フィールドノート

連続した日々の一つ一つに明確な輪郭を与えるために

2004年7月(後半)

2004-07-31 23:59:59 | Weblog

7.15(木)

 「テアトル蒲田」で『69』を観た。平日の場末の映画館の初回(11:15から)だけあって、観客は自分を入れて5人。宮藤官九郎の脚本でおそらく観客がたくさんいれば随所でドッと笑いが起こるところなのだが、いかんせん5人ではクスリ、ニヤリと個人的な笑いを誘発するに止まる。客席の人口密度というのは実に重要な変数である。映画を観終わってから大学へ。「五郎八」で遅い昼食(揚げ茄子のみぞれおろし蕎麦)。他学部から文学研究科の社会学専攻を受験する学生の相談。修士論文の副査を担当しているKさんから中間報告。二文の基礎演習は今日が前期最後のグループ発表。授業の後、前々回発表したグループが講評をしてほしいというので研究室で話をする。大学を出たのは午後11時。遅い夕食を「スパイシー」でとる(チキンカツカレー)。らっきょうが有料(50円)であるのに驚いた。カレーを注文したら福神漬けとらっきょうはサービスと昔から決まっていたが、ついにその規範が破られたのである(ただし福神漬けはサービス)。歴史的事件といえる。私は記念にその有料のらっきょうを注文した。とくになんの変哲もない小ぶりのらっきょうが8個ほど出てきた。1つ1つ味わうようにいただく。らっきょうは何にも言わないけれど、らっきょうの気持ちはよくわかるような気がした。長年の盟友である福神漬けを一人残して自分だけ「出世」してしまったことをらっきょうは恥じているように思えた。

 

7.16(金)

 3限の大学院の演習と5限の卒論演習の間に「フェニックス」でビザと珈琲の昼食をとっていたとき、近くに座っていた男女の会話が自然と耳に入ってきた。

 男「なぜレコードから音楽が再生されるのかわからないんだ」

 女「それはレコードに溝があるからじゃない」(私は椅子から転けそうになった)

 男「レコードに溝があるのは知っている。問題はなぜ音が、それも複数な音楽が、レコードの一本の溝として記録できるのかということなんだ」

私もレコードの原理というものがわからない。なぜ電話で話ができるのかも、なぜTVで映像が見えるのかもわからない(きちんと説明できない)。しかし、わからなくても困らない。原理がわからないとレコードを聴けない、電話がかけられない、TVが見られないわけではないからだ。そしてこういうことは機械の仕組みに限らず、自然の仕組み(なぜ雨が降るのか)や、身体の仕組み(なぜ目で物が見えるのか)や、世の中の仕組み(なぜ株価が上がったり下がったりするのか)についてもいえるだろう。いくつかの事柄については学校で習う。しかしもう忘れてしまった。いや、当初からわかってはおらず、わかったような気になっていたに過ぎないだろう(本当にわかっていたのなら簡単には忘れないはずだ)。おまけに自分だけでわかったような気になっているならまだしも、わかったような口調で人に語ったりしている。だから自分にはレコードの原理がわからないときっぱりと言う人に出会うとハッとする。ソクラテスみたいじゃないですか。

 

7.17(土)

 勢古浩爾『思想なんかいらない生活』(ちくま新書、2004年)を読んだ。「思想」を商売にしている人たち(人文系の学者や評論家)の文章を次々に俎上に載せて、「わからない」「無意味」と言い放った本。快著というべきか、怪著というべきか。先月出たばかりの本だが、全国紙の書評子は知らんぷりを決め込んでいるようだ。あたらぬ神に祟りなしかということか。しかし、著者の言っていることはしごくもっともなことである、と私は思う。

 「思想なんかなくてもきちんと生きていける。あたりまえのことだ。ほとんどの人が、思想などと関係なくきちんと生きているのだから。しかし、だからといって無知であっていいはずはない。世界の『問題』をいささかも必要としなくても、関心はもったほうがいいに決まっている。そして人々は実際に関心をもち、知識を吸収しようとしている。しかし、それも自分の『ふつう』の生活を維持していくためであり、本来からいうと、それは余剰なことなのだ。」

 社会学というのも「思想」の一種である。ふつの生活をしていく上では余計なものである。「思想」は社会や人生に問題を見つけ出し、それに何らかの解釈を施す。面白い人には面白いだろうが、余計なお世話と思う人も少なくないであろう。なぜそんことをするのかといえば、それが私の商売だからである。それで飯を食い、妻子をやしなっているからである。そのことを棚に上げて、エラソーに「思想」を語る人間が勢古には我慢ならないのである。

 「一生ひとの頭を刈り続ける理髪店の仕事があり、一生ひとの口のなかばかり見ている歯医者の仕事がある。恫喝し殴りつける仕事があり、昆虫の観察をする仕事があり、野菜や米を作り続ける仕事があり、下着ばかりを作る仕事があり、配達する仕事があり、ボールを蹴ったり投げたりする仕事があり、芝居ばかりしている仕事があり、歌ばかり歌っている仕事があり、絵を書いたり、将棋を指したり、本ばかり読んでいたり、ビルや橋を作ったりする仕事がある。『思想』もそれと変わらぬただの仕事ではないのか。」

 然り。その通りである。昔、清水幾太郎が『本はどう読むか』(講談社現代新書、1972年)の中で同じことを言っていた。

 「世の中には、一生を通じて、深刻な面持ちで人生の諸問題を論じている人間が何人かいるけれども、この人たちは、そういう問題で本当に苦しんでいるのではなく、それを論じるのが、彼らの『職業』なのである。それを論じることによって収入を得て、それで家庭を支えているのである。そういう人たちのペースに巻き込まれてはいけない。」

 もっとも清水自身が「思想」を商売にしていた人だから、「クレタ人の言うことを信用してはならない、と或るクレタ人がいった」という自己言及的命題特有のジレンマが清水の発言にはあるのだが。それはそれとして、私が勢古という人間を信用してもいいと考える根拠の一つは、彼がTVドラマ『僕の生きる道』を高く買っている点である。人が人を判断する基準というのはけっこう単純なのである。

 

7.18(日)

 蒸し暑い。沢木耕太郎『1960』(沢木耕太郎ノンフィクションⅦ、文藝春秋)の中の「危機の宰相」という実に興味深い作品(「所得倍増」という戦後最大のコピーをめぐる話)を読んでいるので、どうにか集中力が保たれている。途中で書斎の掃除をし、シャワーを浴び、コンビニのかき氷を食べる。

 夜、社会学教室の同僚の浦野先生から電話。お父様が亡くなられたという連絡だった。享年87歳。お悔やみを申し上げ、お手伝いの件は引き受けましたとお応えする。助手のS君、Sさんに電話をし、大学院生で手の空いている人を集めてほしいと伝える。教室の先生方、大学の事務所の方にメールで連絡する。

 

7.19(月)

 「海の日」だそうだ。「山の日」もあったらよいのに・・・・と思うのは私一人ではないらしく、すでに山梨県、滋賀県、和歌山県はそれぞれ独自に「山の日」を設けている(山梨県は8月8日、滋賀県は10月1日、和歌山県は11月17日)。「月の日」や「花の日」や「星の日」や「宙(そら)の日」もあったら、宝塚みたいで華やかだろう・・・・と思って調べたら、「花の日」と「空の日」はちゃんとありました。仏教では4月8日が「花の日」(花祭り)で、キリスト教(メソジスト派)では6月第二日曜日が「花の日」とされている。国土交通省は9月20日を「空の日」(旧称「航空日」)と定めている。知らなかった。じゃあ「風の日」や「雲の日」はどうか。これはまだないようだ。よかった(って何が?)。たんに「風の強い日」や「曇りがちの日」と間違われそうだが、私のイメージとしては、『北斗の拳』の登場人物、「風のヒューイ」と「雲のジュウザ」(ともに南斗最後の将を守る五車星のメンバー)にちなんでいる。無敵のラオウを相手に彼らはよく闘った。

先日、アマゾンに注文した『名もない道』(二見書房)という写真集が今日届いたのだが、それをパラパラながめながら、「道の日」というのもあったらロマンチックだと思った。「道」をテーマにした歌はたくさんあるが、私がよく口ずさむのは、北原白秋作詞・山田耕筰作曲の「この道」と、小林亜星作詞・作曲の「どこまでも行こう」(ブリジストンタイヤのCMソング)だ。同じ「道」でも前者は過去志向の歌であり、後者は未来志向の歌である。趣はずいぶんと異なる。それぞれの歌を口ずさんでいるときの私の気分もきっと違うにちがいない。ああ、もう一曲、私がよく口ずさむ(ただしごく小さな声で)歌に、童歌「みっちゃんみちみち」がある。これを忘れちゃいけない。歌詞を引くのはちょっとはばかられるので、英訳歌詞(そんなのがあるのだ)を引くと、Miss Mitchan took a crap along the road. Since she had no paper, she wiped it off with her hand. And then she didn’t want to waste it, she licked it all.(小泉文夫編『わらべうたの研究』1969年)。「ミチコ」という名前の女性が目の前に現れると、反射的に頭の中でこの歌が聞こえてきて、困ることがある(嘘です)。

 『危機の宰相』の続きを読む。学者や作家の評伝はよく読むが、政治家の評伝はほとんど読んだことがない。しかしこれは面白い。さすがに沢木耕太郎だ。夕食は妻と娘と外に食べに出る(息子は高校のクラスのコンパに行っている)。「五右衛門」でスパゲッティーを食べる。食後、有隣堂に寄る。直木賞を受賞したばかりの奥田英朗の旧作『イン・ザ・プール』(文藝春秋、2002年)を購入。帰宅して、冒頭の表題作を読む。精神科医「伊良部一郎」というキャラクターが始めて登場した作品である。サラサラと読める。水泳の話だからスイスイ読めると言うべきかもしれない。

 

7.20(火)

 本日の東京の最高気温、39.5度。観測史上最高だそうだ。長い会議の合間に廊下に出ると身体が生温い空気に包まれるのがわかる。屋外に出ると熱波が四方から襲いかかってきて、まるで電子レンジの中に入れられたコンビニ弁当のような気分になる。アカンて! もうアカンて!(松本人志の口調で)。

 夕方、とは言っても空はまだまだ明るいが、浦野先生のお父様のお通夜に行く。練馬高野台駅から徒歩5分の場所にある東高野会館。隣が長命寺という大きなお寺である。お焼香の開始までだいぶ時間があったので、境内を歩いてみる。イチョウやケヤキの大木が素晴らしい。そして気持ちのよい風が吹いている。東京でも、ちゃんと土と木のある場所には、こんなに気持ちのよい風が吹いていることを知った。

 

7.21(水)

 午前、浦野先生のお父様の告別式。練馬高野台という昨日初めて降りた駅も、二度目の今日は、馴染みの駅のような感じがするから不思議なものだ。今日も暑い。日陰になっているところを辿りながら、東高野会館までの道を歩く。会館の隣の長命寺の境内には昨日と同じ気持ちのよい風が吹いていた。

 午後5時から321教室で社会学専修の3年生を対象にした卒論ガイダンス。西向きの窓のせいだろうか、クーラーがあまり効いておらず、室温がかなり高い。卒論計画書の書き方を中心に1時間ほど話をする。6時半から大隈ガーデンハウスで社会学専修の2年生・3年生・4年生合同の懇親会。参加者は100名を越えていた。できるだけ多くの学生と話をする機会をもちたいと思ったが、実際はなかなかそうもいかず、2時間の会だったが、あと1時間くらい時間があったらと思った。

 

7.22(木)

 今日は気温が31.7度までしか上がらなかった。なにやら涼しい感じさえする。フジテレビの昔のTVドラマの再放送をやっている枠があるが、そこで野沢尚脚本の『恋人よ』(1995年)をやっていた。鈴木保奈美も、鈴木京香も、岸谷五朗も、佐藤浩市も、みんな若い。野沢尚も35歳だった。夕方、散歩に出て、誠竜書林の店頭に並んでいる100円本の中から、『早稲田文学』1983年6月号、さくらももこ『そういうふうにできている』(新潮社、1995年)、北村薫『秋の花』(東京創元社、1991年)の3冊を購入。『早稲田文学』はこの号だけがポツンとあった。1983年は私たち夫婦の結婚した年である。これも何かの縁という気がして購入したのだが、これがなかなか面白かった。なかでも福島泰樹の「中也断唱」はめっけものだった。中原中也の来歴を9節112首の短歌で再構成するという試み。各節から1首ずつ引いてみる。

 ゆくのだよかなしい旅をするのだよ大正も末三月の事

 喪われたものはかえって来ぬからに茫然自失の黄昏である

 鉄橋のようにわたしは生きるのだ辛い三月四月を終えて

 牛乳屋納豆売りの声も去り麦酒の瓶と向かい合いたる

 やせぎすの年増女だったよグレタガルボによく似た女と人は言ったが

 咲かすべきなにもなければはやばやと真冬のうちに去りし花園

 走り来よ走り来たれよ人力車枯野の中をゆく影もなし

 憧憬は茜の空に煙突のけむりのようにたなびいていた

 中也死に京都寺町今出川スペイン式の窓に風吹く

 

7.23(金)

 3限の大学院の演習は今日が前期の最終回。大学院の授業は学部の授業と違っていつまでやるのかがはっきりしていない。学部の前期授業の最終日(7月17日)までなのか、それとも学部の試験期間の最終日(7月29日)までなのか。私は後者の立場なのだが、前者の立場の教員もいて、院生にはその方がありがたいらしく、私が先週の授業で「来週の報告者は?」と確認したら、何人かの学生が「えっ? 今日で終わりではないのですか?」といった顔をした。いや、顔だけでなく声に出して言った者もいた。教授と学生の間の敷居もずいぶんと低くなったものである(それは悪いことではない)。昼食は先週と同じく「メルシー」のチャーシューメン。独特のスープは黒胡椒との相性が抜群で、とくに夏の暑い日の食欲を刺激する。5限の卒論演習も今日が前期の最終回。M君、もう一人のM君、K君の3人が報告。サッカー、同性愛、POG(競馬のペーパー・オーナーズ・ゲーム)。いずれも社会学の卒論のテーマの主流からは外れている(それは悪いことではない)。帰りの電車の中で見田宗介『現代社会の理論』(岩波新書、1996年)を読む。昔、この本が出たばかりの頃、朝日新聞の書評欄で作家の日野啓三が「これは理論ではなく、祈りに過ぎない」と批判していた。そのことが記憶にあってずっと手を出さずにいたのだが、先日、見田の「現代日本の感覚変容―夢の時代と虚構の時代」という文章(『現代日本の感覚と思想』所収)を読んで得るところがあったので、こちらも読んでみようかという気持ちになったのである。

 

7.24(土)

 学会関連の会合があって大学へ。土曜日の午前の電車は空いている。試験期間に入り、キャンパスも閑散としている。会合は1時間ほどで終わり、雑談をしながら「たかはし」のお弁当を食べ、午後は研究室で山積みになっている書類の整理。世の中の多くの人が休んでいる時に仕事をするのは嫌いではない。それは私がワーカホリックだからではなく、日頃、遅寝遅起き、世の中の多くの人が仕事をしている時に休んでいて、ときに遊んでいて、そのことにいくらか良心の呵責を感じているからである。われわれの仕事は「9時から5時まで」という明確な就労時間をもたない。したがって残業という概念もない(給料明細には「超過勤務手当」という項目があるが、これは担当している授業のコマ数を反映したものであって、何時まで研究室に残って仕事をしているかとは関係ない)。一日の中で読書に費やす時間は多いが、その時間が労働時間なのか余暇時間なのか判然としないことが多い。ある本を次回の講義の資料として読んでいれば明らかに労働であろうが、たとえば村上春樹の新作を読んでいるときも、それがいつか何かの拍子に講義の資料となる可能性を意識していないわけではないのである。同じようなことは、映画やTVを観ている時にも、CDを聴いている時にも、あてはまる。労働と余暇は対立概念ではなく、容易に一方から他方へと転化しえるものである。さらに言えば、社会学者にとって、散歩は路上観察であり、食堂で飯を食べることは参与観察である、と強弁しようと思えばできなくはない(実際、この「フィールドノート」はその記録である)。ただし、昼飯代の領収書を経理に回しても個人研究費では落ちないし、散歩が長引いて夕食の時間に遅れると妻の機嫌が悪くなる。だからそこまでは強弁しないが、大学教師という仕事は見た目ほど暇ではないのだということはいっておきたい。しかし、見た目というのは重要で、どうしても暇だと思われてしまう。悔しい。他者にどう思われようと気にしないという人がいたら、それは嘘である。それは「他者にどう思われようと気にしないかっこいい自分」を他者にアピールしているにすぎない。暇だと思われて悔しいのは、現代社会では多忙さが善であるからである。忙しさが有能であることの指標になっているからである。だから今日のように世の中の多くの人が休んでいる時に働くことは、ささやかな自己満足をもたらすのである。帰りがけに「あゆみブックス」で山口二郎『戦後政治の崩壊』(岩波新書、2004年)を購入し、電車の中で読む。労働としての読書である。

 深夜、「オン・エア・バトル(爆笑編)」を見たら、笑い飯が初オンエアを獲得していた。ところが、そのネタというのが、数時間前に「笑わず嫌い王決定戦」(生放送)で彼らがやっていたネタと前半が同じものだった。思わず一緒に観ていた娘と顔を見合わせて「サイテーだな」と言ってしまった。生放送の方を別のネタでやらなきゃだめじゃないか、笑い飯。さらに深夜、「FNS27時間テレビ」の中の明石家さんまの出演するコーナーを見た。やはり彼は天才である。今年で彼も49歳のはずだが、まったく若手の追随を許さない。恐るべし、明石家さんま。

 

7.25(日)

 自宅から一番近いコンビニはセブンイレブン西蒲田店である。徒歩150歩。距離にして約100メートル。このところ冷たい飲物やかき氷を買いに一日一度は出かける。熱いアスファルトの道路から冷房の効いた店内に一歩入ると、確かにコンビニは都会のオアシスとして機能していることを実感する。

コンビニは雑貨屋の現代版である。私の母の実家は群馬県の農村で雑貨屋を営んでいた。お菓子、パン、文房具、煙草、ガソリンなどが売れ筋商品であった。私は小学校の夏休みに母の実家に遊びに行くことを習慣としていたが、そのとき雑貨屋の店番をよくしたものである。村の子供たちは「売っとくれ」とぶっきらぼうに言いながら店に入ってくる。東京の子供たちなら「ちょ~だ~いな~」(山の手の子供たちなら「く~ださ~いな~」)と独特の柔らかい節回しで言うところである。「ちょう~だ~いな~」とはいっても、タダでもらえるはずはなく、そこに貨幣と商品の交換が存在することは自明のことなのだが、売買という経済的行為を前面に出さないことが都会的たしなみというものであった。私は「売っとくれ」という言い方に粗野なものを感じたが、それ以上に、「ちょ~だ~いな~」が消費者の立場から発せられる声であるのに対し、「売っとくれ」が小売業者の立場に身を置いて発せられる声であることに、すなわちその「コペルニクス的転換」に新鮮なものを感じた。私が村の子供たちを新奇なまなざしで見ていたように、彼らもまた私を新奇なまなざしで見ていた。彼らは丸刈りで、私は坊ちゃん刈りであった。彼らはランニングシャツを着ていて、私は半袖シャツを着ていた。「東京から来たんかい?」と彼らは上州弁で私に尋ね、「うん、そうだよ」と私は東京弁で彼らに答えた。村の女の子と話をした記憶は残っていない。男女の間に仕切が存在することについては東京と地方の違いはなかった。

 セブンイレブン・ジャパンが1号店を江東区豊洲に出店したのは1974年、いまからちょうど30年前のことである。現在、セブンイレブンの店舗数は一万店を越え、群馬県勢多郡粕川村にさえ2軒のセブンイレブンが出店している。「日本中にコンビニがあり、人々が自動車によって便利な生活をするという意味で、全国の均質化が進んでいる。他方で、地方経済の行政依存は深まり、人々は公共事業削減におびえている。こうした状況はなぜもたらされたのだろうか」と山口二郎は『戦後政治の崩壊』の中で問うている。

 「自民党は保守政党でありながら、平等を志向し、そのための積極的な財政政策を展開するという、他国の保守政党とは異なる特徴を持ってきた。・・・・ただし、自民党が追求した平等の中身は、持てるものと持たざるものとの格差是正を追求した本来の社会民主主義とは異なっていることを理解しておく必要がある。戦後の自民党にとって最も重要なスローガンは『国土の均衡ある発展』であった。これは日本全体の空間的な平等を表す言葉であった。そして、これを実現するための最大の手段が公共投資であった。・・・・所得格差の縮小や生活様式の平準化は、こうした空間的平等の波及効果として現れたということができる。」

私はこの本を後期の「社会学研究10」の講義資料として読んでいるのだが、とても興味深い指摘に満ちている。「社会学研究10」のメインテーマは「戦後日本における人生の物語の変容」である。「人生の物語」は文化の領域に属するが、文化領域における変動は政治や経済の領域における変動と密接にリンクしているから、戦後の政治史や経済史についてある程度の知識がないと話が通じにくい。ところが、文学部の学生(社会学専修の学生も例外ではない)は政治や経済の話を毛嫌いする傾向がある。食わず嫌いの拒絶反応である。その結果、文化変動を文化に内在する要因のみによって説明するというトートロジー的思考に陥りやすい。学生が卒業論文で試みる「カルチュラル・スタディーズ」はたいていそのようなものである。

 

7.26(月)

 朝方、急に強い雨が降った。それで気温が一時的に下がったが、徐々に上昇し、湿度も高くなった。気温が高いのはけっこう平気なのだが、湿度が高いのは閉口する。午後、大学へ。教室会議と二文の3年生の勉強会(6月にアドバイザーの面談をしたとき、毎月勉強会をやろうという話になったのである)。Yさんが「DV加害者の自助グループ」について、Iさんが「日常空間のテーマパーク化」について、Sさんが「スポーツメディアの問題点」について、K君が「映画にみる外国人の日本人イメージ」について、それぞれ報告をした。勉強会が終わったのは午後の8時で、それからみんなで「ホドリ」(焼肉屋)に繰り出す。いろいろ話をしたが、将来の志望という話題になり、Yさんは「レコード会社で働く」、K君は「映画会社で働く」、Sさんは「スポーツ新聞の記者になる」と即答したが、大学受験の直前まで理系志望だったIさんは「自分がこれからどういう道に進みたいのかがわからないんです」と気持ちの揺れを正直に語った。そのIさんが私に「先生は大学の教師以外の職業に就くとしたら何になりたいですか?」と尋ねてきたので、「神様が希望を叶えてくれるなら」と断った上で、「パン屋さん」と答える。これはその場の思いつきではなく、この種の質問をされたときには、いつもこう答えているものである。なぜパン屋さんなのか。第一に、パンは人が生きていく上でなくてはならないものである。第二に、パン屋さんは朝早く起きて仕事をする。第三に、焼きたてのパンはとても美味しい。10時、散会。カルピスチューハイが回ってきて電車の中で居眠りをする。

 

7.27(火)

 文部科学省の試算によると、高卒者における短大・大学への進学志望者数と短大・大学の入学定員数が2007年度に一致する。いわゆる「大学全入時代」の到来である。もっとも受験生は一部の大学に集中するから、あいかわらず浪人生は生まれるし、その一方で定員割れを起こす大学も出てくる。早稲田大学は「一部の大学」に入っていて、志願者数は毎年10万人を数え(日本一)、定員割れの心配はないが、少子化と短大・大学進学率(昨年度は51.3%)の頭打ちによる志願者数の減少(=受験料収入の減少)は長期的には避けられない。いまのところは学部の新設とセンター入試の導入によってしのいではいるが、その効果の持続性は定かではない。カンフル剤や強壮剤を使用して、一時元気になったように見えても、基礎体力が低下していてはすぐに腰砕けになってしまうだろう。基礎体力を決めるのは、カリキュラムの構成と個々の科目を担当する教員のエネルギーである。我が文学部に関して言えば、科目の数が多すぎる。もっとスリムにして、個々の教員の負担(担当科目数)を減らさなければダメである。私はいま一週間に5つの授業を担当しているが、事前の準備やアフターサービス(講義記録の作成など)に要する時間を考えると、これがいっぱいいっぱいである。しかし、文学部には週に7つ8つの授業を担当している教員がたくさんいる。みんな疲れ気味である。元来、大学の教員は自分の好きなことを職業にすることのできた幸運な人間である。もっと楽しそうに見えていいはずだ。

 

7.28(水)

 TSUTAYAで『リーグ・オブ・レジェンド』と『キル・ビル』のビデオを借りて観る(昨日一本、今日一本)。

前者は、ショーン・コネリーのファンとしては、『エントラップメント』のときのようなかっこいい彼を期待していたのだが、いまひとつだった。彼が演じるのはH・R・ハガードの冒険小説『ソロモン王の洞窟』の主人公アラン・クォーターメイン。つまり架空の人物である(確かインディー・ジョーンズの祖先てことになっていたはず)。彼と、ジュール・ヴェルヌの『海底二万里』のネモ船長、ブラム・ストーカーの『吸血鬼ドラキュラ』のミナ・ハーカー、H・G・ウェルズの『透明人間』のロドニー・スキナー、マーク・トウェインの『トム・ソーヤーの冒険』のトム・ソーヤー、オスカー・ワイルドの『ドリアン・グレイの肖像』のドリアン・グレイ、R・L・スティーブンソンの『ジキル博士とハイド氏』のジキル、以上の7名が英国政府の依頼を受けて、死の商人ファントム(その正体はシャーロック・ホームズの宿敵ジェームズ・モリアーティ教授)と闘うという荒唐無稽のストーリー。『007』と『七人の侍』を連想させるが、なにせ一人一人のキャラが濃すぎるのである。したがってチームプレーをしていても、『オーシャンズ11』のようなスマートさはなく、大味なオールスターゲームを見物しているような感じである。

 後者は、面白いという評判は聞いていたが、確かに面白かった。藤純子主演の任侠映画をユア・サーマンの主演で撮って、一部にアニメを挿入し、カンフーやワイヤーアクションを使いながらも基調はあくまでも日本風(怪しげな)で、音楽は哀愁を帯びた演歌。『スケバン刑事』のヨーヨー風の鉄球を操る女子高生(これが相当の手練れ)とか、『蒲田行進曲』で平田満がやったみたいな大階段落ちシーンとかも出てくる。要するにタランティーノ監督がやりたい放題をやった映画である。昔、NHKのフランス語講座のアシスタントをしていた才色兼備のジュリー・ドレフェスが悪の一味で出演していたのが、個人的には懐かしく嬉しかったが、その彼女、ユア・サーマンに両腕を切り落とされてしまうのである。夏の暑さを一瞬忘れる映画である。

 

7.29(木)

台風10号が伊豆諸島の辺りをふらついている。おかげで急に強い雨が降ったり、日が差したりを繰り返す一日だった。夕方、ベランダから西の空を見ると、いかにも風雲急を告げるっていう感じの空模様だった。ジョン・ギャディス『歴史の風景』(大月書店、2004年)の表紙に使われているフリードリヒの『霧の海の上の漂泊者』を彷彿とさせる。

「私にとって、フリードリヒの漂泊者がとるポーズはー描き手の芸術家と、その作品をじっと見ている人たち全員に対してくるりと背を向けているというこの大胆な構図はー歴史家の姿勢に〈似ている〉。私も含めてたいていの歴史家は、結局のところ、自分たちがこれから行くことになるかもしれない場所には背を向けて、自力で見つけられる見晴らしの利く地点から、自分たちがたったいままでいた場所に関心を集めることが仕事だと心得ている。経済学や社会学や政治学を専門とする同僚たちとは違って、将来を予測しようなとど企てるようなことは決してないことを、私たちは誇りとする。」

夜、『人間の証明』を観る。今期のTVドラマではこれが一番面白い。

 

7.30(金)

 オープンキャンパス初日。午前10時から102教室で社会学専修の説明会。私、助手のS君、4年生のT君とIさんの4人で応対。受験生からの質問で多いのは、(1)社会科学部と社会学専修の違いは? (2)社会学専修の学生の卒業後の進路は? (3)希望の専修に進めないこともあるんですか? の3つ。たまに「社会学ってどういう学問なんですか?」というのもある。今日、その質問をされたT君が、「先生、社会学ってどういう学問ですかって聞かれたんですけど・・・・」と言いに来たので、「アホか!」と一喝しようと思ったが(自分で答えなさい!)、受験生の手前そういうわけにもいかず、プチ社会学入門の授業みたいなことをやらされるはめになる。

卒業生のT君が説明会場に顔を出す。昨年、オックスフォード大学の大学院で人類学の修士号を取って帰国し、しばらくNPOの活動に参加していたT君だが、この9月から朝日新聞の記者として岐阜支社に赴任することが決まったのでその報告に来たのである。実は彼、今月、結婚と父親の死を経験している(父親が亡くなる前にT君の結婚式に列席したいと希望されたので、急遽、かねて婚約中の彼女と結婚式を挙げたのである)。彼は学生時代に私の授業でやったホームズの「社会的再適応尺度」の話を覚えていて、「この一年間で立て続けにいろいろなライフイベントを経験して、しんどかったです」と言った。どのようなライフイベントも生活構造の変化を伴い、その変化に適応するための努力を人に強いる。そのストレスの大きさをライフイベントごとに数値化したのがホームズの「社会的再適応尺度」で、たとえば、親族の死63、結婚50、転職36、卒業26、住居の変化20・・・・というような具合で、1年間の合計点数が300を越えると精神衛生上きわめて危険な状態と診断される。T君は300までは行っていないが、200は越えているかもしれない。間違っても離婚73や解雇47という事態にならないようにしないといけない。「じゃあ、頑張って」と握手をする。

 午後1時から社会学演習室で調査実習の前期最終報告会(受験生の相談は浦野先生、長谷先生にバトンタッチ)。今日と明日の2日間で5つの班が報告する。今日は定位家族班と結婚家族班の報告。予定では1班あたりの報告時間は1時間、質疑応答の時間を入れて全体で3時間という目算だったのだが、1時間半ほど予定をオーバーして、5時半頃までかかった。寝不足気味なのであろう、数名の者が途中で机に突っ伏して居眠りをしていた。腕組みをして目を閉じる程度は黙認するが、こういうマナー違反は当然注意する。人が発表をしているときに目の前で居眠りをすることは、私の感覚では、「ありえない」ことである。

 引き続いて、研究室で一文のY君、二文のSさんの卒論指導を各1時間。さすがにくたびれる。お腹もへったので、Sさんの卒論指導は途中から「フェニックス」に場所を移して行う。私はサラミのピザと珈琲を注文したが、Sさんはカフェオレのみ。聞くと、夏バテでこのところ食欲がまったくないのだそうだ。しかも来週、友人とソウルに旅行することになっているそうで、「お粥でとおそうと思います」とのこと。ちょっと悲壮な覚悟である。「夜は出歩かないでホテルの部屋で卒論の参考文献を読みます」。ますます悲壮である。

 

7.31(土)

 オープンキャンパス二日目。私、助手のSさん、4年生のH君とKさんの4人で応対。教室前の廊下で呼び込み役をしていたら、男子3人組が窓越しに中を覗いて、Kさんを見て、「あっ、かわいい!」などと言っている。高校生からそんなふうに言われるのは心外なのではないかと思ったが、Kさん、素直に喜んでいる。そうなんだ・・・・。今日、私が応対した受験生は総じて学問的関心が旺盛だった。たとえば民俗学(ことに柳田国男)に関心があり、社会学専修と人文専修で迷っている女子高生がいたので、二者択一なら社会学の方が相応しいと思うが、日本史学専修に鶴見太郎という若手の先生がいて、『柳田国男とその弟子たち』などの本を書いていらっしゃるという話をしたら、彼女の目が途端に生き生きとしてきたので、講義要項で鶴見先生の授業を調べて、その解説をしてさしあげた。「日本史学演習4C」のテーマは「橋浦泰男関係文書を読む」。思わず「う~ん、シブイな~」と言ったら、彼女、嬉しそうにニッコリしていた。

 午後1時から社会学専修室で昨日に続いて前期最終報告会(受験生の相談は長谷先生にバトンタッチ)。今日は学校班、職業班、心身班の報告。途中で二度休憩を入れつつ、6時過ぎまでかかる。来週の月曜日に編集担当の学生5名と私とで原稿に赤を入れる作業を行い、その原稿を各班に戻し、加筆修正をした最終原稿を夏休み明けに提出。前期は新聞の人生相談記事を分析したが、後期はライフストーリー・インタビューを行う予定。


2004年7月(前半)

2004-07-14 23:59:59 | Weblog

7.1(木)

 午前、このところ体調を崩している父親を病院に連れて行く。病院から帰ってきてから、散髪に行き、昼食は「つけ麺大王」でレバ焼定食。今日は秋元先生のお通夜で、ずっと立ち通しになりそうなので、しっかりと食べておかなくてはならない。午後3時頃家を出る。電車の中で阿部和重『アメリカの夜』(講談社文庫)を読み始めたが、数頁読んで、彼の文体を受け入れることができず、本を閉じる。代々幡斎場には4時ちょっと過ぎに着いた。あれこれ段取りをしていると、学文社の田中社長が社員お二人を連れてお手伝いに来てくださった。出来上がったばかりの秋元先生の最後の著作『近代日本と社会学 戦前・戦後の思考と経験』(学文社、2004年6月30日発行)を頂戴する。先生は病床で本書の校正をされたのだという。お通夜にはたくさんの方々が来て下さった。ひさしぶりにお目にかかる顔、顔、顔。葬儀とは日頃ご無沙汰している者同士が再会する場である。秋元先生のこと、そしてお互いの近況を語り合う。帰宅してから、『近代日本と社会学』の「あとがき」を読む。

 「・・・・社会学が、現実との対応のなかで拾い上げ、そして応答してきた問題群のなかから、近代日本が思想と現実において直面してきた争点をとり上げ、歴史の転換にさいして遭遇した主要な問題を読み解こうとした・・・・はじめは戦後の分析に重点をおく予定で構成を考えていた。とくに社会学の理論と方法論の分化と展開、大衆社会論をめぐる論争、都市化とコミュニティ論、とくに戦後の変動過程における地域権力と政治の構造的変化、といった理論および社会過程と密着しながら展開してきた問題について論じ直すつもりだった。残念ながら、いまはこうした予定を胸にしまいこんだまま、断片的なかたちで問題を提起するしかなくなった。」

 176頁の本書は先生がこれまでに出された本の中でも一番薄い方であろう。先生のご無念さが胸に応えた。次の日曜日、丸一日かけて、本書をじっくり読もう。

 

7.2(金)

 昨日と同じ代々幡斎場で秋元先生の告別式。正岡先生の弔辞が素晴らしかった。しかし、おそらく次号の『社会学年誌』の秋元律郎先生追悼特集の一部となるであろうからここで紹介するわけにはいかない。土屋先生の車に同乗させていただいて大学に戻る。道路が大変混んでいて時間がかかったが、土屋先生からいろいろ私生活に関する興味深いお話をたくさんうかがうことができた。あまりにプライベート過ぎてここで紹介することができないのが残念である。雑用を済ませてから、研究室で昨日頂戴した『近代日本と社会学』の最初の章「明治の社会学者たち」を読む(日曜日まで待てない)。日本において社会学が制度化される以前の、社会学の草創期の話。社会学は社会学者だけのものではなかったし、社会学者は社会学学者ではなかった。言うなれば社会学版「坂の上の雲」である。帰りの電車で去年の調査実習のゼミの一員だったKさんと一緒になる。彼女は養護学校の先生を志望している。彼女のことを知る誰もが彼女にピッタリの仕事だと思っているが、彼女自身はときどき自信を失うことがあるらしい。しかし、今日は大きな目がいつにもまして生き生きと輝いている。「坂の上の雲」を目指して歩いている若者の顔である。

 

7.3(土)

 年に一度の早稲田社会学会の大会。今回のシンポジウムのテーマは「『社会』の蒸発―液状化する社会の諸相」。報告者は奥村隆(立教大学)、山田真茂留(早稲田大学)、土井隆義(筑波大学)の3名。3名とも「蒸発と液状化は意味が違うだろう」とシンポジウムのコーディネーターの長谷(正人)さんに文句を言っていた(もちろん笑いながら)のがおかしかった。3名の報告にコメントを述べる役の討論者は高橋順一(早稲田大学)と正岡寛司(早稲田大学)の2名。討論者は、長谷さんによると、報告者3名が同じ世代に属しているのに対して上の世代の社会学者で、したがって(?)、社会の蒸発ないし液状化という新奇な見方に対して批判的なコメントを期待されていたようであるが、正岡先生が終戦時の社会の激変という経験を持ち出して「社会は固定したものではないというのが自分の社会観の出発点だ」とスルリと体をかわしたのに対して、高橋さんは社会的事実をその全体性において捉えることの必要性を主張したアドルノを引き合いに出して、期待されている役割(それは損な役回りでもある)をきまじめに演じていた。土井さんが少年犯罪を素材にした報告の中で「社会の抑圧性の低下」ということを言ったのに対して、高橋さんは「社会の抑圧そのものが低下したのではなく、抑圧が巧妙になって、抑圧を抑圧として感じにくくなっただけではないか」という意味のことを述べた。抑圧と抑圧感を区別しようというのは、物質的現象としての疎外とその主観的形態である疎外感を区別しようというのと同じマルクス主義的発想である。これに土井さんが同意したので、私は「あれっ?」と思った。同意しちゃうのかと。そうすると議論はとても平凡なところに落ち着いてしまうような気がしたからだ。少なくともそれは長谷さんの意図とは違うのではないかと思いつつ、長谷さんを見ると、案の定、面白くなさそうな顔をしている(正直な人だ)。さらに高橋さんは、奥村さんが言った社会の「無根拠」さや、山田さんが言った若者の「空虚感・浮遊感」に対して、「にもかかわらずわれわれはそれを引き受けて、それに堪えて生きて行かなくてはならない」という意味のことを述べた。ニーチェ的でもあり、宮台真司的でもある(終わりなき日常を生きろ!)。私のような者にはなかなか恥ずかしくて言えない台詞である。やれやれ、これをもってシンポジウムが終わるのかと思っていたら、山田さんが「高橋先生が堪えていただくのはけっこうだし、私も堪えられると思うのですが、堪えられない人はいっぱいいる。それをどうするかが問題なんです」という意味のことをきっぱりと言ったので、びっくりした。よくぞ言ってくれました、山田さん。長谷さんもニンマリしている(正直な人だ)。残念ながら、その「問題」を論じる時間はもう残っていなかった。それは今日出席した社会学者、社会学徒一人一人の「宿題」となったのである。

総会と懇親会は失礼して「五郎八」に行く。まだ開いていなかったので、隣の成文堂で時間を潰す。平野啓一郎の最新作品集『滴り落ちる時計たちの波紋』(文藝春秋)の中の短編2編「白昼」と「珍事」を立ち読みする。『ダブリン市民』のジョイスの衣装を着た星新一のような感じ(って意味が通じるかな)。面白かったので購入することにした。「五郎八」では女将さんお薦めの夏季限定「サラダ鴨」を食べた。冷やし中華風のサラダ感覚の蕎麦に蒸した鴨肉が載っている。美味。しかし、お酢が食欲を増進させるがゆえにかえって夕食にはボリューム不足。このままでは夜中に何か食べずにはいられなくなりそうだ。蒲田に着いてから駅ビルの「とん清」で改めて海老フライ定食を食べる。満足。閉店まで後15分の栄松堂で新刊本を2冊購入。関川夏央『現代短歌そのこころみ』(NHK出版)と河合香織『セックスボランティア』(新潮社)。帰宅して、電車の中で読んでいた『近代日本と社会学』の続きを読む。

 

7.4(日)

 『近代日本と社会学』を読み終える。本書の構成は以下のようになっている。

第一章 明治の社会学者たち

第二章 都市研究とその模索

第三章 群衆の登場

第四章      転換期の時代認識と文化社会学―一九三〇年代の応答―

第五章 戦中への時代の響音

第六章 敗戦から一九五〇年代への日本社会学―再生と反転のプロローグー

第七章 日本近代化論の行方

あとがき

 秋元先生が意図したのは「社会学の展開をとおしたひとつの近代日本の社会史」である。先生にはすでに『日本社会学史』(早稲田大学出版部、1979年)がある。先生の代表作(博士論文)であり、私は修士課程の2年生ときに先生の演習のテキストとして読んで以来、いまでも折にふれて参照させていただいている。その『日本社会学史』の「あとがき」の中で先生は次のように述べている。

「本書で主題とされているのは、たんに理論の次元で切りとったいわゆる『学説史』にあるのではなく、社会学じしんがわが国の近代化の過程でしいられてきた歩みのひとつひとつに目を向けながら、そこにうみだされた問題を思想史的な検討にゆだね、これを現実との対応の視点からたしかめていくというところにある。」

 『日本社会学史』と『近代日本と社会学』の主題は似通っているが、『日本社会学史』が明治初期から始まって戦時中までで終わっているのに対して、『近代日本と社会学』は同じく明治初期から始まって戦後の高度成長期まで話が及ぶ。ただし戦後を論じるのは7つの章のうちの最後の2つの章である。「はじめは戦後の分析に重点をおく予定で構成を考えていた」とのことだから、もし先生に十分な時間があったら、『近代日本と社会学』は『日本社会学史』を下地にしつつ、記述の重心を「学史」よりも「社会史」の方に移し、かつ分析の時間的射程を1990年代まで延長した作品になっていたことだろう(日本文化論を素材とした最後の章には、「やがて日米の経済摩擦を背景としながら、きびしい批判にさらされる日本文化肯定論はまさに九〇年代以降のバブル崩壊のなかで出口を見失うことになる」というスケッチ風の記述が見られる)。「残念ながら、いまはこうした予定を胸にしまいこんだまま、断片的なかたちで問題を提起するしかなくなった」という「あとがき」の中の一節が、改めて胸に応える。しかし、『近代日本と社会学』を読み終えた私には、先生が書こうとして書けずに終わった数章の内容をある程度予想することができる。作品には流れというものがあるからだ。もちろん細部はわからないが、ここまでこのように展開してきたのだから、これから先このように展開していくだろうというおおよその道筋は予想できる(ミステリー小説ではないから最後にどんでん返しがあるとは思えない)。『近代日本と社会学』は未完の作品であるが、完成した姿が見えないほどの未完成作品ではない。176頁の小品であるが、スケールの大きな作品である。私は本書を読みながら、あちこちに傍線を引き、思いついたことをメモ帳に記し、興味深い本が紹介されていると「日本の古本屋」で検索して発注した。要するに私にとってすこぶる刺激的な読書だったのである。なお本書の奥付には「2004年6月30日第一版第一刷発行」とあるが、これは学文社の田中社長が献本用のものだけを大車輪で印刷・製本してくださったためで、一般の書店に並ぶのは8月に入ってからとのことである。

 

7.5(月)

 風は強いが蒸し暑い一日だった。山崎正和『不機嫌の時代』を読んでいたら、その中で言及されている永井荷風の「冷笑」という小説(明治社会に不適合を自認する人びとが群像をなして描かれている)を読みたくなって、駅ビルの本屋に出かける。しかし、予想していたことではあるが、いま入手できる文庫本に「冷笑」は入っていなかった(昔、岩波文庫と朝日文庫に入っていた)。文庫本で入手できないとなると、図書館で借りて読むしかない(一応、「日本の古本屋」で検索したが、10万円近くする初版本しかヒットしなかった)。あらためて各社の文庫本のコーナーをながめて、現代の売れ筋作家の旧作が中心になっていることを実感した。かつては日本文学史上に名を残す作家の作品はたいてい文庫本で入手できたものである。しかし、いまでは代表作しか入手できない。なにしろ名作の粗筋だけを紹介した本が売られている時代であるから、代表作が絶版になっていないだけよしとしなければならないのだろう。きっと、みんな忙しいのだ。

 フジテレビの「月9」ドラマ、『東京湾景』の初回を観る。韓国のラブストーリー・ドラマの人気に便乗した(しようとしている)作品。吉田修一の原作には在日韓国人は登場しない。回想シーンで、主人公の母親の恋人が彼女に会いに行く途中で、クレーン車から落下する材木の下敷きになって(たまたま通りかかった三輪車に乗った子供を助けようとして)命を落とすシーンは、あまりにコテコテの演出で、観ているこちらが恥ずかしくなった。ああいう演出を恥ずかしいと感じない神経は昼ドラのそれであり、昼ドラの場合はそれを売りにしているわけだが、夜ドラの場合はお願いだから勘弁してくれないか。

 

7.6(火)

 午後、会議の予定があり大学へ。東京駅丸の内北口の改札前のホールで「第15回日本夕日写真大賞展」をやっていたのでしばらく足を止めて見物する。「日本で一番ほっとする夕日の街、新潟へ。」というキャッチフレーズで新潟市の観光課が行っているコンクールなので、海に沈む夕日の写真が多い。私は太平洋側で生まれ育った人間なので、海に沈む夕日というものに馴染みがない。私にとって夕日は街並みに沈むものである。永井荷風が『日和下駄』の中で都会の夕日の美しさについて書いている。

 「夕日と東京の美的関係を論ぜんには、四谷麹町青山白金の大通りの如く、西向きになっている一本筋の長い街路について見るのが一番便宜である。・・・・いやに駄々広いばかりで、何一つ人の目を惹くに足るべきものもなく全く場末の汚い往来に過ぎない。雲にも月にも何の風情を増しはせぬ。風が吹けば砂煙に行手は見えず、雨が降れば泥濘人の踵を没せんばかりとなる。かかる無味殺風景の山の手の大通りをば幾分たりとも美しいとか何とか思わせるのは、全く夕陽の関係あるがためのみである。」

 散歩の達人永井荷風は東京的(=近代的)美しさの発見者でもあったが、東京の夕日の美しさも彼によって発見されたものの一つである。たぶん東京の朝日も美しいのであろうが、荷風は朝寝坊だったに違いない。

 

7.7(水)

 3限の「社会学研究9」は来週が教場試験のため授業は今日が最終回。出席カードの裏に授業全体の感想が書いてあったりする。「この授業を受けていろいろ考えさせられてかなり凹むことが多かったように思います」とか。七夕の短冊と間違えているのであろうか、「素敵な人と巡り会えますように」、「美人になりますように」、「来週の試験でいい点数が取れますように」などと書いてあるのもある(5歳の女の子じゃないのだからいまさら「美人になりますように」はないだろう・・・・)。5限の調査実習は先週に続いて各班の中間報告。それなりに目鼻がついてきた。7月30日と31日に(前期の課題の)最終報告会を行う。残り3週間。試験の合間にどれだけ練り上げることができるかの勝負である。ところで両日はオープキャンパスである。受験生に大学の演習授業を公開するというのはどうだろう。

 天海祐希主演のドラマ『ラストプレゼント』の初回を観る。突然、癌で余命数ヶ月を告げられるという設定は草彅剛主演の『僕の生きる道』と同じである。二番煎じ・・・・と思いつつ観たのだが、脚本・演出のしっかりした期待できる内容のドラマである。もしかしたら天海祐希の代表作になるかもしれない。そんな予感がする。槇原敬之の唱う主題歌もいい。

 

7.8(木)

 午後、母親が狭心症の疑いで近所の大学病院で心臓カテーテルの検査を受ける。検査は1時間ほどで終わり、担当医の説明を聞く。とくに問題なしとのこと。やれやれ、一安心。夕方から大学へ。「ごんべえ」のカレー南蛮うどんで腹ごしらえ。おばさんに「おひさしぶりね」と言われる。最近は「五郎八」の蕎麦、「メーヤウ」のカリー、「フェニックス」のピザが多いから、その分「ごんべえ」のうどんからは遠ざかっていた。馴染みの店がいくつもあるというのも気を遣うものである。二文3年生のOさんが自家製のバナナアイス持参で研究室にやってきた。今日の暑さは並大抵ではなく(もう夏休みにしちゃいませんか?)、アイスは少し溶けかかっていたので、その場ですぐに頂く。カレー南蛮の後のデザートとしては申し分ない。こういうデリバリーはいつでも大歓迎である。7限の基礎演習で、HIV感染者の差別をテーマにした女性3人グループの報告の中で、「もともとは自己の一部であった物が、一度身体の外に出してしまうと異物として感じられ、再び身体の内部に取り込むことに抵抗を感じる人が多い」という排除の心理を具体的に説明するために、お茶を紙コップに注ぎ、それを口に含んだ後、飲み込まずに、紙コップに吐き出し、それを再び口に含んで飲み込むというパフォーマンスを行った(メアリ・ダグラスが『汚穢と禁忌』の中で行った思考実験を参考にしている)。彼女たちにとっては決死のパフォーマンスであったようだが、紙コップでは口から出したお茶がみんなからは見えないので、インパクトはいまひとつである。やるからには透明のプラスチックコップを使ってほしかった。さらに言えば、お茶ではなく、ドリフターズの加藤茶や志村けんのように、牛乳でやってほしかった。

 

7.9(金)

 今日も暑い一日だった。もっとも電車の中、研究室、教室、飲食店などはどこも冷房が効いているので、暑いのは外を歩いているときだけである。だから「暑いですね」と誰かと会うたびに挨拶代わりに言うわりには、それほど暑さが応えているわけではない。むしろ私は焼けつくような太陽の下を歩くのが好きでさえある。夏の到来にわくわくしてしまうのである。おそらくこの感覚は小学生と同じ水準であろう。「夏=夏休み」。不滅の等式である。もっともそれは私が「学校」という場所でずっと(ある時期までは黒板に顔を向け、ある時期からは黒板を背にして)生きてきたからである。厚生労働省の集計によると今年の企業の夏休みは平均8日間であるという。非情の数字である。「夏≠夏休み」の世界である。そこでは生物はわれわれの世界とは別の進化の系列を形成しているに違いない。いや、われわれの世界にはそもそも進化ということがないのかもしれない。われわれの世界は一種の「ガラパゴス諸島」なのだ。そんなことを考えながら、「ごんべえ」でざるうどんを食べ、「カフェゴトー」でベイクドチーズケーキを食べた。質素に、ときに贅沢に、生きていこうと思った。

 

7.10(土)

 晴れたり、曇ったり、雨がぱらついたりの不安定な天気。午後、大学へ。一文の社会学専修を4年前に卒業し、いまは銀座のワシントン靴店で働いているMさんが研究室にやってきた。「五郎八」で食事、「カフェ・ゴトー」でお茶。彼女は卒論でTVドラマを論じたほどのTVドラマファンなのだが、深津絵理、水野美紀、中山忍演じる3人のOL(全員オイルショックの年生まれの26歳)の日々を描いた岡田恵和脚本の『彼女たちの時代』(1999年)は中でもお気に入りのドラマであった。放送当時、大学4年生だったMさんだが、先日27歳の誕生日を迎え、自分の年齢が『彼女たちの時代』の主人公の年齢を越えてしまったことに感慨深げであった。こういう経験は誰にでもあるのではなかろうか。私も石川達三の小説『四十八歳の抵抗』の主人公の年齢を越えたときには小さな溜息が出て、もうじたばたするのはやめようと思ったものだ。27歳といえば現代女性の平均結婚年齢だが、早大卒の女性に関して言えば、まだ未婚者が多数派の年齢である。結婚、出産、仕事の継続・停止など人生上の重要な選択がこれから目白押しの年齢である。渚に立って、間もなくやってくるであろう、しかし、いつやってくるのか、本当にやってくるのかは不確かな、いくつかの大波の到来を予感する・・・・男性の場合、そうした感覚が希薄なのは、結婚や子供の誕生がライフコースの不連続性につながる確率が女性よりも小さいから(少なくともイメージのレベルでは)であろう。

 

7.11(日)

 参議院選挙の日。昼過ぎ、投票所である相生小学校(私の母校)へ妻と投票に行く。投票を済ませ、妻は帰宅、私は散歩。散歩の途中で雷が鳴って雨が落ちてきた。バス通りに面したビルの軒先でしばらく雨宿り。熱く埃っぽいアスファルト道路が雨に濡れると、昔の東京の匂いがする。雨が小降りになったので、目と鼻の先の駅前商店街のアーケードまで早足で歩く。

「南天堂書店」で山田太一編『生きるかなしみ』(筑摩書房、1991年)を購入(1500円→630円)。本書は「生きるかなしみ」を描いた文章のアンソロジー。柳田國男の「山の人生」や、杉山柳丸の「ふたつの悲しみ」などが収められている。

 「時代の気分はおおむね『生きるかなしみ』に背を向けている。そのような言葉は見たくもない。気の滅入るようなことを、わざわざ本を買って確認する人間がいるだろうか? 生きるかなしさぐらい承知しているが、暗いことにはなるべく目を向けたくない。いずれ悲しい目にも遭うだろう。そうなれば嫌でも体験することである。それまでは、楽天的でいたいのだ。・・・・しかしこうした楽天性は一種の神経症というべきで、人間の暗部から逃げ回っているだけのことである。目をそむければ暗いことは消えてなくなるだろうと願っている人を、楽天的とはいえない。本来の意味での楽天性とは、人間の暗部にも目が行き届き、その上で尚、肯定的に人生を生きることをいうのだろう。・・・・そして私は、いま多くの日本人が何よりも目を向けるべきは人間の『生きるかなしさ』であると思っている。」

 本書の初版が発行されたのは1991年の3月。バブル崩壊の半年前である。

 ずっと閉まっていた鈴木ベーカリーが店を開けていたので、自分の昼食用にサンドイッチを購入。「しばらくお店を閉められていましたね」と店の人に声をかけてみたが、その中年の女性は「ええ」と言っただけで、店を閉めていた理由は言ってくれなかった。雨がまだ止んでいないので、100円均一の店で傘を買う。いわゆる透明ビニール傘とは違う、色もデザインもそれなりに考えられている傘だったので、本当に100円かしらと思ったが、100円均一の店で「これはおいくらですか?」と尋ねるのも変なので、黙ってレジの人に渡したら、やはり100円だった。鈴木ベーカリーのサンドイッチにも、100円均一の店頭に並んでいる傘にも、「生きるかなしみ」が微かに漂っていた。

 

7.12(月)

 昼食後、散歩がてら、「日本の古本屋」関係の代金の振り込みに郵便局へ行き、その足で「ブックオフ蒲田東口店」を覗く。100円の単行本を中心に5冊購入。

(1)       辰巳渚『サラリーマンの「生きる!」技術』(廣済堂出版、2002年)

いろいろ参考になることが書かれているが、私が一番頷いたのは、「週のうち2日は、とにかく『しっかり集中して働くぞ!』という日を設定しよう」というアドバイスだった。「『しっかり働く!』2日が、しっかり働けたら、それでその週は充分働いた、とみなすのである。残りの3日は雑用や雑談が多くても、たいした仕事ができなくてもいい、と自分に許可する。私の経験では、週のうちたった2日しっかり働けば、けっこうな量の仕事をきっちりとこなせるものだからである。」私もなんとなくそんな気がしていたのだが、辰巳さんもそう考えていると知って、心強い気がした。私の場合、その2日間は日曜と月曜である。火曜は会議、水曜・木曜・金曜は授業、土曜はいろいろと用事が入ることが多い。故に日曜と月曜にどれだけ勉強できるかが勝負である。

(2)       高橋源一郎『文学がこんなにわかっていいかしら』(福武書店、1989年)

文庫で読んでいるが、単行本でももっておこうと購入。中身は同じだが、松苗あけみの装丁が違う。

(3)       大平健『豊かさの精神病理』(岩波新書、1990年)

研究室にあるが、自宅の書棚にも置いておこうと思って購入。改めて出版年月日を見ると、1990年6月20日となっている。バブル崩壊の3ヶ月前に出た本だったのか。

(4)       東海林さだお・椎名誠『人生途中対談』(文藝春秋、1996年)

食べ物をめぐる対談。椎名誠に『ひるめしのもんだい』という著書があるが、私は食事とくに昼食のことを人生の瑣事と考える人間とはつき合いたくない。ちなみに本日の昼食は妻が作ってくれた冷やし中華であった。

(5)       佐伯一麦『読むクラシックー音楽と私の風景』(集英社新書、2001年)

本日唯一の非100円本(350円)。実は100円だと思ってレジに持って行ってしまったのだ。5冊なのに770円を請求されて勘違いに気が付いた。でも、いいやと、そのまま購入。この作家のことは前から知っていたが、「一麦」を「かずみ」と読むことは今日始めて知った。

 

7.13(火)

 関東地方に梅雨明け宣言が出た。午前、妻と大久保家の墓参りに行く。5月のお施餓鬼法要からお寺さんとの付き合いはわれわれ夫婦の役目となったのである。電車の中で何人かお坊さんを見かけた。檀家を回ってお経を上げるのだろうが、お盆の入りの昼間ではまだ御霊が家にやって来ていないのではなかろうか(別にかまわないのか?)。鶯谷の駅を降りると、寺の多い町だけあって、これから墓参りという人たち(墓に供える花をもっているのでわかる)が何組も歩いている。日陰になっているところをたどりたどり寺まで歩く。墓参りはすぐに済んで、冷たい麦茶で一服してから、私は大学へ、妻は浅草橋に買い物へ。午後、会議が2つと二文の基礎演習のグループ報告の相談が一件。合間に「メーヤウ」で昼食(タイ風カントリーカリー)。明日の社会学研究9の試験問題(ちょっと難しいかも・・・・)を作ってから研究室を出る。帰りがけに「あゆみブックス」で熊野純彦『戦後思想の一断面 哲学者廣松渉の軌跡』(ナカニシヤ出版、2004年)を購入。さっそく電車の中で読み始める。先日の早稲田社会学会大会のシンポジウムで、討論者の高橋順一さんが、「当時(1969年1月)、廣松渉の『世界の共同主観的存在構造』はわれわれに非常な解放感を与えてくれた」と発言していたのが印象に残っていたのである。

 

7.14(水)

 3限の「社会学研究9」は教場試験。問題用紙と解答用紙を配って、「では、はじめて下さい」と言ったら、あとは試験終了の時間までとくにすることはない(室温の設定を下げたことと、数名からの質問に回答した以外は)。退屈だが、試験監督は私一人なので、本を読むわけにはいかない。しかし、教壇から教室を見渡して、帽子を被ったまま試験を受けている学生が4人(全員男子)いるなとか、早めに答案を提出して退室した最初の学生10人の男女比は7:3だとか、どうでもよいことを観察していたら、あっという間に90分は過ぎた。馬場下の郵便局に書籍小包を出しがてら、「メルシー」で昼食(チャーシューメン)を食べ、ヤマノヰ書店を覗いて、リースマン『群衆の顔』上下を2500円で購入。研究室に戻って福岡安則『在日韓国・朝鮮人 若い世代のアイデンティティ』(中公新書、1993年)を読む。帰りの電車の中でも読み続ける。