10.15(水)
帰りがけに英文専修の宮城先生と一緒になる。「夕飯でも食べて行きましょう」ということで「五郎八」に行く。宮城先生は二文教務時代の「戦友」である。ご専門は西洋古典学で、その博識には私も一目、いや、五目くらい置いている。教授会のときは、いつも私の隣で『キケロ選集』の原稿の校正をやっているか、居眠りをしているかのどちらかだったが、憎めない人であった。お住まいは埼玉県の北本というところで、大学には毎日始発に乗って(そうすると座れるから)来られるそうで、途中、池袋駅の構内の立ち食い蕎麦屋で朝食をすませ、大学に到着するのは7時頃で、午前中にその日の授業の準備をされるのだそうだ。ちなみに夜は11時頃には休まれるとのこと。ふ~む、私にはとてもマネできない。
10.16(木)
「社会・人間系基礎演習4」の後期のグループ研究の課題は「秩序はいかに維持されるのか」。今日は、30分間という時間を決めて、個々人に教室の外に出てもらって、文カフェ、図書館、スロープ、生協文学部店、トイレ、・・・・任意の場面を選んで、(1)そこで展開されている人々の相互作用をじっくり観察する。(2)そこに違和感を覚える人物(行為)はいなかったか。その人物(行為)に対して周囲の人々はどのように反応していたかを観察する。(3)自分自身でちょっとした逸脱行為を演じてみて、それに周囲の人々がどう反応するかを観察する。以上の3つの課題に取り組んでもらい、教室に戻ってから、それを簡単なレポートにまとめて提出してもらった。このレポートは次回の授業の教材になるのだが、(3)の実験的逸脱行為は各自苦心、苦労したろうと思う。いかにささやかなものであれ、意識的に逸脱行為を行うとき、人は周囲のまなざし(それは必ずしも直視という形をとるとは限らない)を痛烈に感じる。われわれは真空の中に生きているのではなくて、一定の気圧をもった空気の中で生きている。じっとしていれば感じない空気の存在も、歩き、そして走れば、その速度に応じた空気の壁にわれわれはぶつかるのだ。実際、たとえばTK君は生協文学部店の中でランニングをした。最初、店員の方は「無視」を決め込んでいたが、しだいにTK君に遠慮のない視線を向けるようになり、10周目あたりで何ごとか相談を始めた。ここに至ってついにTK君はいたたまれなくなり退散したのであった。こうして文学部生協店内に生じた「秩序のほころび」はその当事者の主体的な選択によって修復されたのである。「秩序はいかに維持されるのか」・・・・これ、社会学の核心的テーマである。
10.17(金)
(財)生命保険文化センター主催の「第41回中学生作文コンクール」の最終審査会に出席。1万4千を超える応募作品の中から残った35編を対象に文部科学大臣奨励賞他の8編を6人の審査員の合議で決める。最高賞である文部科学大臣奨励賞は満場一致ですんなり決まる。それほど見事な作品であった(プレス発表前にここに書くわけにはいかないのが残念)。一方、8篇にどれを残すかでは少々議論があった。当然のことながら、各委員とも自分が高く評価した作品には残ってもらいたい。結局、最後は多数決で決めることになった。幸い私の推した作品は残ったので、11月14日の授賞式(如水会館)では気持ちよく講評を述べることができそうだ。
10.18(土)
一昨日、母が持病の糖尿病の悪化で入院した。今日、息子を連れて見舞いに行く。新しい病棟で、部屋は4人部屋。部屋の入口の付近に専用のトイレと洗面所があって、室内もきれいだ。しかし、いくらきれいといっても、病室は病室であり、病室特有の沈んだ空気は拭いようがない。入口の名札を見ると、心療内科の患者さんもいるようだったので、病室には立ち入らず、ディールームで面会した。母の入院は今回が5回目か6回目で、われわれも母自身もなれっこになっている。今回はインシュリン注射による治療が中心で、順調に行けば一月ほどで退院できる見込みだ。
10.19(日)
散歩日和。呑川に沿って歩き、JRの線路の下をくぐって蒲田駅の東口方面に出る。この辺りは映画『砂の器』で刑事役の丹波哲郎と森田健作が汗を拭き拭き歩いた場所だ。居酒屋とラブホテルが多い。まだ陽は高く、おまけに日曜日ということもあって、どの居酒屋も閉まっているが、ラブホテルの方は年中無休の24時間営業のようで、私の横をカップルがホテルの中に足早に消えていく。私の通っていた中学校は蒲田駅の近くにあり、道路の向かいが和風の連れ込み旅館であった(いまではありえないロケーション)。もっとも当時はそのような認識はなく、校舎の窓から旅館を見下ろしながら、どうして風光明媚でもないこんな場所に旅館があるのか不思議でならなかった。・・・・なんてことを思い出していたら、「復活書房」に到着。石田衣良『4TEEN』(新潮社)、義家弘介『ヤンキー母校に生きる』(文藝春秋)、ケニー・ケンプ『父の道具箱』(角川書店)の3冊を購入。夜、「講義記録」の最新版をアップロードしてから、「清水幾太郎の『内灘』」を少し書く。あいかわらず遅筆である。
10.20(月)
母から電話で何か本をもってきてほしいとリクエストがあって、「たとえば小林旭が書いた本とか・・・・」と言うので(私の書斎で見かけたらしい)、小林旭、乙羽信子、杉村春子、沢村貞子のそれぞれ自伝を紙袋に入れてもっていく。もっていく前に乙羽信子『どろんこ半生記』の最初のところを読んだら、これが実に面白い。もっていかずに自分で読もうかと思ってしまったほどだ(しかし、それでは原稿の執筆が滞ってしまうので、もっていきましたけどね)。病院から帰って、あらためて散歩に出る。「書林大黒」と「南天堂書店」で以下の本と雑誌を購入。
(1)北川悦吏子『ロングバケーション』(角川書店、1996年)*100円
ご存知(ですよね?)TVドラマ「ロンバケ」のノベライズ本。そういえば、山口智子が久々にドラマ復帰するんだってね。
(2)義家弘介『不良少年の夢』(光文社、2003年)*500円
先日、TVドラマ『ヤンキー母校へ帰る』を見て、なかなかいいじゃないかと思ったので。本書は原作者の自伝。竹野内豊は「ロンバケ」でドラマデビューして、『ビーチボーイズ』や映画『冷静と情熱の間』などで理性的な青年を演じてきたが、今回の『ヤンキー母校へ帰る』で新境地を開拓した。元ヤンキーの熱血先生役が見事に板に付いている。【後記:卒業生のI君から竹野内豊のTVドラマデビュー作は「ロンバケ」より2年前の1994年の東芝日曜劇場『ボクの就職』であるとのメールを頂戴した。ちなみにI君は、現在、高田記念図書館で働いている。】
(3)高島敏男『本が好き、悪口言うのはもっと好き』(大和書房、1995年)*1000円
中国文学者、高島俊男の文壇デビュー作。その後、『週刊文春』での彼の活躍は周知の通り。私は週刊誌を買って読むということはしないが、どこかの待合室に『週刊文春』が置いてあると、真っ先に彼の連載コラム「お言葉ですが・・・・」を読む。
(4)石川達三『人物点描』(新潮社、1972年)*500円
国木田独歩に「忘れえぬ人々」という名作があるが、これは石川達三の「忘れえぬ人々」だ。
(5)岡田斗司夫『恋愛自由市場主義宣言!』(ぶんか社、2003年)
「一番好きな人と結婚して、いつまでも幸せに暮らしました。」というかつての「当たり前」(と岡田は考える)、「オンリーユー・フォーエバー幻想」からの決別を宣言する本。副題に「確実に『ラブ』と『セックス』を手に入れる鉄則」とある。対談が中心なのだが、経済学者の森永卓郎との対談「モテない男の確率型恋愛手段とは何か」が一番参考に(?)なった。
(6)別冊・本とコンピューター4『人はなぜ本を読まなくなったのか?』(トランスアート、2000年)*500円
嘘かと思うかもしれないけれど、文学部の学生の中にも本を読まない人がいる。「最近、何か面白い本、読みました?」なんてうっかり尋ねると、気まずい沈黙がその場を支配することになりかねない。桑原、桑原。
(7)『東京カレンダー』2002年7月号*200円
特集「洋食ノスタルジー」に惹かれて。街の洋食屋さんていいよね。
10.21(火)
終日、原稿書き。いくつかいいアイデアが浮かび、先の見通しはよくなったが、年表の作成に時間がかかり、分量的にははかどらなかった。全体で400字詰め原稿用紙に換算して60枚の原稿の予定だが、まだ4分の1ないし5分の1程度のところにいる。〆切まであと10日なり。
10.22(水)
「社会学研究10」は今日で4回目だが、エンディングのとき(出席カードを配るとき)、あらかじめ自宅でMDに落としてきて歌を流すことが多い。初回はしなかったが、2回目は梓みちよの「こんにちは赤ちゃん」、3回目はブルーハーツの「TOO MUCH PAIN」、4回目(今回)は平井堅の「LIFE is …~another story~」である。36号館382教室は大教室なので、出席カードが行き渡るのに時間がかかる。また、出席カードの裏に質問や感想を書いてくれる学生が多いので、出席カードの回収にも時間がかかる。この出席カードの配布と回収の時間(10分はかかる)を漠然と過ごす手はないだろうと。BGMを流したらどうか、それもその日の講義内容とリンクした曲であれば相乗効果が生まれるだろうと考えたのである。今日の出席カードの裏に「先生は本当に歌がお好きなんですね。今度みんなと一緒にカラオケに行きましょう」というコメントを書いた人がいた。確かに歌は好きだ。歌のない人生など考えられない。しかし、私は歌を聴くのが好きなのであって、歌を歌うのが好きなわけではない。自転車を漕ぎながら歌を口ずさむことはあるが、カラオケで歌ったことは一度もない。せっかくのお誘いですが、辞退させていただきます。
10.23(木)
今日は大学は体育祭で授業は休みなのだが、社会人対象の公開講座は通常どおりあるので大学に出る。公開講座をすませ、いつものように早稲田軒で遅い昼食(五目炒飯)をとり、3時に研究室で卒業生のT君と会う。T君は私が卒論指導をした学生だが、卒業後、2年間オックスフォードの大学院で人類学の勉強をして修士号を取得し、先月、帰国したばかりだ。現在は、NPOの活動(ならびに参与観察研究)をしながら、収入を得るためのパートタイムの仕事を探しているところだという。彼がまだイギリスにいる頃、メールでやとりとをしていて、彼が帰国しても博士課程を受験するつもりはなく、一度、働いてみたいという考えをもっていることを知って、意外な思いがしたものだが、今日、NPOの活動に参加しながらその活動を内部から研究したいという考えを聞いて、ずっと方法論の勉強をしてきた彼にはフィールドワークへの渇望があるのだとわかった。お土産に紅茶とクッキーをもってきてくれた。学部時代からのクールさとクレバーさはあいかわらずだが、2年間のイギリス生活で、社交術も身につけたようである。
それから、今日はもう一人、卒業生が研究室を訪ねてきた。5年前に文芸専修を卒業して、いまは日本テレビの記者をしているSさんだ。お昼ごろ、今日伺ってもいいですかというメールが届いた。とにかく忙しい職場のようで、前々から約束していてもドタキャンになることが多いので、思い立ったが吉日ということで連絡をしてきたようだ。8時半には社を出られます、と書いてあった。木曜日は私が7限の授業をあることを覚えていて、授業が終わるころに顔を出しますということだ。今日は体育祭で授業はないことを彼女は知らないのである。しかし、せっかくなので、清水幾太郎『女性のための人生論』(河出新書、1956年)を読みながら待つことにした。予告どおり9時過ぎにSさんはやってきた。それから早稲田駅側の焼肉屋「紅閣」で、東西線の大手町方面行きの終電の時刻(0:10)まであれこれおしゃべりをした。実は、時計を見ていなかったので、彼女に言われるまで終電の時刻が迫っていることに気づかなかったのである。ふぅ、危なかった。二文の学生担当教務主任をしていた頃は、しばしば終電で帰ったものだが、それ以来である。よくそんなに話すことがあったものだと思うが、一種の人生相談のようなものであった。食事代は、先日、報奨金が出たからとのことで、彼女が支払ってくれた。卒業生におごってもらうのは初めての経験で、感慨深いものがあった。ご馳走さまでした。
10.24(金)
昼休みの時間から始まる卒論ゼミの前に昼食をとることができず、そのまま3限、4限と授業が続き、ようやく4限終了後、ミルクホールで買った焼きそばパンとアンパンを研究室で食べる(ただし、卒論の個別指導をしながら)。正岡先生が訳されたグレン・H・エルダーとジャネット・Z・ジールの『ライフコース研究の方法』(明石書店、2003年)を先生から頂戴する。500頁を越す大部の本。正岡先生は研究室にいらっしゃるときはドアを半開きにしていることが多い。廊下から、チラリと見える先生は、いつもパソコンの前に座って文献の翻訳をされている。
10.25(土)
午前、博士論文研究会。午後、全国調査「戦後日本の家族の歩み」(NFRJ-S01)研究会。夕方、「あゆみBOOKS」で、『向田邦子 暮らしの楽しみ』(新潮社、2003年)と渡辺満里奈『甘露なごほうび』(マガジンハウス、2003年)を買って帰る。電車の中で後者を読む。向田邦子がただものではなかったことは(ある年齢以上の方は)誰でも知っているが、渡辺満里奈もただものではないことに気づいている人はそれほど多くないであろう。元おニャン子クラブの一員(No.36)であるからといって、あなどってはいけない。
10.26(日)
昼食(中村屋の肉まん、あんまん)の後、母親の見舞いに出かけた以外は、終日、自宅で原稿書き。
10.27(月)
今日も終日、自宅で原稿書き。机上や椅子の周りの床上に資料の山が石柱のように何本も出来ている。ああ、図書館の閲覧室にあるような広い机が欲しい。書斎には2つの机があるが(仕事の種類によって使い分けている)、両方とも幅120センチ、奥行き70センチで、おまけに机上にはパソコン、プリンター、書類立て、レターケース、照明器具などが置かれているため、資料を広げるスペースが限られている。勢い、原稿を書くために必要な資料は縦に積まれていくことになり、下の方の資料が必要になる度に、ダルマ崩しのように横から引っ張り出すという作業を頻繁に繰返すことになる。非能率的であること甚だしい。しかし、この雑然とした環境の中で、秩序ある言葉を紡ぎ出すという作業に没頭していると、なんだか坂口安吾(ほら、安吾というと、紙くずに埋もれて原稿を書いている、例の有名な写真があるじゃないですか)にでもなったような気分がして、それはそれで悪くはないのである。
10.28(火)
書斎の窓から雨をながめながら、今日も終日原稿書き。原稿を書くことを生活の中心に据えて一日を送っていると、身の回りで起こる小さなあれこれが原稿を書くことの妨げとして感じられるようになる。これはよくないことである。原稿を書くなんてホントはそれほど大したことではないのだ。ところが、それを大したことであるかのように勘違いして、執筆を中断させるあれこれのことに「チッ」と舌打ちをしたりしている。芸術家のように振る舞ってはならない、と自分に言い聞かせる。
10.29(水)
社会学専修を卒業して4年目、いまは本部キャンパスにある高田記念図書館でアルバイトをしているI君と、高田牧舎で昼飯を食べる(私はロースカツサンドに珈琲、I君はオムレツに珈琲)。彼が高田記念図書館で働いていることは彼からのメールで知っていたが、私は高田記念図書館へはめったに行かず、彼も午後1時から10時までの勤務なので文学部キャンパスに顔を出すチャンスがなく、こうして会うのは彼の卒業以来である。I君曰く、「何か特別の理由がないと研究室へは顔を出しずらくて・・・・今日に至りました」。まぁ、その気持ちはわからなくはないが、でも、研究室にやってくる卒業生がみんな「特別の理由」を抱えてやってくるのだとしたら、それは私にとってはちょっとしんどいでしょうね。イニシャルを出すのは控えますが、以前、ある卒業生(女性)がやってきて、結婚を前提につきあってもいい男性が2人いて、どちらにすべきか迷っているので、先生(私)にその2人の男性と会ってもらって、先生が選んでくれた方の男性と付き合うことにします、と言われたことがある。す、すごいでしょ。たとえ自分の娘からそんな依頼を受けても、「よし、まかせとけ」とはなかなか言えませんよね。で、そのときは、会ってもいいけど、君がトイレに行って席を外している間に、あの子とはやめといた方がいいと彼らにアドバイスをするかもしれないけど、それでもいいか、と答えておきましたけどね。・・・・というわけだから、今日のように、とくに相談ごともなく、あれこれ同期の卒業生たちのことを話題にしながら、昼飯を食べるというのも悪くないのである。
10.30(木)
今日の昼食も卒業生と一緒だった。今春、社会学専修を卒業し、横浜国立大学の大学院(国際社会科学研究科)に進学した0さんだ。単位互換制度を利用して、早稲田大学の法学研究科の授業もとっていて、週に一度、母校に顔を出しているのである。「五郎八」で蕎麦を食べながら話を聞いたので、記憶違いがあるかもしれないが、専攻は国際経済法で、EUとくにオランダに関心があり、前期課程を終えたらオランダ留学を考えているとのこと。学部のときにやっていた勉強とはとくにつながりはないようだ。一念発起したに違いない。将来は外資系の企業でバリバリ働くつもりなのだろう。元気な卒業生は女性に多い気がする。Oさんも、持病の肩凝りに負けずに頑張ってほしい。3時から研究会があるので大学に戻ると、研究会は来週であることがわかる。昨日の夜と今日の午前中、書きかけの原稿を脇に押しやって研究会で読む予定の英語の文献を読んでいたのに、とんだ勘違いだった。夕方から、研究室で二文の基礎演習のグループ研究の相談を2件こなし、文カフェで北海カレーをかっこんでから、7限の授業に臨む。先週の授業中にやったフィールドワークのレポートを教材にして逸脱行動について講義する。途中で一度も時計を見なかったが、話に一応の結末がついて、腕時計を見ると、終了時刻の7分前。うん、90分という時間が体に染み込んでいる。
帰宅の途中、「あゆみブックス」でウィットゲンシュタイン『論理哲学論考』(岩波文庫)を購入し、電車の中で読む。ずっと前から岩波文庫に入っているものと思っていたが、実はこの8月の新刊である。「訳注」がとても親切。たとえば「1.1.3 論理空間の中にある諸事実、それが世界である。」という命題には次のような訳注がついている。「一般に、ウィットゲンシュタインは可能性の総体を『空間』と呼ぶ。物体がとりうる可能な位置の総体が三次元のいわゆる『空間』であうように、あることがらが現実に起こりうるかどうか、その論理的な可能性の総体が『論理空間』である。(後略)」。また、「2 成立していることがら、すなわち事実とは、諸事態の成立である。」という命題には次のような訳注がついている。「『事実』と『事態』を区別するポイントは二つある。ひとつは、事実が現実に起こっていることがらであるのに対して、事態は起こりうることがらであり、必ずしも現実に起こっているものに限らない、という点である。大づかみには、この点(事態―可能性、事実―現実性)を押さえておけば『論理哲学論考』を読むに支障はない。しかしウィットゲンシュタインが考慮していると思われる区別のポイントがもうひとつある。事態は(中略)諸対象の結合であるが、事実は成立している事態を複数集めたものでもよいという点である(事態―要素性、事実―複合性)。この二つのポイントを厳密にあてはめると、たとえば『樋口一葉と石川啄木はつれだって世界一周をした』などは現実のことではなく、論理的可能性にとどまるため、事実ではないが、二人の世界一周というのはさまざまな事態からなるだろうという意味では、事態でもないことになる。(後略)」。このわかりやすさは感動的である。ウィットゲンシュタインは本書の「序」でこう述べている。「本書が全体としてもつ意義は、おおむね次のように要約されよう。おそよ語られうることは明晰に語られうる。そして、論じえないことについては、ひとは沈黙せねばない。かくして、本書は思考に対して限界を引く。いや、むしろ、思考に対してではなく、思考されたことの表現に対してと言うべきだろう。というのも、思考に限界を引くにはわれわれはその限界の両側を思考できねばならない(それゆえ思考不可能なことを思考できるのでなければならないからである)。したがって限界は言語においてのみ引かれうる。そして限界の向こう側は、ただナンセンスなのである。」野矢茂樹の手になる「訳注」と「訳注補遺」と「訳者解説」(合計で60頁ある)のおかげで、『論理哲学論考』の明晰さは、可能性としての明晰さから現実性を帯びた明晰さになったというべきだろう。野矢という名ガイドに案内されて、われわれはウィットゲンシュタインが引いた思考の表現の限界ラインを散策するのである。
10.31(金)
昼休みと3限の時間を使っての卒論ゼミ(1回に3人報告)。今日の3人は音楽関係のテーマ。Sさんは戦中から現在までの「励まし歌」の変遷を、R君は階級社会と音楽(とくにロックミュージック)の関係を、K君はモーニング娘。という現象を、テーマにしている。若者の読書離れが言われて久しいが、音楽を聴くことは、ジャンルやメディアの変遷はあっても、若者的ライフスタイルを特徴付ける一要素として戦後一貫している。かつて読書が担っていた機能の一部を音楽が肩代わりしているという見方もできるだろう(たとえば、電車の中で、文庫本を読むことと、ウォークマンで音楽を聴くことは、多数の見知らぬ他者の間に身を置きながら自己の周囲に「結界」を張るという点では機能的に等価な行為である)。音楽社会学(マックス・ウェーバーの用語とは意味が違うが)は、現代社会論のためのアプローチとして有力であると思う。4限の大学院のゼミは夏休み明けに提出してもらったレポートを順次報告してもらっている。今回の報告者はYさんとAさんの2人。Yさんの報告は、関東大震災後に突如出現したモダン・ガール(モガ)をめぐる当時の雑誌の言説分析。Aさんの報告は、中絶をテーマにしたインターネットサイト「悲しいこと」のBBSの書き込みの分析。両方とも興味深い報告で、1時間近く授業を延長して行った(もっとも時間にルーズな人が多くていつも20分ほど遅れて始まるのだけれど・・・・)。5時から二文の基礎演習のグループ発表の相談を一件。大戸屋という定食チェーン店である奇抜な振る舞い(発表前なので書くことができません)をした実験についての結果を聞く。その振る舞いをした学生のそのときの緊張は相当のものだったようで、にもかかわらず、周囲の反応は大したことはなく、逸脱行動というものがいかに主体の自己抑制によって抑圧されているかがよくわかる。