今日で5月が終わる。5月は長い。複数の授業それぞれがそれなりに軌道に乗るのにエネルギーを使うからである。一応、どの授業も周回軌道に乗ったようであるが、これからはマンネリズムに注意していかなくてならない。
午後、来週の授業の準備を一つ済ませてから、東京都写真美術館で開催中の森山大道展を観に行く。今年で70歳になる森山の初めての回顧展である。1965年の『カメラ毎日』に載った「ヨコスカ」から、2005年の写真集『ブエノスアイレス』まで、206点の作品を時系列で展示した、見応えのある展覧会である。既存の写真の常識をくつがえし、且つ、一旦確立した自分のスタイルに長く留まらないという、画家でいえばピカソのような、常に「写真とは何か」を問い続けるその批判的精神の軌跡を辿ることができる。いつものように、一回目はすべての作品を、二回目はとくに印象的だった作品を鑑賞したが、70年代初期の「何かへの旅」と題された北海道を舞台にした作品群にとりわけ心ひかれた。心ひかれた理由は「物語性」(文学的あるいは演歌的世界)ということにあると思うが、それは容易にセンチメンタリズムへと傾斜しやすいもので、森山は自身のそうした気質を承知していて、それを乗り越えたいともがいていたから、70年代後半のスランプ(彼の言葉を使えば「写真との肉離れ」)は陥るべくして陥ったものといえよう。80年代初頭の「光と影」と題された作品群は、スランプからの脱出を告げるもので、庭先に咲く花やころがっている空き瓶を穏やかな光の中で撮ったものであるが、それは「物語性」を排除して、つまり前後の時間から切断された(現前の)その一枚の写真だけで自立する作品をめざしたものであった。それはまるで小さな子供がカメラを与えられて、自分の周囲のあれこれのものにレンズを向けて、無心にシャッターを切ったような作品である。あるいは長らく病床に伏せていた人が、しばらくぶりに縁側に出て、カメラを手にしたときのような、病み上がりの写真である。彼は苦しんだのだのだな、ようやく穏やかに呼吸ができるようになったのだな、と観る者を安堵させる作品である。展覧会は6月29日までやっているので、また来ようと思う。
夜、ビデオに録っておいた山田太一のスペシャルドラマ「本当と嘘とテキーラ」を観る。最近は、彼の作品は2時間(+α)のスペシャルドラマでしか観られなくなった。2時間というのは映画と同じだから、たっぷりあると思いがちだが、しかし、連続ドラマと違って、起承転結のサイクルが一回しかない。だからすっきりしているが、すっきりしすぎている嫌いがある。一難去ってまた一難というか、寄せては返す漣のというか、昼ドラ的なねちねちしたところがない。登場人物はみなものわかりが早い。言葉で(台詞で)わかりあってしまう。だからどうしてもストーリーがきれいごとに見えてしまう。連ドラのときも山田太一の作品にはそういうところが多分にあって、それが魅力でもあるのだが(私も山崎努のように喋れたら気持ちがいいだろうな)、それでも十数回の話となれば、うだうだしたところもないと話を維持できない。それがリアリティを補填してくれていた。スペシャルドラマはそのうだうだが乏しい。うだうだ自体は嫌いだが、うだうだがないと「あれっ?」と思う。『ふぞろいの林檎たち』の続きが観たいと思う。
午後、来週の授業の準備を一つ済ませてから、東京都写真美術館で開催中の森山大道展を観に行く。今年で70歳になる森山の初めての回顧展である。1965年の『カメラ毎日』に載った「ヨコスカ」から、2005年の写真集『ブエノスアイレス』まで、206点の作品を時系列で展示した、見応えのある展覧会である。既存の写真の常識をくつがえし、且つ、一旦確立した自分のスタイルに長く留まらないという、画家でいえばピカソのような、常に「写真とは何か」を問い続けるその批判的精神の軌跡を辿ることができる。いつものように、一回目はすべての作品を、二回目はとくに印象的だった作品を鑑賞したが、70年代初期の「何かへの旅」と題された北海道を舞台にした作品群にとりわけ心ひかれた。心ひかれた理由は「物語性」(文学的あるいは演歌的世界)ということにあると思うが、それは容易にセンチメンタリズムへと傾斜しやすいもので、森山は自身のそうした気質を承知していて、それを乗り越えたいともがいていたから、70年代後半のスランプ(彼の言葉を使えば「写真との肉離れ」)は陥るべくして陥ったものといえよう。80年代初頭の「光と影」と題された作品群は、スランプからの脱出を告げるもので、庭先に咲く花やころがっている空き瓶を穏やかな光の中で撮ったものであるが、それは「物語性」を排除して、つまり前後の時間から切断された(現前の)その一枚の写真だけで自立する作品をめざしたものであった。それはまるで小さな子供がカメラを与えられて、自分の周囲のあれこれのものにレンズを向けて、無心にシャッターを切ったような作品である。あるいは長らく病床に伏せていた人が、しばらくぶりに縁側に出て、カメラを手にしたときのような、病み上がりの写真である。彼は苦しんだのだのだな、ようやく穏やかに呼吸ができるようになったのだな、と観る者を安堵させる作品である。展覧会は6月29日までやっているので、また来ようと思う。
夜、ビデオに録っておいた山田太一のスペシャルドラマ「本当と嘘とテキーラ」を観る。最近は、彼の作品は2時間(+α)のスペシャルドラマでしか観られなくなった。2時間というのは映画と同じだから、たっぷりあると思いがちだが、しかし、連続ドラマと違って、起承転結のサイクルが一回しかない。だからすっきりしているが、すっきりしすぎている嫌いがある。一難去ってまた一難というか、寄せては返す漣のというか、昼ドラ的なねちねちしたところがない。登場人物はみなものわかりが早い。言葉で(台詞で)わかりあってしまう。だからどうしてもストーリーがきれいごとに見えてしまう。連ドラのときも山田太一の作品にはそういうところが多分にあって、それが魅力でもあるのだが(私も山崎努のように喋れたら気持ちがいいだろうな)、それでも十数回の話となれば、うだうだしたところもないと話を維持できない。それがリアリティを補填してくれていた。スペシャルドラマはそのうだうだが乏しい。うだうだ自体は嫌いだが、うだうだがないと「あれっ?」と思う。『ふぞろいの林檎たち』の続きが観たいと思う。