8時半、起床。
鶏肉団子スープ、トースト、サラダ(トマトとレタスとブロッコリー)の朝食。
今日は朝から冷たい雨が降っている。野良猫のなつも家の中に入りたいようである。
10時に家を出て、大学へ。
11時からS君の卒業研究指導。文化構想学部の卒研と文学部の卒論の提出日は12月の11日(木)と12日(金)の2日間である。11日に提出するつもりでスケジュールを組むことである。製本した論文の表紙に貼るシールは12月8日(月)から配布が始まる。お忘れなく。
なお、文化構想学部のゼミ論の提出日ならびに提出方法は論系ごと(あるいはゼミごと)に定められている。
昼休みに来年度の卒業研究を履修するK君の仮指導を行う。正式スタートは4月からだが、それまでに文献リストの作成等の課題を与える。
1時半に大学を出て、池袋のサンシャインタウンで今日から始まった東京書作展に出かける。このブログにもしばしば登場する卒業生で書家のTさんの作品が今回見事「特選」に入ったのだ。
会場には先に到着したTさんがいた。
これが今回、特選に入った中原中也の詩「憔悴」を書いたTさんの作品。
「憔悴」とはこんな詩である。
Pour tout homme, il vient une
poque
o
l'homme languit. ―Proverbe.
Il faut d'abord avoir soif……
――Cath
rine de M
dicis.
私はも早、善い意志をもつては目覚めなかつた
起きれば愁(うれ)はしい 平常(いつも)のおもひ
私は、悪い意志をもつてゆめみた……
(私は其処(そこ)に安住したのでもないが、
其処を抜け出すことも叶(かな)はなかつた)
そして、夜が来ると私は思ふのだつた、
此の世は、海のやうなものであると。
私はすこししけてゐる宵の海をおもつた
其処を、やつれた顔の船頭は
おぼつかない手で漕ぎながら
獲物があるかあるまいことか
水の面(おもて)を、にらめながらに過ぎてゆく
昔 私は思つてゐたものだつた
恋愛詩なぞ愚劣なものだと
今私は恋愛詩を詠み
甲斐あることに思ふのだ
だがまだ今でもともすると
恋愛詩よりもましな詩境にはいりたい
その心が間違つてゐるかゐないか知らないが
とにかくさういふ心が残つてをり
それは時々私をいらだて
とんだ希望を起させる
昔私は思つてゐたものだつた
恋愛詩なぞ愚劣なものだと
けれどもいまでは恋愛を
ゆめみるほかに能がない
それが私の堕落かどうか
どうして私に知れようものか
腕にたるむだ私の怠惰
今日も日が照る 空は青いよ
ひよつとしたなら昔から
おれの手に負へたのはこの怠惰だけだつたかもしれぬ
真面目な希望も その怠惰の中から
憧憬(しようけい)したのにすぎなかつたかもしれぬ
あゝ それにしてもそれにしても
ゆめみるだけの 男にならうとはおもはなかつた!
しかし此の世の善だの悪だの
容易に人間に分りはせぬ
人間に分らない無数の理由が
あれをもこれをも支配してゐるのだ
山蔭の清水(しみづ)のやうに忍耐ぶかく
つぐむでゐれば愉(たの)しいだけだ
汽車からみえる 山も 草も
空も 川も みんなみんな
やがては全体の調和に溶けて
空に昇つて 虹となるのだらうとおもふ……
さてどうすれば利するだらうか、とか
どうすれば哂(わら)はれないですむだらうか、とかと
要するに人を相手の思惑に
明けくれすぐす、世の人々よ、
僕はあなたがたの心も尤(もつと)もと感じ
一生懸命郷(がう)に従つてもみたのだが
今日また自分に帰るのだ
ひつぱつたゴムを手離したやうに
さうしてこの怠惰の窗(まど)の中から
扇のかたちに食指をひろげ
青空を喫(す)ふ 閑(ひま)を嚥(の)む
蛙さながら水に泛(うか)んで
夜(よる)は夜(よる)とて星をみる
あゝ 空の奥、空の奥。
しかし またかうした僕の状態がつづき、
僕とても何か人のするやうなことをしなければならないと思ひ、
自分の生存をしんきくさく感じ、
ともすると百貨店のお買上品届け人にさへ驚嘆する。
そして理窟はいつでもはつきりしてゐるのに
気持の底ではゴミゴミゴミゴミ懐疑の小屑(をくづ)が一杯です。
それがばかげてゐるにしても、その二つつが
僕の中にあり、僕から抜けぬことはたしかなのです。
と、聞えてくる音楽には心惹かれ、
ちよつとは生き生きしもするのですが、
その時その二つつは僕の中に死んで、
あゝ 空の歌、海の歌、
ぼくは美の、核心を知つてゐるとおもふのですが
それにしても辛いことです、怠惰を
(のが)れるすべがない!
(「青空文庫」からコピペしました)
規定の大きさ紙にこの長い詩の全部を収めている。時間にすると90分ほどかかるそうだ(それを何枚も書くわけである)。彼女のこれまでの作品の中では一番の大作(長作というべきか?)とのこと。実際、他の入選作の中にもこれに並ぶ緻密な作品は見当たらなかった。大きな文字の作品は見栄えはするけれども、それは一瞬の気合(集中力)があれば書けるが、Tさんのような作品は集中力の持続が必要なわけで(90分の持続!)、それがいかに大変なことであるかは、素人にも想像がつく。
「ぼくは美の、核心を知つてゐるとおもふのですが それにしても辛いことです、怠惰を
れるすべがない」という詩の最後の二行がクローズアップされて、作品の核心として位置付けられている。
これだけのものを書いた、書き切ったことにTさんは満足を覚えているが、いま改めて会場という空間で作品を眺めると「揺れ」が足りないとも感じているそうだ。「揺れ」というのは垂線を引いた場合に書の行が左右にスイングするような技法のことを指すらしいが、そうすることで作品に躍動感が出るわけだ。ただ、素人の私が思うに、「揺れ」を出すためには、それなりの余白が必要なわけで、それは作品全体の文字数×文字の大きさ=密度と関連しているから、もしこの作品で「揺れ」をもっと出そうとしたら、字をさらに小さくするとか、クローズアップを止めてその余白を他に回すなどの処理が必要になってくるのではなかろうか。私が今回の作品から受ける印象は、窓ガラスをつたって滴り落ちる雨のしずくである。それを眺める静かな憔悴と怠惰な気分。ならば「揺れ」はほどほどがよいと思う。
自分の作品をスマホで撮るTさん。自宅ではこうやって作品を眺めることができない(床に置いて斜め上から眺めることしかできない)のである。
ローアングルで。
超ローアングルで。
自作を眺めるTさんの表情は達成感や満足感であふれているように見えた。
ちなみにこちらはTさんが尊敬する先生の作品。「風神雷神」。常に自分のスタイルを更新し続ける姿勢がすごい、と思うそうだ。
「腹がへった」(孤独のグルメ風に)。昼食がまだなのだった。
下の階のレストラン街で、中華料理の店に入る。
私は海老そば。Tさんは担担麺。
レタスと海鮮の炒飯を一人前注文し、分けて食べる。
空腹は満たされたが、スイーツは別腹である。
時刻は5時。Tさんは6時から会社で打ち合わせがある。帰りは一緒の山手線に乗って、彼女は渋谷で降りた。
夕食は温泉湯豆腐(?)。チーズホンデュみたいに見えるが、中には豆腐が沈んでいる。
ポークソテーも一緒に。