9時、起床。
トースト、サラダ(ハム、イチゴ、レタス)、紅茶の朝食。
息子と二人で一回の母の居住スペース(和室2+ダイニングキッチン)の大掃除。
暖かいので窓を開けて掃除ができた。ベランダで野良猫のはるが日向ぼっこをしている。
掃除を終えて、買い物に出る。
昼食は「そば新」で、ちくわ天+コロッケうどん。
30日ともなると、いよいよ年越しのカウントダウンが始まった感じがする。
「有隣堂」で蛭子能収『ひとりぼっちを笑うな』(角川oneテーマ21)を購入。i
隣りの東急プラザの屋上に出てみる。
駅前風景。
100円ショップで母に頼まれた手帳を購入してから、コーヒーを飲みに「カフェドコバ」に行く。「カフェドコバ」はサンライズ商店街の奥、映画館の向かいにある。
最近は鞄にいつもポメラを入れて、ノート代わりにしている。
コーヒーのお替り(無料!)をして、『ひとりぼっちを笑うな』を最後まで読む。
来年度の演習「個人化の社会学」は「孤独と社交」をテーマにするつもりだが、その参考文献として使えそうだ。孤独とは自分と向き合う(内向)ことであり、社交とは他者と向き合う(外向)ことである。どちらも都市生活者として必要な生の技法であるが、どちらか一方だけというのはよろしくない。孤独(群れないこと)を礼賛する蛭子も、孤独には「よい孤独」と「悪い孤独」があることは認めている。精神を自由にする孤独はよい孤独であり、精神を蝕む孤独は悪い孤独である。言わんとしていることはまっとうなことだが、世の中全体が、震災後、「つながり」や「絆」や「仲間」を強調する風潮にあるから、蛭子の主張には対抗的言説としてのインパクトがある。
「僕は昔からひとりぼっちでいることが多かったし、友だちみたいな人もまったくいませんが、それがどうしたというのでしょう?ひとりぼっちがなにが悪いというのだろう?というか、むしろ「ひとりでいること」のよさについて、みんなにもっと知ってもらいたい。友だちなんていなくていい。ひとりぼっちだっていいんじゃないかな。」(7頁)
真っ向からの友だち不要論である。ただし、家族(配偶者)は必要だと彼は言っている。彼は53歳のときに30年間連れ添った妻を亡くしている。そのとき彼が感じた孤独は日常的な常態としての孤独とは違って、これまで経験したことのない深い喪失感を伴うものだった。「このままでは本当に自分はダメになるかもしれない」と危機感を持った彼は、周囲に積極的に働きかけて、再婚をした。
「これまで妻思いのようなことを書いておきながら、ずいぶんと矛盾していると思われるかもしれないけれど、自分と妻の生活は、いい結婚生活だったと言い切る自信があるからこそ、もう一度結婚したい。そんなふうに思うようになったんですね。「俺が幸せになるためには、一緒に暮らして、泣いたり、笑ったりしてくれる女性が必要なのだ」と。/連れ合いを亡くしてすぐに再婚したいと願うなんて、どうかしていると思われるかもしれない。きっと世間の人々も冷たい眼差しで見ることでしょうね。でも、生きている者が、自分の幸せを求めてなにが悪いのか。その考えには、死んだ妻もきっと同意してくれると思ったんですよね。そう考えるようになってからは、まるで別人のようにアクティブな人間になっていったんです。」(204頁)
「これまで散々ひとりになりたいと書き続けてきましたが、ときには矛盾したっていいんですよ。そう、我慢するのが一番よくないんじゃないかな。ひとりきりになりたいと思ったらなればいいし、誰かと話したいと思ったら、こちらから話しかければいいだけのこと。人ってそれくらい適当にわがままに生きていていいように思う。人に甘えてしまえばいいんですよ。/いまいる状態を自分がイヤだと思うなら、まずは自分のほうから動かないといけない。自分は自分で他人は他人だから、ひたすら沈黙を続けても状況を変えることはできないですからね。」(208-209頁)
蛭子の好む孤独、よい孤独というのは、社会的存在として他者と関わって生活しながらも、そこで自己の自由を十分に確保するための生の技法のことであることがここから読み取れる。
カフェは孤独を楽しむための場所でもあり、社交を楽しむための場所でもある。
「一二三堂」に「よいお年を」の挨拶に行く。
挨拶代わりに「ニューズウィーク」を購入。
年末の蒲田の夜。
「清水電気」のみなさん、よいお年を。
玄関先に野良猫のなつがいて、腰を下ろすと、膝に乗ってきた。
母が鍋にニシンの昆布巻きをたくさん作った。
夕食は鶏肉と野菜のレンジ蒸し。
トマトと玉ねぎのサラダ。
最後は鱈子の佃煮でお茶漬け。