている。手帳としてこの縦横のプロポーションを越えるものはあり得ない、と僕は思っている。さほど凝ってはいないけれど、必要にして十分な作りは手のなかによくなじむ。モグラの皮によく似ているところからモールスキンと呼ばれた服地があり、モールスキン手帳の表紙にはこの服地が使われていた。モールスキンという通称はそこに由来しているという。現在のモールスキン手帳はこの服地を模した紙だが、感触は悪くないし、視覚的にも好ましい。表紙を含めてぜんたいが角(かど)丸で、糸を織った紐の栞がついている。裏表紙の内側にはポケットまで用意されている。」
この文章からだけではわからないが、表紙と裏表紙はしっかりとした厚紙で作られていて、手帳が鞄の中で開くのを防止するバンド(日本製の手帳ではお目にかからない)が付いている。職人が作った手帳だ。
8.26(火)
一文の文芸専修を卒業して4年目のSさんから近況報告のメールが届く。彼女は日本テレビの記者をしている。例のスーパーフリー事件のときは、同じ大学の出身ということもあったのだろうか、取材を担当していて、「バンキシャ!」という報道番組がこの事件の特集を組んだときには、彼女が番記者として出演していた。番組の中で彼女は「やりサークル」というちょっとドキッとする言葉を使ったのだが、これは局内でちょっと物議をかもしたらしく、上司からは「出世と引き換えてによく頑張った」と誉められた(?)そうだ。実は、私は彼女が卒業制作で書いた小説のアドバイザーであった。もちろん正式の指導教員ではない。3年生のときに私の講義をとっていた彼女が、ある日、自分の書いた小説をもってきて、これが読んでみるとなかなかの出来栄えで、また何か書いたら読ませて下さいと言ったら、今度は卒業制作で取り組む小説の最初の章にあたる原稿をもってきて、私が感想を述べると、翌週、書き直し原稿をもってきて・・・・ということが、結局、卒論の締切の直前まで続いたのである。祖母、母、娘三代に渡る家族の物語で、題名を「枇杷の花」といった。昨日、鎌倉の木犀堂で志賀直哉の最後の作品集『枇杷の花』を購入し、帰りの横須賀線の車内で読んでいたとき、不意にそのことを思い出し、符号の一致を面白いと思った(ちなみに『枇杷の花』は作品集のタイトルで、志賀に「枇杷の花」という作品はない)。そんなことがあった翌日のSさんからのメールである。人生にはこうしたシンクロナイゼーションがときどき生じる。
8.27(水)
自転車を漕いで多摩川に行く。多摩川大橋と六郷橋の間で川は逆S字型に蛇行している。道塚商店街の途中で右に折れると、その最初のカーブの辺りに出る。そこから土手下のサイクリングロードを下流に向けて走る。広々とした空間、明るい陽射し、心地よい風。私の自転車はママチャリで、スピードは出ないが、全然かまわない。JRと京浜急行の鉄橋の下をくぐり、六郷橋の手前で引き返す。多摩川緑地公園(野球場が何面もある)の管理事務所の水道場で顔を洗う。事務所の2階は「多摩川」という名前の公営の食堂で、入口に「ビールのつまみいろいろあります」と書いてある。きっと週末は草野球を楽しんだ後の人たちでにぎわうのだろうが、今日は、おじさんが1人、新聞を読みながらビールを飲んでいる。今度、昼飯を食べずに来たときに入ってみよう。カレーとカツ丼とラーメンぐらいはあるような気がする。
帰りは来たときより少し上流のところで土手を越えたが、多摩川2丁目という不案内な地区で、とにかく川と直角の方向に自転車を漕いでいたら、環状8号線の安方神社のところに出た。そうか、ここに出るのか。懐かしい場所だった。学部の3年、4年の頃、この辺りにあったF塾という小中学生相手の小さな塾で講師をしていた。苗字の頭文字からFと呼ばれていた塾長はカリスマ的な人物で、ときどき塾の運営をめぐって講師と意見の対立することはあったが、私にとっては総じて楽しい2年間であった(ちなみに担当科目は国語だった)。あれから27年、最寄り駅の目蒲線(現在の多摩川線)矢口の渡駅のホームにあった塾の看板もいつしか消え、風の便りにFが脳梗塞で倒れたという話も耳にした。いま、F塾のあった場所はどうなっているのだろうと、近くまで行ってみた。当時でも古かった木造の平屋の住宅(まさに寺子屋という感じだった)はもちろんのことすでになく、一般の住宅が建っていた。ちょうどその家の玄関から年配の女性と、小さな男の子の手を引いた30代くらいの女性が出てきた。あれっ、と思った。似ているのだ。年配の女性はFの奥さんに。そして、男の子の母親はFの娘さんに。当時、Fには小学生の女の子と就学前の男の子がいた。私は塾の講師をしながら、女の子の家庭教師もしていた。目の大きな利発な子だった。子どもの頃、目の大きな子は、大人になっても目が大きい。だからわかる。私は声をかけるべきか迷った。他人の空似ということもある。それに汗の滲んだTシャツ姿でママチャリに乗っている私の格好は、27年ぶりの再会の場面に相応しくないように思えた。もし彼女が私の知っている彼女であれば、いずれまた会うこともあるだろう。年配の女性が玄関の中に消え、男の子を連れた女性が駅の方向へ向かった後、私は表札の名前を確認するためその家の前に行った。表札は見当たらなかったが、玄関の壁に「エフ塾」と張り紙がしてあった。
8.28(木)
2週間前のフィールドノートで、4年生のKさんが卒論のためのリサーチで、バラエティー界の大物たちにインタビューの依頼をすることになったという話を書いた。ダメもとで依頼をしたにもかかわらず、まず、元フジテレビの横沢プロデューサーからOKの返事をいただき、続いて、志村けんさん、伊東四郎さん、鶴瓶さんからOKの返事をいただいた。今日、吉本興業東京本社で横沢さんにインタビューし、横沢さんから「また来れば」と言われたKさんは大喜びで私に報告のメールを寄越した。彼らがいい人であるのはもちろんだが、Kさんの依頼の手紙が相手を動かしたということもあろう。結局、人を動かすものは熱意と誠意なのである(+私のアドバイスの効果ということも忘れてはなるまい。今回も、返信のメールで、伊東四郎さんに会ったら、指導教授がベンジャミン伊東のファンであることを忘れずに伝えるようアドバイスした)。
8.29(金)
いよいよ8月も終わる。大学は8月と9月の2ヶ月間が夏期休暇なので、8月の終わりは夏期休暇の中間地点に過ぎないのだが、気分的には休暇から日常への段階的復帰の始まりである。
昼過ぎ、地下鉄の駅を出て、大学へ向かう途中、「五郎八」の前で何気なく店の中を覗いたら、中から通りを見ていた女将さんと目が合ってしまい、途端に引き戸が開いて店の中に引っ張り込まれる。吉原の客みたいだ。カウンター席に座って、前から気になっていた「揚げ茄子のしぐれおろし」(960円)というのを注文する。揚げた茄子、拍子木に切って揚げた餅、小エビの天ぷら、梅干、大根おろし、花鰹、海苔、山葵など、いろいろな具と薬味が賑やかに載った蕎麦に冷たい汁を掛けて食べる。とっても美味。ペロリと平らげて、お稲荷さん(80円)を1つ注文する。辛い蕎麦汁の後には甘く煮た油揚げが合う。
調査実習の対象者からの新たな返信はこの2週間ほど1枚もない。調査への依頼状を出したのが6月の下旬だったから、もう打ち止めだろう。インタビューに応じると返事をくれた方、ちょうど100人。うち99人は担当の学生が決まっている。しかし、最後の1人(石川県在住の男性)だけまだ担当が決まっていない。担当者募集のお知らせをゼミのBBSに書き込んであるのだが、なかなか手があがらない。9月中に内灘に行く計画が私にはあるのだが、そのついでに私がインタビューをするというわけにもいかない。相手の方は学生がやってくるという前提でインタビューに応じて下さっているわけだから。メインの調査員が決まっていないケースは1件だけだが、サブの調査員が決まっていないケースはもっとある。旅行中の学生が多いことと、調査疲れ(テープ起こし疲れ?)が理由であろう。サブの調査員の募集はメインの調査員がBBS上で行うのだが、放置されたままになっていて、インタビューが明日、明後日に迫ったケースについては、頼めばサブを引き受けてくれそうな学生に私が電話してなんとかする。置屋の女将みたいだ。
8.30(土)
TBSのドラマ『高原へいらっしゃい』(木曜10時)が、本来全11話のところを、10話に短縮されて来週が最終回となった。もちろん理由は視聴率の低迷。同じ時間帯で今期のドラマの中では視聴率トップの『Dr.コトー診療所』(フジテレビ)とぶつかったのが痛かった。私は『Dr.コトー診療所』を妻と一緒にリアルタイムで観て、『高原へいらっしゃい』はビデオ録画しておいて後から1人で観る。思うに『Dr.コトー診療所』のファンと『高原へいらっしゃい』のファンはかなり重なっていて、私のように両方観ている者が少なくないはずだ。しかし視聴率にはビデオで観たものは反映されない。なぜならビデオではCMは早送りで飛ばされてしまうから、スポンサーにとっては意味がないのである。『高原へいらっしゃい』のホームページのBBSはいまブーイングの嵐である。『高原へいらっしゃい』にはホテルを売り払おうとする社長が出てくるが、私にはその悪役の社長が番組のスポンサーと重なって見える。私は抗議の不買運動をするつもりだ。ジャックスカードは使わない。ホンダの新車は買わない。UFJつばさ証券とは取引をしない。カネボウの化粧品は使わない。モッズヘアーのリンスも使わない。キューピーマヨネーズは買わない。・・・・しかし、もともと私は、カードはJCB早稲田カードを使っており、自動車免許はもっておらず、証券に手を出したことはなく、化粧の趣味もないし、リンスもしないし、マヨネーズは味の素だから、不買運動といってもいままでと何ら変わるところはないのであるが。
8.31(日)
今週末に大阪市立大学で開催される日本家族社会学会大会での発表用(当日配布用)のレジュメ作り。私が参加するのはテーマセッション「戦後日本の家族変動―『戦後日本の家族の歩み調査』(NFRJ-S01)から」で、発表題目は「NFRJ-S01の方法論的問題」(・・・・地味なタイトルだなぁ。でも、聴衆はみんな玄人だからね)。一人当たりの発表時間は30分なので、ポイントを3つに絞り(サンプルを女性に限定したことの問題、回想法で収集したデータの信頼性の問題、出生コーホートを結婚コーホートに組み替えることの問題)、B4判2枚(A4判2枚をB4判1枚に縮小したもの2枚)にまとめる。9月3日までに学会事務局に添付ファイルで送れば、あちらで100部コピーして下さるとのこと。ありがたい。