フィールドノート

連続した日々の一つ一つに明確な輪郭を与えるために

5月31日(木) 曇りのち雨

2007-05-31 23:59:59 | Weblog
  今日で5月も終わり。俳句の季語でいう「五月尽」(ごかつじん)である。

    街ゆきて独活(うど)なつかしむ五月尽  加藤楸邨

  独活といえば天ぷらであり、酢味噌和えである。裏山で取った山菜をこれも近所の川で捕った若鮎と一緒に送ってくれる方があり、今年も美味しくいただいた。旬の食材を味わえる期間は短いが、だからこそ、めぐる季節の中で生きていることをわれわれに実感させてくれる。
  2限の授業(社会学演習ⅠB)でプレゼンテーションを行ったグループが、M-1グランプリ決勝でのチュートリアルの漫才(自転車のチリンチリンを盗られた話)の映像を使った。私もそのうち何かの授業で使ってみたいと思っていたが、まだ使わずにいた映像である。先を越されてしまった。ただしチュートリアルの漫才そのものを分析するといった利用の仕方ではなかったので、今後、私が授業で使っても「学生の発表をパクッた」といって後ろ指を指されることはあるまい。
  5限の授業(基礎演習21)は今日からプレゼンテーションが始まる。最初のグループがいきなり見事なプレゼンテーションをやってくれた。教材論文をよく読み込んで、グループ内できちんと議論をして、奇をてらわず、正攻法のアプローチで問題を考察していた。卒論としても十分に通用する水準にもっていける内容であった。1年生の前期でこれだけのプレゼンテーションはなかなかお目にかかからない。2番目のグループはパワーポイントやDVD(TVドラマの映像)を使ってのプレゼンテーションにチャレンジした。その試みは評価できるが、いささか機械に振り回されたことろがあった。パワーポイントはあくまでも見せ方の工夫(聞き手の顔を前に向かせる効果がある)であって、考察の内容自体がそれによって深まるわけではないから、時間を一番投下すべきはグループ内でのコミュニケーションであっただろう。一般化して言えば、プレゼンテーションは3種類のコミュニケーションから成り立っている。第一は、論文を個々の学生が読むときの読み手と書き手のコミュニケーション。第二は、論文を読んで考えたことをグループ内で話し合うコミュニケーション。第三は、プレゼンテーション当日の語り手と聞き手(クラスの他の学生たち)のコミュニケーション。この大小3つのコミュニケーションのループが緊密に組み合わさったとき見事なプレゼンテーションが生まれるのである。授業の後、研究室で次回のプレゼンテーションのグループの中間報告を聞く。
  夕方からだんだん雨脚が強くなってきたが、とうとう東京23区内に大雨警報が出て、7限の授業は休講となった。麻疹による休講措置が解除された途端のハプニングである。大学の職員の人事異動は6月1日で、したがって今日は異動される方の最後の勤務日であったわけだが、最後の最後まで忙しく慌しい職場ではなかったと思う。OさんやMさんに廊下でご挨拶。お世話になりました。ありがとうございました。

5月30日(水) 曇りのち雨

2007-05-31 09:25:07 | Weblog
  いつもであれば3限(13:00-14:30)の授業に間に合うように家を出ればよい日なのであるが、今日はその前に2件、学生たちと会う約束をしてある。まずは11時から基礎演習25の学生Hさんらのグループが研究室にやってくる。私が担任をしているのは基礎演習21なのだが、なぜ別のクラスの学生たちがやってくるのかというと、私の書いた教材論文「近代日本における人生の物語の生成」を取り上げてプレゼンテーションを行うそうで、ついては著者である私にいくつか質問したいことがあるとのこと。著者へのインタビューというのは、基礎演習のガイドブックの中でこちらから提唱した方法の1つであるから、無論、ウェルカムである。グループの5人(女子4人、男子1人)が全員でやってきた。質問は主としてメーテルリンクの『青い鳥』をめぐるものであったが、どれもよい質問で、私の回答に対する理解も早かった。続いて昼休みに演習ⅠBの学生のグループ(来週が発表)が相談に来た。中間報告というよりも、何を発表の核にしたらよいかという相談であった。私が「これにしなさい」と押しつけることはできないので、何が核になりそうかを彼らと一緒に考える。考えたりしゃべったりしていて3限の授業「質的調査法特論」に少々遅れてしまった。今回は見田宗介の論文で学んだ要因連関図の技法を使って実際に自分たちで新聞の人生相談記事を分析する試み。事前に宿題という形で担当ケースを割り当てておいたのだが、同じケースでも人によって異なる要因連関図が描け、なかなか興味深かった。4限は一文の卒論演習。M君(80年代文化論)とT君(スポーツと社会)の報告。今日は4つ授業をこなしたような気がする。
  夜、大田区役所で、大田区男女平等推進区民会議の第一回の会合。区長から委嘱状を渡され、担当の職員の方からあれこれの説明があり、会長(議長)を互選で決定し、今後のスケジュールを調整して、本日は終了。次回からが本番である。6時半からの会議だったのだが、案内には夕食(弁当)が出るとも出ないとも書いていなかったので、どっちなんだろうと思いつつ、どっちに転んでもいいように、家でお茶漬けを食べてから行ったのだが、夕食は出なかった。会議を終えて家に戻る途中で「つけめん大王」でレバ焼き定食を食べたのだが、食べ終わる頃に、上着のうちポケットにあるはずの財布がないことに気づく。自宅を出るときに忘れたのである。妻に電話をしてもってきてもらう。女店員は、なんでこの客は食べ終わったのにいつまでも席を立たないのだろうと思っていたに相違ない。妻が到着し、支払いのときに、「実は財布を忘れて、持ってきてもらったんだ」と私が説明すると、中国人と思われるその女店員はクスリと笑った。
  帰宅し、風呂を浴びてから、「うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー」をDVDで観る。「うる星やつら」の劇場版の1つであるが、今日大学を出るとき、スロープのところで教育学研究科のドクターのM君とばったり会って、彼からこの作品を勧められたのである。M君はフィールドノートで私が最近「甲殻機動隊」や「イノセンス」を観たことを知り、それならぜひ押井守の監督デビュー作である「うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー」も観て下さいということになったのである。私はこの種のアドバイスには素直に従う人間で、さっそく蒲田のTSUTAYAでDVDをレンタルした(しかしすぐには見つからず、アニメコーナーで長時間うろうろするハメになった)。「うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー」は、時間とは何か、現実とは何かという形而上学的問いを内在した作品で、私がTVで観ていた「うる星やつら」とは、登場するキャラクターは同じでも、趣は全然別物であった。これは「クレヨンしんちゃん」のTV版と劇場版にもいえることだが、TV版に慣れ親しんだ子供たちが親に連れられて映画館でこれを観たときは、さぞかしびっくりしたであろうし、当惑したであろう。

5月29日(火) 晴れ

2007-05-30 03:07:13 | Weblog
  朝、大学の事務所から、麻疹による休講措置の解除し明日30日から授業等を再開するという連絡のメールが届く。巷の状況から休講措置の延長も十分ありえると思っていただけに、ちょっと拍子抜け。ただ、気になったのは、解除の理由に「事態が沈静化に向かっていますので」とあるだけで具体的なデータ(感染者数の増減)が示されていないこと。なんだか大本営発表みたいじゃないか。とにかく明日から日常に戻るわけだ。ちなみに娘は今日ようやく近所の内科医院で麻疹の予防接種(麻疹単体が品切れで、二種混合)を受けた。料金は一万円(ワォ!)。
  昼から大学へ。二文の社会・人間系専修委員会。いつものことながら出席者が少ない。1時間ほどで終了。志乃原に昼食をとりに行く。このところ五郎八がご家族の事情でずっと店を閉めているので、蕎麦を食べるにはちょっと足をのばさないとならないのだ。志乃原では野菜天せいろと決まっている。この店には新聞・雑誌の他に本が十数冊置かれていて、蕎麦を待ちながら山本健吉『現代俳句』をパラパラと読む。これは本当に名著である。初めて手にしたのは高校生の頃だったが、以来、折りにふれて読み返している。今日は、パット開いたところが篠田悌二郎の頁だった。平易で味わい深い句が並んでいる。

  春蝉や多摩の横山深からず

  鮎釣や野ばらは花の散りやすく

           
           天ぷらは椎茸、人参、茄子、薩摩芋、獅子唐

  中央図書館に寄ってみたが休館だった。学生は利用禁止でも教員は使えるものだとばかり思っていた。明日の授業の資料をコピーしようと思っていたのだが、あてが外れてしまった。研究室に戻り、雑用を片付ける。教員ロビーのメールボックスに本が二冊入っていた。英文学の水谷先生からだ。

  ソートン・ワイルダー『わが町』(ハヤカワ演劇文庫)
  ジェームズ・バーダマン『黒人差別とアメリカ公民権運動』(集英社新書)

  前者は鳴海四郎の訳で、水谷先生が訳注と解題を書いている。後者は英文学のバーダマン先生(お祖父様はミシシッピ州知事だった)が書かれた本だが、水谷先生が訳されている。
  「ハヤカワ演劇文庫」というものの存在を初めて知った。すでにアーサー・ミラー『セールスマンの死』、ニール・サイモン『おかしな二人』、エドワード・オールビー『動物園物語/ヴァージニア・ウルフなんてこわくない』、テネシー・ウィリアムズ『しらみとり夫人/財産没収ほか』が出ている。それだけでなく清水邦夫、坂手洋二、平田オリザら日本人の作品も入っている。「本を読んだら劇場へ、舞台を観たら本を手に」は帯に印刷された宣伝文句だが、名作シナリオの文庫本化とはずいぶんと思い切った企画である。注目していきたい。
  帰宅の途中、飯田橋ギンレイホールに寄って、オリヴィエ・マルシャン監督の『あるいは裏切りという名の犬』(2004年)を観る。パリ警視庁の2人の警部、レオ(ダニエル・オートゥイユ)とドニ(ジェラール・ドバルデュー)の確執を軸にしたサンペンス。主人公レオは「フランス版高倉健」である。しかし、あのラストは読めなかった。残り1分まで、まったく違うラストを予想し、覚悟もしていたのだが、これがフランス流か。なるほどね。

5月28日(月) 晴れ

2007-05-29 02:56:07 | Weblog
  昨日の真夏日から再び初夏の高原のような気候に戻る。授業の準備のための読書が一段落したところで昼食をとりがてら散歩に出る。「鈴文」のとんかつ定食。先週の月曜も来たから週に一度の頻度である。適度な頻度といえよう。あれこれ試した結果、「鈴文」のとんかつは醤油で食べるのが一番美味しいという結論に達した。今日は7切れで出て来たが、5切れを醤油、(全部を醤油では単調になるので)2切れを塩で食べた。ソースはキャベツにかけて食べた。うまい。至福のひとときといってもよい。「鈴文」から歩いて5分のところに住んでいることを幸せに感じる。有隣堂で以下の本を購入し、シャノアールで読む。

  吉田紀子『シナリオ・Dr.コトー診療所2006』(小学館)
  中原昌也『名もなき孤児たちの墓』(新潮社)
  『NHKスペシャル グーグル革命の衝撃』(NHK出版)

  倉本聰や山田太一といった大御所は別として、TVドラマがシナリオの形で出版されることはあまりない。どういうつもりでやっているのか理解に苦しむが、たぶん読者を小馬鹿にしているのだろう、「ノベライズ」というダラダラとして水っぽい代物に変形されて出版されることがほとんどである。だから今回『Dr.コトー診療所2006』がシナリオの形で出版されたことを喜びたい。そして未刊の(ですよね?)2003年版の『Dr.コトー診療所』のシナリオも遡って出版してほしい。
  『名もなき孤児たちの墓』は鬼才中原昌也の短篇小説集である。彼の小説の特徴は、そこで起きていることが現実なのか、幻視なのか、はたまた妄想なのか、判然としないことである。シュールレアリズムといってしまえば話は簡単だが、そういうラベルを貼ってきちんと収まってしまうようなものでもない。「彼女たちの事情など知ったことか」の中から例を引こうかと思ったが、読んで気分の悪くなる方がいるかもしれないのでやめておく。読むことの快楽と苦痛のせめぎ合いの中で私はこの作品を読み終えた。
  『グーグル革命の衝撃』はNHKスペシャルで放送した内容(放送されなかったことも含んでいる)を書籍化したもの。

  人々は自分が打ち込む「キーワード」という情報を検索会社に提供している。検索会社は、人々が今何に関心があるのか、何を求めているのかを地球規模で把握することができる。検索を通じて、ほしい情報を簡単に手に入れられるようになり、人々が自分の興味がある情報だけにしか関心を向けなくなるような世界が人類に何をもたらすのか、その行方はまだ誰にもわかっていない。(7頁)

  帰宅して本を読んでいると、妻が「松岡農相が自殺したって! いまテレビのニュースでやっている」と教えてくれた。驚いてyahooニュースの記事を読んでいたら、しばらくして「ZARDの坂井泉水さん転落死」という記事がアップされていることに気がついた。「えっ?」とあわててその記事をクリックしてみて、唖然とする。彼女の「死」に驚いたのはもちろんだが、それ以外のあれこれの事実にも驚いた。2人の死をめぐる記事やTVニュースを見ながら、死はもはや死んだ人のものではないのだなという思いを強くした。松岡農相の死についてTVカメラの前で語る政治家たちは、みんな今後の政局のことで頭がいっぱいみたいだった。坂井泉水さんは所属事務所の徹底したイメージ管理の中で芸能活動を続けてきた人だったが、そうしたイメージ管理は彼女の死という出来事に対しても少しも緩むことなく持続している。いま二人のいる世界がそうした喧騒や思惑とは無縁の場所でありますように。合掌。

5月27日(日) 晴れ

2007-05-28 02:19:55 | Weblog
  昼食(ドライカレー)を食べてから郵便局に古本の代金を振り込みに行く。ATM機からなら土日でも振り込みができることを知ったのはつい最近のことである。小さい頃から芸能界に身を置いてきた女優さんが電車の切符の買い方を知らないという話に笑ってはいられないかもしれない。それにしても今日は暑い。半袖シャツと綿パンで行く。
  Amazonで注文した「ハンガリー舞曲集(全21曲)」のCDが届く。ロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団の演奏で、指揮はヴァルター・ヴェラー。1982年の録音。さっそく聴いてみて、意外だったのは、私が「速い!」と感じたカラヤン指揮のベルリンフィルの演奏よりさらにテンポが速かったことだ。たとえば、第1番ト短調で比べると、カラヤンが2分52秒なのに対してヴェラーは2分43秒なのである。う~む、まさか全曲を1枚のLPに収めるためにテンポの速い演奏をした・・・なんてことはないよね。 
  夕方、散歩に出る。向かいの家のご主人が植木にホースで水を撒いている。挨拶をすると、「こうして水を撒いていると猫が寄って来るんです」と言うので、見ると、道の脇に出来た水の流れに「なつ」がじゃれついている。「かわいいですね」と私が言うと、ご主人は「ええ」とニッコリした。ご近所に「なつ」を贔屓にしている方はけっこう多いようである。くまざわ書店でレナード・ショッパ『「最後の社会主義国」日本の苦悩』(毎日新聞社)を購入。新星堂でドヴォルザーク「スラヴ舞曲集(全16曲)」のCDを見つけて購入。演奏はバイエルン放送交響楽団、指揮はラファエル・クーベリック。「ハンガリー舞曲集」の全曲版を入手した以上、「スラヴ舞曲集」の全曲版もないとバランスが悪い。廉価版(千円)だから躊躇することなく購入できる。

           
               駅前広場(西口)から見上げた空

  深夜、自動販売機にアクエリアスを買いに出る。昼間あんなに暑かったのが嘘のように、風がひんやりしている。天気予報によると、沖縄から札幌に飛行機で移動するような気温差なのだそうだ。油断して風邪を引かないようにしなくては。